第6節 ― 記録庁の黒椅子
ヴァルテリア中央記録庁には、街の音が届かなかった。
正面階段の下では蒸気乗合車が警笛を鳴らし、高架線を貨物列車が走り、新聞売りが大時鐘塔の復旧記事を叫んでいる。
だが、厚い石壁と二重硝子を隔てた庁舎の内部では、それらは遠い振動へ変わっていた。
聞こえるのは、靴音。
紙を運ぶ台車の車輪。
各部署をつなぐ気送管が、書類筒を吐き出す乾いた音。
そして、無数の時計が刻む、微かにずれた秒針の音だけだった。
ミラベルとエレノアは、特別監査室へ続く廊下を歩いていた。
案内役の書記は一言も話さない。
深緑色の制服を着た背中だけが、一定の距離を保って先を進んでいく。
廊下の左右には、黒い鉄枠の扉が並んでいた。
戸籍統合監査。
商会契約調整。
鉄道記録照合。
特例死亡認定。
扉に掲げられた文字を読むだけで、この都市に生きる人間の何が、どこで決められているのかが分かる。
誰が生まれ。
誰と婚姻し。
どこで働き。
何を所有し。
いつ死んだか。
そのすべてが、この建物のどこかへ収められていた。
「嫌いだわ、ここ」
エレノアが小声で言った。
「声が響きます」
「聞かせているのよ」
案内の書記は振り返らなかった。
「兄さまは、人を部屋へ呼ぶだけで尋問している気になるの」
「まだ呼ばれていません。私たちが押しかけたんです」
「なお悪いわ。押しかけてきた相手を、待たせず通すなんて」
「忙しくないのでは?」
「逆。来ることを知っていたのよ」
エレノアは前を歩く書記を見た。
「私たちが黒鴉館を出た時刻も。乗った馬車も。受付で何を出したかも。たぶん、もう机の上にある」
ミラベルは答えなかった。
その可能性は高い。
受付へ提出したのは、ハロルド=フェインの死亡認定抄本と、クララから預かった再審査申請の控え。
それに、七人への聞き取りを整理した記録だった。
書記が一度だけ立ち止まり、突き当たりの扉を開いた。
「お入りください」
その言葉だけを残し、廊下へ引き返す。
扉の向こうは、庁舎の執務室というより、古い書斎に近かった。
高い天井。
暗い木材の壁。
都市全域を描いた大判地図。
鉄道運行表。
死亡記録の月別推移。
商会ごとの燃料購入量。
壁面を埋める棚には、革表紙の帳簿と、綴じ紐でまとめられた報告書が並んでいる。
窓は厚いカーテンで半分閉じられていた。
昼だというのに室内は薄暗く、暖炉の火だけが、書類の端と真鍮器具を赤く照らしている。
その火の前に。
一脚の黒い椅子があった。
革張りの背もたれ。
深く沈む座面。
腕を置くための幅広い木枠。
エドガー=クラウスは、そこに座っていた。
膝の上には、ミラベルたちが受付へ渡したはずの資料がある。
「ほらね」
エレノアが囁いた。
「聞こえているよ」
エドガーは紙面から目を上げずに言った。
「聞かせたのよ」
「その点も聞こえている」
彼は暖炉の前から動かなかった。
来客へ立つことも。
椅子を勧めることも。
挨拶をすることもない。
指先で一枚目の記録をめくり。
二枚目を読み。
三枚目の余白へ視線を止める。
エレノアが腕を組んだ。
「相変わらず、感じが悪いわね」
「十三週間で君の礼儀が改善しなかったことには、深い安堵を覚えている」
「私の礼儀より、改善すべき記録があるでしょう」
「そのようだ」
エドガーの返事は淡々としていた。
目はまだ資料を読んでいる。
ミラベルは部屋の中央へ進んだ。
エドガーの机は、暖炉から少し離れた場所にある。
だが、本人はそこへ座っていない。
机上には、封を切られた報告書。
気送管から届いたばかりの記録筒。
都市地図の上へ置かれた複数の重し。
この男にとって机は、仕事をする場所ではなく、都市から届く情報を一時的に置く場所なのだろう。
仕事そのものは。
黒い椅子から動かずに行われていた。
「ハロルド=フェイン」
エドガーが資料の名前を読んだ。
「三十五歳。市民死亡照合局統合証言課、記録整理官。十四週間前の蒸気倉庫火災において死亡認定。遺体は焼損。七人の証言、所持品および検死原票による統合身元認定」
紙を一枚めくる。
「妻クララ=フェインは保険金および遺族扶助を未申請。死亡認定再審査を申請するも、大時鐘塔事件後の緊急記録照合により審査保留」
エレノアが言った。
「そこまでは読めば分かるわ」
「読まない者のために、記録は存在しない」
「読んだふりをして死者を増やす人のためでもない」
黒い椅子の周囲で。
暖炉の火が、一度強く揺れた。
エドガーはようやく目を上げた。
エレノアを見る。
視線は冷たい。
けれど、怒ってはいない。
怒りよりも前に、相手の言葉がどこから出たものかを測っている目だった。
「今日は、レオンの記録について話すために来たのかね」
「話したところで、あなたは同じことを言うでしょう」
「質問へ質問で返す習慣は、レオンに似たのかな」
「あなたに似なかったことを喜んでるの」
「私もだ」
「エレノア」
ミラベルが止めた。
エレノアは顔を背けたが、口を閉じた。
エドガーは何事もなかったように資料へ戻る。
「クララ=フェイン夫人が夫の生存を信じている。それは理解した」
「信じているだけではありません」
ミラベルが答える。
「夫から、死亡記録を疑うように書かれた手紙と、私用手帳を預かっています」
「どちらも読んだ」
エドガーの膝には、ハロルドの手紙と、手帳の冒頭数頁を写した記録もあった。
「自分の死亡認定に七人の証言が使われることを事前に予測している。興味深くはある」
「では――」
「だが、手紙を書いた人物が、死亡を偽装しようとしていた可能性もある」
ミラベルの言葉を遮らず。
それでも、先へ進ませない声だった。
「自ら失踪した者が、死亡認定の不備を示す文書を残すことは不自然ではない。妻を共犯にせず、後日記録を覆すための保険として残したとも考えられる」
「夫が自分で外套や通行証を用意したということ?」
エレノアが問う。
「その可能性を否定する資料は、ここにはない」
「生きている可能性は?」
「それも否定されていない」
「なら再調査を――」
「可能性は、行政命令を出す理由にはならない」
エドガーは資料を一枚にそろえた。
紙の角が、乾いた音を立てる。
「妻が死亡を信じないというだけでは、行政判断は覆らない」
クララが十三週間、何度も聞かされた言葉。
ミラベルの記事を読むまで。
彼女の前へ繰り返し置かれてきた結論だった。
エレノアが一歩出る。
「妻だけじゃない。七人の証言が――」
「七人の証言は、現時点で行政判断を支えている側の記録だ」
「その証言が、おかしいって話をしてるのよ」
「君たちが十四週間後に行った私的な聞き取りと、当時の公的証言のどちらを優先すべきだと思う?」
「本人たちの言葉よ」
「記憶は変わる」
「記録だって変えられるわ」
「だから、手続きがある」
「その手続きが止まってるんでしょう!」
エレノアの声が部屋へ響いた。
壁際の時計が。
一つ。
また一つ。
遅れて秒を刻む。
エドガーはエレノアから目を逸らさなかった。
「君の怒りは理解している」
「理解してる人の顔には見えないわ」
「理解と同意は別のものだ」
「そうやって、兄さまにも署名したのね」
ミラベルの指が、持っていた取材帳の縁へ食い込んだ。
レオン=クラウス。
遺体未発見。
死亡推定。
その記録へ。
この男は署名した。
エドガーは何も答えなかった。
否定もしない。
謝罪もしない。
黒い椅子から立つことさえない。
ミラベルは一度、息を整えた。
「エドガーさん」
自分の声が揺れていないことを確かめてから、続ける。
「私たちは、行政判断を今すぐ覆してほしいと申し上げているわけではありません」
エドガーの目が、ミラベルへ移った。
「では、何を求めている」
「原証言票の閲覧です」
「再審査が保留されている記録の原票は、原則非公開だ」
「分かっています」
「記者へ開示すれば、証言者の個人情報が流出する可能性もある」
「記事にはしません」
「記者の約束は、行政上の保証にならない」
「それも分かっています」
ミラベルは鞄から、五つに分けた資料を取り出した。
エドガーへ直接渡そうとはしない。
暖炉と黒い椅子の間に置かれた低い卓へ、一つずつ並べる。
「だから、閲覧が必要な理由を説明します」
「すでに読んだ」
「私の口から聞いてください」
「書いた内容以上のものがあるのかね」
「書いた記録と、書いた人間の意味が同じとは限りません」
エドガーの眉が、ほんのわずかに動いた。
レオンなら。
その変化を見逃さなかっただろう。
ミラベルには、それが興味なのか、不快なのかまでは分からない。
それでも。
話を止められてはいない。
「一つ目」
倉庫番。
鉄道係員。
仕立屋。
同僚。
露店商。
照合医。
検死医。
七人の聞き取り記録を置く。
「七人の証言の中に、ハロルドさん本人を直接確認したものはありません」
「統合身元認定は、直接確認が困難な遺体を扱う制度だ」
エドガーは即座に答えた。
「直接確認がないこと自体は、制度上の欠陥ではない」
「ええ」
ミラベルは認めた。
「それだけなら、矛盾ではありません」
エレノアが横から見る。
ここまで来て、認めるのかという目だった。
だが。
一つの弱い証拠を、強いと言い張れば。
自分たちも、七人の証言を一人分へまとめた記録と同じことをする。
「倉庫番が見たのは、茶色い外套を着た男。鉄道係員が扱ったのは、ハロルド名義の通行証。仕立屋が確認したのは、外套の縫い目。同僚が見たのは、懐中時計。露店商が聞いたのは、同じ口癖を使う男の言葉。照合医は、身体特徴が既存記録と矛盾しないと確認しただけです」
「検死医は?」
「遺体を直接調べました。ですが、身元は特定不能としています」
「それらを統合し、身元を認定した」
「同じ人物についての情報なら、です」
「違うと証明できるのか」
「二つ目をご覧ください」
ミラベルは都市地図を広げた。
貨物駅。
蒸気倉庫。
二地点へ印が付いている。
「ハロルド名義の通行証が貨物駅で使用された時刻は、午後七時五十六分。倉庫番が茶色い外套の男を見たのは、午後八時頃」
「四分間」
「はい」
「倉庫番は時計を見ていない」
「交替鐘を聞いています」
「鐘の誤差は?」
「中央信号に接続され、通常の誤差は小さい。ただし当日の機械記録は、まだ確認できていません」
「交通手段は?」
「徒歩では不可能です。最短経路を走っても十二分以上かかりました」
「馬車。蒸気車。構内作業車」
「可能性はあります」
エドガーの目が細くなる。
「それでは、矛盾とは言えない」
「単独では」
ミラベルは答えた。
「ただし、統合報告書は、二つを同じ人物の連続した行動として扱っています。もし別の人物なら、証言の統合そのものが崩れます。もし同じ人物なら、移動手段の記録が必要です」
「それが存在しないことは確認したのか」
「まだです」
「つまり、不足している」
「だから原票と関連記録を見たいんです」
暖炉の炎が。
黒い椅子の横顔を照らす。
エドガーは反論しなかった。
肯定もしない。
ミラベルは三つ目の紙を置いた。
「統合報告書では、こう書かれています」
指で一行ずつ示す。
「ハロルド=フェインが倉庫へ入った」
次。
「ハロルド=フェインの通行証が使われた」
次。
「ハロルド=フェインの声が聞かれた」
エドガーは紙面へ視線を落とした。
「不自然ではない」
「報告書だけを読めば」
ミラベルは、証人本人から聞いた言葉を隣へ並べた。
「倉庫番が語った主語は、茶色い外套の男」
「鉄道係員は、通行証を出した乗客」
「露店商は、霧の向こうの男の声」
エレノアが続けた。
「誰もハロルドだとは言っていない」
ミラベルは頷く。
「証言者の言葉に存在しなかった名前が、統合報告書では主語になっています」
「君たちが聞いた現在の証言では、だろう」
「はい」
「当時の原証言票に、ハロルドの名がある可能性は残る」
「そのとおりです」
「では、原証言の主語が統合時に追加されたとは、まだ断定できない」
「断定していません」
ミラベルは、まっすぐエドガーを見た。
「断定できないから、確かめたいんです」
エドガーの指が、黒い椅子の肘掛けを一度叩いた。
「言葉遊びかね」
「記録庁の方へ、言葉遊びで勝てるとは思っていません」
「レオンなら試す」
「私はレオンさんではありません」
部屋が静かになった。
エレノアも。
口を挟まなかった。
ミラベルは四つ目の資料を置いた。
照合医と検死医の言葉を、本人の確認を得た範囲で整理したもの。
「遺体の身体特徴です」
「身長。推定年齢。左肩の古傷。ハロルド=フェインの健康記録と矛盾しない」
「それだけではありません」
ミラベルは下段を指した。
「右手中指に、長期の筆記労働で生じる硬化が見られない」
「体質差はある」
「検死医も、中指の硬化がないことだけで別人とは断定していません」
「ならば――」
「爪の内部には、長期間、炉煤を扱った者に見られる沈着があった」
エドガーの視線が止まった。
「ハロルドさんは記録整理官です。毎日、長時間文字を書く職業でした。一方、遺体の手には長期の筆記労働を示す硬化がなく、炉煤を扱う生活痕がある」
「余暇に炉を扱っていた可能性」
「あります」
「過去に工房で働いていた可能性」
「あります」
「焼損による判定誤差」
「検死医は、完全に判断不能な状態ではなかったと証言しています。ただし、可能性がないとは言っていません」
「相変わらず、決め手には欠ける」
「はい」
ミラベルは一度、取材帳へ視線を落とした。
「でも、身長と傷が矛盾しないことだけを採用し、職業と一致しない可能性のある痕跡を身元判断から外した理由は、確認する必要があります」
「報告書から除外されたと?」
「クララさんへ交付された抄本にはありません」
「内部記録にはあるかもしれない」
「検死原票を見なければ分かりません」
三度目だった。
原票を見なければ分からない。
分からないことを。
分かったように断定しない。
それが、いまのミラベルに出せる唯一の強さだった。
最後の紙を置く。
クララの再審査申請控え。
その日付。
添付された異議申立書。
「五つ目です」
エドガーが紙を見る。
「クララさんは、遺体を直接確認したいと求めました。死亡照合局は、焼損が激しく確認しても意味がないとして認めなかった」
「あり得る対応だ。重度焼損遺体を遺族へ見せることは、心理的負担が大きい」
「その判断が正しかったかは、私には分かりません」
「では、何が問題だ」
「妻が身元認定へ異議を申し立てたことが、統合報告書に記載されていません」
エドガーは紙をめくった。
死亡認定書。
統合報告書抄本。
再審査申請。
日付を順に追う。
「異議の提出は、死亡認定後だ」
「口頭での異議は、その前です」
「記録は?」
「クララさんの証言しかありません」
「それでは行政記録上、存在しない」
「だから問題なんです」
ミラベルの声が。
初めて、少し強くなった。
「妻が、遺体を夫だと認めていない。直接確認もしていない。その事実が、死亡認定の記録に残されていない」
「彼女が署名を拒否した記録は?」
「交付された書類にはありません」
「内部記録にある可能性」
「あります」
「また、原票か」
「はい」
エドガーは何も言わなくなった。
暖炉の前で。
五つの資料を読む。
証人が本人を直接確認していない。
時刻と移動距離が一致しない。
証言者が語った主語と、統合報告書の主語が異なる。
遺体の職業痕が、ハロルドの職業と一致しない。
妻の異議が、交付された死亡認定記録にない。
どれも。
単独では、死亡認定を覆せない。
倉庫番は時刻を誤ったかもしれない。
通行証を使った者は、蒸気車で移動したかもしれない。
中指の硬化には個人差がある。
炉煤は、別の事情で沈着した可能性もある。
妻の異議も、正式記録の別紙へ保存されているかもしれない。
だが。
すべてを確かめるための記録が。
同じ場所にある。
原証言票。
検死原票。
対象照合表。
認定手続きの経過記録。
ミラベルが求めているのは。
行政判断の即時撤回ではない。
判断を支えた原本が、報告書と同じ結論を示しているかを読むことだった。
エドガーは、ようやく資料を閉じた。
それまで。
ほとんど姿勢を変えていなかった。
黒い椅子へ深く腰掛けたまま。
ただ、閉じた資料の上へ両手を置く。
「ワトリア嬢」
「はい」
「弟の真似をしているつもりなら、やめたまえ」
ミラベルの胸が、わずかに固くなった。
エレノアが何か言い返そうとしたが。
エドガーの次の言葉が先だった。
「君は弟より、証言者の言葉を丁寧に読んでいる」
ミラベルは目を瞬いた。
褒められたのか。
レオンが貶されたのか。
一瞬、判断できなかった。
エレノアは後者だと判断したらしい。
「兄さまだって人の話くらい聞くわ」
「聞く前に、相手の靴と手袋から半分を決める」
「それで正しいんだからいいでしょう」
「正しさは、礼儀を免除しない」
「あなたが言う?」
「エレノア」
ミラベルが止めた。
エドガーは椅子の脇にある呼鈴へ手を伸ばした。
小さく鳴らす。
すぐに扉が開き、先ほどの書記が入ってきた。
「市民死亡照合局。認定番号を」
エドガーが告げる。
ミラベルはハロルドの死亡認定番号を読み上げた。
書記が手帳へ記す。
「統合身元認定に関する原証言票七件、検死原票一件、対象照合表、異議申立ての付属記録。閲覧者はミラベル=ワトリア、およびエレノア=クラウス」
エレノアが眉を上げた。
「私も?」
「君を入れずに、ワトリア嬢だけを送ればどうなると思う」
「夜に勝手に入るわね」
「自己認識だけは正確だ」
「監査目的の限定閲覧」
エドガーは続けた。
「原本の持ち出し、書写、印影採取は禁止。閲覧中は死亡照合局職員の立会いを必要とする。対象外記録の閲覧は認めない」
「承知しました」
書記が手帳を閉じようとする。
「待ちたまえ」
エドガーが言った。
書記の手が止まった。
「別件の照会を加える」
エレノアがエドガーを見る。
エドガーの視線は、ミラベルが並べた五つの資料へ向けられていた。
「過去十年間の統合身元認定案件について、年度別の処理件数を出せ」
書記が新しい頁を開く。
「再審査申請件数。死亡認定の取消件数。対象番号の訂正および再付番の履歴」
ペン先が動く。
「死亡認定後に行われた口座閉鎖、資産移転、雇用終了、住居契約解除のうち、後日訂正された案件についても照合する」
ミラベルは、わずかに息を止めた。
現在の一件だけではない。
エドガーは、同じ制度を通過した過去の死亡認定へも手を伸ばそうとしている。
「市民死亡照合局統合証言課が処理した案件を分離しろ。個人名の一覧は不要だ。最初は件数と認定番号だけでいい」
「照会理由は?」
「特別監査室による制度運用確認」
「緊急指定を付けますか」
「通常優先。封緘扱い」
「承知しました」
書記が一礼する。
「今回のフェイン案件と同じものを探すの?」
エレノアが尋ねた。
エドガーは答えなかった。
代わりに書記へ言う。
「一致を前提に分類するな。条件に該当する数字を、そのまま持ってこい」
「はい」
書記は退室した。
気送管の向こうで。
すぐに機械が動き始める。
歯車。
圧縮空気。
一本目の書類筒が、市民死亡照合局へ。
別の筒が、中央記録庁の統計保管室へ。
さらにもう一本が、銀行・契約記録の照合部署へ送られていく。
エドガーは。
椅子から一歩も動かない。
それでも。
都市の別の場所にある扉が、一つ開き。
過去の記録を収めた棚もまた。
音もなく調べられ始めていた。
「許可するの?」
エレノアが尋ねた。
「原証言票を見る理由は示された」
「再審査も?」
「まだだ」
「過去の照会は?」
「一件の誤りなら、個別に訂正すればいい」
エドガーは淡々と答えた。
「制度の同じ場所で複数の誤りが生じているなら、個別案件ではない」
「もう複数あると思ってるの?」
「思ってはいない」
「なら、なぜ調べるのよ」
「思わないためにも、数字を確認する」
エレノアは不満そうに口を閉じた。
「ハロルドが生きている可能性は?」
「閲覧許可は、生存認定ではない」
「なら、兄さまの記録も――」
「エレノア」
エドガーの声が、わずかに低くなった。
妹の名を呼ぶ。
それだけで。
暖炉の火よりも冷たい線が、部屋の中央へ引かれた。
「これはレオンの捜索許可ではない」
エレノアの目に。
怒りが戻った。
「同じ死亡記録でしょう」
「違う事件だ」
「遺体がないのも同じ」
「違う事件だ」
「あなたは――」
「エレノア」
今度は、ミラベルが腕へ触れた。
強くつかまない。
逃がさないためでもない。
いま何を調べに来たのか、思い出させるために触れた。
エレノアはミラベルの手を見る。
それから。
エドガーへ向けていた言葉を飲み込んだ。
「……分かってるわ」
納得ではなかった。
許したのでもない。
ただ。
ハロルドの事件を、レオンの事件へ変えない。
その約束を守るための一歩だった。
エドガーは椅子の横に置かれた別の報告書へ手を伸ばした。
話は終わったと言わんばかりに、封を切る。
「許可証は正面受付で受け取りたまえ」
ミラベルは資料を集めた。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。私は行政上必要な閲覧を認めただけだ」
「それでも」
ミラベルは五つの資料を鞄へ戻した。
「これで、確かめられます」
「何を確かめるつもりかは、忘れない方がいい」
エドガーの目は。
もう新しい報告書へ落ちていた。
「君たちが確認するのは、ハロルド=フェインが生きているかではない」
紙をめくる。
「死亡記録が、その結論へ至るに足る記録だったかどうかだ」
ミラベルは頷いた。
「はい」
「結論を先に持ち込めば、君たちも統合報告書を書いた者と同じことをする」
エレノアは何も言わなかった。
ミラベルは扉へ向かう。
だが、開く直前。
一度だけ振り返った。
エドガー=クラウスは。
暖炉の前の黒い椅子に座ったまま。
新しい紙を読んでいる。
弟の死亡推定へ署名した男。
妹の怒りへ答えない男。
都市の安定のためなら、真実さえ管理する男。
それでも。
五つの小さな矛盾を読み。
閉ざされていた原記録へ至る扉を開いた。
そして。
一人分の記録だけではなく。
同じ制度を通過した、過去十年分の死亡認定へ照会を掛けた。
廊下へ出ると。
気送管の中を、一本の書類筒が駆け抜けていった。
金属の響きが、長い石廊下の奥へ消える。
その筒の先に。
七人が最初に語った言葉が。
まだ処分されずに残されている。
さらに別の筒の先では。
まだ誰も異常と呼んでいない、過去の死亡記録が。
静かに数え直されようとしていた。




