↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
193/228

第3節 ― 犬が待っていた部屋

 ヨアヒム=ベルナーが住んでいた鉄道宿舎は、高架線の影に建っていた。


 煤けた赤煉瓦の四階建て。壁に沿って蒸気管が走り、継ぎ目から漏れた白い息が、夕暮れの路地へ絶えず噴き出している。


 頭上を貨物列車が通るたび、窓硝子が細かく鳴り、軒下に吊られた鉄道局の古い標識が錆びた鎖を軋ませた。


 建物の正面には、


 環状鉄道東部保守区第三宿舎。


 と記された金属板が残っている。


 だが、玄関の掲示板に並ぶ居住者名簿から、ヨアヒムの名はすでに外されていた。


 空いた一行には、新しい入居者の名もない。ただ、留め具の周囲だけが白く、つい最近まで紙片が挟まっていた跡を残している。


 ミラベルは、その空白を手帳へ写した。


 エレノアが横から覗き込む。


「名前が外されていることまで書くの?」


「書きます」


「退去記録で分かっているでしょう」


「記録と、実際の宿舎名簿が一致していることは別の確認です」


「書類を疑っているのに、別の書類で確かめるの?」


「書類同士が一致しているなら、それも事実です」


 エレノアは納得したような、していないような顔をした。


「兄さまなら、もっと短く言うわ」


「レオンさんなら、最初から説明しません」


「それもそうね」


 二人の前で、ブラムが玄関扉を見上げていた。


 鉄道局で借りた短い革紐は、ミラベルの手の中でほとんど弛んでいる。ブラムは引っ張らず、吠えもせず、ただ扉が開くのを待っていた。


 宿舎管理課から借りた鍵を差し込むと、古い錠が重く回った。


 湿った石と煮炊きの匂いが流れ出す。共同廊下の奥から、誰かが鍋をかき回す音が聞こえた。


 ブラムは敷居を越え、迷うことなく階段へ向かった。一階の踊り場を通り過ぎ、二階へ上がる。


 案内する必要はない。


 犬は、どの部屋へ行くべきかを覚えていた。


「少なくとも、ここへ来たことはある」


 階段を上りながら、エレノアが言った。


「ここで暮らしていた犬ですから」


「分かってるわよ。確認しただけ」


「それなら、事実として書いておきます」


「何でも書くのね」


「書かなかったことは、あとから確かめられません」


 ブラムは二階の突き当たりで止まった。


 扉には部屋番号だけが残り、名前札は外されている。鼻先を扉の下へ寄せ、短く息を吸ったあと、静かに座った。


 尻尾を振らない。


 前脚で扉を掻くこともしない。


 中に誰かがいると訴えているのではない。


 ただ、開くのを待っている。


 ミラベルは、その姿を手帳へ記した。


「ブラムは、ここが以前の住居だと覚えている」


「それも当然でしょう」


「ええ。いまのところは」


 鍵を入れる前に、ミラベルは宿舎管理課から借りた記録の写しを開いた。


 正式な退去日は、ひと月前。


 だが、ブラムはその日に犬舎へ移されてはいなかった。


 退去確認を行った職員が室内でブラムを発見し、東部保守機関庫の犬舎へ引き渡されるまで、十三日間、この部屋で一時的に飼育されたとある。


「十三日……」


 エレノアが日付を数えた。


「退去した翌日から、犬舎へ移された日まで?」


「ええ」


「そのあいだ、誰が餌を?」


「宿舎の夜間当直員です。共同倉庫の保守犬用飼料を、一日一回与えたと記録されています」


「ヨアヒムさんが置いていった餌ではなく?」


「記録上は、宿舎の備蓄です」


 ブラムは、十三日間この部屋へ残された。


 毎夜、当直員が餌と水を与え。


 十三日目の翌朝、東部保守機関庫の犬舎へ移された。


 その事実を確認してから、ミラベルは扉を開けた。


 室内から冷たい空気が流れ出す。


 ブラムはすぐには入らなかった。


 敷居に立ち、薄暗い部屋を見渡す。やがて、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。


 部屋は片づけられていた。


 入口に靴はない。壁の衣服掛けには、空の金具だけが並んでいる。食器棚もほとんど空だった。


 寝台からは敷布と毛布が外され、木枠と薄い藁詰めの寝具だけが残っている。机の引き出しにも、紙一枚ない。


 書籍。


 写真。


 工具。


 着替え。


 私信。


 長く暮らしていた者なら、どこかへ置き忘れていそうな小物まで取り除かれていた。


 それでも、荒らされた印象はない。


 引き出しは閉じられ、食器棚の扉も揃っている。床には掃除した跡があった。


 誰かが慌てて物を持ち去った部屋ではない。


 正式な退去作業を終えた部屋に見えた。


 エレノアが窓を開ける。固まっていた留め金が音を立て、高架線の煤を含んだ風が入ってきた。


「隠し場所がありそうな部屋ではないわね」


「そう見える部屋ほど、調べる価値があります」


「それも兄さまが言いそう」


「いまのは、記者としての経験です」


「同じようなものよ」


 エレノアは壁を軽く叩きながら、室内を見て回った。


 ミラベルは入口から、残されたものを数える。


 古い寝台。


 小さな石炭炉。


 壁へ固定された食器棚。


 床の隅には、犬用の低い木製台。


 管理課の備品目録にも記載された、宿舎備え付けの台だった。退去清掃では動かさず、表面と周囲だけを拭いたと記録されている。


 ブラムは部屋の中央へは進まず、まっすぐその台へ向かった。


 空の金属皿を嗅ぎ、横の床へ伏せる。


「ここが、この子の場所だったのね」


 エレノアが近づく。


 頭へ触れようとして、犬に目だけを向けられた。


「触らないわよ」


 そう言いながら、手を引く。


 ミラベルは台の周辺へしゃがんだ。


 大きな水皿。


 食事用の金属皿。


 壁には、短い鎖を掛ける環。鎖そのものはない。


 台の下へ指を入れると、奥に何か硬いものが触れた。


「動かせますか」


 エレノアと二人で台を少し手前へ引く。


 床と壁の隙間から、細長い木箱が現れた。


 台の陰へ完全に隠れ、正面から覗いただけでは見えない位置だった。


「これなら、清掃した人も気づかない」


 エレノアが言う。


「備品の台を動かしていませんから」


 箱の上には埃が積もっている。蓋の縁だけに、以前開けられたときの擦れが残っていた。


 ミラベルは配置を記してから蓋を開ける。


 中には、同じ大きさの油紙包みが並んでいた。


 どれも同じ形に折られ、紐で一つずつ縛られている。


 エレノアが指で数え始めた。


「一、二、三……」


 ミラベルは一包を持ち上げ、重さを確かめる。


 乾燥肉と押し麦。


 作業犬一頭へ一日に与える量と考えてよさそうだった。


「十一、十二」


 最後の包みで、エレノアの指が止まる。


「十三」


 室内の空気が、わずかに変わった。


 十三包。


 ヨアヒムの正式な退去後、ブラムがこの部屋へ残されていたのも十三日間。


 偶然に同じ数が残ったとは考えにくい。


 だが、その餌は使われていない。


 宿舎の当直員は箱の存在を知らず、共同倉庫の飼料を与えていた。箱は備え付けの台の奥へ隠れたまま、退去清掃にも犬舎移送後の確認にも見つからなかった。


「ヨアヒムさんは、ブラムが十三日間ここへ残ると知っていた?」


 エレノアが尋ねる。


「この包みを用意したのがヨアヒムさんなら」


「ほかに誰が用意するの?」


「まだ分かりません」


「でも、十三日分よ。実際にブラムがここにいた期間と同じ」


「ええ。数は一致しています」


 ミラベルは包みを箱へ戻した。


「少なくとも、誰かが、ブラムをこの部屋で十三日間生かすための餌を用意していた。その餌とは別に宿舎の当直員が給餌したため、包みは使われずに残った」


「ヨアヒムさんは、自分がいなくなったあとを考えていた」


「その可能性があります」


「戻ってくるまでの十三日?」


「それは分かりません」


 ミラベルは木箱を見る。


「犬舎へ移されるまでの期間を知っていたのかもしれない。誰かが迎えに来るまでと考えていたのかもしれない。単に十三日後までしか用意できなかった可能性もあります」


「でも、自分の意思で遠くへ転居する人が、犬を部屋へ残して、餌だけ隠しておく?」


「普通とは言いにくいですね」


 鉄道局へ正式に返還するなら、部屋へ餌を残す必要はない。


 西部港湾都市へ連れていくつもりなら、犬舎移送の手続自体が不要である。


 十三包の餌は、転居記録と正面から矛盾してはいない。


 だが。


 ヨアヒムが書類どおりに、すべてを整えて街を去ったという説明へ、初めて小さなずれを生んでいた。


「この箱は、そのままにしておきましょう」


「持って帰らないの?」


「発見場所と状態を宿舎管理課へ報告します。誰が用意したか調べるまでは、勝手に動かせません」


 ブラムは二人の会話に反応せず、前脚へ顎を置いて入口を見つめていた。


 餌の箱ではない。


 かつてヨアヒムが使っていた机でもない。


 誰かが扉から戻ってくるのを待つように。


 エレノアも、その視線へ気づいた。


「この子は、本当に十三日間、ここで待っていたのね」


「十三日間ここにいたことは、記録されています」


「待っていたことは?」


 ミラベルは答えなかった。


 待つ者は、戻らないという事実よりも、次の瞬間には戻るかもしれないという可能性に長く縛られる。


 黒鴉館の階段へ耳を澄ませた夜を思い出す。


 足音が上がってくるのではないか。


 扉が開くのではないか。


 空の椅子へ、何事もなかったように誰かが戻るのではないか。


 だからこそ。


 ブラムの姿へ、自分の望みを重ねてはいけなかった。


「ほかに残っているものを探しましょう」


 食器棚。


 炉の下。


 寝台の隙間。


 窓枠。


 生活用品はほとんど残されていない。


 台所には欠けたカップが一つ。


 石炭入れには数個の燃料。


 窓際には、乾いた植物の鉢。


 どれも、失踪や犯罪を示すものではなかった。


 エレノアが入口脇の収納戸を開けた。


「ミラベル」


 中には、厚い外套が一着だけ残されていた。


 鉄道保守員用の暗灰色の外套。


 肩はドワーフの体格に合わせて広く、襟元には地下線保守主任の徽章を外した跡がある。袖口には長年の油染み。裾には乾いた泥が付着していた。


 ほかの衣服は、すべてなくなっている。


「これだけ置き忘れた?」


「厚手です。季節によっては、西部へ持っていく必要がなかったのかもしれません」


「でも、三十年以上着た仕事着でしょう?」


「そう見えます」


 エレノアは外套の内側を調べた。


 ポケットは空。


 隠し物もない。


 裏地に名前が縫い取られている。


 J・ベルナー。


「本人のものね」


「少なくとも、そう記名されています」


「ブラムへ嗅がせましょう」


 エレノアは外套を持ち、犬の前へしゃがんだ。


「ブラム。ヨアヒムさんよ」


 袖を鼻先へ近づける。


 ブラムは顔を上げ、一度、ゆっくり匂いを吸った。


 袖口。


 襟。


 胸元。


 知っている匂いを確認するように嗅いだあと、再び前脚へ顎を置く。


 興奮しない。


 立ち上がらない。


 エレノアが外套を少し動かした。


「ブラム。探して」


 犬は目だけを向けた。


「ヨアヒムさんのところへ案内して」


 ブラムは顔を背けた。


「また無視した」


「命令が分からないのかもしれません」


「鉄道保守犬よ。追跡訓練くらい受けているでしょう」


「匂いを知らないわけではなさそうです」


 ミラベルは外套を受け取った。


 長年ともに暮らした主人の外套である。実際、ブラムはその匂いを確かめた。


 だが、追跡を始めなかった。


 匂いが古すぎる。


 外へ続く痕跡がない。


 その命令を追跡の合図として理解していない。


 あるいは。


 ブラムがこの部屋に残った理由は、主人の匂いを追うことではなかった。


 どの仮説にも、まだ証拠はない。


 ミラベルが外套を収納へ戻そうとした、そのとき。


 窓の外で、低い汽笛が鳴った。


 夜間貨物線の、長く沈んだ音。


 高架の鉄骨を震わせ、宿舎の壁へ伝わり、部屋の空気をわずかに揺らす。


 ブラムの頭が上がった。


 それまでの静けさが、一瞬で消える。


 耳が前へ向き、鼻先が窓のほうを向いた。


 もう一度。


 今度は短い汽笛。


 間を置いて。


 さらに、細く一度。


 ブラムが立ち上がった。


「反応した」


 エレノアの声が低くなる。


 犬は窓へは行かなかった。


 扉を見る。


 次に、ミラベルを見る。


 外套を嗅がせたときとは、明らかに違った。身体の重心が前へ移り、すぐに動ける姿勢になっている。


 首輪の金具が、小さく鳴った。


「ブラム?」


 エレノアが革紐へ手を伸ばす。


 犬は一歩下がった。


 敵意ではない。


 ただ、捕まることを避けている。


「待って」


 ミラベルがエレノアを制した。


「でも、逃げるわ」


「いままで逃げませんでした」


 ミラベルはブラムの前へしゃがんだ。


 命令しない。


 外套を差し出さない。


 行き先を決めつけない。


 ただ、犬の目を見る。


「どこへ行きたいの?」


 ブラムは答えない。


 しばらくミラベルを見返したあと、扉へ向かった。


 一度も迷わず。


 前脚で扉を押す。半開きになった隙間へ大きな身体を滑り込ませ、廊下へ出る。


「ブラム!」


 エレノアが追った。


 犬は階段を駆け下りる。重い足音が宿舎へ響いた。


 ミラベルは外套を収納戸へ戻し、部屋を飛び出す。


「エレノア、待って!」


「待っていたら見失う!」


「階段で走らないで!」


「犬に言って!」


 階下で玄関扉が開いた。


 冷たい外気が吹き上がる。


 二人が建物を出ると、ブラムは路地の端に立っていた。


 高架線の向こう。


 汽笛の消えた方角を見ている。


 夕暮れはすでに夜へ変わり、蒸気灯が一つずつ灯り始めていた。


 ブラムは二人が追いついたことを確かめるように振り返る。


 そして、走り出した。


 主人の外套には反応しなかった犬が。


 名も番号も分からない夜の汽笛に導かれるように。


 煤煙の街へ駆けていく。


 ミラベルは手帳を外套のポケットへ押し込み、そのあとを追った。


 いま確認できた事実は、三つ。


 ブラムは、ヨアヒムの正式な退去後も十三日間、あの部屋へ残されていた。


 その十三日間と同じ数の餌が、誰にも使われないまま隠されていた。


 そして、主人の匂いを知りながら追おうとしなかった犬が、夜間列車の汽笛を聞いた瞬間、待つことをやめた。


 それが何を意味するのか。


 まだ答えはない。


 だが、少なくとも。


 ブラムが待っていたものは、主人が扉から帰ってくることだけではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。