第13節 ― 生きていることの証明
ハロルド=フェインを乗せた救護車は、市立第一病院の正面玄関で止められた。
馬車を改造した救護車両ではない。
車体の下へ小型蒸気機関を積み、急患を市内各区から運ぶための白い車だった。
側面には赤い救護章。
屋根では警告鐘が鳴り続けている。
それでも。
病院の鉄扉は、すぐには開かなかった。
「患者名を」
受付窓口の書記が言った。
硝子越しの声は、急いでいた。
冷たいのではない。
担架の上で呼吸を乱している男を見て、早く処理しようとしている声だった。
「ハロルド=フェイン」
グレアムが答えた。
書記は患者登録機の鍵盤を叩いた。
真鍮の活字輪が回転する。
名前。
生年月日。
住民番号。
ネラが横から、死亡照合局に残っていた職員番号を読み上げた。
書記が最後の鍵を押す。
機械の内部で歯車が噛み合い。
短い警告音が鳴った。
赤い札が、印字口から吐き出された。
> 登録不能
> 対象者・死亡
書記の手が止まった。
彼女は赤い札を見たあと。
担架の上の男を見た。
ハロルドは目を閉じている。
それでも胸は上下していた。
浅く。
苦しげに。
確実に。
「治療は止めません」
書記は、先にそう言った。
「救急処置は開始できます。ですが、その処置記録をハロルド=フェインという患者へ所属させることができません」
「機械が間違っています」
クララが言った。
彼女は救護車が到着するより早く病院へ来ていた。
グレアムからの連絡を受け。
仕立屋の仕事着のまま。
外套の留め金さえ掛けずに駆けてきた。
顔には血の気がない。
それでも、ハロルドの担架から一歩も離れていなかった。
「この人は生きています」
「分かっています」
受付書記は困惑しながら答えた。
「ですが、現在の登録では、ハロルド=フェインという患者番号を発行できません」
「目の前にいるでしょう!」
「クララさん」
ミラベルが彼女の腕へ触れた。
クララは振り払わなかった。
ただ、受付の向こうにいる書記を睨んでいる。
夫を探し続けた十三週間。
ようやく目の前へ戻ってきた男を。
また一枚の紙が拒もうとしていた。
担架の脇で、医師がハロルドの瞼を開いた。
瞳孔を確かめ。
脈を取り。
胸へ聴診器を当てる。
「脱水。熱傷の疑い。蒸気吸入による気道損傷も考えられる」
医師は受付へ向けて言った。
「名前が何であれ、治療室へ運ぶ」
「先生、患者番号が――」
「仮番号を発行しろ」
「身元不明者としてですか」
医師の眉が動く。
その言葉を聞いたクララの指が、ハロルドの担架を強くつかんだ。
「身元不明ではありません」
「分かっています、奥様」
医師が言う。
「治療を拒んでいるわけではありません。正式な患者登録ができなければ、治療薬の管理も、入院室の割り当ても、血液記録の照合もできない。まず仮番号で処置を始めます」
「ハロルドという名前では、治療したことを残せない?」
エレノアが尋ねた。
「そうだ」
医師は即座に答えた。
「身体は治療できる。だが、その治療記録をハロルド=フェインへ所属させられない」
エレノアの表情が固くなる。
生きている男の呼吸を救うことはできる。
けれど。
その呼吸が誰のものなのかを、病院は記録できない。
「仮番号を出してください」
ミラベルが言った。
「まず処置を」
クララが振り返る。
「でも、それではまた――」
「名前を失うわけではありません」
ミラベルは、はっきりと言った。
「いまは命を先に守ります。ハロルドさんの名前は、私たちが記録しています」
自分の取材帳を示す。
そこには。
> 午前七時四十一分。
> 市民死亡照合局旧証言保管庫において、ハロルド=フェインの生存を確認。
そう記されている。
市警の救出記録も。
死亡照合局の監査記録も。
ハロルドを生存者として運んだ救護記録も残っている。
ただし。
それらは、まだ死亡記録を消してはいない。
「仮番号を」
グレアムも言った。
「あとで俺の捜査記録と接続する」
受付書記が新しい札を機械へ入れた。
氏名欄を空白にし。
救護対象。
身元再確認中。
市警保護。
そう入力する。
今度は赤い警告札ではなく。
白い仮登録票が出てきた。
医師がそれを受け取り。
担架の脚を押した。
「処置室へ」
看護師たちが動く。
担架が鉄扉を抜けた。
クララも追おうとする。
「ご家族は、こちらでお待ちください」
看護師に止められる。
「妻です」
クララが言った。
受付書記が、死亡記録を見たまま答えられない。
死亡している男に。
現在の妻はいない。
記録上。
クララは未亡人だった。
「私は妻です」
クララは、もう一度言った。
先ほどより小さな声だった。
自分へ言い聞かせているのではない。
紙に対して。
病院に対して。
都市に対して。
十三週間前と変わっていない事実を告げる声だった。
「私が証明します」
ミラベルが言った。
「ハロルドさんを依頼人として受けたクララ=フェインさんです。救出された男性が、ご主人を名乗っていることも確認しています」
「記者の証言では、家族登録は変更できません」
受付書記は申し訳なさそうに言った。
「分かっています」
ミラベルは答えた。
「変更を求めているのではありません。治療が終わるまで、家族として待機できるよう記録してください」
「それも、現在の死亡記録では――」
「病院は、家族であることを確定しなくても、保護関係者を登録できるはずよ」
エレノアが口を挟んだ。
書記が彼女を見る。
「緊急時の連絡先。身元不明患者でも、発見者や同行者を登録するでしょう」
「発見者としてなら」
「では、それで」
クララは言った。
妻ではなく。
発見者。
その言葉に顔を歪めながらも。
「いまは、それで構いません」
受付書記は、新しい用紙を取り出した。
保護関係者。
クララ=フェイン。
関係欄で、ペンが止まる。
「妻、と書いてください」
クララが言う。
「正式記録と矛盾します」
「では、本人申告で」
ミラベルが言った。
「関係――妻と申告。身分再確認中」
書記は少し考え。
そのとおりに記した。
紙は。
死亡記録を覆していない。
だが。
クララを、ただの他人として扉の外へ置き去りにはしなかった。
廊下の奥で。
処置室の扉が閉じた。
硝子の向こうを、白衣が行き交う。
蒸気吸入器。
点滴瓶。
消毒薬。
ハロルドの身体を救うための物が、次々と運び込まれていく。
クララは扉の前の長椅子へ座った。
両手を膝の上で重ねる。
仕立職人の指。
細かな針傷。
十三週間、封筒を開けずに守った手。
その指が。
今は震えていた。
「会いましたか」
ミラベルが尋ねた。
クララは頷いた。
「救護車へ乗せられる前に」
声が掠れている。
「顔が、ずいぶん変わっていました」
「十三週間ですから」
「でも」
クララは処置室の扉を見る。
「私の名を呼びました」
それだけで。
彼女にとっては本人だった。
だが、都市は。
その一言だけでは、死亡記録を覆さない。
本人の申告。
妻の確認。
職場記録。
身体特徴。
筆跡。
医療記録。
救出場所。
ドーンの犯罪。
それらを正式に照合し。
ハロルド=フェインの死亡認定を無効にするまで。
彼は生者でありながら。
死亡者でもある。
グレアムが壁へ背を預けた。
煤と蒸気で汚れた上着のまま。
腕を組む。
「病院はこれで通った」
「仮番号で、です」
ミラベルが答える。
「退院したらどうなるの?」
エレノアが尋ねた。
誰も、すぐには答えられなかった。
ハロルドの住居契約は解除されている。
クララが暮らしている家も。
記録上は、未亡人一人の住居になっている。
死亡者を同居人として追加することはできない。
銀行口座は閉鎖。
給与記録も終了。
職員身分も失効。
通行証も無効。
死亡照合局の庁舎から病院まで。
市警の保護下だから移動できた。
だが。
この病院から出るとき。
誰として外へ出るのか。
「市警の保護対象として置く」
グレアムが言った。
「捜査が終わるまで、保護施設へ――」
「その手続きにも身元が必要です」
廊下の向こうから声がした。
エドガー=クラウスが歩いてきた。
黒い外套。
銀色の杖。
後ろには、中央記録庁の書記が二人。
一人は大型の記録鞄を持ち。
もう一人は、小型の携帯印字器を台車で運んでいる。
エドガー自身は。
いつもと変わらない歩調だった。
地下で火災警報が鳴り。
殺人未遂が起き。
弟の妹が危険な配管路へ入り。
死亡していた男が救出されたあとでも。
急ぐべき時刻を、すでに計算し終えている男の歩き方だった。
「遅いわ」
エレノアが言った。
「地下から病院まで、救護車と競走する趣味はない」
「兄さまなら先に着いてた」
「レオンなら、病院へ運ばれる前に患者を質問攻めにして、医師から追い出されている」
「否定できないわね」
エドガーはクララの前で立ち止まった。
「クララ=フェイン夫人」
夫人。
受付書記が書けなかった呼称を。
彼は迷わず使った。
「はい」
「ご主人の救出は確認した。正式な身元再認定手続きを、本日付で開始する」
クララは立ち上がった。
「いつ、死亡記録が消えますか」
「消えない」
エドガーは答えた。
あまりに即答だったため。
クララの顔が凍った。
「少なくとも、ただちには」
エドガーは続ける。
「成立した死亡記録を、確認なしに消去すれば、その記録に基づいて行われたすべての行政処理が宙に浮く」
「間違った記録です」
「間違っていたことを、正式に確定する必要がある」
「本人が生きているのに?」
「本人を名乗る生存者がいることは確認された」
クララの唇が開く。
エレノアも一歩出た。
ミラベルは止めなかった。
エドガーは。
怒りを受けるべき言葉だと分かって、あえて言っている。
「本人です」
クララが言った。
「私には分かります」
「あなたの確認は、重要な証言だ」
「証言?」
「だが、一人の証言だけで死亡記録を覆せば、ドーンが行ったことと同じになる」
クララの顔から。
怒りが消えたわけではない。
ただ。
言葉を飲み込む。
ハロルドの死も。
七件の正しい証言を一人分へまとめることで作られた。
今度は。
妻が本人だと言ったからという理由だけで。
反対の結論を先に置くことはできない。
「ハロルドさんの生存を疑っているわけではありません」
ミラベルが言った。
「確かめた事実を、正式な記録へ戻す手続きが必要なんです」
「その間」
クララは処置室の扉を見る。
「この人は、誰なんですか」
問いに。
廊下の誰も答えなかった。
生存者。
身元再確認中。
仮登録患者。
市警保護対象。
ハロルド=フェインを名乗る男。
どれも、完全な答えではない。
エドガーが、後ろの書記へ手を出した。
記録鞄が開かれる。
中から。
縁を青く染めた用紙が取り出された。
通常の住民票でも。
出生記録でも。
死亡認定書でもない。
用紙の上部に。
新しい名が印字されている。
> 生存再確認票
グレアムが眉を寄せた。
「聞いたことがないぞ」
「当然だ。書式名は先ほど定めた」
「先ほど?」
「新しい法律を作ったわけではない」
エドガーは青縁の用紙を持ったまま答えた。
「中央記録庁の特別監査官には、重大な身分記録の矛盾が生じた場合、既存の身分記録を抹消せず、その効力と参照を緊急保留する権限が認められている」
クララの前へ。
用紙を置く。
「既存の身元不明者保護制度では、身元確定前の者にも、医療、移動、市警保護を受けるための仮番号を発行できる」
「それを使うの?」
ミラベルが尋ねた。
「死亡登録と生存確認が衝突した者へ転用する」
エドガーは答えた。
「《生存再確認票》は、その二つを接続するための暫定書式だ」
エレノアが呆れた顔をする。
「そんな使い方、今までなかったの?」
「なかった」
「だから作った?」
「作ったのは書式だ。権限と保護制度は、すでに存在している」
「名前だけ、いま考えたのね」
「名称のない票は、運用できない」
携帯印字器が廊下の壁際へ置かれる。
書記が蒸気管の小さな接続口を探し。
病院の事務用管へ器具をつなぐ。
圧力弁を開く。
機械の内部で、小さな活字輪が回り始めた。
「《生存再確認票》は、死亡記録を抹消するものではない」
エドガーは用紙をクララへ見せた。
「死亡認定と、生存確認が同時に存在する状態を、行政上の矛盾として保留する」
「矛盾したまま?」
ミラベルが尋ねる。
「事実が矛盾しているのではない」
エドガーは答えた。
「記録同士が矛盾している」
死亡記録。
生存確認。
どちらも。
いま、この都市に存在する。
「特別監査官の緊急身分保留権限により、死亡記録は再審査が終わるまで凍結する。保険金、遺産、契約終了、口座閉鎖に関する追加処理も停止」
「すでに終わったものは?」
「取り消さない。新たに動かさない」
エドガーは用紙の項目を指した。
「生存再確認票の発行対象者は、本人確認が完了するまで、身元不明者保護制度に準じた中央記録庁の特別保護下へ置かれる」
保護対象者仮名。
ハロルド=フェイン。
現行記録状態。
死亡。
確認された身体状態。
生存。
身元状態。
再確認中。
発見場所。
市民死亡照合局旧証言保管庫。
確認者。
市警。
中央記録庁監査員。
ミラベル=ワトリア。
エレノア=クラウス。
医療担当者。
それぞれの欄が。
一つずつ埋められていく。
「この票によって、病院は対象者本人の名を仮使用して、すでに開始している治療の記録を接続できる」
受付書記が、青縁の用紙へ目を向ける。
「死亡登録との重複エラーは?」
「この票の番号を優先照合番号として入力する。死亡記録を削除せず、参照を保留する」
「薬剤記録も?」
「可能だ」
「入院契約は?」
「中央記録庁が保証人となる」
書記は、すぐに別の帳簿を開いた。
先ほどまで処置をハロルドの名へ所属させられなかった人物が。
新しい記録を受け取った瞬間。
その名と治療記録を接続するために動き始める。
人が変わったのではない。
扉を開ける紙ができた。
「退院後は?」
クララが問う。
「正式な身元再認定まで、指定住居または市警保護下の住所へ移動できる」
「家へ帰れないんですか」
「現在の住居契約には、ハロルド=フェインは存在しない」
「私の家です」
「契約上は、あなた一人の家だ」
冷たい答えだった。
けれど。
エドガーはそこで終わらなかった。
「生存再確認票を添付すれば、保護対象者として一時居住を認められる。家主が拒否した場合、中央記録庁が仮住居を用意する」
「銀行口座は?」
「閉鎖状態を維持する」
クララの顔が曇る。
「ただし、本人の生活費と医療費については、凍結資産の一部を監査管理下で使用できる」
「仕事は?」
「死亡照合局への復職は、捜査と身元再認定の終了後だ」
ハロルドが戻りたいと望むか。
同じ場所で働けるのか。
それはまだ分からない。
「証言はできますか」
ミラベルが尋ねた。
「死亡者の証言として退けられませんか」
「そのための票でもある」
エドガーは、生存再確認票の下段を示した。
> 本票の対象者は、正式な身元再認定が完了するまで、
> 現在の身体状態および発見後の経験について、
> 生存者として証言する資格を有する。
「発見以前の身分や契約については、再認定まで法的判断を保留する」
「つまり」
エレノアが言った。
「ハロルドが、地下に閉じ込められていたことは証言できる。でも、ハロルドとして持っていた口座をすぐ使うことはできない」
「そのとおり」
「面倒ね」
「人間を一人、死亡記録から戻すのだ。簡単な方が危険だ」
エレノアは反論しなかった。
嫌いな答えではある。
だが。
間違ってはいない。
死亡記録を簡単に消せるなら。
ドーンとは別の方法で。
誰かが人の生死を都合よく書き換えられる。
「記録によって殺された者を救うなら、救出後の記録まで用意したまえ」
エドガーは、ミラベルとエレノアを見た。
「生きていると叫ぶだけでは、病院の扉も銀行の金庫も開かない」
その言葉は。
慰めではなかった。
二人が地下へ入り。
蒸気弁を止め。
ハロルドの二度目の死を防いだ。
それだけでは。
彼を社会へ戻せない。
「それを、最初から考えていたんですか」
ミラベルが尋ねた。
「再審査会で、ハロルドの生存可能性が高まった時点から」
「なら、どうして先に言わなかったの?」
エレノアが問う。
「救出できなければ、適用しない書式だった」
「縁起が悪い」
「行政は、成功を前提に身分記録を発行しない」
「でも用意してた」
「必要になる可能性に備えた」
「それを普通は、成功を信じてたって言うのよ」
エドガーは答えなかった。
書記へ視線を向ける。
「印字を」
携帯印字器へ。
生存再確認票が差し込まれる。
活字輪が回る。
一文字ずつ。
ハロルド=フェイン。
その名が。
死亡欄ではない場所へ印字されていく。
現行身分。
死亡。
身体状態。
生存。
二つの相反する言葉が。
同じ紙の上へ並んだ。
印字が終わる。
エドガーが署名する。
中央記録庁特別監査官印。
続いてグレアム。
市警保護責任者印。
病院の医師。
生存確認者印。
ミラベルとエレノアは。
発見確認者の欄へ署名した。
エレノアがペンを置いたあと。
自分の名を見つめる。
「これで、生きてることになる?」
「違うわ」
ミラベルが答えた。
「生きていることは、最初から事実よ」
「では?」
「その事実を、病院と記録庁が扱えるようになった」
エドガーが用紙を持ち上げた。
インクを乾かす。
「正確には」
彼は言った。
「生きている者を、生きている者として保護できるようになった」
受付書記が票を受け取る。
記録機へ番号を入力する。
先ほど。
死亡。
登録不能。
そう吐き出した機械が、もう一度動く。
歯車。
活字輪。
照合針。
短い作動音。
今度は。
青い札が出てきた。
> ハロルド=フェイン
> 生存再確認中
> 医療受入可
書記は、その札を医療帳簿へ留めた。
「ハロルド=フェインさんの入院登録を行います」
初めて。
病院の中で。
彼の名前が患者として呼ばれた。
クララは何も言わなかった。
両手で口元を押さえる。
涙が。
指の間から落ちた。
それは。
夫が戻った喜びだけではない。
名前が戻り始めたことへの涙だった。
処置室の扉が開いた。
先ほどの医師が出てくる。
「呼吸は安定しました」
クララが立ち上がる。
「会えますか」
「短時間なら」
医師は受付へ目を向けた。
書記が青い登録札を確認する。
「保護関係者、クララ=フェイン」
関係欄。
妻と申告。
身分再確認中。
「入室を許可します」
クララは。
扉へ向かいかけた。
途中で振り返る。
ミラベル。
エレノア。
グレアム。
ネラ。
そしてエドガーを見る。
「ありがとうございます」
誰に向けた言葉か。
一人には決められなかった。
ミラベルは首を振った。
「まだ、すべて戻ったわけではありません」
「分かっています」
クララは答えた。
「でも、今度は探してもらえます」
十三週間前。
保険金を受け取れば。
もう誰も夫を探さなくなると、彼女は言った。
いま。
死亡記録は、まだ残っている。
銀行も。
住居も。
職場も。
婚姻記録も、完全には元へ戻っていない。
それでも。
ハロルド=フェインは。
再び、探すべき人間。
治療すべき患者。
守るべき証人として。
都市の記録へ書き加えられた。
クララが処置室へ入る。
扉が閉じる寸前。
白い寝台の上で。
ハロルドが、わずかに顔を動かすのが見えた。
クララがそばへ寄り。
その手を取る。
扉が閉じた。
エレノアは。
エドガーの手元に残った生存再確認票の控えを見ていた。
「兄さまにも使える?」
廊下の空気が。
一瞬だけ止まった。
ミラベルは、エレノアを見る。
グレアムも。
エドガーへ視線を向けた。
レオン=クラウス。
死亡推定。
遺体なし。
生存確認なし。
ハロルドとは。
まだ条件が違う。
「生存を確認できれば」
エドガーは答えた。
それだけだった。
知っていることを。
それ以上は語らない。
「確認してみせるわ」
エレノアが言った。
「信じるだけでは、発行できない」
「分かってる」
以前なら。
そこで怒ったかもしれない。
だがエレノアは。
青い票へ目を落としたまま答えた。
「だから、証明する」
ミラベルは。
否定しなかった。
肯定もしない。
ただ。
エレノアの隣に立った。
今回、生きていることを証明できたのは。
信じた者がいたからだけではない。
手紙があり。
証言があり。
複写票があり。
監禁場所があり。
救出した者がいて。
医師が脈を確認し。
市警が記録し。
中央記録庁が、既存の権限と保護制度を使い、矛盾を矛盾のまま受け入れる暫定書式を発行したからだった。
エドガーは生存再確認票の控えを記録鞄へ収めた。
「ワトリア嬢」
「はい」
「この票は緊急保護のための暫定措置だ。正式な身元再認定には、さらに証拠が必要になる」
「ハロルドさんの筆跡、身体記録、職場記録、クララさんの確認」
「救出時の状況。ドーンの供述。死亡認定に使用された遺体の再照合」
「分かっています」
「そして」
エドガーは、わずかに言葉を切った。
「ハロルド=フェインの名を与えられた死者へ、本来の名を返す必要がある」
ミラベルは頷いた。
生きている男を記録へ戻すこと。
それだけでは。
事件は終わらない。
火災で死亡した男は。
いまもハロルド=フェインの墓に埋葬されている。
自分の死を奪われたまま。
「調べます」
ミラベルは言った。
「今度は、死んだ方の人を」
エレノアが続けた。
「一件ずつ」
「ええ」
病院の時計が。
午前九時を鳴らした。
正常な時刻。
九度の鐘。
廊下では。
看護師が患者名を呼び。
書記が入院票を運び。
薬剤師が処方番号を照合している。
その一つに。
ハロルド=フェインの名があった。
完全に戻ったわけではない。
死亡記録も、まだ消えていない。
けれど。
その名はもう。
死者の欄にだけ所属してはいなかった。




