第7節 ― 市民死亡照合局
市民死亡照合局の正面玄関には、死者の像も、葬送を示す黒布もなかった。
あったのは、煤を落とした灰白色の石壁と、磨かれた真鍮の文字だけだった。
――身元を失った死者へ、正しい名を。
その標語の下を、黒い喪服の女が幼い子どもの手を引いて通り過ぎていく。
反対側からは、作業着姿のドワーフが二人、蓋の閉じられた細長い箱を運び込んでいた。箱の側面には遺体番号らしい数字が印字され、その上から、雨除けの布が固く巻かれている。
誰かを失った者。
誰だったのか分からない者を運ぶ者。
その両方が、同じ扉を出入りしていた。
「ずいぶん明るい建物ね」
エレノアが見上げた。
正面には大きな採光窓が並び、曇天の光を庁舎の奥まで取り込んでいる。
「暗くする必要はないでしょう」
「死亡記録を作る場所なのに?」
「だからこそ、見間違えない明るさが必要なのかもしれないわ」
ミラベルは中央記録庁から交付された限定閲覧許可証を取り出した。
厚手の紙。
特別監査官印。
閲覧対象と禁止事項が細かく記されている。
原本持ち出し禁止。
書写禁止。
印影の採取禁止。
閲覧室外への情報開示は、再審査決定後に限る。
エレノアが横から覗き込む。
「最後の項目、あなたに向けて書かれたみたい」
「記者全般に向けた規則です」
「私には?」
「対象外記録の閲覧禁止と、施設内での単独行動禁止」
「どうして私の方だけ具体的なの?」
「エドガーさんに聞いてください」
「兄さまの嫌がらせだわ」
「予防措置です」
「何の?」
「あなたの」
玄関の受付へ許可証を出すと、若い書記が検印を三度確かめた。
特別監査室の印を光へ透かし。
登録番号を台帳へ照合し。
ミラベルとエレノアの顔を交互に見る。
エレノアは何もしていないのに、すでに疑われているような顔をした。
「失礼ですが」
書記が言った。
「エレノア=クラウス様は、中央記録庁の登録上――」
「見習い調査協力者」
エレノアが即座に答える。
「学生、となっています」
「古い記録ね」
「三日前に照会された記録です」
ミラベルはエレノアの肘を軽く押さえた。
「同行者として許可されています」
「確認いたしました。施設内では、必ず担当職員の指示に従ってください」
「もちろん」
エレノアが微笑む。
受付の書記は、その笑顔でかえって不安になったらしい。
台帳の余白へ何かを書き加えた。
ほどなく。
奥の回廊から、一人の男が現れた。
四十代の終わり頃。
黒に近い濃灰色の上着へ、銀の留め具を付けている。
髪にはわずかに白いものが混じっていたが、姿勢は崩れていない。
歩調はゆっくりとしている。
来訪者を待たせているという焦りも。
監査権限を持つ者に呼び出された緊張も感じさせなかった。
「ミラベル=ワトリアさんですね」
穏やかな声だった。
「はい」
「統合証言課長の、マルセル=ドーンです」
男はミラベルへ一礼し。
次にエレノアへ同じ角度で頭を下げた。
「エレノア=クラウスさん」
「私をご存じ?」
「この十三週間で、知らない記録官の方が少ないでしょう」
「どんな記録で?」
「少なくとも、死亡記録ではありません」
エレノアが目を細めた。
ドーンは微笑みを変えない。
失礼にならず。
親しげにもなりすぎない。
役所で長く人と接してきた者の、整った表情だった。
「特別監査官から連絡を受けています。ハロルド=フェインの認定記録について、原証言票の限定閲覧をご希望とのこと」
「許可の範囲で、確認させていただきます」
「承知しています」
ドーンは受付の先へ手を向けた。
「こちらです」
彼は閲覧室へ直行しなかった。
広い中央回廊を進みながら、左右の部署を一つずつ説明する。
「こちらが遺体受入課。火災、爆発、鉄道事故などから搬送された遺体へ、仮の照合番号を与えます」
曇り硝子の向こうで。
白い作業衣を着た職員が、複数の金属札を分類していた。
「向かいは遺留品照合課。衣服、装身具、鍵、通行証、工具。身体そのものから身元を確認できない場合、所持品が最初の手掛かりになります」
「所持品が、必ず持ち主と一緒にあるとは限らないでしょう」
エレノアが言った。
「おっしゃるとおりです」
ドーンは否定しなかった。
「だから、一つの物だけで名を決めることはありません」
「複数なら?」
「互いに独立した情報が、同じ人物を指しているかを確認します」
「同じ人物を指していることを、誰が決めるの?」
「統合証言課です」
ドーンは足を止めた。
回廊の壁に、大きな掲示板がある。
その中央に。
十数枚の肖像画と、名前を書いた札が並んでいた。
老人。
若い女。
工員。
鉄道員。
幼い子ども。
肖像の下には、事故名と、身元が確定するまでにかかった日数が記されている。
「五年前の北部坑道崩落です」
ドーンは一番端の肖像を示した。
「二十七名が死亡しました。発見時に顔を確認できた者は九名だけです」
隣の肖像へ指を移す。
「この男性は、靴底へ打たれた工房印から勤務先が分かりました」
その隣。
「この女性は、左手の指輪と、治療記録に残された骨折痕」
さらに隣。
「この子どもは、母親が縫った上着の裏地と、学校の歯科記録から」
エレノアの表情から、皮肉が消えていた。
「全員、家族のもとへ戻りました」
「遺体が?」
「名前が、です」
ドーンは掲示板の肖像を見上げた。
「顔が失われれば、人は誰であるかを語れません。けれど、衣服や傷や、日々使っていた物には、その人が生きていた痕跡が残っています」
そして。
ミラベルへ向き直る。
「遺体の顔が失われても、家族のもとへ名を返すための制度です」
その言葉へ。
ミラベルは反論できなかった。
証言を統合する行為そのものが、悪いわけではない。
一つの証拠だけでは足りないとき。
複数の小さな事実を集め、一人の人間を見つける。
それによって、無名のまま埋葬されずに済んだ死者がいる。
待ち続ける家族へ、答えを返せた事件もある。
記録が人間を殺すことがあるからといって。
記録が人間の名を守ってきた事実まで、否定することはできない。
「必要な制度だと思います」
ミラベルは答えた。
ドーンの目に、わずかな意外さが浮かんだ。
「反対されるものと思っていました」
「制度が悪いと決めて来たわけではありません」
「では、何が悪いと?」
「それを確かめに来ました」
ドーンは一拍だけ黙った。
やがて。
「ハロルドも、似たようなことを言う男でした」
穏やかなままの声。
ただし、わずかに遠くを見る響きが加わった。
「制度を疑うのではなく、制度が正しく使われたかを疑う。彼は優秀な記録整理官でした」
「でした?」
エレノアが拾う。
「死亡認定を受けた職員を、現在形では呼びません」
「死亡認定が間違っている可能性を調べに来たのに?」
「公務員として、成立中の記録に従って話しています」
エレノアは言い返しかけたが。
ミラベルが先に尋ねた。
「ハロルドさんの私物が、認定後すぐに処分されたと聞きました」
「通常の整理手続きです」
「遺族への返却は?」
「公務記録と混在した机上資料を、すべて私物として返すことはできません。返却可能な物があったかについては、物品整理記録を確認する必要があります」
「今日、確認できますか」
「今回の許可対象には含まれていません」
間違った回答ではなかった。
だが。
答えてもいない。
ミラベルはその区別を、取材帳を使わず頭の中へ残した。
ドーンは再び歩き始めた。
回廊を二度曲がり。
閲覧室と記された扉の前で止まる。
「原証言票の閲覧には、課員が立ち会います」
扉を開く。
部屋は細長く。
中央へ大きな閲覧机が一つ置かれていた。
壁には窓がない。
代わりに天井の乳白硝子から、均一な光が落ちている。
影が紙面へ掛からないよう設計された部屋だった。
机の上には、薄い記録綴りが四冊。
封をされた灰色の箱が一つ。
筆記具は置かれていない。
書写禁止のためだろう。
そして。
机の向こう側に、小柄なドワーフの女性が立っていた。
若い。
二十を少し越えた頃。
焦げ茶色の髪を短く結び、統合証言課の制服を隙なく着込んでいる。
両手は身体の前へ重ねられているが。
右の親指が、左の爪の縁を何度もこすっていた。
「ネラ=シム書記です」
ドーンが紹介した。
「本日の原票管理と、閲覧記録を担当します」
「ネラ=シムです」
ネラは頭を下げた。
声がわずかに上ずっている。
エレノアが彼女の顔を見る。
ネラはすぐに視線を落とした。
「よろしくお願いします」
ミラベルが言う。
「……はい」
短い返事。
ネラは閲覧簿を差し出した。
ミラベルとエレノアが署名する間にも。
視線は机の上の灰色の箱へ向き。
すぐに逸れる。
監査権限を持つ閲覧者が来たため緊張している。
それだけなら、不自然ではない。
エドガーの許可証を持った二人。
その一人は、死亡照合局の記録そのものを疑っている記者。
もう一人は、大時鐘塔事件で死亡推定となった探偵の妹。
若い書記が怯える理由はいくらでもある。
だから。
ネラが何かを知っているとは、まだ言えない。
「では」
ドーンが灰色の箱の封を確認した。
「開封します」
封紙には。
死亡認定番号。
ハロルド=フェイン。
証言票七件。
検死原票一件。
対象照合表一件。
そう記されている。
ドーンが鍵を差し込み。
箱を開いた。
紙の匂いが、静かな部屋へ広がる。
乾いた繊維。
古いインク。
わずかな消毒薬。
ネラは白い手袋をはめ、最初の束を取り出した。
「証言票は、記録番号順に並べています」
一枚目を机へ置く。
倉庫番の証言票。
ミラベルは紙面へ目を落とした。
上部に証言者名。
聴取日時。
聴取担当者。
本文は、倉庫番が先日語った内容とほぼ同じだった。
> 午後八時の交替鐘が鳴った頃、茶色い外套を着用したヒト族と思われる男が、夜間搬入口より倉庫内へ入った。
顔の確認なし。
声を聞かず。
通行札の有無も不確か。
どこにも。
ハロルド=フェインの名はない。
ミラベルは次の票へ移った。
二枚目。
鉄道係員の証言票。
> 午後七時五十六分、当該改札において通行証一通を受理し、記録機へ通した。利用者は帽子を着用。顔貌の確認なし。
本文には、通行証番号がある。
名義人の名は、付属欄にだけ記載されている。
証言そのものに。
ハロルドの名はない。
三枚目。
仕立屋の証言票。
> 提示された茶色の外套には、右袖の延長と左肩内側の補強があり、証言者自身が過去に施した仕立て直しと一致する。
誰が最後に着たのかは不明。
遺体の確認なし。
四枚目。
同僚の証言票。
> 提示された懐中時計は、蓋右下の欠けを含め、同僚が日常的に使用していたものと外観上一致する。
ここにも。
ハロルドという名は本文にない。
提示物の所有者欄だけに、別筆で名前がある。
五枚目。
露店商の証言票。
> 霧中より男の声を聞く。発言内容は、照合対象者が日常的に用いたとされる言葉と同一。声紋および顔貌の確認なし。右脚を引きずるような歩行音あり。
統合報告書にあった。
特徴的な歩行。
その元の記録には。
右脚、と明確に書かれている。
ハロルドの古傷は左肩。
少なくとも。
同じ特徴を示してはいない。
六枚目。
照合医の証言票。
> 検死原票に記載された遺体の身長、推定年齢および左肩関節部の陳旧性損傷は、照合対象者の既存健康記録と矛盾しない。
> ただし、当該特徴のみをもって同一人物と断定することはできない。
照合医が二人へ語った内容と一致していた。
彼は遺体を直接調べていない。
検死原票の所見と。
ハロルドの健康記録を比較しただけだった。
七枚目。
検死医の証言票。
> 被照合遺体を直接検死。
> 成人男性。推定年齢三十代後半から五十代前半。
> 顔貌による身元確認は不能。
> 左肩関節部に陳旧性損傷を認める。
> 右手中指に長期筆記労働に特徴的な硬化を認めず。
> 爪床近くに、火災以前からのものと考えられる炉煤の沈着を認める。
> 身元特定不能。
検死医自身が、遺体をハロルドだと認めたとは書かれていない。
その証言票の下。
箱の底には、別綴じの検死原票が残されていた。
一件。
遺体そのものを調べた結果を記す、正式な原票。
七枚目の証言票は、検死医が何を確認し、死亡照合局へ何を話したかを記したもの。
検死原票は。
検死医が遺体に対して行った検査と、すべての所見を記したものだった。
同じ医師から生まれた記録でも。
同じ一枚ではない。
ミラベルは最初の証言票へ戻った。
そして。
一枚ずつ。
本文を指で追った。
「ありません」
小さく言う。
エレノアが隣へ寄った。
「何が?」
「ハロルドさんの名前」
エレノアは一枚目を読む。
次。
その次。
七枚目まで。
名前が書かれている箇所はある。
だが、それは証言本文ではなかった。
すべての証言票の右上。
小さな四角い枠の中へ、同じ番号が書かれている。
対象照合番号。
その番号によって、七枚は同じ人物についての証言としてまとめられていた。
「本文には、一度も出てこない」
エレノアが言った。
「ええ」
「じゃあ、やっぱり――」
「まだ」
ミラベルは止めた。
「本文に名前がないことは確認できた。でも、不特定の人物について集めた証言へ、照合の段階で対象番号を付けること自体は、制度上あり得る」
ドーンが頷いた。
「そのとおりです」
彼は閲覧机の端へ立ち、二人の手元を見ている。
「火災直後の証言者が、遺体の身元まで知っているとは限りません。まず、見た物や聞いた声を記録する。その後、遺留品や身体情報と照合し、同一人物を示すと判断された票へ共通番号を付ける」
「番号が主語になるのね」
エレノアが言った。
「行政上は、対象を示す索引です」
ドーンは訂正した。
「本文へ憶測の名前を書き加えず、番号によって別管理する。証言者が知っていることと、照合担当者が判断したことを分けるためでもあります」
説明には合理性があった。
本文に名前を書かないこと自体は。
証言をねじ曲げないための仕組みとも考えられる。
だからこそ。
問題は、番号だった。
「この番号が」
ミラベルは右上の枠を指した。
「ハロルド=フェインへ対応しているのですね」
「はい」
「誰が付けましたか」
「対象照合表と処理記録を確認しなければ、個人までは分かりません」
「今日、見られますか」
「許可対象に含まれています」
ドーンがネラを見る。
「対象照合表を」
呼ばれた瞬間。
ネラの肩が小さく跳ねた。
「はい」
彼女は灰色の箱へ手を伸ばした。
白い手袋の指先が、紙束の端へ触れる。
だが。
うまくつかめず、一枚が机の上へ滑り落ちた。
「申し訳ありません」
急いで拾う。
ミラベルは手を出さなかった。
資料へ触れられる範囲は、決められている。
それ以上に。
ネラの手が震えていることを。
見なかったことにはできなかった。
「体調が悪いのですか」
ミラベルが尋ねた。
「いいえ」
返事が早すぎた。
「監査閲覧の立会いは初めて?」
「……何度か、あります」
「では、私たちが怖い?」
「そのようなことは」
ネラの目が、エレノアの方へ動く。
エレノアはにこりともしていない。
「私はまだ何もしてないわよ」
「エレノア」
「事実でしょう」
ドーンが穏やかに口を挟んだ。
「ネラ書記は、ハロルドの後輩でした」
ネラの指が止まる。
「同僚の死亡記録を、外部の方が調査している。平静でいる方が難しいでしょう」
説明としては自然だった。
ネラも、かすかに頷く。
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません」
ミラベルは言った。
「私たちは、誰かを責めに来たわけではありません」
ネラが顔を上げる。
一瞬だけ。
何かを確かめるようにミラベルを見る。
その唇が、わずかに動いた。
けれど。
声にはならなかった。
「対象照合表を」
ドーンがもう一度促した。
「はい」
ネラは書類を取り出した。
横長の表。
左列には、七件の証言票番号。
中央には分類。
外見。
所持品。
音声。
身体照合。
検死所見。
右端には。
共通の統合対象番号。
さらに、その番号から引かれた名前。
ハロルド=フェイン。
すべての証言が。
同じ一本の線へ集約されている。
「見事に一人分ね」
エレノアが言った。
「それが統合照合です」
「この番号を付けた根拠は?」
ミラベルは尋ねた。
「所持品、身体特徴、目撃証言を総合した判断です」
「それぞれの情報が、同じ人物のものだと示す記録は?」
「この照合表そのものです」
「でも」
エレノアが原証言票の一枚を示す。
「通行証を使った人と、外套を着た人が同じだという証言はない」
「外套と遺体が同じ場所から回収された」
「倉庫番が見た外套と、回収された外套が同じだとは確認されてない」
「同じ色。同じ時刻帯。同じ事故現場。そして照合対象者の所持品です」
「同じ時刻帯にしたのは統合報告書でしょう。元は七時五十六分と八時よ」
「倉庫番は時計を見ていない」
「だから誤差があるかもしれない。でも、同じだとも決まってない」
ドーンは声を荒らげなかった。
むしろ。
教師が熱心な学生へ制度の基本を説明するように答えた。
「照合とは、単独では弱い一致を集める作業です。すべての点が完全でなければ認定できないのであれば、焼損遺体の多くは永遠に無名のままになります」
「間違った名前を返すよりは?」
エレノアが問う。
ドーンの表情から。
初めて、微笑みが消えた。
「間違いを恐れ、何も決めないこともまた、判断です」
低く。
しかし静かな声だった。
「名を待つ家族へ、永遠に答えを返さないという判断です」
エレノアは黙った。
ミラベルにも。
簡単な反論はできなかった。
不完全な証拠から結論を出さなければならないことはある。
新聞記事も同じだった。
すべてを知ってから書ける事件など、ほとんどない。
だからこそ。
何を事実とし。
何を推測として残すのか。
その境界が重要になる。
「判断が必要なことは分かります」
ミラベルは言った。
「でも、判断したあとも、根拠は残しておかなければならない」
「残しています」
ドーンは七枚の原証言票へ視線を向けた。
「このように」
エレノアは、まだ右上の番号を見ていた。
やがて。
「ミラベル」
「何?」
「レンズ」
「持ってきていません」
「私が持ってる」
エレノアは外套の内側から、小さな折り畳み式レンズを取り出した。
レオンの大型検査レンズではない。
縫い目や細かな文字を見るために、本人が持ち歩いている小型のものだった。
ドーンが手を上げる。
「器具の使用は許可されていません」
「紙には触れないわ」
「許可証には、拡大器具による検査も含まれていない」
ミラベルはエレノアの手を下ろさせた。
「目で確認できることだけにしましょう」
「目でも分かるから言ってるの」
エレノアはレンズを畳んだ。
原証言票の右上を指す。
「本文のインクと、番号のインクが違う」
ミラベルは顔を近づけた。
紙へ触れないよう。
天井から落ちる光へ、わずかに角度を変えて見る。
本文は黒。
長く乾燥し、紙の繊維へ沈んだ色。
対象番号も黒に見える。
だが。
文字の縁だけに、ごく薄い青みが残っている。
表面の光沢も違う。
本文より。
番号の方が、わずかに新しい。
「筆記具が違うだけでは?」
ミラベルが言った。
「可能性はある」
「担当者が別なら、インクが違うのは不自然ではないわ」
「でも」
エレノアは別の票を指す。
「番号だけ、全部同じインク。同じ筆圧。同じ書き方」
「同じ職員が後から対象番号を記入する制度なら、当然です」
ドーンが答えた。
その説明も。
間違いではなかった。
「証言本文を書いたあと、照合担当者が番号を付ける」
「はい」
「どのくらいあとに?」
ミラベルが問う。
「照合情報がそろった時点です。即日の場合も、数日後の場合もあります」
「この記録では?」
「処理履歴を確認する必要があります」
「対象番号が、別の番号から変更された可能性は?」
部屋の空気が、わずかに変わった。
エレノアではない。
ミラベルが尋ねた。
断定ではなく。
確認として。
ドーンは、しばらくミラベルを見た。
「番号の訂正欄は空白です」
「つまり、公式には変更されていない」
「そう記録されています」
「書き直しの跡は?」
「見当たりません」
「なら」
ミラベルは右上の数字を見つめた。
「現時点で分かるのは、対象番号が証言本文より後に記入されたことだけですね」
「正確には、異なるインクで記入された可能性が高い、です」
「ええ」
ミラベルは認めた。
「それだけでは、不正の証拠にはならない」
「なりません」
ドーンは穏やかに答えた。
「通常の手続きでも、証言の聴取と対象番号の付与は別の職員が行います」
エレノアは不満そうだったが。
否定はしなかった。
番号が新しい。
だから書き換えられた。
そう結論づけるには、まだ足りない。
必要なのは。
最初に付けられた番号が何だったのか。
誰が。
いつ。
どの資料に基づいて、ハロルドの番号を与えたのか。
その処理記録だった。
「付番記録の原簿は?」
ミラベルが尋ねる。
「この箱にはありません」
「どこに?」
「統合課の処理記録庫です」
「閲覧許可の対象では?」
「対象照合表は含まれますが、課内の全処理原簿までは含まれません」
また。
一枚先に、必要な記録がある。
ミラベルは、机の向こうに立つネラを見た。
ネラは俯いている。
右の親指が。
また左の爪をこすっていた。
「ネラさん」
呼びかける。
彼女の顔が上がる。
「あなたは、ハロルドさんの死亡認定作業に関わりましたか」
ネラの唇から、血の気が引いた。
「私は……」
言葉が続かない。
ドーンが代わりに答えた。
「課員の一人として、書類整理を担当しています」
「対象番号を付けた?」
「担当職員の個人名に関する質問は、今回の閲覧目的から外れます」
ミラベルはドーンを見た。
「本人に尋ねています」
「彼女が答える義務はありません」
ネラの視線が。
ドーンへ移る。
恐れているようにも。
助けを求めているようにも見えた。
だが。
どちらだと決める証拠はない。
「答えたくなければ、いまは答えなくて構いません」
ミラベルはネラへ言った。
ドーンではなく。
ネラ本人へ届くように。
「ただ、あなたが知っていることと、命じられてしたことは分けて記録します」
ネラの目が、わずかに見開かれた。
「あなたが何を知っていたのか。何を自分で判断したのか。何を命令されて行ったのか。それを、最初から一つの責任として扱うつもりはありません」
ミラベルは取材帳を開かなかった。
まだ。
何も語られていない。
沈黙を、勝手な証言へ変えるつもりもなかった。
「私たちは誰かを処罰するためではなく、ハロルドさんの死亡記録が正しいかを確かめています」
ネラの口が、もう一度動く。
「私は――」
廊下で鐘が鳴った。
閲覧時間の終了を知らせる、短い音。
ネラは言葉を止めた。
ドーンが懐中時計を見る。
「本日の許可時間は、ここまでです」
「まだ検死原票と異議記録をすべて確認していません」
「明日、残りを閲覧できます」
「明後日も?」
エレノアが尋ねた。
ドーンはネラへ書類を戻すよう合図した。
「明後日は、難しいでしょう」
「なぜ?」
「保管期限が終了します」
ミラベルは、閉じられようとする灰色の箱を見た。
「七枚の原証言票の?」
「はい」
「再審査申請が保留中なのに?」
「正式な再審査命令は出ていません」
「エドガーさんの閲覧許可は?」
「監査閲覧であって、保存延長命令ではありません」
ドーンは。
七枚の証言票が箱へ戻されるのを見つめていた。
「大時鐘塔事件に伴う記録保留によって、通常より長く保存されてきました。しかし、期限を越えた原票を無制限に残すことはできません」
「廃棄されるの?」
エレノアの声が鋭くなる。
「統合報告書と身元認定記録は永久保存されます。検死原票も、検死記録として別規程に従い保管されます」
ドーンは答えた。
「証人への聴取内容を記した七枚の原証言票は、規程に従い廃棄処理へ移されます」
「いつ?」
「二日後です」
閲覧室の中で。
天井の乳白硝子だけが、変わらぬ明るさを保っている。
七枚の紙。
茶色い外套の男。
通行証を使った乗客。
霧の向こうの声。
ハロルドの名を一度も語っていない証言。
それらは、二日後。
個別の言葉を失う。
残るのは。
すべてを一人分へまとめた統合報告書と。
名を持たない遺体について記した検死原票だけになる。
「廃棄の延期を申請します」
ミラベルは言った。
「中央記録庁へ、正式な保存延長を申請してください」
「間に合わなかったら?」
エレノアが問う。
「規程どおり処理されます」
ドーンは答えた。
冷たい言い方ではなかった。
申し訳なさそうですらあった。
「規則は、疑いが生じるたび止めることはできません」
灰色の箱が閉じられる。
鍵が掛かる。
封紙が戻される。
ネラの手は。
まだ、わずかに震えていた。
ミラベルは机の上から消えていく最後の証言票を見た。
ハロルドの名前は。
その本文には存在しなかった。
あるのは右上の番号だけ。
番号は本文とは異なるインクで書かれている。
だが、それが通常の後付けなのか。
誰かが別の対象から付け替えたものなのか。
まだ証明できていない。
ネラが何を恐れているのかも。
ドーンの説明に、どこまで嘘があるのかも。
あるいは。
彼が何一つ嘘をついていないのかも。
まだ分からない。
確かなことは。
答えへ至る可能性のある七枚の原証言票が、二日後に失われることだけだった。
ドーンは扉を開いた。
「明日の閲覧については、受付へ希望時刻をお伝えください」
エレノアが動かない。
閉じられた灰色の箱を見ている。
「行きましょう」
ミラベルが声をかけた。
「でも――」
「ここでできることは、もうないわ」
少なくとも。
許可された方法では。
エレノアはミラベルを見る。
その表情に。
何かを決めた気配があった。
だがミラベルは。
それが何かを読み取れなかった。
二人が閲覧室を出る直前。
背後で、小さな音がした。
振り返る。
ネラが。
灰色の箱へ手を置いていた。
ドーンは廊下へ出た二人を見ている。
ネラはミラベルと目が合うと。
すぐに手を離した。
扉が閉じる。
最後に見えたのは。
何かを言えないまま立ち尽くす、若い書記の顔だった。




