第4節 ― 午前零時十三分の巡回
ブラムは、追いつかれるために走っていた。
本気で逃げるつもりなら、二人の足で黒鋼坑道犬へ追いつけるはずがない。
黒い巨体は煤けた路地を駆け抜け、高架線の橋脚を一つ越えるたび、わずかに速度を落とす。後ろから聞こえる靴音を確かめるように耳を動かし、ミラベルとエレノアが近づくと、また前へ走り出した。
「待ちなさい、ブラム!」
エレノアの声に、犬は振り返らない。
「命令するからよ!」
ミラベルは息を切らしながら言った。
「では、どう言えばいいの!」
「走りながら考えないで!」
「それ、自分にも言ってない?」
頭上を貨物列車が通過した。
鉄輪の轟音が高架を走り、橋脚の継ぎ目から黒い水滴が降る。
ブラムは、その列車には反応しなかった。
一度も見上げず、先ほど聞こえた夜間汽笛の方角へ進んでいる。
ミラベルは外套のポケットから懐中時計を取り出した。
長針は午前零時を越え、十三分を示していた。
午前零時十三分。
黒鐘塔の底へ消えた黒い外套と、折れた杖が脳裏をよぎる。
足が一歩だけ鈍った。
「ミラベル」
並んだエレノアも文字盤を見た。
「零時十三分」
「いまは時刻が一致しただけです」
「私、まだ何も言ってないわ」
「言おうとしていたでしょう」
「兄さまとの関係かもしれないって?」
「ええ。ですが、いまはブラムを追います」
黒鐘塔の事件が終わった時刻と、ブラムが走り出した時刻。
同じであることは事実だった。
同じ事件に属しているかは、まだ分からない。
ブラムは東へ折れた。
煉瓦の建物が途切れ、巨大な鉄骨屋根と幾筋もの引込線が、夜霧の中へ現れる。
東部保守機関庫。
旅客列車が眠る車庫ではない。
線路を直し、蒸気管を点検し、事故車両を引く。人目に触れない夜の仕事を担う機関車の場所だった。
工房内では青白い溶接火花が散っている。蒸気槌の音と鉄板を叩く音が重なり、油と熱い金属の匂いが夜気を押し返していた。
ブラムは正門へ向かわず、外周の鉄柵に沿って走る。
保守犬用の低い通用口へ着くと、鼻先で掛け金を押し上げた。
小さな鉄扉が開く。
「自分で開けた」
「ここで働いていた犬ですから」
「もう少し驚いてもいいでしょう」
だが、ブラムは通用口を抜けなかった。
鉄柵の内側、犬舎跡の脇に置かれた古い水入れへ近づく。
水は張られていない。
新しい犬舎が工房の反対側へ移されたため、使われなくなったものらしい。厚い金属製の鉢が、低い台へ固定されている。
ブラムは、水を求めるように上から覗かなかった。
鉢の縁を一周嗅ぎ、台との隙間へ鼻先を差し込む。前脚で台の側面を一度だけ押した。
金属が、低く鳴った。
「何をしているのかしら」
「水を探している動きではありませんね」
ミラベルは時刻と位置を記した。
ブラムはもう一度だけ鉢の下を嗅ぐと、通用口の前へ座った。
そのとき、工房の奥で金属警笛が鳴った。
整備工たちが線路脇から離れる。
小型の保守機関車が、暗がりから押し出されてきた。
黒い車体。
低い煙突。
前照灯には細い覆い。
正面の真鍮枠へ差し込まれた番号札には、白い文字で四六と記されている。
ブラムが立ち上がった。
主人の外套を嗅がせたときには見せなかった反応だった。
耳を前へ向け、首を伸ばし、鼻先を機関車へ向ける。
吠えない。
追いかけない。
車体が目の前を通り過ぎるまで、一歩も動かなかった。
「四六」
エレノアが言った。
「番号に反応したのかしら」
「数字は読めません」
「四六番の列車に、という意味よ」
「車体かもしれません。音、匂い、乗務員の可能性もあります」
ミラベルは手帳へ線を引いた。
左側へ観察。
右側へ未確認。
観察欄には、
番号札、四六。
車両通過前に起立。耳を前方へ固定。通過後まで注視。
未確認欄には、
四六号との関係。
と記した。
「兄さまは、頭の中で分けていたわ」
「それで周囲には何も分からなくなるんです」
「たしかに」
背後から、作業服姿のドワーフが近づいてきた。
ブラムの姿を認めると、驚いたように眉を上げる。
「また戻ってきたのか」
「この犬を知っているんですか?」
ミラベルが尋ねた。
「ベルナー主任の犬だ。犬舎へ移されてからも、何度かここへ来とった」
男はブラムの左脇腹を見て、赤茶色の煤を指した。
「東部工房の赤炭煤だな」
「ほかの地区では付きませんか?」
「赤鉄炭を使っているのは、この区画の鍛造炉だけだ。雨へ濡れても色が残る」
ミラベルは、第1節で記した付着物の一つへ名称を加えた。
左脇腹。
赤茶色の煤。
東部工房の赤炭煤と推定。
ブラムの首輪にも目を向ける。
革の左側へ、比較的新しい斜めの傷が一本走っていた。
犬用通用口の下部には、外へ突き出した錆びた留め金がある。ブラムが通り抜けるとすれば、ちょうど首輪と同じ高さだった。
ただし、傷が今夜ついたものかは分からない。
ミラベルは傷の向きと留め金の位置だけを書き留めた。
四六の番号札を掲げた機関車が操車場の奥へ消え、蒸気が薄れる。
それを待っていたように、ブラムは通用口へ背を向けた。
再び走り出す。
二人は機関庫の外壁を回り、貨物倉庫の間を抜け、中央区へ向かう保守線沿いの道を追った。
ブラムは大通りを使わない。
線路から離れず、柵と倉庫の隙間、保守員用の細い通路、蒸気管の下を選んで進む。
路面鉄道の鐘が鳴っても。
蒸気乗合車の警笛が響いても。
反応はなかった。
汽笛であれば何でもよいわけではないらしい。
やがて、複数の線路が扇形に分かれる一角へ出た。
線路の中央に、脚の長い小さな建物が立っている。
中央信号箱。
二階の窓には灯りがあり、その下には転轍機を動かす連結棒が、巨大な節足動物の脚のように並んでいた。
ブラムは信号箱の真下へ来ると速度を落とした。
地面へ鼻を近づけ、枕木の間、転轍棒の根元を順に確かめる。
右の前脚が黒い油煤へ触れた。
毛に残っていた細い油膜と、色も粘りも同じに見える。
ブラムはそのまま階段の一段目へ向かった。
だが、上へは行かない。
階段下にある木板の継ぎ目へ鼻先を押し当て、板の端を前脚で一度だけ掻いた。
中で、乾いたものが触れ合うような音がした。
ミラベルはしゃがんだが、板へは触れなかった。
「何かある?」
エレノアが訊く。
「外からは見えません」
「開ければ分かるわ」
「鉄道局の信号設備です」
「開けるとは言ってないでしょう」
「言う前に開けるから止めています」
二階の窓が開いた。
信号員がランプを掲げる。
「また来たのか、ブラム」
犬は見上げなかった。
「毎晩来るんですか?」
ミラベルが尋ねる。
「ベルナー主任がいなくなってからな。零時を少し回ると東から来て、そこで止まる」
「階段の下を?」
「ああ。しばらく嗅いでから、列車を見送る」
箱の内部でベルが二度鳴った。
信号員が顔を引っ込める。
長い操作梃子を引く音。
腕木信号が赤から白へ変わり、転轍棒が一斉に動いた。
東側の暗がりから、黄色い前照灯が現れる。
先ほどの機関車とは外見が違っていた。
煙突は短く、前照灯の覆いは丸い。側面には廃材を積んだ低い貨車が連結されている。
正面の番号札は、十二。
「十二番」
ブラムの頭が上がった。
四六号を見たときと同じように、耳を前へ向け、身体を線路と平行にする。
列車が信号箱の脇を通過し、最後尾灯が遠ざかるまで、その場を動かなかった。
ミラベルは記す。
番号札、十二。
反応の順序、四六号通過時と一致。
「同じでしょう?」
エレノアが言う。
「観察した動作は一致しています」
「それを同じと言うのよ」
十二号が遠ざかると、ブラムは階段下の板をもう一度嗅いだ。
それから歩き始める。
ミラベルは、右前脚の油膜について信号員へ尋ねた。
「転轍棒に使う油へ、煤と金属粉が混じったものだ。中央区の信号設備では、あの黒い汚れがよく付く」
二つ目の付着物にも、場所が与えられた。
右前脚。
黒く粘る油煤。
中央信号設備の転轍油煤と推定。
信号箱へ上がる階段の縁には、小さな鉄片が突き出している。
ブラムが下へ頭を入れれば、首輪の正面にある二本目の傷と同じ高さだった。
これも、傷がそこで付いた証拠ではない。
だが。
ブラムが繰り返し身体を入れている場所が、首輪へ残る傷の数と重なり始めていた。
道は次第に下っていった。
地上のガス灯が減り、両側の壁が高くなる。頭上を蒸気管と鉄橋が覆い、線路は古い煉瓦造りの坑口へ吸い込まれていた。
入口には太い鉄格子。
鎖。
錆びた封鎖板。
地下保守区画。
通行停止。
鉄道局の刻印の下には、複数の旧番号を削り取った跡がある。
ブラムは門の前で止まり、鉄格子の下へ鼻先を差し込んだ。
内側から流れてくる空気を嗅ぐ。
地下水。
鉄錆。
古い煤。
微かに、温かい機関油。
後脚が、地面へ積もった灰色の粉を踏んだ。
ミラベルは第1節で記録した粉と見比べる。
色も粒の細かさも似ていた。
封鎖板の隅には、古い地区名が半分だけ残っている。
西部貨物鉱滓線。
「西部貨物区で使う鉱滓粉でしょうか」
「ここへ風で流れた可能性もあります」
それでもミラベルは記録した。
後脚。
灰色の細粉。
西部貨物鉱滓線周辺の粉と類似。
三つの付着物。
赤茶色の煤。
黒い油煤。
灰色の鉱滓粉。
それぞれが、ブラムの歩いた三つの区域と重なった。
ブラムは鉄格子へさらに頭を入れる。
首輪が、格子の下に残る折れた針金へ擦れた。
乾いた音がする。
ミラベルは犬を下がらせ、首輪を確かめた。
革に残る三本目の傷と、針金が当たる位置は近い。
断定はできない。
だが三本の新しい傷は、それぞれ異なる停車地点にある突起と同じ高さだった。
ブラムは、同じ道を一度だけ通ったのではない。
何度も。
同じ場所へ身体を入れている。
地下から低い振動が伝わった。
二人とも黙る。
鉄格子が、ごく小さく震えている。
線路の奥を、何かが近づいていた。
光は見えない。
車輪が継ぎ目を越える音だけが、煉瓦の坑道を通って響いてくる。
ブラムが身を起こした。
カタン。
カタン。
少し間を置いて。
また、カタン。
蒸気の吐き出される音。
坑道の曲がり角から、一瞬だけ黄色い灯りが覗いた。
閉鎖されているはずの地下線を、機関車が走っている。
「列車……?」
車体の全貌は見えない。
坑口の奥に、さらに壁と分岐がある。
灯りが横切る一瞬。
前面の番号札だけが蒸気灯を反射した。
八。
「八番」
エレノアが鉄格子へ顔を寄せる。
ブラムは、また同じ姿勢を取っていた。
耳を前へ。
首を伸ばし。
列車の音が消えるまで、地下を見つめる。
列車が遠ざかり、鉄格子の震えが止まった。
「四六、十二、八」
エレノアが言う。
「三つの番号です」
「三台の列車でしょう」
「車両全体を確認できたのは最初の二つだけです。いま見えたのは灯りと番号札だけ」
「では、三つの番号札」
エレノアは言い直した。
「これならいい?」
「ええ」
「ブラムは三つすべてへ、同じ順序で反応した」
「観察した範囲では」
「三度も偶然?」
「疑う理由にはなります。でも、結論には足りません」
ミラベルは手帳を鉄格子へ押し当て、記録を続けた。
閉鎖地下門。
列車通過音。
番号札、八。
ブラム、過去二回と同じ順序で反応。
外側の鎖は掛かっている。
鉄格子に目立つ破損なし。
ここから言えるのは。
閉鎖表示のある門の奥で、何らかの列車が運行されていること。
ブラムが反応している対象は、番号そのものではないこと。
それだけだった。
「三つに共通するものを調べる必要があります」
「車種?」
「かもしれません」
「乗務員。汽笛。匂い」
「すべて候補です」
エレノアは暗い坑道を見つめた。
「兄さまなら、もう絞っていたかしら」
「絞っていても、私たちには教えなかったでしょうね」
「腹が立つわね」
「ええ」
二人は、ほんの少しだけ笑った。
ブラムが門へ背を向ける。
巡回は終わったのかと思われた。
だが犬は、来た道を戻らず、地下線の外壁に沿う細い路地へ進んだ。
そこから先は走らない。
何かを追う様子もない。
夜間鉄道の高架下を抜け、倉庫街を横切り、新聞社街の裏を通る。
やがて、見慣れたガス灯が霧の中へ浮かんだ。
霧燈通り十三番地。
黒鴉館。
一階の《煤鳩亭》は閉店していたが、窓の灯りは残っている。
ブラムは正面扉の前で止まり、前脚で一度だけ扉を叩いた。
錠が外れる。
寝間着の上へ肩掛けを羽織ったマルタが現れた。
「何時だと思ってるんだい!」
怒声は、まずエレノアへ。
次にミラベルへ。
最後にブラムへ向いた。
犬は静かに頭を下げた。
「その顔をしても駄目だよ。あんたたちもだ」
「ここが巡回の終点みたいです」
「巡回?」
ミラベルは振り返った。
霧燈通りの向こうへ、鉄道区の蒸気灯が滲んでいる。
東部機関庫。
中央信号箱。
閉鎖地下門。
そして黒鴉館。
一本の経路だった。
ブラムは二階へ上がり、レオンの椅子の前へ伏せた。
最初に現れたときと同じ場所。
同じ姿勢。
前脚へ顎を置き、扉を見る。
「戻ってきた」
エレノアが呟く。
「ここへ」
ミラベルは机へ手帳を広げた。
午前零時十三分。
東部保守機関庫。
古い犬用水入れの下を確認。
番号札、四六。
中央信号箱。
階段下の板の継ぎ目を確認。
番号札、十二。
閉鎖地下門。
番号札、八。
終点、黒鴉館。
さらに。
東部工房の赤炭煤。
中央信号設備の黒い油煤。
西部貨物区の灰色の鉱滓粉。
首輪の三本の傷と、三か所の狭い確認場所。
ブラムの身体には。
いま歩いた経路と同じ順序の痕跡が残っていた。
「迷子の歩き方じゃないね」
マルタが言う。
「ええ」
「主人を探していたのかい」
「主人の外套は追いませんでした」
「では、何を追った」
「まだ分かりません」
エレノアが三つの番号を指す。
「ただ、途中で四六、十二、八の三つへ反応しました」
「別の列車かい?」
「番号は別です」
ミラベルは答えた。
「同じものかどうかは、まだ調べていません」
ブラムは水を飲み終えると、再び椅子の前へ伏せた。
やがて目を閉じる。
巡回を終えた犬のように。
◇
翌夜。
午前零時十三分。
黒鴉館の時計が針を進めた瞬間、暖炉の前で眠っていたブラムが目を開けた。
ミラベルは外套を着て待っていた。
エレノアも、前夜より底の低い靴を履いている。
「今夜も?」
「一度だけでは、巡回と断定できません」
ブラムは前夜と同じ道を選んだ。
東部機関庫では、古い水入れの下を確かめたあと、四六の番号札を掲げた機関車へ反応した。
中央信号箱では、階段下の継ぎ目へ鼻先を寄せ、十二番の列車を見送った。
閉鎖地下門では、格子の奥を八番の灯りが横切るまで動かなかった。
三つの番号は異なる。
外見も。
通過場所も違う。
だが、ブラムの反応は同じ順序だった。
耳を立て。
首を伸ばし。
通過が終わるまで待つ。
その前後には必ず、水入れと信号箱と地下門の同じ位置を確かめた。
そして最後には、黒鴉館へ戻る。
第一夜との時刻差は、どの地点でも一分以内だった。
◇
三夜目。
午前零時十三分。
ブラムは再び立ち上がった。
東部機関庫。
中央信号箱。
閉鎖地下門。
黒鴉館。
立ち止まる位置。
確認する場所。
三つの番号へ示す反応。
帰着時刻。
すべてが、前二夜の記録と重なった。
三夜分の記録を机へ並べると、ミラベルが引いた経路線は、ほとんど一本に見えた。
偶然の散歩ではない。
主人の匂いを無秩序に探しているのでもない。
ブラムは決められた時刻に。
決められた場所を。
決められた順序で回っている。
「これは追跡ではない」
ミラベルが言った。
エレノアは三枚の記録を見比べる。
「巡回」
「ええ」
「水入れと信号箱では、何を確かめているの?」
「まだ分かりません。ただ、三夜とも同じ場所へ反応しました」
「ヨアヒムさんが教えた巡回なのかしら」
「その可能性は高いと思います」
「三つの列車を確認するため?」
「それも、まだ仮説です」
ミラベルは三つの番号を丸で囲んだ。
四六。
十二。
八。
「まず、鉄道局で三つの運行記録を確認します」
「夜間運行局ね」
「ええ」
空の椅子の前。
ブラムは三度目の巡回を終え、静かに眠っていた。
人間の記録では、三つの番号は別々の列車を示す。
だが犬は、三つすべてへ同じ動作を繰り返した。
さらに。
犬が毎夜確かめる場所には、人間がまだ見つけていない何かが残されている可能性がある。
その意味は、まだ分からない。
ただし。
犬が番号を読めないからこそ。
番号の違いだけを理由に、三つを無関係だと決めることもできなかった。




