第8節 ― ヨアヒムの娘
オルガ=ベルナーは、蒸気管の下から半身を出したまま、ミラベルたちを見た。
工業区の配管整備場。
頭上には太さの異なる蒸気管が幾重にも渡され、継ぎ目から白い息が漏れている。床を走る排水溝には、煤と油を浮かべた黒い水が流れていた。
オルガは片手に大型の管締め具を持ち、厚い革手袋を歯で引き抜いた。
三十四歳。
ドワーフらしい低い重心と頑丈な肩。赤褐色の髪は後頭部で短く束ねられ、額と頬には油汚れが筋になって残っている。
その目が、ミラベル、エレノア、最後に二人の後ろへ立つ黒い犬を順に見た。
「ブラム」
名前を呼ばれた犬の耳が動く。
だが、駆け寄りはしない。
オルガも手を広げなかった。
数歩の距離を残し、互いの姿を確かめている。
「まだ待ってるのか」
ブラムは答えない。
「本当に、馬鹿な犬だね」
吐き捨てるような口調だった。
だが、管締め具を作業台へ置く手は、音を立てないよう静かだった。
ミラベルは帽子を取り、頭を下げた。
「お仕事中に申し訳ありません。ミラベル=ワトリアです」
「新聞記者」
「現在は、事件記録と調査相談も受けています」
「クラウス探偵の代わり?」
「いいえ」
ミラベルは迷わず答えた。
「代わりではありません」
オルガの視線がわずかに変わる。
次にエレノアを見た。
「そっちは、クラウス家の娘か」
「エレノア=クラウスです」
「噂どおり、似てない兄妹だね」
「どちらの兄と比べているかによります」
「どっちともだよ」
エレノアが何か言い返すより先に、オルガは作業場の奥を顎で示した。
「休憩室なら話せる。ここで紙を広げたら、蒸気で全部ふやけるよ」
休憩室は、資材倉庫の上に設けられた狭い中二階にあった。
鉄の階段。
油で黒ずんだ木扉。
中には小さな石炭炉と、傷だらけの長机。壁には配管図が掛かり、棚には弁や継ぎ具の見本が並んでいる。
オルガは炉へ石炭を一つ放り込み、湯沸かし器の弁を開いた。
「犬は入れていいんですか?」
エレノアが尋ねる。
「配管を噛まない犬ならね」
ブラムは扉の内側へ入り、部屋の出入口が見える壁際へ伏せた。
オルガのそばでも、ミラベルたちのそばでもない。
「父に仕込まれた座り方だよ」
オルガはカップを三つ出した。
「地下で休ませるときは、必ず通路を見張らせる。あの人は、犬にも仕事をさせないと気が済まなかった」
「ヨアヒムさんは、ブラムを自分で訓練したそうですね」
「犬だけじゃない。若い保守員も、信号員も、家族まで、自分のやり方に従わせようとした」
湯沸かし器が鳴る。
オルガは濃い茶を注ぎ、自分のカップだけを取って二人の向かいへ座った。
「父が西部へ移ったという話なら、鉄道局から聞いた。転居通知も受け取った。退職金も支給済み。宿舎も引き払った。あんたたちも確認したんだろう?」
「はい」
ミラベルは手帳を開く。
「退職、転居、退職金の支給、宿舎の退去。すべて正式に成立しています」
「なら、私に何を聞きたい」
「書類に記録されていないヨアヒムさんについてです」
オルガのカップが口元で止まった。
「生活上の癖。嫌っていたもの。大切にしていたもの。何かを決めるとき、どんな行動を取る人だったのか」
「別れた娘に聞くことかい」
「長く一緒に暮らした人にしか分からないことがあります」
「長く暮らしたのは昔だよ」
「昔のことでも構いません」
オルガは茶を一口飲んだ。
炉の中で石炭が小さく弾ける。
「頑固」
それが最初の答えだった。
「時間にうるさい。約束した時刻より三十分早く着く。服は自分で繕えないくせに、工具の油汚れは毎晩落とす。肉を焼けば焦がす。煮込めば鍋を空にする。なのに犬の餌だけは、きっちり同じ重さへ量る」
壁際のブラムが、名前を呼ばれたように目を開けた。
「人間の誕生日は忘れる。機関車の整備日は忘れない。家族が熱を出しても勤務交替を頼まないくせに、坑道犬が脚を傷めたら夜通し隣に座っている」
言葉が続くにつれ、オルガの声から怒りが薄れ、代わりに長く使われなかった記憶の硬さが現れた。
「父が、自分の人生より鉄道と犬を優先したと思っていた」
「思っていた?」
エレノアが尋ねる。
オルガは彼女を見る。
「いまも思ってるよ」
「では、どうして過去形に?」
オルガは答えなかった。
ブラムが壁際から身体を起こし、オルガの作業靴へ近づいた。油と蒸気の染み込んだ革を、一度だけ嗅ぐ。
「似た匂いがするかい」
オルガは犬を見下ろした。
「同じ仕事を選んだんだ。父が嫌で家を出たくせにね」
「ヨアヒムさんと同じ鉄道局に?」
「局員じゃない。外部の配管工房だよ。鉄道、工場、地下蒸気管。壊れたところへ呼ばれる」
「お父様は、オルガさんが配管技師になったことを?」
「知ってた」
「反対しました?」
「逆だよ。工具を一本送ってきた」
オルガは休憩室の隅へ立ててある、細身の管締め具を見る。
長く使い込まれ、握りの部分へ新しい革が巻き直されていた。
「手紙は?」
「工具だけ」
エレノアが眉を寄せる。
「それでは、どういう意味か分からないでしょう」
「分かるよ。あの人は、必要な工具を間違えない」
「言葉は?」
「間違える」
オルガは短く笑った。
「だから、まともに話せなくなった」
ミラベルは急いで次の問いを置かなかった。
石炭炉の上で、湯沸かし器から細い蒸気が立つ。
オルガはブラムの頭へ手を伸ばしかけたが、途中で拳を作り、机の上へ戻した。
「西部港湾都市へ移るという話を、おかしいとは思いませんでしたか?」
「思わなかった」
「ヨアヒムさんは以前から、西部へ行きたがっていた?」
「まさか」
オルガは即座に否定した。
「父は海が嫌いだった」
ミラベルのペン先が止まる。
「船に乗れば、岸を離れる前に青くなる。港へ近づく鉄道も嫌がった。潮の匂いを嗅いだだけで酔うと言ってたよ」
「西部港湾都市へ向かう路線にも?」
「仕事で二度乗った。二度とも途中駅で降りて、帰りは遠回りした」
エレノアが身を乗り出す。
「それなのに、転居先が西部港湾都市?」
「退職したあと、別の土地へ行きたくなることもあるだろう」
「海が嫌いなのに?」
「私だって、おかしいと思わなかったわけじゃない」
オルガの声が低くなった。
「でも父は、昔から自分で決めたことを説明しない人だった。私に相談する関係でもなかった。転居通知には本人の署名があった。銀行も鉄道局も宿舎管理課も、全部正しいと言っている」
「だから信じた」
「信じたんじゃない」
オルガはミラベルを見た。
「信じることにしたんだよ」
ミラベルは、その言葉をそのまま記録した。
信じたのではなく。
信じることにした。
疑えば、父を探さなければならない。
長く疎遠だったことも、それでも最後まで何も告げられなかったことも、もう一度自分の問題になる。
「鉄道局から手紙が届いたと聞きました」
ミラベルは静かに続けた。
「見せていただけますか?」
オルガは目を細める。
「父の手紙を?」
「転居がヨアヒムさんの意思だったことを示す記録として、確認させてください」
「署名が本物か調べたい?」
「それもあります」
「無駄だよ」
オルガは立ち上がり、壁際の金属箱を棚から下ろした。
中には契約書、工房の資格証明、古い写真、数通の封書が収められている。
その一番上から、鉄道局の印章が押された封筒を取り出した。
「これは父の字だ」
机へ置かれた便箋は一枚。
鉄道局の事務紙より厚く、四つ折りにされている。
上部には太く角張った文字で、
オルガへ。
その下に、短い本文があった。
> 長いあいだ、すまなかった。
>
> おまえが必要としていたとき、俺はいつも線路の下にいた。
>
> 仕事を言い訳にして、話すべきことを話さなかった。
>
> いまさら父親らしいことを言う資格はない。
>
> 許してくれとは言わん。
>
> ただ、いつか話せるなら、今度は最後まで聞く。
>
> ヨアヒム=ベルナー
エレノアが読み終えて顔を上げる。
「別れの手紙には見えません」
「転居通知と一緒に届いたんだ」
オルガは腕を組んだ。
「もう会うつもりはないが、長年のことだけは謝っておく。そういう意味だと思った」
「西部へ行くとは書いていません」
「だから鉄道局の通知が付いていた」
ミラベルは手紙へ触れず、上から全体を見る。
本文。
署名。
呼びかけ。
四つ折りの跡。
「拡大鏡を使っても?」
「破らないなら」
エレノアが鞄から小型の鑑定レンズを出した。
「どうぞ」
「用意がいいですね」
「別働調査員ですから」
「まだ正式な肩書きではありません」
「仮登録中よ」
ミラベルはレンズを受け取り、便箋を斜めから照らした。
本文と署名のインクは、紙の繊維へ深く沈んでいる。黒からわずかに茶色へ変色し、線の太さや止め方にも大きな違いはない。
退職届の写しで見たヨアヒムの筆跡とも一致して見えた。
一方、最上部の「オルガへ」は、本文より黒い。
色の差だけなら、保存状態やインクの種類でも生じる。
決定的なのは折り目だった。
四つ折りの横線に沿い、本文の文字には細かな剥離がある。書いたあと長く畳まれていたため、繊維ごと擦れた跡だ。
だが「オルガへ」の文字は、折り目の上でもほとんど剥げていない。
「この紙は、本文を書いたあと、長く折り畳まれていました」
ミラベルが言う。
エレノアが横へ来る。
「どうして分かるの?」
「本文のインクが、折り目に沿って擦れています」
レンズを渡す。
「でも、呼びかけの文字には擦れがない。紙を一度開いたあとで加えられた可能性があります」
オルガは腕を組んだまま動かなかった。
「父が後から書いたのかもしれない」
「ええ。その説明は成立します」
「自分で書いた文章を畳んでおいて、送ろうと思ったときに私の名前を足した」
「可能性はあります」
ミラベルは最上部へ目を戻した。
「ただ、ヨアヒムさんは娘さんへの手紙で、本当にこの呼び方を使いましたか?」
「オルガへ?」
「はい」
オルガの表情から、怒りと警戒が消えた。
代わりに、何かを急に思い出した顔になる。
「父は」
言葉を切る。
「私を『オル』と書いた」
ミラベルは黙って待った。
「子どものころから、ずっと。家を出てからも、喧嘩をしたあとも。工具の送り状だろうが、短い伝言だろうが、最初は必ず『オルへ』だった」
「正式な名前を書いたことは?」
「ない」
オルガは手紙を見る。
「少なくとも、私に宛てる父の書き方じゃない」
エレノアが本文へ視線を落とす。
「でも、本文と署名はヨアヒムさんのもの」
「間違いない」
「呼びかけだけが違う」
ミラベルは最後の一文を指した。
「もう一つあります」
ただ、いつか話せるなら、今度は最後まで聞く。
「これは将来、もう一度話すことを望んでいる文章です」
「別れではない」
エレノアが言う。
「ええ。少なくとも、二度と会わないつもりで書いた手紙ではありません」
オルガは、文字を一行ずつ追った。
長いあいだ、すまなかった。
おまえが必要としていたとき、俺はいつも線路の下にいた。
許してくれとは言わん。
ただ、いつか話せるなら。
「何のために書いた手紙なの」
「過去のことを謝るためです」
ミラベルは四つ折りの跡を見る。
「ヨアヒムさんは、以前あなたへ渡そうとして、この文章を書いた。しかし送らず、畳んだまま保管していた」
「どうして送らなかったと分かる」
「オルガさんへ届いていなかったからです。ただし、これだけでは断定できません」
ミラベルは指を三本立てた。
「確認できるのは三点です」
一つ目。
「本文と署名は、ヨアヒムさん本人のものと考えて矛盾がない」
二つ目。
「『オルガへ』という呼びかけは、本文が折り畳まれたあとに加えられた可能性が高く、ヨアヒムさんが娘さんへ使っていた『オル』という愛称とも一致しない」
三つ目。
「本文は転居や別れに触れず、将来の対話を望んでいる」
オルガは手紙へ手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「誰かが、父の書いた謝罪文を見つけた」
エレノアが言う。
「呼びかけを足して、転居通知と一緒に送った」
ミラベルは頷いた。
「本物の謝罪文を、別れの手紙として読ませた可能性が高いと思います」
休憩室の下で、蒸気弁が開いた。
床が低く震え、窓の外を白い蒸気が横切る。
長いあいだ、すまなかった。
それは、ヨアヒムが本当に書いた言葉だった。
署名も。
後悔も。
言えなかった謝罪も。
父と娘の間へ積み重なった時間も、本物だった。
ただ、その文章が書かれた時期と、送られた理由が違う。
「偽造された手紙ではありません」
ミラベルは言った。
「本物の手紙を、本来とは別の出来事へ置いたんです。転居通知と一緒に届けば、過去の謝罪は街を去る男の別れとして読まれる」
「本物だから、疑われない」
エレノアが低く言う。
「ええ」
それ以上、説明を重ねる必要はなかった。
オルガは手紙を見つめたまま、動かなかった。
「父は、自分で消えたんじゃない」
声が震える。
ミラベルは、すぐに肯定しなかった。
「自発的に西部へ転居したという前提は、維持できなくなりました」
「生きているの?」
「分かりません」
「死んでいる?」
「それも、分かりません」
「何なら分かるんだい」
怒鳴る声ではなかった。
怒鳴れない声だった。
ミラベルは視線を逸らさない。
「ヨアヒムさんが、説明もなくブラムを残し、嫌っていた海辺の街へ移ったとは考えにくいこと」
手紙へ指を置く。
「別れとされた文章が、転居のために書かれたものではないこと」
そして。
「誰かが、ヨアヒムさんの本物の文章を使い、転居を本人の意思に見せようとした可能性が高いことです」
オルガは両手で顔を覆った。
声は出さない。
ブラムが立ち上がる。
ゆっくり近づき、オルガの膝へ頭を押しつけた。
彼女の手が下りる。
最初は犬を押し返そうとした。
だが、力が入らない。
厚い黒毛へ、油で荒れた指が沈んだ。
「おまえは」
オルガはブラムを見下ろした。
「知っていたのか」
犬は答えない。
「父が西へ行っていないと」
ブラムは目を閉じた。
ただ、そこにいる。
十三日間、主人の部屋で待ち。
犬舎へ移されても。
毎夜、同じ道を巡り。
最後には黒鴉館へ戻った。
「だから待っていたのか」
オルガの指が、ブラムの耳の後ろを撫でる。
犬は動かなかった。
ミラベルは、その姿を記録しなかった。
少なくとも、いま紙へ書くべきではないと思った。
代わりに、手紙の観察結果をまとめる。
本文および署名――真正と考えて矛盾なし。
呼びかけ――本文より後に追加された可能性。
呼称――娘への通常の愛称と不一致。
転居への言及――なし。
将来の対話を望む文章――あり。
結論。
ヨアヒム本人の自発的転居を示す証拠としては採用できない。
「この手紙を預かれますか?」
ミラベルが尋ねた。
オルガは顔を上げる。
「返してくれる?」
「必ず」
「警察へ渡すの?」
「まずグレアム警部に確認してもらいます。正式な証拠として扱うには、受領経路も記録する必要があります」
「これで、父が事件に巻き込まれたと認められる?」
「手紙だけでは、まだ足りません」
オルガの顔が強張る。
「ですが、もうヨアヒムさんを、ただの転居者として扱うこともできません」
オルガは長く手紙を見つめた。
やがて、四つ折りには戻さず、机の上を滑らせてミラベルへ渡す。
「調べて」
「はい」
「あの人がどこへ行ったのか」
「調べます」
「違う」
オルガはブラムの頭へ手を置いたまま、ミラベルを見る。
「どこへ行ったことにされたのかじゃない」
声が硬くなる。
「本当は、どこで道を断たれたのかを調べて」
ミラベルは手紙を両手で受け取った。
「約束します」
休憩室を出るころには、工業区の空は完全な夜になっていた。
頭上の蒸気管が、白い息を吐いている。
ブラムは階段の下で一度立ち止まり、オルガを振り返った。
彼女は休憩室の扉の前へ立っている。
「行きな」
オルガが言った。
「今度は、途中で仕事をやめるんじゃないよ」
ブラムは正面へ向き直り、ミラベルの隣へ来た。
エレノアは、預かった手紙を収めた革鞄を見る。
「これで警察は動ける?」
「手紙の帰属が偽装された可能性は示せます」
「でも、まだ事件ではない?」
「ヨアヒムさんへ危害が加えられた証拠はありません。誰が、何のために手紙を流用したのかも未確認です」
エレノアは不満そうに夜道の先を見る。
「分からないことばかりね」
「一つ、分かったことがあります」
「何?」
ミラベルは、工業区の上を走る西部行き高架線を見上げた。
夜行列車の窓が、長い光の帯となって煤霧の中を流れていく。
「私たちは、ヨアヒムさんが街を去ったあとの足取りを探していました」
「ええ」
「でも、街を去ったという出発点自体が正しくなかった」
列車の音が遠ざかる。
「この事件では、道の先を探す前に」
ミラベルは鞄の中の手紙へ触れた。
「誰が、その道へヨアヒムさんの名前を置いたのかを調べなくてはいけません」
本物の署名。
本物の謝罪。
本物の父と娘の間に残された後悔。
嘘は、一文字も書かれていなかった。
ただ、それらは本来属していた過去から切り離され。
街を去った男の別れとして。
誤った場所へ置かれていた。




