第2節 ― 空席への依頼
事務所の入口に立った女は、すぐには中へ入らなかった。
開いた扉。
その先に並ぶ二つの机。
窓際に置かれた、ミラベルの小机。
そして部屋の中央に残された、レオン=クラウスの机。
女の視線は、迷うことなく後者へ向かった。
机の上には使われなくなった煙草盆と、整然と並べられた鑑定器具がある。革張りの椅子は半分だけ引かれ、そこに座るべき男だけが欠けていた。
「どうぞ」
ミラベルが声をかけると、女はようやく一歩を踏み出した。
年齢は三十を少し越えた頃だろう。
濃灰色の外套は上等ではないが、襟と袖口が丁寧に繕われている。手袋にも細かな継ぎ当てがあり、縫い目は目を凝らさなければ分からないほど細かい。
手袋を外した指には、針仕事を続ける者特有の小さな傷があった。
右手の親指と人差し指に硬い皮膚。
左手首には、細い糸屑が一本だけ付いている。
女は部屋の中を見回すこともなく、両手に抱えていた鞄から一通の封筒を取り出した。
「クララ=フェインと申します」
その声は小さかった。
弱々しいのではない。
長いあいだ、同じ説明を繰り返し、そのたびに聞き流されてきた者の声だった。
「こちらが、ミラベル=ワトリアさんでしょうか」
「はい」
ミラベルは自分の机の前に立ったまま答えた。
「新聞記者のミラベル=ワトリアです。ただ、この部屋は現在――」
休業中です。
そう続けようとした言葉を、クララの手が止めた。
クララはレオンの机へ近づき、封筒を置いた。
机の中央。
空の椅子と向かい合う位置だった。
まるで、そこにレオンが座っているときと同じように。
ミラベルの胸の奥に、わずかな痛みが走った。
だが、何も言わなかった。
封筒は厚手の灰白色。
角には運び歩いた跡があり、紙の縁がわずかに柔らかくなっている。
それでも封は切られていない。
何度も取り出され。
何度も届けるべき場所を迷い。
そのたびに鞄へ戻された封筒だった。
表には、宛名が一つだけ記されている。
レオン=クラウス殿。
その下に、宛名よりも小さな字で一文が添えられていた。
> 生存している場合に限り開封されたし
エレノアが、ミラベルの肩越しに文字を読んだ。
「兄さまへの手紙ね」
「見れば分かります」
「なら、開けましょう」
「待って」
ミラベルは、封筒へ伸びたエレノアの手を押さえた。
「あなた宛てではないわ」
「あなた宛てでもないでしょう」
「だから開けないの」
「でも、ここへ届いた」
「届いた場所と受取人は別よ」
「兄さまの事務所へ、兄さま宛てに届いたのよ。十分じゃない?」
「十分ではありません」
エレノアは不満そうに唇を曲げた。
「融通が利かないのね。兄さまと一緒にいたせい?」
「レオンさんなら、他人宛ての手紙を勝手に開けていたと思う?」
「必要なら開けるわ」
「必要だと判断する本人がいません」
言葉にしてから、部屋が静かになった。
暖炉の中で石炭が崩れ、小さく火花を散らす。
階下からは、カップを置く音と客たちの低い話し声が聞こえていた。
それらは以前と同じだった。
この部屋にレオンがいないことだけが、以前とは違う。
エレノアはミラベルの手を振り払いはしなかった。
ただ、封筒の条件文を指で示した。
「死亡が証明されていないなら、条件は満たしているわ」
「証明されていないのは死亡よ。生存が証明されたわけではない」
「でも、生きていないとも証明されていない」
「それでは、どちらの条件も満たしたことにならないでしょう」
「兄さまらしい面倒な書き方ね」
「レオンさんが書いた文ではありません」
「兄さまに届く手紙は、だいたい面倒なのよ」
マルタが鼻を鳴らした。
いつの間にか廊下の壁へ寄りかかり、腕を組んで二人を見ている。
「手紙一通でそこまで揉められるなら、あんたたちも十分クラウスに染まってるよ」
「私はクラウスではありません」
「知ってるさ。クラウスが二人もいたら、あたしが先に店を畳んでる」
エレノアが振り返った。
「私もクラウスだけど」
「あんたを勘定に入れたから二人と言ったんだよ」
「なら、兄さまが戻れば三人ね」
「家賃を払うクラウスなら増えても構わないよ」
マルタはそう言ったが、空の椅子を見なかった。
ミラベルも笑えなかった。
クララだけが、三人のやり取りを黙って聞いていた。
口を挟む機会を探しているのではない。
この部屋の者たちが、レオンの不在をどのように扱っているのかを確かめているようだった。
ミラベルはクララへ向き直った。
「この封筒は、どなたから受け取ったものですか」
「夫です」
クララの返事は早かった。
「夫の、ハロルド=フェインから預かりました」
「いつですか」
「蒸気倉庫の火災より前です。夫が家を出る前に、何かあったときのためだと言って」
「ご主人は、レオンさんと面識が?」
「ありません」
「では、どうしてレオンさんへ?」
「夫は、市民死亡照合局で働いていました」
市民死亡照合局。
その名が出た瞬間、エレノアの表情が変わった。
レオンの死亡推定に関わる書類も、最終的には同じ死亡記録制度の中へ収められている。
だがミラベルは、それを口にはしなかった。
クララが何を依頼しに来たのか。
まだ聞いていない。
夫が死亡照合局の職員だったというだけで、大時鐘塔事件と結びつけることはできない。
「ご主人からは、何と?」
「何かあったとき、クラウス探偵へ渡すように言われました」
「何か、とは?」
クララの指が、鞄の持ち手を強く握った。
「それは、封筒の中に書いてあるはずです」
「中身はご存じないのですね」
「はい」
「死亡認定が出たあとも、開かなかった?」
クララは封筒を見た。
「認定が出るまでは、夫の言った『何か』が、本当に起きたとは思えませんでした」
指先が、灰白色の紙の角へ触れる。
「認定されたあと、何度も開こうとは思いました。でも、私が読むようには言われていません。クラウス探偵へ届けるように言われたんです」
「ご主人が書いたことは確認できますか」
「筆跡は夫のものです」
「封をしたところは?」
「私の前ではありません。ただ、夫から受け取ったあとは、誰にも渡していません。私も開けていません」
ここまでに断定できることは少なかった。
封筒をクララへ渡したのが、本当に夫であること。
表書きが夫の筆跡であること。
受け取ったあと、クララが封を切っていないこと。
いずれも、今のところクララの証言だけである。
手紙の内容も。
書かれた時期も。
レオンを指定した理由も、まだ分からない。
ただ一つ。
封筒が長いあいだクララの手元にありながら、開封されていないことだけは、紙の状態と切られていない封から確認できた。
「クラウス探偵が、ここにいなかった場合について、ご主人は何も?」
ミラベルが尋ねると、クララは一度、空の椅子を見た。
「言われました」
エレノアが封筒から顔を上げる。
「何て?」
クララは鞄を開いた。
中から、丁寧に折り畳まれた新聞の切り抜きを取り出す。
紙は何度も開かれたのか、折り目が白く擦れていた。
クララはそれをミラベルの小机へ置いた。
大時鐘塔事件の翌日に発行された新聞だった。
大きな見出しはない。
英雄的な挿絵もない。
紙面の片隅に、短い記事だけが載っている。
ミラベル自身が書いた文章。
> レオン=クラウス。
> 大時鐘塔事件において行方不明。
> 死亡を証明する記録は、まだ存在しない。
署名欄には。
ミラベル=ワトリア。
自分の名があった。
「夫は言いました」
クララの声が、先ほどよりもはっきりと響いた。
「クラウス探偵がいなければ、彼の死亡を断定しなかった記録者へ渡せ、と」
ミラベルは記事から目を離せなかった。
あの日。
編集長は、もっと強い見出しを求めていた。
死んだ探偵。
教授との相討ち。
時計塔の英雄。
それらの方が、新聞は売れる。
読者が求めているのも、曖昧な行方不明ではなく、物語として完結した死だった。
だがミラベルは書かなかった。
遺体がない。
死亡を直接示す記録もない。
血痕と落下の痕跡はある。
死亡の可能性は高い。
けれど。
可能性を事実として記すことだけは拒んだ。
あの一文は、レオンの生存を主張する記事ではなかった。
死亡を証明できていないという、ただそれだけの記録だった。
それでも。
その文章を読んだ誰かがいた。
そこへ、自分の夫の死を疑う理由を見いだした女がいた。
「この記事を読んで、こちらへ?」
「これを見つけるまで、警察へも、記録局へも、新聞社へも行きました」
クララは静かに言った。
「どこでも同じ紙を見せられました」
「同じ紙?」
「夫の死亡記録です」
エレノアの指が、机の縁をつかんだ。
ミラベルは彼女を見た。
だが、エレノアは何も言わなかった。
「皆さん、記録は正しいとおっしゃいました。もう死亡が認定されている。遺族として手続きを進めるべきだと」
クララは新聞の切り抜きを見下ろした。
「でも、この記事には、証明できないことを証明したようには書かない人がいました」
ミラベルの胸へ、その言葉が重く落ちた。
「ご主人は、死亡したと記録されているのですね」
「はい」
「あなたは、その記録を信じていない」
「はい」
「ご遺体は?」
クララは答えなかった。
指先だけが、鞄の持ち手へ深く沈んだ。
その沈黙は、答えを拒んだものではない。
答えれば、次の話まで始まってしまうことを恐れた沈黙だった。
ミラベルは、そこで質問を止めた。
まだ手紙を開いていない。
依頼を受けてもいない。
ここで事情を聞き始めれば、なし崩しに調査を引き受けたことになる。
「私は記者です」
ミラベルは言った。
「レオンさんの代わりにはなれません」
「代わりをお願いしに来たのではありません」
クララは、初めてミラベルの目を正面から見た。
「夫の言葉が届く場所を、探してきました」
エレノアが、新聞の切り抜きを指で押さえた。
「届いたのよ」
「エレノア」
「あなたが書いたんでしょう。死亡は証明されていないって」
「書きました」
「なら、これはあなたの記事に届いた依頼よ」
ミラベルは封筒を見た。
宛名は、レオン=クラウス。
そこは変わらない。
自分へ送られた手紙ではない。
エレノアの言うように、死亡が証明されていないからといって、レオンの生存を条件として開封する資格が生まれるわけでもない。
しかし。
差出人は、受取人が不在の場合の届け先を、クララへ口頭で託していた。
レオンの死亡を断定しなかった記録者。
クララの証言が正しいなら。
それは、ミラベルだった。
「確認します」
ミラベルはクララへ尋ねた。
「ご主人は、レオンさんが不在なら、この封筒を私へ渡すように言った。間違いありませんか」
「ありません」
「中身を読んでよいとも?」
「はい」
「あなたは、その意思に従って、私へ渡すのですね」
「そのために来ました」
ミラベルは一度、目を閉じた。
開封することは、レオンの生存を認めることではない。
死亡を否定することでもない。
まして、クララの夫が生きていると認めることでもない。
分かっている事実は。
レオン宛ての未開封の手紙がある。
レオンは不在である。
差出人は不在時の受取人を指定していたと、クララが証言している。
そして、その指定によって。
手紙は自分の前へ置かれた。
足りない証拠は、これから中身を読まなければ確かめられない。
ミラベルはレオンの机へ近づいた。
空の椅子には座らない。
机の横に立ったまま、封筒を両手で持ち上げる。
紙は、想像していたよりも重く感じた。
「開けるの?」
エレノアが尋ねた。
「ええ」
「条件を満たしているから?」
「違うわ」
ミラベルは新聞の切り抜きを見た。
「私が、あの一文を書いたからです」
死亡を証明する記録は、まだ存在しない。
その一文によって届いた問いを。
書いた本人が、読まずに返すことはできなかった。
「クララさん。開封に立ち会ってください」
「はい」
「エレノア。あなたも」
「最初からそのつもりよ」
マルタは廊下から身体を起こした。
「珈琲を三つ持ってくるよ」
「四つでは?」
エレノアが空の椅子を見て言った。
マルタは一瞬だけ黙った。
「三つだよ」
短く答え、階段を下りていった。
ミラベルは机上の小さな紙切りナイフを取った。
封蝋には触れず。
封筒の上端へ刃を差し入れる。
紙が裂けないよう、ゆっくりと滑らせた。
微かな音を立てて。
十四週間近く、閉じられていた封が開いていく。
ミラベルは中から一枚の便箋を引き出した。
折り目を開く。
最初の行には、こう記されていた。
> レオン=クラウス殿。
空席へ向けられたその名を。
ミラベルは声に出して読み始めた。




