↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
200/228

第10節 ― 兄が隠した運行記録

 中央記録庁の地下書庫では、事件が正式に存在しても、扉が開くとは限らなかった。


 グレアムが捜査命令書を提出したのは、夜明け前である。


 切断された制動管。


 地下勾配での暴走。


 同じ時刻に本線を通過した回送列車。


 それらを殺人未遂事件として登録し、環状鉄道の旧路線記録、閉鎖設備台帳、第零環に関係する原運行票の閲覧と証拠保全を申請した。


 市警の事件番号。


 担当警部の署名。


 鉄道警備隊の立会印。


 司法記録官の仮承認。


 必要な欄は、すべて埋まっている。


 それでも。


 第零環関連記録を収めた移動棚の前には、赤い封鎖紐が張られていた。


 封蝋には、中央記録庁特別監査室の印章。


 掲げられた札には、簡潔な文言がある。


> 特別監査対象。

>

> 原本、複写、索引、閲覧履歴を含む一切の記録を封鎖。

>

> 許可なき移動、閲覧、転記を禁ずる。


 紙を湿気と虫から守るため、地下書庫の暖房は最低限に抑えられていた。


 高い天井。


 鉄製の移動棚。


 黒革の背表紙。


 古い紙と防黴薬の匂い。


 その冷たい静けさの中で、エレノアが封鎖札を睨んでいた。


「捜査命令書があります」


 受付の記録官へ、もう一度言う。


「拝見しました」


 痩せた記録官は、ずり落ちかけた眼鏡を押し上げた。


「殺人未遂事件の正式捜査です」


「承知しております」


「では、開けてください」


「できません」


「承知していないでしょう」


「承知したうえで、できないと申し上げています」


 エレノアが封鎖紐へ手を伸ばした。


 ミラベルは包帯を巻いた手で、その袖をつかむ。


「触らないでください」


「見るだけよ」


「あなたの見るは、触る一歩手前だと警部が言っていました」


「今日は二歩手前です」


「距離の問題ではありません」


 隣で、グレアムの捜査命令書が軋んだ。


「この命令書より上の権限で封じられたというのか」


「特別監査権に基づく、緊急保全命令です」


「誰の命令だ」


 記録官は、封鎖札の最下部を指した。


 小さな署名欄。


 流れるような筆跡。


 エドガー=クラウス。


 エレノアの顔から、わずかに血の気が引いた。


「いつ届いたの?」


「今朝です」


「私たちの申請より前?」


「正確な時刻は、封鎖履歴に――」


「時計を読めば分かるでしょう」


「私の判断では、お答えできません」


「役所の人は、時間まで許可がないと読めないの?」


 記録官は黙った。


 グレアムが封鎖札へ近づく。


 封蝋に傷はない。紐も新しい。


 封鎖対象として列挙されているのは、


 旧第零環支線。


 東部排水保守路。


 中央旧坑道接続路。


 西部貨物転送路。


 第十三設備区。


 黒鐘塔排水接続路。


 地下回送線・身元照合対象運行。


 現在の台帳から名前を失った区画まで、分類番号を添えて指定されていた。


「第十三設備区」


 ミラベルが読み上げる。


「現在の鉄道台帳では使われていない名称です」


「旧訓練所の地図にしか残っていなかった」


 エレノアが言う。


「私たちが見つけたばかりよ」


 グレアムは記録官を見る。


「この目録を作った者は?」


「特別監査室です」


「誰なら説明できる」


「エドガー=クラウス上級顧問です」


 エレノアは踵を返した。


「どこ?」


「最上階ですが、面会には予約が――」


「妹にも?」


「規則上は」


「規則に、私が来たと記録しておいて」


「エレノア」


 ミラベルが呼ぶ。


 彼女は足を止めた。


「一緒に行きます」


「止めないの?」


「止めても行くでしょう」


「分かってきたわね」


「ただし、扉を蹴らないでください」


「開いていれば蹴らないわ」


「開いていない場合もです」


 グレアムが帽子をかぶり直す。


「俺も行く」


「捜査は?」


「その捜査資料を、中央記録庁の顧問が封じたんだ」


 警部は赤い封蝋を睨んだ。


「まず、行政上の責任を聞く」


     ◇


 特別監査室は、記録庁の最上階にあった。


 地下書庫とは反対に、廊下には暖房管の熱が満ちている。厚い絨毯が足音を吸い、窓の外にはヴェルム=クロウの煤霧と高架鉄道が見下ろせた。


 秘書官はエレノアの姿を見ると、わずかに眉を動かした。


「面会予定はございません」


「予定がなければ会えないの?」


「通常は――」


 室内から声がした。


「入れなさい」


 両開きの扉が開く。


 エドガー=クラウスは、都市地図を背に座っていた。


 黒革の大きな椅子。


 机には地区別に分けられた報告書。


 冷めかけた紅茶。


 灰の落ちていない煙草。


 壁一面の都市地図には、鉄道、運河、蒸気管、記録搬送路が異なる色で引かれている。その数か所へ、小さな黒い針が刺さっていた。


 エドガーは立ち上がらない。


 エレノアの険しい顔。


 ミラベルの両手の包帯。


 グレアムの外套に付いた地下の煤。


 順に見た。


「重傷ではないようだね、ワトリア嬢」


「殺人未遂の報告を読んだんですね」


「鉄道と記録庁の双方に関係する事件だ。私のところへ届かないほうがおかしい」


「届くのが早すぎる」


 グレアムが机の前へ立った。


「俺の保全申請が書庫へ着く前に、あんたの封鎖命令が出ている」


「警察の申請は、市政記録局の伝送系を経由する」


「途中で読んだのか」


「申請が通過した記録を把握した」


「答えになってないぞ」


「君の聞き方が正確ではないからだよ、警部」


 エドガーは机の端へ置かれた書類を押した。


 地下書庫に掲げられていたものと同じ、特別封鎖命令の控えだった。


「私は、第零環に関する記録を緊急保全した」


「警察の捜査より先にな」


「警察の申請が通常経路を通った時点で、この事件を知る者が増えた」


 エドガーの声は平静だった。


「鉄道局、警察、市政記録局。そのいずれかに内通者がいる可能性を排除できない」


「だから、警察まで締め出した?」


「原本だけを押さえても意味はない。原本が残っていても、索引を消されれば見つけられない。複写を差し替えられれば、異なる内容が各部署へ流れる。閲覧履歴が失われれば、誰が触れたかも追えなくなる」


 彼は封鎖命令の対象欄を示した。


「関連する原本、認証複写、索引、閲覧履歴を、同じ時刻に封じた。どれか一つへ手を入れられる前にね」


 グレアムの目が細くなる。


「証拠隠滅ではないと言いたいのか」


「証拠隠滅を防ぐ措置だ」


「なら、警察立会いで開けろ」


「開封対象を絞り、監査官と捜査官の双方を立ち会わせる。単独で閲覧させるつもりはない」


「俺たちを信用していない?」


「君個人の話ではない。市警全体に内通者がいないと、君は保証できるのかね」


「記録庁にはいないと?」


「だから私の部下にも単独では触れさせていない」


 グレアムは机へ両手をついた。


「殺人未遂が起きた直後だ。現場では一刻を争う」


「だからこそ、誰かが記録へ先回りする前に止めた」


「止めた結果、俺たちも見られん」


「証拠が消えるよりはいい」


「机の上ではな」


「机の上へ載せなければ、君が現場で見たものは行政上存在しないよ、警部」


 二人の視線がぶつかった。


 グレアムが現場を守る。


 エドガーは、現場から届いた記録の連鎖を守る。


 どちらも必要だった。


 だが、どちらが先に手を触れるかという一点で、権限は正面から衝突している。


「共同開封の手続を、すぐ出せ」


 グレアムが言った。


「すでに準備させている」


「なら最初からそう言え」


「君が質問する前に説明すれば、君は聞かないだろう」


「聞いたあとでも腹は立つ」


「それは手続きの問題ではない」


「そういうところだぞ、クラウス」


 グレアムは封鎖命令の控えを指で叩いた。


「適法かどうかは確認する。必要以上に捜査を遅らせれば、あんたの名前も事件記録へ載せる」


「当然の処置だ」


 エドガーは、少しも不快そうにしなかった。


 グレアムの問いは、そこで終わった。


 封鎖には理由がある。


 行政上の責任も、手続きによって追える。


 だが、合理的であることと、快く受け入れられることは別だった。


 エレノアが封鎖目録の写しを、机へ置いた。


「この目録は、いつから用意していたの?」


「関連記録の抽出は、黒鐘塔事件後から続けている」


「第十三設備区も?」


「ああ」


 エレノアの指が、紙の上で止まる。


「兄さまは、この線路を知っていたの?」


 声は静かだった。


 怒鳴るよりも、ずっと鋭い。


 エドガーはすぐには答えなかった。


 窓の外を環状列車が通過する。


 高架線の振動が、硝子越しに低く伝わった。


 その音が遠ざかったあと。


「知る必要のある者だけが知っている」


 否定ではなかった。


 線路を知らない者の答えでもない。


 エレノアの指が、封鎖命令から離れた。


「私は、知る必要がなかった?」


「君が知ることと、君が確かめに行くことは、ほとんど同じ意味になる」


「今回、地下の扉は開けなかったわ」


「進歩だね」


「褒めないで」


「事実を述べただけだ」


 エレノアは机越しに兄を見た。


「この線路を知っていたなら、黒鐘塔から続く水路も知っていた?」


「関連構造は把握していた」


「レオン兄さまが落ちた先についても?」


「捜索記録にある範囲はね」


「記録にない範囲は?」


 エドガーは答えなかった。


 エレノアの顔から、怒りが消える。


 代わりに、もっと冷たい疑いが残った。


「レオン兄さまについても」


 一語ずつ確かめるように言う。


「知る必要のある者だけが知っていることがあるの?」


 室内の時計が、一度鳴った。


 エドガーは妹から目を逸らさない。


「その問いには答えない」


「知らない、ではなく?」


「答えない」


 エレノアの手が強く握られた。


「あなたは、死亡推定記録へ署名した」


「死亡確定には署名していない」


「同じ話をしているんじゃない!」


「私も同じ答えをしてはいない」


「そうやって、書いた言葉の範囲だけに隠れるのね」


 エレノアは一歩下がった。


 兄との間へ、自分から距離を作る。


「あなたはいつも、何を知っているかを言わない。何をしたかも、必要な部分しか話さない。最後に全部終わってから、最も被害が少なかったと言う」


「被害を少なくするのが、私の職務だ」


「悲しんだ人間の数も、その計算に入ってる?」


 エドガーは答えなかった。


 エレノアも、それ以上は問わなかった。


 答えが得られないことを理解したからではない。


 答えないという選択そのものを、長兄の返答として受け取ったのだ。


 合理的な封鎖理由が示されても。


 家族としての信頼まで、同じ手続きで回復することはなかった。


「クラウス顧問」


 ミラベルが呼んだ。


 エドガーの視線が向く。


 以前なら、その目を向けられるだけで、言葉を慎重に選んだかもしれない。


 都市全体の記録を読み。


 警察も鉄道局も動かす男。


 レオンより広い範囲を見ている人物。


 いまは、包帯の奥で脈打つ掌の痛みが、伝えるべき言葉を明確にしていた。


「封鎖は、証拠を守るためだと理解しました」


「それが事実だ」


「内通者を警戒する理由もあります」


「君たちが殺されかけたことで、可能性では済まなくなった」


「それでも」


 ミラベルは、封鎖命令を見た。


「私は、あなたを信用しません」


 エレノアが顔を上げた。


 グレアムも、わずかに眉を動かす。


 エドガーだけは表情を変えなかった。


「理由を聞いても?」


「あなたが嘘をついた証拠はありません」


「ならば」


「でも、真実を必要な量だけ配る人だということは知っています」


 声は穏やかだった。


 怒りではない。


 判断として告げる。


「誰に、いつ、どこまで知らせるかを、自分一人で決める」


「それが私の職務だ」


「だから信用しません」


「都市を守るために、情報を制限することもある」


「正しい判断かもしれません」


 ミラベルは包帯を巻いた両手を見る。


「ですが、隠されている側は、何を知らされていないのかさえ分からないまま、あなたの判断へ命を預けることになります」


「情報を開示すれば、危険が減るとは限らない」


「ええ」


 ミラベルは頷いた。


「あなたが正しい部分と、何かを隠していることは両立します」


「隠すことは、必ずしも犯罪ではない」


「犯罪かどうかを話しているのではありません」


「では、何の話だい」


「信用の話です」


 エドガーは黙った。


 ミラベルは続ける。


「あなたの封鎖が適法で、必要だったとしても。あなたが都市を守ろうとしていても。私たちが、あなたへすべてを預けなければならない理由にはなりません」


「不完全な情報で調査を続ければ、誤った結論へ進む可能性がある」


「完全な情報を持つ人が、必要なことを話してくれませんから」


「事実より速く結論を出すのは、記者の悪癖だ」


「事実を遅らせるのは、記録庁の悪癖です」


 エドガーの口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったのではない。


 言葉を評価したときだけに見せる変化だった。


「それで、どうするつもりかな」


「私たちがすでに確認した証拠を使います」


 ミラベルは問いを重ねた。


「事件資料として警察が保全した認証写しは、特別封鎖の対象ですか?」


「警察が先に保全したものは、市警の管理下にある」


「エレノアが旧訓練所で写した地図は?」


「原本を損傷していないなら、複写を没収する根拠はない」


「オルガさんから預かった手紙と鑑定記録」


「同様だ」


「ブラムの巡回記録。三台の車輪音。水入れから見つかった真鍮片。信号箱の紙片」


「押収済みの物証は警察へ。君自身の観察記録は君のものだ」


「では、それを使って調査を続けます」


「原記録を見ずに?」


「あなたが見せないので」


 エドガーは椅子の背へ身体を預けた。


「レオンなら、君の判断を無謀だと言うだろうね」


「レオンさんなら、あなたの封鎖を先に疑います」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「それは間違いない」


「兄さまなら、地下書庫の別の入口も探すわ」


 エレノアが言う。


「君は探すな」


 エドガーとグレアムの声が重なった。


 エレノアが二人を見比べる。


「そこだけは意見が合うのね」


 ミラベルは封鎖目録の写しを畳んだ。


「警部。押収済みの運行票と、現場記録の認証写しを黒鴉館へ持ち帰れますか?」


「原本は無理だ。写しなら用意する」


「十分です」


 グレアムはエドガーを見る。


「警察が保全した証拠へ、特別監査室は手を出さないな」


「君たちが保全した証拠は、市警の管理下にある」


「共同開封の手続は」


「今日中に回す」


「遅らせるな」


「そのつもりはない」


 行政上の合意は成立した。


 だが、三人の誰も、エドガーへ礼は言わなかった。


     ◇


 特別監査室を出ると、重い扉が音もなく閉じた。


 廊下の窓から、都市の屋根が見える。


 煙突。


 高架線。


 各地区へ伸びる記録伝送管。


 エドガーは、そのすべてを一枚の地図として見ている。


 人がどこで働き。


 どこへ移り。


 誰と契約し。


 どこで死んだことにされるのか。


 都市全体を読む。


 その視野の広さは。


 彼が正しいことの証明ではない。


「ミラベル」


 エレノアが窓辺で止まった。


「兄さまは、知ってる」


「第零環については」


「それだけじゃない」


 ミラベルは、すぐには答えなかった。


 レオンの死亡推定。


 遺体のない死。


 黒鐘塔から続く旧水路。


 そして、答えないというエドガーの返答。


「信じるだけでは、証明になりません」


「分かってる」


 エレノアは窓の外を見たまま頷いた。


「疑うだけでも同じでしょう」


「ええ」


 ミラベルは包帯を巻いた手で、手帳を押さえた。


「だから、エドガーさんが何を隠しているのかを想像するのではなく」


 閉じた扉へ背を向ける。


「私たちが持っている証拠だけで、先へ進みます」


 グレアムが歩き出した。


「認証写しは署で揃える。封鎖命令と共同開封の経過も、事件記録へ付ける」


「エドガー兄さまも捜査対象に?」


 エレノアが尋ねる。


「封鎖が適法なら、それ自体は犯罪じゃない」


「事件と無関係だという意味でもないでしょう?」


「だから記録する」


 グレアムは振り返らず、短く答えた。


 三人は正面玄関へ続く階段を下りた。


 地下書庫へ戻る道ではない。


 一階の警備室では、ブラムが扉の前へ伏せていた。


 ミラベルたちの足音を聞くと、静かに立ち上がる。


 エドガーの命令も。


 特別監査の封蝋も。


 知る必要のある者という区分も。


 犬には読めない。


 ブラムが知っているのは、主人から命じられた道と、同じ音を立てる車輪がどこを走ったかだけだった。


 ミラベルは犬の隣へ立つ。


「黒鴉館へ戻りましょう」


 ブラムが玄関へ向かった。


 エレノアがその後ろへ続く。


 ミラベルも歩き出す。


 公式の原記録は、赤い封蝋の向こうへ保全された。


 だが。


 彼女たちが見たもの。


 聞いたもの。


 歩いて確かめたものまで。


 兄の机の上で、開示の時を待たせるつもりはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。