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第11節 ― 一人分にされた証言

 市民死亡照合局の会議室には、朝がなかった。


 窓は高い位置にある。


 曇り硝子を透かして入る光は白く、時刻も天候も分からない。壁際の蒸気灯も消されておらず、乳白色の光と黄色い炎が重なって、長机の上へ二種類の影を落としていた。


 この部屋は、かつて防火監督室として使われていたらしい。


 壁には古い圧力計。


 天井近くには蒸気管の系統図。


 奥の業務用通路へ近い席の机下には、黒ずんだ真鍮の環が残されている。


 火災時に防火扉と地下設備を遠隔作動させる、旧式の防火設備の操作環。


 現在も非常設備として接続されているため、触れないように。


 会議の準備をしていた書記は、出席者へそう説明していた。


 マルセル=ドーンは。


 誰かに指定される前に、その席を選んだ。


「課内の業務通路に近い方が、記録の追加確認に都合がよいでしょう」


 そう言って。


 長机の上座から最も遠く。


 奥の防火扉へ最も近い木製椅子へ座った。


 机下の真鍮環は。


 彼の右膝のすぐ横にあった。


 長机の中央には、灰色の保管箱が置かれている。


 箱を閉じる封紙は切られていた。


 その脇には、中央記録庁特別監査室の保存命令。


 市警による証拠保全通知。


 そして、ネラ=シムが黒鴉館へ持ち込んだ対象番号変更の複写票が並んでいる。


 七枚の原証言票。


 一件の検死原票。


 対象照合表。


 それらは、まだ箱の中にあった。


 燃やされてはいない。


 だが、七枚の原証言票の端には、すでに廃棄準備を示す赤い印が押されていた。


 予定より一日早く。


 夜のうちに。


 その印を見たグレアム警部は、会議が始まってから一度も腕を組み直していなかった。


 壁際に立ち。


 扉と、出席者と、奥の業務用通路を同時に見ている。


 制服の下には拳銃。


 机の近くには、二名の警官。


 庁舎の地下入口にも、すでに別の警官を配置している。


 それでもグレアムは安心していなかった。


 記録を扱う人間の犯罪では、目の前にいる犯人を見張るだけでは足りない。


 別の部屋で機械が動き。


 別の書記が命令を受け。


 別の紙が、正しい日付を与えられて処分される。


 それを、レオン=クラウスに何度も見せられてきた。


 長机の上座には、エドガー=クラウスが座っていた。


 黒い椅子ではない。


 死亡照合局の備品である、背もたれの硬い木製椅子だった。


 それでも彼の姿勢は変わらない。


 机上には、緊急再審査会の開始記録。


 出席者名簿。


 証拠受領票。


 廃棄停止命令の写し。


 すべてが順番どおりに置かれている。


 その右端には。


 黒い綴じ紐でまとめられた、もう一つの資料束があった。


 表紙には。


> 過去十年間

> 統合身元認定案件・制度運用照会

> 対象番号訂正/再付番/死亡認定取消/関連契約処理


 と記されている。


 第6節でエドガーが照会を命じた、過去案件の速報だった。


 まだ正式な監査報告ではない。


 個人名も伏せられている。


 年度ごとの件数と、認定番号。


 死亡認定後に閉鎖された口座や、終了した雇用契約、移転した資産の数だけを抽出した資料だった。


 エドガーはその束を開かず。


 現在の一件とは分けて、机の端へ置いていた。


 エドガーは懐中時計を閉じた。


「午前七時十二分」


 書記が時刻を記録する。


「市民死亡照合局、死亡認定番号七四二九一について、緊急再審査を開始する」


 抑揚のない声だった。


「対象者、ハロルド=フェイン。再審査理由は、統合身元認定に使用された原証言票の対象番号変更、証拠記録の規定外廃棄準備、および対象者を名乗る人物が庁舎地下に監禁されている可能性」


 エドガーは顔を上げた。


「本会は現時点で、ハロルド=フェインの生存を認定するものではない。地下の人物を、ハロルド=フェイン本人と確定するものでもない。また、出席者の刑事責任を決定する場でもない」


 その視線が、マルセル=ドーンへ向く。


「だが、記録の保全を妨げる行為があれば、グレアム警部がその場で対応する」


「承知しています」


 ドーンは穏やかに答えた。


 いつもの濃灰色の上着。


 銀の留め具。


 整えられた髪。


 昨日、ミラベルたちへ統合身元認定制度を案内したときと、何も変わっていない。


 ただし。


 今日は自分の席へ書類を持ってきていなかった。


 机の上には、両手だけが置かれている。


 指先は組まれていない。


 逃げようとする者にも。


 身を守ろうとする者にも見えなかった。


「ネラ=シム書記」


 エドガーが呼ぶ。


「はい」


 ネラはミラベルの隣で立ち上がった。


 昨夜から着替えていない。


 暗い外套だけは脱いでいるが、制服の襟は濡れたまま乾き、布に細かな皺が残っていた。


「提出した複写票について、改めて確認する。これを保管していたのは君か」


「はい」


「作成されたのは?」


「蒸気倉庫火災の二日後です」


「内容は」


 ネラは机上の薄い紙を見た。


「七件の原証言票に付けられていた、別々の仮対象番号を、ハロルド=フェインの統合対象番号へ変更する処理命令です」


「変更を承認した者は」


 声が止まった。


 ネラの視線が、ドーンへ向きかける。


 途中で落ちる。


「書類にあるとおり、マルセル=ドーン統合証言課長です」


 ドーンは否定しなかった。


「私が承認しました」


 グレアムの視線が鋭くなる。


 だが、ドーンは続けた。


「複数の証言と遺留品が同一人物を示したため、統合対象番号を確定した。通常の職務です」


「原証言票の廃棄を一日早めたのも、通常の職務か」


 グレアムが問う。


「廃棄準備を早めただけです。正式な処理日は規程どおりになる予定でした」


「紙を先に燃やして、日付だけあとで合わせるつもりだったと、あんたの部下は言ってるぞ」


「ネラ書記は、命令の意味を誤解しています」


「誤解?」


 ネラの顔が強張った。


 ドーンは彼女を見ない。


「大時鐘塔事件以降、廃棄記録の処理が滞っています。炉への搬送準備と、実際の焼却日は一致しないことがある。彼女は経験が浅い」


「地下への侵入者が出た直後に、その一件だけ準備を早めたのも偶然か」


「監査対象の記録を、通常保管棚から保全区画へ移すためです」


「保全区画が廃棄炉の前室なのか?」


 グレアムの声は大きくなかった。


 それでも、会議室の空気が重くなる。


「課長」


 エドガーが遮った。


「廃棄命令の適否は、のちに監査する。今は死亡認定の根拠を確認する」


「異議があります」


 ドーンは初めて、ミラベルを見た。


「今回の再審査は、一人の記者による私的な聞き取りを発端としています」


「私的な聞き取りだけではない」


 エドガーが言う。


「対象番号変更の複写票がある」


「変更そのものは正当な手続きです」


「地下に監禁された人物の存在もある」


「声を聞いただけです」


 ドーンの視線がエレノアへ移る。


「違法に侵入した少女が、壁越しに聞いた声です。顔の確認も、身元照合も行われていない」


「だから警察が確認しに行く」


 グレアムが答えた。


「正式な捜索命令が出るなら、私は妨げません」


 ドーンは再びミラベルを見た。


「しかし、死亡認定の再審査については、慎重であるべきです」


「慎重に調べるための会議です」


 ミラベルは答えた。


「あなたは当事者です、ワトリアさん」


「私はハロルドさんの親族ではありません」


「別の死亡記録に、個人的な感情を持っている」


 エレノアが椅子から身を起こした。


 ミラベルは手を伸ばし。


 机の下で、その袖へ触れた。


 一人で言わせて。


 そう伝える。


 エレノアは唇を結び、座り直した。


「レオン=クラウス氏は、遺体が発見されていないまま死亡推定を受けている」


 ドーンは続けた。


「あなたはその記録を受け入れていない」


「受け入れていないとは言っていません」


「死亡記事を書かなかった」


「死亡を証明できなかったからです」


「今回も同じではありませんか」


 ドーンの声は穏やかだった。


 責めてはいない。


 ミラベル自身へ、正しい答えを気づかせようとするような話し方だった。


「遺体のない探偵を待ち続けるあなたが、別の死亡記録にも同じ可能性を見いだした。依頼人の願いに、自分の願いを重ねた」


「ワトリア嬢が感情的であるという主張か」


 エドガーが問う。


「記者は、事実を伝える者です」


 ドーンは答えた。


「ですが彼女は現在、探偵の代わりを務めようとしている」


 その言葉が。


 会議室へ落ちた。


 レオンの不在。


 空席。


 ミラベルが座らなかった革椅子。


 記者でありながら事件を調べ。


 証言者を訪ね。


 ここまで来た理由。


 それらを。


 ドーンは、一つの弱点として机へ置いた。


「私は探偵ではありません」


 ミラベルは言った。


「では、なぜここに?」


「記者だからです」


 ドーンの目が、わずかに細くなる。


「私は、誰かが語った言葉と、記事になった言葉の間で、何が変わるのかを知っています」


 ミラベルは灰色の保管箱へ手を伸ばした。


 エドガーが頷く。


 グレアムの部下が箱を開き。


 七枚の原証言票を取り出した。


 その横へ。


 一件の検死原票を、別に置く。


 紙の端を傷めないよう。


 順番を崩さないよう。


 一枚ずつ、ミラベルへ渡す。


 ミラベルは長机の中央へ、最初の証言票を置いた。


「一人目。倉庫番の証言です」


 紙面に。


 ハロルド=フェインの名はない。


「午後八時の交替鐘が鳴った頃、茶色い外套を着用したヒト族と思われる男が、夜間搬入口より倉庫内へ入った」


 ミラベルは証言票から目を上げた。


「倉庫番は、ハロルドさんの顔を知りません。男の顔も見ていない。見たのは、茶色い外套です」


「その外套は、ハロルドの所有物と確認された」


 ドーンが言う。


「別の証人によって、です」


 二枚目を置く。


「二人目。鉄道係員の証言」


 午後七時五十六分。


 通行証一通を受理し。


 改札記録機へ通した。


 利用者は帽子を着用。


 顔貌の確認なし。


「係員は、通行証を扱っただけです。使用者がハロルドさんだったとは証言していません」


「通行証の名義はハロルドです」


「ええ」


 ミラベルは認めた。


「通行証の名義人と、それを手に持った人間が同じであるという証拠はありません」


 三枚目。


「三人目。仕立屋の証言」


 右袖の延長。


 左肩内側の補強。


 提示された外套には、自分が施した仕立て直しと同じ特徴があった。


「仕立屋は、外套がハロルドさんのために直された物だと確認しました」


 ミラベルは紙の一行を指す。


「最後に誰が着たのかは分からない、とも記されています」


 四枚目。


「四人目。同僚の証言」


 懐中時計の蓋、右下の欠け。


 ハロルドが日常的に使っていた物と、外観上一致するように見えた。


「同僚が見たのは時計です。時計を身につけていた遺体ではありません。同じ欠けだと断定したわけでもない」


 五枚目。


「五人目。露店商の証言」


 霧の向こうから聞こえた。


 ハロルドと同じ口癖を使う、男の言葉。


 声紋の確認なし。


 顔貌の確認なし。


 右脚を引きずるような歩行音。


「ハロルドさんには、歩行に影響する負傷記録はありません。記録されている古傷は左肩です」


「一時的に右脚を痛めていた可能性はある」


「あります」


 ミラベルは否定しない。


「同じ口癖を使う別人だった可能性もあります」


 六枚目を置く。


「六人目。照合医の証言票」


 照合医が比較したのは。


 検死原票に記載された遺体の身長。


 推定年齢。


 左肩の古い損傷。


 そして。


 ハロルドの既存健康記録だった。


「照合医は、遺体を直接調べていません」


 ミラベルは証言票を読む。


「遺体の身体特徴は、ハロルド=フェインの既存健康記録と矛盾しない。ただし、当該特徴のみをもって同一人物と断定することはできない」


 紙から顔を上げる。


「矛盾しないと確認しただけです。同一人物だとは証言していません」


 七枚目を置く。


「七人目。検死医の証言票」


 この医師だけが。


 火災現場から回収された遺体を、直接調べている。


「成人男性。推定年齢は三十代後半から五十代前半。顔貌による身元確認は不能。左肩関節部に陳旧性損傷」


 その下。


「右手中指に、長期筆記労働に特徴的な硬化を認めず。爪床近くに、火災以前からのものと考えられる炉煤の沈着を認める」


 そして。


「身元特定不能」


 ミラベルは、七枚目の横へ。


 一件の検死原票を置いた。


「これは七人目の証言票とは別の記録です」


 七人目の証言票は。


 検死医が何を確認し、死亡照合局へ何を伝えたのかを記したもの。


 検死原票は。


 遺体に対して行った検査と、身体所見の全体を記録した正式文書だった。


 右手中指の状態。


 爪内部の煤。


 焼損の程度。


 左肩の損傷。


 いずれも。


 検死原票から省かれてはいなかった。


「検死医は、遺体がハロルド=フェインだとは証言していません。検死原票にも、その名はありません」


 七枚の原証言票と。


 一件の検死原票が。


 長机の上へ並んだ。


 七人の言葉。


 外套。


 通行証。


 縫い目。


 懐中時計。


 口癖。


 既存記録との比較。


 そして。


 直接調べられた、身元不明の男性の遺体。


 ミラベルは、それぞれの証言票の右上を見た。


 本文とは異なるインクで書かれた。


 同じ対象番号。


「この七人は、誰も嘘をついていません」


 会議室の全員へ聞こえる声で言う。


「倉庫番は、外套を見た。鉄道係員は、通行証を扱った。仕立屋は、縫い目を確認した。同僚は、時計を知っていた。露店商は、男の言葉を聞いた。照合医は、遺体の特徴と健康記録を比較した。検死医は、身元の分からない男性の遺体を調べた」


「だからこそ、統合できた」


 ドーンが言う。


「いいえ」


 ミラベルは、七枚の下へ。


 統合身元認定報告書を置いた。


「統合報告書では、こう書かれています」


 ハロルド=フェインが、倉庫へ入った。


 ハロルド=フェインの通行証が、使用された。


 ハロルド=フェインの声が、倉庫付近で聞かれた。


 ハロルド=フェインの外套と懐中時計が、遺体付近から回収された。


 遺体の身体的特徴は、ハロルド=フェインの健康記録と一致する。


「七人が語った事実は、すべて消されたわけではありません」


 ミラベルは言った。


「でも、七人が見たものを、一人分へまとめた人がいる」


 ドーンは黙っている。


「茶色い外套の男へ、ハロルドさんの名前を置いた」


 一枚目。


「通行証を出した乗客へ、ハロルドさんの名前を置いた」


 二枚目。


「霧の向こうにいた声の主へ、ハロルドさんの名前を置いた」


 五枚目。


「そして、身元特定不能だった遺体へ、外套と時計と健康記録を所属させた」


 六枚目。


 七枚目。


 検死原票。


「別々の対象について語られた事実を、同じ対象番号で一人分へまとめた」


 ミラベルは、ネラが提出した複写票を取った。


「七件の証言票が、最初から同じ対象番号だったわけではありません。別々の仮番号を持っていた記録を、ハロルド=フェインの番号へ変更した」


 変更後の対象番号。


 承認印。


 マルセル=ドーン。


「この変更を承認したのは、あなたです」


 ドーンは、すぐには答えなかった。


 長机の端で。


 エレノアが息を止めている。


 ネラは俯き。


 両手を膝の上で強く握っていた。


 グレアムの警官たちは。


 ドーンから目を離さない。


 エドガーだけが。


 七枚の証言票を見ていた。


「あなたの主張には、飛躍がある」


 やがて。


 ドーンが言った。


「どこですか」


「七件が最初は別の対象番号だったとしても、照合によって同一人物と判明することはある」


「あります」


「私の承認印は、不正の証拠ではない」


「それも、そのとおりです」


「なら、私が虚偽の名を置いたとは断定できない」


「番号変更だけなら」


 ミラベルは、都市地図を広げた。


 エレノアが書き込んだ二つの時刻。


 午後七時五十六分。


 貨物駅。


 午後八時。


 蒸気倉庫。


「この二つを、同じ人物の連続した行動として扱うには、記録が足りません」


「倉庫番の時刻には誤差がある」


「報告書では、両方とも午後八時頃へ丸められています」


「通常の要約だ」


「二地点を徒歩で移動するには二十分以上。走っても十二分以上かかりました」


「車両を使えばよい」


「使用記録はありません」


「無許可の馬車まで記録されるとは限らない」


「可能性はあります」


 ミラベルは、そこで一歩も退かなかった。


「でも、車両を使ったという記録はない。倉庫番が時刻を間違えた証拠もない。同じ人間だったという証言もない」


 地図の上へ。


 右脚を引きずるような足音の記録を置く。


「露店商が聞いた男には、右脚を引きずるような歩行音があった」


 検死医の証言票。


「遺体の手には、長期筆記労働を示す中指の硬化がなく、火災以前からの可能性が高い炉煤があった」


 クララの異議申立書。


「妻は、遺体を夫だと確認していない」


 ハロルドの手紙。


「ハロルドさんは、自分を見た者が一人もいないと事前に書いていた」


 対象番号変更票。


「七件は、あとから一人分へ所属させられた」


 最後に。


 エレノアの地図へ指を置く。


「そして現在、ハロルド=フェインを名乗る男が、あなたの管理する地下区画に監禁されている可能性がある」


「名乗っただけだ」


 ドーンの声が。


 初めて少し硬くなった。


「ええ」


 ミラベルは答えた。


「だから、地下の男がハロルドさん本人だとは、まだ断定しません」


 エレノアが、わずかにミラベルを見る。


 だが。


 何も言わなかった。


「同じように」


 ミラベルは続けた。


「火災で発見された遺体が、ハロルドさんではないとも、まだ断定しません」


 ドーンの表情へ。


 ほんの少しだけ、余裕が戻った。


「ならば、この再審査は――」


「ですが」


 ミラベルは遮った。


「この七枚の証言票と、一件の検死原票から、遺体をハロルド=フェイン本人と認定することもできません」


 ドーンの言葉が止まる。


「ハロルドさんではないと確定するのは、地下の人物を救出し、本人確認を行ってからです」


 ミラベルは統合報告書を指した。


「いま、ここで確定したのは別のことです」


 七枚。


 一件。


 複写票。


 地図。


 異議申立書。


「この死亡認定は、異なる対象についての記録を一人分へまとめた可能性を排除できていない」


 声を。


 一段、強くする。


「ハロルド=フェインの死を認定する根拠としては、成立していません」


 会議室へ。


 長い沈黙が落ちた。


 地下の男が誰であるかは。


 まだ確認されていない。


 火災で亡くなった男性の名も。


 まだ分からない。


 けれど。


 七人の言葉が、ハロルド一人の死亡を証明していないことだけは。


 公的な場で確定した。


「仮に」


 ドーンが言った。


 声は穏やかさを取り戻していた。


「遺体が別人であったとしよう」


 その仮定を。


 ドーン自身が口にした。


「顔を失い。身元を示す物も持たず。誰からも捜されない死者だ」


「誰からも捜されないと、なぜ分かるんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「照合されなかったからです」


「照合できなかったことと、捜す人がいないことは同じではありません」


「行政上は同じです」


「違います」


 ミラベルは答えた。


「記録へ残らなかった家族がいるかもしれない。名前を書けない人が待っているかもしれない。仕事場を毎日変えていた人かもしれない」


「かもしれない、ばかりだ」


「だから、ほかの人の名前を置いてよい理由にはなりません」


 ドーンは。


 七枚の証言票を見た。


「無名の死者へ名を返すことが、統合身元認定の役目です」


「その死者の名ではなく、生きているかもしれない人の名を返した」


「生きていると、まだ確認されていない」


「ええ」


 ミラベルは認めた。


「でも、死亡しているとも確認されていなかった」


 ドーンの視線が上がる。


「それでも、あなたは名前を置いた」


 エドガーが。


 机の右端へ置いていた黒紐の資料束を引き寄せた。


「一件の判断ミスであれば、個別の再審査で足りる」


 綴じ紐を解く。


「だが、過去十年間の処理件数にも、同じ傾向がある」


 ドーンの目が。


 初めて明確に動いた。


「統合身元認定後に対象番号を訂正、または再付番した案件」


 エドガーは一枚目を開く。


「死亡認定後に取り消された雇用契約。閉鎖された口座。移転した資産。住居契約の解除」


 次の頁。


「統合証言課の処理件数が増えた年度と、死亡認定直前に大口資産を移動した案件の増加が一致している」


「統計上の一致です」


 ドーンが言った。


「そのとおり」


 エドガーは否定しない。


「まだ犯罪全体を証明するものではない。個人名も、照合索引も確認していない」


 資料を閉じず。


 ドーンの前へ置く。


「だから、君に聞いている」


 冷静な声だった。


「誰が救われるに値するかを、君が決めたのか」


 ドーンは答えなかった。


「偽装死亡を求めた者から、対価を受け取った案件もあるのか」


「記録庁は」


 ドーンが口を開いた。


「人間を救ったことがありますか」


 質問への答えではなかった。


 エドガーは表情を変えない。


「質問に答えたまえ」


「債務労働契約から逃げた者を見たことがありますか」


 ドーンはミラベルへ尋ねた。


「記録に名がある限り、どこへ逃げても連れ戻される。雇用記録。住民記録。通行証。銀行口座。妻子の登録。人間を縛る鎖は、すべて紙でできている」


「だから、死亡記録を作った?」


 グレアムが問う。


「最初の一人は、工員でした」


 ドーンはグレアムを見なかった。


「十六年働いても借金が減らず、逃げれば家族へ債務が移る契約だった。法は契約を守った。警察は彼を雇い主へ返した。記録庁は、彼の居場所を正確に示した」


 エドガーの目が。


 わずかに細くなる。


「私は、その男を死者にした」


「契約を無効にするために?」


「死亡すれば、契約は終了する」


 ドーンは。


 机上の死亡認定書へ手を置いた。


「死者となれば、契約から自由になれる」


 その言葉に。


 会議室の誰も、すぐには口を挟まなかった。


「新しい名を与えました。別の街へ送りました。彼は家族と暮らし直した」


「そのあとも続けた」


 グレアムが言った。


「助けを求める者は多かった」


「金を払う者も増えたんでしょう」


 ドーンは答えない。


「横領犯。汚職官僚。資産を隠したい商会幹部」


 エドガーが、過去案件の速報を一枚めくる。


「死亡直前に資産を移した案件。名義人の死亡後も、別名義を介して同じ資産が動いた可能性のある案件」


 新しい決定的証拠ではない。


 犯罪全体を確定するには。


 各認定記録と。


 ドーンが語った名の変更先を結びつける資料が必要だった。


 ハロルドが隠したとされる照合索引も。


 まだ発見されていない。


 それでも。


 ドーンの行為が。


 一人の工員を救うための例外では終わらなかったことを示すには十分だった。


「制度は、彼らを救わなかった」


 ドーンが言う。


「だから、制度の外へ出した」


「誰を外へ出し、誰を死者にするかを、あなたが決めた」


 エドガーが言った。


「名を捨てた者たちは、新しい人生を得た」


 答えにはなっていなかった。


 あるいは。


 ドーンにとっては、それがすべてだった。


 誰が何をしたか。


 どれほどの金を払ったか。


 誰の犯罪から逃げたのか。


 重要なのは。


 古い名を捨て。


 新しい名で生きられたという結果だけ。


「名前は、本人のものではありません」


 ドーンは言った。


「社会が、その人物を誰として扱うかを示す整理番号です。ならば番号を変えれば、人間は別の人生を選べる」


「選んでいません」


 ミラベルが言った。


「何を?」


「その名前を与えられた死者は、選んでいない」


 ドーンの視線が。


 ミラベルへ戻る。


「偽装死亡を求めた人たちは、名前を捨てることを選んだかもしれません。でも、代わりに使われた死者は?」


「すでに死んでいる」


「名前を奪っていい理由にはなりません」


「名が確認できなければ、無名のまま埋葬されるだけです」


「だから、他人の死を所属させた」


 ミラベルの声が。


 白い会議室へ、まっすぐ響いた。


「生者を記録から逃がすために。別の人が死んだという事実を、その人から切り離した」


 外套。


 通行証。


 懐中時計。


 名。


 記録。


 死者が最後に残したものへ。


 別の人間の人生を重ねた。


「その遺体が誰なのかは、まだ分かりません」


 ミラベルは言った。


「ハロルドさんではないと確定したわけでもない」


 断定しない。


 けれど。


 そこで言葉を止めない。


「でも、あなたが続けてきた方法は分かりました」


 ドーンは黙っている。


「もし、火災で亡くなった男性がハロルドさんではないなら」


 七枚の証言票へ目を向ける。


「あなたは、その人から名前だけではなく」


 一度。


 息を継ぐ。


「自分が死んだという事実まで奪ったことになる」


 ドーンの表情が。


 初めて崩れた。


 わずかに。


 本当にわずかに。


 唇の端が引きつる。


 怒りよりも。


 その言葉だけは聞きたくなかったと示す変化だった。


「死まで」


 エレノアが低く繰り返した。


「名前を捨てた生者は、どこかで生き直せる。でも、その人の名前を付けられた死者は、自分が死んだことさえ残らない」


 ドーンはエレノアを見た。


「君の兄も、名を変えれば自由になれたかもしれない」


 エレノアが立ち上がる。


「兄さまの話をしないで」


「死亡記録を拒み続けているのだろう」


「レオンさんの事件とは別です」


 ミラベルが言った。


 エレノアの前へ出るのではない。


 隣に立つ。


「いま調べているのは、ハロルドさんと、火災で亡くなった男性の記録です」


「一件ずつ、事実を調べる」


 エレノアが言った。


 ミラベルを見ることなく。


 それでも、同じ言葉を選ぶ。


「ええ」


 二人の声が。


 初めて、同じ方向へ向いた。


 ドーンは、その姿を見ていた。


 そして。


 視線を落とす。


 右手が。


 長机の縁をなぞった。


 机下へ沈む。


 会議の前。


 彼自身が選んだ席。


 右膝の横にある、黒ずんだ真鍮の環。


 グレアムが気づいた。


「手を出せ!」


 警官が踏み込む。


 ドーンの指が、旧式防火設備の遠隔起動環をつかんだ。


 強く引く。


 壁の奥で。


 重い機械音が響いた。


 ごん。


 巨大な弁が開く。


 続いて。


 床の下を、蒸気が走った。


 管が震え。


 会議室の硝子窓が細かく鳴る。


 遠く。


 地下から。


 低い炉鳴りが上がった。


 ネラの顔が青ざめる。


「廃棄炉……」


 警報鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 庁舎中へ、鋭い連打が広がる。


 壁際の圧力計の針が跳ね上がった。


「全員、机から離れろ!」


 グレアムが叫ぶ。


 次の瞬間。


 会議室と奥の業務通路を隔てる防火扉が落ちた。


 鉄板が床へ叩きつけられ。


 警官の一人を押し戻す。


 蒸気管破裂時に、区画を分断するための設備だった。


 白い蒸気が天井近くの弁から噴き出す。


 視界が一瞬、消えた。


「ドーン!」


 グレアムが机を回り込む。


 だが。


 ドーンは椅子を倒し。


 落ちる防火扉の向こうへ身体を滑らせていた。


 鉄板が閉じる寸前。


 濃灰色の上着だけが見えた。


 警官が扉の非常把手へ飛びつく。


 動かない。


「圧力が掛かってる!」


「解除盤はどこだ!」


「地下管理室です!」


 ネラが答えた。


「廃棄炉の制御盤と同じ区画に!」


 グレアムは防火扉を拳で叩いた。


「野郎、最初からあの席を選びやがったな」


「逃げるためだけではありません」


 エレノアが言った。


 警報の中で。


 床へ片膝をつき。


 蒸気の流れる音を聞いている。


「炉を動かした」


 彼女は床下の管へ触れた。


 熱が、急速に上がっている。


「原証言票を燃やすため?」


 ミラベルが灰色の箱を見る。


 七枚の原証言票は。


 ここにある。


 一件の検死原票も。


 対象番号変更の複写票も。


 過去案件の速報も。


 この会議室に残っている。


 なら。


 ドーンが今、廃棄炉へ火を入れた目的は。


 別にある。


 地下には。


 まだ保全されていない記録がある。


 ハロルドが隠したとされる照合索引。


 過去の対象番号と、新しい名前を結びつける資料。


 そして。


 壁の向こうに。


 ハロルド=フェインを名乗る男がいる。


「ハロルドさん」


 ネラが、口元を押さえた。


 エレノアは立ち上がった。


「監禁室にも蒸気が行く」


「分かるのか」


 グレアムが問う。


「廃棄炉の裏。壁の向こう。古い空気管と点検路がつながってた」


「案内できるな」


 エレノアはミラベルを見た。


 一人では行かない。


 今度は、相棒として案内する。


 黒鴉館で交わした言葉が。


 二人の間へ戻ってくる。


「できる」


「私たちが案内します」


 ミラベルが言った。


 グレアムが扉へ向けていた部下へ命じる。


「正面階段と地下搬入口へ回れ! 廃棄炉を停止する。地下から出る者は全員押さえろ!」


「警部」


 エドガーが呼ぶ。


 警報の中でも。


 声は変わらない。


「ドーンを確保するだけでは足りない。炉を停止し、記録と監禁者を保全したまえ」


「言われなくても分かってる」


「念のためだ」


「その椅子ごと燃やされてから言え!」


 グレアムは会議室の扉を蹴り開けた。


 廊下では職員たちが混乱し。


 警報鐘と蒸気の音が重なっている。


 ミラベルは、机上の七枚を見た。


 一人分にされた証言。


 燃やされるはずだった、それぞれの言葉。


 ここにある分は守られた。


 だが。


 事件は、まだ終わっていない。


 十四週間前。


 火災で、一人の男性が命を失った。


 その遺体には。


 ハロルド=フェインの名が置かれた。


 それが誤った名であるかどうかは。


 まだ、最後の確認を終えていない。


 そして地下では。


 記録上すでに死んだ男を名乗る者へ。


 本当の死が近づいている。


「ミラベル!」


 廊下から、エレノアが呼んだ。


 ミラベルは取材帳をつかむ。


 七枚の証言票を振り返らず。


 相棒のあとを追って、警報の鳴る廊下へ走り出した。

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