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第8節 ― エレノアの潜入

 夜十一時を過ぎても、市民死亡照合局の地下では書類が動いていた。


 地上の正面玄関は閉じている。


 採光窓は黒く沈み。


 遺族相談窓口も。


 身元確認室も。


 昼間は絶えず紙の擦れる音がしていた中央回廊も、今は照明を半分まで落としていた。


 それでも、建物そのものは眠っていない。


 壁の内側を通る文書管が、ときおり短い音を立てる。


 圧縮空気に押された記録筒が、部署から部署へ走り。


 地下から上階へ。


 上階から別棟へ。


 生者と死者の名を運び続けている。


 職員通用口の横で。


 夜勤の守衛が、懐中時計を開いた。


「所属は?」


「統合証言課です」


 エレノアは、胸元の仮登録札を見せた。


 声はいつもより半音高く。


 言葉の終わりを、わずかに不安そうに揺らす。


 新人書記らしい声だった。


 髪はきつくまとめ、地味な灰色の帽子の中へ収めている。


 頬には薄い化粧でそばかすを作り。


 鼻梁には度の入っていない丸眼鏡。


 灰色の上着は、市民死亡照合局を出たあと、古着市場で手に入れた事務服だった。


 統合証言課の制服そのものではない。


 襟の折り方を変え。


 銀色の留め具を付け替え。


 肩幅を少し狭く見せるよう、黒鴉館の三階で縫い直した。


 袖口には、今日一日書類を扱っていたように青黒いインクを染み込ませている。


 昼間の閲覧中。


 エレノアは原証言票だけを見ていたわけではなかった。


 受付で一時的に渡された同行者札。


 番号の位置。


 所属欄の書式。


 検印の色。


 裏面へ記された注意文。


 返却するまでに、それらを手帳へ写していた。


 夜になってから。


 同じ厚さの紙を切り。


 番号と所属を書き。


 夜間書類運搬の許可欄を付け加えた。


 近くで時間をかけて調べられれば、偽物だと分かる。


 登録番号を台帳へ照合されても終わりだった。


 だから。


 本物に見せることより。


 詳しく調べる必要がないと思わせる方を選んだ。


 両手を覆うのは、薄灰色の布手袋。


 指紋を残さないためだけではない。


 爪の形と。


 変装用の薄い皮膜を隠すためのものだった。


 守衛は登録札を油灯へ近づけた。


 表面の検印。


 仮番号。


 裏面の夜間運搬許可。


 一つずつ見る。


「見ない顔だな」


「今週、配属されたばかりです」


「夜間運搬は、新人だけでやらせん」


「シム書記に、先に下へ行くよう言われました」


 ネラの名を使った瞬間。


 エレノアは、守衛の目だけを見た。


 顔全体を観察してはいけない。


 見破られることを恐れている者は、相手の反応を確かめようとしすぎる。


 だから。


 不慣れな新人が叱られないかと怯える程度に、視線を少し下げる。


 ネラの名を選んだのは、推測だけではない。


 昼間。


 閲覧室を出る直前。


 ネラが閲覧簿を戻した壁掛け棚の横に、夜勤当番表が留められていた。


 統合証言課。


 廃棄準備。


 ネラ=シム。


 今夜の日付とともに、その名があった。


 エレノアが見たのは一瞬だった。


 それでも。


 名前と担当欄は覚えていた。


 守衛は眉を寄せた。


「シム書記が?」


「廃棄予定票の照合が残っているそうです」


「二日後の分か」


「はい」


 守衛は受付台の記録簿をめくった。


 ネラが今夜勤務していることは、当番表で確認している。


 だが。


 ネラが新人書記を先に地下へ送ったという記録まではない。


 そこを尋ねられれば。


 次の言葉は用意していなかった。


「夜間名簿には――」


 壁の文書管が鳴った。


 ごん、と鈍い音を立て。


 真鍮の受け口から、太い記録筒が飛び出す。


 守衛は反射的にそちらを見た。


 筒の帯は赤。


 緊急照合記録だった。


「そこへ署名して待て」


「はい」


 エレノアは記録簿へ、仮登録札と同じ偽名を書いた。


 守衛が緊急筒の封を確認している間に。


 頁の下段へ並ぶ夜勤職員の所属を、一度だけ見る。


 統合証言課。


 廃棄管理室。


 地下搬送係。


 人数は少ない。


 だが、無人ではない。


 ネラ=シムの名もあった。


 少なくとも。


 彼女の名を出したこと自体で、すぐに嘘とはならない。


 守衛が戻ってきた。


「地下昇降機は西端だ。書類を受け取ったら、寄り道せず戻れ」


「分かりました」


「新人」


「はい?」


「地下では、呼ばれても勝手に扉を開けるな」


 エレノアは瞬きをした。


「誰に呼ばれるんですか」


「古い空気管だ。別区画の音が人の声みたいに響く」


 守衛は面倒そうに手を振った。


「迷って保管棚を倒すな、という意味だ」


「気をつけます」


 エレノアは頭を下げ。


 通用口の奥へ入った。


 扉が閉まる。


 背後で錠が戻る音を聞いた瞬間。


 怯えた新人の歩幅をやめた。


 ただし、走らない。


 夜間の官庁で走る者は。


 急報を運ぶ職員か。


 見つかりたくない侵入者だけだ。


 中央回廊へ出る。


 昼間は均一に明るかった壁が、夜は照明の間ごとに黒く切れていた。


 閉じられた窓口。


 積み上げられた記録箱。


 天井近くに張り巡らされた真鍮の文書管。


 管の表面には、枝分かれするたび小さな番号札が付いている。


 エレノアは上着の内側へ指を入れた。


 薄い手帳を取り出す。


 ハロルド=フェインの私用手帳。


 灰色の布張り。


 角は使い込まれて丸くなっている。


 日付。


 照合番号。


 短い業務連絡。


 数字ばかりが、几帳面な小文字で記されていた。


 手帳は。


 クララが手紙とともにミラベルへ預けたものだった。


 誰から。


 いつ。


 どのように渡されたか。


 ミラベルは立会人の名まで記し、記録紙で包んだ。


 そのあと。


 自分の小机の下にある記録箱へ保管した。


 エレノアは、それを見ていた。


 白鐘女学園の寄宿舎から抜け出してきたのではない。


 兄の行方不明に伴う一時帰宅を認められ。


 今夜も、黒鴉館の三階に泊まっていた。


 ミラベルが二階の事務所で眠るまで待ち。


 記録箱から手帳を抜き出した。


 代わりに。


 紙片を一枚入れてきた。


 ――朝までに戻す。


 書いたのは、それだけだった。


 許可を求めれば。


 止められる。


 止められたあとで潜入すれば、ミラベルを共犯にする。


 だから。


 何も知らせなかった。


 十一週目の単独潜入で。


 自分が何をしかけたかも忘れてはいない。


 ミラベルが怒ることも。


 今回は足首だけでは済まない可能性があることも分かっていた。


 それでも。


 二日後に原証言票が失われる。


 地下に、現在の管送表から消えた経路がある。


 その二つを知りながら。


 朝まで待つことができなかった。


 手帳の後半には。


 本文と関係のないように見える数字が、何度も現れていた。


 三組に区切られた管送番号。


 最初の二組は、ハロルドが扱った死亡記録の送付先と一致している。


 だが。


 最後の一組だけが、現在の管送表に存在しなかった。


 昼間。


 閲覧室を出る前。


 エレノアは壁に貼られた現行経路表も見ていた。


 番号は途中まで同じ。


 終端だけが欠けている。


 廃止された経路。


 あるいは。


 現行表から消された保管先。


 中央回廊の西端に、文書運搬用の昇降機があった。


 人を運ぶ正面昇降機とは違い。


 鉄格子に囲まれた小さな箱。


 中には記録箱を載せる棚と。


 搬送先を指定する回転盤がある。


 地上。


 第一地下。


 検死保管。


 廃棄管理。


 回転盤の下には。


 擦れて読めなくなった、もう一つの目盛りがあった。


 エレノアは屈み。


 指先で煤を払う。


 薄い刻印が現れる。


 旧証言。


 目盛りの横に記された番号は。


 ハロルドの手帳に繰り返された、最後の管送番号と同じ系統だった。


「見つけた」


 囁き。


 すぐに口を閉じる。


 周囲には誰もいない。


 それでも、嬉しそうな声を出す必要はなかった。


 エレノアは格子扉を開き、箱の中へ入った。


 回転盤を、廃止位置へ合わせる。


 最初は動かない。


 固定具が掛かっている。


 腰の小道具入れから、細い鋼片を抜く。


 盤の隙間へ差し込み。


 内部の留め金を探る。


 兄なら、鍵の構造を見ただけで開け方を知ったかもしれない。


 レオンなら。


 開ける前に、誰が最後に触れたかを油の跡から調べただろう。


 エレノアは。


 壊さずに動けば、それでよかった。


 小さく金属が鳴る。


 固定具が外れた。


 回転盤が、廃止された目盛りへ入る。


 エレノアは扉を閉め。


 下降レバーを引いた。


 箱が揺れた。


 鎖が張り。


 蒸気制動器が唸る。


 床が、ゆっくり沈んでいく。


 第一地下。


 検死保管。


 廃棄管理。


 表示板の灯りが、一つずつ上へ流れる。


 やがて。


 現在の階数表示が途切れた。


 鉄格子の向こうは、煉瓦の壁になった。


 箱だけが。


 建物の設計図から外れた深さへ降り続ける。


 空気が冷える。


 乾いた紙の匂いへ。


 古い油。


 錆。


 焼却炉の灰の匂いが混じり始めた。


 下で。


 何かが重く噛み合う。


 昇降機が止まった。


 格子扉の向こうに。


 細長い地下通路が伸びていた。


 照明は数本の蒸気灯だけ。


 長く使われていないのか、硝子の内側が煤け、光は黄土色に濁っている。


 壁沿いには。


 古い空気管。


 使われなくなった文書管。


 番号札の外れた引き出し。


 天井へ届く原証言票の棚が並んでいた。


 奥には。


 巨大な鉄扉。


 その中央に、灰を掻き出すための口がある。


 廃棄炉だった。


 炉は停止している。


 だが、完全には冷えていない。


 扉の隙間から、古い熱がわずかに漏れている。


 二日後。


 ハロルドの原証言票も。


 右上に同じ番号を付けられた七枚の紙も。


 ここへ送られてくる。


 エレノアは昇降機を降りた。


 手帳を開き。


 管送番号の三組目を、壁の札と照らし合わせる。


 旧証言保管庫には。


 現在の棚番号だけでなく。


 廃止された管送経路の印が、そのまま残っていた。


 最初の数字は、地下系統。


 次は、旧証言保管庫。


 最後は。


 保管棚ではなかった。


 文書管の終端を示す番号だった。


 エレノアは通路の奥へ進む。


 靴底を石床へ滑らせ。


 足音を立てない。


 左右に並ぶ無数の引き出し。


 一つ一つに。


 事故番号。


 証言票番号。


 廃棄予定日。


 死者の名。


 あるいは。


 まだ名を与えられていない遺体番号。


 人間の人生が。


 手のひらほどの真鍮札に縮められていた。


 手帳の番号と一致する札を探す。


 見つからない。


 棚は途中で終わっている。


 その先には、壁。


 古い空気管が縦に三本走り。


 一番太い管だけが、さらに奥へ曲がっていた。


 エレノアは手帳を閉じた。


「棚じゃない」


 管送番号。


 書類の行き先だと思っていた。


 だが。


 ハロルドは統合証言課の記録整理官だった。


 現行の管送表にない番号を、何度も手帳へ残している。


 書類を送った記録ではない。


 廃止された経路が、どこへ通じているかを残していた。


 太い空気管へ近づく。


 耳を当てる。


 最初に聞こえたのは。


 管の内部を流れる、かすかな風だった。


 その奥に。


 音がある。


 かん。


 間。


 かん。


 間。


 かん、かん。


 不規則な故障音ではない。


 同じ間隔。


 同じ強さ。


 誰かが。


 金属を叩いている。


 エレノアは息を止めた。


 音が途切れる。


 聞かれていることに、向こう側が気づいたようだった。


 エレノアは指の関節で管を叩いた。


 短く二度。


 間を置いて。


 一度。


 クラウス家で使われる、ごく簡単な確認符号。


 ――聞こえる?


 返事はない。


 管の向こうにいる者が、同じ符号を知るはずもない。


 エレノアは叩き方を変えた。


 一度。


 間。


 一度。


 間。


 一度。


 単純な呼びかけ。


 しばらくして。


 向こう側から。


 一度。


 返ってきた。


 エレノアは管に沿って、壁を調べた。


 煉瓦の色。


 目地の新しさ。


 湿気の跡。


 空気管の固定金具。


 一箇所だけ。


 金具が比較的新しい。


 煉瓦は古いが。


 目地へ入れられた漆喰は、周囲より白い。


 壁を塞いだ跡だった。


「誰かいるの?」


 小声で問いかける。


 返事はない。


 代わりに。


 金属音が三度。


 先ほどより近く響く。


 エレノアは壁へ耳を当てた。


「聞こえるなら、二回叩いて」


 かん。


 かん。


「あなたは、ここに閉じ込められてる?」


 かん。


 かん。


 喉の奥で。


 自分の鼓動が鳴った。


「名前を言える?」


 長い沈黙。


 それから。


 空気管の奥を擦るような音がした。


 息。


 咳。


 人の声が。


 鉄の内側を何度も反射して届く。


「……だれだ」


 弱い。


 乾いた男の声だった。


「助けに来たの」


 言ったあと。


 エレノアは、自分の言葉が先走ったことに気づいた。


 まだ扉も見つけていない。


 外へ出せる保証もない。


 自分一人で。


 監禁している相手と戦えるかも分からない。


「名前を教えて」


 管の向こうで。


 男が呼吸を整えようとしている。


「……ハロルド」


 エレノアの手が、管へ強く触れた。


「ハロルド=フェイン?」


 間。


 そして。


「クララは」


 その一言で。


 エレノアには十分だった。


 声だけでは、本人だと断定できない。


 名を知る別人かもしれない。


 クララの名も、死亡記録を読めば分かる。


 けれど。


 この場所に。


 公式には死亡している男を名乗る者がいる。


 それだけで。


 すぐにミラベルとグレアムへ知らせる理由になる。


「クララさんは生きてる。あなたを探してる」


 管の向こうから。


 何かが床へ落ちる音がした。


 男が壁へ身体を預けたのかもしれない。


「……手紙は」


「届いたわ」


 エレノアは答えた。


「死んだ探偵の代わりに、ちゃんと読んだ人がいる」


 ハロルドが。


 かすかに息を吐く。


 笑ったのか。


 泣いたのか。


 空気管越しには分からなかった。


「扉はどこ?」


「炉の……裏」


「廃棄炉?」


「点検路……引き出し、零……」


 声が咳に途切れる。


「照合索引は?」


 エレノアは尋ねかけ。


 やめた。


 いま必要なのは。


 事件の全貌ではない。


 生きている人間を、ここから出すことだった。


「何人いる?」


「夜は……二人」


「見張り?」


「食事と……水を」


「武器は?」


「分からない」


「ここへ連れてきたのは誰?」


 ハロルドは答えなかった。


 息が続かないのか。


 答えを拒んだのか。


 エレノアには判断できない。


「大丈夫。すぐ戻る」


 自分へ言い聞かせるような声になった。


「今度は、ちゃんと人を連れてくる」


 兄なら。


 あそこで止まらなかった。


 たぶん。


 壁の向こうに人がいると分かれば。


 扉を探し。


 錠を外し。


 危険だと分かっていても踏み込んだ。


 エレノアも。


 炉の裏へ回る道を探そうと、一歩進んだ。


 そのとき。


 遠くで。


 鉄扉が開いた。


 蝶番の軋み。


 複数の靴音。


「誰かいるのか」


 男の声。


 夜勤職員のものか。


 地下の見張りのものか。


 エレノアには分からない。


 ただ。


 問いかける声ではなかった。


 侵入者がいることを、すでに知っている声だった。


 エレノアは照明を見た。


 隠れる棚。


 戻る昇降機。


 炉の裏へ続くはずの点検路。


 距離を瞬時に測る。


 昇降機へ戻る方が近い。


 だが。


 下降盤を再び動かし。


 鎖が上がるまでには時間がかかる。


「返事をしろ!」


 靴音が速くなる。


 ハロルドが管の向こうで何かを叩いた。


 大きく。


 わざと。


 男たちの注意が、壁の奥へ向く。


「奥だ!」


 エレノアは逆方向へ走った。


 棚と棚の間へ滑り込む。


 細い通路。


 右。


 引き出し列。


 左。


 古い文書管。


 正面には。


 小荷物用昇降筒。


 昼間の閲覧室で、灰色の記録箱を運ぶために使われていたものと同じ構造だった。


 人を運ぶための設備ではない。


 鉄枠の小さな搬送籠。


 幅は、肩一つ分。


 高さは、屈めば入れる程度。


 上階へ続く鎖と。


 手動の呼び鈴。


 エレノアは扉を開いた。


 中には、廃棄待ちの記録箱が二つ。


 一つを引きずり出す。


 もう一つは奥へ押し込む。


「いたぞ!」


 通路の端に、人影が現れた。


 濃い作業服。


 手には警棒。


 顔を見る余裕はない。


 エレノアは搬送籠へ身体を滑り込ませた。


「止まれ!」


 扉を引く。


 閉まりきらない。


 上着の裾が挟まっている。


 引き抜く。


 男の手が伸びる。


 エレノアは内側の上昇索をつかみ。


 全体重を掛けて引いた。


 頭上で。


 制動器が外れる。


 籠が跳ねた。


 男の指が。


 閉じる扉の隙間から入り。


 エレノアの左手をつかむ。


 布手袋が引かれる。


 手首を締める縫い紐が、鉄枠へ絡んだ。


 籠は上がる。


 男は離さない。


 エレノアは右手で小型ナイフを抜いた。


 人の手へ向けない。


 手袋の縫い紐を切る。


 布が裂けた。


 左手が抜ける。


 籠だけが、暗い昇降筒を上昇した。


 下へ。


 薄灰色の手袋が落ちていく。


 男の手へ。


 変装用の手袋。


 内側には。


 寸法を詰めるために自分で縫い直した跡がある。


 すぐに身元へ結びつく印ではない。


 だが。


 侵入者が変装していたことは分かる。


 手の大きさも。


 おおよその体格も推測されるかもしれない。


 エレノアは歯を食いしばった。


 取り戻せない。


 籠はもう、地下の蒸気灯を遠く下へ置いている。


 小荷物用の筒は狭かった。


 鉄壁へ肩が当たり。


 屈めた膝へ記録箱の角が食い込む。


 途中の階で止まれば。


 逃げ場はない。


 エレノアは上昇索を握ったまま、階数の感覚を数えた。


 廃棄管理。


 検死保管。


 第一地下。


 地上。


 現在使われている荷受け口へ出れば、職員がいる。


 その前に。


 使われていない中継口を探す。


 籠の側面。


 暗闇の中。


 風が横から入る場所。


 細い明かりが、一瞬だけ走った。


 エレノアは内側の非常留め金を蹴った。


 籠が急停止する。


 鎖が大きく鳴った。


 側面の中継扉へ肩をぶつける。


 一度。


 二度。


 古い掛け金が外れた。


 扉の先は。


 書類分類室の棚の上だった。


 誰もいない。


 エレノアは籠から這い出し。


 棚の上へ腹ばいになり。


 下を確かめる。


 床まで、人の背丈の倍近い。


 だが。


 横には帳簿棚。


 さらに隣へ、文書管の支持枠。


 降りられる。


 棚から棚へ。


 支持枠へ。


 最後の一段を飛び降りる。


 着地の音を殺し切れず。


 足首に衝撃が走った。


 十一週目に痛めた左足首へ。


 同じ痛みが走る。


 エレノアは歯を食いしばり。


 足が動くことだけを確かめた。


 室内の扉へ向かう。


 廊下から。


 警報鐘が鳴り始めた。


 一度。


 二度。


 侵入者を知らせる短い連打。


 エレノアは眼鏡を外した。


 帽子を取る。


 灰色の上着を裏返す。


 裏地は、夜間清掃員の濃紺色に見えるよう、無地の布を縫い付けてある。


 制服そのものには見えない。


 遠目に。


 警報から逃げ惑う雑役員へ見えれば、それでよかった。


 髪をほどき。


 腰を屈め。


 書類分類室から出る。


 廊下の向こうを、警備員が二人走っていった。


「地下だ!」


「搬送筒を止めろ!」


 エレノアは逆方向へ歩いた。


 走らない。


 怯えた清掃員のように壁へ寄り。


 警備員を避け。


 角を曲がる。


 その先で。


 守衛と目が合った。


 通用口で登録札を見た男だった。


 エレノアの胸元に。


 仮登録札はない。


 裏返した上着の内側に隠れている。


「おい」


 守衛が呼ぶ。


 エレノアは振り返らない。


 廊下の突き当たりに。


 遺体搬入口。


 夜間は、内側からだけ開けられる蒸気錠。


 そこへ走った。


「待て!」


 レバーを下げる。


 蒸気が噴く。


 重い鉄扉が、床を擦りながら開く。


 外は。


 荷馬車用の裏路地。


 濃い霧。


 消灯されたガス灯。


 エレノアは隙間へ身体を滑り込ませた。


 守衛の手が外套へ触れる直前。


 扉が閉じる。


 鉄と蒸気が。


 二人の間を断った。


 裏路地へ出たエレノアは。


 すぐには黒鴉館へ向かわなかった。


 照合局の周囲を半周し。


 運河沿いへ出る。


 水面に映る灯りの間を走り。


 市場跡の暗がりで上着を脱ぐ。


 丸めて、持ってきた布袋へ押し込む。


 髪を別の結び方へ変え。


 仮登録札を運河へ捨てようとして。


 やめた。


 偽造した札である。


 それ自体は。


 エレノアが無断で侵入した証拠にしかならない。


 だが。


 札の裏面には、守衛が確認した夜間運搬許可の書式がある。


 夜勤名簿にネラの名があったことも。


 侵入経路を説明するとき、必要になるかもしれない。


 捨てれば。


 自分に都合の悪い記録だけを消すことになる。


 エドガーに見せれば。


 先に叱責されるのは確実だった。


「……ミラベルにも」


 声にした途端。


 胸の奥が重くなった。


 朝までに戻す。


 そう書いてきた。


 けれど。


 手帳を戻せば済む話ではなくなった。


 ハロルドを名乗る男が生きている。


 旧証言保管庫の壁の向こうにいる。


 声を聞いた。


 名を聞いた。


 クララのことを尋ねられた。


 しかし。


 エレノア以外に、それを聞いた者はいない。


 録音筒もない。


 壁の位置も。


 監禁室へ入る扉も確認していない。


 自分の証言だけ。


 そして。


 手袋を落とした。


 地下に誰かが入り込んだことを。


 向こうは、もう知っている。


 侵入者が空気管の前まで到達したことも。


 壁の向こうと声を交わした可能性も。


 気づいているかもしれない。


 エレノアは手帳を胸へ押し当てた。


 足首の痛みが。


 走るたびに強くなる。


 それでも、速度を落とさなかった。


 黒鴉館へ戻る。


 ミラベルを起こす。


 グレアムへ知らせる。


 今度は。


 一人では行かない。


 そう決めた。


 薄灰色の手袋は、地下へ残したままだった。


 誰が拾ったのか。


 どこへ運ばれたのか。


 エレノアには見えない。


 ただ。


 自分が見つけたことで。


 壁の向こうの男へ残された時間が、長くなったとは思えなかった。


 むしろ。


 短くした可能性の方が高い。


 霧の奥に。


 黒鴉館二階の灯りが見えた。


 エレノアは。


 その灯りだけを見て走った。

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