↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
186/228

第13節 ― 生きていることの証明

 ハロルド=フェインを乗せた救護車は、市立第一病院の正面玄関で止められた。


 馬車を改造した救護車両ではない。


 車体の下へ小型蒸気機関を積み、急患を市内各区から運ぶための白い車だった。


 側面には赤い救護章。


 屋根では警告鐘が鳴り続けている。


 それでも。


 病院の鉄扉は、すぐには開かなかった。


「患者名を」


 受付窓口の書記が言った。


 硝子越しの声は、急いでいた。


 冷たいのではない。


 担架の上で呼吸を乱している男を見て、早く処理しようとしている声だった。


「ハロルド=フェイン」


 グレアムが答えた。


 書記は患者登録機の鍵盤を叩いた。


 真鍮の活字輪が回転する。


 名前。


 生年月日。


 住民番号。


 ネラが横から、死亡照合局に残っていた職員番号を読み上げた。


 書記が最後の鍵を押す。


 機械の内部で歯車が噛み合い。


 短い警告音が鳴った。


 赤い札が、印字口から吐き出された。


> 登録不能

> 対象者・死亡


 書記の手が止まった。


 彼女は赤い札を見たあと。


 担架の上の男を見た。


 ハロルドは目を閉じている。


 それでも胸は上下していた。


 浅く。


 苦しげに。


 確実に。


「治療は止めません」


 書記は、先にそう言った。


「救急処置は開始できます。ですが、その処置記録をハロルド=フェインという患者へ所属させることができません」


「機械が間違っています」


 クララが言った。


 彼女は救護車が到着するより早く病院へ来ていた。


 グレアムからの連絡を受け。


 仕立屋の仕事着のまま。


 外套の留め金さえ掛けずに駆けてきた。


 顔には血の気がない。


 それでも、ハロルドの担架から一歩も離れていなかった。


「この人は生きています」


「分かっています」


 受付書記は困惑しながら答えた。


「ですが、現在の登録では、ハロルド=フェインという患者番号を発行できません」


「目の前にいるでしょう!」


「クララさん」


 ミラベルが彼女の腕へ触れた。


 クララは振り払わなかった。


 ただ、受付の向こうにいる書記を睨んでいる。


 夫を探し続けた十三週間。


 ようやく目の前へ戻ってきた男を。


 また一枚の紙が拒もうとしていた。


 担架の脇で、医師がハロルドの瞼を開いた。


 瞳孔を確かめ。


 脈を取り。


 胸へ聴診器を当てる。


「脱水。熱傷の疑い。蒸気吸入による気道損傷も考えられる」


 医師は受付へ向けて言った。


「名前が何であれ、治療室へ運ぶ」


「先生、患者番号が――」


「仮番号を発行しろ」


「身元不明者としてですか」


 医師の眉が動く。


 その言葉を聞いたクララの指が、ハロルドの担架を強くつかんだ。


「身元不明ではありません」


「分かっています、奥様」


 医師が言う。


「治療を拒んでいるわけではありません。正式な患者登録ができなければ、治療薬の管理も、入院室の割り当ても、血液記録の照合もできない。まず仮番号で処置を始めます」


「ハロルドという名前では、治療したことを残せない?」


 エレノアが尋ねた。


「そうだ」


 医師は即座に答えた。


「身体は治療できる。だが、その治療記録をハロルド=フェインへ所属させられない」


 エレノアの表情が固くなる。


 生きている男の呼吸を救うことはできる。


 けれど。


 その呼吸が誰のものなのかを、病院は記録できない。


「仮番号を出してください」


 ミラベルが言った。


「まず処置を」


 クララが振り返る。


「でも、それではまた――」


「名前を失うわけではありません」


 ミラベルは、はっきりと言った。


「いまは命を先に守ります。ハロルドさんの名前は、私たちが記録しています」


 自分の取材帳を示す。


 そこには。


> 午前七時四十一分。

> 市民死亡照合局旧証言保管庫において、ハロルド=フェインの生存を確認。


 そう記されている。


 市警の救出記録も。


 死亡照合局の監査記録も。


 ハロルドを生存者として運んだ救護記録も残っている。


 ただし。


 それらは、まだ死亡記録を消してはいない。


「仮番号を」


 グレアムも言った。


「あとで俺の捜査記録と接続する」


 受付書記が新しい札を機械へ入れた。


 氏名欄を空白にし。


 救護対象。


 身元再確認中。


 市警保護。


 そう入力する。


 今度は赤い警告札ではなく。


 白い仮登録票が出てきた。


 医師がそれを受け取り。


 担架の脚を押した。


「処置室へ」


 看護師たちが動く。


 担架が鉄扉を抜けた。


 クララも追おうとする。


「ご家族は、こちらでお待ちください」


 看護師に止められる。


「妻です」


 クララが言った。


 受付書記が、死亡記録を見たまま答えられない。


 死亡している男に。


 現在の妻はいない。


 記録上。


 クララは未亡人だった。


「私は妻です」


 クララは、もう一度言った。


 先ほどより小さな声だった。


 自分へ言い聞かせているのではない。


 紙に対して。


 病院に対して。


 都市に対して。


 十三週間前と変わっていない事実を告げる声だった。


「私が証明します」


 ミラベルが言った。


「ハロルドさんを依頼人として受けたクララ=フェインさんです。救出された男性が、ご主人を名乗っていることも確認しています」


「記者の証言では、家族登録は変更できません」


 受付書記は申し訳なさそうに言った。


「分かっています」


 ミラベルは答えた。


「変更を求めているのではありません。治療が終わるまで、家族として待機できるよう記録してください」


「それも、現在の死亡記録では――」


「病院は、家族であることを確定しなくても、保護関係者を登録できるはずよ」


 エレノアが口を挟んだ。


 書記が彼女を見る。


「緊急時の連絡先。身元不明患者でも、発見者や同行者を登録するでしょう」


「発見者としてなら」


「では、それで」


 クララは言った。


 妻ではなく。


 発見者。


 その言葉に顔を歪めながらも。


「いまは、それで構いません」


 受付書記は、新しい用紙を取り出した。


 保護関係者。


 クララ=フェイン。


 関係欄で、ペンが止まる。


「妻、と書いてください」


 クララが言う。


「正式記録と矛盾します」


「では、本人申告で」


 ミラベルが言った。


「関係――妻と申告。身分再確認中」


 書記は少し考え。


 そのとおりに記した。


 紙は。


 死亡記録を覆していない。


 だが。


 クララを、ただの他人として扉の外へ置き去りにはしなかった。


 廊下の奥で。


 処置室の扉が閉じた。


 硝子の向こうを、白衣が行き交う。


 蒸気吸入器。


 点滴瓶。


 消毒薬。


 ハロルドの身体を救うための物が、次々と運び込まれていく。


 クララは扉の前の長椅子へ座った。


 両手を膝の上で重ねる。


 仕立職人の指。


 細かな針傷。


 十三週間、封筒を開けずに守った手。


 その指が。


 今は震えていた。


「会いましたか」


 ミラベルが尋ねた。


 クララは頷いた。


「救護車へ乗せられる前に」


 声が掠れている。


「顔が、ずいぶん変わっていました」


「十三週間ですから」


「でも」


 クララは処置室の扉を見る。


「私の名を呼びました」


 それだけで。


 彼女にとっては本人だった。


 だが、都市は。


 その一言だけでは、死亡記録を覆さない。


 本人の申告。


 妻の確認。


 職場記録。


 身体特徴。


 筆跡。


 医療記録。


 救出場所。


 ドーンの犯罪。


 それらを正式に照合し。


 ハロルド=フェインの死亡認定を無効にするまで。


 彼は生者でありながら。


 死亡者でもある。


 グレアムが壁へ背を預けた。


 煤と蒸気で汚れた上着のまま。


 腕を組む。


「病院はこれで通った」


「仮番号で、です」


 ミラベルが答える。


「退院したらどうなるの?」


 エレノアが尋ねた。


 誰も、すぐには答えられなかった。


 ハロルドの住居契約は解除されている。


 クララが暮らしている家も。


 記録上は、未亡人一人の住居になっている。


 死亡者を同居人として追加することはできない。


 銀行口座は閉鎖。


 給与記録も終了。


 職員身分も失効。


 通行証も無効。


 死亡照合局の庁舎から病院まで。


 市警の保護下だから移動できた。


 だが。


 この病院から出るとき。


 誰として外へ出るのか。


「市警の保護対象として置く」


 グレアムが言った。


「捜査が終わるまで、保護施設へ――」


「その手続きにも身元が必要です」


 廊下の向こうから声がした。


 エドガー=クラウスが歩いてきた。


 黒い外套。


 銀色の杖。


 後ろには、中央記録庁の書記が二人。


 一人は大型の記録鞄を持ち。


 もう一人は、小型の携帯印字器を台車で運んでいる。


 エドガー自身は。


 いつもと変わらない歩調だった。


 地下で火災警報が鳴り。


 殺人未遂が起き。


 弟の妹が危険な配管路へ入り。


 死亡していた男が救出されたあとでも。


 急ぐべき時刻を、すでに計算し終えている男の歩き方だった。


「遅いわ」


 エレノアが言った。


「地下から病院まで、救護車と競走する趣味はない」


「兄さまなら先に着いてた」


「レオンなら、病院へ運ばれる前に患者を質問攻めにして、医師から追い出されている」


「否定できないわね」


 エドガーはクララの前で立ち止まった。


「クララ=フェイン夫人」


 夫人。


 受付書記が書けなかった呼称を。


 彼は迷わず使った。


「はい」


「ご主人の救出は確認した。正式な身元再認定手続きを、本日付で開始する」


 クララは立ち上がった。


「いつ、死亡記録が消えますか」


「消えない」


 エドガーは答えた。


 あまりに即答だったため。


 クララの顔が凍った。


「少なくとも、ただちには」


 エドガーは続ける。


「成立した死亡記録を、確認なしに消去すれば、その記録に基づいて行われたすべての行政処理が宙に浮く」


「間違った記録です」


「間違っていたことを、正式に確定する必要がある」


「本人が生きているのに?」


「本人を名乗る生存者がいることは確認された」


 クララの唇が開く。


 エレノアも一歩出た。


 ミラベルは止めなかった。


 エドガーは。


 怒りを受けるべき言葉だと分かって、あえて言っている。


「本人です」


 クララが言った。


「私には分かります」


「あなたの確認は、重要な証言だ」


「証言?」


「だが、一人の証言だけで死亡記録を覆せば、ドーンが行ったことと同じになる」


 クララの顔から。


 怒りが消えたわけではない。


 ただ。


 言葉を飲み込む。


 ハロルドの死も。


 七件の正しい証言を一人分へまとめることで作られた。


 今度は。


 妻が本人だと言ったからという理由だけで。


 反対の結論を先に置くことはできない。


「ハロルドさんの生存を疑っているわけではありません」


 ミラベルが言った。


「確かめた事実を、正式な記録へ戻す手続きが必要なんです」


「その間」


 クララは処置室の扉を見る。


「この人は、誰なんですか」


 問いに。


 廊下の誰も答えなかった。


 生存者。


 身元再確認中。


 仮登録患者。


 市警保護対象。


 ハロルド=フェインを名乗る男。


 どれも、完全な答えではない。


 エドガーが、後ろの書記へ手を出した。


 記録鞄が開かれる。


 中から。


 縁を青く染めた用紙が取り出された。


 通常の住民票でも。


 出生記録でも。


 死亡認定書でもない。


 用紙の上部に。


 新しい名が印字されている。


> 生存再確認票


 グレアムが眉を寄せた。


「聞いたことがないぞ」


「当然だ。書式名は先ほど定めた」


「先ほど?」


「新しい法律を作ったわけではない」


 エドガーは青縁の用紙を持ったまま答えた。


「中央記録庁の特別監査官には、重大な身分記録の矛盾が生じた場合、既存の身分記録を抹消せず、その効力と参照を緊急保留する権限が認められている」


 クララの前へ。


 用紙を置く。


「既存の身元不明者保護制度では、身元確定前の者にも、医療、移動、市警保護を受けるための仮番号を発行できる」


「それを使うの?」


 ミラベルが尋ねた。


「死亡登録と生存確認が衝突した者へ転用する」


 エドガーは答えた。


「《生存再確認票》は、その二つを接続するための暫定書式だ」


 エレノアが呆れた顔をする。


「そんな使い方、今までなかったの?」


「なかった」


「だから作った?」


「作ったのは書式だ。権限と保護制度は、すでに存在している」


「名前だけ、いま考えたのね」


「名称のない票は、運用できない」


 携帯印字器が廊下の壁際へ置かれる。


 書記が蒸気管の小さな接続口を探し。


 病院の事務用管へ器具をつなぐ。


 圧力弁を開く。


 機械の内部で、小さな活字輪が回り始めた。


「《生存再確認票》は、死亡記録を抹消するものではない」


 エドガーは用紙をクララへ見せた。


「死亡認定と、生存確認が同時に存在する状態を、行政上の矛盾として保留する」


「矛盾したまま?」


 ミラベルが尋ねる。


「事実が矛盾しているのではない」


 エドガーは答えた。


「記録同士が矛盾している」


 死亡記録。


 生存確認。


 どちらも。


 いま、この都市に存在する。


「特別監査官の緊急身分保留権限により、死亡記録は再審査が終わるまで凍結する。保険金、遺産、契約終了、口座閉鎖に関する追加処理も停止」


「すでに終わったものは?」


「取り消さない。新たに動かさない」


 エドガーは用紙の項目を指した。


「生存再確認票の発行対象者は、本人確認が完了するまで、身元不明者保護制度に準じた中央記録庁の特別保護下へ置かれる」


 保護対象者仮名。


 ハロルド=フェイン。


 現行記録状態。


 死亡。


 確認された身体状態。


 生存。


 身元状態。


 再確認中。


 発見場所。


 市民死亡照合局旧証言保管庫。


 確認者。


 市警。


 中央記録庁監査員。


 ミラベル=ワトリア。


 エレノア=クラウス。


 医療担当者。


 それぞれの欄が。


 一つずつ埋められていく。


「この票によって、病院は対象者本人の名を仮使用して、すでに開始している治療の記録を接続できる」


 受付書記が、青縁の用紙へ目を向ける。


「死亡登録との重複エラーは?」


「この票の番号を優先照合番号として入力する。死亡記録を削除せず、参照を保留する」


「薬剤記録も?」


「可能だ」


「入院契約は?」


「中央記録庁が保証人となる」


 書記は、すぐに別の帳簿を開いた。


 先ほどまで処置をハロルドの名へ所属させられなかった人物が。


 新しい記録を受け取った瞬間。


 その名と治療記録を接続するために動き始める。


 人が変わったのではない。


 扉を開ける紙ができた。


「退院後は?」


 クララが問う。


「正式な身元再認定まで、指定住居または市警保護下の住所へ移動できる」


「家へ帰れないんですか」


「現在の住居契約には、ハロルド=フェインは存在しない」


「私の家です」


「契約上は、あなた一人の家だ」


 冷たい答えだった。


 けれど。


 エドガーはそこで終わらなかった。


「生存再確認票を添付すれば、保護対象者として一時居住を認められる。家主が拒否した場合、中央記録庁が仮住居を用意する」


「銀行口座は?」


「閉鎖状態を維持する」


 クララの顔が曇る。


「ただし、本人の生活費と医療費については、凍結資産の一部を監査管理下で使用できる」


「仕事は?」


「死亡照合局への復職は、捜査と身元再認定の終了後だ」


 ハロルドが戻りたいと望むか。


 同じ場所で働けるのか。


 それはまだ分からない。


「証言はできますか」


 ミラベルが尋ねた。


「死亡者の証言として退けられませんか」


「そのための票でもある」


 エドガーは、生存再確認票の下段を示した。


> 本票の対象者は、正式な身元再認定が完了するまで、

> 現在の身体状態および発見後の経験について、

> 生存者として証言する資格を有する。


「発見以前の身分や契約については、再認定まで法的判断を保留する」


「つまり」


 エレノアが言った。


「ハロルドが、地下に閉じ込められていたことは証言できる。でも、ハロルドとして持っていた口座をすぐ使うことはできない」


「そのとおり」


「面倒ね」


「人間を一人、死亡記録から戻すのだ。簡単な方が危険だ」


 エレノアは反論しなかった。


 嫌いな答えではある。


 だが。


 間違ってはいない。


 死亡記録を簡単に消せるなら。


 ドーンとは別の方法で。


 誰かが人の生死を都合よく書き換えられる。


「記録によって殺された者を救うなら、救出後の記録まで用意したまえ」


 エドガーは、ミラベルとエレノアを見た。


「生きていると叫ぶだけでは、病院の扉も銀行の金庫も開かない」


 その言葉は。


 慰めではなかった。


 二人が地下へ入り。


 蒸気弁を止め。


 ハロルドの二度目の死を防いだ。


 それだけでは。


 彼を社会へ戻せない。


「それを、最初から考えていたんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「再審査会で、ハロルドの生存可能性が高まった時点から」


「なら、どうして先に言わなかったの?」


 エレノアが問う。


「救出できなければ、適用しない書式だった」


「縁起が悪い」


「行政は、成功を前提に身分記録を発行しない」


「でも用意してた」


「必要になる可能性に備えた」


「それを普通は、成功を信じてたって言うのよ」


 エドガーは答えなかった。


 書記へ視線を向ける。


「印字を」


 携帯印字器へ。


 生存再確認票が差し込まれる。


 活字輪が回る。


 一文字ずつ。


 ハロルド=フェイン。


 その名が。


 死亡欄ではない場所へ印字されていく。


 現行身分。


 死亡。


 身体状態。


 生存。


 二つの相反する言葉が。


 同じ紙の上へ並んだ。


 印字が終わる。


 エドガーが署名する。


 中央記録庁特別監査官印。


 続いてグレアム。


 市警保護責任者印。


 病院の医師。


 生存確認者印。


 ミラベルとエレノアは。


 発見確認者の欄へ署名した。


 エレノアがペンを置いたあと。


 自分の名を見つめる。


「これで、生きてることになる?」


「違うわ」


 ミラベルが答えた。


「生きていることは、最初から事実よ」


「では?」


「その事実を、病院と記録庁が扱えるようになった」


 エドガーが用紙を持ち上げた。


 インクを乾かす。


「正確には」


 彼は言った。


「生きている者を、生きている者として保護できるようになった」


 受付書記が票を受け取る。


 記録機へ番号を入力する。


 先ほど。


 死亡。


 登録不能。


 そう吐き出した機械が、もう一度動く。


 歯車。


 活字輪。


 照合針。


 短い作動音。


 今度は。


 青い札が出てきた。


> ハロルド=フェイン

> 生存再確認中

> 医療受入可


 書記は、その札を医療帳簿へ留めた。


「ハロルド=フェインさんの入院登録を行います」


 初めて。


 病院の中で。


 彼の名前が患者として呼ばれた。


 クララは何も言わなかった。


 両手で口元を押さえる。


 涙が。


 指の間から落ちた。


 それは。


 夫が戻った喜びだけではない。


 名前が戻り始めたことへの涙だった。


 処置室の扉が開いた。


 先ほどの医師が出てくる。


「呼吸は安定しました」


 クララが立ち上がる。


「会えますか」


「短時間なら」


 医師は受付へ目を向けた。


 書記が青い登録札を確認する。


「保護関係者、クララ=フェイン」


 関係欄。


 妻と申告。


 身分再確認中。


「入室を許可します」


 クララは。


 扉へ向かいかけた。


 途中で振り返る。


 ミラベル。


 エレノア。


 グレアム。


 ネラ。


 そしてエドガーを見る。


「ありがとうございます」


 誰に向けた言葉か。


 一人には決められなかった。


 ミラベルは首を振った。


「まだ、すべて戻ったわけではありません」


「分かっています」


 クララは答えた。


「でも、今度は探してもらえます」


 十三週間前。


 保険金を受け取れば。


 もう誰も夫を探さなくなると、彼女は言った。


 いま。


 死亡記録は、まだ残っている。


 銀行も。


 住居も。


 職場も。


 婚姻記録も、完全には元へ戻っていない。


 それでも。


 ハロルド=フェインは。


 再び、探すべき人間。


 治療すべき患者。


 守るべき証人として。


 都市の記録へ書き加えられた。


 クララが処置室へ入る。


 扉が閉じる寸前。


 白い寝台の上で。


 ハロルドが、わずかに顔を動かすのが見えた。


 クララがそばへ寄り。


 その手を取る。


 扉が閉じた。


 エレノアは。


 エドガーの手元に残った生存再確認票の控えを見ていた。


「兄さまにも使える?」


 廊下の空気が。


 一瞬だけ止まった。


 ミラベルは、エレノアを見る。


 グレアムも。


 エドガーへ視線を向けた。


 レオン=クラウス。


 死亡推定。


 遺体なし。


 生存確認なし。


 ハロルドとは。


 まだ条件が違う。


「生存を確認できれば」


 エドガーは答えた。


 それだけだった。


 知っていることを。


 それ以上は語らない。


「確認してみせるわ」


 エレノアが言った。


「信じるだけでは、発行できない」


「分かってる」


 以前なら。


 そこで怒ったかもしれない。


 だがエレノアは。


 青い票へ目を落としたまま答えた。


「だから、証明する」


 ミラベルは。


 否定しなかった。


 肯定もしない。


 ただ。


 エレノアの隣に立った。


 今回、生きていることを証明できたのは。


 信じた者がいたからだけではない。


 手紙があり。


 証言があり。


 複写票があり。


 監禁場所があり。


 救出した者がいて。


 医師が脈を確認し。


 市警が記録し。


 中央記録庁が、既存の権限と保護制度を使い、矛盾を矛盾のまま受け入れる暫定書式を発行したからだった。


 エドガーは生存再確認票の控えを記録鞄へ収めた。


「ワトリア嬢」


「はい」


「この票は緊急保護のための暫定措置だ。正式な身元再認定には、さらに証拠が必要になる」


「ハロルドさんの筆跡、身体記録、職場記録、クララさんの確認」


「救出時の状況。ドーンの供述。死亡認定に使用された遺体の再照合」


「分かっています」


「そして」


 エドガーは、わずかに言葉を切った。


「ハロルド=フェインの名を与えられた死者へ、本来の名を返す必要がある」


 ミラベルは頷いた。


 生きている男を記録へ戻すこと。


 それだけでは。


 事件は終わらない。


 火災で死亡した男は。


 いまもハロルド=フェインの墓に埋葬されている。


 自分の死を奪われたまま。


「調べます」


 ミラベルは言った。


「今度は、死んだ方の人を」


 エレノアが続けた。


「一件ずつ」


「ええ」


 病院の時計が。


 午前九時を鳴らした。


 正常な時刻。


 九度の鐘。


 廊下では。


 看護師が患者名を呼び。


 書記が入院票を運び。


 薬剤師が処方番号を照合している。


 その一つに。


 ハロルド=フェインの名があった。


 完全に戻ったわけではない。


 死亡記録も、まだ消えていない。


 けれど。


 その名はもう。


 死者の欄にだけ所属してはいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。