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第9節 ― 生きている死者

 黒鴉館二階の灯りは、夜明け前まで消えなかった。


 窓の外では、霧燈通りのガス灯が煤霧の中へ黄色く滲んでいる。


 高架線を走る列車はすでに途絶え。


 新聞配達の荷車が来るには、まだ早い。


 街が最も静かになる時間だった。


 事務所の中央に、エレノアが立っていた。


 濡れた髪。


 煤の付いた頬。


 袖口の裂けた外套。


 左手には手袋がない。


 靴の側面には古い灰が付き、左足首へ体重を掛けるたび、ほんのわずかに眉を動かしている。


 その向かいで。


 ミラベルは、ハロルドの手帳を両手で持っていた。


 表紙の端には、黒鴉館の記録箱から持ち出される前にはなかった汚れがある。


 古い機械油。


 煉瓦粉。


 灰。


 エレノアがどこへ行ったかを説明するには、それだけでも十分だった。


 机の上には、彼女が残していった紙片がある。


> 朝までに戻す。


 たった一行。


 行き先も。


 目的も。


 戻らなかった場合に誰へ知らせるべきかも書かれていない。


「ハロルドさんは生きてる」


 エレノアが言った。


 息はもう整っている。


 だが、声の奥には、走って帰ってきた興奮がまだ残っていた。


「死亡照合局の地下。旧証言保管庫の奥。廃棄炉の裏に部屋がある。壁の中を通る空気管で話したわ」


 ミラベルは答えなかった。


 手帳を机へ置く。


 音を立てないように置いたつもりだった。


 それでも。


 布張りの表紙が木へ触れた音は、静まり返った部屋へ鋭く響いた。


「名前も聞いた」


 エレノアは続ける。


「ハロルド=フェイン。クララさんのことも知ってた。手紙が届いたかって聞いたの。あの人よ。間違いないわ」


「顔を見たの?」


「壁の向こうだったから、見てない」


「声を以前に聞いたことは?」


「ない」


「本人しか知らないことを聞いた?」


「クララさんの名前と手紙のことを――」


「死亡記録を読めば分かることよ」


 エレノアの表情が固くなった。


「でも、あそこに閉じ込められていた」


「誰が?」


「ハロルドよ」


「あなたが聞いたのは、ハロルド=フェインを名乗る男の声でしょう」


「同じじゃない」


「同じではないわ」


 ミラベルの声は、自分でも驚くほど低かった。


「名前を名乗った。クララさんを知っていた。ハロルドさんの手帳にあった管送番号の先にいた。そこまでは事実として扱える。でも、本人だと確認できたわけではない」


「確認すればいいでしょう。今すぐグレアム警部を呼んで――」


「どう説明するの?」


「私が見つけたって」


「夜の死亡照合局へ変装して侵入して、閲覧許可のない地下へ入り、壁越しに声を聞いたと?」


「事実よ」


「警察がその一言だけで行政施設へ踏み込めると思う?」


「人が監禁されてるのよ!」


「だからこそ、証拠が必要なの!」


 声がぶつかった。


 暖炉の上の時計が。


 一度だけ、機械音を立てた。


 針は午前四時十二分を示している。


 ミラベルは両手を机へ置いた。


 指先が震えていた。


 怒っている。


 だが。


 怒りだけではなかった。


 エレノアが戻るまで。


 どこへ行ったのか分からないまま、三時間以上待った。


 記録箱から消えた手帳。


 一行だけの置き手紙。


 午前二時を過ぎても戻らなかったため、マルタを起こした。


 死亡照合局へ連絡すれば。


 エレノアが侵入していた場合、先に存在を知らせることになる。


 グレアムへ知らせても。


 場所も目的も分からなければ動かしようがない。


 エドガーへ連絡すれば。


 まずエレノアの居場所を調べるため、都市中の記録が動く。


 それが潜入先へ伝わる可能性もある。


 何もできないまま。


 窓の外を見て。


 階段を上がる足音を待ち続けた。


 十三週間。


 帰らない人間を待つことには。


 もう慣れたと思っていた。


 違った。


 慣れることなど、できるはずがなかった。


「見つけたから正しかったんじゃない」


 ミラベルは言った。


 エレノアの顔から。


 わずかに得意げだった色が消えた。


「結果として、そこに誰かがいた。それはあなたの観察と暗号の読み方が正しかったからよ。でも、行動まで正しかったことにはならない」


「だったら、どうすればよかったの?」


「戻って相談すればよかった」


「相談してる間に、原証言票は燃やされる」


「廃棄は二日後だった」


「信じたの?」


「公式の期限としては、二日後よ」


「ドーンが本当に待つ保証なんてないわ」


「ない。だから保存延長命令を取るつもりだった」


「間に合わなかったら?」


「間に合わせる方法を考える」


「役所の許可を待ちながら?」


「一人で地下へ入るよりは!」


 エレノアは口を閉じた。


 ミラベルは、呼吸を整えようとした。


 けれど。


 次の言葉は、抑えることができなかった。


「あなたが捕まっていたら、ハロルドさんも移されていた」


「捕まってない」


「手袋を落としたんでしょう」


 エレノアの左手が、無意識に外套の陰へ隠れた。


 その反応が。


 何より明確な答えだった。


「向こうは侵入者がいたことを知ってる。地下の場所まで知られたことも。あなたがハロルドさんと話した可能性も分かってる」


「私が誰かまでは――」


「分からないと、どうして言えるの?」


 ミラベルはエレノアの服装を見る。


 裏返した上着。


 外された眼鏡。


 ほどかれた髪。


 変装そのものは解いてある。


 だが。


 手袋の内側に何が残っていたのか。


 布の仕立て。


 指の長さ。


 化粧用の粉。


 そこからエレノアへ届く可能性がないとは言えない。


「あなたが捕まっていたら、誰が場所を知らせたの?」


 エレノアは答えない。


「朝までに戻らなかったら、私は何を手掛かりに探せばよかった?」


「手帳がないって気づくでしょう」


「管送番号の読み方を知りません」


「調べれば――」


「その間、あなたは地下よ」


 ミラベルの手が。


 机上の紙片へ触れた。


> 朝までに戻す。


「これを残して、私に何をしろと言うの?」


 エレノアの視線が、紙片へ落ちる。


「心配するなって意味よ」


「これを見て、心配しない人がいると思ったの?」


「あなたを巻き込みたくなかったの」


「相談しないことは、巻き込まないことじゃない」


 ミラベルは紙片を持ち上げた。


「何も知らされない人間は、助けることも、止めることも、失敗したときに探すこともできない。待つことしかできないのよ」


 最後の言葉が。


 思っていたよりも強く出た。


 エレノアの目が動く。


 空の革椅子へ。


 レオンの机へ。


 それから、ミラベルへ戻る。


「私を、兄さまと同じにしてるの?」


「していません」


「帰ってこないって思った?」


「思ってない」


「嘘」


「思わないようにしていたの!」


 ミラベルの声が震えた。


 今度は隠せなかった。


 エレノアが黙る。


 暖炉の中で。


 小さく石炭が崩れた。


「あなたまで帰らなかったら」


 ミラベルは、机の端をつかんだ。


「私は、また死亡を証明できない人間を待つことになる」


 エレノアの顔に。


 一瞬だけ、痛みが浮かんだ。


 だが。


 それはすぐ、反発する表情の下へ隠れた。


「でも、私は帰ってきた」


「今夜はね」


「ハロルドも見つけた」


「見つけたから正しかったんじゃない!」


 二度目の言葉は。


 部屋を切るように響いた。


 エレノアは。


 正面からミラベルを見返した。


「兄さまなら、あそこで止まらなかった」


 ミラベルの胸の奥で。


 何かが冷たく固まった。


「私はレオンさんじゃない」


「分かってる」


「だったら、レオンさんならどうしたという話を、私にしないで」


「あなたなら戻って、許可を取って、原本を読んで、それから誰かに助けを求めた」


「それが間違い?」


「遅いのよ」


 エレノアが一歩、近づいた。


「兄さまは、助けられる人が目の前にいるのに、紙がそろうまで待ったりしない」


「レオンさんは、一人で動いているように見えても、必ず痕跡を残していました」


「そんなこと――」


「グレアム警部へわざと喧嘩を売る。私に、記事には使えない一言を残す。マルタさんの店で行き先の名を口にする。自分が戻らないとき、誰かが追えるようにしていた」


 エレノアは言葉を失った。


 それが。


 常に計画されたものだったかは分からない。


 レオン自身は、そんな配慮などしていないと言うかもしれない。


 だが。


 彼は他人を遠ざけながら。


 完全には切り離さなかった。


 人に追われることを嫌いながら。


 追うための手掛かりを残した。


 それに気づかないまま。


 ミラベルは何度も、そのあとを追ってきた。


「兄さまを分かったように言わないで」


 エレノアの声が低くなる。


「分かったとは言っていない」


「十三週間しか一緒に探してないくせに」


「十三週間ではありません」


「私の方がずっと兄さまを知ってる」


「知っていることと、同じことができることは違うでしょう」


「あなたに何が分かるの?」


「分からないから聞いてるの!」


 ミラベルは取材帳を手に取った。


「証人へ。クララさんへ。あなたへ。分からないことを、分からないままにしないために聞いてる。でも、あなたは何も言わず、一人で答えを取りに行った」


「答えはあった」


「証明できない答えが!」


「生きてたのよ!」


 エレノアが叫んだ。


「死亡記録は間違ってた。ハロルドは生きてた。だったら、兄さまだって――」


「この人が生きていることを証明しても、レオンさんが生きている証明にはならない」


「同じでしょう。遺体がなくて、記録だけが――」


「同じではない!」


「どうして!」


「別の人間だからよ!」


 ミラベルは、机上のハロルドの手帳を指した。


「ハロルドさんには、ハロルドさんの事件がある。クララさんには、夫を探し続けた十三週間がある。それを、レオンさんが生きているはずだというあなたの願いの証拠にしないで」


「私はそんな――」


「してるわ」


 エレノアの唇が止まる。


「ハロルドさんが生きていた。だから死亡記録は信用できない。だからレオンさんも生きている。そう考えたでしょう」


 沈黙が。


 答えだった。


 ミラベルは。


 言いすぎたと思った。


 けれど。


 言葉を戻すことはできない。


「信じることは、悪くない」


 声を少し落とす。


「私も、死亡したとは書いていない。でも」


「あなたは、どっちでもないだけでしょう」


 エレノアが遮った。


「死んでいるとも、生きているとも言わない。何も決めないで、事実が来るのを待ってる」


「決められないことを決めないのは、逃げではありません」


「そうやって、ずっと空の椅子を見てればいいわ」


 エレノアは、地図筒をつかんだ。


 机の端へ置かれていた自分の手帳も取る。


 動きは速かった。


 この部屋を出るつもりだと、すぐに分かった。


「どこへ行くの」


「どこでもいいでしょう」


「よくない」


「今度は置き手紙を書くわ」


「エレノア」


「私はレオンさんじゃない」


 エレノアは扉へ向かいながら言った。


「でも、あなたもレオンさんじゃないの」


 ミラベルは追えなかった。


 言葉が。


 胸の奥へ深く入った。


 そのとおりだった。


 レオンではない。


 代わりにもなれない。


 彼のように一目で証拠を見抜けない。


 危険な場所へ先に踏み込み。


 あとから事実を持ち帰ることもできない。


 ミラベルにできるのは。


 人の言葉を聞き。


 紙へ残し。


 いくつもの証言の間にある違いを拾うことだけだった。


 それで。


 誰かを助けられるのか。


 扉へ手を掛けたエレノアの背中に。


 何も言えなかった。


 そのとき。


 階下で。


 入口の鈴が鳴った。


 夜明け前の《煤鳩亭》は閉まっている。


 扉には鍵も掛かっている。


 一度。


 間を置いて。


 もう一度。


 鈴ではない。


 外から。


 誰かが扉を叩いていた。


 エレノアが動きを止める。


 階下で、マルタの低い声がした。


「誰だい、こんな時間に」


 女の声が返る。


 小さく。


 聞き取れない。


 続いて。


 鍵が外される音。


 短い会話。


 階段を上がる足音がした。


 一人ではない。


 重い足音と。


 それより細かく、何度も踏み外しかける足音。


 扉が開いた。


 前掛けの上から厚い肩掛けを羽織ったマルタが立っていた。


 その後ろに。


 ネラ=シムがいた。


 昼間の制服姿ではない。


 暗い外套。


 頭巾。


 片手で、小さな革鞄を胸へ抱えている。


 顔色は青白い。


 煤霧に濡れた睫毛が震えていた。


「この娘、裏口で倒れそうになってたよ」


 マルタが言った。


「死亡照合局の書記です」


 ミラベルは答えた。


「知ってるのかい」


「昨日、会いました」


 ネラの視線が。


 ミラベルから。


 エレノアへ動く。


 裂けた袖。


 片方だけの手袋。


 地下の灰が付いた靴。


 左足をかばう立ち方。


 ネラの顔から、さらに血の気が引いた。


「あなたが……」


 声になりかけた言葉を。


 自分で止める。


 エレノアが扉から離れた。


「私が何?」


「地下へ……」


 ネラは革鞄を強く抱いた。


「今夜、誰かが入りました」


「誰か、ね」


 エレノアは挑むように言った。


「エレノア」


 ミラベルが制した。


 ネラへ椅子を示す。


 レオンの革椅子ではない。


 応接用の椅子だった。


「座ってください」


「時間がありません」


 ネラは首を振った。


「原証言票が、明日の夜に廃棄されます」


 ミラベルとエレノアは。


 同時に彼女を見た。


「期限は二日後のはずです」


 ミラベルが言う。


「変更されました」


「いつ?」


「今夜です」


 ネラの指が、革鞄の縁へ食い込む。


「地下で警報が鳴ったあと、統合証言課にも連絡が来ました。旧証言保管庫へ侵入者が入ったと」


 彼女の目が、再びエレノアの左手へ向く。


「地下から、薄灰色の手袋も運ばれてきました。私は、誰のものか知りませんでした。ただ、侵入者が壁際の空気管まで到達した可能性があると聞きました」


 第一段階。


 侵入者が現れ。


 ハロルドを隠した場所まで知られた可能性が生じた。


「そのあと、ドーン課長から命令が出ました」


「何と?」


「ハロルド=フェインの原証言票を、明日の夜の廃棄炉へ送るように。照合付属票も一緒に」


「正式な廃棄日は?」


「二日後です」


「なら、明日の夜に燃やした記録を――」


「二日後の日付で処理します」


 第二段階。


 原証言票の廃棄が前倒しされた。


 規程上の期限ではない。


 侵入者が現れた直後に。


 証言の原本だけを先に失わせる命令だった。


「誰が命じたの?」


 ネラの口が、固く閉じる。


 答えを声にすれば。


 もう戻れない。


 それを知っている顔だった。


「ドーン課長です」


 やっと。


 名を口にする。


「今夜、地下への侵入者が見つかったあと、廃棄準備を前倒しするよう命じました。明日の夜、原証言票と照合付属票を炉へ送ります」


「正式な廃棄記録は?」


「二日後の日付で作られます」


「つまり、記録上は規程どおりに廃棄したことにする?」


 ネラが頷く。


 ミラベルは取材帳を開いた。


 だが。


 ペンを持つ前に、ネラの手元を見た。


「それを証言できますか」


 ネラの指が、革鞄へ食い込んだ。


「……はい」


「警察と、中央記録庁の監査官の前でも?」


 ネラはすぐには答えなかった。


 ミラベルは急かさない。


 証言は。


 口から出させればいいものではない。


 その言葉によって。


 証言者が何を失うのかも考えなければならない。


「昨日、閲覧室で」


 ネラが言った。


 視線はミラベルの取材帳へ向いていた。


「ワトリアさんは、私へ言いました」


 声が震える。


「知っていることと、命じられてしたことは分けて記録する、と」


 ミラベルは黙って聞いた。


「最初は、責任を軽くしてもらえるという意味だと思いました」


「違うの?」


 エレノアが尋ねる。


「違います」


 ネラは首を振った。


「私が知らなかったことは、知らなかったこととして記録される。でも、命令に従ってしたことが、なかったことになるわけではない」


 第三段階。


 ネラは、ミラベルの言葉を思い出した。


 責任を消す言葉ではなく。


 責任の範囲を、正しく記すための言葉として。


「原証言票が燃やされたら」


 ネラは続ける。


「私が何をしたのかも、分からなくなります。統合報告書だけが残れば、最初から七人がハロルドさんを示していたことになる」


「それなら、あなたが番号を書いたことも消える」


 ミラベルが言った。


「はい」


「黙っていれば、処分されないかもしれない」


「はい」


「それでも来たのですね」


 ネラは革鞄を抱く手を緩めた。


「私がしたことも、記録してください」


 小さな声だった。


「命じられたからした。それでも、私がしたことです。知らなかったことと、あとで知ったことも。全部」


 第四段階。


 ネラは。


 自分の責任も、記録へ残される覚悟を決めていた。


 ミラベルは取材帳を机へ置いた。


「分かりました」


「私も処分されます」


「可能性はあります」


 隠さずに答える。


「でも、あなたが何を知っていて、いつ知り、誰から何を命じられたのかは分けて記録します」


 ネラが頷いた。


 今度は。


 昨日の閲覧室のように、途中で視線を逸らさなかった。


「何を持ってきたのですか」


 ミラベルが尋ねた。


 ネラは革鞄を開いた。


 中から。


 二つ折りにされた薄い紙を取り出す。


 灰色に近い青。


 通常の原票より薄く。


 文字が裏返しに近い淡さで写っている。


「複写票です」


 ネラは、紙を机へ置いた。


「統合対象番号を変更するとき、原票と処理簿の間に挟む連絡票です。上の正票は変更処理が終わると、付属記録へ綴じられます。下の複写は、担当書記が処理確認のため一時保管します。本来は処理確認後に返却する票です。でも、原証言票を読んだあと、私は返せませんでした」


 ミラベルは紙へ手を伸ばしかけ。


 止める。


「触れても?」


「はい」


 紙の端を持ち。


 暖炉の灯りへ向ける。


 上段に。


 七件の原証言票番号。


 その横に。


 旧対象番号。


 下段に。


 変更後対象番号。


 変更後の番号は。


 ハロルド=フェインの死亡認定へ付けられたものと一致している。


「旧番号は?」


 エレノアが覗き込む。


「身元未確定の対象へ付けられた仮番号です」


「ハロルドの番号じゃなかった」


「はい」


 ネラの声が震える。


「最初に七件の証言が集められたとき、同じ番号ではありませんでした」


 ミラベルは、紙面を上から下まで読む。


 変更理由欄。


> 遺留品および身体照合による対象統合。


 承認欄には。


 統合証言課長の印。


 マルセル=ドーン。


「この複写票は、いつ作られましたか」


「火災の二日後です」


「原証言票の本文が作られたあと?」


「はい」


「右上の番号を書き加える前?」


「番号変更と同時です」


「あなたは見たの?」


「原票を束ねたのは私です」


 ネラの両手が。


 自分の外套の前で固く組まれた。


「証言票には、それぞれ別の仮番号が付いていました。倉庫の目撃。通行証。外套。時計。声。身体照合。検死医の証言。最初から一件として集められたものではありません」


「別々の対象についての記録だった?」


「少なくとも、同じ対象だとは決まっていませんでした」


 ネラは、言葉を選んだ。


「ドーン課長から、統合対象をハロルド=フェインへ変更するよう指示が出ました。私は、処理命令が正式なものだと思いました」


「課長印があるから?」


「はい」


「変更理由にも、遺留品と身体特徴が一致したと書かれている」


「はい」


「なら、その時点では不正だと判断できなかった?」


 ネラは顔を上げた。


 ミラベルが責めていないことを。


 もう一度、確かめたようだった。


「はい」


 だが。


 そこで終わらなかった。


「あとで、原証言票を読みました。誰も、ハロルドさんを見ていなかった」


「それでも黙っていた」


 エレノアの言葉には。


 責める響きがあった。


 ネラが俯く。


「怖かったんです」


「ハロルドが死んだことになってるのに?」


「私が番号を記入しました」


 声が。


 ほとんど消えた。


「私が、七枚へ同じ番号を書きました。告発すれば、自分も不正へ関わったと認めることになる」


「実際、変更に関わったでしょう」


「エレノア」


 ミラベルが止める。


「事実よ」


「ええ。事実です」


 ネラが自分で答えた。


 エレノアが黙る。


「私は番号を書きました。正式な命令だと思っていました。でも、証言票を読んだあとも、確認を求めませんでした」


 ネラは複写票を見た。


「間違っているかもしれないと知ったあとも、黙っていました」


「それも証言しますか」


 ミラベルが尋ねる。


「はい」


「言い訳ではなく?」


「事実として」


 ミラベルは、わずかに頷いた。


「分かりました」


 机上の複写票が示すこと。


 七件の原証言票は、最初からハロルドを対象として作られたものではない。


 後から。


 共通の対象番号へ変更されている。


 その変更を承認した欄には、ドーンの印がある。


 だが。


 変更手続き自体が不正だったことまでは、この紙だけでは証明できない。


 複数記録を一人へ統合するのは、制度上認められた作業である。


 重要なのは。


 統合の根拠が正しかったか。


 そして。


 原証言票が早期に廃棄されようとしていることだった。


「ネラさん」


 ミラベルは尋ねた。


「ドーン課長は、なぜ廃棄を前倒しすると?」


「侵入者が旧証言保管庫まで入ったからです」


「それだけ?」


「照合索引の場所が知られた可能性があると」


 エレノアが目を上げる。


「照合索引?」


 ネラは自分が言いすぎたことに気づき。


 口を押さえた。


「何の索引ですか」


 ミラベルが問う。


「分かりません」


「ハロルドさんが隠したもの?」


「それも……」


 ネラは首を振る。


「課長が、そう話しているのを聞いただけです。ハロルドさんが何かを持ち出したことは知っていました。でも、何を、どこへ隠したのかは知りません」


 まだ。


 何かがあるという言葉だけ。


 索引の内容も。


 所在も。


 事件との関係も不明だった。


 ミラベルは、そこへ推測を書き加えなかった。


「ハロルドさんが地下にいることは?」


 ネラは目を見開いた。


「知っていたの?」


 エレノアが問う。


「知りませんでした」


 返事は。


 すぐだった。


「本当に?」


「地下に人がいるなんて……」


「食事や水は?」


「夜間の廃棄管理係が、旧保管庫へ荷物を運ぶことはありました。でも、機械部品や清掃用品だと」


 ネラの顔が歪む。


「ハロルドさんが……生きているんですか」


 ミラベルは、エレノアを見る。


 答えるのは。


 発見した本人であるべきだった。


 エレノアはしばらく黙っていた。


 やがて。


「ハロルドを名乗る男がいる」


 先ほどまでの断定ではなかった。


「声だけ。顔は見てない。クララさんと手紙のことは知ってた」


 ネラが、口元を手で覆う。


「なら、やっぱり……」


「まだ本人だとは証明できません」


 ミラベルが言う。


「でも、そこに監禁されている人がいる可能性は高い。あなたの複写票と、廃棄前倒しの証言があれば、エレノアの発見を正式な捜索理由へつなげられます」


「私の発見だけじゃ駄目なの?」


「駄目ではない」


 ミラベルはエレノアへ向き直った。


「でも、単独では弱い。違法侵入中に聞いた声だけでは、警察が動く前に争われる」


「ネラの紙なら?」


「記録変更が行われたことを示せる。原証言票の早期廃棄は、証拠隠滅の可能性を示す。さらに、変更された記録の対象者を名乗る人物が地下にいる」


 机上の証拠を。


 一つずつ分ける。


「あなたが確認した、地下の場所」


 エレノアの証言。


「ネラさんが持ってきた、対象番号変更の複写票」


 物証。


「ドーン課長が廃棄を前倒ししたという証言」


 切迫した危険。


「三つを合わせれば、原証言票の保存命令と、旧証言保管庫への緊急捜索を求められる」


「ハロルドがいることを、信じてもらえる?」


「信じてもらうんじゃない」


 ミラベルは答えた。


「確認しなければならない状況を作るの」


 ネラが、机上の複写票を見た。


「私が証言すれば……」


「あなたが番号を書いたことも調べられます」


 ミラベルは隠さなかった。


「処分を受ける可能性もある」


 ネラの肩が震える。


「はい」


 それでも。


 今度は目を逸らさなかった。


「証言します」


 ネラは言った。


「警察にも、監査官にも。私が番号を書きました。ドーン課長の命令でした。あとで原証言票を読み、本人を見た者がいないと知りました。それでも黙っていました。今夜、原証言票を前倒しで燃やす命令も聞きました」


 小さな声だった。


 だが。


 今までのどの言葉より、はっきりしていた。


 マルタが。


 扉の横から離れた。


「なら、下へ来な」


「どこへ?」


「通信機だよ」


 彼女はミラベルを見る。


「この時間なら、警部は煤霧分署だ。黒椅子の兄貴は、どこにいようと記録庁へ伝言が届く」


「エドガーさんを、黒椅子の兄貴と呼ばないでください」


「本人の前じゃ呼ばないさ」


「呼んだことがある顔です」


「一度だけね」


 マルタは階段を下りていった。


 ミラベルは複写票を薄い保護紙で挟む。


 ネラに確認を取り。


 紙の角へ、受領時刻と受領場所だけを記す。


 午前四時二十九分。


 黒鴉館二階。


 提出者、ネラ=シム。


 内容には手を加えない。


 証拠が、いつ。


 誰から。


 どの状態で渡されたか。


 最初の記録を作る。


「ネラさん。これからグレアム警部へ会います」


「はい」


「複写票は、あなた自身の手から提出してください」


「ワトリアさんが持っていては?」


「私が見つけた紙ではありません。あなたが保管し、ここへ持ってきた紙です」


 ネラは頷く。


 紙を受け取り。


 今度は革鞄ではなく、胸の内側へ入れる。


「エレノア」


 ミラベルが呼ぶ。


 返事はない。


 エレノアは窓際に立ち。


 外を見ていた。


 夜明け前の霧が。


 通りの向こうで少しずつ薄くなり始めている。


「場所を地図へ書いて」


「手帳にある」


「管送番号では、グレアム警部は地下へ入れない」


「私が案内する」


「さっきまで、一人で行ったことを叱ってたでしょう」


「警察と一緒なら、別です」


 エレノアは振り向かない。


「私は必要?」


「必要よ」


「証拠がそろったなら、私がいなくても行けるでしょう」


「旧証言保管庫へ入る昇降盤の固定具を外せるのは?」


「私」


「小荷物用昇降筒の中継扉は?」


「私が通った」


「ハロルドさんと話した空気管は?」


「場所を覚えてる」


「なら必要です」


「調査員として?」


 その言葉には。


 棘があった。


 見習い。


 助手。


 子ども。


 レオンの妹。


 これまで。


 エレノアはいつも誰かとの関係によって呼ばれてきた。


 ミラベルは。


 すぐには答えなかった。


 必要だから連れていく。


 それだけでは。


 また同じことになる。


「私が間違っていました」


 エレノアの肩がわずかに動く。


「潜入したことを?」


「それはあなたが間違っています」


「やっぱり叱るのね」


「ええ。でも、私も間違えた」


 ミラベルは、窓際まで歩いた。


 横へ並ぶ。


 窓硝子には。


 二人の姿が映っている。


 レオンの姿はない。


 空の椅子だけが、部屋の奥に映っていた。


「私は、あなたを止めることばかり考えてた」


「止めないと、また行くから?」


「そうです」


「正直ね」


「でも」


 ミラベルは続けた。


「あなたが何を見つけられるのかを、十分に見ていなかった」


 エレノアが横目を向ける。


「変装。暗号。街の構造。人が通らない隙間。私にはできないことばかりです」


「兄さまならできる」


「今、レオンさんの話はしていません」


 ミラベルは、はっきり言った。


「あなたの話をしてるの」


 エレノアは。


 ようやく正面からミラベルを見た。


「ハロルドさんを見つけたのは、あなたです」


「でも、正しいやり方じゃなかった」


「ええ」


「そこは譲らないのね」


「譲りません」


「相変わらず融通が利かない」


「あなたが利きすぎるんです」


 一瞬。


 二人の間の空気が。


 わずかに緩んだ。


 だが。


 ミラベルは笑わなかった。


 まだ。


 伝えなければならないことがある。


「一人で行かないで」


 エレノアの目が細くなる。


「命令?」


「お願いです」


「お願いなら、断れるわね」


「断らないで」


 ミラベルは手を伸ばした。


 エレノアの手首をつかむのではなく。


 手のひらを上にして。


 彼女が選べる形で差し出す。


「今度は、私の相棒として案内して」


 エレノアは。


 差し出された手を見た。


 すぐには取らない。


「相棒?」


「はい」


「助手じゃなく?」


「今だけです」


「取り消すつもり?」


「勝手に潜入しないと約束できたら、継続を考えます」


「それは条件が厳しすぎるわ」


「なら、夜明けまでの臨時相棒」


「短い」


「この事件が終わるまで」


「そのあとも事件が来たら?」


「そのとき話し合います」


「一人で決めない?」


 ミラベルは。


 その問いの意味を受け止めた。


「決めません」


「私も?」


「一人で決めないで」


 エレノアは、しばらく考えた。


 それから。


 手袋のない左手を。


 ミラベルの手へ重ねた。


「分かった」


「本当に?」


「一人では行かない」


 わずかな間。


「先に場所を教えてから行く」


「行くことは決定なの?」


「そこまで譲ったら、私じゃなくなるでしょう」


 ミラベルは息を吐いた。


「半分だけ信用します」


「十分よ」


 手が離れる。


 決裂しかけた間に。


 細いが、確かな線が結ばれていた。


 レオンの代わりではない。


 助手と探偵でもない。


 同じことができる二人でもない。


 別々の場所を見られる二人だった。


 階下から。


 マルタの声が飛んできた。


「つながったよ! 警部が、今から来るってさ!」


 続いて。


 通信機の弁が鳴る。


 別の回線が開いた音。


「記録庁もだ! 黒椅子本人が出たよ!」


「聞こえていますよ、グレイン夫人」


 通信管の向こうから。


 エドガーの冷静な声が響いた。


 マルタが舌打ちする。


「地獄耳だね」


「気送管です」


「似たようなもんさ」


 ミラベルは取材帳を取り。


 ネラは複写票を胸へ抱え。


 エレノアは床へ都市地図を広げた。


 旧証言保管庫。


 地下昇降機。


 廃棄炉。


 空気管。


 ハロルドを名乗る男がいる壁。


 彼女は鉛筆で。


 一つずつ位置を書き込んでいく。


 先ほどまで。


 エレノアの言葉は、ただ一人の侵入者が持ち帰った証言だった。


 そこへ。


 ネラの複写票が加わった。


 廃棄前倒しの証言が加わった。


 中央記録庁の保存命令と。


 市警の捜索が。


 これから加わる。


 信じているだけでは。


 扉を開けることはできない。


 だが。


 信じた者が持ち帰った場所を。


 記録し。


 証言し。


 ほかの証拠と結びつければ。


 扉を開ける理由になる。


 エレノアは地図の一点を、赤く囲んだ。


「ここ」


 ミラベルが隣へ膝をつく。


「間違いない?」


「間違いないわ」


「では、警部が来たら」


 エレノアが先に言った。


「二人で案内する」


 窓の外。


 東の空が。


 煤霧の向こうから、ゆっくり白み始めていた。


 生きていると証明されていない男を救うため。


 探偵のいない事務所で。


 初めて二人分の調査記録が、同じ地図の上へ重なった。

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