第10節 ― 兄が隠した運行記録
中央記録庁の地下書庫では、事件が正式に存在しても、扉が開くとは限らなかった。
グレアムが捜査命令書を提出したのは、夜明け前である。
切断された制動管。
地下勾配での暴走。
同じ時刻に本線を通過した回送列車。
それらを殺人未遂事件として登録し、環状鉄道の旧路線記録、閉鎖設備台帳、第零環に関係する原運行票の閲覧と証拠保全を申請した。
市警の事件番号。
担当警部の署名。
鉄道警備隊の立会印。
司法記録官の仮承認。
必要な欄は、すべて埋まっている。
それでも。
第零環関連記録を収めた移動棚の前には、赤い封鎖紐が張られていた。
封蝋には、中央記録庁特別監査室の印章。
掲げられた札には、簡潔な文言がある。
> 特別監査対象。
>
> 原本、複写、索引、閲覧履歴を含む一切の記録を封鎖。
>
> 許可なき移動、閲覧、転記を禁ずる。
紙を湿気と虫から守るため、地下書庫の暖房は最低限に抑えられていた。
高い天井。
鉄製の移動棚。
黒革の背表紙。
古い紙と防黴薬の匂い。
その冷たい静けさの中で、エレノアが封鎖札を睨んでいた。
「捜査命令書があります」
受付の記録官へ、もう一度言う。
「拝見しました」
痩せた記録官は、ずり落ちかけた眼鏡を押し上げた。
「殺人未遂事件の正式捜査です」
「承知しております」
「では、開けてください」
「できません」
「承知していないでしょう」
「承知したうえで、できないと申し上げています」
エレノアが封鎖紐へ手を伸ばした。
ミラベルは包帯を巻いた手で、その袖をつかむ。
「触らないでください」
「見るだけよ」
「あなたの見るは、触る一歩手前だと警部が言っていました」
「今日は二歩手前です」
「距離の問題ではありません」
隣で、グレアムの捜査命令書が軋んだ。
「この命令書より上の権限で封じられたというのか」
「特別監査権に基づく、緊急保全命令です」
「誰の命令だ」
記録官は、封鎖札の最下部を指した。
小さな署名欄。
流れるような筆跡。
エドガー=クラウス。
エレノアの顔から、わずかに血の気が引いた。
「いつ届いたの?」
「今朝です」
「私たちの申請より前?」
「正確な時刻は、封鎖履歴に――」
「時計を読めば分かるでしょう」
「私の判断では、お答えできません」
「役所の人は、時間まで許可がないと読めないの?」
記録官は黙った。
グレアムが封鎖札へ近づく。
封蝋に傷はない。紐も新しい。
封鎖対象として列挙されているのは、
旧第零環支線。
東部排水保守路。
中央旧坑道接続路。
西部貨物転送路。
第十三設備区。
黒鐘塔排水接続路。
地下回送線・身元照合対象運行。
現在の台帳から名前を失った区画まで、分類番号を添えて指定されていた。
「第十三設備区」
ミラベルが読み上げる。
「現在の鉄道台帳では使われていない名称です」
「旧訓練所の地図にしか残っていなかった」
エレノアが言う。
「私たちが見つけたばかりよ」
グレアムは記録官を見る。
「この目録を作った者は?」
「特別監査室です」
「誰なら説明できる」
「エドガー=クラウス上級顧問です」
エレノアは踵を返した。
「どこ?」
「最上階ですが、面会には予約が――」
「妹にも?」
「規則上は」
「規則に、私が来たと記録しておいて」
「エレノア」
ミラベルが呼ぶ。
彼女は足を止めた。
「一緒に行きます」
「止めないの?」
「止めても行くでしょう」
「分かってきたわね」
「ただし、扉を蹴らないでください」
「開いていれば蹴らないわ」
「開いていない場合もです」
グレアムが帽子をかぶり直す。
「俺も行く」
「捜査は?」
「その捜査資料を、中央記録庁の顧問が封じたんだ」
警部は赤い封蝋を睨んだ。
「まず、行政上の責任を聞く」
◇
特別監査室は、記録庁の最上階にあった。
地下書庫とは反対に、廊下には暖房管の熱が満ちている。厚い絨毯が足音を吸い、窓の外にはヴェルム=クロウの煤霧と高架鉄道が見下ろせた。
秘書官はエレノアの姿を見ると、わずかに眉を動かした。
「面会予定はございません」
「予定がなければ会えないの?」
「通常は――」
室内から声がした。
「入れなさい」
両開きの扉が開く。
エドガー=クラウスは、都市地図を背に座っていた。
黒革の大きな椅子。
机には地区別に分けられた報告書。
冷めかけた紅茶。
灰の落ちていない煙草。
壁一面の都市地図には、鉄道、運河、蒸気管、記録搬送路が異なる色で引かれている。その数か所へ、小さな黒い針が刺さっていた。
エドガーは立ち上がらない。
エレノアの険しい顔。
ミラベルの両手の包帯。
グレアムの外套に付いた地下の煤。
順に見た。
「重傷ではないようだね、ワトリア嬢」
「殺人未遂の報告を読んだんですね」
「鉄道と記録庁の双方に関係する事件だ。私のところへ届かないほうがおかしい」
「届くのが早すぎる」
グレアムが机の前へ立った。
「俺の保全申請が書庫へ着く前に、あんたの封鎖命令が出ている」
「警察の申請は、市政記録局の伝送系を経由する」
「途中で読んだのか」
「申請が通過した記録を把握した」
「答えになってないぞ」
「君の聞き方が正確ではないからだよ、警部」
エドガーは机の端へ置かれた書類を押した。
地下書庫に掲げられていたものと同じ、特別封鎖命令の控えだった。
「私は、第零環に関する記録を緊急保全した」
「警察の捜査より先にな」
「警察の申請が通常経路を通った時点で、この事件を知る者が増えた」
エドガーの声は平静だった。
「鉄道局、警察、市政記録局。そのいずれかに内通者がいる可能性を排除できない」
「だから、警察まで締め出した?」
「原本だけを押さえても意味はない。原本が残っていても、索引を消されれば見つけられない。複写を差し替えられれば、異なる内容が各部署へ流れる。閲覧履歴が失われれば、誰が触れたかも追えなくなる」
彼は封鎖命令の対象欄を示した。
「関連する原本、認証複写、索引、閲覧履歴を、同じ時刻に封じた。どれか一つへ手を入れられる前にね」
グレアムの目が細くなる。
「証拠隠滅ではないと言いたいのか」
「証拠隠滅を防ぐ措置だ」
「なら、警察立会いで開けろ」
「開封対象を絞り、監査官と捜査官の双方を立ち会わせる。単独で閲覧させるつもりはない」
「俺たちを信用していない?」
「君個人の話ではない。市警全体に内通者がいないと、君は保証できるのかね」
「記録庁にはいないと?」
「だから私の部下にも単独では触れさせていない」
グレアムは机へ両手をついた。
「殺人未遂が起きた直後だ。現場では一刻を争う」
「だからこそ、誰かが記録へ先回りする前に止めた」
「止めた結果、俺たちも見られん」
「証拠が消えるよりはいい」
「机の上ではな」
「机の上へ載せなければ、君が現場で見たものは行政上存在しないよ、警部」
二人の視線がぶつかった。
グレアムが現場を守る。
エドガーは、現場から届いた記録の連鎖を守る。
どちらも必要だった。
だが、どちらが先に手を触れるかという一点で、権限は正面から衝突している。
「共同開封の手続を、すぐ出せ」
グレアムが言った。
「すでに準備させている」
「なら最初からそう言え」
「君が質問する前に説明すれば、君は聞かないだろう」
「聞いたあとでも腹は立つ」
「それは手続きの問題ではない」
「そういうところだぞ、クラウス」
グレアムは封鎖命令の控えを指で叩いた。
「適法かどうかは確認する。必要以上に捜査を遅らせれば、あんたの名前も事件記録へ載せる」
「当然の処置だ」
エドガーは、少しも不快そうにしなかった。
グレアムの問いは、そこで終わった。
封鎖には理由がある。
行政上の責任も、手続きによって追える。
だが、合理的であることと、快く受け入れられることは別だった。
エレノアが封鎖目録の写しを、机へ置いた。
「この目録は、いつから用意していたの?」
「関連記録の抽出は、黒鐘塔事件後から続けている」
「第十三設備区も?」
「ああ」
エレノアの指が、紙の上で止まる。
「兄さまは、この線路を知っていたの?」
声は静かだった。
怒鳴るよりも、ずっと鋭い。
エドガーはすぐには答えなかった。
窓の外を環状列車が通過する。
高架線の振動が、硝子越しに低く伝わった。
その音が遠ざかったあと。
「知る必要のある者だけが知っている」
否定ではなかった。
線路を知らない者の答えでもない。
エレノアの指が、封鎖命令から離れた。
「私は、知る必要がなかった?」
「君が知ることと、君が確かめに行くことは、ほとんど同じ意味になる」
「今回、地下の扉は開けなかったわ」
「進歩だね」
「褒めないで」
「事実を述べただけだ」
エレノアは机越しに兄を見た。
「この線路を知っていたなら、黒鐘塔から続く水路も知っていた?」
「関連構造は把握していた」
「レオン兄さまが落ちた先についても?」
「捜索記録にある範囲はね」
「記録にない範囲は?」
エドガーは答えなかった。
エレノアの顔から、怒りが消える。
代わりに、もっと冷たい疑いが残った。
「レオン兄さまについても」
一語ずつ確かめるように言う。
「知る必要のある者だけが知っていることがあるの?」
室内の時計が、一度鳴った。
エドガーは妹から目を逸らさない。
「その問いには答えない」
「知らない、ではなく?」
「答えない」
エレノアの手が強く握られた。
「あなたは、死亡推定記録へ署名した」
「死亡確定には署名していない」
「同じ話をしているんじゃない!」
「私も同じ答えをしてはいない」
「そうやって、書いた言葉の範囲だけに隠れるのね」
エレノアは一歩下がった。
兄との間へ、自分から距離を作る。
「あなたはいつも、何を知っているかを言わない。何をしたかも、必要な部分しか話さない。最後に全部終わってから、最も被害が少なかったと言う」
「被害を少なくするのが、私の職務だ」
「悲しんだ人間の数も、その計算に入ってる?」
エドガーは答えなかった。
エレノアも、それ以上は問わなかった。
答えが得られないことを理解したからではない。
答えないという選択そのものを、長兄の返答として受け取ったのだ。
合理的な封鎖理由が示されても。
家族としての信頼まで、同じ手続きで回復することはなかった。
「クラウス顧問」
ミラベルが呼んだ。
エドガーの視線が向く。
以前なら、その目を向けられるだけで、言葉を慎重に選んだかもしれない。
都市全体の記録を読み。
警察も鉄道局も動かす男。
レオンより広い範囲を見ている人物。
いまは、包帯の奥で脈打つ掌の痛みが、伝えるべき言葉を明確にしていた。
「封鎖は、証拠を守るためだと理解しました」
「それが事実だ」
「内通者を警戒する理由もあります」
「君たちが殺されかけたことで、可能性では済まなくなった」
「それでも」
ミラベルは、封鎖命令を見た。
「私は、あなたを信用しません」
エレノアが顔を上げた。
グレアムも、わずかに眉を動かす。
エドガーだけは表情を変えなかった。
「理由を聞いても?」
「あなたが嘘をついた証拠はありません」
「ならば」
「でも、真実を必要な量だけ配る人だということは知っています」
声は穏やかだった。
怒りではない。
判断として告げる。
「誰に、いつ、どこまで知らせるかを、自分一人で決める」
「それが私の職務だ」
「だから信用しません」
「都市を守るために、情報を制限することもある」
「正しい判断かもしれません」
ミラベルは包帯を巻いた両手を見る。
「ですが、隠されている側は、何を知らされていないのかさえ分からないまま、あなたの判断へ命を預けることになります」
「情報を開示すれば、危険が減るとは限らない」
「ええ」
ミラベルは頷いた。
「あなたが正しい部分と、何かを隠していることは両立します」
「隠すことは、必ずしも犯罪ではない」
「犯罪かどうかを話しているのではありません」
「では、何の話だい」
「信用の話です」
エドガーは黙った。
ミラベルは続ける。
「あなたの封鎖が適法で、必要だったとしても。あなたが都市を守ろうとしていても。私たちが、あなたへすべてを預けなければならない理由にはなりません」
「不完全な情報で調査を続ければ、誤った結論へ進む可能性がある」
「完全な情報を持つ人が、必要なことを話してくれませんから」
「事実より速く結論を出すのは、記者の悪癖だ」
「事実を遅らせるのは、記録庁の悪癖です」
エドガーの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのではない。
言葉を評価したときだけに見せる変化だった。
「それで、どうするつもりかな」
「私たちがすでに確認した証拠を使います」
ミラベルは問いを重ねた。
「事件資料として警察が保全した認証写しは、特別封鎖の対象ですか?」
「警察が先に保全したものは、市警の管理下にある」
「エレノアが旧訓練所で写した地図は?」
「原本を損傷していないなら、複写を没収する根拠はない」
「オルガさんから預かった手紙と鑑定記録」
「同様だ」
「ブラムの巡回記録。三台の車輪音。水入れから見つかった真鍮片。信号箱の紙片」
「押収済みの物証は警察へ。君自身の観察記録は君のものだ」
「では、それを使って調査を続けます」
「原記録を見ずに?」
「あなたが見せないので」
エドガーは椅子の背へ身体を預けた。
「レオンなら、君の判断を無謀だと言うだろうね」
「レオンさんなら、あなたの封鎖を先に疑います」
グレアムが鼻を鳴らした。
「それは間違いない」
「兄さまなら、地下書庫の別の入口も探すわ」
エレノアが言う。
「君は探すな」
エドガーとグレアムの声が重なった。
エレノアが二人を見比べる。
「そこだけは意見が合うのね」
ミラベルは封鎖目録の写しを畳んだ。
「警部。押収済みの運行票と、現場記録の認証写しを黒鴉館へ持ち帰れますか?」
「原本は無理だ。写しなら用意する」
「十分です」
グレアムはエドガーを見る。
「警察が保全した証拠へ、特別監査室は手を出さないな」
「君たちが保全した証拠は、市警の管理下にある」
「共同開封の手続は」
「今日中に回す」
「遅らせるな」
「そのつもりはない」
行政上の合意は成立した。
だが、三人の誰も、エドガーへ礼は言わなかった。
◇
特別監査室を出ると、重い扉が音もなく閉じた。
廊下の窓から、都市の屋根が見える。
煙突。
高架線。
各地区へ伸びる記録伝送管。
エドガーは、そのすべてを一枚の地図として見ている。
人がどこで働き。
どこへ移り。
誰と契約し。
どこで死んだことにされるのか。
都市全体を読む。
その視野の広さは。
彼が正しいことの証明ではない。
「ミラベル」
エレノアが窓辺で止まった。
「兄さまは、知ってる」
「第零環については」
「それだけじゃない」
ミラベルは、すぐには答えなかった。
レオンの死亡推定。
遺体のない死。
黒鐘塔から続く旧水路。
そして、答えないというエドガーの返答。
「信じるだけでは、証明になりません」
「分かってる」
エレノアは窓の外を見たまま頷いた。
「疑うだけでも同じでしょう」
「ええ」
ミラベルは包帯を巻いた手で、手帳を押さえた。
「だから、エドガーさんが何を隠しているのかを想像するのではなく」
閉じた扉へ背を向ける。
「私たちが持っている証拠だけで、先へ進みます」
グレアムが歩き出した。
「認証写しは署で揃える。封鎖命令と共同開封の経過も、事件記録へ付ける」
「エドガー兄さまも捜査対象に?」
エレノアが尋ねる。
「封鎖が適法なら、それ自体は犯罪じゃない」
「事件と無関係だという意味でもないでしょう?」
「だから記録する」
グレアムは振り返らず、短く答えた。
三人は正面玄関へ続く階段を下りた。
地下書庫へ戻る道ではない。
一階の警備室では、ブラムが扉の前へ伏せていた。
ミラベルたちの足音を聞くと、静かに立ち上がる。
エドガーの命令も。
特別監査の封蝋も。
知る必要のある者という区分も。
犬には読めない。
ブラムが知っているのは、主人から命じられた道と、同じ音を立てる車輪がどこを走ったかだけだった。
ミラベルは犬の隣へ立つ。
「黒鴉館へ戻りましょう」
ブラムが玄関へ向かった。
エレノアがその後ろへ続く。
ミラベルも歩き出す。
公式の原記録は、赤い封蝋の向こうへ保全された。
だが。
彼女たちが見たもの。
聞いたもの。
歩いて確かめたものまで。
兄の机の上で、開示の時を待たせるつもりはなかった。




