第7節 ― 地図にない一本の線路
旧鉄道訓練所は、現役の鉄道施設に囲まれながら、そこだけ時間から取り残されていた。
高架線の内側。
中央操車場と信号器材倉庫の間に、煤で黒ずんだ四階建ての校舎がある。
窓の半分は板で塞がれ、煉瓦壁には蔦の代わりに、使われなくなった通信線が垂れ下がっていた。玄関上部の鉄文字も、いくつかが外れている。
環状鉄道技術訓練所。
かつては信号員、保守員、機関士、運行書記を育てた施設だった。
現在の訓練所は中央駅近くの新校舎へ移り、古い教材と廃止資料を置く倉庫として使われている。
不要になった記録を保管している。
つまり。
必要とする者が、ほとんど訪れない建物だった。
エレノアは、向かいの工具店の硝子へ自分の姿を映した。
濃紺の作業上着。
灰色のスカート。
髪は帽子の中へまとめ、胸元には番号の擦れた訓練所の旧徽章。
肩から下げた革鞄には、筆記具、小型灯、空の書類箱。三地区の略図と、古い水入れから見つかった真鍮片の刻印を写した紙も入っている。
鉄道局の新人書記に見えた。
少なくとも、勤務交替を控えた警備員が、わざわざ呼び止めて身分を確かめたくなるほど怪しくはない。
「怪しい人ほど、正面から歩くのよ」
エレノアは小さく呟き、玄関へ向かった。
夕刻の交替時刻である。
記録箱を運ぶ下級書記。
古い教材を別棟へ移す作業員。
戸締まりを始めた管理人。
人の出入りが増える時間を選んだ。
扉の脇に座る老警備員は、手元の新聞から顔を上げない。
エレノアは足を緩めず、書類箱を両手で抱えたまま中へ入った。
通り過ぎる直前、自分から不安そうに振り返る。
「旧路線教材は、三階でよろしいですか?」
老警備員が新聞を下げた。
「路線図なら四階の西側だ。三階は機関構造」
「ありがとうございます」
「暗くなる前に出ろ。蒸気灯が半分死んどる」
「気をつけます」
嘘は最小限で済んだ。
信号書記課が古い教材を調べることはあり得る。誰に命じられたかを告げなかっただけだ。
ミラベルなら、それでも十分に欺いていると言うだろう。
古い校舎の階段は、中央だけが深く擦り減っていた。
壁には歴代の卒業生写真が並び、廊下のところどころには、訓練用の腕木信号が立っている。
赤。
白。
黄色。
もう動かない色硝子を、夕暮れの薄い光が通り抜けていた。
四階へ上がると、下の階の物音は遠くなった。
西側廊下には窓がない。天井の蒸気灯も一つおきに消えている。
エレノアは小型灯を取り出し、絞った光を床へ落とした。
閉塞信号実習室。
転轍機構造室。
地下線避難訓練室。
路線測量教材庫。
目的の扉には錠が掛かっていた。
廊下に足音はない。
エレノアは膝をつき、細い針金と小型の張力具を鍵穴へ差し込んだ。
古い錠は複雑ではない。
ただし錆が深く、強く回せば音が出る。
指先へ伝わる抵抗を確かめ、一度力を抜く。
もう一度。
小さな金属音。
錠が外れた。
「古い錠ほど扱いにくい、だったかしら」
兄の言葉を思い出す。
扉を押す。
「でも、開く」
紙と黴と古い機関油の匂いが流れ出した。
壁一面の棚。
筒形の地図入れ。
木箱。
線路の縮尺模型。
訓練用信号機。
天井からは、ヴェルム=クロウ環状鉄道の古い路線模型が吊られている。
現在の路線図よりも枝が多い。
環状線の外側にも。
地下にも。
いまは見かけない細い支線が無数に伸びていた。
エレノアは扉を内側から閉め、路線図の棚へ向かう。
環状鉄道保守区再編前。
その札の付いた筒を、順に引き出した。
三つの列車が現在走っている区画は、運行記録の上では別々である。
東部排水保守路。
中央旧坑道接続路。
西部貨物転送路。
だが、ブラムは三つを一本の道として巡っていた。
現在の地図から接続が消えているなら。
線が消される前の地図を探せばよい。
「ミラベルは、書類と書類の間を見る」
エレノアは、麻布張りの大判地図を机へ広げた。
「私は、地図と地図の間を見る」
東部保守区図。
工事用排水路図。
地下蒸気管配置図。
古代坑道転用計画。
いくつもの線が部分的に重なったが、三地区を結ぶ一本の道は見つからない。
エレノアは、夜間運行局から写してきた三地区の略図を並べた。
東部線の終端。
中央線の始端。
西部線の地下入口。
設備番号も管理部署も違う。
それでも。
三枚の端にある線路の曲率は、よく似ていた。
紙を近づければ、つながるように見える。
だが、縮尺の違う地図を無理に合わせても証拠にはならない。
必要なのは、一枚の地図だった。
都市全体の接続を、同じ縮尺で示した教材。
部屋の奥。
壁へ立て掛けられた大きな木枠がある。
灰色の布を引くと、積もった煤が舞った。
エレノアは咳を押し殺す。
現れたのは、壁掛け式の訓練路線図だった。
黒い板の上へ、細い真鍮線が埋め込まれている。
現役路線は白。
貨物線は赤。
保守線は青。
廃止路線は、黒い塗料で塗り潰されていた。
エレノアは灯りを近づける。
黒塗りの下。
細い真鍮線が、東から西へ弧を描いていた。
東部排水保守路。
中央旧坑道接続路。
西部貨物転送路。
現在は別々の名で呼ばれる三つの線が。
一本の金属線としてつながっている。
線の中央には、古い札を外した釘穴が残っていた。
エレノアは塗料の端を爪で擦った。
表面が薄く剥がれる。
下から文字が現れた。
第零。
さらに塗料を落とす。
環支線。
「第零環支線」
現在の鉄道台帳には、一つの路線として存在しない名。
だが以前は、確かに一本だった。
東部から中央へ。
中央から西部へ。
人間の管理上は三つに切られた道が、線路としてはつながっていた。
エレノアは、机の上にある三枚の現在図を見る。
三つの管理区。
三つの列車番号。
三つの運行記録。
壁の地図には、一本の線。
――一台の列車を、三枚の紙へ分けるな。
ヨアヒムがリナへ残した言葉が蘇る。
それでも。
古い地図が証明するのは、かつて線路がつながっていたことだけである。
現在も通行可能とは限らない。
軌条が撤去されているかもしれない。
途中が崩落している可能性も。
防火壁や封鎖扉があれば、列車は通れない。
「まだ、可能性」
エレノアは自分へ言い聞かせた。
壁掛け地図の下部へ視線を移す。
路線の途中には、小さな設備記号が並んでいる。
蒸気補給所。
信号箱。
保守足場。
避難坑。
中央より少し西へ寄った場所。
設備番号十三の横に、手書きの注記があった。
第十三保守停車所。
赤い線で抹消され、その隣へ別の筆跡が残る。
二十一年前。
蒸気管破裂。
閉鎖。
死者十三名。
「第十三停車所……」
正式な駅ではない。
旅客用のホームもない。
短い作業足場。
蒸気補給管。
信号箱。
点検室。
地下水路へ続く鉄扉。
救護室と犬舎。
三つの管理区の境界にあり、現在のどの地図でも紙の端へ追いやられている場所だった。
東部の列車が運行を終え。
中央の列車が新しく始まり。
さらに西部の列車が走り出す。
もし第零環支線が通行できるなら、その三つの記録の間を一台の車両が移動できる。
番号札や所属板を替える場所も必要になる。
閉鎖された停車所なら、人目を避けられる。
だが、それも仮説だった。
エレノアは写し紙を地図へ重ねた。
第零環支線。
三つの保守区境界。
第十三保守停車所。
旧訓練所から降りる保守通路。
必要な部分を素早く写していく。
廊下の向こうで、床板が鳴った。
一度。
間を置いて。
もう一度。
誰かが四階へ上がってくる。
エレノアは灯りを絞り、写し紙を畳んだ。
地図筒を戻し、壁掛け地図へ布を掛ける。床へ落ちた黒い塗料を、靴先で棚の下へ寄せた。
扉の取っ手が動く。
エレノアは空の書類箱を抱え、入口脇の棚の陰へ身体を滑らせた。
扉が開く。
「まだ誰かいるのか?」
老警備員の灯りが、室内を動いた。
机。
地図棚。
線路模型。
光が、エレノアの靴先へ近づいてくる。
そのとき、下の階で大きな金属音が鳴った。
記録箱を落としたらしい。
「何をしとる!」
警備員が廊下へ振り返る。
遠くから謝る声。
老警備員は舌打ちし、扉を閉じた。
足音が階段を下りていく。
エレノアは十を数えてから動いた。
廊下へ出る。
階段とは反対側の非常通路へ向かい、錆びた避難梯子を下りる。二階の外周足場から雨樋を伝い、裏庭の石炭置場へ降りた。
最後の高さだけは、思ったよりあった。
着地した拍子に膝が曲がり、空の書類箱が石畳へ落ちる。
乾いた音。
エレノアは動きを止めた。
窓に人影は出ない。
箱を拾い、石炭置場の陰を抜ける。
建物の西側には、地下保守区へ続く古い階段があった。
壁掛け地図へ記されていた位置と一致する。
煉瓦壁の間を下る、狭い階段。
その先に鉄扉。
錠と鎖は新しい。
中央には、現在の管理札が下がっている。
旧教材庫保守坑。
立入禁止。
扉の向こうから、低い風の音が聞こえた。
遠くで水が落ちる。
ごく微かに、鉄と鉄が擦れるような響きもあった。
エレノアは錠へ手を伸ばした。
この先を見れば。
第零環支線が、いまもつながっているか確認できる。
第十三保守停車所まで行けば。
三つの列車が入れ替わる場所を見つけられるかもしれない。
ヨアヒムの失踪を示すものも。
レオンへつながるものも。
指先が、冷たい金属へ触れる。
そこで止まった。
エレノアは手を下ろした。
扉を睨む。
しばらく動かない。
やがて踵を返し、階段を上がった。
裏庭の端に、古い信号連絡箱が残っている。
訓練用だったものを、現在は保守連絡に使っているらしい。
受話器を上げ、側面の呼出機を回す。
雑音。
遠くでベルが鳴る。
『中央信号箱。夜間信号書記、フォルクです』
「リナ?」
『その声……クラウスさん? どこから掛けているんですか』
「旧鉄道訓練所。西側の裏庭」
受話器の向こうで短い沈黙があった。
『なぜ、そんなところに』
「古い地図を見つけたの」
『地図?』
「東部排水保守路と、中央旧坑道接続路と、西部貨物転送路は、以前は一本だった」
エレノアは鉄扉へ目を向けた。
「《第零環支線》という名前で」
紙を動かす音がする。
『第零環……』
「あなたが聞いたヨアヒムさんの言葉。意味が分かったかもしれない」
『一台の列車を、三枚の紙へ分けるな』
「三つの運行記録は別路線の別列車として作られている。でも、その三路線はつながっていた」
『待ってください』
リナの声が変わった。
『私も、見つけたものがあります』
「何を?」
『ブラムが毎晩、信号箱の階段下を嗅いでいたでしょう』
「ええ」
『あの板を、今朝、保守員に外してもらいました。奥に細い紙片が挟まっていたんです』
エレノアは受話器を握り直した。
「内容は?」
『三地区の略号と、汽笛符号です』
リナが紙を広げる音。
『東部。長音、短音、細短音』
一行下へ指を移すような間。
『中央。長音、短音、細短音』
さらに一行。
『西部。長音、短音、細短音』
「全部、同じ順序?」
『はい。記号の間隔まで同じです』
エレノアは、第3節でブラムを立ち上がらせた汽笛を思い出す。
低く長い音。
短い音。
間を置いた、細い一音。
そして三夜の巡回。
東部。
中央。
西部。
「三つの列車が同じ共通信号を使っていた可能性は?」
『あります。保守列車には共通符号があります』
「では、まだ一台とは言えない」
『でも、ヨアヒム主任が紙を隠したとしたら――』
「それも決めつけないで」
エレノアは言った。
自分の口から出た言葉に、少しだけ驚く。
「紙を隠した人は、まだ分からない。古い地図も、いま線路が使える証拠ではないわ」
『それでも、停車所を調べるつもりなんですね』
「第十三保守停車所という場所がある。三つの管理区の境界。二十一年前に閉鎖されてる」
『そこへ入る扉の前にいるんですか?』
「ええ」
『開けましたか?』
エレノアは鉄扉を見る。
錠も。
鎖も。
触れたときの位置のまま閉じている。
「開けてない」
『そのまま待ってください』
「場所を伝えたでしょう」
『ミラベルさんへ知らせます』
「そこまでは言ってない」
『グレアム警部にも』
「警部は余計よ」
『旧鉄道訓練所、西側裏庭。地下保守扉の前。現在時刻も記録しました』
「リナ」
『動かないでください』
「子どもじゃないわ」
『扉を開けないでください』
エレノアは黙った。
『クラウスさん?』
「……分かった」
受話器を戻す。
彼女はもう一度、地下階段へ降りた。
錠を観察する。
扉の蝶番を見る。
壁の通気口。
階段の段数。
扉の下から流れる風。
だが。
錠へ道具を差し込まなかった。
鎖も外さない。
扉の前で待った。
やがて、地上から馬車の車輪音が近づいてくる。
停車するより先に扉が開いた。
ミラベルが降りる。
続いてグレアム。
最後に黒い巨体が地面へ飛び降りた。
ブラムだった。
「無事ですか?」
ミラベルは挨拶より先に尋ねた。
「見れば分かるでしょう」
「見えない場所へ一人で入った人の言葉とは思えません」
「地下へは入ってないわ」
グレアムが旧訓練所を見上げる。
「訓練所には入ったんだな」
「そちらは地下ではありません」
「言葉遊びをするな」
「正確な区別です」
ブラムがエレノアへ近づき、作業上着の裾を一度だけ嗅いだ。
それからミラベルの隣へ戻る。
「感じの悪い犬ね」
「無事だと確認したんです」
「いまの短さで?」
「たぶん」
エレノアは革鞄から、写し取った地図を出した。
冗談はそこで終わった。
馬車の側面へ紙を広げる。
グレアムが携帯灯を掲げ、ミラベルが端を押さえた。
「三つの保守路は、以前は一本の《第零環支線》でした」
エレノアは、東から西へ続く線を指でなぞる。
「中央に第十三保守停車所があります。二十一年前に閉鎖。三つの現在区画の境界です」
「今も線路が通じている証拠は?」
ミラベルが尋ねる。
「ないわ。古い地図が証明するのは、昔つながっていたことだけ」
グレアムが停車所の記号へ顔を近づける。
「列車を止め、補給と点検ができる設備だったんだな」
「番号札や所属板を替える場所としても使える。でも、実際に使われているかは未確認」
ミラベルがエレノアを見た。
「分かっていますね」
「ちゃんと分けて考えたわ」
「そのうえで一人で来た?」
「扉は開けなかったでしょう」
ミラベルは反論しかけたが、グレアムが手を上げた。
「話はあとだ」
警部は内ポケットから、細い証拠封筒を取り出した。
「中央信号箱へ寄ってきた。フォルク書記が見つけた紙片だ」
封筒の透明窓から、煤で縁の汚れた細長い紙が見える。
三地区の略号。
その横へ並ぶ、三つの汽笛符号。
長音。
短音。
細短音。
東部、中央、西部。
すべて同じ順序だった。
「地図は、三つの路線が一本だったことを示している」
ミラベルが言う。
「この紙片は、三地区で同じ汽笛の並びが使われていたことを示しています」
「ブラムも同じ順に巡回した」
エレノアが続ける。
「東部、中央、西部」
「だが」
グレアムが紙片を封筒へ戻した。
「同じ符号を使う列車が三台あった可能性は残る。一台が三地区を通った証拠にはならん」
「真鍮片の車軸番号も、まだ所属不明です」
ミラベルは地図の第十三停車所へ指を置く。
「ただ、別々だった手掛かりが、同じ場所へ集まり始めています」
三つの運行番号。
三枚に残った同じ誤字。
三度、同じ左前輪を嗅いだブラム。
古い水入れから出た車軸番号。
三地区で繰り返される汽笛符号。
そして。
地図から名前を消された一本の線路。
「閉鎖門の奥を列車が走ったことは確認している」
グレアムが言った。
「古い資料には、そこへ続く線路と停車所がある。鉄道施設の不正使用を疑う根拠にはなる」
「立入り許可を取れますか?」
「申請する。現場保全の人員も揃える」
「その間に証拠を移されたら?」
エレノアが尋ねる。
「だからといって、子ども一人を先に入れる理由にはならん」
「子ども扱いしないで」
「一人で閉鎖坑へ入る大人も止める」
グレアムは鉄扉を見下ろした。
「今夜は開けん」
エレノアは何も言わなかった。
扉の前に立っている。
道具も持っている。
鍵の構造も、すでに観察した。
それでも。
扉は閉じたままだった。
ミラベルは写し取った地図を丁寧に畳む。
「黒鴉館へ戻りましょう」
「その間に何か動いたら?」
「急いで準備します。でも、急ぐことと、何も知らずに地下へ入ることは違います」
グレアムが頷く。
「俺は立入り許可と人員を揃える。フォルク書記の紙片は正式に保全する」
「車軸番号は?」
「鉄道局へ照会を続ける」
ブラムは、いつの間にかエレノアの写し地図のそばへ座っていた。
地図を理解しているわけではない。
汽笛符号も。
路線名も。
車軸番号も読めない。
ただ、自分が毎夜歩いてきた道を、人間たちがようやく一つの線として見始めたことにも気づかず、遠い汽笛へ耳を向けている。
ミラベルはブラムの隣へしゃがんだ。
「今度は、私たちが道を確認します」
犬は答えない。
それでも立ち上がり、黒鴉館へ戻る馬車のほうへ歩き始めた。
現在の地図には。
第零環支線という名はない。
第十三保守停車所という場所もない。
だが。
古い地図では、三つの線路は途切れずにつながっていた。
細い紙片の上でも。
三地区の汽笛は、同じ順序で並んでいる。
その線が、現在も地下でつながっているのか。
その汽笛が、一台の列車から発せられたものなのか。
答えは。
まだ、閉ざされた鉄扉の向こうにあった。




