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第15節 ― 大振子坑の滝

観測余録 安すぎる一皿


 人は、高すぎる値段を見ると理由を疑います。


 十銅貨で買えるはずの料理が二十銅貨なら、肉が特別なのか、場所代が高いのか、それとも店主が欲張っているのかと考えるでしょう。


 けれど、安すぎる値段を見たときには、少しだけ考えることを忘れます。


 十銅貨の料理が五銅貨なら、たいていの人は得をしたと思います。


 けれど、料理には肉が要ります。豆も、薪も、パンも要ります。皿を洗う人、鍋を見ている人、客へ渡す人にも、その日の食事が必要です。


 それらを全部合わせたよりも一皿の値段が安いのなら、差額はどこかから出ているはずです。


 店主が笑っていても。


 客が喜んでいても。


 誰かが、その安さを払っています。


 その日、それに最初に気づいたのは、遊園地の屋台を楽しみに来た客ではありませんでした。


 隣の街から差し入れを持ってきた、一人の女主人でした。


 ――ナミ=エル

 《第十三時》開始から十三分。


 標準時統制室の圧力計で、赤い指針が目盛の終端を越えた。


 針は金属製の留め具へぶつかり、細かな振動を繰り返している。


「主錘、制限速度の四倍!」


 ヘルガ=ツァーンが叫んだ。


 床下から伝わる震動は、もう機械の正常な回転ではなかった。巨大な重量錘が中央重量錘坑を落下し、その力が鎖、歯車、梁、床板へ次々と渡り、時計塔全体を内側から打ち続けている。


「主制御輪は解放されたんでしょう!」


 ミラベルは、塔上部へ続く階段を見上げた。


「解放されたからだ!」


 ヘルガは調速弁へ両手を掛けたまま答えた。


「十三分間、固定爪へ押し込められていた力が、一度に通常機構へ戻っている! 補正輪だけでは受け止められん!」


 塔の中央から、巨大な鎖が引き裂かれるような音が上がった。


 ギャァァン――。


 石床が一度跳ね、壁面へ掛けられていた時計の一つが外れた。


 玻璃が床へ落ちて砕ける。


 それでも、針だけは数秒間動き続けた。


「機械式制動は」


 エドガー=クラウスが訊いた。


「今、噛ませれば制動歯ごと吹き飛ぶ」


 ヘルガの返答は速かった。


「歯が飛べば、主錘を支えるものがなくなる。塔の下まで落ちるぞ」


 モルガ=ブラスは、制御盤へ並んだ圧力表示を左から右へ追っていた。


 交通系統は切断済み。


 契約認証系統は停止。


 記録線だけが、なお大陸各地へ紙を送り続けている。


 だが、それらを動かしていた力は消えたのではない。


 行き先を失い、中央機構へ集中していた。


「中央坑の保守橋は」


 モルガが尋ねた。


「もたない」


 ヘルガは即答した。


「主制御輪が戻った衝撃で、上部支持梁の荷重が規定の倍を超えた。次の振動で、どこから折れるか分からん」


 ミラベルの視線が、また階段へ向かう。


 レオンは、その保守橋の上にいる。


 ノクスも。


「ほかの制動は?」


 グレアム警部が問う。


「ない」


「探せ」


「最後の一つならある」


 ヘルガは言葉を切り、統制室の壁際を見た。


 そこには、赤い鉄蓋が取り付けられている。


 式典中は金色の幕で半ば隠されていたため、来賓の多くは、それが設備の一部であることさえ知らなかった。


 蓋へ刻まれた警告文。


> 緊急水圧制動

> 作動後、中央機構全損を想定せよ


 屋上の制動水槽。


 中央重量錘坑へ大量の水を落とし、暴走する重量錘へ直接ぶつけ、水の抵抗によって速度を奪うための最後の安全装置。


 建設以来、一度も実作動したことはない。


「開けば」


 ヘルガが言った。


「重量錘と歯車は止まる可能性が高い」


「可能性?」


「実際に動かした者はいない」


「代わりに何が壊れる」


「中央歯車列。振子軸。重量錘の案内軌道。上層の保守橋。水が第三層まで回れば、記録印字機も止まる」


「原簿の送信は」


 エドガーが通信係へ尋ねた。


「終端まで、あと二十二行!」


「何秒だ」


「現在の送信速度なら、十六秒です!」


 圧力管の継手が一つ弾けた。


 鋭い金属音とともに、白い蒸気が天井へ噴き上がる。


 技師たちが身を伏せる。


 ミラベルは保守伝声管へ駆け寄り、受話口を取った。


「レオンさん!」


 返答はない。


 管の向こうから聞こえるのは、歯車の軋みと、強い夜風、それに金属片が鉄格子の床を転がる音だった。


「レオンさん、聞こえますか!」


「主伝声管が外れかけている」


 ヘルガが言った。


「こちらの声は上へ届かん」


 ミラベルは受話口を置いた。


 躊躇せず、階段へ向かう。


 グレアムがその腕をつかんだ。


「俺も行く」


「止めません」


「俺から離れるな」


「それはレオンさんの台詞です」


「なら、今度こそ聞け」


 二人は上層階へ走った。


     *


 モルガは、緊急水圧制動の封印錠へ鉄槌を振り下ろした。


 一度。


 錠の表面がへこむ。


 二度。


 封印軸へ亀裂が入る。


 三度目で、古い封印が砕けた。


 赤い蓋を跳ね上げる。


 内部から、両腕で引くほど太い黒鉄の作動レバーが現れた。


「夫人」


 ヘルガが呼んだ。


「開けば、この塔の中央機構は終わる」


 モルガはレバーへ手を置いたまま、壁に掲げられたブラス重工の記章を見た。


 全西方標準時網。


 商会が長年の技術と資金を注ぎ込み、今夜の完成式典で文明の象徴として称賛された設備。


 時計塔の機械が壊れれば、ブラス重工の信用も、技術者としての評価も、完成事業に投じた巨額の費用も失われる。


 その塔の上には。


 まだ二人の人間がいる。


「記録線の終端まで」


 エドガーが訊いた。


「あと十四行!」


「何秒」


「十秒!」


 ヘルガは主錘圧力計を見た。


 赤い指針が留め具を叩き続けている。


 鉄の縁には、すでに細い亀裂が走っていた。


「待てん」


 モルガが言った。


「原簿の複製は、あとからやり直せます」


「すでに各地へ届いた分もある」


 エドガーが答えた。


「原本も残っています」


 モルガは黒鉄のレバーを握り直した。


「落ちた人間は、造り直せない。開けます」


「責任は」


 エドガーが言った。


「私も負う」


 モルガが彼を見る。


「中央記録庁としてですか」


「兄としてもだ」


 答えは短かった。


 それ以上の言葉を加える時間はない。


 モルガは両手でレバーを引いた。


     *


 最初に響いたのは、水音ではなかった。


 塔の屋上で、制動水槽を閉ざしていた巨大な水門が、四十三年間の錆を砕きながら持ち上がる音だった。


 ゴォン。


 大時鐘塔の鉄骨が、上から下まで一斉に震える。


 続いて、水門へ力を伝える太い鎖が引かれた。


 ガラガラガラ――。


 一つ目の安全栓が外れる。


 ガン。


 二つ目。


 ガン。


 三つ目。


 ガン。


 次に、水門歯車が半回転し、内部へ残っていた圧力を逃がす弁が開いた。


 シュゥゥゥ――。


 それまで警報と歯車音に満ちていた塔が、一瞬だけ静かになった。


 大時鐘塔そのものが、これから内部へ落とすものの重さを測るように、わずかに内側へ縮む。


 そして。


 屋上水槽の水が落ちた。


     *


 時計盤裏で、レオンが最初に感じたのは風向きの変化だった。


 外周保守橋を横切っていた夜風が止まる。


 代わって、時計盤上部から中央重量錘坑へ向かい、空気そのものが強く吸い込まれ始めた。


 外套の裾が坑の方向へ引かれる。


 髪が持ち上がる。


 歯車の隙間へ残っていた蒸気まで、上から下へ流れていった。


 ノクスも気づいた。


 二人は主制御輪を挟み、互いの杖を構えたまま同時に顔を上げた。


「水槽か」


 ノクスが言った。


「モルガだ」


 レオンが答える。


「君の商会主は、思い切りがよい」


「お前が試した」


「彼女が選んだ」


「またそれか」


 暗い塔内の上方から、黒い水柱が落ちてきた。


 最初は、屋上の闇を貫く一本の線に見えた。


 それが近づくにつれて幅を増し、周囲の空気と蒸気を巻き込みながら、中央重量錘坑の全幅を満たしていく。


 ドォォォォォ――。


 滝よりも重く。


 崩落よりも長い轟音。


 水柱は、落下中の巨大重量錘へ正面から直撃した。


 真鍮と鋼鉄で造られた塊が、数百トンの水圧を受けて大きく揺れる。


 中央鎖が張り詰めた。


 塔の上層から地下までを貫く鎖が、一瞬、一本の巨大な弦となって振動し、その衝撃が梁と壁を伝って時計盤裏へ届く。


 重量錘の落下速度が目に見えて鈍る。


 だが、その代わりに、錘へ衝突した水が四方へ砕けた。


 歯車の隙間。


 軸受け。


 保守孔。


 壁の継ぎ目。


 機械が持つあらゆる空間から、白い水が噴き出す。


 レオンの肩へ横から水圧がぶつかった。


 身体が手摺へ押しつけられる。


 ノクスの黒い外套は一瞬で水を吸い、重く身体へ張りついた。


 中央歯車は回転しながら水を細かな飛沫へ砕き、その下で灼けていた金属へ冷水が触れると、白い蒸気が爆発するように膨らんだ。


 視界が消える。


 次の瞬間、強風が蒸気を払い。


 また新しい水が押し寄せる。


 時計盤裏は、一瞬ごとに見えたり消えたりする巨大な滝の内部へ変わった。


 乳白色の玻璃文字盤には、内側から厚い水膜が流れている。水越しの街灯は縦に引き伸ばされ、赤、黄、白の光が溶け合い、黒い数字も歯車も鎖も、輪郭を失って揺れていた。


 玻璃の向こうに見える中央駅では。


 小さな赤灯が、なお線路脇で振られている。


 塔の中が水へ沈み始めても。


 街では、人間が列車を止め続けていた。


「主制御輪から離れろ!」


 レオンが叫んだ。


 自分の声の半分以上が水音へ奪われる。


 ノクスは聞こえたはずだった。


 それでも、解放された固定爪へ手を伸ばす。


「まだ触る気か!」


「終了記録が確定していない!」


「原簿の複製は完了した!」


「すべての記録ではない!」


「完全な記録などない!」


 ノクスの左手が固定爪へ届く。


 レオンは水流を横切り、その手を杖で払った。


 黒檀杖が応じる。


 二本の杖が、一度だけ激しくぶつかった。


 濡れた木が滑る。


 レオンの杖は手を離れ、鉄格子の上を水に押されて流される。


 ノクスの黒檀杖も、反対方向へ弾かれた。


 杖は回転する歯車へ巻き込まれ、中央から折れた。


 黒い破片が白い水へ消える。


 もう、二人の間に武器はなかった。


 保守橋を横切る水は足首を越え、膝へ達しようとしている。橋は排水路ではなく、格子の隙間から落ちる量より、上部から流れ込む量の方が多かった。


 水は橋面を一つの川に変え、工具、鉄楔、切れた鎖、木片を中央重量錘坑へ運んでいく。


 レオンはノクスの外套をつかみ、主制御輪から引き離した。


 二人の身体が、水に覆われた格子へ倒れ込む。


 その下で、保守橋の支持梁が大きく曲がった。


     *


 グレアムとミラベルが第七層へ到着したとき、時計盤裏の保守橋はすでに崩れ始めていた。


 上層へ続く石段を、水が流れ落ちてくる。


 初めは細い筋だったものが、二人が数段上るうちに階段全体を覆い、靴底を下へ押し戻すほどの流れへ変わった。


「壁際を行け!」


 グレアムがミラベルの腕をつかみ、内壁側へ引く。


 上から工具箱が一つ流れてきた。


 階段の角へぶつかり、蓋を開きながら何段も跳ねて、下層へ消える。


「水圧制動は、塔全部を水没させる装置なんですか!」


「警察学校で滝の捜査は教えん!」


「自慢することではありません!」


「口が動くなら足も動かせ!」


 二人は水をかき分け、鐘楼へ続く鉄扉へ到達した。


 扉は上からの水圧で閉じかけている。


 グレアムが肩を入れ、全身で押し返す。


「先に行け!」


 ミラベルは開いた隙間へ身体を滑り込ませた。


 鐘楼には、歯車の隙間から水が雨のように降っていた。


 十二の時刻鐘。


 中心の大鐘。


 打鐘鎚。


 鋼索。


 そのすべてが水煙の中へ沈んでいる。


 大鐘の内部へ大粒の水滴が落ちた。


 ゴォン。


 鐘が打たれたのではない。


 水が内側から鐘を叩き、低い反響を生んだ音だった。


「レオンさん!」


 ミラベルが上へ向かって叫ぶ。


 返事はない。


 水。


 蒸気。


 歯車。


 梁が軋む音。


 その中に、人の声は聞こえなかった。


 グレアムが追いつく。


「時計盤裏へ上るぞ!」


「橋は」


「まだ見えん!」


 見えない。


 無事なのか。


 崩れているのか。


 レオンがいるのか。


 すでに落ちたのか。


 確認できる事実は、水圧制動が作動したことと、二人が塔上部にいたことだけだった。


 二人が上段の鉄扉へ近づいたとき。


 その向こうから、鉄の鋲が弾ける音が続けて聞こえた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 保守橋と塔壁をつなぐ継ぎ目が、水圧と振動を受けて、少しずつ外れ始めていた。


     *


 中央重量錘坑へ落ちる水は、巨大な錘へぶつかり、歯車へ砕かれ、灼けた軸受けと蒸気管を冷やし続けていた。


 水と金属の温度差から生まれた蒸気が、時計盤裏を何度も白く塗り潰す。


 その中で、保守橋は少しずつ形を失っていた。


 最初に、外周側の手摺を支える鋲が一本飛んだ。


 次に、中央重量錘坑側の支持梁が下へ曲がる。


 橋面へ数センチの段差が生まれ、水はそこへ集まり、落下する勢いを増して格子を押した。


 さらに梁が曲がる。


 橋と塔壁の継ぎ目が開く。


 工具が一つ、その隙間へ吸い込まれる。


 切れた鎖。


 鉄楔。


 折れた杖の一部。


 すべてが流れへ呑まれ、底の見えない坑へ落ちていった。


 レオンは残った手摺へ片腕を掛けた。


 反対側では、ノクスが片膝をつき、濡れた格子を右手でつかんでいる。


 二人の間を、白い水が途切れなく流れ続ける。


「壁側へ移れ!」


 レオンが叫んだ。


 ノクスは水を吐き、顔を上げた。


「時刻は終わる」


「なら、下で続きを話せ」


「君は」


 濡れた髪の間から、教授が笑う。


「最後まで、私の記録を不完全にする」


「自分で書け」


 その瞬間。


 橋の支持梁が折れた。


 バキン。


 水音の中でも、はっきりと聞こえた。


 橋の外周側が一気に落ち、床が垂直に近い角度へ傾く。


 格子の上に残っていた工具、鎖、鉄楔、木片が一斉に中央重量錘坑へ滑り始める。


 レオンは手摺へ腕を絡めた。


 ノクスは格子をつかんだまま身体を支えようとする。


 しかし、水を吸った黒い外套が下へ引かれ、濡れた指が格子から少しずつ滑った。


 一本。


 また一本。


 指が外れる。


 ノクスの身体が橋の端を越えた。


 教授は手摺へ右腕を伸ばした。


 届かない。


 足元には、何もない。


 薄紫の瞳が、一瞬だけレオンを見た。


 助けを求める目ではなかった。


 落ちていく自分自身さえ、遠い記録の一項目として観測するような目だった。


 レオンは考えなかった。


 手摺へ掛けていた腕を外し、傾いた格子へ腹から身体を打ちつけながら腕を伸ばす。


 ノクスの左手首をつかんだ。


 落下の衝撃が、肩から背中へ突き抜ける。


 腕が抜ける寸前まで引かれ、レオンの身体も橋の縁へ滑った。


 空いている左手で、橋へ残された保守鎖をつかむ。


 鎖輪が濡れた掌へ深く食い込み、裂けていた傷をさらに開いた。


     *


 ノクスは宙にいた。


 レオンがつかんだ左手首から、教授の足先までは、人一人分以上の距離がある。


 足元には中央重量錘坑。


 百メートルを超える暗い縦穴の中を、巨大な水柱が落ち続けている。


 水の中には、工具、鎖、折れた格子、機械の破片が混じり、激しく揺れる重量錘の周囲で渦を作っていた。


 水を吸った外套は、布ではなく錘のように教授の身体を下へ引いている。


 その全重量が。


 レオンの右手。


 肩。


 背中。


 そして左手でつかむ一本の保守鎖へ掛かっていた。


 濡れた袖が滑る。


 レオンは、布ではなく手首の骨そのものをつかみ直す。


 生きた人間の体温。


 脈。


 皮膚の下にある重さ。


 思想でも。


 記録でも。


 犯罪者という分類でもない。


 ノクス=モリアン一人の身体が、レオンの腕を引いている。


「離せ!」


 ノクスが叫んだ。


 轟音に負けないよう、喉を張り上げる。


「君まで落ちる!」


「黙れ!」


「なぜ、つかむ!」


「落ちたからだ!」


 ノクスは目を見開いた。


 その答えには、論理も計画もなかった。


 落ちた者がいた。


 手が届いた。


 だからつかんだ。


 教授は水に濡れた顔で笑った。


 喜んでいるのではない。


 最後に残った仮説が、予想どおり証明された者の笑みだった。


「やはり君は、私まで記録へ戻そうとする」


「黙って戻れ」


 レオンの返答は、それだけだった。


 右手の指が、ノクスの手首から少しずつ滑る。


 肩には、引き裂かれるような痛みが走っている。


 左手へ食い込む鎖輪は、掌の肉を切り、血と水でますます滑りやすくなっていた。


「右手を伸ばせ!」


 レオンが叫ぶ。


「保守鎖をつかめ!」


「距離がある」


「俺の腕でもいい!」


「君は、人間へずいぶん期待するようになった」


「お前には期待していない!」


「それでも離さない」


「早くしろ!」


 ノクスは、空いている右手を上げた。


 レオンの腕へ。


 あるいは、その横で激しく揺れている保守鎖へ。


 どちらへ伸ばそうとしたのか。


 その指が届くより先に。


 鎖の上部から、乾いた音がした。


     *


 グレアムとミラベルが時計盤裏へ続く鉄扉へ到着したとき、保守橋は塔壁から半ば外れていた。


 水煙の向こう。


 傾いた橋の先に、レオンの背中が見える。


 腹ばいになり。


 片腕を坑の外へ伸ばし。


 もう一方の手で、切れかけた保守鎖をつかんでいる。


 その下には、ノクスの黒い影。


「レオン!」


 グレアムが叫んだ。


 橋へ踏み出そうとする。


 その足元で、格子の一枚が外れた。


 鉄板が回転しながら中央坑へ落ちていく。


「動くな!」


 警部は足を止め、安全索を腰から外そうとした。


「索を固定する場所がない!」


 ミラベルはグレアムの横から、レオンを見た。


 水。


 蒸気。


 崩れる鉄。


 その向こうで。


 レオンも顔を上げた。


 二人の視線が、一瞬だけ合った。


 戻る。


 レオンはそう約束した。


 記録ではなく。


 今ここにいるミラベルへ向けた言葉として。


 レオンの口が動いた。


 何を言ったのか、声は水音へ消えて聞こえない。


 謝ったのか。


 もう一度、約束したのか。


 何も言わず、息を吐いただけなのか。


 ミラベルには分からなかった。


 ただ。


 彼が自分を見たことだけは分かった。


「レオンさん!」


 ミラベルが一歩進む。


 グレアムが腰へ腕を回し、引き戻した。


「離してください!」


「橋がない!」


「まだあります!」


「次で全部落ちる!」


「レオンさんが!」


「分かっとる!」


 一本目の鎖輪が割れた。


 レオンの身体が、さらに橋の外へ引かれる。


 格子へ掛けていた膝が滑る。


 二本目。


 鎖の支点が外れ、残った輪が急に長く伸びた。


 レオンとノクスの身体が、ともに一段下がる。


 それでも、レオンはノクスの手首を離さない。


「安全索を投げろ!」


 グレアムが背後の警官へ怒鳴る。


 索が運ばれる。


 固定環を探す。


 だが、橋を支えていた環そのものが水圧で歪み、金具を掛けられない。


「レオン、左へ振れ!」


 グレアムが叫ぶ。


「塔壁側の梁へ索を――」


 三本目の鎖輪が切れた。


     *


 保守鎖が落ちた。


 支えを失ったレオンの身体が、橋の外へ投げ出される。


 それでも。


 ノクスの手首を離さなかった。


 二人の姿が、一瞬だけ白い滝の前へ並んだ。


 黒い外套。


 濡れた髪。


 下へ伸びた二本の身体。


 一方の腕は、もう一方の手首をつかんでいる。


 片方が片方を救っているのか。


 片方が片方を引きずり落としているのか。


 その瞬間だけを切り取れば。


 誰にも判別できない像だった。


「レオン!」


 グレアムが叫ぶ。


 二人は中央重量錘坑へ落下した。


 まっすぐではない。


 屋上から落ちる水柱は、巨大重量錘へ衝突して四方へ砕け、塔の内部へ複数の渦を作っている。


 二つの身体は白い飛沫に巻き込まれ、一度、中央鎖の脇へ流された。


 黒い影が見える。


 二つ。


 あるいは、重なった一つ。


 次の瞬間。


 灼けた歯車へ水が触れ、噴き上がった白い蒸気が坑全体を覆った。


「レオンさん!」


 ミラベルの声が、滝へ吸い込まれる。


 返答はない。


 何かへ衝突した音も。


 落下の終わりを告げる音も。


 聞こえなかった。


 水。


 蒸気。


 高速で落ちる機械部品。


 激しく揺れる重量錘。


 途中へ設けられた複数の制動棚。


 その下で枝分かれする旧排水路。


 二人がどこへ流されたのか。


 底まで落ちたのか。


 制動棚へ引っ掛かったのか。


 地下排水路へ押し流されたのか。


 何も確認できない。


 グレアムは、ミラベルを片腕で支えながら、坑の奥を見た。


「下層へ連絡!」


 背後の警官へ怒鳴る。


「第五層、第四層、地下排水路! 退避を確認しながら、捜索班を入れろ!」


「水が止まっていません!」


「安全索を使え! 制動棚を上から順に調べろ! 排水路側にも人を回せ!」


「警部」


 ミラベルが言った。


 声が震えている。


「二人が、どこへ落ちたか見えましたか」


 グレアムは、すぐには答えなかった。


 二人が坑へ落下したところは見た。


 水へ巻き込まれた影も見た。


 だが、その先は蒸気と飛沫が隠した。


 底へ到達したのか。


 途中で何かへ衝突したのか。


 水路へ流されたのか。


 何一つ確認できていない。


「落下した」


 グレアムは言った。


 確認できた事実だけを。


「二人とも、中央重量錘坑へ落下した」


「そのあと」


「見えん」


「生死は」


 グレアムは、今度は迷わなかった。


「確認できない」


 死亡とは言わなかった。


 遺体はない。


 致命傷を確認した者もいない。


 今、記録できるのは。


 二人が滝と蒸気の中へ消えたことだけだった。


     *


 大振子坑の滝は、なお落ち続けていた。


 屋上水槽から放たれた水が、重量錘の速度を奪い、灼けた歯車を冷やし、時計塔の内部を壊していく。


 中央鎖の振動は次第に弱くなり、暴走していた重量錘も少しずつ速度を失っていた。


 その代わり。


 四面時計の乳白色の玻璃板には、内側から幾筋もの水が流れている。


 街灯は水膜の向こうで歪み。


 巨大な黒い数字は、形を失いながら揺れていた。


 クロック=ベルンの市民には。


 時計盤全体が、涙を流しているように見えたかもしれない。


 だが。


 塔の内側にいる者たちは知っている。


 あれは涙ではない。


 都市を止めるため。


 機械を壊すために放たれた水だ。


 そして。


 その水の中へ。


 一人の探偵と。


 一人の教授が消えた。


 標準時統制室の記録時計は、水膜の向こうで滲みながら、


> 13 : 13 : 00


 を示していた。


 秒針は、まだ次の一秒へ進んでいない。

観測余録 安かった理由


 その店では、料理が安く売られていました。


 肉を減らしていたわけではありません。


 豆も、パンも、きちんと使っていました。


 店主が客を騙していたわけでもなく、帳簿へ嘘を書いていた者もいませんでした。


 ただ、三都市前の決まりと、今いる都市の決まりが、同じ店の中で一緒に使われていました。


 以前は興行団が払っていたものを、いまは店主自身が払っている。


 けれど、店主だけがその変更に気づかず、昔と同じ値段で、昔と同じサービスを続けていました。


 そのため、一皿売れるたびに客は少し得をして、店主は少し損をしました。


 たくさん売れた日は、たくさん儲かった日ではありませんでした。


 たくさん損をした日でした。


 人は、安いものを見ると、つい喜んでしまいます。


 けれど、一人の女主人だけは、値札を見て最初にこう考えました。


 この安さを、誰が払っているのだろう。


 答えは、店主でした。


 本人だけが、そのことを知らなかったのです。


 だから彼女は、一銅貨だけ値段を上げました。


 客が来られる値段と、店が明日も続けられる値段。その間を探しました。


 たぶん商売とは、誰か一人だけが得をする数字を見つけることではなく、明日も同じ鍋を火に掛けられる数字を探すことなのかもしれません。


 その夜、《笑う鍋亭》は一銅貨値上げしても、最後まで客が途切れませんでした。


 どうやら、安さだけで選ばれていた店ではなかったようです。


 ――ナミ=エル

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