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観測余録 ― 二名、未検札

 深夜。


 クロック=ベルン中央駅の外れで、回送列車が静かに動き始めた。


 出発を告げる呼子は鳴らない。見送る駅員もいない。


 大時鐘塔の事故以来、留め置かれていた客車を、車庫へ戻すためだけの列車だった。


 濡れた線路を車輪が踏み、硬い継ぎ目を越える音が、一定の間隔で空の車内を渡っていく。


 ガタン。


 ガタン。


 ガタン。


 天井の蒸気灯は半分まで落とされ、黄ばんだ光の下に、磨かれた長椅子が並んでいる。網棚には荷物一つなく、曇った窓にも、人の指で拭われた跡はなかった。


 客車には、誰も乗っていない。


 少なくとも、回送記録には、


> 乗車人員、零。


 と記されている。


 連結扉が開いた。


 黒い革靴が揺れる床へ降り、細身の杖が続く。黒い車掌礼装と、深紫の帯を巻いた、場違いなほど端正なシルクハット。


 小柄なドワーフの検札官が、無人の通路へ入ってきた。


 エル=ネフリドは、乗客のいない客車を、いつもと変わらない足取りで進んだ。


 杖先が床を打つ。


 コツ。


 車輪が継ぎ目を越える。


 ガタン。


 次の一歩。


 コツ。


 誰もいないはずの列車で、車輪と検札杖の音だけが交互に続いていく。


 ネフリドは、左右の座席へ暗い金の視線を送った。


 忘れ物を探しているようにも。


 空席そのものを数えているようにも見えた。


 最後尾に近い窓際で、杖が止まった。


 同じ座席の上に、二枚の切符が置かれている。


 重なってはいない。


 わずかな隙間を空け、並んでいた。


 二枚とも濡れ、紙の縁は水を吸って波打っている。


 一枚には、黒い煤が付着していた。水に流された細かな粒が、紙の繊維へ入り込んでいる。


 もう一枚には、洗われて淡くなった血の染みが残っていた。


 ネフリドは手袋をした指で、煤の付いた切符の端を持ち上げた。


 表を見て。


 裏返し。


 蒸気灯へ透かす。


 元の位置へ戻すと、今度は血の染みた一枚を持ち上げ、同じように表と裏を検めた。


 どちらにも、名前はない。


 行き先もない。


 乗車駅。


 発行時刻。


 座席番号。


 切符にあるはずの欄は、すべて空白だった。


 印字が水で消えたのではない。


 初めから、何も記されていない。


 それでも、二枚の紙は切符の形をしていた。


 ネフリドは胸元へ手を入れ、真鍮製の検札鋏を取り出した。


 銀に近い刃。


 古い刻印。


 持ち手へ埋め込まれた、深紫の小石。


 鋏を開き、煤の付いた切符の角へ近づける。


 刃先が紙へ触れる直前で、止まった。


 ネフリドは、二枚の切符を見た。


 次に、空の座席と、誰もいない通路を見る。


 最後に、曇った窓の向こうへ流れていくクロック=ベルンの灯りへ目を向けた。


 検札鋏を閉じる。


 穴は開けなかった。


「死亡記録、二件」


 穏やかな声が、無人の客車へ落ちた。


 返事はない。


 車輪が、次の線路の継ぎ目を越える。


「遺体記録、零件」


 ネフリドは二枚の切符を重ねず、それぞれ別の指に持った。


「乗車記録――確認できず」


 検札鋏を胸元へ戻す。


 続いて、濡れた二枚の切符を、どちらも黒い礼装の内側へ収めた。


     *


 回送列車は駅外れの分岐器を越えた。


 車体がわずかに傾き、市街の灯りが窓の後ろへ流れていく。


 やがて、線路を白い霧が包んだ。


 遠ざかる大時鐘塔。


 黒い塔の輪郭。


 外壁を覆う修復用の足場。


 内側から水に濡れた四面時計。


 そのすべてが、少しずつ霧の中へ溶けていく。


 遠くで、鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 霧を越え。


 濡れた線路を越え。


 ゆっくりと、十二度まで。


 正しい数だけ。


 十三度目の鐘は鳴らなかった。


 ネフリドは、鐘の終わりを確かめるように、わずかに顔を上げた。


 黒いシルクハットの影で、暗い金の瞳が細くなる。


 列車は止まらない。


 名前も行き先も記されていない二枚の切符を載せたまま、クロック=ベルンから遠ざかっていく。


 十二度目の鐘の余韻が霧へ消えたあとも、別の音だけが残っていた。


 水の落ちる音。


 塔の中央を。


 地下の水路を。


 記録の外側を流れていくような音。


 列車の中から聞こえているのか。


 遠ざかる時計塔からなのか。


 霧の下を走る、名もない地下水路からなのか。


 確認できる者はいない。


 それでも、水の落ちる音だけが。


 長く。


 長く。


 続いていた。

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