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終幕 ― 探偵のいない事務所

 数日後。


 霧燈通り十三番地には、朝から細い雨が降っていた。


 黒鴉館の煤けた煉瓦を濡らし。


 軒先から伸びた蒸気管を白く曇らせ。


 通りに並ぶガス灯の輪郭を、昼だというのに淡く滲ませている。


 二階へ続く外階段の前で。


 ミラベルは、折り畳み式の踏み台へ上っていた。


「もう少し右」


 下からエレノアが言った。


「右?」


「私から見て」


「それでは、私から見れば左でしょう」


「看板を見る人は下にいるのよ。下から見た方が正しいわ」


「取り付けている人間が混乱します」


「では、少しだけレオン兄さまの名前に近づけて」


「最初から、そう言ってください」


 ミラベルは片手で真鍮札の縁を支え。


 もう一方の手に持った小さなねじ回しを動かした。


 古い金文字の看板。


> レオン=クラウス

> 私立探偵・記録鑑定請負


 十三週間あまり。


 その名前には、細い黒布が掛けられていた。


 死亡を認めるためではない。


 不在を示すための布。


 正式に事務所を閉ざし。


 依頼人を断り。


 それでも看板そのものを下ろさずにいるための、曖昧な印だった。


 ミラベルは今朝。


 黒布を留めていた紐を解いた。


 布は雨に濡れる前に畳み。


 捨てずに、事務所の記録箱へ収めてある。


 レオンが帰れば。


 もう必要のない布になる。


 帰らなければ。


 いつまで保存すべきなのか。


 その答えは、まだない。


 けれど。


 答えがないことと。


 この扉を閉め続けることは、同じではなかった。


 古い看板の下には。


 すでに一枚の小さな真鍮札が取り付けられている。


> 事件記録・調査相談

> ミラベル=ワトリア


 いまミラベルが取り付けているのは。


 その隣へ並べる、もう一枚の札だった。


> 調査補助

> エレノア=クラウス


「そこでいい」


 エレノアが言った。


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんで穴を開けたくありません」


「もう一つ開いてるでしょう」


 二枚目の真鍮札の左端。


 最初にエレノアの指示へ従った結果、位置を誤った小さな穴が残っている。


 ミラベルはそこを見た。


「誰のせいですか」


「黒鴉館が傾いてるせい」


「建物へ責任を転嫁しないでください」


「この建物、実際に少し傾いているわよ」


「聞こえてるよ!」


 一階の窓が開き。


 マルタ=グレインが顔を出した。


「傾いてるのは建物じゃない! あんたたちの目測だ!」


「マルタさん。踏み台を押さえていただけませんか」


「そのために、エレノアがいるんだろう」


「押さえてるわ」


 エレノアは答えた。


 片手には傘。


 もう一方の手には、新聞がある。


 踏み台には指一本触れていない。


「押さえていません」


「倒れそうになったら押さえる」


「倒れる前に押さえてください」


「注文が多いわね」


 エレノアは新聞を脇へ挟み。


 ようやく踏み台へ手を添えた。


 ミラベルは真鍮札の位置を、もう一度確かめる。


 レオンの名前を隠さない。


 上から塗り潰さない。


 自分の名前へ書き換えもしない。


 古い看板の下に。


 それより小さな二枚の札を取り付ける。


 文字は、ギア=ロウの彫金工へ頼んだ。


 レオンの看板ほど目立つ金文字ではない。


 磨きすぎていない真鍮へ。


 読み間違えようのない、簡潔な文字が刻まれている。


 探偵とは書かなかった。


 私立推理士とも。


 記録鑑定士とも書いていない。


 ミラベルは探偵の代わりではない。


 その免許も。


 肩書も。


 レオンと同じ観察眼も持っていない。


 彼女にできるのは。


 事件の記録を読み。


 証言を聞き。


 書かれた言葉と、語られた言葉の間を調べることだった。


 だから。


 できることだけを札へ刻んだ。


 最後のねじを締める。


 真鍮札から手を離す。


 雨粒が表面へ当たり。


 新しい文字の溝へ、小さく光を残した。


「終わりました」


 ミラベルが言った。


「曲がってる」


 エレノアが即座に答えた。


「曲がっていません」


「少し右が下がってる」


「建物が傾いているからでしょう」


「さっき責任を転嫁するなって言ったのは誰?」


 ミラベルは踏み台から降りた。


 数歩離れ。


 看板全体を見る。


 レオン=クラウス。


 私立探偵・記録鑑定請負。


 その下へ。


 二枚の小さな真鍮札。


 二人の名。


 レオンの名は。


 以前と同じ場所にある。


 空席の主として。


 消されずに残されている。


「問題ありません」


 ミラベルが言った。


「私の肩書以外はね」


 エレノアは自分の真鍮札を指した。


「調査補助?」


「そのとおりです」


「相棒ではなく?」


「勝手に潜入しなくなったら、相棒に書き換えます」


「それは永久に無理ね」


「なら永久に補助です」


 エレノアは札を睨んだ。


「潜入前に行き先を教えれば?」


「許可を得てください」


「相談はする」


「相談したあと、止められても行くでしょう」


「必要なら」


「補助です」


「地下昇降機の暗号を解いたのは私よ」


「補助として、非常によい仕事でした」


「監禁室へ入ったのも」


「命令を無視する補助でした」


「ハロルドを助けた」


「そこは感謝しています」


「なら相棒でしょう」


「勝手に一人で行きました」


「途中から縄でつながってたわ」


「途中からです」


 エレノアは。


 もう一度、二枚の真鍮札を見る。


 不満そうな顔をしている。


 けれど。


 自分の名を消そうとはしなかった。


「ねじを外せば、自分で書き換えられる」


「その日のうちに戻します」


「夜中なら?」


「翌朝戻します」


「彫金工へ直接頼んだら?」


「請求書を受け取らないよう、話を通してあります」


「用意がいいわね」


「あなたと仕事をするには、必要です」


 マルタが一階から出てきた。


 片手に籐籠を抱えている。


 上には白い布。


 布の隙間から。


 焼きたての菓子と、焦がし砂糖の匂いが流れた。


「看板を出したなら、雨の中でいつまでも喧嘩してないで、中へ入りな」


「喧嘩ではありません」


 ミラベルが言う。


「役職の交渉よ」


 エレノアが続ける。


「給料も出ない役職で、よく揉められるね」


「給料、出ないの?」


「依頼料が入ったら、経費を整理して考えます」


「補助なのに?」


「補助だからです」


「相棒なら?」


「同じです」


「では、肩書だけ相棒にしてもいいでしょう」


「駄目です」


 マルタは鼻を鳴らし。


 二人より先に階段を上った。


「クラウスがいた頃より、やかましくなったよ」


「兄さまは一人で二人分やかましいわ」


「声を出さずにね」


「それは分かります」


 ミラベルは踏み台を畳み。


 階段脇へ立て掛けた。


 それから。


 二枚の新しい札を、もう一度見上げる。


 雨に濡れた真鍮の中で。


 ミラベル=ワトリア。


 エレノア=クラウス。


 二人の名が。


 レオンの名前の下へ並んでいた。


 上書きではない。


 継承でもない。


 空席を空席のまま残して。


 その下から始めるための名だった。


 二階の扉を開けると。


 部屋には、すでに暖炉の火が入っていた。


 マルタが。


 誰にも頼まれないまま、毎朝続けてきたことだった。


 小さな炎が。


 煤けた暖炉の中で石炭を赤く染めている。


 壁一面の本棚。


 都市地図。


 鉄道時刻表。


 分類された新聞の切り抜き。


 拡大レンズ。


 封蝋の標本。


 事件記録の箱。


 どれも。


 レオンが不在になる前と同じ場所にある。


 部屋の中央には。


 古い革張りの椅子。


 座面には、誰かが座った跡もない。


 机上の煙草盆は空。


 検査レンズは、布を掛けたまま。


 閉じられた筆記具箱。


 革椅子の背もたれだけが。


 窓から入る灰色の光を受けていた。


 ミラベルは。


 椅子へ近づかなかった。


 エレノアも。


 外套を脱いだあと、そこへ腰掛けようとはしない。


 最初の頃は。


 エレノアが勝手に検査レンズを持ち出し。


 机の引き出しを開け。


 椅子へ脚を載せていたこともあった。


 だが。


 いまは。


 革椅子の前を通るとき。


 ほんのわずかに、距離を取った。


 空席は。


 誰かが使用を禁じたのではない。


 二人が、自分で座らないと決めていた。


 マルタは応接用の丸机へ籠を置いた。


 白い布を外す。


 焼き菓子が六つ。


 小麦と蜂蜜。


 刻んだ胡桃。


 表面には、薄く砂糖が焼きついている。


「多くありませんか」


 ミラベルが言った。


「開業祝いだよ」


「再開です」


「探偵は戻ってないだろう」


 マルタは革椅子を見ないまま言った。


「なら、あんたたちの分は開業だ」


「私は、まだ探偵ではありません」


「看板にも書いてないね」


 マルタは真鍮の皿を三枚出した。


 焼き菓子を二つずつ載せる。


 一枚をミラベルへ。


 一枚をエレノアへ。


 残りは自分の前へ置いた。


 空の椅子には。


 皿を置かなかった。


「ちゃんと考えたじゃないか」


 マルタが言う。


「何をですか」


「看板だよ」


 窓の向こう。


 新しい真鍮札は、室内からは見えない。


 けれど。


 階段を上がってくる者は。


 扉を叩く前に読むことになる。


「クラウスの名前を外さず、自分たちの名前を足した」


「レオンさんの事務所ですから」


「いつ帰るか分からない男の場所を、いつまでも閉めたままにもできない」


「ええ」


「帰ってきたら、あの偏屈は文句を言うよ」


「看板に勝手に名前を加えたこと?」


 エレノアが聞く。


「自分の机が動かされていないことさ」


 マルタは焼き菓子をかじった。


「何一つ変わってないと、戻ってきた実感がないってね」


「兄さまは、そんな感傷的な文句は言わないわ」


「なら、家賃を請求してやる」


「十三週間分?」


「当然だよ」


「行方不明でも家賃は発生するんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「荷物を置いてる」


「死亡推定は?」


「家賃を免除する理由にはならないね」


「マルタさんなら、死亡記録にも勝てそう」


「死人から取り立てられないなら、生きて帰ってくるしかないだろう」


 乱暴な理屈だった。


 けれど。


 エレノアは笑った。


 ミラベルも。


 小さく息を漏らした。


 笑い声が。


 事務所の中へ広がる。


 十三週間。


 この部屋で。


 何度も会話はした。


 言い争いも。


 推理も。


 調査の相談も。


 けれど。


 空の椅子を見ずに笑えたのは。


 初めてだったかもしれない。


 ミラベルは、自分の机へ向かった。


 これまで。


 レオンの隣で記録を取るために使っていた、小さな机。


 革椅子より低く。


 天板も狭い。


 片側の脚は、紙を挟まなければわずかに揺れる。


 机上には。


 ハロルド=フェインとオウェン=ティルの事件記録が、完成した状態で置かれていた。


 表紙。


> 名を返す者たち


 中央記録庁の受領印。


 市警の捜査記録番号。


 蒸都新聞の記事。


 《生存再確認票》の写し。


 オウェンの死亡再認定。


 すべて。


 それぞれの名へ戻されている。


 ミラベルは記録箱の蓋を開け。


 完成した事件記録を収めた。


 箱の背へ、日付を書く。


 依頼受領。


 調査開始。


 ハロルド救出。


 身元再認定。


 記録完成。


 確定した事実だけ。


 推測は別紙へ。


 レオンの事件記録と同じ整理方法ではない。


 彼なら。


 事件の核心を短い一文で書き。


 重要でない事情は、惜しげもなく捨てただろう。


 ミラベルは。


 証言者が何を見て。


 どこで言葉を止め。


 何を言わなかったのかまで残した。


 それが。


 彼女の記録だった。


「鍵を掛けるの?」


 エレノアが尋ねる。


「事件記録ですから」


「私も見られない?」


「必要なときは、一緒に確認します」


「補助なのに?」


「補助だからです」


「相棒なら?」


「同じです」


「肩書と関係ないじゃない」


「いま気づきましたか」


 ミラベルは箱へ鍵を掛けた。


 鍵を自分の引き出しへ入れる。


 レオンの机ではない。


 自分の机へ。


 この事件を解いた記録を。


 彼の不在へ預けないために。


 エレノアは、窓際の小さな卓へ自分の暗号帳を置いた。


 都市地図を丸め。


 管送番号の解読表と一緒に立てる。


 椅子を一脚、自分で引いてくる。


「そこを使うの?」


 ミラベルが聞く。


「調査補助にも机がいるでしょう」


「書類は散らかさないでください」


「必要な配置よ」


「床へ置かないで」


「立体的に整理しているの」


「踏んだら読めないでしょう」


「踏まなければいいのよ」


「やはり補助です」


 エレノアが何か言い返そうとした。


 そのとき。


 扉が叩かれた。


 三度。


 間を置かない、重い音。


 依頼人の叩き方ではない。


 遠慮も。


 迷いもない。


 エレノアが帽子へ手を伸ばした。


 ミラベルは。


 机上の時計を見る。


 午前十一時三分。


 扉の外で。


 濡れた外套から水が落ちる音。


 紙束の角が、誰かの脚へ当たったような音もした。


「グレアム警部」


 ミラベルが言った。


「どうして分かるの?」


「依頼人なら、看板を読んでから叩きます」


「警部は読まない?」


「読む前に叩きます」


 マルタが扉を開けた。


「バルトラム。今度は何だい」


 グレアム警部が立っていた。


 雨粒を弾く濃い外套。


 片腕には。


 革紐で綴じられた、厚い書類束。


 顔には。


 朝からすでに三件の面倒を処理し。


 四件目をここへ持ってきた男の疲労が刻まれている。


「焼き菓子の匂いがした」


「事件じゃなく、菓子を食いに来たのかい」


「事件を持ってきた奴には、珈琲くらい出してもいいだろう」


「警察が事件を持ち込むようになったら、世も末だね」


「クラウスがいた頃から持ち込んでる」


「持ち込んでない。置いていって、勝手に首を突っ込まれてただけだ」


「同じだ」


「違うよ」


 二人が言い争う間。


 グレアムの視線は。


 開いた扉の外へ向いた。


 古い看板。


 外された黒布。


 その下に増えた、二枚の小さな真鍮札。


 彼は。


 一行ずつ読んだ。


 事件記録・調査相談。


 ミラベル=ワトリア。


 調査補助。


 エレノア=クラウス。


「補助?」


 グレアムが言った。


「警部まで言わないで」


 エレノアが顔をしかめる。


「妥当だ」


「どうしてよ」


「無断侵入。公的記録の持ち出し。職員への変装。施設設備の不正操作」


「人を助けた」


「警察の説教は、結果に左右されん」


「ハロルドがいなかったら、もっと怒られてた?」


「当たり前だ」


「いたから、少しは減る?」


「別件として増える」


「理不尽ね」


「法律だ」


 グレアムは室内へ入った。


 濡れた帽子を脱ぎ。


 扉脇の掛け釘へ掛ける。


 そして。


 中央の革椅子を見た。


 空いている。


 以前と同じ位置。


 以前と違う静けさで。


 誰も座らないまま残されている。


「看板を出したのか」


 グレアムが言った。


「はい」


 ミラベルが答える。


「正式な探偵事務所としてではありません。事件記録の整理と、調査相談を受けます」


「警察へ渡せない相談も?」


「内容によります」


「契約法院へ行くべき話も?」


「まず、どこへ行くべきかを調べます」


「失踪事件は?」


「証拠があれば」


「証拠がなければ?」


「証拠がないことを確認します」


 グレアムは鼻を鳴らした。


「面倒な答え方まで似てきやがった」


「レオンさんには似ていません」


「本人も、そう言う」


 グレアムは書類束を持ったまま。


 革椅子の前へ進んだ。


 一瞬。


 そこへ置こうとしたように見えた。


 探偵へ事件を渡すなら。


 以前は、そうしていた。


 レオンの机へ。


 警察が正式には扱いきれない記録を投げ。


 嫌味を一つ残し。


 あとは勝手に読ませていた。


 だが。


 グレアムは足を止めた。


 空の革椅子。


 閉じたままの筆記具箱。


 布を掛けられた検査レンズ。


 そこには置かなかった。


 向きを変える。


 ミラベルの小さな机まで歩く。


「探偵はいない」


 低い声で言った。


「知っています」


 ミラベルは答えた。


「それでも、記録を読める奴はいるらしいな」


 グレアムは。


 革紐で綴じた書類を。


 ミラベルの机へ置いた。


 天板が。


 重さで小さく軋む。


 事件記録の表紙には。


 市警の受付印。


 複数の付属書類。


 開封されていない証拠袋の一覧。


 そのすべてが。


 まだ一度も読まれていない状態で綴じられていた。


 グレアムは説明しなかった。


 ミラベルも。


 すぐに表紙を開かなかった。


 まず。


 書類束を正面へ向ける。


 革紐の結び方。


 市警の封印。


 頁の順番。


 途中で抜かれた紙がないことを。


 外側から確認する。


 確定しているのは。


 警察の正式な記録として受理されたこと。


 複数の書類が、一件の事件へまとめられていること。


 そして。


 グレアムが、自分だけでは処理し切れないと判断したこと。


 それだけだった。


「誰かが嘘をついているんですか」


 エレノアが尋ねる。


「まだ分からん」


「記録が間違ってる?」


「それも分からん」


「人は死んでる?」


「質問する前に読め」


「説明しに来たんでしょう」


「俺は書類を置きに来た」


「珈琲も飲みに」


 マルタが付け加える。


「それはついでだ」


「なら料金を取るよ」


「警察への協力だろう」


「事件を持ってきた迷惑料と相殺だね」


 マルタは一階へ戻っていった。


 グレアムは応接用の椅子へ腰を下ろす。


 レオンの椅子ではない。


 エレノアは。


 被っていた帽子を取った。


 扉脇の釘へ掛ける。


 外出する準備を解き。


 窓際の自分の席へ座る。


 暗号帳を引き寄せ。


 鉛筆を一本、机上へ置いた。


 ミラベルも。


 自分の椅子を引いた。


 レオンの席より小さく。


 革も張られていない、古い木の椅子。


 そこへ座る。


 机の右側には、完成した事件記録の箱。


 左側には、これから読む書類。


 二つの間に。


 新しい取材帳を置く。


 最初の頁を開く。


 日付。


 時刻。


 持参者。


 グレアム警部。


 その下へ。


 まだ事件名は書かなかった。


 書類を読む前に。


 結論を置かないために。


「警部」


 ミラベルが言った。


「何だ」


「書類を読む前に、あなたが確認した事実だけを話してください」


「全部、ここに書いてある」


「あなたが見たことと、報告を受けたことを分けて」


 グレアムが。


 面倒そうに眉を寄せる。


「そこからか」


「そこからです」


「長くなるぞ」


「記録します」


 エレノアが身を乗り出す。


「私は?」


「勝手に口を挟まないでください」


「補助だから?」


「証言者の話を最後まで聞くためです」


「質問は?」


「あとで」


「重要なことを忘れるかもしれない」


「暗号帳へ書いておいて」


 エレノアは不満そうにしながら。


 鉛筆を持った。


「準備できたわ」


 ミラベルはグレアムを見る。


「お願いします」


 階段を上がってくる足音。


 一階で鳴る珈琲カップ。


 暖炉の中で、石炭が崩れる音。


 霧燈通りを通過する蒸気車の警笛。


 そのすべての中心で。


 レオンの椅子は。


 空いたままだった。


 誰も。


 そこを埋めようとはしない。


 それでも。


 事務所の扉は開いている。


 看板には。


 新しい二人の名前が加わった。


 グレアムが。


 最初の言葉を口にする。


 ミラベルのペン先が、紙へ触れる。


 エレノアが、帽子のない頭を傾ける。


 探偵のいない事務所で。


 新しい調査が始まった。

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