第3節 ― 死亡した夫
ミラベルは、便箋の最初の行へ視線を落とした。
紙切りナイフを置いた音が、妙に大きく聞こえた。
暖炉の火は静かに燃えている。
開いた封筒はレオンの机の中央に置かれ、その向こうには、持ち主のいない革張りの椅子がある。
手紙の文字は細く、慎重だった。
飾り気のない筆跡。
一文字ごとに同じ間隔が保たれ、行末もほぼ揃っている。急いで書かれた手紙ではない。書き損じを直した跡も、インクをこぼした跡もなかった。
記録を扱う者の字だと、ミラベルは思った。
感情を隠すためではなく。
誰が読んでも、同じ意味に読めるように書く人間の文字だった。
ミラベルは、便箋を両手で持ち直した。
「読みます」
クララが小さくうなずく。
エレノアはレオンの机の横へ立ち、身を乗り出した。
ミラベルは声に出した。
「レオン=クラウス殿」
空席へ向けられた名が、十三週間ぶりに、依頼人の言葉として事務所へ響いた。
「あなたが死亡しているなら、この依頼は届かない」
エレノアの指が、机の縁で止まった。
「あなたが死亡していないなら、私の死亡記録も疑ってほしい」
ミラベルは一度、息を継いだ。
手紙の文字は変わらず整っている。
だが、書かれている内容だけが、読む者の足場を少しずつ崩していく。
「七人が、私を見たと記されるだろう。だが、そのうち私を見た者は一人もいない」
「七人……」
エレノアがつぶやいた。
ミラベルは最後まで読んだ。
「証言を読むとき、何を見たかではなく、誰を見たのかを尋ねてほしい」
そして。
「妻クララを信じてほしい」
署名。
「ハロルド=フェイン」
それきり、手紙は終わっていた。
ミラベルは便箋を下ろさなかった。
同じ行を、もう一度目で追う。
七人が、私を見たと記されるだろう。
未来形だった。
この手紙が書かれた時点で、ハロルドは、自分を見たとする七人の証言が死亡認定へ使われることを予測していた。
だが、なぜ七人なのか。
なぜ、その七人が本人を見ていないと断言できたのか。
手紙だけから確定できることは少ない。
ハロルドが、自分の死亡記録が作られる可能性を考えていたこと。
その死亡認定に、七人の証言が使われると知っていたこと。
その証言と、証言者が実際に見た人物との間に違いがあると考えていたこと。
それだけだった。
彼が生きているという証明ではない。
誰かが彼を殺そうとしていたという証明でもない。
まして、死亡記録を作った者が誰なのかは、どこにも記されていなかった。
マルタが珈琲を三つ載せた盆を持って戻ってきた。
室内の空気を読んだのか、いつものように大きな音では置かなかった。
クララの前へ一杯。
ミラベルの小机へ一杯。
残る一杯を、エレノアへ差し出す。
「砂糖は?」
クララは一瞬、問いの意味が分からないようにマルタを見た。
「……一つ、お願いします」
「はいよ」
マルタは角砂糖を落とした。
小さな白い塊が黒い水面へ沈む。
「飲みな。話すのは、それからでも遅くない」
クララは両手でカップを包んだ。
湯気が、疲れた顔を薄く隠す。
それでも口をつけるまでには、しばらくかかった。
ミラベルは便箋を机へ置いた。
封筒と重ならない位置。
レオンの手紙でも、レオンが残した証拠でもない。
これから調べるべき新しい記録として、分けて置く。
「クララさん」
「はい」
「ご主人が死亡したと認定された経緯を、最初から聞かせてください」
クララは珈琲を一口飲んだ。
喉を温めるためだけの、小さな一口だった。
「十四週間前です」
大時鐘塔事件より、一週間早い。
「夫は、市民死亡照合局に勤めていました。統合証言課の記録整理官です」
エレノアが尋ねた。
「死亡した人の記録を作る仕事?」
「身元の分からない遺体を、証言や持ち物から照合する仕事だと聞いています。夫は仕事の詳しい話を、家ではあまりしませんでした」
「話せなかった?」
「分かりません。守秘義務がある、とだけ」
ミラベルは自分の小机へ戻り、取材帳を開いた。
新しい頁。
上部に、ハロルド=フェイン、と記す。
その下へ線を引いた。
「火災が起きたのは、どこですか」
「鉄道環状区に近い蒸気倉庫です。夜の火災でした」
「ハロルドさんは、そこで働いていたのですか」
「いいえ。勤務先は死亡照合局です」
ミラベルのペンが止まった。
「では、倉庫にいた理由は?」
「記録には書かれていませんでした」
「あなたは聞いていない?」
「その日は、帰りが遅くなるとは言っていました。でも、どこへ行くかまでは」
ミラベルは、その答えを短く記した。
倉庫にいた理由――不明。
不明は、疑わしいという意味ではない。
ただ、現時点では答えがないという意味だった。
「火災のあと、ご主人は帰宅しなかった」
「はい」
「行方不明として届けましたか」
「翌朝、警察へ行きました。夫の職場にも」
「その時点では、遺体との関連は?」
「ありませんでした。昼を過ぎてから、死亡照合局の方が家へ来ました」
クララの指が、カップの取っ手を握り直す。
「火災現場から回収された遺体が、夫である可能性が高いと」
「可能性が高い」
エレノアが、その言葉を拾った。
「最初から断定されたわけじゃないのね」
「最初は、確認が必要だと言われました」
「あなたは遺体を見たの?」
クララの顔が強張った。
「いいえ」
答えは明確だった。
ミラベルは、取材帳へ書く。
妻による直接確認――なし。
「見せてもらえなかったのですか」
「遺体は、ひどく焼けていると言われました」
「それだけ?」
「確認しても意味がない、と」
エレノアが眉をひそめる。
「意味がないかどうかを決めるのは、あなたじゃないの?」
クララは答えなかった。
その沈黙には、怒りよりも、十三週間繰り返した諦めがあった。
ミラベルはエレノアへ視線を向けた。
責める相手が違う。
エレノアは口を閉じたが、椅子には座らなかった。
「遺体の顔は確認できない状態だった」
ミラベルが整理する。
「あなたも直接は見ていない。それでも、市民死亡照合局はハロルドさんだと認定した」
「七人の証言と、一件の検死原票があると言われました」
手紙と同じ数だった。
七人。
ミラベルとエレノアは、同時に便箋を見た。
「七人の証言の内容は?」
「詳しくは教えてもらえませんでした。火災の前後に夫を見た者が七人いることと、現場から夫の持ち物が見つかったこと。それに、遺体を調べた検死原票を合わせれば、身元は疑いないと」
「持ち物は何でしたか」
「すべては聞いていません」
クララは首を振った。
「私には、死亡認定の結果だけが渡されました」
「七人の名前は?」
「記録に関わる者の情報は、正式な再審査でなければ開示できないと」
ミラベルは取材帳の頁を二本の線で分けた。
左に、確認できる事実。
右に、死亡照合局から伝えられた内容。
左側へ書けるのは。
火災が十四週間前に発生したこと。
ハロルドが帰宅しなかったこと。
クララが遺体を直接確認していないこと。
右側へ書けるのは。
遺体が焼損していたこと。
七人の証言があったこと。
ハロルドの所持品が回収されたこと。
一件の検死原票が身元認定へ用いられたこと。
遺体がハロルドと認定されたこと。
後者は、いまのところ死亡照合局の判断を、クララが伝えているにすぎない。
「死亡認定が出たのは、いつですか」
「火災から数日後です」
「早いわね」
エレノアが言った。
「七人へ聞き取りをして、持ち物を照合して、遺体も調べたのでしょう?」
「早いかどうかは、まだ分からないわ」
ミラベルが制した。
「大規模事故に備えた制度なら、通常の手続きより速い可能性もある。処理期間だけでは不自然とは断定できない」
「でも、疑ってはいる」
「疑問として記録することと、不正だと決めることは違います」
エレノアは少し不満そうだったが、反論しなかった。
クララが二人を見比べる。
ミラベルは取材帳の右端へ、小さく記した。
認定手続きの所要日数――要確認。
「保険金の手続きは?」
クララは、カップから両手を離した。
「受け取っていません」
「申請していない?」
「書類には署名していません」
「なぜ?」
尋ねたあとで、ミラベルには答えが分かっていた。
それでも。
分かったつもりで書くことはできない。
本人の言葉を待った。
「あの人が死んだと認めてお金を受け取ったら」
クララは机上の便箋を見た。
「もう誰も探してくれなくなるからです」
エレノアが目を伏せた。
さきほどまで地下水路の地図を調べていた少女にとって、その言葉は他人のものではなかった。
ミラベルも、大時鐘塔事件の記事を思い出した。
死亡と書けば、物語は終わる。
遺族は手続きを始め。
職場は席を片づけ。
銀行は口座を閉じ。
誰も、死者の帰る場所を残さなくなる。
だが。
似ていることと、同じであることは違う。
ミラベルは意識して、レオンの空席から目を離した。
「保険金を受け取っていないことは、ハロルドさんの生存を証明しません」
「分かっています」
クララは答えた。
「私が信じているというだけです」
その言い方に、ミラベルはわずかに救われた。
クララは、自分の願いと事実を混同していない。
夫が生きていると信じている。
だが、信じていることそのものを証拠として押しつけてはいない。
「ご主人の職場へも行ったのですね」
「死亡認定が出た翌日から、何度も」
「机や記録を確認しましたか」
「させてもらえませんでした」
「私物は?」
クララの表情が硬くなった。
「処分されました」
「すべて?」
「職場に置いてあった物は、すべてです」
「いつですか」
「死亡認定から、数日後です」
エレノアが机へ両手をついた。
「早すぎる」
今度は、ミラベルもすぐには否定しなかった。
「返却ではなく、処分ですか」
「そう言われました。死亡者の執務机を空け、保管期限のない私物は廃棄したと」
「ご家族へ引き渡す物はなかった?」
「ありませんでした」
ミラベルは、処分、と記した。
その横へ疑問符は付けなかった。
私物を処分したというのは、クララが職場から受けた説明である。
実際に廃棄されたかどうかは未確認。
だが。
遺族へ返却されなかったことだけは、クララの側から確認できる。
「ハロルドさんは、仕事の手帳や筆記具を持っていましたか」
「いつも使っていた正式な手帳と筆記具はありました。でも、家には戻っていません」
クララはそこで言葉を切った。
鞄の口へ手を入れる。
「ただ、仕事の手帳とは別に、夫が封筒と一緒に私へ預けたものがあります」
取り出したのは、掌へ収まるほどの薄い手帳だった。
灰色の布張り。
角は使い込まれて丸くなり、表紙には名前も題名も記されていない。
「私用の手帳です。夫は、必要になったら封筒と一緒に渡すようにと言いました」
「中を見ましたか」
「はい」
クララは手帳を両手で持ったまま、うなずいた。
「でも、数字と短い記号ばかりで、私には意味が分かりませんでした。仕事の内容なのかどうかも」
ミラベルはすぐには受け取らなかった。
「この手帳をハロルドさんから受け取ったのは、封筒と同じときですか」
「はい。火災の前です」
「受け取ったあと、あなた以外の誰かへ渡しましたか」
「いいえ」
「職場や警察へ見せたことは?」
「ありません」
「いま、手紙と一緒に私へ預けるのですね」
「そのために持ってきました」
ミラベルは、クララの答えを取材帳へ記した。
それから両手で手帳を受け取る。
重さはほとんどない。
だが。
表紙を開く前に、誰から、いつ、どのように渡されたものかを残しておく必要があった。
最初の数頁だけを、クララとエレノアの前で確かめる。
小さな文字。
日付。
数字。
短い略号。
何かを区切る斜線。
誰かの名前や、事情を説明する文章は見当たらない。
それだけでは、何の記録か判断できなかった。
ミラベルは手帳を閉じた。
便箋とは別の記録紙で包み。
クララから預かった時刻と、立会人二名の名を表へ記す。
レオンの机ではなく。
自分の小机へ置いた。
何が記されているのか。
事件と関係するのか。
現時点では、どちらも不明だった。
「再審査を申し立てたのは?」
「死亡認定が出て、すぐです」
「受理されましたか」
「申請書は受け取ってもらえました。ただ――」
クララの視線が、窓の外へ移った。
遠くで、正午前の試験鐘が鳴った。
一度。
正常な鐘だった。
あの日以降、ヴェルム=クロウの人々は鐘の数を無意識に数えるようになっていた。
「その直後に、大時鐘塔の事件が起きました」
ミラベルのペン先が止まる。
「死亡記録と身元認定に関わる再審査は、一時停止になりました。《第十三時》に処理された死亡記録や契約記録を、先に確認しなければならないと」
それは理解できる措置だった。
大時鐘塔事件では、存在しない時刻が大陸中の記録機械へ送信された。
死亡時刻。
契約時刻。
保険事故の発生時刻。
優先して照合しなければならない記録は、数え切れないほどあった。
だからこそ。
一件の再審査は、混乱の下へ埋もれた。
「再開の通知は?」
「まだです」
「問い合わせは?」
「十三週間、続けています」
十三週間。
レオンが不在になってからの時間と同じだった。
ハロルドの火災は十四週間前。
死亡認定と再審査申請の直後に、大時鐘塔事件が起きた。
それ以来。
クララは死亡記録を覆す機会を待ち。
エレノアは兄の帰る道を探し。
ミラベルは、空席の横で事件記録を整理していた。
「都合がよすぎるわ」
エレノアが言った。
「何が?」
「火災が起きて、すぐ死亡認定が出て、職場の私物が捨てられて、再審査しようとしたら大時鐘塔の混乱で止まった」
「最後の出来事は、誰かがハロルドさんのために起こしたものではないわ」
「分かってる。兄さまと教授の事件だもの」
「なら、切り分けるの」
ミラベルは取材帳を閉じずに、エレノアを見た。
「大時鐘塔事件が再審査を遅らせたことは事実。でも、それだけで死亡認定が不正だったとは言えない」
「不正じゃないとも言えない」
「ええ。だから調べる価値がある」
エレノアが目を上げた。
クララも、ミラベルを見る。
ミラベルは取材帳を読み返した。
遺体は焼損。
妻による直接確認なし。
七人の証言、所持品、一件の検死原票による身元認定。
手紙では、七人のうち誰も自分を見ていないとハロルドが記している。
保険金は未受領。
職場の私物は、認定後数日で処分された。
封筒とともに預けられた私用手帳が一冊。
内容と事件との関係は不明。
再審査は大時鐘塔事件の影響で停止。
どの事実も、それ単独ではハロルドの生存を示さない。
焼損した遺体を証言と所持品で確認する制度は、必要なものだ。
遺族が遺体を見ていなくても、死亡認定が正しい場合はある。
私物の処分も、無神経ではあっても、直ちに犯罪とは限らない。
再審査の停止も、都市規模の混乱の結果として説明できる。
私用手帳も。
数字が並んでいるというだけでは、不正の証拠にはならない。
けれど。
ハロルドは事前に、自分の死亡記録へ七人の証言が使われると知っていた。
その七人は、自分を見ていないと書き残している。
少なくとも。
その主張が正しいかどうかを確認するだけの理由はあった。
「クララさん」
ミラベルはペンを置いた。
「最初に、はっきりお伝えします」
クララの背筋がわずかに伸びた。
「ハロルドさんが生きているとは約束できません」
クララは目を閉じた。
失望したのではない。
何度も自分へ言い聞かせてきた言葉を、別の人間の口から聞いた顔だった。
「はい」
「遺体が別人だとも、死亡照合局が記録を偽造したとも、いまは言えません。私たちが持っているのは、ハロルドさんの手紙と私用手帳、そしてあなたの証言だけです」
「分かっています」
「でも、死亡記録が正しいかは調べます」
クララの目が開いた。
ミラベルは続けた。
「七人の証言が、本当にハロルドさんを示しているのか。証人たちは、実際に何を見たのか。所持品が、どのように遺体と結びつけられたのか。検死原票には、何が記されているのか」
取材帳をクララの側へ向ける。
左側には確認できた事実。
右側には、これから確かめるべき事項。
願いは、そのどちらにも書かれていない。
「私は記者です。探偵ではありません」
空の椅子が、視界の端にあった。
「レオンさんと同じことはできません」
「同じでなくていいです」
クララが言った。
声はまだ小さい。
だが、初めて黒鴉館へ入ってきたときより、震えは少なかった。
「夫は、あなたへ渡すように言いました」
ミラベルは手紙を見た。
証言を読むとき、何を見たかではなく、誰を見たのかを尋ねてほしい。
記録の矛盾を読むレオンなら、まず公式文書を求めただろう。
ミラベルには、同じ読み方はできない。
だから。
自分の方法で始めるしかない。
「七人の証人を探します」
「死亡照合局の記録を、先に見なくていいの?」
エレノアが尋ねた。
「先に読むと、その文章に引っ張られるかもしれない」
ミラベルは答えた。
「まず、本人たちへ聞くの。何を見たのか。誰を見たと思ったのか。役人へ、どんな言葉で話したのか」
「記録と違っていたら?」
「違っていると決めるのも、聞いたあとよ」
エレノアは考えるように、手紙の文字へ目を落とした。
やがて。
レオンの検査レンズを手に取るのではなく、自分の小さな手帳を外套の内側から取り出した。
「七人の名前は、どうやって調べるの?」
「まずは死亡認定の記録番号。それから、市民死亡照合局への正式な照会」
「正式に断られたら?」
「そのとき考えます」
「兄さまなら、断られる前提で裏口を探すわ」
「あなたは、断られる前から裏口へ入るのをやめて」
「まだ何もしてないでしょう」
「先に言っておきます」
クララが、二人を見ていた。
戸惑いながら。
それでもほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
マルタは空になった盆を持ち上げる。
「話が決まったなら、昼を食べてから行きな」
「まだ行き先も決まっていません」
「この二人が事件を引き受けたあと、昼飯を忘れるのは決まってるよ」
「二人?」
ミラベルが振り返る。
マルタは階段へ向かいながら答えた。
「一人であのクラウスを止められると思ってるなら、記者を辞めた方がいいね」
「私は何もしてないわよ」
エレノアが抗議した。
「まだ、だろう?」
扉が閉まった。
ミラベルは小さく息を吐いた。
それから、レオンの机に置かれた手紙を丁寧に折り直した。
封筒へ戻さず。
新しい記録紙で挟み、クララから預かった私用手帳とともに、自分の机へ置く。
空席へ届いた依頼は。
そこで初めて、ミラベルの調査記録になった。




