第10節 ― イル=ヴァスの問い
夜明け前の黒鴉館で、二人の少女が一枚の地図を挟んでいた。
赤く囲まれた旧証言保管庫。
廃棄炉へ通じる通路。
古い空気管。
文書運搬用の昇降機。
その傍らには、対象番号を変更した複写票が置かれている。
ミラベルは、証拠が誰の手から渡されたのかを記し。
エレノアは、壁の向こうから聞こえた声の位置を地図へ落としていた。
階下では通信管が開き。
グレアム警部の低い声と。
中央記録庁から届くエドガーの声が、夜の終わりを急かしている。
街のどこかでは。
七枚の原証言票を、期限より早く廃棄炉へ送る命令が動き始めていた。
彼女たちの時間は止まらない。
警察は動き。
記録官は命令を書き。
壁の向こうにいる男は、次の金属音を待っている。
ここで止まるのは。
彼女たちではない。
あなたの前へ流れていた、事件の記録である。
ごきげんよう、読者諸君。
わたしは、イル=ヴァス。
偽装記録を観測し。
正しい事実が、誤った場所へ置かれる瞬間を読む者。
ここで、記録を止めよう。
必要な手掛かりは、すでにあなたの前へ置かれている。
新しい証拠は加えない。
まだ語られていない密室を開きもしない。
神はただ。
人間たちが残した言葉を、もう一度、正しい間隔で並べるのみである。
では。
七人の証人は、何を見たのか。
一人目が見たのは。
午後八時の交替鐘が鳴る頃、蒸気倉庫へ入った、茶色い外套の男。
その顔ではない。
その名でもない。
外套である。
二人目が扱ったのは。
午後七時五十六分、貨物駅の改札機へ差し込まれた通行証。
乗客の顔ではない。
通行証に記された名義である。
三人目が確かめたのは。
右袖の長さと。
左肩の裏へ入れられた補強布。
誰のために仕立て直した外套であるかは分かる。
だが。
火災の夜に、誰がそれを着ていたのかまでは、縫い目は語らない。
四人目が知っていたのは。
蓋の右下が欠けた懐中時計。
その時計を、ハロルド=フェインが使っていたこと。
だが。
時計が遺体とともに回収されたところを、彼自身の目で見たわけではない。
五人目が聞いたのは。
霧の向こうで発せられた、ハロルドと同じ口癖。
声の主の顔は見えず。
声そのものが同じだったとも、証言していない。
残されたのは。
右脚を引きずるような足音だけである。
六人目――照合医が比較したのは。
検死原票に記された、焼損遺体の身体所見と。
ハロルドの既存健康記録である。
身長。
広い推定年齢。
左肩に残る古い損傷。
それらは、ハロルドの記録と矛盾しなかった。
だが。
照合医は遺体を直接見ていない。
そして、矛盾しないことは。
同じ人間であることの証明ではない。
七人目――検死医が直接調べたのは。
火災現場から回収された、一人の男性の遺体である。
三十代後半から五十代前半。
顔による身元確認は不能。
左肩には古い損傷。
右手中指には、長年、記録を書き続けた者に特徴的な硬化がなく。
爪の奥には、火災以前からのものと考えられる炉煤が残っていた。
検死医は。
その遺体を、ハロルド=フェインとは認定していない。
身元特定不能。
そう証言し。
遺体を調べたすべての所見を、一件の検死原票へ記した。
七人目の証言票と。
一件の検死原票。
同じ検死医から生まれた記録ではあるが。
同じ一枚ではない。
さて。
もう一度、問おう。
七人のうち。
ハロルド=フェインを見た者は、何人いるのか。
外套を見た者はいる。
通行証を扱った者もいる。
時計を知る者。
口癖を聞いた者。
身体所見を既存記録と比べた者。
遺体を直接調べた者もいる。
では。
火災の夜に、ハロルド本人を確認した者は。
どの証言票に存在するのだろう。
証人たちは、嘘をついていない。
倉庫番は、外套を見た。
鉄道係員は、通行証を扱った。
仕立屋は、縫い目を確かめた。
同僚は、時計を知っていた。
露店商は、男の言葉を聞いた。
照合医は、身体特徴が既存記録と矛盾しないと確かめた。
検死医は、名のない男性の遺体を調べた。
どの証言も。
それぞれの場所に置く限り、事実である。
ところが。
統合報告書では、こうなる。
ハロルド=フェインが倉庫へ入った。
ハロルド=フェインの通行証が使われた。
ハロルド=フェインの声が聞かれた。
証言の本文にはなかった名前が。
完成した記録では、すべての文の先頭に立っている。
茶色い外套の男。
通行証を出した乗客。
霧の向こうの声の主。
それぞれ正体の分からなかった者たちは消え。
一人の名前へ置き換えられた。
証言が変えられたのではない。
証言の前に。
同じ名前が置かれたのである。
ならば。
その名前は、どの段階で置かれたのか。
七枚の原証言票は。
最初から一人分の記録ではなかった。
それぞれに付けられていた仮番号は異なり。
あとから、共通の対象照合番号へ変更されている。
原証言票の右上へ置かれた番号。
対象番号を変更した複写票。
変更を承認した印。
そして。
原証言票を、期限より早く炉へ送ろうとする命令。
それらは、すでに記録の中へ置かれた。
では。
証言の本文に存在しない名前を。
誰が、一人分の死亡記録へまとめたのか。
対象番号の変更は。
本当に、遺留品と身体所見を正しく照合した結果だったのか。
それとも。
先に一人の名前を決め。
そこへ、別々の事実を所属させるための操作だったのか。
次に。
時刻を見よう。
午後七時五十六分。
貨物駅で、通行証が使われた。
午後八時。
蒸気倉庫へ、茶色い外套の男が入った。
二地点を徒歩で移動するには、二十分以上。
走っても、十二分以上。
記録に残された間隔は、四分。
同じ男が二つの場所にいたのなら。
どのように移動したのか。
違う男が、それぞれの場所にいたのなら。
なぜ二人は、一人分の証言へまとめられたのか。
そして。
蒸気倉庫の火災で死亡したのは。
ハロルド=フェインの、何だったのか。
命か。
だが。
市民死亡照合局の地下には。
ハロルド=フェインを名乗る男の声がある。
では。
外套か。
通行証か。
懐中時計か。
それとも。
名前か。
火災のあと。
ハロルドの雇用記録は閉じられた。
職場の私物は処分されたと説明され。
妻は未亡人として扱われ。
本人の名は、死者の側へ移された。
一度目の死によって。
彼は社会から消えた。
それでも。
ハロルドを名乗る男は。
十三週間ものあいだ、旧証言保管庫の奥へ閉じ込められている。
食事と。
水を与えられ。
すぐには殺されずに生かされていた。
なぜか。
殺すことだけが目的なら。
死亡記録が成立したあと。
肉体にも、二度目の死を与えることはできたはずである。
すでに死者とされた男が地下で死んでも。
都市は、同じ名の二件目の死亡事件として数えないかもしれない。
身元不明の遺体として処理することも。
別の記録へ所属させることもできただろう。
それでも。
十三週間。
男は生かされていた。
ここに。
もう一つの記録がある。
ハロルドの私用手帳へ残された、廃止済みの管送番号。
その番号の先には。
現在の管送表から消えた旧証言保管庫と。
男の声が届く空気管があった。
そして。
ネラ=シムが耳にした、一つの言葉。
照合索引。
それが何であるのか。
どこにあるのか。
誰が必要としているのか。
まだ、記録は答えていない。
ハロルドが隠したとされる照合索引と。
十三週間続いた監禁は。
本当に無関係なのだろうか。
原証言票の廃棄が前倒しされたこと。
侵入者が、壁際の空気管まで到達したと知られたこと。
そして。
照合索引の場所が知られた可能性を、誰かが恐れたこと。
それらは。
別々の事実なのか。
あるいは。
一つの理由によって結ばれているのか。
七人の証人は、何を見たのか。
七人のうち、ハロルド=フェインを見た者は何人いるのか。
証言の本文に存在しない名前を、誰が一人分の記録へまとめたのか。
火災で死亡したのは、ハロルドの何だったのか。
記録上、すでに死亡した男を。
なぜ、十三週間も生かしておく必要があったのか。
そして。
ハロルドが隠したとされる照合索引は。
その監禁と、どのように関係しているのか。
答えはすべて。
ここまでの記録に提示されている。
正しい答えは。
誤った問いからは生まれない。
誰が嘘をついたのか、と問う必要はない。
誰も嘘をついていないのなら。
問うべきは一つである。
その事実は。
本当に、そこへ属しているのか。
答えを語れば。
これは記録になる。
問いを残せば。
これは事件になる。
ゆえに。
わたしは、ここで沈黙しよう。




