第1節 ― 一頭の目撃者
グレアム警部が机へ置いた事件記録は、ひどく薄かった。
ミラベルがこれまで見た事件記録には、少なくとも表紙と受付票と概要書があった。
被害者の氏名。発生場所。通報時刻。担当部署。現場へ到着した警官の名。
まだ何も分からない事件であっても、分からないという事実を記録するために、何枚もの紙が使われる。
だが、目の前の記録には一枚しかなかった。
表紙すらない。
折り目の付いた灰色の紙に、市警の受付印が一つ。その下へ、三行。
被害者、なし。
容疑者、なし。
目撃者、一頭。
エレノアが、帽子を脱ぎかけた姿勢で止まった。
「一頭?」
ミラベルも紙から顔を上げる。
「一名ではなく?」
「書き間違いじゃない」
グレアムは外套の前を開き、応接椅子へ重く腰を下ろした。煤霧の冷気と、雨に濡れた革の匂いが室内へ入り込む。
帽子を膝へ載せたあと、机の向こうにある空の革張り椅子へ、一度だけ目をやった。
以前ならば、そこにはレオンがいた。
依頼人の言葉より先に、持ち込まれた紙の繊維を見て。グレアムが説明を終えるより先に、事件記録の不備を三つほど指摘していた。
いま、その椅子には誰もいない。
暖炉の火だけが、空の背凭れへ細い光を揺らしている。
ミラベルはレオンの机ではなく、その横に置かれた自分の記録机へ座った。
「警部。事件記録なら、もう少し事件らしく書いてください」
「事件らしいことが一つもないから、こうなっとる」
「被害者がいないなら、何が起きたんです?」
「分からん」
「容疑者もいない」
「分からん」
「それで、目撃者だけがいる?」
「正確には、何かを見た可能性がある一頭だ」
グレアムの太い眉が寄った。
「だが、そんなものを受付票へ書いたら、書記官が俺を医者へ回す」
「いまの三行でも、十分その可能性がありますけど」
エレノアが事件記録を摘み上げ、灯りへ透かした。裏返し、市警印の形を確かめる。
「偽物ではないわね」
「俺が持ってきた書類を、毎回そこから疑うな」
「兄さまなら疑うでしょう?」
「お前の兄なら、俺の顔を見た時点で面倒事だと断定しとる」
「そこは私も同意します」
「ワトリア嬢まで乗るな」
そのとき。
一階から、椅子を引きずる音が響いた。
続いて、食器の触れ合う硬い音。何か重いものが、煤鳩亭の木床を踏む鈍い足音。
グレアムが階段のほうを見る。
エレノアも事件記録から顔を上げた。
足音は、人間のものではなかった。
四つの重い足が、一歩ずつ床を踏むたび、食器棚の硝子がかすかに震える。
直後。
「誰だい、こんな大きな犬を店へ入れたのは!」
マルタの怒鳴り声が、階段を突き抜けてきた。
グレアムが額を押さえる。
「来たか」
「来た?」
ミラベルが立ち上がった。
「警部。まさか」
「三行目だ」
階段の下から、低い息遣いが聞こえた。
爪が木の段を打つ。
一段。
また一段。
急がず、迷わず。まるで以前にも上ったことがあるかのような足取りだった。
最初に見えたのは、大きな黒い頭だった。
続いて、煤に汚れた肩。
体高はドワーフの腰ほどもある。全身を硬い黒毛に覆われ、胸元にだけ灰白色の毛が広がっている。
雨に濡れた毛から、鉄錆と機関油と地下水の匂いがした。
犬は踊り場で止まった。
背後から、木製の盆を盾のように構えたマルタが上がってくる。
「バルトラム」
「俺を見るな」
「あんた以外に、こんなのを店へ寄越す警官がいるのかい」
「寄越しとらん。勝手に戻ってきた」
「戻ってきた?」
「夜明け前、霧燈通り十三番地の前に伏せていたところを、巡回員が保護した。署の裏庭へ繋いでおいたんだがな」
犬の首輪には、市警で付けられた短い麻縄が結ばれていた。端は濡れ、繊維がほつれている。
「噛み切ったんですか?」
ミラベルが縄を見る。
グレアムは首を振った。
「結び目を抜いたらしい。俺がここへ来たあと、署を抜け出して、また十三番地まで戻ってきた」
エレノアの目が輝いた。
「賢いのね」
「感心するところじゃないよ」
マルタが盆の縁で犬を指す。
「それで、こいつは客なのかい。警察犬なのかい。それとも、あんたの新しい部下なのかい」
犬はマルタを見た。
吠えない。
唸りもしない。
ただ、盆の向こうにいる小柄な女主人を静かに観察している。
マルタも見返した。
「……妙に礼儀正しいね」
「店へ入れても?」
「泥を落としてからだよ」
犬は前脚を一歩進めた。
マルタが盆を上げる。
「聞こえなかったのかい」
犬は止まり、大きな頭をわずかに下げた。
マルタの眉が動く。
「聞き分けまでいいのかい。余計に腹が立つね」
ミラベルは犬の首元へ目を向けた。
厚い革の首輪。長く使われ、表面には細かな傷が走っている。正面には、煤で黒ずんだ真鍮章が付いていた。
円形の章には、交差する鉄槌と線路。その下に、坑道灯を模した刻印。
ミラベルが近づこうとすると、犬の耳がこちらへ向いた。目だけが動く。
黒に近い、落ち着いた瞳だった。
「鉄道の犬ですか?」
グレアムが頷く。
「保守犬の章だ。鉱山と地下線で使われる」
「警察犬ではないんですね」
「警察犬なら、もう少し俺の言うことを聞く」
エレノアが横から犬の前へ出た。
腰を屈め、手を差し出す。
「おいで」
犬は動かない。
「大丈夫。怖くないわ」
犬はエレノアの手を一度嗅いだ。それから顔を背けた。
「ちょっと」
「嫌われたんじゃないか」
「警部は黙っていてください」
ミラベルは犬の姿を上から下まで確かめた。
痩せてはいない。長く放浪していたような衰弱もない。
しかし、毛には異なる汚れが付着していた。
右の前脚には、黒く粘る油煤。
左の脇腹には、乾いた赤茶色の煤。
後脚の外側には、灰色の細かな粉。
脚の下半分は、黒い水に濡れている。
三つの汚れが同じ場所で付いたものか、別々の場所を歩いた結果なのかは分からない。鉄道施設を歩いた犬なら、油も煤も珍しくはなかった。
それでもミラベルは、色と付着箇所を手帳の余白へ書き留めた。
意味を持つかどうかは、どこで付いたものかを確認してから判断すればよい。
「首輪を見てもいい?」
犬へ向けて尋ねる。
返事はない。
だが、犬は顔を背けなかった。
ミラベルは横からゆっくり手を伸ばし、首輪の真鍮章を持ち上げた。冷たい表面の煤を親指で拭う。
鉄道保守犬章の下に、小さな登録文字があった。
ブラム。
「名前でしょうか」
「登録名だろうな」
グレアムが答える。
「ブラム」
ミラベルが呼ぶと、犬の耳が動いた。瞳が、まっすぐ彼女へ向く。
「少なくとも、名前は合っていますね」
エレノアが身を乗り出した。
「それだけ?」
「いま断定できるのは、それだけです」
ミラベルは章の裏側に指を掛けた。革と金属の間に、何か硬いものが触れる。
「警部。首輪の内側は見ましたか?」
「章と登録番号だけだ」
ミラベルは金具を傷めないように革を返した。
内側へ、小さな文字が刻まれている。煤と皮脂に埋もれ、一見しただけでは分からない。
エレノアが机から拡大鏡を取った。
レオンの鑑定用だった。
手にした瞬間だけ空の椅子を見たが、何も言わずミラベルへ渡す。
ミラベルも何も言わず受け取った。
暖炉の光へ首輪を向け、文字を一つずつ読む。
「緊急時」
グレアムとマルタも近づいた。
「霧燈通り十三番地」
最後の行。
「クラウス記録調査事務所へ」
部屋から音が消えた。
暖炉で薪が崩れる。
窓の外を走る高架鉄道の振動が、硝子を細かく鳴らした。
エレノアが犬を見る。
「この子は、ここへ来るよう教えられていた」
「少なくとも、首輪を作った人物は、この事務所を緊急時の行先に指定しています」
エレノアは一歩、ブラムへ近づいた。
「兄さまが教えたのかもしれない」
ミラベルは答えなかった。
ブラムは二人の会話に反応せず、鼻を上げた。
暖炉。本棚。濡れたグレアムの外套。マルタの木の盆。ミラベルの机。エレノアの帽子。
部屋の空気を順に確かめるように、ゆっくりと顔を動かす。
やがて、エレノアの脇を通り過ぎた。
ミラベルの横を抜け、机の向こうへ進む。
犬が向かったのは、空の革張り椅子だった。
レオン=クラウスが使っていた椅子。
ブラムは椅子の脚を嗅いだ。
座面の縁。
片方の肘掛け。
そこへ鼻先を押し当てたまま、しばらく動かなかった。
エレノアが息を呑む。
「知っている」
ブラムは椅子の前で一度だけ身体を回り、床へ伏せた。前脚へ顎を載せる。
そこに座る者が戻るまで、待つように。
「この子、兄さまを知っている」
エレノアの声は小さかった。
期待を壊さないよう、両手で包んでいるような声だった。
ミラベルの胸にも、鋭いものが走った。
犬がレオンの椅子を選んだ。
首輪には、この事務所の住所が刻まれている。
霧燈通り十三番地へ戻ってきた。
それらは事実だった。
しかし、レオンが生きていることも、レオンがブラムを寄越したことも、まだ証明してはいない。
「エレノア」
「分かってる。まだ、兄さまが生きている証拠じゃない」
ブラムから目を離さないまま、エレノアが答えた。
ミラベルは事件記録の横へ新しい紙を置く。
「ただ、この犬と事務所の間に関係があることは記録できます」
一行目へ犬の名を書く。
ブラム。
二行目。
黒鋼坑道犬。鉄道保守犬章を装着。
三行目。
首輪内側に緊急連絡先――霧燈通り十三番地、クラウス記録調査事務所。
四行目。
右前脚に黒い油煤。左脇腹に赤茶色の煤。後脚に灰色の細粉。
五行目。
レオン=クラウス使用の椅子を嗅ぎ、その前へ伏せる。
ミラベルはペンを置いた。
「いま分かっていることは、ここまでです」
「では、次は?」
エレノアが尋ねる。
「この首輪へ住所を刻んだ人物。刻まれた時期。ブラムが今朝までに歩いた経路」
ミラベルは椅子の前へ伏せる犬を見る。
「そして、この犬の主人です」
グレアムが低く息を吐いた。
「やはり、そこからか」
「警部は飼い主を知っているんですね」
「名前だけはな」
エレノアがすぐに振り返る。
「誰です?」
グレアムは事件記録を指で叩いた。
「そこから先は、鉄道局の記録を開かんと説明できん」
「では開いてください」
「簡単に言うな。退職者記録、保守犬登録、転居記録、宿舎台帳が別々の部署だ」
「同じ鉄道局でしょう?」
「同じ鉄道局だから、別々なんだ」
マルタが鼻を鳴らした。
「役所ってのは、建物が大きいほど隣の部屋が遠いからね」
ミラベルは最初の紙へ目を戻した。
被害者、なし。
容疑者、なし。
目撃者、一頭。
三行目に書かれた存在は、いま彼女たちの前にいる。
だが、言葉を持たない目撃者の行動は、問い方次第でどんな意味にも読み替えられてしまう。
レオンの生存を願えば、生存の使者に見える。
主人の失踪を疑えば、主人を探す犬に見える。
どちらも、まだ仮説にすぎない。
「まず、犬の主人を確認します」
エレノアが反論しようと口を開く。
ミラベルはその前に続けた。
「この子がレオンさんを知っているとしても、最初に調べるべきなのはレオンさんではありません」
「どうして?」
「ブラムは、レオンさんの犬ではないからです」
空の椅子の前。
ブラムの耳が、遠くで鳴った汽笛へ動いた。
だが、身体は起こさない。
待つように。
あるいは、次の命令を聞き逃さないように。
静かに伏せたままでいる。
ミラベルは最後の一行を書いた。
飼育登録者および現所有者、未確認。
「この子が何を見たのかを知るには」
乾き始めた文字を見つめる。
「まず、誰を待っているのかを知らなくてはいけません」
グレアムが帽子を持ち上げた。
「鉄道局へ行くぞ」
エレノアは、まだレオンの椅子を見ていた。
やがて帽子をかぶり直し、顎紐を結ぶ。
「分かりました」
声には、納得よりも決意があった。
「先に、この犬の主人を見つけます」
ミラベルは訂正しなかった。
見つけられるのか。
生きているのか。
そもそも、どのような意味で探すべき人物なのか。
まだ何も分かっていない。
だからこそ、調べるのだ。
暖炉の火が、空の椅子と、その前に伏せる黒い犬を同じ色に照らしていた。




