第5節 ― 三台の保守列車
三夜分の巡回記録を携えて環状鉄道夜間運行局を訪れたとき、ヴェルム=クロウの空は、すでに夕暮れの煤へ沈んでいた。
夜間運行局は中央貨物駅の北側へ張り出すように建つ、煉瓦と鉄骨の細長い建物だった。外壁を通信線と蒸気伝送管が蔦のように這い、開け放たれた窓からベルの音と書記たちの声が絶えず漏れている。
「西部貨物線、第八閉塞まで進入許可!」
「中央保守線、蒸気圧低下。到着を七分繰り下げ!」
「軍用支線の優先票はどこだ!」
夜の街が眠るためには、夜の鉄道は眠らず動き続けなければならない。
記録室の壁一面には、色分けされた運行票が並んでいた。
旅客線は白。
貨物線は赤。
工場支線は黄。
軍用線は黒。
保守線は青。
地下回送線は灰色。
一枚の票が、一台の列車を示す。
出発地。通過区間。停車場所。担当部署。
紙片の位置と色だけで、ヴェルム=クロウを走る列車の現在が分かる仕組みだった。
ただし、東部、中央、西部の地図の境には細い鉄枠があり、一本の線路も管理区画を越えれば別の票へ引き継がれている。
ミラベルは、その境界を見上げた。
線路は地上で続いている。
記録の上では、そこで一度途切れていた。
ブラムは記録室の入口へ伏せている。鉄道保守犬章を見せても、運行中枢への立入りは認められなかった。
「私が廊下に残ってもよかったのに」
エレノアが犬を振り返る。
「ブラムは自分で場所を決めています」
「私がいなくても平気そう」
「三夜とも、エレノアの命令は聞きませんでしたから」
「いま言う必要がある?」
グレアムが低く唸った。
「遊びに来たんじゃないぞ」
警部は閲覧許可票を二人の前へ掲げる。
「正式な事件捜査ではない。俺の立会いで運行記録を閲覧するだけだ。勝手に引き出しを開けるな。紙を持ち出すな。列車へ乗るな」
最後の一つだけ、エレノアを見ている。
「私はまだ何もしていません」
「する前に言っとる」
「兄さまにも、いつもそう言っていたの?」
「お前の兄には、言っても無駄だった」
「では、私にも無駄かもしれませんね」
「クラウス家は、どうして注意を挑戦状として受け取るんだ」
「記録を扱う家系は、禁止事項にも意味を探してしまうのでしょう」
柔らかな声が、二人の間へ入った。
五十代ほどのヒト族の男が、運行票の壁の間を歩いてくる。
濃灰色の上着には皺一つなく、襟元には夜間運行監査官の銀章。細い鎖の付いた眼鏡。磨かれた靴。片手には三本の記録筒を抱えていた。
「ゲルハルト=ノールです。夜間運行の監査を担当しています」
グレアムへ軽く頭を下げる。
「照会を受けたのは、四六号、十二号、八号の三件ですね」
「話が早くて助かる」
「夜間運行では、早さが最も安い安全対策です」
ノールはミラベルとエレノアへ視線を移した。
服装。
手帳。
机へ置かれた三夜分の記録。
入口で待つブラム。
露骨に値踏みする様子はないが、短い時間で一通りを見終えていた。
「ワトリア嬢ですね。黒鐘塔事件の記事を読みました」
ミラベルの表情が、わずかに固くなる。
ノールはそこへ踏み込まず、エレノアへ向いた。
「そして、クラウス家の妹君」
「エレノアで結構です」
「承知しました」
若い少女として軽く扱わず、余計な敬称も押しつけない。
それだけに、エレノアもすぐには反発できなかった。
ノールは窓際の閲覧卓へ三本の記録筒を置いた。
「いずれも正式に登録された運行です。原記録をご覧になりますか?」
グレアムの眉が上がる。
「ずいぶん協力的だな」
「記録で解消できる疑問なら、早く解消するべきでしょう」
微笑んだまま、三枚の運行票を並べる。
用紙の色も。
書式も。
印章も異なっていた。
ノールは、それぞれの要点だけを読み上げた。
東部保守区。
第四六号機関試験車。
運行範囲、東部機関庫および周辺試験線。
用途、制動・蒸気弁・車軸温度の確認。
中央保守区。
第十二号廃材輸送車。
運行範囲、中央保守線から第零環保守区。
積載、旧枕木、廃軌条、信号器材。
西部貨物区。
第八号空車回送。
運行範囲、西部貨物区から東部側回送線。
用途、荷下ろし後の機関車および空貨車回送。
ミラベルは三夜分の手帳と照合した。
東部機関庫で見た四六。
中央信号箱を通過した十二。
閉鎖地下門の奥で見えた八。
三つの番号は、正式な運行票に存在している。
「時刻を揃えましょう」
ノールは細い透明定規を三枚へ当てた。
第四六号が東部試験線を走っている間に、第十二号は中央保守線へ進入している。
第十二号が廃材を搬入している間に、第八号は西部貨物区を発車している。
三つの運行時間は、少しずつ重なっていた。
異なる区画。
異なる部署。
異なる担当者。
各票には出発、通過、帰着の時刻印があり、立会い責任者の署名も揃っている。
「同じ機関車が、番号を替えて走った可能性は?」
エレノアが尋ねた。
「時間が足りません」
ノールは三枚の時刻欄を順に指した。
「四六号が東部試験線を出る前に、十二号は中央へ入っている。十二号が中央保守区を出る前に、八号は西部を発車しています」
「時計がずれていたら?」
「この局の時計は中央標準信号へ同期しています。三部署すべてで時刻をずらせば、閉塞信号や他列車の通過記録にも矛盾が出ます」
現段階で、その痕跡はない。
「したがって、通常の照合では三台の別車両と判断します」
ノールの説明は短く、明快だった。
三台は同じ時間帯に、離れた区画を走っている。
一台の機関車が順番に移動したとは考えにくい。
少なくとも、三枚の運行記録を事実として受け取るかぎりは。
ミラベルは手帳の仮説欄へ記す。
同一車両の可能性。
運行時刻の重複と不整合。
線は引いたが、完全には消さなかった。
「納得できませんか?」
ノールが尋ねる。
「記録から導ける結論には納得しています」
「よい言い方ですね」
「ですが、ブラムの行動は説明できません」
「保守犬の反復行動は珍しくありません」
ノールは入口の犬へ目を向けた。
「四六号も十二号も八号も、保守関係の運行です。同じ種類の油や石炭を使い、かつての作業員が乗っていた可能性もある。犬が反応したからといって、列車同士に不正な関係があるとは限りません」
反論しにくい説明だった。
ブラムが反応しているものは、まだ分かっていない。
番号ではない。
だが、車体か。
匂いか。
音か。
乗務員か。
それすら確定していない。
「実は、ベルナー主任も似た疑問を口にしていました」
ノールが別の薄い書類を取り出した。
ミラベルのペンが止まる。
「ヨアヒムさんが?」
「記録に存在しない列車が、地下保守線を走っている、と」
エレノアが身を乗り出す。
「報告書を出したんですか?」
「正式な不正運行報告としては受理されていません。確認できる運行記録と一致しなかったためです」
「あなたは、その話を信じなかった?」
ノールは眼鏡へ一度触れた。
「ベルナー主任は優秀な保守員でした。地下線について、彼以上に詳しい者は多くありません」
「でした?」
「すでに退職した方ですから、職務上は過去形になります」
「失踪したとは思わない?」
「退職と転居の記録は確認されたと聞いています」
「記録ではなく、あなたはどう思うんです?」
ノールは、声を変えずに答えた。
「個人の印象を、記録の代わりにはできません」
ミラベルが何度も使った言葉と似ている。
だが、同じ意味には聞こえなかった。
「最後に話したのは、いつですか」
「退職前です。不正運行の疑いについても話しました」
「どのような様子でした?」
「黒鐘塔事件後、ベルナー主任は排水接続路の確認を続けていた。年齢を考えれば、かなり無理な勤務でした」
ノールは、ヨアヒムを責めるのではなく、気遣うような口調で続ける。
「長く一つの仕事へ携わった者ほど、意味のない一致にも意味を見いだすことがあります。疲労した主任が、自分の知る古い地下線と、現在の分割された保守区を重ねた可能性はあります」
「老齢と疲労で、存在しない列車を見たと?」
エレノアの声に棘が混じる。
「そう断定したわけではありません」
「そう聞こえました」
「別々の運行を、一つの経路として捉えた可能性を説明しただけです」
「でも、ブラムも同じ経路を走っている」
「ブラムは主任が訓練した犬です」
ノールは穏やかに言った。
「主人が教えた道を覚えている。そう考えるほうが自然ではありませんか」
自然な説明だった。
ヨアヒムが誤った疑いを持ち。
それに基づく巡回をブラムへ教え。
主人が去ったあとも、犬だけが命令を繰り返している。
三夜の巡回だけなら、それで説明できる。
「ヨアヒムさんが照合に使った資料は残っていますか?」
ミラベルが尋ねる。
「正式な報告書番号は発行されていません。ただ、照会資料は保管されています」
「見せていただけますか」
「もちろんです」
ノールは用意していた封筒を差し出した。
「原記録は部署ごとに保管されますので、こちらは閲覧用の照合概要です」
親切だった。
求められる前から、必要になりそうな資料を揃えている。
ミラベルは紙を受け取った。
上部には、
夜間保守列車運行照合概要。
その下に、三件の情報が簡潔にまとめられている。
第四六号機関試験車。
東部保守区。
試験運行。
同時刻帯、東部試験線上。
第十二号廃材輸送車。
中央保守区。
廃材搬入。
同時刻帯、中央保守線上。
第八号空車回送。
西部貨物区。
空車回送。
同時刻帯、西部回送線上。
担当者。
通過区間。
車両確認。
制動確認。
異常の有無。
ミラベルの視線が、一つの欄で止まった。
制動確忍済。
確認ではない。
確忍。
意味をなさない、単純な誤字だった。
彼女は何も言わず、文字の形と記載位置を手帳へ控えた。
「何かありましたか?」
ノールが尋ねる。
「いいえ。記録しています」
ミラベルは照合概要を閉じず、そのまま原記録へ視線を戻した。
東部の青い運行票。
中央の異なる書式。
西部の灰色の用紙。
記載位置はそれぞれ違う。
だが、三枚すべての制動欄に同じ文字があった。
制動確忍済。
ミラベルは、その事実も手帳へ写した。
隣でエレノアが気づきかけたが、ミラベルは小さく首を振る。
ここで意味を決める必要はない。
誤字は不正の証拠ではない。
過去の書類を参照した結果かもしれない。
同じ書記が下書きを作った可能性もある。
ただ。
別々の部署で作成されたはずの三枚に、同じ誤りが残っている。
それだけを記録すればよかった。
ノールの微笑は変わらない。
「書類だけでは、納得できないのでしょう」
その視線が、入口で待つブラムへ向く。
「三台の車両を直接確認なさってはいかがですか?」
「現物を?」
エレノアが聞き返す。
「はい。東部保守機関庫へ手配します」
グレアムが顎を撫でた。
「三台を一度に並べられるのか」
「運行予定がありますので、同時には難しいでしょう。しかし、順に入庫させることはできます。番号札、外装、整備記録も確認していただけます」
「こちらから頼む前に、そこまで見せるのか」
「疑いを残して運行を続けるほうが危険です」
ノールは、あくまで親切だった。
記録を隠さない。
質問にも答える。
ヨアヒムを愚かな老人とは呼ばず、疲労した優秀な保守員として扱う。
そして。
自分から現物を見せようとしている。
それは潔白の証明にも見えた。
あるいは。
何を見せても、三台にしか見えないという自信にも。
「では、お願いします」
ミラベルが答えた。
「すぐに手配しましょう」
ノールは原記録を筒へ戻した。
記録室を出ると、ブラムが立ち上がる。
ノールは犬の前へしゃがまず、少し距離を残して見下ろした。
「久しぶりだな、ブラム」
ブラムは尻尾を振らない。
唸りもしない。
ノールの制服と靴の匂いを短く嗅ぎ、その後ろにある記録室へ顔を向けた。
「私を覚えてはいないようです」
「ヨアヒムさんと一緒にいた頃、会ったんですか?」
「局内で何度か。ベルナー主任は、どこへでも連れていましたから」
それ以上、ブラムはノールへ反応しなかった。
ミラベルは、その事実だけを覚えておく。
好意も。
敵意も。
いまは読み取らない。
ノールは一礼し、運行票の壁の向こうへ戻っていった。
姿が見えなくなってから、エレノアが声を落とす。
「親切すぎない?」
「親切であることは、疑う理由になりません」
「でも、疑ってる顔をしてる」
「私は記録を見ています」
「顔も記録の一つでしょう?」
ミラベルは返事をせず、手帳を開いた。
三つの運行時間は重なっている。
したがって、表面上は三台の別車両である。
その三枚には、同じ誤字が残っている。
ブラムは三つの番号へ同じ反応を示した。
ヨアヒムも、生前に不正運行を疑っていた。
どれも、単独では不正を証明しない。
同じ誤字も。
犬の反応も。
疲労した保守員の疑いも。
それぞれ別の理由で説明できる。
だが。
別々に説明できることと。
互いに無関係であることは、同じではない。
グレアムが横から手帳を覗く。
「誤字一つでは令状は取れんぞ」
「分かっています」
「不正の証拠にもならん」
「ええ」
「では、次はどうする」
ミラベルは入口で待つブラムを見る。
犬は東部保守機関庫の方角へ耳を向けていた。
「書類の上では、三台です」
手帳を閉じる。
「だから次は、三台の現物を見ます」
人間が別々の番号を与えたものを。
犬が、なぜ同じように見送るのか。
その理由を確かめるために。




