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第5節 ― 証言から消えた主語

 黒鴉館二階の時計が、午前零時を打った。


 一度。


 二度。


 小さな真鍮の鐘が鳴るたび、窓硝子に映った二人の影が、わずかに揺れた。


 十二度目の音が消える。


 それ以上は鳴らない。


 ミラベルは無意識に数えていた息を吐き、机の上へ視線を戻した。


 《煤鳩亭》はすでに閉まっている。


 階下から客の話し声は聞こえず、厨房の炉で石炭が崩れる音だけが、ときおり天井板を伝ってきた。


 事務所の暖炉にも火は残っていた。


 けれど、部屋の中央には紙が広げられすぎている。


 床の都市地図。


 七人への聞き取りを記した取材頁。


 そのすべての末尾には、証言者本人による内容確認の印がある。


 ハロルドの手紙。


 クララから預かった私用手帳。


 クララへ交付された死亡認定書。


 その添付書類である、統合身元認定報告書の抄本。


 そして。


 まだ二人が閲覧していない、七枚の原証言票と一件の検死原票。


 どれも同じ一人の死について書かれているはずだった。


 だが、並べれば並べるほど。


 一人の人間について語っているようには見えなくなる。


 エレノアは床へ座り込み、都市地図の上に赤と青の糸を置いていた。


 赤は蒸気倉庫。


 青は貨物駅。


 午後八時。


 午後七時五十六分。


 二本の糸は、同じ人物が四分間で移動できない距離を示している。


「馬車を使えば?」


 エレノアが言った。


 ミラベルは統合報告書から顔を上げなかった。


「貨物駅前で馬車を拾って、運河橋を渡り、工房街を抜けて?」


「貸し切りなら、多少は早いでしょう」


「駅を出た瞬間に馬車が待っていて、すべての信号と貨物門を通れたとしても、四分では無理よ」


「蒸気車は?」


「当時の運行記録を調べる必要がある」


「地下道」


「存在するならね」


「あるかもしれない」


「可能性は消さない。でも」


 ミラベルは報告書の一行を指で押さえた。


「問題は、移動方法だけじゃないわ」


 エレノアは地図から目を上げた。


「ほかにも何か見つけた?」


「見つけたというより……」


 ミラベルは、うまく言葉にできずに口を閉じた。


 机の上には、証言者本人から聞いた内容を、一行ずつ書き出した紙がある。


> 午後八時頃、茶色い外套の男が倉庫へ入った。


> 午後七時五十六分、ハロルド=フェイン名義の通行証を持つ乗客が改札を通過した。


> 火災現場から回収された外套は、ハロルド=フェインのために仕立て直したものだった。


> 回収された懐中時計は、ハロルド=フェインが使用していたものと同じ欠けを持つように見えた。


> 霧の向こうで、ハロルド=フェインと同じ口癖が聞かれた。


> 遺体の身長、推定年齢、左肩の古傷は、ハロルド=フェインの既存記録と矛盾しなかった。


> 遺体は、長年の筆記労働者とは異なる可能性のある手と、炉煤の沈着した爪を持つ成人男性だった。


 七行。


 七人が、それぞれ自分の言葉の意味と違っていないと確認した記録だった。


 ミラベルは、その隣へ統合報告書の抄本を置いた。


 同じ証言を整理したもの。


 同じ事件の記録。


 同じ人間の死を認定するための文書。


 だが、読んだときに浮かぶ光景は違っていた。


「声に出して読んでみて」


 ミラベルが言った。


「どっちを?」


「統合報告書の方」


 エレノアは床から立ち上がり、机の横へ来た。


 報告書を手に取る。


 紙の上部には、市民死亡照合局の検印。


 中央には、死亡者名。


 ハロルド=フェイン。


 その下へ、身元認定の根拠が整った文章で並んでいる。


 エレノアは最初の行を読んだ。


「火災発生直前の午後八時頃、ハロルド=フェインが茶色い外套を着用して蒸気倉庫へ入るところを、倉庫番が目撃した」


 ミラベルは、倉庫番への聞き取りを記した頁を開いた。


「倉庫番が言ったのは?」


「茶色い外套を着た男が入った」


「顔は?」


「見ていない」


「ハロルドさんを知っていた?」


「知らない」


 エレノアは報告書と取材帳を見比べた。


「でも、外套はハロルドのものだった」


「それを確認したのは、別の証人よ」


 ミラベルは仕立屋の記録を指した。


「正確には、ハロルドさんのために仕立て直した外套。倉庫番が見た物と、火災現場から回収された外套が同一だったかは確認されていない。倉庫番は、同じような色だと答えただけ」


「報告書だと、ハロルドが自分の外套を着て倉庫へ入ったことになってる」


「ええ」


 エレノアは次の行へ移った。


「同日午後八時頃、ハロルド=フェインの通行証が貨物駅改札において使用された」


「そこは、係員の証言と同じに見えるでしょう」


「違うの?」


「係員が確認したのは?」


「ハロルド名義の通行証」


「使った人は?」


「顔を見ていない」


 エレノアは一度、文章を読み直した。


「これは、間違ってはいないわ」


「ええ」


「ハロルドの通行証が使われた。それは事実でしょう?」


「少なくとも、改札記録機には、その名義の通行証を処理した時刻が残っている」


「でも、ハロルドが使ったとは書いてない」


「最初の行と続けて読めば?」


 エレノアは一行目へ目を戻した。


 ハロルド=フェインが倉庫へ入った。


 ハロルド=フェインの通行証が使われた。


 文章として直接つながってはいない。


 だが、同じ死亡者名の下へ並べられ。


 同じ身元認定の根拠として読めば。


 読者は自然に、同じ男の行動だと考える。


「ずるい書き方」


 エレノアが言った。


「まだ、ずるいと決めないで」


「どう見ても、そう読ませようとしてるじゃない」


「意図があったかは、原本を確かめてから」


「あなた、役人へずいぶん寛容なのね」


「記者は、文章の悪意まで勝手に決められないの」


「新聞はいつも決めてるでしょう」


「だから誤報が出るのよ」


 ミラベルはそう答えたところで。


 ふと、ペンを持つ手を止めた。


 新聞。


 その言葉が、長いあいだ開かなかった引き出しを、頭の中で開いた。


 取材をしたときの言葉。


 取材帳へ書いた言葉。


 それを新聞の記事へ変えるときの言葉。


 同じ出来事でも。


 その間で文章は変化する。


「どうしたの?」


「少し待って」


 ミラベルは椅子から立ち上がった。


 レオンの机ではなく、自分の机の下に置かれた記録箱を引き出す。


 事件資料。


 過去の記事。


 取材帳。


 日付ごとに束ねた試し刷り。


 紐を解き、紙をめくる。


「何を探してるの?」


「昔の取材記事」


「今の事件と関係ある?」


「あるかどうかを確かめるの」


 ミラベルは、一冊の薄い取材帳を抜き出した。


 黒鴉館へ通う以前。


 まだ市内の小さな事故や、工房街の催しを中心に取材していた頃のものだった。


 頁の上部には、工房街共同炊事場の改修、とある。


「これ」


 ミラベルは取材帳を開いた。


「炊事場で働いていた女性へ取材したときのメモ」


 エレノアが横から覗く。


 走り書きの文章。


> 朝はまだ水が冷たい。

> 古い釜は右側だけ火の回りが悪かった。

> 新しい釜なら、子どもたちを待たせなくて済む。


「これが?」


 ミラベルは、同じ記事の掲載紙を広げた。


 完成した記事には、こう書かれている。


> 老朽化した炊事設備の更新により、共同炊事場では調理時間の短縮と衛生環境の改善が期待されている。


 エレノアは二つを見比べた。


「全然違う」


「事実は同じよ」


「子どもが消えてる」


「新聞記事として短く整理したの。古い釜の具体的な故障も、冷たい水も、待っている子どもたちも省いた」


「どうして?」


「字数が足りなかった。記事の中心を設備改修にしたから。それに――」


 ミラベルは、そのときの編集長の言葉を思い出した。


 釜の前で働く女の話より、市の予算と工期を書け。


 市民が知りたいのは感傷ではない。


 誰が。


 なぜ困っているのかではなく。


 どんな設備が。


 いつ更新されるのか。


 それが記事だと教えられた。


「書く人間が、何を記事の中心にするか決めたから」


「嘘ではない?」


「嘘ではないわ」


「でも、その女の人が言ったこととは違う」


「言葉をそのまま載せた記事ではない。意味を整理して、別の文章にしたの」


 ミラベルは取材帳を閉じなかった。


 別の頁をめくる。


 工房事故。


 遅延列車。


 市場の火災。


 行方不明になった子どもの発見。


 取材相手の言葉は、記事になるたび変わっていた。


 話し言葉から書き言葉へ。


 個人の経験から、社会的な出来事へ。


 長い説明から、短い見出しへ。


 それ自体が、ただちに間違いなのではない。


 記録へ残すためには、整理が必要だった。


 だが。


 整理する者は、残すものと捨てるものを選ぶ。


 そして。


 ときには、話していない主語まで補う。


 ミラベルは統合報告書を引き寄せた。


「次を読んで」


 エレノアが紙へ視線を落とす。


「火災前、ハロルド=フェインの声が倉庫付近で聞かれている」


「露店商が言ったのは?」


「ハロルドと同じ口癖を話す男の声を聞いた」


「声が同じだとは?」


「言ってない」


「姿は?」


「霧で見えなかった」


「右脚を引きずるような足音は?」


 エレノアは報告書の続きを探した。


「特徴的な歩行音を伴っていた、としか書いてない」


「ハロルドさんの歩き方が特徴的だったという記録は?」


「ない。古傷は左肩」


「なら、この文章から確認できるのは?」


 エレノアは眉間へ皺を寄せた。


「ハロルドと同じ言葉を使った、誰かの声が聞かれた」


「そう」


「ハロルドの声じゃない」


「少なくとも、証人はそう断定していない」


 ミラベルは三枚の紙を、机の中央へ並べた。


 左。


 証言者本人から聞き、本人が内容を確認した現在の聞き取り。


 中央。


 クララへ交付された統合報告書の抄本。


 右。


 ハロルドの手紙。


 その三つの間に。


 本来あるべき七枚の原証言票だけが欠けている。


> 七人が、私を見たと記されるだろう。

> だが、そのうち私を見た者は一人もいない。


「報告書を書いた人間は、証言を短く整理した」


 ミラベルは言った。


「それ自体は、普通の作業よ。新聞記事でも、警察の調書でも、役所の報告書でも行われる」


「普通なら、問題ないの?」


「何を省いて、何を補ったかによる」


 ミラベルは一行目を指した。


「茶色い外套の男、という証言に、別の証人が確認した外套の所有者を組み合わせた」


 二行目。


「通行証を出した乗客を、通行証の名義人と同じ人物として読める位置へ置いた」


 三行目。


「同じ口癖を使った男の声を、ハロルドさんの声として記した」


 証言の文章そのものは、完全な虚偽へ置き換えられたわけではない。


 茶色い外套の男はいた。


 通行証は使われた。


 男の声は聞かれた。


 外套も。


 通行証も。


 口癖も。


 それぞれハロルドへ結びついている。


 ただ。


 それらを見たとき。


 誰がそこにいたのかは、証明されていない。


「証言者の話が、ねじ曲げられた?」


 エレノアが尋ねた。


 ミラベルは答えず、統合報告書の冒頭へ目を移した。


 死亡者。


 ハロルド=フェイン。


 その名が。


 すべての文章よりも先に置かれている。


「もう一度、証人の言葉だけを読んで」


 エレノアは取材記録を取った。


「茶色い外套の男」


 ミラベルは頷く。


「通行証を出した乗客」


「霧の向こうの男の声」


「そこに、名前はある?」


「ない」


「では、報告書を」


 エレノアは中央の紙へ移る。


「ハロルド=フェインが倉庫へ入った」


「次」


「ハロルド=フェインの通行証が使われた」


「次」


「ハロルド=フェインの声が聞かれた」


 暖炉の中で。


 石炭が音を立てて割れた。


 エレノアは紙から顔を上げた。


「最初から、ハロルドの話として読まされてる」


「ええ」


「証言の途中で名前が変わったんじゃない」


「違う」


「証言を並べる前に、一人の名前を決めてる」


 ミラベルは、報告書の上端を指で押さえた。


「証言が変えられたんじゃない」


 声にした瞬間。


 散らばっていたものが、初めて一つの形を取った。


「証言の前に、同じ名前を置かれたのよ」


 エレノアは、報告書を机へ戻した。


「ハロルド=フェイン」


「その名前を主語にしてから、七件を読めば」


「全部、ハロルドの行動に見える」


 ミラベルは、しばらく統合報告書を見つめた。


 だが。


 報告書に名が書かれたことだけでは。


 まだ、どの段階で誤りが生じたのかは分からない。


「問題は、この文章を書いた書記だけとは限らない」


「どういうこと?」


「統合報告書は、別々に作られた原証言票をまとめる文書よ」


 ミラベルは死亡認定書へ記された番号を指した。


「七枚の証言票が、最初から同じ人物についての資料だと扱われていたなら、書記はその分類に従ってまとめただけかもしれない」


「同じ人物だと、どうやって示すの?」


「対象番号」


 エレノアの視線が、紙の番号へ落ちる。


「統合身元認定では、身元の分からない遺体や照合対象ごとに、仮の番号を付けるはずよ。証言者の名前でも、死亡者の名前でもない。どの照合対象へ関係する情報なのかを示す番号」


「その番号が、七枚とも同じだったら?」


「内容の主語が男でも、乗客でも、声の主でも」


 ミラベルは七行の取材記録を見た。


「同じ対象についての証言として、一つの束へ綴じられる」


「それから、対象番号へハロルドの名前が付いた」


「あるいは」


 ミラベルは言葉を選んだ。


「最初から、ハロルドさんの番号として作られた対象へ、七枚の証言が所属させられた」


 どちらなのかは。


 抄本からは分からない。


 対象番号がいつ作られ。


 どの証言票へ、誰が書き。


 どの段階でハロルドの名と結びついたのか。


 その経路は、統合後の報告書から消えている。


「誰が、同じ番号を付けたの?」


 エレノアが尋ねた。


 ミラベルは報告書の承認欄を見た。


 担当課名。


 認定番号。


 複数の署名。


 だが。


 この抄本だけでは、個々の文章を作った者も。


 証言票へ対象番号を記入した者も。


 照合対象とハロルドの名を結びつけた者も分からない。


「まだ分からない」


「報告書を書いた人でしょう」


「作成者と、対象番号を決めた人が同じとは限らない。書記は、付けられた番号に従って文章をまとめただけかもしれない」


 ミラベルは、三つの記録を順番に指した。


「私たちが聞いた、十四週間後の証言」


 取材帳。


「証言が最初に記録され、対象番号を付けられた原証言票」


 机上には存在しない紙。


「それを一人分へまとめた統合報告書」


 抄本。


「私たちが持っているのは、最初と最後だけ」


 エレノアは不満そうに腕を組んだ。


「間が抜けてる」


「ええ」


「原証言票を見れば分かる?」


「証言本文にハロルドさんの名前があるか。対象番号がいつ、誰によって付けられたか。七枚の番号が最初から同じだったのか。統合時に変更されたのか。証言のどこが要約され、何が省かれたのか」


 ミラベルは統合報告書を閉じた。


「少なくとも、今よりは分かる」


「死亡照合局へ行きましょう」


「一般の記者に、死亡認定の原証言票を見せると思う?」


「クララの代理なら?」


「正式な代理権が必要。再審査も停止中」


「グレアム警部」


「死亡記録が正式に成立している以上、警察が不正の証拠なしに原本を押収するのは難しい」


 エレノアの顔が、あからさまに嫌そうなものへ変わった。


「まさか」


「その、まさかです」


「嫌よ」


「まだ名前も言ってないわ」


「言わなくても分かる。エドガー兄さまでしょう」


 ミラベルは机の上の資料を整理し始めた。


「中央記録庁の特別監査権限があれば、死亡認定手続きの再確認を命じられる」


「その権限を使う人が、兄さまの死亡推定へ署名したのよ」


「今回調べるのは、レオンさんの記録ではありません」


「同じ死亡記録でしょう」


「同じ制度でも、同じ事件ではない」


「あなたは平気なの?」


 エレノアの声が低くなる。


「兄さまを死者にした人へ、死亡記録を調べてくださいって頼むの」


 ミラベルの手が止まった。


 平気ではなかった。


 エドガーの署名。


 死亡推定。


 記録上、レオンを生者の側から外した紙。


 それを思い出すたび、胸の奥へ冷たいものが残る。


 けれど。


 その感情は、ハロルドの事件の証拠ではない。


「この人が生きていることを証明しても、レオンさんが生きている証明にはならない」


 ミラベルは、ハロルドの手紙を資料の一番上へ置いた。


「だから一件ずつ、事実を調べるの」


「私は、兄さまのことを忘れろなんて言ってない」


「分かってる」


「なら――」


「忘れないためにも、混ぜないの」


 ミラベルはエレノアを見た。


「ハロルドさんの記録を、レオンさんのために利用したくない。クララさんの疑いを、私たちの願いと同じものにもしたくない」


 エレノアは答えなかった。


 窓の向こうで。


 夜間貨物列車が、霧燈通りの遠くを走っていく。


 汽笛は低く。


 長く。


 街の暗がりを押し分けるように響いた。


 やがて。


 エレノアは床の地図を巻き始めた。


「エドガー兄さまは、簡単には許可しないわ」


「でしょうね」


「妻が夫の死を信じていない。それだけでは行政判断を変えない、と言う」


「私も、それだけで変えてほしいとは言いません」


「どうやって説得するの?」


 ミラベルは資料を五つに分けた。


 一つ目。


 証人がハロルド本人を直接確認していないこと。


 二つ目。


 貨物駅と蒸気倉庫の時刻と距離が一致しないこと。


 三つ目。


 不特定の人物についての七件が、同一の対象番号へ所属させられた可能性があること。


 四つ目。


 遺体に長期の筆記労働を示す中指の硬化がなく、炉煤が残っていること。


 五つ目。


 遺体確認を求めたクララの異議が、交付された報告書に記載されていないこと。


「感情ではなく、記録上の矛盾を持っていく」


 エレノアが資料を見る。


「これで足りる?」


「原証言票を見せる理由にはなると思う」


「再審査を認める理由には?」


「まだ足りない」


「ハロルドが生きていると認めさせるには?」


「全然足りないわ」


 ミラベルは、はっきり答えた。


「でも、原本を確認しなければ、これ以上は進めない」


 レオンなら。


 権限がなくても、何か別の方法を探したかもしれない。


 記録庁の癖を読み。


 旧知の書記を動かし。


 グレアムを怒らせ。


 最後には、見るべき紙を机へ置かせただろう。


 だが。


 レオンはいない。


 空の椅子は、何も答えない。


 ミラベルは、自分の小机から鞄を取った。


「今から行くの?」


「夜が明けてから」


「エドガー兄さまは、朝が嫌いよ」


「知っています」


「昼も、人に会うのを嫌がる」


「それも知っています」


「機嫌のいい時間なんてないわ」


「なら、いつ行っても同じでしょう」


 エレノアは口元を少しだけ緩めた。


「そこは、兄さまに似てきたわね」


「どちらの?」


「両方」


「最悪です」


 ミラベルは暖炉の火を落とした。


 机上のランプを一つ消す。


 レオンの机側だけが、薄い闇へ沈む。


 残された灯りの下には。


 七人が語った言葉。


 それを一人分へまとめた報告書。


 そして。


 対象番号がいつ、どの段階で付けられたのかを確かめるための、まだ見ることのできない原証言票と付番記録があった。


 証言者は、誰もハロルドの死を確認していない。


 それでも記録の中では。


 七人全員が、同じ男の死を証明していた。


 その間で。


 七件の異なる情報を、一人分へ所属させたものが何であるのか。


 確かめるには。


 都市の記録を、座ったまま動かす男に会わなければならなかった。

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