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第16節 ― 零時十三分

 《第十三時》開始から十三分。


 標準時統制室の記録時計は、


> 13 : 13 : 00


 を示したまま、止まっていた。


 《第十三時》には、その先がない。


 十三段の補正計数輪は最後の溝まで進み、機械が用意していた仮の時刻を使い果たしている。《第十三時》十四分という表示も、そこへ進む歯も存在しなかった。


 進めない。


 午前零時へ戻ることもできない。


 二つの時刻の境界で、大時鐘塔の全機構が、長く息を止めた巨大な身体のように軋んでいた。


 中央重量錘坑では、屋上水槽から放たれた水がなお落ち続けている。水柱は斜めに止まりかけた重量錘を打ち、歯車へ砕かれ、灼けた軸受けから白い蒸気を噴き上げていた。


 崩れた保守橋の向こうに、レオンとノクスの姿はない。


「レオンさん!」


 ミラベルは中央坑へ向かって叫んだ。


 返事はなかった。


 彼女の声は水の轟音へ押し戻され、自分の足元にさえ届かないように消えた。


 グレアムは残された手摺へ安全索を巻きつけ、背後の警官へ怒鳴った。


「下層の状況は!」


「第五層、退避完了! 第四層は浸水! 地下制水室とは連絡が取れません!」


「排水坑の捜索口を確保しろ。安全索、蒸気ランタン、担架を集めろ!」


「まだ主水流が止まっていません!」


「止まるまで入口を見失うな! 水位が下がり次第、上から順に制動棚を調べる!」


 命令を出しながらも、グレアムは中央坑から目を離さなかった。


 二人が落下したところまでは見ている。


 その先は、水流と蒸気に隠された。


 中央重量錘坑は、底まで一続きの穴ではない。途中には保守足場、制動棚、歯車の架台があり、下部では複数の排水枝管へ分かれている。


 重量錘の底まで落ちたのか。


 途中の棚へ投げ出されたのか。


 地下水路へ流されたのか。


 まだ、どれも確認されていなかった。


「警部」


 ミラベルが言った。


 声は掠れていたが、先ほどのように名前を叫び続けることはしなかった。


「捜索は、いつ始められますか」


「水位が人間の腰より下へ落ちたらだ」


「それまでに流されます」


「今、人を入れれば、捜索する側も流される」


「でも――」


「死者を増やして捜索とは呼ばん」


 グレアムの声は厳しかった。


 ミラベルは何かを言い返しかけ、中央坑を見た。


 白い滝。


 蒸気。


 黒い歯車。


 そこへ今飛び込めば何が起きるのかは、彼女にも分かっている。


 分かっていても、待つという判断だけは受け入れがたかった。


 グレアムは安全索の結び目を引き、もう一度強度を確かめた。


「入口は確保する。水が落ちた瞬間に入る」


「二人とも捜しますか」


「落ちたのは二人だ」


 それだけ答えた。


     *


 そのとき。


 水の奥で、小さな金属音がした。


 カチリ。


 巨大な滝の中では、本来なら聞こえるはずのない音だった。


 記録時計の秒針が、一度だけ動いた。


 13 : 13 : 00の表示から、その先へ進もうとする。


 針はわずかに震え、文字盤の途中で止まった。


 機械の奥では、十三段の補正計数輪が最後の歯を越え、その回転が通常の分針軸へ受け渡されていた。


 時計盤裏に残っていた固定爪が外れる。


 主制御輪が低く、重く、本来の軌道へ噛み合った。


 ゴン。


 大時鐘塔全体が一度沈んだ。


 崩壊ではない。


 長く引き絞られていた機械が、ようやく力を抜いた振動だった。


 中央重量錘の下降速度が落ち、水圧制動羽根が流れの抵抗を受けながら一枚ずつ閉じていく。高速の唸りだった歯車の音も、やがて一つずつ数えられる刻みへ変わった。


 ガチリ。


 間を置いて。


 ガチリ。


 記録時計の数字が揺れた。


> 13 : 13


 黒い数字が、一度消えた。


 ミラベルは息を止めた。


 午前零時へ戻る。


 この十三分を、最初から存在しなかったことにする。


 そう思った。


 四十三年前、午後十一時四十九分から午前零時までの十一分が消されたように。


 列車を止めた人々も。


 赤灯を振った駅員も。


 橋の固定鎖へしがみついた技師も。


 負傷者を運んだ者も。


 レオンとノクスが落下したことさえ。


 すべて午前零時の前後へ分割され、異常だった十三分だけが空白へ戻される。


 だが、次に表示された数字は、


> 00 : 13


 だった。


 午前零時十三分。


「十三分を……」


 ミラベルが呟いた。


「消さなかった」


 時計塔は、午前零時へ巻き戻らなかった。


 《第十三時》という不正な時刻は終了した。


 しかし、その中で現実に経過した十三分を通常時刻へ加え、午前零時十三分から先へ進もうとしている。


 自動記録筒が動いた。


 紙を送る軸が一度鳴り、四行が印字される。


> 《第十三時》 終了

> 標準時 復帰

> 復帰時刻 午前零時十三分

> 補正時間中記録 保存


 紙帯は巻き戻されなかった。


 《十一分訂正原簿》の複製。


 中央駅で二列車を止めた記録。


 運河橋と工場炉の異常。


 市民への避難放送。


 《不正時刻帯》に送られた契約命令。


 オットー=ヴァールへ与えられた、誤った死亡記録。


 すべてが紙の上へ残されている。


 その下へ、午前零時十三分以後の記録が続き始めた。


 異常記録は消されなかった。


 正規の時刻にも置き換えられなかった。


 前と後ろを与えられ、都市が経験した事件として、そこへ残った。


     *


 塔の鐘が鳴った。


 一度だけ。


 ゴォォン――。


 十三度目の鐘とは違う。


 午前零時をもう一度告げる音でもない。


 《第十三時》の終了と、標準時の再開を知らせる一度の打鐘だった。


 音は大時鐘塔の石壁を震わせ、夜霧に沈むクロック=ベルンへ広がっていく。


 中央駅の玻璃屋根が低く鳴った。


 時計塔前の広場で立ち尽くしていた市民たちが顔を上げる。


 工房の窓。


 濡れた石畳。


 停止した市電。


 屋根の上に積もる煤。


 鐘の余韻はそれらを順に渡り、都市の外縁へ向かって薄れていった。


 中央駅では、線路脇に立つ駅員たちが時計を見た。


 針時計は、午前零時十三分。


 発着板の時刻も同じ数字へ変わり、次の秒から通常の速度で進み始めている。


 それでも、二本の列車は動かなかった。


 信号灯が復旧しても、機関士は蒸気弁を開かない。保線員が線路を歩き、転轍器を確認し、駅員が人力停止の解除を告げるまでは、時計より人間の確認を優先していた。


 歯車運河では、昇開橋の上で技師たちが一度の鐘を聞いた。


 時刻窓は午前零時十三分へ戻っている。


 だが、橋は固定鎖を掛けられたまま動かない。技師は自動開閉機の表示ではなく、橋桁の接合部と水面の船影を目で確かめ、手動制御盤の鍵を抜いた。


 工場区では、燃料送りを止められた蒸気炉の炎が少しずつ小さくなっていた。


 職人たちは時計の針が動き始めても、持ち場へ戻ろうとはしない。


 圧力計。


 炉壁の亀裂。


 閉じた弁。


 そして、負傷した仲間の人数。


 それらを一つずつ確認してからでなければ、機械を再始動しなかった。


 都市は、再び一つの現在を得た。


 だが、人々はもう、時計だけを見て動いてはいなかった。


     *


「全都市から標準時復帰信号!」


 標準時統制室で、通信係たちが次々と紙帯を読み上げた。


「クロック=ベルン中央駅、午前零時十三分を受信! 全列車停止を維持!」


「ヴェルム=クロウ歯車運河、橋梁固定を確認!」


「スート=フェルド工場区、主炉圧力低下!」


「契約法院、《不正時刻帯》の終了を受信! 該当認証は引き続き保留!」


 エドガーは、届いた報告へ一枚ずつ確認印を押した。


 時計塔上層で二人が落下したという正式な報告は、まだ手元へ届いていない。


 それでも。


 崩落音。


 上から流れてくる水。


 グレアムとミラベルが戻らないこと。


 中央重量錘坑へ捜索準備が指示されたこと。


 何が起きたかは理解していた。


「補正時間中の記録は」


 エドガーが尋ねた。


「各受信所で保存を確認中です。巻き戻し処理は作動していません!」


「《十一分訂正原簿》の複製は」


「送信完了分を保存。未照合分は原本との確認待ちです」


「時計塔の機能は」


 ヘルガが、水に濡れた設計図を広げた。


「主時計と記録機構は生きています。交通信号線は物理切断。契約認証線は隔離。鐘楼と中央重量錘系は大破」


「再建できるか」


「できます」


 答えたのはモルガだった。


 作業着は水、油、真鍮粉に汚れ、元の色が分からなくなっている。


「ただし、同じ構造にはしません」


 切断された青い交通管を見る。


「一つの時刻信号が、交通、契約、記録のすべてを同時に支配する機構は造り直します」


 エドガーは短く頷いた。


 中央卓の時計が、


 午前零時十三分一秒。


 二秒。


 三秒。


 正常な速度で進んでいく。


 都市は救われた。


 記録も残った。


 だが、その答えを出した男は、まだ塔の中へ戻っていない。


     *


 水圧が下がり始めると、グレアムはすぐに安全索を外した。


「下へ行くぞ」


 ミラベルが続く。


「私は」


「残れと言っても来るだろう」


「はい」


「なら、俺より前へ出るな」


「それも聞きました」


「誰にだ」


「レオンさんに」


 グレアムの足が、一段だけ止まった。


 だが、振り返らずに階段を下り始めた。


「聞き飽きているなら、今度こそ守れ」


「警部も、戻ってください」


「俺は今から行くところだ」


「そうではなく」


 ミラベルは言葉を止めた。


 同じ約束を求めることが、レオンとの約束を別の言葉で薄めてしまうように思えた。


 グレアムは彼女の続きを待たなかった。


「捜索中は、俺の見たものを記録しろ」


「はい」


「見えなかったものを書くな」


 ミラベルは一度、目を伏せた。


「はい」


 二人は、第七層から第六層へ降りた。


 さらに第五層へ。


 下へ進むほど、石段を流れる水は深くなる。


 歯車の破片。


 折れた工具。


 切れた鎖。


 壁へ貼りついた記録紙。


 時計塔の内部を構成していたものが、順序を失って各所へ散乱していた。


 警官と時計技師たちは壁へ安全索を固定し、蒸気ランタンを持って暗い坑内へ降りていく。


 最初の制動棚で、グレアムが一度だけ大声を出した。


「レオン=クラウス! ノクス=モリアン! 応答しろ!」


 声は中央坑を下り、地下水路へ入り、複数の方向から反響して戻ってきた。


 返事はなかった。


 それ以降、むやみに名前を呼び続けることはしなかった。


 水の音。


 金属の落下音。


 人の呼吸。


 助けを求める声があれば聞き逃さないよう、捜索班は必要な指示だけを短く交わしながら進んだ。


     *


 第五層の保守足場は、半分以上が流されていた。


 中央重量錘は下部制動槽で斜めに止まり、その周囲には、折れた梁、崩れた鉄格子、絡み合った鎖と工具が堆積している。


 時計塔の内部が一度ばらばらに解体され、そのまま水中へ投げ込まれたようだった。


「警部!」


 下の足場から声が上がった。


 グレアムとミラベルは、安全索を伝って一段下へ降りた。


 折れた梁の間。


 水の流れが弱くなった場所に、一本の木杖が引っ掛かっている。


 中央から折れた黒い杖。


 片側には細い銀輪。


 石突き側には、証拠までの距離を測るため、レオンが自分で刻んだ小さな目盛が残っていた。


「レオンさんの杖です」


 ミラベルは、触れる前から分かった。


 グレアムは周囲を見回した。


「発見位置を記録しろ」


 警官が梁の基点からの距離と、水面からの高さを測る。


 水流の方向。


 杖が挟まっていた角度。


 周囲の金属片。


 それらを書き終えてから、グレアムは新しい手袋を着け、二つの破片を順に回収した。


 石突き側へ、赤黒い染みが一か所残っている。


「血ですか」


「現場試薬を」


 技師が少量を採取し、簡易試薬へ落とした。


 色が変わる。


「血液反応あり」


「誰の?」


「それは、今夜ここでは分からん」


 グレアムは折れた杖を証拠布へ包んだ。


 ミラベルは、その手元を見ていた。


「遺品として記録しますか」


「しない」


 返答は即座だった。


「杖は、本人が落下前に手放した可能性がある。これだけでクラウスの死は示せん」


「はい」


「発見物だ」


 遺品とは呼ばなかった。


     *


 さらに下。


 地下排水室の水位は、膝の辺りまで下がっていた。


 太い排水管が三方向へ分かれている。中央駅地下の防火水路、街の雨水路、そして標準時制定以前の古い排水路だった。


 時計技師が枝管の弁を少しずつ閉じ、流量を落とす。


 水面が下がるにつれて、沈んでいた金属片と石床の凹凸が現れた。


 ランタンを持つ警官が、右側の石壁で足を止める。


「黒いものがあります」


「触るな」


 グレアムが先に止めた。


 黒い薄手の手袋が、石壁から突き出た古い固定金具へ引っ掛かっていた。


 排水管の入口から三歩ほど下流。


 壊れた鉄格子からは七歩ほど手前。


 水面が下がる前には完全に沈んでいた高さだった。


 警官が発見位置を図へ記し、壁面の高さと手袋の向きを測る。


 手首側が上流。


 指先が下流を向いている。


 周囲には黒檀の破片と細い鎖輪が散っていたが、どれが同時に流れてきたものかは判断できない。


 記録を終えてから、グレアムがピンセットで固定金具から外した。


 左手用。


 銀糸の刺繍。


 切れた留め金。


 ノクスが着けていた手袋と、外形は一致する。


 内側へ、赤黒い染みが残っていた。


 現場試薬が、こちらにも血液反応を示す。


 折れた杖に一か所。


 黒い手袋に一か所。


 二つの血痕は、異なる層、異なる物品から発見された。


 同じ人物の血なのか。


 別々の人物のものなのか。


 その夜には判定できなかった。


「血の量は」


 ミラベルが尋ねた。


「どちらも、これだけで致命傷を示す量ではない」


「水で流された可能性は?」


「ある」


「実際には、もっと多かったかもしれない」


「少なかったかもしれん」


 グレアムは彼女を見る。


「分からんことを、一番怖い答えへ寄せるな」


 ミラベルは唇を結んだ。


「レオンさんなら、もっと嫌な言い方をします」


「なら、俺で我慢しろ」


「はい」


 自分でも驚くほど素直な返事が出た。


     *


 地下水路の入口を塞いでいた太い鉄格子は、中央の数本が折れていた。


 鉄棒は水路側へ曲がり、人間一人が通れるほどの隙間を作っている。


 水圧で壊れたのか。


 重量錘坑から落ちてきた機械部品が衝突したのか。


 人間が壊したのか。


 破断面を見ただけでは決められなかった。


 グレアムは格子の手前で捜索班を止めた。


「破断面と周囲を記録。踏み跡を入れるな」


 ランタンの角度を変える。


 格子の外側には大きな擦過痕があり、歯車片らしい金属粉が付着していた。人の工具で切断した痕跡は見当たらない。


 それでも、二人がこの隙間を通ったかどうかは別の問題だった。


 壊れた格子の先には、標準時制定以前の地下水路が続いている。


 濡れた旧図面を広げた時計技師が説明した。


「この先で、古いドワーフ坑道へ重なります」


「出口は」


 グレアムが尋ねる。


「現行図面では、途中で閉鎖です」


「現物は?」


「確認記録がありません。坑道側へ続いている可能性があります」


 暗い水路の先から、冷たい風が流れてきた。


 完全な閉鎖区画から来る風ではない。


 どこかに空間か、別の出口が残っている。


「二人が、ここを通った可能性は」


 ミラベルが尋ねた。


「ある」


 グレアムが答えた。


「水に流されて?」


「それもある」


「自力で?」


「否定はできん」


 折れた杖。


 黒い手袋。


 二か所の血痕。


 壊れた鉄格子。


 四つの発見物は、二人の行方へつながる可能性を持っている。


 しかし、生存にも死亡にも、まだ結びつけられない。


 それを説明するのは、一度で十分だった。


「安全索を張れ」


 グレアムが命じた。


「先頭は時計技師と警官一名。旧水路と坑道側を確認する。二次崩落、急な増水、縦穴に注意しろ」


 捜索班が、鉄格子の隙間へ安全索を通す。


 先頭の警官が腹ばいになり、壊れた鉄棒の間を抜けた。


 続いて時計技師。


 蒸気ランタンの黄色い光が、地下水路の奥へ入っていく。


 闇が光を飲み込み、やがて二人の足元だけが見えなくなった。


「私も行きます」


 ミラベルが言った。


「入口で記録しろ」


「レオンさんも、同じことを言いました」


「お前ら二人が、同じことをさせるんだ!」


 グレアムは怒鳴った。


 その声には、いつもの苛立ちとは違うものが混じっていた。


「ここから動くな。中で何を見つけても、俺が戻って報告する」


「警部も戻ってください」


 グレアムは一瞬だけ彼女を見た。


「ああ」


 短く答え、捜索班を追って鉄格子の向こうへ入った。


     *


 ミラベルは、地下水路の入口へ座った。


 手帳は水を吸い、ほとんどの頁が使えなくなっている。文字は滲み、紙は波打ち、鉛筆の線も一部が流れていた。


 内側へ折り込まれ、水を免れた一枚だけを開く。


 鉛筆を握る。


 何を書くべきかは分かっていた。


 場所。


 発見物。


 確認した者。


 状態。


 転落を見たこと。


 その後は見えなかったこと。


 けれど、鉛筆はすぐには紙へ下りなかった。


 戻る。


 レオンは、そう約束した。


 約束は証拠ではない。


 彼女自身が、それをグレアムへ言われる前から分かっている。


 折れた杖が見つかった。


 だから死んだとは書けない。


 黒い手袋と血痕が見つかった。


 だから生きているとも書けない。


 壊れた格子の先に道がある。


 だから、そこを通ったとは書けない。


 書きたい言葉はいくつもあった。


 まだ生きている。


 逃げ道がある。


 戻ると言った。


 きっと戻る。


 どれも今は、記録へ置くことのできない願いだった。


 反対に。


 死亡。


 殉職。


 遺品。


 それらもまた、証拠のない結論だった。


 ミラベルは鉛筆を置き、壊れた鉄格子の向こうへ耳を澄ませた。


「第一分岐、異常なし!」


 奥から捜索班の声が届く。


「旧坑道側へ進む!」


 蒸気ランタンの光が一度だけ遠くで揺れ、また見えなくなる。


 午前零時十四分。


 十五分。


 二十分。


 塔の上では、正常に戻った時計が一分ずつ針を進めていた。


 地下では、人間が一歩ずつ、記録から消えた水路を調べていた。


     *


 その夜、捜索班は、安全を確保できる範囲の地下水路と保守坑を調べた。


 旧排水路。


 途中の沈砂槽。


 崩れた保守穴。


 古いドワーフ坑道へ続く最初の分岐。


 それ以上先は、二次崩落によって塞がれていた。


 別の枝道では水位が下がらず、夜間の装備だけで進むことはできなかった。


 遺体は発見されなかった。


 外套も。


 靴も。


 時計も。


 身元を確定できる所持品も見つからない。


 だからといって、捜索が打ち切られたわけではなかった。


 水位が下がり次第、第二班を入れる。


 夜明け後に旧坑道の図面を集める。


 中央駅側と雨水路側の出口へ警官を配置する。


 崩落区画には、坑道技師と掘削班を回す。


 その夜に確認できる範囲を、確認し終えただけだった。


 泥水に濡れたグレアムが、鉄格子の向こうから戻ってきた。


 外套も帽子も、元の色が分からない。


 ミラベルは立ち上がった。


「見つかりましたか」


「いや」


「遺体も?」


「ない」


「衣服は」


「ない」


「その先は」


「一部崩落。一部は旧坑道へ続いている。捜索は交代班へ引き継ぐ」


「終わらないんですね」


「終わらせる理由がない」


 グレアムは、石床へ置かれた二つの証拠袋を見た。


 一つには折れた杖。


 もう一つには黒い手袋。


 別々の場所で確認された二か所の血痕と、地下水路へ続く壊れた鉄格子。


 それだけが、二人の行方に関係する発見物だった。


「記事には何と書く」


 グレアムが尋ねた。


 ミラベルは、白いまま残っている手帳の頁へ目を落とした。


「転落を確認しました」


「ああ」


「その後の姿は見ていません」


「ああ」


「捜索は続いています」


 グレアムは頷いた。


「それ以上は書くな」


「死亡とは?」


「書くな」


 声は低かった。


 命令というより、事実の確認だった。


「遺体がない」


「はい」


「死を確認した者もいない」


「はい」


「なら、今は行方不明だ」


 ミラベルは、壊れた鉄格子の向こうを見た。


「レオンさんは、戻ると言いました」


「約束は証拠にならん」


「分かっています」


「なら」


「記録ではありません」


 ミラベルは濡れた手帳を胸へ抱いた。


「今ここにいる私へ向けた言葉です」


 グレアムは答えなかった。


 鉄格子の向こうから聞こえる水音へ、しばらく黙って耳を澄ませた。


 やがて入口脇へ警官二人を残し、次の捜索班を呼ぶため歩き出した。


 ミラベルは、もう一度手帳を開いた。


 願いを混ぜない。


 恐怖も混ぜない。


 確認したことだけを書く。


 午前零時十三分の欄へ。


 三行だけを記した。


> 転落確認。

> 生死確認できず。

> 捜索継続中。

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