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第14節 ― 名を返す者たち

 同日。


 病室の扉が開いたとき、クララは一歩も動けなかった。


 白い壁。


 磨かれた床。


 薬品と湯気の匂い。


 窓辺には、小型の蒸気吸入器が置かれている。透明な管の中で水滴が震え、一定の間隔で白い蒸気を送り出していた。


 その向こう。


 寝台の上に、一人の男がいた。


 頬は痩せ。


 髪は伸び。


 手首には、鉄輪で擦れた傷が残っている。


 十三週間前に家を出た夫と。


 同じ姿ではなかった。


 それでも。


 クララは、寝台の脇に置かれた患者札を見なかった。


 青い縁の《生存再確認票》も。


 医師の所見も。


 市警の保護番号も見なかった。


 男が顔を上げた。


「クララ」


 掠れた声だった。


 それだけで。


 クララは走った。


 寝台へ膝をぶつけ。


 椅子を倒し。


 両腕でハロルドの身体を抱き締める。


 ハロルドが苦しそうに息を漏らした。


 それでも、離せとは言わなかった。


 自由になったばかりの両手を持ち上げ。


 クララの背中へ回す。


 力はほとんど残っていない。


 指先が、外套の布をわずかにつかんだだけだった。


「遅くなった」


 ハロルドが言った。


「遅すぎます」


「すまない」


「謝らないで」


「手紙だけ残して、君を十三週間も――」


「謝らないでください」


 クララは夫の胸へ顔を押しつけたまま、繰り返した。


「帰ってきた人は、謝らなくていいんです」


 扉の外に立っていたミラベルは、病室へ入らなかった。


 エレノアも、その隣にいる。


 医師からは、面会は短時間にするよう言われていた。


 だが。


 いま時計を見ている者はいなかった。


 ハロルドは、クララの髪へ顔を寄せた。


 長い間。


 何も言わなかった。


 やがて。


 抱き合ったまま、苦い笑いを漏らす。


「私は、もう夫として登録されていない」


 クララの肩が動いた。


 顔を上げる。


「婚姻記録では、君は未亡人だ。住居契約にも、私の名はない。口座も閉じた。職員身分も失った」


 ハロルドは窓辺の青い票を見る。


「生きてはいるが、まだハロルド=フェインへ戻ったわけではないらしい」


「なら、もう一度登録すればいい」


 クララは即座に答えた。


 ハロルドが目を瞬く。


「簡単ではない」


「知っています」


「再認定には、いくつも証言が必要だ。筆跡。身体記録。職場の照合。住民番号。婚姻記録も――」


「全部やります」


「また十三週間かかるかもしれない」


「十三週間なら、もう待ちました」


 クララは、夫の手を両手で包んだ。


「今度は、あなたが生きているところを私が見ています」


 ハロルドの視線が。


 握られた手へ落ちる。


「私が証人になります」


「妻一人の証言では、足りない」


「なら、毎日証言します」


「同じ証人の回数は増えない」


「それでも言います」


 クララの声は震えていた。


 泣いているのに。


 一歩も退いていなかった。


「朝、目を開けたところを見た。食事をしたところを見た。薬を飲んだところを見た。私の名前を呼んだところを見た。全部、記録してもらいます」


 ハロルドは。


 ようやく。


 本当に笑った。


「照合局へ来れば、よい記録官になれたな」


「お断りします」


「そうか」


「死亡した夫を生きていると認めるまで十三週間かかる職場でしょう」


「反論できない」


「なら、早く治してください。退院したら、二人で文句を言いに行きます」


 ハロルドの目から。


 涙が一筋だけ流れた。


 クララは、それを見なかったことにしなかった。


 指で拭い。


 もう一度、夫を抱き締めた。


 ミラベルは静かに扉を閉めた。


 廊下へ二人の声が漏れないよう。


 完全には閉じず。


 医師が入れるだけの隙間を残す。


「本人だったでしょう」


 エレノアが言った。


「ええ」


「最初から分かっていたわ」


「あなたが最初に聞いたのは声だけです」


「でも合ってた」


「合っていたことと、確認が要らなかったことは同じではありません」


「まだ叱るの?」


「必要なら」


 エレノアは病室の扉を見た。


「ハロルドが生きていた」


「ええ」


「死亡記録は間違っていた」


「ええ」


「でも」


 その先を。


 すぐには言わなかった。


 廊下の窓から。


 ヴェルム=クロウの朝が見える。


 煤霧の上を高架列車が走り。


 遠くの煙突から黒煙が立ち上っている。


 《大時鐘塔》事件から。


 街は、何もなかったように動き続けていた。


「兄さまが生きている証拠にはならない」


 エレノアは、自分で言った。


 ミラベルは頷く。


「ええ」


「同じように遺体がなくても?」


「同じ条件が一つあることと、同じ結論になることは違うわ」


「ハロルドには、手紙があった」


「七件の証言と、変更された対象番号も」


「地下に本人もいた」


「ええ」


 エレノアは窓枠へ手を置いた。


「信じるだけでは足りないのね」


「ええ」


「なら、証明するわ」


 ミラベルは横顔を見る。


 迷いはなかった。


 以前と同じ。


 兄の生存を信じ切っている顔だった。


 ただ。


 その信念を。


 事実と呼ばなくなっていた。


「今度は一人で行かないで」


「……努力する」


「約束では?」


「絶対に守れない約束をする方が不誠実でしょう」


「そこだけエドガーさんに似ないで」


「失礼ね」


「どちらに?」


 答えを待たず。


 病室の中から、医師がクララへ面会終了を告げる声がした。


 エレノアは扉から離れる。


「次は何をするの?」


「死亡した人を探します」


「ハロルドは見つかったでしょう」


「ハロルドさんとして埋葬された人です」


 エレノアの表情が変わる。


 火災で死亡した男性。


 顔を失い。


 所持品を入れ替えられ。


 別人の名で墓へ入れられた死者。


「まだ名前がない」


「ええ」


 ミラベルは取材鞄を持ち直した。


「ハロルドさんだけを記録へ戻したら、また同じことをすることになる」


     ◇


 病院を出た二人を。


 グレアムが正面階段の下で待っていた。


 上着は着替えている。


 だが、右手の甲には、廃棄炉の弁輪で負った擦り傷が残っていた。


「再会は済んだか」


「はい」


「なら、こっちだ」


 警部は停めてあった馬車の扉を開いた。


「どこへ?」


 エレノアが尋ねる。


「蒸気倉庫だ」


 ミラベルがグレアムを見る。


「調べてくださるんですか」


「ドーンの事件で、遺体の身元認定は白紙に戻った」


 白紙。


 ハロルドではない。


 それだけが確定し。


 代わりの名は、まだない。


「検死医から、爪の煤の分析結果が来た」


「火災の煤ではなかった?」


「火災でも付着してる。だが、爪の奥に入り込んでいたのは、もっと古い炉煤だ」


「炉清掃人」


 エレノアが言った。


「可能性が高い」


 グレアムは、ミラベルを見た。


「断定するなよ」


「警部に言われるとは思いませんでした」


「クラウスがいないと、俺が言う役になるらしい」


「不本意そうね」


「不本意だ」


 三人を乗せた馬車が走り出す。


 鉄輪が石畳を叩き。


 病院の白い建物が煤霧の後ろへ消えた。


 蒸気倉庫は、火災から十四週間が過ぎても閉鎖されたままだった。


 焼け落ちた屋根。


 黒く裂けた壁。


 崩れた鉄骨。


 雨が降るたび、焦げた木材から黒い水が流れ。


 煉瓦の隙間へ煤が染み込んでいる。


 グレアムが封鎖鎖を外す。


「現場検証は終わってるが、ドーンの偽装が判明したため、未帰属品を調べ直した」


 隣棟の詰所へ入る。


 長机の上には、複数の証拠袋が置かれていた。


 ハロルドの外套。


 通行証。


 懐中時計。


 それらはすでに別の保管庫へ移されている。


 ここにあるのは。


 当時、ハロルドの所持品とは認定されなかった物。


 曲がった釘。


 溶けた金属片。


 番号の消えた工具札。


 そして。


 熱で黒く変色した、真鍮製の札。


 札の端には穴があり。


 焼け残った革紐が、短く結びついたまま残っている。


 グレアムは、その証拠袋を取った。


「これは、遺体の近くに落ちていた物じゃない」


 現場記録を袋の横へ置く。


「遺体の腰部。焼損した衣服の帯紐へ、この革紐で結びついた状態で発見された」


 ミラベルは、現場記録と証拠袋を見比べた。


 札は。


 床へ偶然落ちていたのではない。


 火災以前から。


 遺体が身につけていた衣服へ結ばれていた可能性が高い。


「どうして身元確認に使われなかったの?」


 エレノアが袋へ顔を近づける。


「表面が煤と緑青で潰れ、文字も印も読めなかった。宿泊札だと分からないまま、未帰属品へ回された」


 グレアムが札を光へ向ける。


 洗浄された表面には。


 中央の数字が、かろうじて残っていた。


「三……八?」


「清掃したら、そう読めた」


 札を裏返す。


 裏面には。


 円の中へ、簡略化された寝台の印。


「宿泊札です」


 ミラベルが言った。


 ヴェルム=クロウの安宿や労働者宿では。


 住民登録を持たない短期滞在者へ、寝台番号を刻んだ札を渡すことがある。


 正式な住所票ではない。


 荷物を預け。


 寝台を使い。


 共同食堂へ出入りするための仮の証明だった。


「札三十八の宿泊者を探せばいいのね」


「宿の印も照合できた」


 グレアムは裏面を示した。


「南環労働者宿だ」


     ◇


 労働者宿は。


 鉄道環状区と煤霧街区の境にあった。


 四階建て。


 細長い煉瓦造り。


 一つの窓へ、洗濯物が何枚も重なって干されている。


 入口には。


 日雇い募集の紙。


 共同浴場の時間。


 寝台料金。


 失くした札の再発行代。


 それらが、雨に滲んだ文字で貼られていた。


 宿の主人は。


 太い眼鏡を掛けたヒト族の老人だった。


 グレアムが札を見せると。


 帳場の下から、分厚い宿泊台帳を出した。


「三十八」


 頁をめくる。


「火災の頃なら……ここだ」


 指先が。


 一つの欄で止まる。


> 寝台三十八。

> オウェン=ティル。

> 五十一歳。

> 季節雇い。

> 炉清掃。


 ミラベルのペンが動いた。


 遺体の衣服へ結ばれていた寝台札。


 その番号を使用していたのは。


 五十一歳の季節雇い炉清掃人。


 オウェン=ティル。


「いつから宿泊を?」


「一月ほどです」


「最後に見たのは?」


「倉庫火災の前日の夕方」


「火災のあと、戻らなかった?」


「季節労働者なんて、挨拶なしでいなくなるものです」


 主人は帳簿を見たまま答えた。


「荷物は?」


「ほとんどなかった。着替えが一組と、欠けた櫛。寝台料金も三日分残していた」


「それでも、行方不明として届けなかった?」


 エレノアが問う。


 主人が顔を上げる。


「住所も家族も知らん男だ。仕事が終われば次の街へ移る。毎回警察へ届けていたら、宿泊客の半分が行方不明になる」


「だから、誰も探さなかった」


 主人の顔が曇る。


「そういう言い方をするな、お嬢さん」


「違うの?」


「違わんが」


 エレノアは、言葉を続けなかった。


 ミラベルが台帳の欄を読む。


「雇用先は記録されていないのですか」


「日ごとに変わる。うちではそこまで書かん」


「食事は?」


「朝は向かいの慈善食堂を使っていた。札を見せれば安くなる」


「記録が残っていますか」


「食券の配給帳なら」


     ◇


 向かいの慈善食堂は。


 昼の仕込みを始めたところだった。


 大鍋から湯気が立ち。


 豆と根菜を煮る匂いが、広い食堂へ満ちている。


 壁際には。


 朝食を終えた労働者たちの木椀が積まれていた。


 管理人のエルフ女性は。


 警察の名を聞くと、戸棚から配給帳を持ってきた。


「宿泊札三十八」


 古い頁を探す。


「オウェン=ティル。いましたよ」


 細い指が。


 同じ名が続く行を追う。


 朝食。


 夕食。


 朝食。


 それが二十日以上。


 ほぼ毎日続いている。


 最後の記録は。


 蒸気倉庫火災の当日。


「この印は?」


 ミラベルが、名前の横にある小さな黒丸を指した。


「持ち出し食です」


「夜の仕事?」


「ええ。炉の清掃は、機械を止めたあとにやることが多いから」


 管理人は記憶を探すように目を細めた。


「その日は、夜勤用の食事を受け取っていきました。倉庫へ行くと言っていたと思います」


「どの倉庫か覚えていますか」


「そこまでは」


「蒸気倉庫火災のあと、オウェンさんを見ましたか」


「いいえ」


「食事を受け取ったあと、この食堂へ戻った記録は?」


「ありません」


「ほかの食堂を使った可能性は?」


「あるでしょうね」


「街を出た可能性も」


「あります」


 ミラベルは頷いた。


 分からないことを。


 分からないまま記す。


 慈善食堂の記録が示すのは。


 オウェン=ティルという五十一歳の炉清掃人が。


 火災当日までヴェルム=クロウにいたこと。


 その夜の仕事へ持っていく食事を受け取ったこと。


 その後、この食堂へ戻っていないこと。


 それだけだった。


「顔を覚えていますか」


 管理人は食堂の入口を見た。


 人が出入りする場所。


 毎日。


 何十人もの労働者が並ぶ。


「細い人でした」


 やがて答える。


「左肩を、少し上げて歩く癖があった」


 ミラベルのペンが止まった。


「左肩?」


「古い怪我だと言っていました。寒い日は痛むそうです」


 グレアムがミラベルを見る。


 遺体に残っていた。


 左肩の古い損傷。


 ハロルドだけの特徴ではない。


 労働者には珍しくない傷。


 そのとおりだった。


「右脚は?」


 エレノアが尋ねる。


「悪くしていませんでしたか」


「歩き方は覚えていません。ただ、石炭籠を持つとき、左肩を庇っていました」


 露店商が聞いた、右脚を引きずる男。


 それも。


 オウェン本人とは限らない。


 七つの証言は。


 最後まで一人へまとまらなかった。


「署名は本人のものですか」


 ミラベルが配給帳を示す。


「毎回、食事を受け取った本人に書かせていました」


「宿泊台帳にも、署名があります」


 グレアムが言う。


 二冊が。


 同じ卓上へ並べられた。


 オウェン=ティル。


 わずかに右上がりの筆跡。


 Tの横線が長い。


 終わりのLだけが、小さく下へ落ちる。


 同じ手による署名と見てよい。


 それでも。


 署名は、遺体そのものではない。


「検死記録と照合する」


 グレアムが言った。


「身長、年齢、左肩の損傷。宿の主人と食堂の管理人にも、正式な証言を取る」


「身元再認定ですね」


「ああ」


「オウェンさんの家族は?」


「宿泊台帳には緊急連絡先がない」


「住民登録は切れている」


「出生地から追う。時間はかかるだろう」


 ミラベルは。


 二冊の台帳に書かれた名を見た。


 ハロルドのように。


 帰りを待つ妻がいるかは分からない。


 十三週間。


 探し続けた人がいるとも限らない。


 それでも。


 待つ人がいなければ。


 名を返す必要がないわけではない。


「記事に書きます」


 グレアムが眉を上げる。


「正式認定前だぞ」


「断定できる部分と、再確認中の部分を分けます」


「新聞が先に名を出せば、間違っていたときに消せん」


「だから、検死照合が終わるまで印刷は待ちます」


「珍しく慎重だな」


「いつも慎重です」


 エレノアが横から口を挟む。


「自分で言う人は信用できないわ」


「あなたにだけは言われたくありません」


     ◇


 翌日。


 中央労働斡旋所から。


 オウェン=ティルの季節雇い登録が、市警へ届いた。


 正式な住民票ではない。


 短期雇用先へ紹介するために作られた、期限付きの労働登録だった。


 氏名。


 年齢、五十一歳。


 職種、炉清掃。


 署名は。


 宿泊台帳と慈善食堂の配給帳に残るものと一致した。


 登録の身体情報欄には。


 おおよその身長。


 年齢確認のための身体所見。


 左肩の古い損傷。


 重い物を持つ際には左腕の可動に注意。


 そう記されていた。


 検死原票に残る。


 焼損遺体の推定年齢。


 身長。


 左肩関節部の陳旧性損傷。


 いずれも。


 季節雇い登録の身体情報と矛盾しなかった。


 さらに。


 遺体の爪には。


 火災以前からのものと考えられる炉煤が沈着していた。


 長期筆記労働者に特徴的な右手中指の硬化はない。


 季節雇いの炉清掃人という職業と。


 遺体の手に残された生活痕も一致する。


 それでも。


 ミラベルは、すぐにオウェン=ティルの名を書かなかった。


 遺体の衣服へ結びついていた寝台札。


 札三十八を使用していた宿泊者。


 五十一歳の炉清掃人。


 火災当日に夜勤用の食事を受け取り。


 その後、宿にも食堂にも戻っていない。


 左肩には古い傷があった。


 季節雇い登録の身体情報は、遺体の検死所見と一致する。


 一つずつの事実を。


 同じ人物へ向かう順番で並べる。


 先に名を置き。


 その名前へ事実を所属させない。


 ハロルドの死亡記録で起きたことを。


 反対向きに繰り返さないために。


     ◇


 三日後。


 宿泊台帳。


 慈善食堂の配給帳。


 季節雇い登録。


 火災現場の回収記録。


 衣服へ結ばれた真鍮の寝台札。


 検死原票。


 宿の主人と、食堂管理人の正式証言。


 それらの照合が完了した。


 家族の所在は。


 まだ分からなかった。


 それでも。


 死亡照合局は。


 ドーンの事件後、最初の身元再認定として。


 ハロルド=フェインの墓に埋葬された男性を。


 オウェン=ティルと記録した。


 その夜。


 蒸都新聞社街では。


 輪転印刷機が動き始めた。


 活字を組む金属音。


 インクを練る音。


 紙が送り込まれる音。


 ミラベルは、試し刷りを机の上へ置いた。


 編集長が赤鉛筆で見出しを囲む。


「《死んだ男、地下から生還》」


「変えてください」


「売れる」


「ハロルドさんは、見世物ではありません」


「なら、《死亡記録を覆した妻の執念》」


「クララさん一人で解決したように読めます」


「事実だろう。妻が諦めなかった」


「それだけでは、救出できませんでした」


「注文が多いな」


 編集長は椅子へ深く座った。


「では、何と書く」


 ミラベルは、自分で組んだ見出しを差し出した。


> 生存者一名。

> 死亡者一名。

> 誤っていたのは、人数ではなく名前。


 編集長は黙って読んだ。


「固い」


「変えません」


「長い」


「縮めません」


「レオン=クラウスに似てきたな」


「似ていません」


「本人も、そう言うだろうよ」


 ミラベルは返事をしなかった。


 記事本文へ。


 最後の修正を入れる。


> ハロルド=フェインは生存している。


 一行を空ける。


> 火災で死亡したのは、炉清掃人オウェン=ティル。


 活字工が。


 二つの名を。


 別々の行へ組んでいく。


 一方を、生者として。


 一方を、死者として。


 どちらも。


 同じ欄へ押し込まない。


> 一人の生者へ名を返すために、

> 一人の死者の名を再び奪ってはならない。


 ミラベルは校正紙を持ち上げた。


 ハロルドの名。


 オウェンの名。


 文字の大きさは同じだった。


 片方だけを英雄にせず。


 片方だけを事件の道具にしない。


「刷ってください」


 編集長が輪転機へ合図した。


 機械が唸る。


 最初の紙が送り出される。


 インクの匂いが、部屋へ広がる。


     ◇


 翌朝。


 新聞を持って病院を訪ねると。


 ハロルドは寝台の上で、自分の名を読んだ。


 まだ身体を起こすことはできない。


 クララが隣に座り。


 記事の紙面を両手で支えている。


「オウェン=ティル」


 ハロルドが、その名を口にした。


「知っていましたか」


 ミラベルが尋ねる。


「いいえ」


「ドーンが誰の遺体を使ったかは?」


「教えられていませんでした」


 ハロルドは記事へ視線を落とした。


「私のために、死後も名を失った」


「あなたのためではありません」


 ミラベルは言った。


「ドーンが、自分の犯罪のために使ったんです」


「それでも」


「責任を感じることと、責任があることは違います」


 ハロルドは。


 しばらく黙っていた。


「彼の墓は」


「死亡照合局が改葬手続きを始めています」


「墓標も?」


「オウェン=ティルの名へ変更されます」


「家族が見つかったら」


「連絡されます」


「見つからなかったら?」


「名は残ります」


 ハロルドは新聞を閉じた。


 クララが、折り目を丁寧にそろえる。


「あなたの記事を、墓へ持っていきましょう」


 クララが夫へ言った。


「私たちが?」


「あなたの名で埋葬されていた人です」


 ハロルドは頷いた。


「そうだな」


 クララは新聞を脇へ置いた。


 それから、ミラベルを見た。


「クラウス探偵がいなくても、事件は解けたのですね」


 ミラベルは。


 すぐに否定した。


「いいえ」


 クララの表情に、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「レオンさんがいなければ、私は記録を疑うことを知りませんでした」


 死亡記録。


 契約書。


 時刻表。


 新聞。


 そこに書かれているから正しいのではない。


 誰が。


 何を見て。


 どの言葉が省かれ。


 どの名が加えられたのか。


 レオンの背中を追うまで。


 ミラベルは、記録へ書かれた結論を疑う方法を知らなかった。


「でも」


 彼女は続けた。


「レオンさんがいないからといって、何もできないわけでもありません」


 クララは。


 静かに微笑んだ。


「はい」


 その返事は。


 事件を解いた探偵へ向けたものではなかった。


 自分の方法を見つけた記者へ向けられていた。


 病室を出ると。


 エレノアが廊下の壁にもたれて待っていた。


「何もできないわけではない、だって」


「聞いていたんですか」


「扉が少し開いてた」


「盗み聞きです」


「聞こえたのよ」


 エレノアは新聞を一部持っていた。


 オウェンの名がある欄を。


 指先でなぞる。


「兄さまなら、もっと早く見つけたかもしれない」


「そうかもしれません」


「最初から、炉煤と筆だこで別人だと分かった」


「ええ」


「でも、宿泊札を探したかは分からない」


「どうして?」


「兄さま、宿代を払わない人の気持ちには詳しいけど、宿泊台帳には興味がなさそうだから」


 ミラベルは思わず笑った。


「マルタさんへ言ったら怒られますよ」


「本人がいないから言えるの」


 その言葉のあと。


 笑いはすぐに消えた。


 エレノアは新聞を折る。


「信じるだけでは足りない」


「ええ」


「証明するには、手掛かりがいる」


「ええ」


「手掛かりがなければ、探す」


「一人で?」


 エレノアが顔をしかめる。


「……努力するって言ったでしょう」


「便利な言葉ですね」


「約束よりは正確よ」


「それもエドガーさんに似ています」


「訂正して」


「しません」


 二人は並んで廊下を歩いた。


 病院の出口には。


 中央記録庁の馬車が停まっていた。


 御者がミラベルへ、短い伝言を渡す。


> 事件記録を持参のうえ、特別監査室へ出頭されたし。


 署名。


 エドガー=クラウス。


「呼び出し?」


 エレノアが覗き込む。


「事件記録を完成させろということでしょう」


「私も行く」


「来ると思っていました」


「止めないの?」


「相棒ですから」


 エレノアの口元が。


 わずかに上がった。


     ◇


 中央記録庁の特別監査室では。


 暖炉の火が、低く燃えていた。


 エドガーは黒い椅子へ座り。


 ミラベルが提出した事件記録を読んでいる。


 ハロルド=フェイン。


 生存再確認中。


 オウェン=ティル。


 死亡再認定。


 マルセル=ドーン。


 逮捕。


 対象番号変更記録。


 証言票。


 救出時刻。


 医療記録。


 新聞記事の試し刷り。


 すべて。


 順番に綴じられている。


 レオンの机へ置かれた依頼書から始まり。


 二人の名をそれぞれの場所へ戻すまで。


 エドガーは最後の頁をめくった。


「記事としては冗長だ」


「事件記録です」


「事件記録としても、証人の感情が多い」


「必要な記録です」


「君にとっては、だろう」


「証言が言葉になる前の迷いも、記録が変化した場所を示します」


 エドガーは反論しなかった。


 最終頁へ署名する。


 特別監査官として。


 事件の行政記録を受領したことを示す印。


「これで完成ですか」


 エレノアが尋ねる。


「ドーンの過去案件は、これから監査する」


「照合索引も?」


「ハロルドの供述から所在を確認した。内容は現在、封印照合中だ」


「何人、別の名で生きてるの?」


「未確定だ」


「犯罪者も?」


「含まれる可能性がある」


「最初に助けた工員は?」


「それも調べる」


 エレノアは不満そうだった。


 だが。


 今度は未確定の答えを。


 無理に決めようとはしなかった。


 彼女は黒い椅子の正面へ立つ。


「一つ聞いていい?」


「許可を求める前に、すでに聞く顔をしている」


「本当に、兄さまは死んだと思っているの?」


 エドガーの指が。


 事件記録の角で止まった。


 暖炉の火が。


 黒い革の表面へ赤く映る。


 ミラベルは。


 エドガーの顔を見た。


 何かを知っている顔なのか。


 弟の死を受け入れた顔なのか。


 妹へ嘘をつこうとしている顔なのか。


 読み取れない。


 エドガーは。


 答えなかった。


 机の上の書類をそろえる。


 ハロルドの記録。


 オウェンの記録。


 ドーンの捜査記録。


 それぞれの角を合わせ。


 別々の綴じ紐で閉じた。


「今回の事件記録を完成させなさい」


「もう完成してるでしょう」


「最終頁の題名が空白だ」


 ミラベルは提出した記録を見る。


 確かに。


 結語の見出しだけを、まだ書いていなかった。


「何と書けば?」


「それを決めるのは、記録者だ」


 エレノアが机へ手をつく。


「質問に答えてない」


「未解決の問いで、解決した事件を汚すものではない」


「逃げてる」


「区別している」


「同じよ」


「違う」


 二人の視線がぶつかる。


 兄。


 妹。


 同じ家に生まれ。


 同じ男を知りながら。


 まったく違う方法で、その不在を扱っている。


 エレノアは。


 それ以上、問いを重ねなかった。


「分かった」


 小さく言う。


「今回は」


 エドガーは。


 その限定を訂正しなかった。


 ミラベルはペンを取った。


 事件記録の最終頁。


 空白だった見出しへ。


 ゆっくり文字を書く。


> 名を返す者たち


 その下へ。


 事件の結語を記す。


> ハロルド=フェインは、生存者として再確認された。

> オウェン=ティルは、蒸気倉庫火災の死亡者として再認定された。


 ペンを止める。


 もう一行。


> 一人の名を救うために、別の一人を無名へ戻してはならない。


 インクが乾くまで。


 誰も話さなかった。


 暖炉の火。


 遠くを走る列車。


 気送管の中を通過する記録筒。


 都市は。


 また次の名前を運んでいる。


 机の端には。


 別の薄い記録綴りがあった。


 レオン=クラウス。


 行方不明。


 死亡推定。


 その頁は。


 まだ閉じられていない。


 ミラベルは触れなかった。


 エレノアも。


 今度は持ち出そうとしなかった。


 答えがないからではない。


 いつか答えを置くために。


 未解決の問いを。


 未解決のまま残した。


 ミラベルは完成した事件記録を閉じた。


 その表紙には。


 二人の名があった。


 生きて帰った者と。


 死して名を取り戻した者。


 どちらももう。


 別人の記録には属していなかった。

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