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第12節 ― 二度目の死

 市民死亡照合局の地下へ続く階段は、すでに熱を持っていた。


 石段そのものが熱いのではない。


 壁の内部を走る蒸気管が唸り、鉄製の手摺へ触れるたび、低い振動が掌へ伝わってくる。


 警報鐘。


 圧力弁の断続音。


 上階から避難してくる職員たちの足音。


 それらが狭い階段筒の中で反響し、どの音が上から来るのか、下から来るのかさえ分からなくなっていた。


「止まれ!」


 先頭を走っていたグレアムが、踊り場で片腕を広げた。


 すぐ後ろにいた警官二人が、壁へぶつかりそうになって踏み止まる。


 エレノアは警部の脇から、下の通路を覗いた。


 白い蒸気が、床を這っている。


 通常の排気なら、天井付近へ上がるはずだった。


 冷えた床へ沿っているということは。


「水分が多い」


 エレノアが言った。


「主弁を開いたばかりね。管の中に溜まっていた凝結水が、一緒に押し出されてる」


 グレアムは床へ膝をついた。


 手袋を外し。


 蒸気の届いていない石床へ指を当てる。


 次に、壁際の鉄管へ手の甲を近づけた。


 触れない。


 熱を距離で測る。


「急激に圧が上がってる」


 彼は顔を上げた。


「炉が動いてから、まだ数分だ」


「廃棄炉の点火管は、この下です」


 ネラが階段の上から声を掛けた。


 彼女はエドガーの指示で地上へ残るはずだった。


 だが、地下構造を知る職員が必要だとグレアムに求められ、入口まで同行している。


「点火管だけか?」


「炉の主蒸気管と、灰排出装置。それから、旧保管庫の環境調整管が同じ幹線から分岐しています」


「環境調整?」


「紙を湿気から守るための温風管です」


 ネラは踊り場の壁に残された、古い配管表示を指した。


 廃棄炉は旧証言保管庫の西側。


 主蒸気弁も、炉の西側にある。


 そこから伸びた幹線が炉の裏へ回り。


 二本の枝管へ分かれていた。


 一方は、旧証言保管庫の環境調整管。


 もう一方は、炉の裏側にある旧点検区画へ通じている。


「監禁室は、どこだ」


 グレアムが尋ねる。


「正式な図面にはありません」


 ネラが答える。


 エレノアは、配管表示の炉裏側を指した。


「このあたり。廃棄炉の東側。私が話した空気管は、旧保管庫から炉の裏へ曲がってた」


「主弁を開けば、枝管にも蒸気が入る?」


「はい」


 ネラは配管表示を追う。


「ただし、監禁室へ通じる枝管には、炉裏側の制御通路に補助弁があるはずです。通常は、環境調整用の低い圧力へ落とすための弁です」


「主弁」


 グレアムが西側を指す。


「補助弁」


 エレノアが炉裏側を指した。


「それとは別に」


 昨日の記憶をたどる。


「配管路の中に、小さな保守弁があった。枝管を点検するとき、流量を絞るためのものだと思う」


 主弁は、幹線全体を止める。


 炉裏側の補助弁は、監禁室へ通じる枝管の圧力を調整する。


 配管路の保守弁は、その枝管の途中にある。


 完全に閉じられるかは分からない。


 それでも。


 監禁室へ流れ込む量を減らせる可能性はある。


「高温の蒸気を、そのまま送れば?」


 グレアムが問う。


 ネラの唇から血の気が引いた。


「保管庫の紙が乾燥します。ですが、圧力制御を外せば――」


「紙だけじゃ済まない」


 グレアムは立ち上がった。


「下に人がいるなら、蒸し焼きだ」


 エレノアは踊り場の手摺を越えようとした。


 グレアムが襟をつかむ。


「正規の階段を使え」


「この先は防火扉が落ちてる。階段からじゃ旧保管庫へ入れない」


「別の道があるんだろう」


「文書昇降機」


「案内しろ」


 グレアムは手を離した。


「ただし、俺より前へ出るな」


「案内する人が後ろにいたら、道が分からないでしょう」


「半歩前だ。それ以上出たら、抱えて戻す」


「できるものなら」


「エレノア」


 階段の上から、ミラベルの声がした。


 二人が振り返る。


 ミラベルは片手で壁を支えながら、息を切らして降りてきた。


 肩から新聞記者用の鞄を掛け。


 もう一方の腕には、細長い防水筒を抱えている。


「遅い」


 エレノアが言った。


「会議室の資料を、証拠保全担当へ引き渡していたんです」


「置いてくればよかったのに」


「七枚を守るために始めた再審査でしょう」


 ミラベルはグレアムへ向き直った。


「ハロルドさんの原証言票七枚と、検死原票一件は、監査官と警官の立会いで封印しました」


「そっちは無事だな」


「はい」


 会議室へ運ばれた七枚は、炉の中にはない。


 検死原票も。


 対象番号変更の複写票も。


 すでに証拠として保全されている。


「ただし、地下の旧保管庫には、過去の統合身元認定に使われた別案件の原証言票が残っています」


 ミラベルは続けた。


「対象番号を付ける前の受付控え。番号変更の経過票。統合後に保存期限を迎え、廃棄待ちとなっていた原証言票です」


「ドーンが燃やしたいのは、そっちか」


「過去の偽装死亡へつながる可能性があります」


 照合索引そのものは、まだ見つかっていない。


 地下に隠されているとも確認されていない。


 だが。


 索引が、旧番号と新しい名を結ぶ記録であるなら。


 旧保管庫の原証言票や変更経過票は、そこに書かれた対応を裏付ける資料になる。


 ドーンが炉を動かした目的の一つが、それらの処分である可能性は高かった。


「ここから先は、警察の捜索です」


 グレアムがミラベルへ言った。


「記者は上へ戻れ」


「証拠の読み方を知っているのは私です」


「炉の止め方は知らんだろう」


「それはネラさんが知っています」


「現場で人間を守るのは俺の仕事だ」


「何が燃やされようとしているのかを判断するのは、私にもできます」


 グレアムの眉間に深い皺が寄った。


 かつてなら。


 ここでレオンが皮肉を言い。


 グレアムが怒鳴り。


 結局、全員で同じ危険な場所へ入っていた。


 だが。


 レオンはいない。


 ミラベルは彼の代わりとして、警部へ逆らいたいのではなかった。


「前へは出ません」


 ミラベルは言った。


「指示にも従います。でも、行かせてください」


「危険になったら戻すぞ」


「分かりました」


「エレノアもだ」


「私は案内役よ」


「危険になったら、最初に戻す」


「不公平だわ」


「年齢順だ」


「警部が最初ね」


「口を動かす暇があるなら行け」


 エレノアは踊り場の壁際へ走った。


 現在の階数表示盤。


 その横にある、文書運搬用昇降機。


 非常停止によって格子扉は閉じられ、回転盤には赤い固定具が掛かっている。


 エレノアは腰から細い鋼片を取り出した。


「昨日、ここを外した」


「昨日?」


 グレアムの声が低くなる。


「その件はあとで聞く」


「もうミラベルに叱られたわ」


「俺の分は別だ」


 鋼片を固定具の隙間へ入れる。


 内部のばねを探り。


 一度押し。


 角度を変え。


 二度目で留め金が外れた。


「開く」


 格子扉を引く。


 昇降籠の中へ。


 エレノア。


 グレアム。


 警官一人。


 続いてミラベルが入る。


 ネラは入口へ残り、壁の通話管を握った。


「私はここで、地上の制御室へ連絡します」


「主蒸気弁を止められるか」


「遠隔停止は、課長権限で封鎖されています。地下の手動主弁を閉じるしかありません」


「場所は?」


「旧廃棄炉の西側。圧力計の下に、赤い弁輪があります」


「補助弁は」


「炉の裏を通る制御通路です。監禁室の外壁沿いにあり、そこから西側の主弁室へ抜けられます」


 監禁室の外。


 補助弁。


 炉裏の制御通路。


 西側の主弁。


 すべてが、廃棄炉を囲むように一続きになっている。


 ドーンが監禁室の前にいたとしても。


 制御通路を通れば、主弁まで短時間で移動できる。


 グレアムが頷く。


「上から圧力を読め。危なくなったら管を三回叩け」


「はい」


 格子扉が閉じた。


 エレノアが回転盤を廃止位置へ合わせる。


 下降レバーを引く。


 昇降籠が沈み始めた。


 第一地下。


 検死保管。


 廃棄管理。


 灯りが上へ消えていく。


 煉瓦の壁だけになったあとも、籠は降下を続けた。


 下へ行くほど。


 空気が熱くなる。


 蒸気が籠の隙間から入り。


 ミラベルの頬と喉へまとわりついた。


 紙を湿気から守るための場所とは思えない。


 防水筒を抱く腕へ、汗が伝う。


「それは何だ」


 グレアムが筒を見た。


「新聞の試し刷りです」


「この状況で記事を持ってきたのか」


「この状況だからです」


「いつ作った」


「昨日、死亡照合局を出たあとです」


 原証言票が二日後に廃棄されると知った時点で。


 ミラベルは黒鴉館へ戻る前に新聞社へ寄っていた。


 七人への聞き取りは。


 すでに各証言者本人へ読み返し、意味が変わっていないことを確認している。


 その取材頁の控えを編集部へ預け。


 七人を七つの欄へ分けた試し組みを、夜勤の組版係へ依頼した。


 公表するためではない。


 原証言票が失われても。


 七人が実際に語った内容まで、一枚の統合報告書に吸収されないようにするためだった。


「昨夜のうちに、写真版用の紙面と活字版の仮組みを始めてもらいました」


 ミラベルは言った。


「午前四時二十九分、ネラさんから廃棄前倒しの証言を受けたあと、黒鴉館の通信管から編集部へ連絡しました。保全用の試し刷りを完成させ、市警と中央記録庁へ封緘して届けるように」


「それから新聞社へ?」


「午前六時前に入り、内容を確認しました。会議室へ向かう前です」


 写真版。


 活字版。


 試し刷り。


 それぞれが。


 会議の始まる前に、別々の場所へ分けられていた。


「燃えるぞ」


 グレアムが言う。


「燃えないよう、写真薬品用の防水筒へ入れてあります」


「何を考えてるんだ、お前たちは」


 グレアムが呟く。


「私は何も持ってきてないわ」


 エレノアが言った。


「お前は自分を持ってきた。それが一番厄介だ」


 籠が停止した。


 格子の向こうは、昨日と同じ旧証言保管庫だった。


 ただし。


 静けさは失われていた。


 天井の古い管が震え。


 継ぎ目から白い蒸気を噴き出している。


 棚の間を、熱い風が走る。


 書類の端がめくれ。


 無数の紙が、互いを擦る音を立てていた。


 廃棄炉の鉄扉の上。


 圧力計の針は、赤い領域へ近づいている。


 炉の内部から。


 ごう、と音がした。


 灰排出口の隙間が赤く光る。


 その手前には。


 記録箱を自動で炉へ送る鉄製の搬送台があった。


 箱が一つ。


 傾く。


 蓋には、赤い廃棄印。


 その下へ。


> 統合身元認定済

> 原証言票・保存期限終了

> 対象番号変更案件


 と記されている。


 ハロルドの七枚ではない。


 過去に統合証言課が扱った、別の死亡認定案件の原証言票だった。


 箱の中から、薄い紙束が滑り落ちる。


 付番前の受付控え。


 証言聴取票。


 旧対象番号を記した経過票。


 火の中へ吸い込まれた。


 紙の角が丸まり。


 黒くなり。


 一瞬だけ、番号と文字が赤く浮かんで消えた。


「始まってる」


 ミラベルが言った。


 会議室へ持ち出された七枚ではない。


 旧保管庫に残されていた。


 過去の別案件の原証言票と。


 統合前の対象を示す経過記録。


 最終報告書が成立したあと。


 正式記録の外側へ置かれ。


 保存期限を迎えた紙だった。


「搬送装置を止めろ!」


 グレアムが警官へ命じる。


 警官が炉脇の制御柱へ向かう。


 鉄の停止レバーを引く。


 動かない。


「固定されてます!」


「叩き折れ!」


 警官が警棒を継ぎ目へ差し込み、体重を掛ける。


 エレノアは別方向へ走り出した。


「こっち!」


「半歩前だと言っただろう!」


「ハロルドは炉の裏!」


 グレアムが追う。


 ミラベルも続いた。


 棚と棚の間。


 熱い風に煽られた紙が舞い上がる。


 証言者の名。


 死亡者の仮番号。


 日付。


 事故名。


 どの紙も、何かを語ろうとしていた。


 だが拾っている時間はない。


 旧保管庫の奥で。


 規則的な金属音が鳴った。


 かん。


 かん。


 昨日より弱い。


 間隔も乱れている。


「ハロルドさん!」


 エレノアが空気管へ駆け寄った。


「聞こえる?」


 管の向こうで。


 何かがぶつかった。


 続いて。


 咳。


「……熱が」


 擦れた声。


「いま開ける!」


「待て」


 グレアムが壁へ近づいた。


 煉瓦の目地。


 管の固定金具。


 床の灰。


 それらを一目で追う。


 壁の左側。


 引き出し棚の下に。


 床へ細い擦過痕がある。


「この棚、動くぞ」


 棚の縁へ手を掛ける。


 警官と二人で引く。


 重い棚が、石床を擦って数寸動いた。


 裏に。


 点検扉が現れる。


 だが扉の表面には。


 錠も取っ手もなかった。


「内側からだけ開く構造」


 エレノアが言った。


「昨日、ハロルドは『炉の裏、点検路、引き出し零』って言った」


 彼女は周囲の引き出し札を読む。


 一。


 二。


 三。


 零はない。


 最下段のさらに下。


 台座へ隠れる位置に。


 番号の削れた小さな引き出しがあった。


 エレノアが指を掛ける。


 引く。


 中には紙ではなく。


 配管路の保守鍵と、折り畳み式の取っ手が収められていた。


「これ」


 取っ手を扉中央の四角い穴へ差す。


 回す。


 途中で止まった。


「圧力が掛かってる」


 扉の向こう側から、熱気が押している。


 グレアムが取っ手を奪い。


 両手で回した。


 筋肉が張る。


 金属が軋む。


 それでも動かない。


 上方の通話管から。


 三度。


 金属音が響いた。


 ネラの警告。


 圧力がさらに上がった。


「主弁を先に止める!」


 グレアムは取っ手を戻した。


「西側の主弁室へ行く。警官一名、来い!」


 炉の西側。


 主蒸気幹線を止める赤い弁輪。


 監禁室とは、炉裏の制御通路を挟んだ反対側にある。


 グレアムは警官を伴い、廃棄炉の横へ走った。


「私も行きます」


 ミラベルが追おうとする。


「待って」


 エレノアが呼び止めた。


 目は、壁際の細い空気管へ向いている。


「太い点検扉は圧力で開かない。でも、配管路なら」


「どこ?」


 エレノアは壁を見上げた。


 環境調整管の脇。


 人の肩幅より狭い、古い点検口がある。


 格子は錆び。


 ねじが半分外れていた。


「昨日、昇降筒へ逃げる途中で見た。配管工が枝管と保守弁を点検するための道よ」


「入れるの?」


「私は」


「危険よ」


「一人で行かないって約束した」


 エレノアはミラベルを見る。


「だから、先に言うわ。私はここから入る」


「言えば何をしてもいいという約束ではありません」


「ハロルドが死ぬ」


 管の向こうから。


 激しい咳が聞こえた。


 ミラベルは言葉を失う。


 時間はない。


 グレアムが主弁を止められる保証もない。


 点検扉が開くまで、ハロルドが耐えられるかも分からない。


「縄を結んで」


 ミラベルは鞄から取材用の細縄を出した。


「腰へ。引けなくなったら、二回。戻してほしいときは三回引いて」


「一回は?」


「進めるという合図」


「分かった」


 エレノアは外套を脱いだ。


 腰へ縄を結ぶ。


 ミラベルが結び目を確認する。


 強く締め。


 余った端を二重にする。


「勝手にほどかないで」


「配管に引っ掛かったら?」


「そのときは一度戻る」


「戻れなかったら?」


「戻します」


 ミラベルの言葉に。


 エレノアは一瞬だけ笑った。


「相棒らしくなってきたわね」


「話は戻ってから」


 エレノアは点検格子を外した。


 中から。


 熱い風が吹き出す。


 暗い。


 狭い。


 複数の蒸気管が並び、その間に、人一人が腹ばいで進める程度の空間がある。


 この配管路は。


 旧保管庫の壁に沿って進み。


 監禁室へ通じる枝管と並行して、炉裏側へ回っている。


 その先には監禁室。


 さらに外側には補助弁のある制御通路。


 制御通路を西へ抜ければ、グレアムが向かった主弁室へつながる。


 エレノアは頭から入った。


 肩。


 腰。


 脚。


 最後に靴底が暗闇へ消える。


 縄が、ゆっくり送り出されていく。


 ミラベルは両手で握った。


 一度。


 縄が引かれる。


 進む。


 配管路の中で。


 エレノアは肘と膝を使って身体を押した。


 鉄管の一部は、触れなくても熱を感じる。


 顔を近づければ、睫毛が乾く。


 布を口元へ当て。


 低く息をする。


 先に。


 薄い赤い光がある。


 監禁室へ入った蒸気が。


 照明の灯りを滲ませている。


 右の管から、甲高い音。


 左は低い振動。


 高い方が、監禁室へ蒸気を送る枝管。


 その先に。


 小さな保守弁が見えた。


 手を伸ばす。


 届かない。


 身体をさらに進める。


 腰の縄が張る。


 ミラベルが外で支えている。


 エレノアは一度、縄を引いた。


 もう少し送って。


 縄が緩む。


 指先が弁輪へ届いた。


 回す。


 動かない。


 錆ではない。


 固定具が掛けられている。


「意地が悪い」


 小声で吐き。


 髪留めから細い針を抜いた。


 弁の側面。


 固定穴。


 内部の爪へ差し込む。


 手が汗で滑る。


 一度失敗。


 二度目。


 爪が浮いた。


 弁輪を回す。


 一回転。


 二回転。


 閉じ切る前に。


 弁が止まった。


 主弁側の圧力が強すぎる。


 完全には遮断できない。


 それでも。


 枝管を走っていた甲高い音が低くなった。


 監禁室へ流れ込む蒸気の量が下がる。


 白い蒸気が薄れ。


 管の向こうに、床と壁の形が戻り始めた。


 流入量は下がった。


 数分なら呼吸できる。


 会話も。


 救出作業も。


 そのあいだなら続けられる。


「ハロルド!」


 配管の隙間から叫ぶ。


 返事はない。


 さらに進む。


 突き当たりに、小さな格子。


 その向こう。


 床へ倒れた男が見えた。


 長く伸びた髪。


 痩せた頬。


 汚れたシャツ。


 両手は前で拘束されている。


 傍らには水差し。


 空の食器。


 壁に固定された鎖。


 エレノアが昨日聞いた声の主。


「ハロルド!」


 男の肩が動く。


 顔が上がる。


 赤く充血した目が、格子の向こうの少女を見る。


「……きみか」


「今度は人を連れてきた」


「クララは」


「待ってる」


 エレノアは格子の留め金を見る。


 監禁室側へ開く。


 こちらから、針で外せる。


「索引はどこだ」


 別の声が響いた。


 エレノアは動きを止めた。


 監禁室の外。


 炉裏側の制御通路から。


 金属扉を隔てて、ドーンの声がした。


 監禁室前の補助弁も。


 ドーンのいる制御通路側にある。


「火は、もう入った」


 昨日。


 遺族へ制度を語ったときと同じ。


 穏やかな声だった。


「過去案件の原証言票も、対象番号変更の経過票も、間もなく失われる。残るのは統合報告書だけです」


 ハロルドは壁へ背を預けた。


 枝管の流入量は下がっている。


 それでも。


 息をするたび、胸が痛むらしい。


「報告書だけでは……足りない」


「照合索引が残れば、そうでしょう」


 ドーンが扉の外で答える。


「番号の対応表。新しい名。捨てられた名。支払記録。移送先。あれだけは、統合報告書から復元できない」


「だから十三週間……私を生かした」


「あなたは慎重な男です。複製を作っている可能性もある」


「殺せば……場所を聞けない」


「ええ」


 ドーンは否定しなかった。


「ですが、調査がここまで届いた以上、時間切れです」


 金属が動く音。


 監禁室外の補助弁へ。


 ドーンが手を掛けた。


「最後に聞きます。索引はどこですか」


 ハロルドは答えない。


「あなたはすでに死亡しています」


 ドーンの声が。


 扉一枚を隔てて、室内へ浸透する。


「ここで遺体が見つかっても、ハロルド=フェインの死にはならない。地下へ入り込んだ身元不明者。廃棄炉の事故に巻き込まれた浮浪者。適切な仮番号を付け、処理できます」


「また……名前のない死者を使うのか」


「名前がなければ、制度は名を与えます」


「あなたが、都合のいい名を」


 ドーンは答えなかった。


 補助弁が回る。


 監禁室へ入る蒸気の圧力が上がった。


 だが。


 エレノアが配管路の保守弁を絞っている。


 流入量は、最初の状態までは戻らない。


 熱は増した。


 呼吸は苦しい。


 それでも。


 数分は残されている。


 エレノアが格子の留め金へ針を差し込む。


「急いで」


 自分へ言う。


 格子を開ける。


 狭い開口から、監禁室へ身体を滑り込ませる。


 腰の縄も通す。


 ミラベルへ一度合図。


 中へ入った。


 熱気が。


 配管路より強く身体を包んだ。


 息を吸うと、喉の内側がひりつく。


 だが。


 声を出せないほどの蒸気ではない。


 保守弁で稼いだ、短い時間だった。


 エレノアは床を這い、ハロルドへ近づいた。


「手を見せて」


 手首の拘束は、鉄輪。


 鎖。


 壁の錠へつながっている。


 簡単な鍵ではない。


 だが。


 古い保管庫の備品を改造したものだった。


 留め具の裏に、ばねがある。


「少し時間がかかる」


「君は……戻れ」


「相棒に怒られるから、手ぶらでは戻れない」


「相棒?」


「あとで説明する」


 エレノアは針を錠へ差し込んだ。


 監禁室の外で。


 ドーンの足音が動いた。


 補助弁の前から離れ。


 炉裏側の制御通路を、西へ向かって遠ざかっていく。


 一つ。


 二つ。


 固い靴音が、鉄板の床を渡る。


 やがて。


 制御通路を区切る鉄扉が閉じた。


 重い錠の音。


 その先は。


 廃棄炉西側の主弁室へ続いている。


 ドーンは監禁室前を離れ。


 幹線全体を支配する主弁へ向かった。


     ◇


 一方。


 廃棄炉の西側では。


 グレアムが主弁室へたどり着いていた。


 炉室と主弁室の間には、厚い煉瓦の防火壁がある。


 天井の排気装置も、まだ動いていた。


 継ぎ目から蒸気は漏れている。


 室温も高い。


 それでも。


 監禁室のように白い蒸気で満たされてはいない。


 声を張れば。


 互いの言葉を聞き取ることができた。


 正面には。


 赤い主弁輪。


 三つの圧力計。


 炉裏側の制御通路から入る鉄扉。


 その扉が開いた。


 ドーンが現れる。


 監禁室前から。


 制御通路を通って移動してきたのだ。


 逃げるための外套は脱ぎ。


 上着の袖を肘までまくっている。


 右手には、炉の灰を掻くための長い鉄棒。


 左手は、主弁に付属する操作桿へ掛かっている。


 床には。


 倒れた夜勤職員が一人いた。


 頭部に血はない。


 呼吸もある。


 ドーンに協力していた男ではなく。


 制御室へ入るのを止めようとして、殴られたらしい。


「鉄棒を捨てろ」


 グレアムが拳銃を構えた。


「それは警棒ではありません」


 ドーンは鉄棒を見た。


「廃棄炉の清掃具です」


「どっちでもいい。床に置け」


「警部」


 ドーンは主弁輪から手を離さない。


「あなたが私を撃てば、手動解除はできません」


「お前がいなくても弁は閉められる」


「この弁は、圧力差を順番に抜かなければ破裂します。主弁だけを急に閉じれば、炉裏側の枝管が先に裂ける」


 グレアムは圧力計を見る。


 三つの針。


 主幹線。


 炉。


 環境調整管。


 どの順番で下げるか。


 刻印は削られている。


「説明しろ」


「索引と引き換えです」


「取引できる立場だと思うな」


「地下にいる男の肺が、あと何分耐えるかで決まります」


 グレアムの指が。


 引き金へ掛かる。


 だが撃たない。


 ドーンの言葉が嘘だとしても。


 弁操作を誤れば、人質が死ぬ可能性がある。


「警部!」


 ミラベルが追いついた。


 炉の横を西へ回り。


 防火壁に囲まれた主弁室へ入る。


 蒸気の中。


 防水筒を抱いたまま。


 ドーンと、三つの圧力計を見比べる。


「彼は、時間を稼いでいます」


「分かってる」


「索引の場所を聞き出すためだけではありません」


「何だと?」


「原証言票が燃えれば、自分の作った最終記録だけが残ると思わせるための時間です」


 ドーンがミラベルを見る。


「事実です」


 彼は答えた。


「行政が身元を認定するのは、原証言票ではない。統合報告書です」


 背後の炉で。


 新たな紙束が崩れた。


 火の中へ落ちる。


「個々の証言は、審査が終われば役割を失う。保存期限を越えれば廃棄される。制度が永続的に保持するのは、最終記録だけです」


「だから燃やした?」


「規程に従って、いずれ消える紙を早めただけです」


「過去案件の対象番号変更票も」


「途中の作業記録です」


「身元未確定者の受付控えも」


「統合後は不要です」


「あなたが別の名へ所属させた死者の、元の記録も?」


 ドーンの表情は変わらない。


「正式記録は残っています」


「あなたが作った正式記録が」


「記録とは、正式であるから記録なのです」


 鉄棒の先が。


 炉の赤い光を反射する。


「証人が何を語ったかではない。社会が何を事実として採用したか。それが残る」


「原票を全部燃やせば」


 ミラベルは言った。


「ハロルドさんが倉庫へ入った、という統合報告書だけが残る」


「すでに成立した行政記録です」


「誰もハロルドさんを見ていなかったことは消える」


「消えるのではありません」


「では?」


「最終判断へ統合されるのです」


 ミラベルは。


 抱えていた防水筒を床へ置いた。


 留め具を外す。


 筒の中から。


 巻かれた紙を取り出した。


 一枚ではない。


 同じ紙面が。


 複数。


 インクの異なる二種類で収められている。


「何だ」


 グレアムが問う。


「保全用の試し刷りです」


 ミラベルは最初の一枚を広げた。


 上部には、大きな見出し。


 その下へ。


 七つの小さな欄が並んでいる。


 倉庫番の言葉。


 鉄道係員の言葉。


 仕立屋の言葉。


 同僚の言葉。


 露店商の言葉。


 照合医の言葉。


 検死医の言葉。


 一人分の文章へ要約していない。


 誰が。


 何を見たか。


 見ていないものは何か。


 時刻と場所。


 本人が使った表現。


 それぞれを。


 別の欄として組んでいる。


 検死原票の内容を複写した紙面ではない。


 検死医本人が。


 ミラベルの取材へ答え。


 その意味に相違がないと確認した言葉だけを載せている。


「昨日の夕刻に組版を始めました」


 ミラベルは言った。


「原証言票が二日後に廃棄されると知った時点で」


「閲覧した原票を複写したのか」


 ドーンの声が、わずかに強くなる。


「限定閲覧の規則違反です」


「原票の複写ではありません」


 ミラベルは別の紙を開いた。


「私が七人から直接聞いた証言。それぞれの方に、文章の意味が変わっていないことを確認してもらった取材記録です」


 それは。


 七人の聞き取りを。


 証人ごとに分けて組んだ紙面だった。


 写真版として固定したもの。


 活字で組み直したもの。


 片方が破損しても。


 もう片方が残る。


「午前四時二十九分に、廃棄前倒しを知りました」


 ミラベルは続けた。


「その直後に編集部へ連絡し、夜勤の印刷部へ完成を急がせた。午前六時前に私が校正しました」


 写真版は、新聞社の保管庫に三枚。


 活字版は、二つの印刷所に分けられている。


 試し刷りは。


 編集部。


 市警。


 中央記録庁。


 それぞれへ一部ずつ、封緘して届けられていた。


 この地下にあるのは。


 その一部にすぎない。


「許可なく公表すれば、監査情報の漏洩になる」


「まだ公表していません」


 ミラベルは答えた。


「記事にしたのも、監査記録ではありません」


 一枚目の証言欄を指す。


「証人本人が、私へ話した言葉です」


 二枚目。


「統合報告書の存在は、クララさんへ交付された抄本から確認しました」


 三枚目。


「時刻は改札記録と交替鐘」


 六枚目。


「照合医が取材へ答えた、身体特徴の比較結果」


 七枚目。


「検死医が取材へ答えた、遺体の所見と身元特定不能という判断」


 ミラベルは。


 七人を分けた紙面を、ドーンの前へ向けた。


「原証言票だけに、真実を預けてはいません」


 炉の中で。


 また一枚の紙が燃える。


 文字が失われる。


 それでも。


 同じ言葉が。


 ここにある。


 新聞社にも。


 印刷所にも。


 市警にも。


 中央記録庁にも。


 すでに渡っている。


「新聞は正式記録ではない」


 ドーンが言った。


「ええ」


「行政判断を覆す効力もない」


「新聞だけでは、ありません」


「なら、何の意味がある」


「消せないことです」


 ミラベルは答えた。


「公式の一枚を変えれば、都市の事実が変わる。あなたは、そう考えた」


 七つの欄へ。


 順に指を置く。


「でも、同じ言葉が街の別々の場所に残れば、一枚の報告書だけで消すことはできない」


「人は、公式記録を信じる」


「なら、公式記録と違う証言が存在することも、街へ伝えます」


「混乱を作るだけだ」


「違います」


 ミラベルは、試し刷りを胸の高さへ持ち上げた。


「あなたは七人を一人にした」


 蒸気音の中でも。


 その声は明確に届いた。


「私は七人を、七人のまま街へ返しました」


 ドーンの目が。


 初めて。


 紙面へ釘付けになった。


 自分が守ってきた制度の外側。


 新聞。


 写真版。


 活字。


 市民の言葉。


 中央で一つに統合できない記録。


 同じ情報が複数の場所へ散り。


 誰か一人の判断では、消せなくなっている。


「無責任だ」


 ドーンは言った。


「未確定の証言を街へばらまけば、誰が正しい名を判断する」


「判断するための材料を残したんです」


「市民は、照合の専門家ではない」


「だからといって、専門家が何を省いたかを隠していい理由にはならない」


「死亡記録への信頼が失われる」


「信頼を失わせたのは、記録を疑った人ではありません」


 ミラベルの目が。


 ドーンから逸れない。


「記録を利用した人です」


 ドーンの指が。


 主弁に付属する操作桿へ掛かった。


 グレアムが叫ぶ。


「動くな!」


 だが。


 ドーンは桿を一気に引いた。


 蒸気が爆ぜた。


 側面の排気口から、白い噴流が横へ走る。


 グレアムと警官が身を伏せる。


 ミラベルは試し刷りを抱え、床へ倒れ込んだ。


 視界が白く消える。


 ドーンが鉄棒を振るう。


 グレアムの拳銃へ打ち当てる。


 銃が石床を滑った。


「警部!」


 警官が飛び込む。


 ドーンは鉄棒の先を圧力計へ叩きつけた。


 硝子が割れ。


 針が跳ねる。


 熱湯が細く噴き出した。


 警官が腕を庇い、下がる。


 ドーンは主弁へ手を掛ける。


 さらに開くつもりだ。


 グレアムが低い姿勢から踏み込んだ。


 ドワーフの身体が。


 ドーンの腰へぶつかる。


 二人が弁輪へ倒れ込む。


 鉄棒が落ちる。


 ドーンは肘でグレアムの肩を打つ。


 グレアムは離れない。


「離しなさい!」


「十三週間閉じ込めた男を蒸し焼きにしようって奴が、礼儀を言うな!」


 ドーンが足を滑らせる。


 だが。


 片手で弁輪をつかみ。


 体重を掛けて回そうとする。


 グレアムも反対側から握る。


 弁輪が。


 わずかに動く。


 どちらへ回ったか。


 壊れた圧力計では分からない。


「赤い輪は、右へ閉める!」


 ミラベルが叫んだ。


「何で分かる!」


「ネラさんが階段で言っていました!」


 西側。


 圧力計の下。


 赤い主弁輪。


 彼女が説明した位置と。


 弁輪の基部へ刻まれた、閉止方向の矢印が一致している。


「右だ!」


 グレアムが弁輪を引く。


 ドーンが逆へ押す。


 警官が加わる。


 三人分の力で。


 弁輪が右へ回り始めた。


 一回転。


 二回転。


 蒸気管の唸りが。


 少しずつ低くなる。


 通話管が二度鳴った。


 ネラから。


 圧力低下の合図。


 ドーンは弁輪から手を離し。


 腰の内側へ手を入れた。


 小さな鍵。


 あるいは。


 別の起動具。


 グレアムが手首をつかむ。


 捻る。


 鍵が床へ落ちた。


 警官がドーンの腕を背中へ回す。


「マルセル=ドーン」


 グレアムは息を切らしながら。


 それでも、言葉を一つずつ明確に告げた。


「虚偽死亡記録の作成、監禁、証拠隠滅、殺人未遂、公務記録への不正介入の疑いで逮捕する」


「疑い?」


 床へ押さえられたドーンが。


 薄く笑った。


「まだ疑いなのですね」


「裁判が終わるまではな」


「記録が正しければ」


「正しくするために、お前を連れていく」


 鉄の拘束具が。


 ドーンの手首へ掛かった。


     ◇


 その頃。


 監禁室では。


 エレノアが最後の錠を外していた。


 金属が跳ね。


 ハロルドの両手をつないでいた鎖が床へ落ちる。


 主弁側の唸りが低くなる。


 枝管から入る蒸気も。


 目に見えて減っていく。


「立てる?」


「脚が……」


 十三週間。


 狭い部屋。


 十分に歩くこともできなかった。


 足へ力が入らない。


 エレノアは彼の腕を自分の肩へ回した。


「私より重いわね」


「当然だろう……」


「話せるなら歩ける」


「無茶な理屈だ」


「兄さまがよく使うの」


 言ってから。


 エレノアは少しだけ口を閉じた。


 兄なら。


 兄なら。


 そう考え続けてきた。


 けれど。


 いま、ここへ入ったのは自分だった。


 壁の外で縄を握っているのはミラベル。


 主弁を閉じているのはグレアム。


 地上から圧力を伝えているのはネラ。


 誰か一人の代わりではなく。


 それぞれが。


 それぞれにできることをしている。


「配管路は、あなたには狭すぎる」


 エレノアは監禁室の内側を見回した。


 高温の蒸気は減り始めている。


 視界を埋めていた白さが薄れ。


 壁際に、手動解除桿が見えた。


 点検扉の内側。


 外からは取っ手で開けようとしていた扉。


「これを動かせば」


 解除桿を下ろす。


 最初は固い。


 両足を床へ踏ん張る。


 体重を掛ける。


 桿が下がった。


 外で。


 重い閂が外れる音。


 続いて。


 点検扉が開いた。


 熱気の向こうから。


 ミラベルが入ってきた。


「エレノア!」


「一人では行かなかったでしょう」


「入ったのは一人です!」


「縄はつながってた」


「理屈が――」


 言い返しかけ。


 ミラベルはハロルドを見た。


 声が止まる。


 生きている。


 確かに。


 目の前で呼吸している。


 痩せ。


 衰弱し。


 自力では立てない。


 それでも。


 胸が上下している。


 火災から十四週間。


 死亡認定から十三週間。


 記録上の死者だった男が。


 自分の脚で。


 死者の部屋から出ようとしている。


「ハロルド=フェインさんですか」


 ミラベルが尋ねた。


 男は、ゆっくり顔を上げた。


「あなたが……手紙を?」


「読みました」


「クラウス探偵は」


 その問いに。


 ミラベルは一瞬だけ息を止めた。


「不在です」


 死亡とも。


 生存とも言わない。


「代わりに、私たちが来ました」


 ハロルドの目が。


 エレノアへ移る。


 次に。


 ミラベルへ戻る。


「クララは」


「待っています」


 ミラベルは答えた。


「あなたが生きていると証明できる日を、十三週間」


 ハロルドの顔が歪んだ。


 笑おうとしたのか。


 泣こうとしたのか。


 衰弱した顔では、見分けられなかった。


「私は……もう死んでいる」


「記録上は」


 ミラベルは言った。


「でも、二度目は止めました」


 外から。


 グレアムの声が響く。


「救護班を呼べ! 生存者一名!」


 生存者。


 その言葉が。


 旧証言保管庫へ反響した。


 死者ではなく。


 身元不明者でもなく。


 生存者。


 警官が担架を運び込む。


 ハロルドを乗せる。


 首元へ濡らした布を当て。


 呼吸を確認する。


 エレノアは配管路から戻した縄を腰から外した。


 ミラベルは結び目を解き。


 彼女の手首を確かめる。


 赤く擦れている。


「痛い?」


「少し」


「あとで診てもらいます」


「ハロルドが先」


「当然です」


 グレアムが監禁室の入口に現れた。


 煤と蒸気で顔を汚し。


 上着の肩が裂けている。


「ドーンは?」


 エレノアが尋ねる。


「確保した」


「索引は?」


「まだだ」


 ハロルドが担架の上で、わずかに目を開けた。


「索引は……」


「今は話すな」


 グレアムが止める。


「まず生きろ。証言は、そのあとだ」


 ハロルドは目を閉じた。


 担架が運び出される。


 監禁室から。


 人がいなくなる。


 残るのは。


 床の鎖。


 空の水差し。


 食器。


 十三週間、壁へ刻まれた細い傷。


 一日ごとに付けたものだろう。


 横線が。


 幾重にも並んでいる。


 最後の一本だけ。


 途中で止まっていた。


 今日。


 二度目の死が訪れるはずだった日。


 ミラベルは。


 取材帳を開いた。


 だが。


 すぐには書かなかった。


 まず。


 その傷を見た。


 数え。


 位置を確かめ。


 誰かが消す前に。


 目へ焼き付ける。


「何を書くの?」


 エレノアが横から尋ねた。


「ハロルドさんが生きていたこと」


「見れば分かるでしょう」


「見た人がいなくなったあとも、残すためよ」


 エレノアは。


 炉の方角を振り返った。


 そこでは。


 まだ紙が燃えている。


 主弁は閉じられたが。


 すでに火へ落ちた記録は戻らない。


 燃えたのは。


 ハロルドの七枚ではない。


 過去の別案件に属する原証言票。


 付番前の受付控え。


 対象番号変更の経過票。


 灰の中から。


 何件の死が奪われたのか。


 何人の生者が別の名で生きているのか。


 それは、まだ分からない。


 けれど。


 ハロルドの事件に関わる七人の言葉は残った。


 倉庫番。


 鉄道係員。


 仕立屋。


 同僚。


 露店商。


 照合医。


 検死医。


 写真版。


 活字版。


 取材記録。


 会議室に保全された七枚の原証言票。


 一件の検死原票。


 複数の場所へ分けられ。


 一人の人間だけでは消せない記録として。


 ミラベルは最初の一行を書いた。


> 午前七時四十一分。

> 市民死亡照合局旧証言保管庫において、ハロルド=フェインの生存を確認。


 ペンを止める。


「確認した人は?」


 エレノアが尋ねた。


 ミラベルは続けた。


> 確認者。

> グレアム警部以下、市警職員。

> ミラベル=ワトリア。

> エレノア=クラウス。


「相棒って書かないの?」


「公的な記録に、その役職はありません」


「作ればいいわ」


「それはあとで話し合います」


「一人で決めない?」


 ミラベルは。


 小さく笑った。


「決めません」


 二人は監禁室を出た。


 廃棄炉の前では。


 拘束されたドーンが、警官に挟まれて立っている。


 彼は担架で運ばれるハロルドを見た。


 驚きはなかった。


 怒りもない。


 ただ。


 自分が死者にした男が。


 複数の目撃者に囲まれ。


 生存者として地上へ戻っていく姿を見ていた。


「記録は、まだ彼を死者としている」


 ドーンが言った。


 ミラベルは立ち止まる。


「ええ」


「病院は、死亡者名義の患者を受け入れられない。銀行口座も、住居契約も、婚姻記録も戻らない」


「戻します」


「どうやって」


「一つずつ」


 ミラベルは答えた。


「あなたが一つずつ奪ったのなら、私たちも一つずつ確かめます」


 ドーンは、試し刷りを見た。


 ミラベルの腕の中で。


 七つの欄が。


 七つに分かれたまま残っている。


「街は、混乱する」


「混乱するでしょう」


「誰が生者で、誰が死者か。何を信じればいいか分からなくなる」


「だから調べるんです」


 ミラベルは。


 試し刷りを防水筒へ戻した。


「探偵でなくても、調べることはできます」


 留め具を閉じる。


「記者だから残せる真実もあります」


 ドーンは。


 もう何も言わなかった。


 警官に促され。


 炉から離れていく。


 旧証言保管庫の出口。


 文書昇降機。


 地上へ続く階段。


 彼が十三週間、死者を隠してきた道を。


 今度は被疑者として歩いていく。


 廃棄炉の火は。


 やがて停止した。


 赤かった鉄が。


 ゆっくり黒へ戻っていく。


 灰の中には。


 失われた記録が残っている。


 だが。


 監禁室の壁に刻まれた最後の一本は。


 完成しなかった。


 ハロルド=フェインは。


 二度目の死を迎えなかった。

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