終幕 ― 探偵の死亡記録
中央記録庁の印字機は、人間が死んでも音を変えなかった。
蒸気弁が開き、活字輪が回る。
カタン。
黒いインクをまとった金属文字が、厚い公用紙へ一行を打ちつける。
紙が送られる。
カタン。
また一行。
窓の外では、細い雨が庁舎の玻璃を伝っていた。クロック=ベルンから戻って以来、空はどの都市でも同じ煤色に見えた。
長机の中央には、二枚の記録が並べられている。
> レオン=クラウス。
> 大時鐘塔事件において中央重量錘坑へ転落。
> 遺体未発見。
> 生存可能性、極めて低し。
> 死亡推定。
もう一枚には、
> ノクス=モリアン。
> 大時鐘塔事件首謀者。
> 同事件において中央重量錘坑へ転落。
> 遺体未発見。
> 死亡推定。
と記されていた。
どちらも、死亡確認記録ではない。
検死官の署名はなく、遺体識別番号も、埋葬許可番号も付されていない。
あるのは、二人が中央重量錘坑へ落下したという目撃記録。水圧制動作動時の水量と流速の推定。地下水路まで続けられた捜索。折れた杖。黒い手袋。別々の場所から発見された血痕。そして、数日を経ても二人の遺体も衣服も発見されなかったという報告だった。
それらを根拠として、生存可能性が極めて低いと判断された。
判断は事実ではない。
しかし、記録庁においては、判断もまた人間の身分を変える。
「訂正はございますか」
記録官が尋ねた。
エドガー=クラウスは、銀縁眼鏡越しに弟の名を読んでいた。
濃紺のフロックコート。
皺一つない白い襟。
正確な結び目を保ったクラヴァット。
磨かれた靴。
時計塔で水と油にまみれ、二つの時刻に引き裂かれた都市の記録を整理していた数日前と、外見上は何も変わらない。
「第三行」
エドガーが言った。
「“遺体確認に至らず”ではなく、“遺体未発見”のままに」
「意味は同じではありませんか」
「違う」
記録官のペンが止まった。
「確認に至らず、では、確認手続きが不十分だったとも読める。未発見は、捜索を実施したうえで、対象が発見されなかったという記録だ」
「存在しなかった、という意味ではありませんね」
「そうだ」
エドガーは紙面から目を上げなかった。
「発見されなかった」
記録官は訂正箇所へ小さな確認印を付けた。
「死亡推定の扱いは、このままでよろしいですか」
「ああ」
「上層部からは、公式発表として、より明確な表現を求められています。死亡確定へ変更した方が、市民や各機関の混乱は少ないかと」
「死亡確定へ変更する根拠はない」
「しかし、落下距離と水量から、生存は――」
「可能性の評価だ」
エドガーの声は平静だった。
「死亡の確認ではない」
「市民には、死亡したものと受け取られるでしょう」
「受け取り方まで、記録官が管理する必要はない」
エドガーは、机の右端に置かれた黒いインク壺へ署名ペンを入れた。
ペン先を静かに引き上げる。
余分なインクが一滴だけ膨らみ、壺の縁へ落ちた。
「書くべきものを書きなさい」
ペン先が公用紙へ下りる。
「死亡ではなく、死亡推定だ」
弟の記録の末尾へ、兄の名が記された。
> エドガー=クラウス
> 中央記録庁特別監査官
署名は、途中で震えなかった。
筆圧も、文字の間隔も、普段の公文書と同じだった。
レオン=クラウスという名の下へ、エドガー=クラウスという名が置かれた。
記録官が乾燥砂の容器へ手を伸ばした、そのときだった。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「何をしているの」
エレノア=クラウスが立っていた。
外套も脱いでいない。雨に濡れた髪が頬へ張りつき、いつもなら左右を揃えているリボンも、片方がほどけていた。
衛兵が遅れて廊下から駆け込んでくる。
「クラウス顧問、申し訳ございません。お止めしたのですが――」
「止められなかったのね」
エレノアは振り返らずに言った。
「見れば分かる」
エドガーが答えた。
衛兵は困ったように兄妹を見比べる。
「下がっていい」
エドガーの言葉に、衛兵は扉の外へ退いた。
エレノアは長机へ近づいた。
「何に署名したの」
エドガーは記録を伏せなかった。
死亡推定記録を、そのまま妹の前へ置く。
エレノアの目が、紙面の上から下へ動いた。
レオン=クラウス。
中央重量錘坑へ転落。
遺体未発見。
生存可能性、極めて低し。
死亡推定。
最後に、エドガーの署名。
「取り消して」
「できない」
「まだ捜しているわ」
「知っている」
「グレアム警部たちは、旧坑道の先も調べている。崩れた水路だって、掘削班が入り始めた」
「報告はすべて受けている」
「遺体は見つかっていない」
「そのように記録した」
「だったら、どうして」
エレノアは紙の両端をつかんだ。
持ち上げようとしたのか。
破ろうとしたのか。
指先に力が入り、厚い公用紙が中央から歪んだ。
まだ乾き切っていない兄の署名も、わずかに波打つ。
「どうして、レオン兄さまを死者の側へ置くの」
「死亡確認ではない」
「同じよ!」
「違う」
「探偵免許も、銀行口座も、事務所の契約も止まる。レオン兄さまの名前で動いていたものが、全部使えなくなる!」
「ああ」
「それを死なせると言うのよ!」
エレノアの声が、中央記録庁の高い天井へ響いた。
隣の印字室からは、同じ速さで機械音が聞こえている。
止まったのは印字機ではない。
部屋にいる人間の動きだった。
記録官は乾燥砂を持ったまま、手を下ろせずにいる。
「兄さまは」
エレノアは、紙をつかんだままエドガーを睨んだ。
「レオン兄さまが生きていると思わないの?」
「思うことと、記録することは違う」
「今は記録の話をしていない!」
「私はしている」
「弟でしょう!」
「だからだ」
短い答えだった。
エレノアの顔から、怒りとは別の色が一瞬だけ消えた。
エドガーは妹の手から紙を奪わなかった。
ただ、歪んだ記録を机の上へ戻し、まだ湿っている署名へ静かに乾燥砂を落とした。
「記録が彼を殺すことで、生きられる場合もある」
雨が玻璃窓を流れた。
エレノアは兄の顔を見た。
「どういう意味?」
エドガーは答えなかった。
砂を傾け、余分な粒を紙面から落とす。
「兄さま」
「説明することはない」
「また、そうやって」
エレノアの声が低くなった。
「自分だけが分かっていればいいと思っている」
エドガーは否定しなかった。
「レオン兄さまも」
彼女は、乾いた署名を見る。
「あなたのそういうところを嫌っていた」
「知っている」
「私も嫌い」
「それも知っている」
「だったら、少しくらい――」
「嫌われることと、必要な処理を行うことは両立する」
エドガーは、もう一枚の死亡推定記録を手元へ寄せた。
ノクス=モリアン。
大時鐘塔事件首謀者。
中央重量錘坑へ転落。
遺体未発見。
死亡推定。
同じペンをインク壺へ入れる。
同じ筆圧で署名する。
レオンとノクス。
二人の名が、制度の上では同じ日に死者の側へ置かれた。
エレノアは、兄から署名ペンを奪おうとはしなかった。
代わりに、長机の端を拳で一度叩いた。
「私は認めない」
「認める必要はない」
「捜すから」
「好きにしなさい」
「好きにするわ」
エレノアは扉へ向かった。
数歩進み、途中で振り返る。
「見つけたら」
怒りを抑えようともせず、兄をまっすぐ見た。
「本人に、この記録を破らせる」
エドガーは答えなかった。
エレノアが部屋を出る。
濡れた靴音が、中央記録庁の長い廊下を遠ざかっていった。
扉が閉まる。
誰もすぐには口を開かなかった。
印字室から、機械の音だけが聞こえてくる。
カタン。
紙が進む。
カタン。
また一行。
記録官は、閉じた扉と二枚の公用紙を交互に見た。
「公式発表を進めますか」
「ああ」
「二名とも、死亡推定として」
「記載どおりに」
記録官は書類を受け取り、印字室へ運んだ。
やがて、大型印字機が新しい紙をのみ込む。
カタン。
レオン=クラウス。
カタン。
死亡推定。
カタン。
ノクス=モリアン。
カタン。
死亡推定。
人間の姿は見つかっていない。
それでも、記録だけが先に、二人の死を大陸へ運び始めた。
*
その日の夕刻。
ヴェルム=クロウには、冷たい煤雨が降っていた。
黒鴉館の入口脇にも、中央記録庁の公式発表が貼られている。
雨除けの玻璃板の下。
通行人たちは足を止め、レオン=クラウスという名を読んだ。
私立探偵。
元記録院職員。
死人の署名を見つけた男。
存在しない七号車を追った男。
劇場の死者を第三幕から降ろした男。
時計塔へ上り、教授とともに消えた男。
その下にある四文字。
死亡推定。
死亡確認との違いを考える者は少なかった。
記録へ死者の側として置かれれば、多くの者は、その人間が死んだのだと理解する。
黒鴉館二階。
クラウス探偵事務所の扉には、鍵が掛かっていた。
曇り硝子の向こうは暗い。
暖炉にも。
鑑定台の蒸気灯にも。
ここ数日、火は入れられていない。
廊下に掛けられた看板だけが、以前と同じ位置に残っていた。
> レオン=クラウス探偵事務所
> 記録不整合・契約偽装・失踪調査
その看板の下で、梯子を抱えた家主組合の男が、マルタ=グレインと向き合っていた。
「死亡記録が成立した事業者の看板は、撤去する規則です」
「死亡記録じゃない。死亡推定だよ」
「事業者本人が業務を継続できない状態であれば、同様に扱います」
「ここをどう扱うか決めるのは、あたしだ」
「組合規則では――」
「推定で看板を外せるなら」
マルタは腰の鍵束を鳴らした。
「推定で家賃も払っておくれ」
「家賃は、物件の使用者が――」
「本人へ請求するさ」
「死亡推定者へ、ですか」
「戻ってくれば払える」
「戻らなかった場合は」
「そのとき考える」
「規則として認められません」
「なら、看板を外すのもそのとき考えな」
男は口を開きかけた。
その視線が、階段下に立つグレアム警部へ動く。
煤と泥の残った外套。
数日眠っていない目。
右腕に抱えた、細長い証拠包み。
グレアムは何も言わなかった。
だが、今この場所で規則を主張し続けることが、賢明ではないとは伝わったらしい。
「後日、改めます」
男は梯子を畳んだ。
「二度と来なくていいよ」
マルタは、その背中へ言った。
男が階段を下り、煤鳩亭の扉から出ていく。
マルタはグレアムへ向き直った。
「開けるのかい」
「ああ」
「本人の許可は?」
「警察の返却物だ」
「死亡推定者の部屋へ勝手に入るのは?」
「捜査協力者の事務所へ、行方不明者の所持品を戻す」
「便利な言い方だね、警察は」
「家主ほどじゃない」
マルタは鍵束から一本を選び、事務所の錠へ差し込んだ。
鍵が回る。
扉を押すと、蝶番が乾いた音を立てた。
*
部屋の中には、レオンが出発した夜のまま、時間が残っていた。
机の端に積まれた事件記録。
途中まで読まれた新聞。
蓋を閉じ忘れたインク壺。
暖炉脇の椅子へ掛けられた予備の外套。
鑑定台の上には、真鍮粉の入った小瓶と、欠けた契約印章が置かれている。
壁際の棚。
窓際の小机。
探偵がいつも座っていた椅子。
すべてが同じ場所にある。
ただ。
机の横、杖を立てていた場所だけが空いていた。
細長い空白が、暗い床板の上へ残っている。
グレアムは証拠包みを机へ置いた。
布を開く。
二つに折れた黒い杖。
細い銀輪。
石突き近くの小さな目盛。
水と歯車に削られた断面。
正式な鑑定は終わっている。
木片。
付着した血液。
発見位置。
すべて記録され、必要な試料も採取された。
返却書には、
> 行方不明者所持品
と記されている。
遺品ではない。
「ここへ戻すのかい」
マルタが尋ねた。
「ああ」
「杖立ては空いているよ」
「折れている」
「二本に分ければ入る」
「縁起でもないことを言うな」
「死亡推定を出した役所へ言いな」
グレアムは二つの杖を杖立てへ入れようとはしなかった。
机の上へ並べ、折れた断面が互いに向き合うように置いた。
「持ち主が戻ったとき、見つけやすい」
マルタは杖を見た。
それから、空いたままの杖立てと、閉められていない事務所の扉を見た。
「看板は外さないよ」
「ああ」
「家賃も止めない」
「そこは止めてやれ」
「生きて戻ったとき、無料で住めたと思わせるのは教育に悪い」
「戻らなかったらどうする」
「家賃を払わせられないね」
「なら」
「だから」
マルタは暗い事務所の奥を見た。
「戻ってきてもらう」
グレアムは鼻から短く息を吐いた。
笑いにはならなかった。
*
ミラベル=ワトリアは、窓際の小机へ座っていた。
探偵の椅子ではない。
いつも彼女が手帳を広げ、レオンの推理へ質問を挟み、書くなと言われたことまで書いていた席だった。
目の前には、新聞社から届いた原稿用紙がある。
上部へ、編集部の用意した見出しが太い活字で印刷されていた。
> 偽装記録の探偵、時計塔に死す
その下には、冒頭文まで組まれている。
> 数々の記録犯罪を暴いた私立探偵レオン=クラウス氏が、大時鐘塔事件において死亡した。中央記録庁は――
ミラベルは、そこから先を読まなかった。
「死亡記事を書けと言われたのか」
グレアムが尋ねた。
「はい」
「公式発表が出たからな」
「死亡推定です」
「市民には同じに見える」
「同じではありません」
ミラベルは即座に答えた。
声が、自分の予想より強く出た。
グレアムは反論せず、机の上へ戻された折れた杖を見る。
「警察が確認したのは、二人の転落だ」
「はい」
「落下後は水と蒸気で視認不能。捜索した範囲に遺体なし。衣服なし。身元を示す所持品なし」
「折れた杖と、黒い手袋」
「ああ」
「別々の場所に血痕」
「ああ」
「壊れた鉄格子。その先へ続く旧坑道」
「ああ」
「死亡を証明するものは」
「ない」
「生存を証明するものも」
「ない」
「だから」
ミラベルは、太い活字の見出しへ目を戻した。
「行方不明です」
「ああ」
願えば、遺体が見つからないことを生存の証拠として読める。
壊れた鉄格子を、二人が自力で地下水路へ入った痕跡だと思える。
地図の外へ続く坑道を、逃げ道だと考えられる。
反対に。
恐れれば、折れた杖と血痕を死亡の証拠として読める。
水量。
落下距離。
数日間発見されなかったこと。
それらを並べ、もう生きてはいないと結論づけることもできる。
どちらも。
確認されていない事実を、自分が望む結末へ所属させる行為だった。
「今日は、ずいぶん確認するね」
マルタが言った。
ミラベルは膝の上で手を握った。
「自分だけで考えると、願っている方へ証拠を寄せそうだからです」
グレアムが、低く答える。
「分からんものを、望む答えへ寄せるな」
「はい」
「怖い答えへもだ」
「はい」
「確認したことだけを書け」
それは地下水路へ降りる前にも言われた。
レオンからも、何度も言われてきた。
事実。
推測。
願い。
それらを分ける。
今ほど、その作業が苦しいと思ったことはなかった。
ミラベルは編集部の用意した原稿へ両手を置いた。
> 時計塔に死す
死亡という言葉が、事件の説明より先に読者の目へ入る。
見出しを読んだ時点で、レオンは死者として理解される。
そのあとに遺体未発見と書いても。
生死確認不能と書いても。
捜索継続中と書いても。
多くの者は、最初に示された結論へ、それらの事実を従わせる。
死亡推定という制度上の判断さえ、死亡を補強する注釈として読まれるだろう。
見出しは、本文を短く示すための言葉である。
同時に。
本文を読む前に、事実の所属先を決めてしまう言葉でもある。
ミラベルは原稿用紙を持ち上げた。
中央から引き裂く。
ビリッ。
紙の破れる音が、暗い事務所へ響いた。
もう一度。
太い見出しの中にある、
> 死す
という二文字を縦に裂いた。
破片を机の端へ置く。
「編集長に怒鳴られるぞ」
グレアムが言った。
「慣れています」
「いつからだ」
「レオンさんの記事を書くようになってからです」
「本人がいなくても、周りの仕事を増やす男だね」
マルタが言う。
「戻ったら、まとめて請求してください」
「記事代も家賃へ入れておくよ」
「別勘定にしてください」
いつものような言葉だった。
誰も笑わなかった。
それでも、ミラベルは新しい原稿用紙を一枚取った。
インク壺の蓋を開ける。
ペン先を浸す。
最初の一行へ、ゆっくりと書いた。
> 大時鐘塔事件記録
死亡記事ではない。
英雄譚でもない。
追悼文でもない。
事件記録。
次の行へ、名前を書く。
> レオン=クラウス。
そこでペンが止まった。
机の上には、折れた杖がある。
向かいには、誰も座っていない探偵の椅子がある。
廊下には、外されなかった看板がある。
中央記録庁には、死亡推定記録がある。
どれもレオン本人ではない。
だから、本人の結末にもならない。
ミラベルは次の行へ書いた。
> 行方不明。
グレアムは肩越しに読んだが、何も言わなかった。
マルタも、煤鳩亭へ戻らず、開いた扉のそばに立っていた。
ミラベルは最後の一行へペンを移した。
願いではなく。
恐怖でもなく。
推定でもなく。
今ある証拠から、誰にも否定できない言葉を選ぶ。
死亡を証明する記録は、まだ存在しない。




