第3節 ― 犬が待っていた部屋
ヨアヒム=ベルナーが住んでいた鉄道宿舎は、高架線の影に建っていた。
煤けた赤煉瓦の四階建て。壁に沿って蒸気管が走り、継ぎ目から漏れた白い息が、夕暮れの路地へ絶えず噴き出している。
頭上を貨物列車が通るたび、窓硝子が細かく鳴り、軒下に吊られた鉄道局の古い標識が錆びた鎖を軋ませた。
建物の正面には、
環状鉄道東部保守区第三宿舎。
と記された金属板が残っている。
だが、玄関の掲示板に並ぶ居住者名簿から、ヨアヒムの名はすでに外されていた。
空いた一行には、新しい入居者の名もない。ただ、留め具の周囲だけが白く、つい最近まで紙片が挟まっていた跡を残している。
ミラベルは、その空白を手帳へ写した。
エレノアが横から覗き込む。
「名前が外されていることまで書くの?」
「書きます」
「退去記録で分かっているでしょう」
「記録と、実際の宿舎名簿が一致していることは別の確認です」
「書類を疑っているのに、別の書類で確かめるの?」
「書類同士が一致しているなら、それも事実です」
エレノアは納得したような、していないような顔をした。
「兄さまなら、もっと短く言うわ」
「レオンさんなら、最初から説明しません」
「それもそうね」
二人の前で、ブラムが玄関扉を見上げていた。
鉄道局で借りた短い革紐は、ミラベルの手の中でほとんど弛んでいる。ブラムは引っ張らず、吠えもせず、ただ扉が開くのを待っていた。
宿舎管理課から借りた鍵を差し込むと、古い錠が重く回った。
湿った石と煮炊きの匂いが流れ出す。共同廊下の奥から、誰かが鍋をかき回す音が聞こえた。
ブラムは敷居を越え、迷うことなく階段へ向かった。一階の踊り場を通り過ぎ、二階へ上がる。
案内する必要はない。
犬は、どの部屋へ行くべきかを覚えていた。
「少なくとも、ここへ来たことはある」
階段を上りながら、エレノアが言った。
「ここで暮らしていた犬ですから」
「分かってるわよ。確認しただけ」
「それなら、事実として書いておきます」
「何でも書くのね」
「書かなかったことは、あとから確かめられません」
ブラムは二階の突き当たりで止まった。
扉には部屋番号だけが残り、名前札は外されている。鼻先を扉の下へ寄せ、短く息を吸ったあと、静かに座った。
尻尾を振らない。
前脚で扉を掻くこともしない。
中に誰かがいると訴えているのではない。
ただ、開くのを待っている。
ミラベルは、その姿を手帳へ記した。
「ブラムは、ここが以前の住居だと覚えている」
「それも当然でしょう」
「ええ。いまのところは」
鍵を入れる前に、ミラベルは宿舎管理課から借りた記録の写しを開いた。
正式な退去日は、ひと月前。
だが、ブラムはその日に犬舎へ移されてはいなかった。
退去確認を行った職員が室内でブラムを発見し、東部保守機関庫の犬舎へ引き渡されるまで、十三日間、この部屋で一時的に飼育されたとある。
「十三日……」
エレノアが日付を数えた。
「退去した翌日から、犬舎へ移された日まで?」
「ええ」
「そのあいだ、誰が餌を?」
「宿舎の夜間当直員です。共同倉庫の保守犬用飼料を、一日一回与えたと記録されています」
「ヨアヒムさんが置いていった餌ではなく?」
「記録上は、宿舎の備蓄です」
ブラムは、十三日間この部屋へ残された。
毎夜、当直員が餌と水を与え。
十三日目の翌朝、東部保守機関庫の犬舎へ移された。
その事実を確認してから、ミラベルは扉を開けた。
室内から冷たい空気が流れ出す。
ブラムはすぐには入らなかった。
敷居に立ち、薄暗い部屋を見渡す。やがて、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
部屋は片づけられていた。
入口に靴はない。壁の衣服掛けには、空の金具だけが並んでいる。食器棚もほとんど空だった。
寝台からは敷布と毛布が外され、木枠と薄い藁詰めの寝具だけが残っている。机の引き出しにも、紙一枚ない。
書籍。
写真。
工具。
着替え。
私信。
長く暮らしていた者なら、どこかへ置き忘れていそうな小物まで取り除かれていた。
それでも、荒らされた印象はない。
引き出しは閉じられ、食器棚の扉も揃っている。床には掃除した跡があった。
誰かが慌てて物を持ち去った部屋ではない。
正式な退去作業を終えた部屋に見えた。
エレノアが窓を開ける。固まっていた留め金が音を立て、高架線の煤を含んだ風が入ってきた。
「隠し場所がありそうな部屋ではないわね」
「そう見える部屋ほど、調べる価値があります」
「それも兄さまが言いそう」
「いまのは、記者としての経験です」
「同じようなものよ」
エレノアは壁を軽く叩きながら、室内を見て回った。
ミラベルは入口から、残されたものを数える。
古い寝台。
小さな石炭炉。
壁へ固定された食器棚。
床の隅には、犬用の低い木製台。
管理課の備品目録にも記載された、宿舎備え付けの台だった。退去清掃では動かさず、表面と周囲だけを拭いたと記録されている。
ブラムは部屋の中央へは進まず、まっすぐその台へ向かった。
空の金属皿を嗅ぎ、横の床へ伏せる。
「ここが、この子の場所だったのね」
エレノアが近づく。
頭へ触れようとして、犬に目だけを向けられた。
「触らないわよ」
そう言いながら、手を引く。
ミラベルは台の周辺へしゃがんだ。
大きな水皿。
食事用の金属皿。
壁には、短い鎖を掛ける環。鎖そのものはない。
台の下へ指を入れると、奥に何か硬いものが触れた。
「動かせますか」
エレノアと二人で台を少し手前へ引く。
床と壁の隙間から、細長い木箱が現れた。
台の陰へ完全に隠れ、正面から覗いただけでは見えない位置だった。
「これなら、清掃した人も気づかない」
エレノアが言う。
「備品の台を動かしていませんから」
箱の上には埃が積もっている。蓋の縁だけに、以前開けられたときの擦れが残っていた。
ミラベルは配置を記してから蓋を開ける。
中には、同じ大きさの油紙包みが並んでいた。
どれも同じ形に折られ、紐で一つずつ縛られている。
エレノアが指で数え始めた。
「一、二、三……」
ミラベルは一包を持ち上げ、重さを確かめる。
乾燥肉と押し麦。
作業犬一頭へ一日に与える量と考えてよさそうだった。
「十一、十二」
最後の包みで、エレノアの指が止まる。
「十三」
室内の空気が、わずかに変わった。
十三包。
ヨアヒムの正式な退去後、ブラムがこの部屋へ残されていたのも十三日間。
偶然に同じ数が残ったとは考えにくい。
だが、その餌は使われていない。
宿舎の当直員は箱の存在を知らず、共同倉庫の飼料を与えていた。箱は備え付けの台の奥へ隠れたまま、退去清掃にも犬舎移送後の確認にも見つからなかった。
「ヨアヒムさんは、ブラムが十三日間ここへ残ると知っていた?」
エレノアが尋ねる。
「この包みを用意したのがヨアヒムさんなら」
「ほかに誰が用意するの?」
「まだ分かりません」
「でも、十三日分よ。実際にブラムがここにいた期間と同じ」
「ええ。数は一致しています」
ミラベルは包みを箱へ戻した。
「少なくとも、誰かが、ブラムをこの部屋で十三日間生かすための餌を用意していた。その餌とは別に宿舎の当直員が給餌したため、包みは使われずに残った」
「ヨアヒムさんは、自分がいなくなったあとを考えていた」
「その可能性があります」
「戻ってくるまでの十三日?」
「それは分かりません」
ミラベルは木箱を見る。
「犬舎へ移されるまでの期間を知っていたのかもしれない。誰かが迎えに来るまでと考えていたのかもしれない。単に十三日後までしか用意できなかった可能性もあります」
「でも、自分の意思で遠くへ転居する人が、犬を部屋へ残して、餌だけ隠しておく?」
「普通とは言いにくいですね」
鉄道局へ正式に返還するなら、部屋へ餌を残す必要はない。
西部港湾都市へ連れていくつもりなら、犬舎移送の手続自体が不要である。
十三包の餌は、転居記録と正面から矛盾してはいない。
だが。
ヨアヒムが書類どおりに、すべてを整えて街を去ったという説明へ、初めて小さなずれを生んでいた。
「この箱は、そのままにしておきましょう」
「持って帰らないの?」
「発見場所と状態を宿舎管理課へ報告します。誰が用意したか調べるまでは、勝手に動かせません」
ブラムは二人の会話に反応せず、前脚へ顎を置いて入口を見つめていた。
餌の箱ではない。
かつてヨアヒムが使っていた机でもない。
誰かが扉から戻ってくるのを待つように。
エレノアも、その視線へ気づいた。
「この子は、本当に十三日間、ここで待っていたのね」
「十三日間ここにいたことは、記録されています」
「待っていたことは?」
ミラベルは答えなかった。
待つ者は、戻らないという事実よりも、次の瞬間には戻るかもしれないという可能性に長く縛られる。
黒鴉館の階段へ耳を澄ませた夜を思い出す。
足音が上がってくるのではないか。
扉が開くのではないか。
空の椅子へ、何事もなかったように誰かが戻るのではないか。
だからこそ。
ブラムの姿へ、自分の望みを重ねてはいけなかった。
「ほかに残っているものを探しましょう」
食器棚。
炉の下。
寝台の隙間。
窓枠。
生活用品はほとんど残されていない。
台所には欠けたカップが一つ。
石炭入れには数個の燃料。
窓際には、乾いた植物の鉢。
どれも、失踪や犯罪を示すものではなかった。
エレノアが入口脇の収納戸を開けた。
「ミラベル」
中には、厚い外套が一着だけ残されていた。
鉄道保守員用の暗灰色の外套。
肩はドワーフの体格に合わせて広く、襟元には地下線保守主任の徽章を外した跡がある。袖口には長年の油染み。裾には乾いた泥が付着していた。
ほかの衣服は、すべてなくなっている。
「これだけ置き忘れた?」
「厚手です。季節によっては、西部へ持っていく必要がなかったのかもしれません」
「でも、三十年以上着た仕事着でしょう?」
「そう見えます」
エレノアは外套の内側を調べた。
ポケットは空。
隠し物もない。
裏地に名前が縫い取られている。
J・ベルナー。
「本人のものね」
「少なくとも、そう記名されています」
「ブラムへ嗅がせましょう」
エレノアは外套を持ち、犬の前へしゃがんだ。
「ブラム。ヨアヒムさんよ」
袖を鼻先へ近づける。
ブラムは顔を上げ、一度、ゆっくり匂いを吸った。
袖口。
襟。
胸元。
知っている匂いを確認するように嗅いだあと、再び前脚へ顎を置く。
興奮しない。
立ち上がらない。
エレノアが外套を少し動かした。
「ブラム。探して」
犬は目だけを向けた。
「ヨアヒムさんのところへ案内して」
ブラムは顔を背けた。
「また無視した」
「命令が分からないのかもしれません」
「鉄道保守犬よ。追跡訓練くらい受けているでしょう」
「匂いを知らないわけではなさそうです」
ミラベルは外套を受け取った。
長年ともに暮らした主人の外套である。実際、ブラムはその匂いを確かめた。
だが、追跡を始めなかった。
匂いが古すぎる。
外へ続く痕跡がない。
その命令を追跡の合図として理解していない。
あるいは。
ブラムがこの部屋に残った理由は、主人の匂いを追うことではなかった。
どの仮説にも、まだ証拠はない。
ミラベルが外套を収納へ戻そうとした、そのとき。
窓の外で、低い汽笛が鳴った。
夜間貨物線の、長く沈んだ音。
高架の鉄骨を震わせ、宿舎の壁へ伝わり、部屋の空気をわずかに揺らす。
ブラムの頭が上がった。
それまでの静けさが、一瞬で消える。
耳が前へ向き、鼻先が窓のほうを向いた。
もう一度。
今度は短い汽笛。
間を置いて。
さらに、細く一度。
ブラムが立ち上がった。
「反応した」
エレノアの声が低くなる。
犬は窓へは行かなかった。
扉を見る。
次に、ミラベルを見る。
外套を嗅がせたときとは、明らかに違った。身体の重心が前へ移り、すぐに動ける姿勢になっている。
首輪の金具が、小さく鳴った。
「ブラム?」
エレノアが革紐へ手を伸ばす。
犬は一歩下がった。
敵意ではない。
ただ、捕まることを避けている。
「待って」
ミラベルがエレノアを制した。
「でも、逃げるわ」
「いままで逃げませんでした」
ミラベルはブラムの前へしゃがんだ。
命令しない。
外套を差し出さない。
行き先を決めつけない。
ただ、犬の目を見る。
「どこへ行きたいの?」
ブラムは答えない。
しばらくミラベルを見返したあと、扉へ向かった。
一度も迷わず。
前脚で扉を押す。半開きになった隙間へ大きな身体を滑り込ませ、廊下へ出る。
「ブラム!」
エレノアが追った。
犬は階段を駆け下りる。重い足音が宿舎へ響いた。
ミラベルは外套を収納戸へ戻し、部屋を飛び出す。
「エレノア、待って!」
「待っていたら見失う!」
「階段で走らないで!」
「犬に言って!」
階下で玄関扉が開いた。
冷たい外気が吹き上がる。
二人が建物を出ると、ブラムは路地の端に立っていた。
高架線の向こう。
汽笛の消えた方角を見ている。
夕暮れはすでに夜へ変わり、蒸気灯が一つずつ灯り始めていた。
ブラムは二人が追いついたことを確かめるように振り返る。
そして、走り出した。
主人の外套には反応しなかった犬が。
名も番号も分からない夜の汽笛に導かれるように。
煤煙の街へ駆けていく。
ミラベルは手帳を外套のポケットへ押し込み、そのあとを追った。
いま確認できた事実は、三つ。
ブラムは、ヨアヒムの正式な退去後も十三日間、あの部屋へ残されていた。
その十三日間と同じ数の餌が、誰にも使われないまま隠されていた。
そして、主人の匂いを知りながら追おうとしなかった犬が、夜間列車の汽笛を聞いた瞬間、待つことをやめた。
それが何を意味するのか。
まだ答えはない。
だが、少なくとも。
ブラムが待っていたものは、主人が扉から帰ってくることだけではなかった。




