↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
192/228

第2節 ― 失踪していない男

 環状鉄道局の記録棟では、人間よりも書類のほうが速く移動していた。


 天井を這う真鍮管の中を、圧縮空気が絶え間なく走っている。短い汽笛に似た音。弁の開く乾いた響き。壁際の受信箱が震え、巻かれた記録票を収めた金属筒を吐き出す。


 書記が筒を拾い、封印番号を照合し、別の机へ運ぶ。その間にも、次の筒が到着した。


 鉄道局は、人と貨物だけでなく、その人間がいつ働き、どこへ移り、いくら受け取ったのかまで、路線のように分けて管理している。


 ミラベルたちが通された閲覧室にも、三本の伝送管が伸びていた。


 人事記録課。


 宿舎管理課。


 鉄道会計局。


 同じ一人の男について調べるために、三つの部署へ別々の照会を出さなければならない。


 グレアムは最後の申請書へ署名し、ペンをインク壺へ戻した。


「これだから鉄道局は嫌いなんだ」


 エレノアは、まだ白い欄の残る紙を覗き込む。


「警部。署名する場所を一つ飛ばしています」


「分かっとる」


「そこではなく、その下です」


「分かっとると言っただろう」


 グレアムは紙を引き戻し、もう一度ペンを取った。


 閲覧室の扉の外では、ブラムが伏せている。保守犬であっても記録棟の内部へは入れない規則らしく、扉の下の隙間から黒い前脚だけが見えていた。


 制服姿の鉄道員が廊下を通るたび、爪の先がわずかに動く。


 だが、吠えはしない。


 ミラベルは扉の下へ目を向けてから、手元の記録用紙へ戻った。


 最上段には、すでに名前を書いてある。


 ヨアヒム=ベルナー。


 その下に、確認すべき項目を並べていた。


 鉄道局での身分。


 ブラムの飼育登録。


 退職の有無。


 届け出られた転居先。


 退職後、本人を直接確認した記録。


「本当に、犬から飼い主を調べることになるとは思いませんでした」


 ミラベルが言うと、エレノアは椅子の背に掛けていた帽子へ指を置いた。


「首輪には兄さまの事務所が書いてあった。椅子も知っていたわ」


「ええ。レオンさんと関係がある可能性はあります」


「可能性だけ?」


「それ以上は、まだ確認できていません」


 エレノアは口元を引き結んだが、反論はしなかった。


 ブラムが空の椅子へ鼻を寄せた瞬間、ミラベルの胸の奥でも、固く閉じていたものがわずかに動いた。


 だからこそ、願いと事実を分けなければならない。


 鋭い空気音が響き、左端の受信箱が震えた。


「人事記録課からです」


 書記が金属筒を開き、グレアムへ渡す。


 中から出てきた複写紙には、ヨアヒムの顔写真と職員番号が印刷されていた。


 写真の中のドワーフは、濃い眉の下から真っ直ぐ正面を見ている。保守用の厚い上着。胸には地下線主任の徽章。頭髪と髭には白いものが混じっていた。


 グレアムが記載欄を読む。


「ヨアヒム=ベルナー。五十九歳。ドワーフ族。環状鉄道地下線保守主任。在職三十二年と七か月」


 別紙には、鉄道保守犬の登録記録が添付されていた。


 黒鋼坑道犬。


 雄。


 六歳。


 登録名、ブラム。


 訓練責任者および管理者、ヨアヒム=ベルナー。


 真鍮章の登録番号とも一致している。


「ブラムの主人は、ヨアヒム=ベルナーで間違いありません」


 ミラベルが記すと、グレアムが登録票の更新欄を指でなぞった。


 最後の検印は、ひと月ほど前。


 管理者退職に伴い、東部保守機関庫犬舎にて継続飼育。


「退職後、ブラムは鉄道局へ戻されている」


「それなのに、首輪にはクラウス事務所の住所が残っていた」


 エレノアが言う。


「正式な飼育登録とは別に刻まれたものですね」


「ヨアヒムさんが刻んだのかしら」


「可能性はあります。でも、いまは確認できません」


 二本目の伝送管が鳴った。


 宿舎管理課から届いたのは、転居届、鍵の返却票、退去確認書だった。


 いずれも正式な書式で、受付印も検印も所定の位置にある。転居届にはヨアヒム本人の署名があり、新しい居住先として西部港湾都市が記されていた。


 その二日後に宿舎の鍵が返され、室内の明け渡しも確認されている。


「引っ越したことになっている」


 エレノアが言った。


「転居届が受理され、宿舎も正式に退去済みだ」


 グレアムが訂正する。


「本人を見た人は?」


「この書類からは分からん」


 ミラベルは署名欄へ拡大鏡を置いた。


 太く角張った文字。古い保守犬登録票に残る署名と比べても、傾きや線の止め方に目立った違いはない。


「少なくとも、すぐに偽署名とは判断できません。正確な鑑定には原本が必要です」


「本物かもしれないのね」


「ええ」


「本物なら、本人が転居したことになる?」


「署名が本物であることと、書類に記されたとおり本人が移動したことは、別です」


 エレノアは少し考え、紙へ視線を戻した。


 三本目の伝送管が鳴る。


 会計局から届いたのは、退職金支払証明書だった。


 長年の勤務に対する退職金。未使用休暇の精算。地下保守危険手当の最終支給。


 金額は正確に計算され、指定口座への振り込みも成立している。その三日後、全額が引き出されていた。


「本人が受け取ったの?」


「ヨアヒムさんの口座へ入ったことは確かです」


 ミラベルは答えた。


「でも、誰が引き出したかは、この記録にはありません」


 グレアムが銀行の検印を指で叩く。


「警察照会を出せば、窓口記録と受領伝票は取れる」


「では、出してください」


「出せん」


 エレノアが顔を上げた。


「どうして?」


「事件番号がない」


 グレアムは机へ並んだ三系統の記録を順に示した。


「三十二年勤めた鉄道員が、本人の署名入りで退職した」


 人事記録。


「転居届を出し、宿舎の鍵を返した」


 宿舎記録。


「退職金を受け取り、口座から引き出した」


 会計記録。


「鉄道局の台帳上、ヨアヒム=ベルナーは消えておらん。死んでもいない。行方不明にもなっていない。ただ退職し、別の街へ移った男だ」


「でも、ブラムを置いていった」


「犬を残した人間が、全員犯罪に巻き込まれたことになるのか」


「兄さまの事務所を緊急連絡先にしていた」


「その意味が分からん」


「だから、調べればいいでしょう!」


「警察は、分からんことをすべて調べられるわけじゃない」


 グレアムは声を荒らげなかった。


 そのぶん、言葉の重さが室内へ沈んだ。


「銀行へ照会を出す。転居先の警察へ確認を求める。住居へ立ち入る。鉄道職員を呼び出す。どれも権限が要る」


 三行だけの事件記録を取り出し、机の端へ置く。


 被害者、なし。


 容疑者、なし。


 目撃者、一頭。


「その権限は、事件に対して与えられる」


 ヨアヒムの記録は見つかった。


 だが、見つかった記録は、失踪そのものを否定している。


「事件がないなら、俺たちに捜査権はない」


 エレノアが拳を握った。


「事件がないという記録が間違っていたら?」


「間違っている証拠を持ってこい。そうすれば動ける」


「動いて調べないと、証拠が見つからないでしょう」


「だから、俺はここへ来た」


 グレアムはミラベルを見た。


 エレノアも、遅れて同じ方向を見る。


 ミラベルは返事をせず、三系統の書類をもう一度見直した。


 退職。


 転居。


 宿舎退去。


 退職金受領。


 すべて正式に成立している。いま見える範囲に、改竄の痕跡はない。署名も印章も不自然とは断定できず、時系列にも明らかな破綻はなかった。


 それでも。


 書類が証明していることには、限界がある。


「退職記録は、ヨアヒムさんの雇用契約が終了したことを証明しています」


 ミラベルは人事記録へ指を置いた。


「宿舎記録は、転居届が受理され、鍵が返却されたことを証明する」


 次に、会計記録。


「支払証明は、退職金が口座へ入ったことを証明しています」


 グレアムの眉がわずかに上がる。


「でも?」


「ヨアヒムさん本人が現在、西部港湾都市で暮らしていることを直接証明する記録は、一つもありません」


 エレノアが身を乗り出した。


「転居先の住民登録は?」


「確認には照会か、利害関係者からの正式な申請が要る」


 グレアムが答える。


「警察には事件番号が必要だ」


「記者では?」


「記事にするという理由だけでは無理だ」


「私立の記録調査なら?」


 グレアムは答えなかった。


 ミラベルは、机の端に置いた自分の名刺を見る。


 黒鴉館の住所。


 その下へ、新しく加えた肩書き。


 事件記録・調査相談。


 ミラベル=ワトリア。


 まだ、その文字を見るたびに落ち着かない。


 自分のものというより、仮に預かっている名のように感じる。


 だが、看板へ掲げたのは自分だった。


 誰かに命じられたからではない。


 レオンの代わりになるためでもない。


 空いた椅子を埋めずに、それでも届いた声を追うためだった。


 ミラベルは名刺を裏返し、白い面へ一行を書く。


 ヨアヒム=ベルナー所在確認。


「何をしているの?」


 エレノアが尋ねた。


「調査項目を作っています」


「事件ではないんでしょう」


「ええ。警察にとっては」


 ミラベルはグレアムを見る。


「事件がないと記録されていること自体を調べます」


「依頼人は誰だ」


 扉の外で、首輪の金具が小さく鳴った。


 ブラムが身体を起こしたらしい。


「まだ分かりません」


「依頼人も分からずに引き受けるのか」


「緊急時には黒鴉館へ連れていけと、誰かが首輪へ刻みました」


「犬が来ただけだ」


「その犬は、保護された霧燈通り十三番地へ、警察署を抜け出してまで戻ってきた」


 グレアムは口を閉じた。


「少なくとも、誰かはブラムが黒鴉館へ届くことを望んでいた」


「ヨアヒム本人とは限らんぞ」


「ええ。それも調べます」


 ミラベルは確認済みの項目へ線を引いた。


 ブラムの登録管理者――ヨアヒム=ベルナー。


 退職、成立。


 転居届、成立。


 宿舎退去、成立。


 退職金支給、成立。


 その下へ、未確認の項目を書く。


 転居先での居住実態。


 退職後に本人を直接見た者。


 ブラムを残した理由。


 首輪へ緊急連絡先を刻んだ人物。


「記録を疑う理由は、まだ犬一頭だけだぞ」


 グレアムが言った。


「十分だとは言いません」


 ミラベルは答える。


「いまあるのは疑問です。証拠ではありません」


「それでも調べるの?」


 エレノアが尋ねた。


「疑問を証拠に変えられるか、確かめます」


 扉を開けると、ブラムはすでに立っていた。


 廊下の向こうでは、制服姿の鉄道員たちが行き交っている。ブラムは彼らを目で追いながら、低く鼻を鳴らした。


 ミラベルは隣へしゃがむ。


「ヨアヒム=ベルナー」


 名を告げると、ブラムの耳だけがこちらへ向いた。


 答えはない。


 当然だった。


 犬は署名を照合しない。退職日も、転居先も、口座から引き出された金額も知らない。


 けれど、人間の書類がどれほど整っていても、ブラムが主人の転居先ではなく、黒鴉館へ戻ったという事実は残っている。


「記録に残っている住居を確認しましょう」


 ミラベルが立ち上がる。


 グレアムは帽子をかぶった。


「俺は同行できんぞ」


「捜査ではないから?」


「そうだ」


「では、私たちだけで行きます」


「無茶はするな」


 エレノアが眉を上げる。


「私に言っています?」


「二人に言っとる」


「ブラムも入れて三人です」


「犬を人数へ入れるな」


 先に歩き出したブラムが振り返った。


 グレアムはその静かな視線を受け、顔をしかめる。


「……三人ともだ」


 エレノアが満足そうに扉を抜ける。


 ミラベルは最後に閲覧室を振り返った。


 三つの部署から届いた書類が、整然と机へ並んでいる。


 どの紙も。


 ヨアヒム=ベルナーは自分の意思でヴェルム=クロウを去ったと語っていた。


 だから記録上、彼は失踪していない。


 警察が探すべき男でもない。


 ただの退職者。


 ただの転居者。


 それでも。


 その男が残した犬だけが、西部港湾都市ではなく、死んだ探偵の事務所へ帰ってきた。


 いま確かめるべきなのは、書類が偽物かどうかではない。


 書類に記された出発のあと。


 本当に一人の男が、その道を歩いていったのか。


 ミラベルは閲覧室の扉を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。