第2節 ― 失踪していない男
環状鉄道局の記録棟では、人間よりも書類のほうが速く移動していた。
天井を這う真鍮管の中を、圧縮空気が絶え間なく走っている。短い汽笛に似た音。弁の開く乾いた響き。壁際の受信箱が震え、巻かれた記録票を収めた金属筒を吐き出す。
書記が筒を拾い、封印番号を照合し、別の机へ運ぶ。その間にも、次の筒が到着した。
鉄道局は、人と貨物だけでなく、その人間がいつ働き、どこへ移り、いくら受け取ったのかまで、路線のように分けて管理している。
ミラベルたちが通された閲覧室にも、三本の伝送管が伸びていた。
人事記録課。
宿舎管理課。
鉄道会計局。
同じ一人の男について調べるために、三つの部署へ別々の照会を出さなければならない。
グレアムは最後の申請書へ署名し、ペンをインク壺へ戻した。
「これだから鉄道局は嫌いなんだ」
エレノアは、まだ白い欄の残る紙を覗き込む。
「警部。署名する場所を一つ飛ばしています」
「分かっとる」
「そこではなく、その下です」
「分かっとると言っただろう」
グレアムは紙を引き戻し、もう一度ペンを取った。
閲覧室の扉の外では、ブラムが伏せている。保守犬であっても記録棟の内部へは入れない規則らしく、扉の下の隙間から黒い前脚だけが見えていた。
制服姿の鉄道員が廊下を通るたび、爪の先がわずかに動く。
だが、吠えはしない。
ミラベルは扉の下へ目を向けてから、手元の記録用紙へ戻った。
最上段には、すでに名前を書いてある。
ヨアヒム=ベルナー。
その下に、確認すべき項目を並べていた。
鉄道局での身分。
ブラムの飼育登録。
退職の有無。
届け出られた転居先。
退職後、本人を直接確認した記録。
「本当に、犬から飼い主を調べることになるとは思いませんでした」
ミラベルが言うと、エレノアは椅子の背に掛けていた帽子へ指を置いた。
「首輪には兄さまの事務所が書いてあった。椅子も知っていたわ」
「ええ。レオンさんと関係がある可能性はあります」
「可能性だけ?」
「それ以上は、まだ確認できていません」
エレノアは口元を引き結んだが、反論はしなかった。
ブラムが空の椅子へ鼻を寄せた瞬間、ミラベルの胸の奥でも、固く閉じていたものがわずかに動いた。
だからこそ、願いと事実を分けなければならない。
鋭い空気音が響き、左端の受信箱が震えた。
「人事記録課からです」
書記が金属筒を開き、グレアムへ渡す。
中から出てきた複写紙には、ヨアヒムの顔写真と職員番号が印刷されていた。
写真の中のドワーフは、濃い眉の下から真っ直ぐ正面を見ている。保守用の厚い上着。胸には地下線主任の徽章。頭髪と髭には白いものが混じっていた。
グレアムが記載欄を読む。
「ヨアヒム=ベルナー。五十九歳。ドワーフ族。環状鉄道地下線保守主任。在職三十二年と七か月」
別紙には、鉄道保守犬の登録記録が添付されていた。
黒鋼坑道犬。
雄。
六歳。
登録名、ブラム。
訓練責任者および管理者、ヨアヒム=ベルナー。
真鍮章の登録番号とも一致している。
「ブラムの主人は、ヨアヒム=ベルナーで間違いありません」
ミラベルが記すと、グレアムが登録票の更新欄を指でなぞった。
最後の検印は、ひと月ほど前。
管理者退職に伴い、東部保守機関庫犬舎にて継続飼育。
「退職後、ブラムは鉄道局へ戻されている」
「それなのに、首輪にはクラウス事務所の住所が残っていた」
エレノアが言う。
「正式な飼育登録とは別に刻まれたものですね」
「ヨアヒムさんが刻んだのかしら」
「可能性はあります。でも、いまは確認できません」
二本目の伝送管が鳴った。
宿舎管理課から届いたのは、転居届、鍵の返却票、退去確認書だった。
いずれも正式な書式で、受付印も検印も所定の位置にある。転居届にはヨアヒム本人の署名があり、新しい居住先として西部港湾都市が記されていた。
その二日後に宿舎の鍵が返され、室内の明け渡しも確認されている。
「引っ越したことになっている」
エレノアが言った。
「転居届が受理され、宿舎も正式に退去済みだ」
グレアムが訂正する。
「本人を見た人は?」
「この書類からは分からん」
ミラベルは署名欄へ拡大鏡を置いた。
太く角張った文字。古い保守犬登録票に残る署名と比べても、傾きや線の止め方に目立った違いはない。
「少なくとも、すぐに偽署名とは判断できません。正確な鑑定には原本が必要です」
「本物かもしれないのね」
「ええ」
「本物なら、本人が転居したことになる?」
「署名が本物であることと、書類に記されたとおり本人が移動したことは、別です」
エレノアは少し考え、紙へ視線を戻した。
三本目の伝送管が鳴る。
会計局から届いたのは、退職金支払証明書だった。
長年の勤務に対する退職金。未使用休暇の精算。地下保守危険手当の最終支給。
金額は正確に計算され、指定口座への振り込みも成立している。その三日後、全額が引き出されていた。
「本人が受け取ったの?」
「ヨアヒムさんの口座へ入ったことは確かです」
ミラベルは答えた。
「でも、誰が引き出したかは、この記録にはありません」
グレアムが銀行の検印を指で叩く。
「警察照会を出せば、窓口記録と受領伝票は取れる」
「では、出してください」
「出せん」
エレノアが顔を上げた。
「どうして?」
「事件番号がない」
グレアムは机へ並んだ三系統の記録を順に示した。
「三十二年勤めた鉄道員が、本人の署名入りで退職した」
人事記録。
「転居届を出し、宿舎の鍵を返した」
宿舎記録。
「退職金を受け取り、口座から引き出した」
会計記録。
「鉄道局の台帳上、ヨアヒム=ベルナーは消えておらん。死んでもいない。行方不明にもなっていない。ただ退職し、別の街へ移った男だ」
「でも、ブラムを置いていった」
「犬を残した人間が、全員犯罪に巻き込まれたことになるのか」
「兄さまの事務所を緊急連絡先にしていた」
「その意味が分からん」
「だから、調べればいいでしょう!」
「警察は、分からんことをすべて調べられるわけじゃない」
グレアムは声を荒らげなかった。
そのぶん、言葉の重さが室内へ沈んだ。
「銀行へ照会を出す。転居先の警察へ確認を求める。住居へ立ち入る。鉄道職員を呼び出す。どれも権限が要る」
三行だけの事件記録を取り出し、机の端へ置く。
被害者、なし。
容疑者、なし。
目撃者、一頭。
「その権限は、事件に対して与えられる」
ヨアヒムの記録は見つかった。
だが、見つかった記録は、失踪そのものを否定している。
「事件がないなら、俺たちに捜査権はない」
エレノアが拳を握った。
「事件がないという記録が間違っていたら?」
「間違っている証拠を持ってこい。そうすれば動ける」
「動いて調べないと、証拠が見つからないでしょう」
「だから、俺はここへ来た」
グレアムはミラベルを見た。
エレノアも、遅れて同じ方向を見る。
ミラベルは返事をせず、三系統の書類をもう一度見直した。
退職。
転居。
宿舎退去。
退職金受領。
すべて正式に成立している。いま見える範囲に、改竄の痕跡はない。署名も印章も不自然とは断定できず、時系列にも明らかな破綻はなかった。
それでも。
書類が証明していることには、限界がある。
「退職記録は、ヨアヒムさんの雇用契約が終了したことを証明しています」
ミラベルは人事記録へ指を置いた。
「宿舎記録は、転居届が受理され、鍵が返却されたことを証明する」
次に、会計記録。
「支払証明は、退職金が口座へ入ったことを証明しています」
グレアムの眉がわずかに上がる。
「でも?」
「ヨアヒムさん本人が現在、西部港湾都市で暮らしていることを直接証明する記録は、一つもありません」
エレノアが身を乗り出した。
「転居先の住民登録は?」
「確認には照会か、利害関係者からの正式な申請が要る」
グレアムが答える。
「警察には事件番号が必要だ」
「記者では?」
「記事にするという理由だけでは無理だ」
「私立の記録調査なら?」
グレアムは答えなかった。
ミラベルは、机の端に置いた自分の名刺を見る。
黒鴉館の住所。
その下へ、新しく加えた肩書き。
事件記録・調査相談。
ミラベル=ワトリア。
まだ、その文字を見るたびに落ち着かない。
自分のものというより、仮に預かっている名のように感じる。
だが、看板へ掲げたのは自分だった。
誰かに命じられたからではない。
レオンの代わりになるためでもない。
空いた椅子を埋めずに、それでも届いた声を追うためだった。
ミラベルは名刺を裏返し、白い面へ一行を書く。
ヨアヒム=ベルナー所在確認。
「何をしているの?」
エレノアが尋ねた。
「調査項目を作っています」
「事件ではないんでしょう」
「ええ。警察にとっては」
ミラベルはグレアムを見る。
「事件がないと記録されていること自体を調べます」
「依頼人は誰だ」
扉の外で、首輪の金具が小さく鳴った。
ブラムが身体を起こしたらしい。
「まだ分かりません」
「依頼人も分からずに引き受けるのか」
「緊急時には黒鴉館へ連れていけと、誰かが首輪へ刻みました」
「犬が来ただけだ」
「その犬は、保護された霧燈通り十三番地へ、警察署を抜け出してまで戻ってきた」
グレアムは口を閉じた。
「少なくとも、誰かはブラムが黒鴉館へ届くことを望んでいた」
「ヨアヒム本人とは限らんぞ」
「ええ。それも調べます」
ミラベルは確認済みの項目へ線を引いた。
ブラムの登録管理者――ヨアヒム=ベルナー。
退職、成立。
転居届、成立。
宿舎退去、成立。
退職金支給、成立。
その下へ、未確認の項目を書く。
転居先での居住実態。
退職後に本人を直接見た者。
ブラムを残した理由。
首輪へ緊急連絡先を刻んだ人物。
「記録を疑う理由は、まだ犬一頭だけだぞ」
グレアムが言った。
「十分だとは言いません」
ミラベルは答える。
「いまあるのは疑問です。証拠ではありません」
「それでも調べるの?」
エレノアが尋ねた。
「疑問を証拠に変えられるか、確かめます」
扉を開けると、ブラムはすでに立っていた。
廊下の向こうでは、制服姿の鉄道員たちが行き交っている。ブラムは彼らを目で追いながら、低く鼻を鳴らした。
ミラベルは隣へしゃがむ。
「ヨアヒム=ベルナー」
名を告げると、ブラムの耳だけがこちらへ向いた。
答えはない。
当然だった。
犬は署名を照合しない。退職日も、転居先も、口座から引き出された金額も知らない。
けれど、人間の書類がどれほど整っていても、ブラムが主人の転居先ではなく、黒鴉館へ戻ったという事実は残っている。
「記録に残っている住居を確認しましょう」
ミラベルが立ち上がる。
グレアムは帽子をかぶった。
「俺は同行できんぞ」
「捜査ではないから?」
「そうだ」
「では、私たちだけで行きます」
「無茶はするな」
エレノアが眉を上げる。
「私に言っています?」
「二人に言っとる」
「ブラムも入れて三人です」
「犬を人数へ入れるな」
先に歩き出したブラムが振り返った。
グレアムはその静かな視線を受け、顔をしかめる。
「……三人ともだ」
エレノアが満足そうに扉を抜ける。
ミラベルは最後に閲覧室を振り返った。
三つの部署から届いた書類が、整然と机へ並んでいる。
どの紙も。
ヨアヒム=ベルナーは自分の意思でヴェルム=クロウを去ったと語っていた。
だから記録上、彼は失踪していない。
警察が探すべき男でもない。
ただの退職者。
ただの転居者。
それでも。
その男が残した犬だけが、西部港湾都市ではなく、死んだ探偵の事務所へ帰ってきた。
いま確かめるべきなのは、書類が偽物かどうかではない。
書類に記された出発のあと。
本当に一人の男が、その道を歩いていったのか。
ミラベルは閲覧室の扉を閉じた。




