第4節 ― 誰も嘘をついていない
翌朝。
ミラベルは、市民死亡照合局の調書を読まないまま、黒鴉館を出た。
「本当に見なくていいの?」
霧燈通りへ出るなり、エレノアが尋ねた。
朝の煤霧はまだ低いところへ溜まっていた。
煉瓦の壁。
馬車の車輪。
通行人の足首。
それらの輪郭だけを、灰色の霧が薄く削っている。
高架線を通過した貨物列車の振動が、頭上の鉄骨から石畳へ伝わった。
ミラベルは外套の襟を閉じ、取材帳が鞄に入っていることを確かめた。
「先に読んだら、書かれている答えを確かめに行くことになるから」
「答えが書いてあるなら、手間が省けるでしょう」
「それが正しい答えならね」
エレノアは隣を歩きながら、肩へ掛けた地図筒を持ち直した。
「兄さまなら先に読むわ」
「レオンさんなら、調書の紙質から調べるでしょうね」
「そのあと証人の靴まで見る」
「私は靴を見ても、どこの泥かまでは分かりません」
「自慢にならないわよ」
「だから、本人の言葉を聞くの」
ミラベルは足を止めずに言った。
「役所が何を書いたかではなく、その人が役所へ何を話したのか。最初はそこから」
「話が変わっていたら?」
「変えたのが証人とは限らない」
エレノアが横目で見る。
「もう記録を疑ってる」
「疑うことと、偽物だと決めることは違います」
「それも兄さまが言いそう」
「似ていません」
「今の言い方まで似てたわ」
ミラベルは答えなかった。
レオンの真似をするつもりはなかった。
彼なら、すでに何かを見抜いていたかもしれない。
封筒の紙。
ハロルドの筆圧。
死亡認定番号の並び。
クララが語らなかった一言。
ミラベルには、そこから事件の構造を引き出すことはできない。
だが。
語った本人が、どの言葉を選んだのか。
質問されたとき、どこで言い淀んだのか。
その言葉が記録になる前に、何を意味していたのか。
それなら、聞くことができる。
最初に訪ねたのは、火災の起きた蒸気倉庫だった。
鉄道環状区の外れ。
貨物線と運河の間に挟まれた一帯には、煉瓦造りの倉庫が幾棟も並んでいる。
火災のあった建物だけが、屋根を失っていた。
黒く焼けた梁が、折れた肋骨のように空へ突き出している。
入口には封鎖用の鉄鎖。
窓には板。
煤と消火水の臭いは薄れていたが、焦げた油の臭いだけが煉瓦の奥へ残っていた。
倉庫番は、隣棟の詰所にいた。
厚い毛織の上着を着た、白髪交じりのドワーフだった。
ミラベルが名を告げると、男は露骨に顔をしかめた。
「また死亡照合局か?」
「新聞記者です」
「なお悪い」
「記事にするとは決めていません」
「決めてなくても書くのが記者だろう」
「書かないことを決める場合もあります」
男は鼻を鳴らした。
エレノアが口を挟む。
「書かれたくないことがあるの?」
「そういう聞き方をするから子どもは嫌いなんだ」
「子ども扱いする人は、だいたい聞かれたくないことがあるのよ」
「エレノア」
「まだ何も決めつけてないわ」
「口に出してから言わないで」
倉庫番は二人を見比べた。
やがて諦めたように椅子へ腰を下ろす。
「何を聞きたい」
ミラベルは取材帳を開いた。
そこには、死亡照合局の文章を書き写していない。
白い頁の上にあるのは、日付と場所だけだった。
「火災が起きた夜、あなたが見たものを教えてください」
「照合局へ話した」
「同じことで構いません」
「調書を読めば済むだろう」
「あなたの言葉で聞きたいんです」
倉庫番は、窓の外の焼け跡を見た。
火災の夜を、紙ではなく自分の記憶から探している。
「交替鐘が鳴ったところだった」
「何時の鐘ですか」
「午後八時だ」
ミラベルのペンが動く。
「時計を見ましたか」
「見てはいない。あの倉庫の交替鐘は、中央信号から受けて鳴る。毎晩八時だ」
「そのとき、何が?」
「男が一人、倉庫へ入った」
エレノアがすぐに尋ねた。
「ハロルド=フェイン?」
倉庫番の眉間に皺が寄る。
「知らん」
「知らない?」
「フェインという男の顔を、俺は知らん」
ミラベルのペンが止まった。
「では、何を見たのですか」
「茶色い外套だ」
「外套を?」
「茶色い外套を着た男だ。ヒト族に見えた。背はあんたより高い。帽子を深くかぶっていた」
男はミラベルを顎で示した。
「顔は?」
「見えん。外は霧で、中は蒸気だ。襟も立てていた」
「歩き方は?」
「普通だったと思う」
「声は聞きましたか」
「何も」
「倉庫へ入る権限は?」
「夜間搬入口は、その時間なら荷役の出入りがある。通行札を見せたような気もするが、そこまでは覚えとらん」
ミラベルは頁の下へ線を引いた。
「照合局の方からは、何を尋ねられましたか」
「茶色い外套を着た男を見なかったか、と」
「ハロルドさんを見たか、とは?」
倉庫番は少し考えた。
「聞かれとらんな」
「遺体を見ましたか」
「見てない」
「外套は?」
「あとで写真を見せられた」
「写真に写っていたのは?」
「焦げた外套だ」
「それを、ハロルドさんのものだと確認した?」
「俺は知らんと言った。俺が見たのと同じような色だとは答えた」
エレノアが腕を組む。
「同じ外套?」
「同じような色だ」
倉庫番が訂正した。
「焦げていたし、写真も白黒だった。同じ物だとまでは言っとらん」
ミラベルは、その言い方を一字ずつ記した。
同じ物。
ではない。
同じような色。
倉庫番が見たのは、午後八時。
茶色い外套を着た男。
顔は見ていない。
ハロルドを知ってもいない。
「最後に一つだけ」
「まだあるのか」
「あなたは、ハロルド=フェインを見ましたか」
倉庫番は不愉快そうに眉を上げた。
「だから知らん男だと言っとる」
「はい」
ミラベルはそこで取材帳を閉じなかった。
「いま書いた内容を、読み返します。意味が違っていたら止めてください」
「何だと?」
「あなたが話したことを、私の言葉で別の意味にしないためです」
ミラベルは頁を持ち上げた。
「午後八時の交替鐘が鳴った頃、茶色い外套を着た男が蒸気倉庫へ入った。顔は見えず、声も聞いていない。ハロルド=フェインの顔は知らない。あとで見せられた写真の焦げた外套については、火災の夜に見たものと同じような色だと答えたが、同じ外套だとは確認していない。これで合っていますか」
倉庫番は、しばらくミラベルを見た。
「……ああ」
「付け加えることは?」
「ない」
ミラベルは頁の下へ、小さく記した。
本人確認済み。
「ありがとうございます」
詰所を出ると、エレノアがすぐに言った。
「一人目から違う」
「何と?」
「七人がハロルドを見たという話と」
「クララさんは、死亡照合局からそう説明された。でも、正式な記録の文章はまだ読んでいない」
「倉庫番は見ていないわ」
「倉庫番が、ハロルドを見たとは証言していないことは確認できた」
「同じでしょう?」
「本当に顔が見えなかったのか。十四週間で記憶が変わっていないか。それまでは、まだ分からない」
「ずいぶん疑い深くなったのね」
「記者は、もともと疑い深いものです」
「兄さまと会う前から?」
「会ってから悪化しました」
◇
次に向かったのは、環状区貨物駅だった。
駅舎の中は、外の霧よりも蒸気で白かった。
天井近くを通る管から熱気が漏れ、改札記録機が一定の間隔で金属音を鳴らしている。
通行証を扱った鉄道係員は、改札横の狭い事務室で帳簿を整理していた。
痩せたヒト族の男。
制服の襟はきちんと閉じられ、指先には記録用の青いインクが染みている。
「ハロルド=フェイン名義の通行証は、確かに扱いました」
係員は、聞かれる前にそう言った。
何度も同じ説明をさせられてきたのだろう。
「何時でしたか」
「午後七時五十六分です」
「正確なの?」
エレノアが身を乗り出す。
「改札記録機が時刻を打ちます」
係員は壁際の機械を示した。
真鍮の歯車。
紙帯。
通行証を差し込むと、利用日時と改札番号が自動で刻まれる。
「その紙帯を見ましたか」
ミラベルが尋ねた。
「その日の締め作業で確認しました。死亡照合局にも提出されています」
「通行証を出した人の顔は?」
係員は口を閉じた。
すぐには答えず、当日の改札口へ視線を向ける。
貨物駅の夜。
工員。
荷運び人。
鉄道員。
交替時刻の人波。
「見ていません」
「覚えていない、ではなく?」
「顔を見ていないんです」
係員は自分の手を机へ置いた。
「通行証を受け取り、機械へ差し込み、返した。それだけです」
「なぜ顔を見なかったの?」
「混雑していました。帽子もかぶっていた。それに、通行証は正式なものです」
エレノアが言う。
「正式なら、持っている人と名前が違っても通れるの?」
「通常は本人が持っています」
「通常は、でしょう」
「エレノア」
ミラベルが制してから、係員へ尋ね直す。
「本人確認の規則は?」
「不審があれば照会します。ただ、通行証の封印に異常はありませんでした」
「あなたは、ハロルドさんを知っていましたか」
「いいえ」
「では、ハロルドさんだと思った理由は?」
「通行証に名前がありました」
係員は答えた。
「私が確認したのは、通行証です」
「人ではなく?」
「人の顔は確認していません」
机の上で、エレノアの鉛筆が小さく動いた。
彼女は自分の手帳へ、時刻を書き込んでいる。
午後七時五十六分。
貨物駅。
「死亡照合局には、どんな質問をされましたか」
「ハロルド=フェイン名義の通行証を扱ったか、と」
「通行証を使った人物がハロルドだったか、とは?」
「聞かれていません」
ミラベルは取材帳へ書いた内容を、最初から読み返した。
「午後七時五十六分、ハロルド=フェイン名義の正式な通行証を改札記録機へ通した。通行証の封印に異常はなかった。使用者の顔は見ておらず、ハロルド本人を知ってもいない。死亡照合局から尋ねられたのは、ハロルド名義の通行証を扱ったかどうかであり、使用者が本人だったかどうかではない。間違いありませんか」
「はい」
係員は即答した。
だが、そのあと少し考え。
「混雑していて顔を見なかったことも、入れてください」
「すでに書いてあります」
ミラベルはその行を指で示した。
係員は目で追い、うなずく。
「それなら、間違いありません」
本人確認済み。
ミラベルは二つ目の頁にも、同じ印を付けた。
駅を出ると、エレノアは地図筒から一枚の市街図を抜いた。
貨物駅の位置へ、青い鉛筆で印を付ける。
その横に。
七時五十六分。
「倉庫は?」
「運河沿い」
「八時」
赤い印を付ける。
二つの点は、同じ街区にはなかった。
貨物線。
運河。
工房塀。
横断できる橋。
地図の上でも、いくつもの障害が横たわっている。
「あとで測ります」
ミラベルが言った。
「今でも離れすぎてるのは分かるわ」
「地図上の距離と実際の移動時間は同じではありません」
「でも四分よ」
「だからこそ、正確に確かめるの」
◇
三人目の証言者は、クララとは別の仕立屋で働いていた。
表通りから一本入った路地にある、小さな仕立店。
窓辺には濃紺の上着と灰色の外套が飾られ、店内には蒸気アイロンの湿った熱が満ちていた。
年配のエルフ女性は、眼鏡を額へ上げて二人を迎えた。
「フェインさんの外套なら覚えていますよ」
「ハロルドさん本人を?」
エレノアの問いに、仕立屋は少し困った顔をした。
「お客様として、何度か」
「火災の夜に見ましたか」
「いいえ」
ミラベルは、壁に並ぶ糸巻きの間で取材帳を開いた。
「死亡照合局から、何を確認するよう求められましたか」
「外套です」
「遺体ではなく?」
「遺体など見せられていません」
仕立屋は作業台の上に置かれた茶色い布を引き寄せた。
「フェインさんは、右の袖だけ少し長くしてほしいとおっしゃったんです。書類棚の上段へ手を伸ばすと、普通の長さでは手首が出るから、と」
「右袖だけ?」
「ええ。それと、左の内側へ補強布を入れました。肩に古い怪我があって、外套を脱ぐときに引っ張る癖があるそうで」
ミラベルは、手紙の余白へ記していた身体特徴を思い出した。
左肩の古傷。
「回収された外套に、その縫い目があった?」
「ありました」
「間違いなく、あなたが直したもの?」
「縫い方は私のものです」
エルフ女性は細い指で、自分の縫い目を空中になぞった。
「右袖の折り返しも、左裏の補強も一致しました。あれはフェインさんのために直した外套です」
エレノアの目が鋭くなる。
「なら、着ていたのもハロルドでしょう?」
仕立屋は首を横へ振った。
「外套は人ではありません」
店内で、蒸気アイロンの弁が短く鳴った。
「私が分かるのは、誰のために縫ったかです。最後に誰が着たかまでは、縫い目には残りません」
「遺体がハロルドさんだと確認しましたか」
「していません」
「照合局から、そう聞かれましたか」
「いいえ。これはハロルド=フェインの外套で間違いないか、と聞かれました」
「何と答えました?」
「外套は、そうです、と」
ミラベルは、その言葉を囲んだ。
外套は。
そうです。
人が、そうだとは言っていない。
聞き取りを終える前に。
ミラベルは取材帳を作業台へ置き、仕立屋にも見える向きへ回した。
「確認します。あなたはハロルドさんを客として知っている。火災の夜には会っていない。回収された外套には、あなたがハロルドさんのために施した右袖の調整と、左側の補強があった。そのため外套はハロルドさんのために直したものだと答えた。ただし、火災の夜に誰が着ていたかも、遺体が誰だったかも確認していない。これでよろしいですか」
仕立屋は眼鏡を下ろし、文字を追った。
「《ハロルドさんの外套》ではなく、《ハロルドさんのために直した外套》としてください」
ミラベルはその場で書き直した。
「ほかには?」
「ありません」
「この内容で、意味は変わっていませんか」
「ええ。これなら、私が申し上げたとおりです」
本人確認済み。
三つ目の印が付いた。
◇
四人目は、昼休みに死亡照合局を出てきたハロルドの同僚だった。
役所の正面では話したくないと言われ、二人は新聞社街の小さな食堂へ場所を移した。
昼時を外した店内には、書記たちが残した珈琲の匂いと、薄い煮込み料理の香りが漂っている。
同僚は、帽子を膝の上で何度も回していた。
「時計を見せられました」
「懐中時計ですね」
ミラベルが確認する。
「銀色の鎖と一緒に」
「ハロルドさんのもの?」
「似ていました」
「似ていた?」
「本人が使っていた物だと思います」
「なぜ?」
「蓋の右下に、小さな欠けがあったんです」
同僚は親指と人差し指で、円形を作った。
「前に階段から落としたことがあって。ハロルドは修理代が惜しいから、時間が分かればいいと言って、そのまま使っていました」
「時計の中を確認しましたか」
「いいえ。硝子越しです」
「遺体と一緒に見せられた?」
「違います」
同僚の手が止まった。
「机の上に、時計と鎖だけが置いてありました」
「どこから回収されたか、説明は?」
「火災現場から、と」
「遺体が身につけていたとは?」
「そう思っていました」
「そう言われたのですか」
ミラベルが問うと。
男は、答えるまでに少し時間がかかった。
「……言われてはいません」
「何と尋ねられましたか」
「この時計をハロルド=フェインが使っていたか、と」
「あなたは?」
「使っていたと答えました」
「この時計を持っていた遺体が、ハロルドかとは?」
「聞かれていません」
エレノアが椅子の背へ寄りかかった。
「時計を知っていただけ」
同僚は、不愉快そうに顔を上げた。
「だけ、とは何だ」
「あなたを責めているわけではありません」
ミラベルがすぐに言った。
「あなたは、知っていることを答えたんです」
「ハロルドの時計だった」
「その可能性は高いと思います」
「可能性?」
「あなたが確認したのは、時計の外見です」
同僚は帽子を握った。
反論しかけて。
やがて目を伏せる。
「……あいつが死んだと聞いたあとだった」
声が低くなった。
「役所の人間が時計を出した。火災現場から出たと言った。俺は、ハロルドのものだと思った。ほかに、どう考えろと」
ミラベルは、その問いに答えなかった。
人間は、差し出された物だけを見るわけではない。
その前に告げられた結論も。
部屋の空気も。
相手が求めている返事も、一緒に見てしまう。
「あなたは嘘をついていません」
ミラベルは言った。
「時計を知っていると答えただけです」
同僚は、わずかに顔を上げた。
だが、安心した様子はなかった。
自分の正しい証言が、誰かの死亡を確定する一部になった。
その重さを。
いま初めて、自分の手の中で測っているようだった。
「記録した内容を、読みます」
ミラベルは、男が止めるより先に頁を開いた。
「死亡照合局から、火災現場で回収されたと説明された懐中時計と鎖を見せられた。時計の蓋の右下には、ハロルドが使用していた時計と同じ位置に欠けがあり、ハロルドが使っていたものだと思った。ただし、内部の機構や刻印は確認しておらず、時計が遺体の身につけていた物だとは説明されていない。遺体そのものも見ていない。これで合っていますか」
男は帽子を回すのをやめた。
「《同じ位置に欠けがあった》ではなく、《同じ欠けに見えた》だ」
ミラベルは訂正した。
「硝子越しだった。絶対に同じだとは言えない」
「分かりました」
「それ以外は……合っている」
本人確認済み。
四つ目の印を付ける。
男は、その文字をしばらく見つめていた。
◇
五人目の露店商を見つけたとき、空はもう午後の灰色へ沈み始めていた。
煤霧街区の入口。
工場塀と高架橋が交わる角で、女は焼いた胡桃と薬草湯を売っていた。
火災の夜も、同じ場所に露店を出していたという。
「顔なんか見てないよ」
女は紙袋へ胡桃を流し込みながら言った。
「霧が深かったからね」
「声を聞いたのですね」
「声というほどでもないさ。男が一言、連れに言ったんだよ」
「連れがいた?」
エレノアが尋ねる。
「いたかもしれないし、独り言だったかもしれない。霧の向こうだったからね」
「何と言ったのですか」
露店商は火鉢へ炭を足した。
「クララさんから聞いた、あの人の口癖と同じだったよ。だから役所の人へ、そう話した」
「姿は?」
「男の影だけ」
「背丈は?」
「そこまでは」
「歩き方は覚えていますか」
ミラベルの問いに、露店商は火箸を止めた。
「右脚を引きずっていた」
エレノアがすぐに顔を上げた。
「右?」
「右だよ。石畳を擦る音が、片方だけ遅れていた」
露店商は自分の足で、音を再現した。
こつ。
ざり。
こつ。
ざり。
「ハロルドさんは、脚を悪くしていた?」
「クララさんからは聞いていません」
ミラベルは答えた。
ハロルドにあったのは、左肩の古傷。
歩行へ影響するという話は出ていない。
ただし。
クララが知らなかっただけという可能性はある。
その夜だけ脚を痛めていた可能性もある。
別人だったと結論づけるには、まだ足りない。
「照合局の方には、右脚を引きずっていたと話しましたか」
「話したよ」
「ハロルドさんを見た、と?」
「見たなんて言ってない」
露店商は、きっぱり答えた。
「聞いたのさ。あの人と同じ言葉をね」
「声も同じでしたか」
「そこまでは言えないよ。霧の向こうで、短い一言だ」
「では、なぜハロルドさんだと思ったのですか」
「役所の人が、火災の前にハロルド=フェインを見聞きしなかったかと聞いたからさ」
露店商は胡桃の袋をエレノアへ押しつけた。
「同じ口癖の男ならいた、と答えた。それだけだよ」
「これは?」
「買わないなら返しな」
エレノアは渋々硬貨を置いた。
ミラベルは火鉢の脇で、記録を読み返した。
「火災の夜、霧の向こうに男の影があり、ハロルドさんと同じだとクララさんから聞いていた口癖を一度使った。声がハロルドさん本人と同じだったかは確認できない。相手がいたのか、独り言だったのかも分からない。男は右脚を引きずるような足音を立てていた。あなたはハロルドさんを見たとは話していない。これで合っていますか」
「《男は右脚を引きずっていた》じゃないよ」
露店商は火箸で炭を整えながら言った。
「私が知ってるのは、そういう足音がしたことだけだ。霧の中で本当に脚を引きずってたかまでは見えちゃいない」
ミラベルは、
右脚を引きずるような足音。
と書き直した。
「これなら?」
「ああ。余計な名前を付けなきゃ、それでいい」
本人確認済み。
五つ目の印。
露店を離れてからも、エレノアは胡桃を食べようとはしなかった。
「右脚」
彼女は繰り返した。
「左肩の傷とは関係ないわね」
「直接は」
「ハロルドじゃない」
「まだ言えない」
「何人まで聞けば言えるの?」
「人数で事実は決まりません」
「七人が同じ人を見たという認定は、人数で決めたんでしょう?」
ミラベルは答えかけ。
やめた。
エレノアの問いは、単なる反発ではなかった。
七つの部分的な情報を合わせ、一人の身元を確定する。
それが統合身元認定制度である。
一つでは弱い証拠も、複数が同じ人物を指せば強くなる。
制度の考え方そのものは正しい。
だが。
いま聞いている証言は、本当に同じ人物を指しているのか。
◇
六人目と七人目の証言者は、同じ建物にいた。
市立検死分室。
灰色の石造建築。
中へ入ると、消毒薬と金属と湿った布の臭いが鼻を刺した。
最初に二人を迎えたのは、遺体の身体特徴とハロルドの既存記録を比較した照合医だった。
壮年のエルフ男性。
診察室ではなく、壁一面に記録綴りが並ぶ照合室へ二人を通す。
机には度数の違う眼鏡が三つ置かれていた。
「私は、遺体をハロルド=フェインと断定していません」
事情を説明すると、照合医は最初にそう言った。
「死亡照合局からは、身体的特徴の比較を依頼されただけです」
「何が一致しましたか」
ミラベルが尋ねる。
「身長。推定年齢。それから左肩の古い損傷です」
照合医は保管棚から薄い記録綴りを抜いた。
正式な原本ではなく、自分の照合控えだった。
頁を開き、指で該当箇所を示す。
「遺体の身長は、焼損と収縮を考慮すれば、フェイン氏の記録値と矛盾しない。推定年齢も、フェイン氏の年齢を含む範囲です。左肩には、古い骨折か脱臼の痕跡があると検死記録にありました」
「一致したのですね」
エレノアが言う。
「一致し得る、と書きました」
照合医は訂正した。
「同じ意味では?」
「違います」
声は静かだったが、明確だった。
「矛盾しないことと、同一人物であることは違う。身長が同じ人間はいくらでもいる。年齢の推定幅も広い。左肩の古傷も、労働者の多い街では珍しくありません」
ミラベルは照合医の言葉を、そのまま書いた。
「ハロルドさんを診察したことは?」
「ありません。比較に使ったのは、既存の健康記録です」
「遺体を直接調べたのも、先生ではない?」
「違います。私は検死原票に記された所見と、フェイン氏の健康記録を比較しました」
「遺体の顔は?」
「身元確認には使えない状態だったと記録されています」
「歯や骨格は?」
「照合可能な過去資料がないため、比較対象にはなっていません」
「そのうえで、死亡照合局へ何と報告したのですか」
「身体特徴は、フェイン氏の既存記録と矛盾しない。ただし、それのみをもって本人とは断定できない、と」
「あなたは、遺体がハロルド=フェインだと証言しましたか」
「していません」
照合医は眼鏡を一つ外した。
「そう記録されているのですか」
ミラベルは、すぐには答えなかった。
「まだ、正式な統合報告書を読んでいません」
「では、読んでから来るべきだったのでは?」
「先に読めば、先生が書いた意味ではなく、報告書に書かれた意味を聞いてしまうと思ったので」
照合医はしばらくミラベルを見ていた。
やがて。
わずかに頷く。
「記者にしては、慎重ですね」
「褒められています?」
「記者としては、です」
ミラベルは取材帳を読み返した。
「先生が確認したのは、ハロルドさんの既存健康記録と、検死原票に記された遺体の身体特徴です。身長、推定年齢、左肩の古い損傷は矛盾しないが、いずれも本人を特定できる特徴ではない。先生は遺体を直接診ておらず、遺体がハロルドさん本人だとも証言していない。死亡照合局へも、特徴が一致し得るが、それだけでは断定できないと報告した。これで合っていますか」
照合医は一行ずつ目で追った。
「《一致し得る》より、《矛盾しない》を先にしてください。私が使ったのは、その表現です」
ミラベルは順番を直した。
「ほかには?」
「ありません」
「意味は変わっていませんか」
「ええ。これなら、私の照合結果です」
本人確認済み。
六つ目の印が付いた。
「検死を担当した方にも、お話を伺えますか」
ミラベルが尋ねると。
照合医は隣室へ続く扉を見た。
「まだ勤務中です。ただし、検死原票そのものを閲覧させる権限は、私たちにはありません」
「原票の内容を見せていただきたいのではありません。先生が何を確認したのか、ご本人の言葉で伺います」
「本人が応じれば」
照合医は立ち上がった。
◇
七人目。
遺体を直接調べた検死医は、ヒト族の女性だった。
袖口まで留めた灰色の検死衣。
髪を後ろで固く束ね。
手袋を外した指には、薬品による乾燥が残っている。
二人が照合室へ来た理由を聞くと、彼女は机上の書類へ視線を落とした。
「正式な検死原票は、死亡照合局へ移管されています」
「内容を見せてほしいのではありません」
ミラベルが答える。
「あなたが遺体について確認したことを、ご自身の言葉で聞かせてください」
「すでに原票へ書きました」
「その文章を読む前に聞きたいんです」
検死医は照合医を見た。
照合医は何も言わず、眼鏡を拭いている。
やがて、検死医は椅子へ座った。
「質問を」
「遺体の年齢と性別は?」
「成人男性。推定年齢は、三十代後半から五十代前半」
「顔による身元確認は?」
「不可能でした」
「左肩には?」
「古い損傷痕がありました。骨折か脱臼の後遺痕と考えられます」
「手について、記録したことは?」
検死医の視線がミラベルの右手へ落ちた。
ペンを持ち続ける者の中指。
そこへ薄くできた硬い皮膚を見たらしい。
「筆記労働者に見られる中指の硬化が、遺体にはありませんでした」
記録室の空気が、少しだけ冷たくなった。
エレノアが机へ近づく。
「なかった?」
「少なくとも、長年、毎日筆記を続けた手には見えません」
「ほかには?」
「爪の内部に、炉煤が入り込んでいました」
「火災現場だからでは?」
「表面へ付着した煤ではありません。爪床近くまで沈着していた。火災以前から、煤や灰を扱う仕事に就いていた可能性があります」
ミラベルは、ペンを止めた。
これは。
外套や通行証とは違う。
遺体そのものに残った特徴だった。
筆記労働特有の硬化はない。
爪には長期的な炉煤。
ハロルドの職業と一致しない可能性がある。
だが、これだけでも別人とは断定できない。
筆だこが分かりにくい体質だったかもしれない。
仕事以外で炉を扱っていたかもしれない。
焼損によって手の状態が変わった可能性も、確認しなければならない。
「焼損で筆だこが失われることは?」
「表皮の損傷はあります。ただ、硬化の痕跡まで完全に判断不能な状態ではありませんでした」
「炉煤は火災後に入り込んだ可能性は?」
「低いと考えます」
検死医は、考えます、と言った。
ない、とは言わなかった。
ミラベルは、その違いも記した。
「これらは、すべて検死原票へ記載しましたか」
「はい」
「身体特徴がハロルドさんと矛盾しないことも?」
「私が記録したのは、遺体の所見です。フェイン氏の健康記録との比較は、照合医の職務です」
「遺体の身元については?」
「特定不能と記しました」
「あなたは、遺体がハロルド=フェインだと証言しましたか」
「していません」
検死医は答えた。
「私は、遺体を調べました。名前を決めたのは死亡照合局です」
「確認のため、読み返します」
ミラベルは七つ目の頁を開いた。
「あなたが直接調べた遺体は、成人男性。推定年齢は三十代後半から五十代前半。顔による身元確認は不可能。左肩には古い損傷痕があった。長年の筆記労働者に見られる中指の硬化は確認できず、爪床近くには火災以前からのものと考えられる炉煤の沈着があった。焼損によって筆記痕が完全に失われた可能性は低く、炉煤が火災後に入り込んだ可能性も低いと考える。ただし、いずれも絶対にないとは断定していない。検死原票では身元特定不能とし、遺体がハロルドさんだとは証言していない。これで合っていますか」
検死医は、表情を変えずに聞いていた。
「《筆記痕》ではなく、《中指の硬化》としてください。筆記労働の痕跡は、それだけではありません」
ミラベルは訂正した。
「炉煤については、《火災以前からの可能性が高い》です。断定はしていません」
さらに直す。
「ほかには?」
「検死原票には、ほかの所見もあります。ただし、いま聞かれた範囲の意味は、それで正しい」
「ありがとうございます」
本人確認済み。
七つ目の印が付いた。
七人。
七つの聞き取り。
そして。
その七人目が作成し、死亡照合局へ移管された、一件の検死原票。
証言と原票は。
同じ人物の観察から生まれていても、同じ記録ではなかった。
◇
外へ出ると、夕方の霧が街へ降り始めていた。
ガス灯が一つずつ点火され。
黄色い光が、濡れた石畳へ長く伸びている。
エレノアは歩きながら地図を広げようとした。
「暗くなってから地図を読むと転びます」
「読まないと忘れるわ」
「忘れないでしょう」
「あなたと違って、私は記録を取る前に頭の中で組み立てるの」
「それで十一週目に地下坑道へ落ちたのは誰でしたか」
「あれは床の構造が悪いのよ」
「構造に責任を押しつけないで」
二人は黒鴉館へ戻った。
《煤鳩亭》の夜の客が入り始めていたため、裏口から二階へ上がる。
事務所へ入ると。
エレノアは真っ先に、レオンの机ではなく床へ地図を広げた。
「机を使えばいいでしょう」
「広さが足りない」
「床へ紙を置かないで」
「なら、そっちを持って」
ミラベルはため息をつきながら、地図の端を押さえた。
エレノアは青い鉛筆で貨物駅へ印を付ける。
午後七時五十六分。
赤い鉛筆で蒸気倉庫へ印。
午後八時。
二点の間へ、細い定規を当てた。
「直線では進めない」
ミラベルが言う。
「分かってるわ」
エレノアは運河の橋。
工房塀の切れ目。
貨物線の横断路。
それらを避けながら、最短経路を指で追った。
「この道なら?」
「夜は貨物門が閉まっています」
「こっちは?」
「運河を渡れない」
「なら、この橋」
「遠回りになるわ」
エレノアは、時計を机へ置いた。
「歩いてみる」
「今から?」
「事実を確かめるんでしょう?」
止める前に、彼女は階段を駆け下りた。
ミラベルも地図を畳み、あとを追った。
貨物駅の改札口から、蒸気倉庫の夜間搬入口まで。
エレノアは早足で進んだ。
人混みを避け。
工房街の角を曲がり。
運河橋の階段を駆け上がる。
ミラベルは後ろから、時刻を測った。
「走らないで!」
「普通に歩いたら意味がないでしょう!」
「倉庫番が見た人が走っていたとは言っていません!」
「最短時間を測ってるの!」
エレノアはほとんど走る速さで街を抜けた。
それでも。
蒸気倉庫の封鎖鎖へ触れたとき。
ミラベルの懐中時計は、十二分以上進んでいた。
エレノアは息を切らしながら振り返る。
「……四分は無理ね」
「ええ」
普通に歩けば、二十分以上。
最短経路を知り。
人混みを避け。
走り続けても。
四分では届かない。
ただし。
これで断定できるのは、同じ人物が徒歩で二地点を移動することが難しいということだけだった。
通行証を使った者が列車へ乗った可能性。
馬車や蒸気車を使った可能性。
二つの時計の時刻がずれていた可能性。
倉庫番が鐘を聞き違えた可能性。
まだ確かめていないことは残っている。
◇
黒鴉館へ戻った頃には、夜になっていた。
マルタが置いていった煮込み料理にも手をつけず。
ミラベルとエレノアは、床の地図を挟んで座った。
ミラベルは新しい記録紙を三枚並べた。
一枚目。
証人が確認したもの。
二枚目。
証人が確認していないもの。
三枚目。
時刻と場所。
その横へ。
本人が内容を確認した七枚の取材頁を並べる。
エレノアが読み上げる。
「一人目。倉庫番。午後八時。茶色い外套を着た男」
ミラベルが書く。
「顔は見ていない。ハロルドを知らない。焦げた外套については、同じような色だと答えただけ」
「二人目。鉄道係員。午後七時五十六分。ハロルド名義の通行証」
「使用者の顔は見ていない。ハロルド本人も知らない」
「三人目。仕立屋。ハロルド用に直した外套の縫い目」
「遺体も、火災時の着用者も見ていない」
「四人目。同僚。ハロルドが使っていたものに見える懐中時計と鎖」
「遺体と一緒には見ていない。同じ欠けに見えただけ」
「五人目。露店商。ハロルドと同じ口癖」
「姿は霧の中。声が本人と同じかは確認できない。右脚を引きずるような足音」
「六人目。照合医。身長、推定年齢、左肩の古傷」
「既存記録と矛盾しない。ただし、本人を特定できない。遺体も直接見ていない」
「七人目。検死医。遺体を直接調べた」
「成人男性。顔による身元確認は不可能。中指に長期の筆記労働を示す硬化なし。爪床近くに、火災以前からの可能性が高い炉煤。身元は特定不能」
エレノアが、七枚の取材頁を数えた。
「七人」
「ええ」
「それとは別に、検死原票が一件」
「七人目の検死医が作成した正式記録よ。私たちはまだ原本を読んでいない」
検死医が見た遺体。
検死医が語った言葉。
検死医が作成した原票。
発生源は同じでも。
それらは、別の経路を通る記録だった。
「誰もハロルドを見ていない」
エレノアが言った。
「正確には」
ミラベルはペンを置いた。
「誰も、火災の夜にハロルドさん本人の顔を確認していない。誰も、遺体をハロルドさんだとは証言していない」
「同じじゃない」
「違うわ。本人を見た可能性まで否定する証拠は、まだない」
「でも、みんな別のものを見てる」
「ええ」
外套。
通行証。
縫い目。
懐中時計。
口癖。
既存の健康記録。
遺体の身体所見。
一つ一つは。
確かにハロルドへ結びつく。
だが。
それを確認した七人は、同じ人間を見ていない。
それどころか。
同じ時刻に一人の人間が存在できない場所まで含まれている。
「証人が嘘をついてるんじゃないのね」
エレノアが言った。
「それも、まだ断定はできない」
「また?」
「でも」
ミラベルは、七枚の取材頁を開いた。
質問されるたび、誰も自分の証言を大きくしようとはしなかった。
倉庫番は、同じ外套ではなく、同じような色と言った。
鉄道係員は、人ではなく通行証を確認したと言った。
仕立屋は、外套はハロルドのために直したものだが、着用者までは分からないと言った。
同僚は、遺体と時計を一緒に見ていない。
露店商は、声ではなく言葉を聞いた。
照合医は、一致したではなく、矛盾しないと書いた。
検死医は、身元を特定していない。
そして。
ミラベルが読み返した記録を。
七人全員が、自分の言葉の意味と違っていないと確認した。
「少なくとも」
ミラベルは言った。
「今日、私たちへ話した範囲では、誰も自分が確認した以上のことを言っていない」
「なら、どうして七人の証言が一人の死亡証明になるの?」
エレノアの問いに。
ミラベルは、すぐには答えなかった。
机の上に置かれたハロルドの手紙を見る。
> 七人が、私を見たと記されるだろう。
> だが、そのうち私を見た者は一人もいない。
彼は。
証人が嘘をつくとは書いていなかった。
何を見たかではなく。
誰を見たのかを尋ねてほしいと書いた。
ミラベルは七人の証言を、一行ずつ別の紙へ書き写した。
主語は加えない。
証人が確認した範囲だけを。
午後八時、茶色い外套を着た男が倉庫へ入った。
午後七時五十六分、ハロルド名義の通行証が改札を通った。
火災現場から回収された外套には、ハロルドのために施された縫い目があった。
回収された懐中時計は、ハロルドが使用していた物と同じ欠けを持つように見えた。
霧の向こうで、ハロルドと同じ口癖が聞かれた。
遺体の身長、推定年齢、左肩の古傷は、ハロルドの既存記録と矛盾しなかった。
遺体は、長年の筆記労働者とは異なる可能性のある手と、炉煤の沈着した爪を持つ成人男性だった。
並べても。
どの行にも。
ハロルド=フェイン本人を見たとは書けなかった。
「必要なのは、公式記録ね」
ミラベルが言った。
「結局、読むの?」
「今なら読める」
「朝と何が違うの?」
「七人の言葉を、先に聞いたから」
ミラベルは、主語のない七行を見下ろした。
「公式記録が、これをどう書いたのか確かめる」
「違っていたら?」
「どこで違ったのかを調べる」
「同じだったら?」
「この七件と検死原票で、なぜ一人の身元を確定できたのかを調べる」
まだ、記録の偽造があったとは言えない。
誰かが意図的に人を取り違えたとも言えない。
遺体がハロルドではないとも。
ハロルドが生きているとも。
断定できるのは。
七人の証言のうち。
ハロルド本人を直接確認したものは、一つもないこと。
検死原票の作成者も、遺体の身元を特定していないこと。
そして。
一人の男の行動として読むなら、時刻と場所が一致しないこと。
それだけだった。
だが。
死亡記録を疑うには。
それだけで十分だった。
エレノアが、二つの時刻を赤く囲んだ。
午後七時五十六分。
貨物駅。
午後八時。
蒸気倉庫。
「一人では無理」
「ええ」
「外套を着た男と、通行証を使った男は別人」
「その可能性がある」
「また可能性?」
「証明するまでは」
エレノアは不満そうに鉛筆を置いた。
それから、七行の記録を見つめる。
「でも、これだけは言えるでしょう」
「何を?」
「誰も嘘をついていない」
ミラベルは考えた。
証人の記憶が正確だとは限らない。
勘違いもある。
見落としもある。
十四週間の間に、記憶が変化した可能性もある。
それでも。
彼らの証言は互いを打ち消していなかった。
違う物を。
違う場所で。
違う角度から見ただけだった。
「そうかもしれない」
ミラベルは答えた。
「もし、誰も嘘をついていないなら」
ペン先を。
主語のない七行の上へ置く。
「嘘になったのは、証言ではないわ」
では。
何が。
正しい証言を、誤った死亡記録へ変えたのか。
その答えは。
まだ、彼女たちの手元にはなかった。




