第1節 ― 十三週間後
ヴェルム=クロウの時計は、正常に動いていた。
午前七時。
官庁街の蒸気時計が、短い金属音を七度鳴らす。
それに半呼吸遅れて、鉄道環状区の信号鐘が応じた。
高架線の向こうから、朝一番の旅客列車が煤煙を押し広げて現れる。黒い車輪が継ぎ目を踏むたび、規則正しい震動が煉瓦の街を渡り、霧燈通りの窓硝子をかすかに鳴らした。
列車は時刻表どおりに走っていた。
工場の交替鐘も鳴った。
銀行の扉は定刻に開き。
契約法院の書記たちは、昨日から今日へ繰り越された書類へ、正しい日付を押していく。
存在しない《第十三時》を示した時計は、すでに取り外されていた。
あの十三分間に起きた事故や、交わされた言葉や、失われたものは、《不正時刻帯》という名の記録へ収められている。
街は、それで事件を整理したつもりだった。
新聞売りの少年が、霧燈通りの角で朝刊を掲げた。
「《大時鐘塔》の復旧工事、来月完了予定! 全西方標準時網、再稼働へ!」
別の紙面には、黒い外套の男を英雄らしく描いた挿絵があった。
《大時鐘塔を救った名探偵》
その隣の新聞は、同じ男を横顔だけの暗い影として扱っている。
《教授とともに消えた危険人物》
さらに安価な夕刊の予告紙には、もっと大きな活字が踊っていた。
《偽装記録の探偵、死す》
通行人は、紙面を開きながら好き勝手なことを言った。
大時鐘塔から落ちて助かるはずがない。
いや、遺体がないなら生きているかもしれない。
教授と組んで逃げたのではないか。
中央記録庁が死亡推定を出したのだから、もう死者だ。
あれほどの探偵なら、自分の死くらい偽装するだろう。
人々の声は、列車の汽笛と朝の雑踏へ混ざり、すぐに消えた。
大時鐘塔事件から、十三週間が過ぎていた。
ヴェルム=クロウは、レオン=クラウスの不在にも慣れ始めていた。
霧燈通り十三番地。
煤で黒ずんだ三階建ての黒鴉館では、いつもと変わらぬ時刻に一階の鎧戸が持ち上がった。
重い木板を押し上げたマルタ=グレインは、支え金具が掛かったことを二度確かめた。
通りへ箒を出し。
夜のあいだに積もった煤を掃き。
入口の真鍮板を布で拭う。
それから、《煤鳩亭》の扉に掛かっていた札を裏返した。
閉店。
その二文字が回り。
営業中、へ変わる。
マルタは店内へ戻ると、厨房の炉へ石炭を足した。
鉄の火掻き棒で灰を崩す。
赤い火が息を吹き返し、古い煙道の奥で低く唸った。
珈琲豆を挽く音。
湯が沸く音。
焼き上がったばかりの菓子から立つ甘い匂い。
壁際では、二日前から同じ席を使っている契約代書屋が新聞を広げ、入口近くの卓では夜勤明けの鉄道員が帽子を目深にかぶったまま眠っている。
黒鴉館の朝は、事件が起こる以前と何も変わっていないように見えた。
ただし。
二階へ続く階段の脇に掛けられた案内板だけは、十三週間前から変わっていた。
古びた金文字。
レオン=クラウス。
私立探偵・記録鑑定請負。
その名前の上に、細い黒布が掛けられている。
喪を示すには狭すぎ。
廃業を示すには、簡単に外せすぎる布だった。
マルタは毎朝、その布の前を通った。
外しもしなければ。
幅の広いものへ取り替えもしなかった。
二階の事務所では、紙をそろえる音だけが続いていた。
ミラベル=ワトリアは、応接室の窓に背を向け、自分が以前から使っていた小机へ向かっていた。
机の左には、調査を終えた事件記録。
右には、まだ新聞記事として整理されていない証言。
中央には、大時鐘塔事件に関する資料が重ねられている。
標準時統制局の報告書。
市警の捜索記録。
クロック=ベルン地下排水路の略図。
回収品目録。
レオンの折れた杖。
ノクス=モリアンの片手袋。
二人分と鑑定された血痕。
地下水路へ続いていた、破損した鉄格子。
そして。
遺体、零。
その事実だけが、十三週間前から変わっていない。
ミラベルは一枚の記録紙を持ち上げ、端をそろえた。
紙束の角を机へ軽く落とす。
とん、と乾いた音がした。
以前なら、その音に反応して、部屋の奥から皮肉の一つが飛んできた。
紙を傷めるな。
順番をそろえる前に、内容をそろえろ。
記録は机を叩いても正しくならない。
そんな声を、ミラベルはもう待たないことにしていた。
待たないことと。
聞こえなくなることは、同じではなかった。
彼女は視線を上げなかった。
向かい側には、レオンの机がある。
事件ごとに分けられた箱。
封蝋の標本。
磨かれた検印器。
古い鉄道切符。
薬瓶。
使いかけのインク。
灰の残っていない煙草盆。
すべて、持ち主が少し席を外しただけのように残されている。
革張りの椅子も、机の下へ半分だけ押し込まれたままだった。
ミラベルは、そこには座らない。
埃は払う。
窓を開けた日は、雨粒が入らないよう机上の紙を移す。
マルタが火を入れれば、暖炉の煤が飛ばないよう覆いを掛ける。
けれど。
引き出しは開けない。
椅子を自分の机へ運びもしない。
空席は空席のまま、部屋に残されていた。
白鐘女学園から、兄の行方不明に伴う一時帰宅を認められているあいだ、エレノアはほとんど毎日、黒鴉館へ顔を出していた。
そのレオンの机へ。
一人の少女が遠慮なく肘をついていた。
「もう少し右」
エレノア=クラウスは、返事の代わりに検査レンズの角度を変えた。
レオンが記録紙の繊維や印字圧を調べるときに使っていた、大ぶりな真鍮枠のレンズである。
その下には、ヴェルム=クロウ西側地下水路の地図が広げられていた。
地図は一枚ではない。
市政局発行の保守地図。
鉄道会社の排水管図。
旧坑道を記した古い略図。
クロック=ベルンからヴェルム=クロウ方面へ延びる水路系統の写し。
新旧の地図が重ねられ、ところどころへ細い針が刺されている。
赤い糸は、大時鐘塔の重量錘坑から地下排水路を通り、西方の放水口へ。
青い糸は、途中で分岐する旧保守路へ。
黄色い糸は、記録上では閉鎖済みの排水管へ伸びていた。
どれも一度は捜索された経路だった。
「右と言ったでしょう」
ミラベルが繰り返した。
「聞こえてるわ」
「なら、レンズを右へ」
「この図の印刷がずれてるのよ。レンズじゃない」
エレノアは片目を閉じたまま答えた。
濃い髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。指先には赤と青のインクが付き、白い頬にも薄い煤が一筋残っていた。
「旧排水管の曲がり方が、こっちの保守図と合わない。市政局の図では北へ曲がってるけど、鉄道会社の図だと西へ抜けてる」
「発行年が違うからよ」
「四年しか違わないわ」
「その四年で、貨物線が増設されているでしょう。排水路の付け替えも記録されている」
「記録されている付け替えは二本。消えている分岐は三本」
エレノアがレンズを持ち上げ、地図を指先で叩いた。
「だから、ここにもう一本ある」
ミラベルはペンを置いた。
椅子から立ち、地図の前へ回る。
エレノアの指先は、クロック=ベルン方面から流れてくる地下水路と、ヴェルム=クロウ西部の旧工房排水管が交差する地点を示していた。
ミラベルは二枚の図を見比べた。
「ある、とはまだ言えないわ」
「印刷の線が途切れてる」
「古い図にはある。新しい図にはない。それだけよ」
「埋められた記録がない」
「埋められていない証拠もない」
「なら、確かめればいい」
「確かめたでしょう」
エレノアの指が止まった。
ミラベルは、卓上に置かれた捜索記録を取った。
市警、鉄道保安局、市政配管課。
三機関の印が並んでいる。
「事件の翌日。グレアム警部たちが、この区画へ入っている。二日目には排水を止めて、壁面も調べた。三日目にはドワーフの配管工を入れて、打音検査までしてる」
「そのときは水位が高かった」
「五週目に、もう一度下がっている」
「市警の人間だけでね」
「七週目には私たちも行ったでしょう」
「あのときは奥の崩落で引き返した」
「九週目に掘り直した」
「掘り直したのは半分まで」
「十一週目には――」
「知ってるわ」
エレノアが、低く遮った。
検査レンズの真鍮枠が、彼女の手の中で小さく鳴った。
ミラベルは続けなかった。
十一週目。
エレノアは夜明け前に一人で地下へ入り、崩れかけた旧坑道で足場を踏み抜いた。
左足首の腫れが引くまで、一週間かかった。
本人は捻っただけだと言い張った。
だが、あの場にグレアムの部下が来るのが少し遅ければ、落下した煉瓦と増水した排水の間から戻れなかった可能性がある。
それは推測ではない。
救出報告書へ記された、現場の事実だった。
「検査レンズを置いて」
ミラベルが言った。
「まだ見てる」
「それはレオンさんのものよ」
「兄さまのものなら、妹の私が使って何が悪いの?」
「使うことが悪いんじゃない。片手で縁を持たないで。歪むから」
エレノアは、検査レンズを見た。
しばらくして、両手で持ち直す。
「……最初からそう言えばいいのに」
「最初から言いました」
「右へ動かせ、としか聞いてないわ」
「人の話を途中からしか聞かないからでしょう」
「兄さまと同じことを言うのね」
その言葉が落ちたあと。
二人とも、次の言葉をすぐには出せなかった。
窓の外を高架列車が通過した。
重い震動が、壁の事件記録を細かく揺らす。
机の上で、レオンの使っていた細い計測針が一本だけ転がった。
ミラベルはそれを指で止めた。
「もう十三週間よ」
声にした瞬間。
思っていたよりも冷たい響きになった。
エレノアは地図から目を離さなかった。
「だから何?」
「同じ場所だけ探し続けても――」
「十三週間で死者になるなら、兄さまは生まれたときから百回は死んでるわ」
即座に返ってきた。
強がりではない。
慰めでもない。
エレノアは本気でそう信じていた。
ミラベルは、机の端へ指を置いた。
「私は、レオンさんが死んだとは言っていない」
「でも、探すのをやめさせようとしてる」
「同じ場所へ一人で潜るのをやめてと言ってるの」
「まだ調べていない場所がある」
「あるかもしれない場所よ」
「違いがある?」
「あるわ」
ミラベルは地図の上へ手を伸ばした。
赤い糸の起点。
大時鐘塔の重量錘坑。
そこから地下水路へ至るまでを指で追う。
「確認されていることは、レオンさんとノクスが重量錘坑へ落ちたこと。二人分の血痕が残っていたこと。地下水路へ続く鉄格子が壊れていたこと」
エレノアは黙って聞いている。
「確認されていないことは、その先で二人がどうなったか。水路から外へ出たのか。途中で別の経路へ入ったのか。それとも――」
「その先は言わなくていい」
「ええ」
ミラベルは言葉を切った。
死亡した可能性。
それは、証拠の不足を埋める仮説の一つにすぎない。
生きている可能性も同じだった。
どちらもまだ、事実ではない。
「見つかっていないことは、生きている証明じゃない」
「死んでいる証明でもない」
「そうよ」
ミラベルは、エレノアの目を見た。
「だから私は、死亡記事を書かなかった」
机の端に、一枚の新聞が置かれていた。
十三週間前の日付。
大時鐘塔事件を報じる特別号。
他紙が大きな見出しで探偵の死を伝える中、その紙面の片隅にミラベルの署名した短い記録が載っている。
レオン=クラウス。
大時鐘塔事件において行方不明。
死亡を証明する記録は、まだ存在しない。
「でもね」
ミラベルは続けた。
「死亡を証明できないことと、どこかの地下水路にいることは同じじゃない」
「それくらい分かってる」
「本当に?」
「分かってるわよ」
エレノアは顔を上げた。
瞳には疲労があった。
十三週間分の眠れない夜と。
十三週間分の反論と。
兄が死者として扱われるたびに呑み込んだ怒りが、その奥に沈んでいる。
「私だって、地図一枚で兄さまが見つかるなんて思ってない」
「なら――」
「でも、何もしないで座っていたら」
エレノアの声がかすかに揺れた。
それを隠すように、検査レンズを地図へ戻す。
「兄さまを、死亡推定の紙へ置いていくことになる」
ミラベルは、すぐには答えなかった。
レオンの机が二人の間にある。
空の椅子。
折れた杖の収められた箱。
動かない煙草盆。
持ち主だけが欠けた部屋。
「置いていかないわ」
ミラベルは言った。
「でも、追いかけ方は選ばなきゃいけない」
「誰が選ぶの?」
「私たちが」
「エドガー兄さまじゃなく?」
「エドガーさんでも、市警でも、死亡推定を出した記録官でもない」
エレノアの眉が、わずかに動いた。
「私たち?」
「少なくとも、あなた一人ではないという意味よ」
ミラベルは捜索記録を閉じた。
「次に調べるなら、すでに調べた場所へ忍び込むんじゃない。何が不足しているかを整理する。地図の発行元。廃止記録。工事に関わった配管工。旧坑道を知る人。存在するかどうか分からない通路へ入る前に、その通路が存在した可能性を証明する」
「それって、時間がかかるわ」
「時間を惜しんで、あなたまで行方不明になったら、調査する人間が一人減るでしょう」
「あなたがいるじゃない」
「記者一人で、地下坑道へ入れと?」
「グレアム警部を連れていけばいいわ」
「あなたが嫌がるでしょう」
「嫌がるけど、止めても来るもの」
ミラベルは、思わず息を漏らした。
笑いに近い音だった。
エレノアも、口元をほんの少し緩める。
だが、その表情は長く続かなかった。
階下で、入口の鈴が鳴った。
《煤鳩亭》へ客が入ってきたらしい。
椅子を引く音。
マルタの低い声。
女の声が一度。
何を話しているのかは聞き取れない。
やがて、階段を上がってくる重い足音がした。
一段。
また一段。
ドワーフの短い脚に合わせた、急がない歩み。
その途中で一度止まり。
また上がってくる。
ミラベルは机へ戻った。
エレノアは素早く検査レンズを地図の上へ置き、何事もなかったように椅子へ座り直した。
ただし、赤と青と黄色の糸が走る地図を片づける気はないらしい。
扉が二度、叩かれた。
返事を待たずに開く。
マルタが立っていた。
白い前掛けを着け、片手には珈琲の染みが付いた布巾を持っている。
「客だよ」
ミラベルは反射的に、レオンの空席を見た。
それからマルタへ視線を戻す。
「探偵事務所は休業中です」
「それを言っても帰らない客だから、上げたのさ」
「相談なら、警察か記録庁へ――」
「両方で追い返されたそうだよ」
マルタの声から、いつもの荒さがわずかに消えた。
彼女は人を見る。
肩書きでも。
所持金でも。
記録上の身分でもなく。
扉を叩いた者が、帰る場所を失いかけているかどうかを見る。
そのマルタが、帰さなかった客だった。
ミラベルは口を閉じた。
「誰への相談ですか」
マルタは、黒布の掛けられた看板の方角へ顎をしゃくった。
「クラウスへ、だとさ」
エレノアが立ち上がった。
椅子の脚が床を鋭く擦る。
「兄さまに?」
「そう言ってる」
「名前は?」
「本人から聞きな」
マルタは廊下を振り返った。
「上がっておいで。そこにいる二人は、口ほどには忙しくないよ」
「マルタさん」
「事実だろう?」
言い返す前に。
階段の下から、もう一つの足音が聞こえた。
軽い。
だが、ひどく慎重だった。
一段上がるたび、引き返す理由を探しているような歩み。
ミラベルは、自分の机に積んでいた記録を端へ寄せた。
エレノアはレオンの検査レンズを、初めて静かに元の場所へ戻した。
二人とも。
空いた革張りの椅子には触れなかった。
やがて。
事務所の入口に、一人の女の影が差した。




