第14節 ― 時計盤の外側
観測余録 まだ書かれていない頁
本には、最初の頁と最後の頁があります。
そして、ときどき人は、そのあいだにまだ書かれていない頁があるように考えます。
明日の天気。次に出会う人。失うもの。手に入るもの。まだ起きていない出来事を、先に一行だけでも読めたならと願うのでしょう。
けれど、未来について書かれた紙も、紙そのものまで未来から来るとは限りません。
それがどこで作られ、何を印刷され、誰の手を渡り、何度捨てられそうになったのか。
古書店主は、そこに書かれた未来を読むより先に、その紙が持っている過去を見ました。
たぶん彼にとっては、まだ起きていない出来事より、すでにそこに残っている痕跡の方が、ずっと確かな文章だったのでしょう。
――ナミ=エル
螺旋階段の上から、金属を打つ音が落ちてきた。
ガン。
数秒の間を置いて。
ガン。
時計の刻みではない。
工具の石突きで、鉄の楔を打ち込む音だった。
レオン=クラウスは手摺をつかみ、二段ずつ階段を駆け上がった。
塔の内壁を、蒸気管が激しく震えている。
青い交通信号線を切断したことにより、上層から送り込まれる補正圧は行き場を失い、旧機構の継手と制御輪へ逆流していた。
階段脇の記録窓には、
> 《第十三時》、残り四十五秒
と表示されている。
数字が一つ減る。
そのたびに、上から楔を打つ音が降りてくる。
ガン。
残り四十一秒。
ノクス=モリアンは、終わろうとしている異常時刻を、主制御輪へ固定しようとしていた。
レオンは最上層の鉄扉へ肩からぶつかった。
扉が外側へ開く。
夜風が、塔内の熱と蒸気を一度に押し返した。
*
時計盤裏に、ノクスの姿はなかった。
乳白色の巨大な玻璃盤。
人の背丈を超える黒い数字。
時針と分針を動かす二本の太い軸。
十三段の補正計数輪。
高速で回転する調速歯車。
先ほどまでと同じ機構が、同じ場所で動いている。
だが、その音は変わっていた。
本来なら補正終了へ向けて軽くなるはずの歯車が、何かに引き止められ、低く軋んでいる。
主制御輪から一本の鎖が上へ伸び、外周保守路へ続く小扉の向こうへ消えていた。
レオンは制御輪へ近づいた。
鉄輪の外周に新しい打撃痕が三つある。
本来なら、補正計数輪が十三段目へ達した時点で外れる固定爪。その脇へ鉄楔が差し込まれ、停止位置の手前まで押し込まれていた。
完全には噛んでいない。
あと一段。
固定爪が楔に押されて溝へ落ちれば、補正計数輪が最後まで進んでも、主制御輪は通常位置へ戻らない。
時計塔は、《第十三時》を示したまま噛み込む。
「下では、ずいぶん美しい分類を作ったようだね」
夜風の向こうから、ノクスの声がした。
レオンは外周扉へ目を向ける。
扉の先には、四面時計の石枠へ沿うように、細い保守橋が延びていた。
幅は、人がすれ違えるかどうか。
手摺は腰ほどの高さしかない。
足元は鉄格子で、その隙間から百メートル下の街が見える。
中央駅の煤けた玻璃屋根。
動きを止めた二本の列車。
霧の中を走る人影。
線路脇やホームで振られる、いくつもの赤い灯り。
遠くの工場区では、時刻信号を失った煙突の非常灯が、まばらに明滅している。
巨大な時計盤の下で。
都市は、もう一つの塔から送られる時刻だけを見てはいなかった。
ノクスは保守橋の先、主制御輪へつながる昇降鎖の前に立っていた。
強風にあおられる黒いフロックコート。
右手には黒檀の杖。
左手には、先端を細く削った保守用の鉄楔。
「《不正時刻帯》」
教授は、その言葉を味わうように繰り返した。
「存在したことは認める。だが、時刻としての効力は与えない」
「事件を残した」
「契約は認めなかった」
「認めるかどうかは、これから一件ずつ調べる」
「結局は、君の兄と制度が決める」
ノクスは鉄楔を鎖の固定穴へ当てた。
黒檀杖の石突きが、その頭を打つ。
ガン。
張り詰めた鎖が震え、時計盤裏の主制御輪が、わずかに固定位置へ近づいた。
記録窓の数字も減る。
> 《第十三時》、残り三十四秒
レオンは外周橋へ踏み出した。
鉄格子が足の下で震え、強風が外套を塔の外側へ引く。
「それ以上打つな」
「止めるのかね」
「そのために戻った」
「では、来たまえ」
ノクスは黒檀杖を横へ構えた。
拳銃も、刃物もない。
だが、回転する歯車。
張り詰めた鎖。
足元へ散らばる工具。
腰までしかない手摺。
橋の下に開く夜。
この場所では、時計塔そのものが十分な武器だった。
*
ノクスが先に動いた。
黒檀杖の先端が、レオンの顔ではなく足元へ向かう。
石突きが鉄格子を打った。
甲高い音。
視線が反射的に下がった瞬間、教授の左手から鉄楔が飛ぶ。
レオンは顔を傾けた。
楔が頬をかすめ、背後の文字盤を支える木枠へ突き刺さった。
「探偵の目は」
ノクスが一気に間合いを詰める。
「見えるものへ引かれすぎる」
黒檀杖が脇腹へ入った。
レオンは自分の杖を横にして受ける。
内部に鋼芯を持つ二本の杖が、鈍い音を立てた。
衝撃が掌から肩へ走る。
「犯罪者の言葉は」
レオンは杖を滑らせ、ノクスの手首へ絡める。
「聞かせたいものが多すぎる」
捻る。
ノクスは杖を奪われまいと抵抗しなかった。
自分から手を放す。
黒檀杖が格子へ落ちた。
その代わり、教授は足元の工具箱を蹴った。
蓋が開き、鉄槌、締付棒、油差し、予備鎖、歯車止めが保守橋へ散らばる。
円筒形の軸抜き工具が、レオンの靴底へ転がった。
足が滑る。
身体が手摺の外へ傾く。
眼下に、街の灯りが大きく開いた。
ノクスはレオンの胸元へ腕を伸ばした。
押し落とすためではない。
外套の襟をつかみ、時計盤側へ強く引く。
レオンの背が木枠へ激突した。
「落とさないのか」
肺から息を押し出しながら、レオンが言った。
「まだ答えを聞いていない」
「講義熱心だな」
「優秀な学生にはね」
レオンは杖の石突きで、工具箱の留め金を叩いた。
底板が外れ、残っていた重い部品がノクスの足元へ落ちる。
教授の身体が、ほんの一瞬止まった。
レオンは襟をつかむ腕の内側へ杖を差し入れ、肘を押し上げる。
ノクスの手が外れた。
続いて、杖の中央を教授の胸へ当て、時計盤から引き?がすように押す。
ノクスが二歩下がった。
三歩目を置くはずの鉄格子の下から、巨大歯車の歯がせり上がる。
教授は足を置かなかった。
手摺へ片手をつき、身体を浮かせる。
歯車の歯が靴底の直下を通り過ぎた。
そのまま手摺の上で身体を返し、レオンの背後へ着地する。
「見た目より身軽だな」
レオンが振り返る。
「君は、見た目より鈍い」
「傷が増えた」
「年齢の話ではない」
ノクスは床へ落ちた長い調整棒を拾った。
歯車の穴へ差し込むための先端が、レオンの胸へ突き出される。
半身で避けた。
鉄棒が外套を裂き、脇腹へ熱い線を残す。
レオンは棒の軸を杖で押さえ、手摺との間へ挟んだ。
二人の力が一本の鉄棒を介してぶつかる。
互いだけを見てはいない。
レオンは、背後で回る分針軸の周期を数えている。
ノクスは、格子の下から次に歯車が現れる場所へ足を置かない。
レオンが杖を押し込めば、教授は制御鎖の張力を使って受ける。
ノクスが棒を引けば、レオンは塔を揺らす風に身体を預け、相手の力を外側へ逃がす。
二人は相手の身体だけでなく。
時計塔の回転。
風。
鎖。
足場。
次に動く歯車まで読んでいた。
その下で、補正計数輪が一段進む。
ガチリ。
固定爪が、楔へ押されて軋んだ。
*
「君は」
ノクスが調整棒を押しながら言った。
「真実を管理できる兄を認めた」
レオンは棒を押し返す。
「認めていない」
「彼の印章がなければ、《不正時刻帯》は行政記録にならなかった」
「今回は同じ側に立っただけだ」
「モルガ=ブラスも?」
「あの女は、自分の機械を壊した」
「自家の利益へつながる記録も残った」
「だから、これから責任を取らせる」
「信じるのか」
「信じない」
レオンは言った。
「残して、見張る」
ノクスの薄紫の瞳が細くなる。
「制度も、兄も、商会も?」
「必要なら新聞も、警察も、探偵もだ」
「自分まで疑うのかね」
「自分だけ外へ置く方が危険だ」
ノクスは突然、調整棒から手を離した。
抵抗を失ったレオンの身体が前へ出る。
教授はその脇を抜け、鎖の固定穴へ走った。
床から新しい楔を拾う。
レオンは手摺へ肩をぶつけながら杖を振った。
石突きがノクスの足首へ当たり、教授が片膝をつく。
鉄楔が格子を転がった。
ノクスは膝立ちのまま、床の予備鎖をつかむ。
鎖が鞭のように走り、レオンの杖へ巻きついた。
一気に引かれる。
杖が手から離れ、鉄格子の上を滑った。
ノクスは鎖の反対側を、回転する歯車へ投げ込む。
輪が歯へ噛まれた。
鎖が瞬時に巻き取られ、レオンの杖が浮き上がる。
教授が鎖を引く。
杖は振り子のように弧を描き、レオンの顔へ飛んだ。
身を伏せる。
杖が時計盤の木枠へ激突し、破片を飛ばした。
戻ってくる杖を避けるため、レオンは手摺へ片脚を掛けた。
身体の半分が時計盤の外へ出る。
眼下。
中央駅の玻璃屋根。
停止した列車。
線路脇で赤灯を振り続ける人間たち。
時計塔の巨大な針を見上げる市民。
彼らから、二人の姿は見えない。
見えるのは、時刻を示す黒い針と、その下で動く小さな赤い光だけだった。
時計が命令を誤っても。
人間の灯りは、まだ正しい停止を告げている。
杖が再び飛んでくる。
レオンは両手でつかんだ。
衝撃で掌の皮が裂ける。
鎖の向こうでは、ノクスと巨大歯車が同じ方向へ引いている。
「放せば、杖だけで済む」
ノクスが言った。
「親切だな」
「君を殺すことが目的ではない」
「自分が挟まれないことを考えろ」
レオンは杖を引き戻さなかった。
反対に、歯車の回転方向へ押し込む。
鎖が一瞬たるみ、ノクスの身体が前へ崩れた。
その隙に、レオンは杖を鎖から抜く。
自由になった鎖だけが、歯車へ吸い込まれていく。
ガラガラガラ――。
ノクスは鎖の端を放した。
遅かった。
輪の一つが、左手袋の留め金へ引っ掛かる。
教授の腕が歯車へ引かれた。
一瞬。
レオンは、主制御輪へ続く固定鎖を見た。
残り時間。
楔。
ノクスの手。
ここで何もしなければ、教授の左手は次の歯へ巻き込まれる。
その間に固定爪へ走ることもできる。
敵の手を犠牲にすれば、《第十三時》を止める時間を得られる。
レオンは杖を振った。
教授ではなく。
鎖と手袋の間へ。
石突きを差し込み、全体重を掛けて捻る。
革の留め金が裂けた。
黒い手袋だけが鎖へ残り、歯車の奥へ消える。
ノクスの裸の左手が自由になった。
掌には、古い火傷のような白い痕がある。
教授はその手を見た。
次に、レオンを見る。
「助けたのかね」
「お前が挟まれれば、歯車まで壊れる」
「主制御輪へ走る機会を捨てた」
「壊れた部品が制御輪へ噛めば、解除できない」
「実用的な理由か」
「不満か」
「いや」
ノクスは裸の左手を軽く開いた。
薄い笑みが戻る。
「君らしい言い訳だ」
「礼ならあとで聞く」
「言うとは約束していない」
「なら黙っていろ」
*
補正計数輪が終了位置へ近づいている。
固定爪も、鎖に引かれて少しずつ溝へ沈んでいた。
ノクスはレオンへ向かわなかった。
外周橋の手摺を越え、時計盤の正面へ飛び出す。
巨大な黒い分針。
人一人の靴幅より、わずかに広いだけの鉄骨へ着地した。
分針は、通常時計の午前零時十二分を指している。
ノクスはその上を走り、時計盤中央の回転軸へ向かった。
そこから主制御輪の固定鎖へ手を伸ばすつもりだった。
「逃げるのか」
レオンも手摺を越える。
「目的地は同じだ」
分針へ足を置いた瞬間、下から強い夜風が吹き上げた。
二人分の重さを受け、鉄の針が低く軋む。
文字盤の内側。
時刻を作る機械の場所ではない。
市民が時刻を見上げる側。
時計盤の外側へ、二人は出ていた。
左右には何もない。
前には時計盤中央の黒い軸。
背後には外周橋。
下には、街の灯りと霧。
赤灯を持った駅員たちは、線路脇でなお動かずにいる。
小さな赤い光が、時計盤の下で一列に並んでいた。
あの人々は、時計塔の針ではなく、互いの灯りを見て列車を止めた。
レオンは杖を横へ伸ばし、ノクスの足へ掛ける。
教授は固定鎖から片手を離し、杖をつかんだ。
引く。
レオンの片足が分針から外れた。
身体が夜空へ傾く。
杖の石突きを分針の骨組みへ差し込み、横木にする。
片腕で全体重を支える。
脇腹の傷が開き、掌の裂けた部分へ鋼芯の振動が食い込む。
ノクスは、そのまま鎖へ戻ろうとした。
レオンが杖を捻る。
今度は教授の足が分針から外れた。
ノクスが固定鎖へぶら下がる。
二人とも、時計盤の外。
夜空と街の間へ浮いていた。
「非効率だね」
ノクスが息を弾ませる。
「お前が始めた」
「君が追ってきた」
「止める以外の選択肢を消したからな」
「それでも、君は来た」
「来ると分かっていたから、お前は残った」
「人間の理解だよ」
「また責任を逃がすのか」
レオンは腕へ力を込め、分針へ身体を戻した。
ノクスも鎖を上り、針の上へ降りる。
その瞬間。
時計盤の内側から、巨大な衝撃が伝わった。
ガァン。
分針が大きく揺れる。
固定爪が、また一段深く噛んだ音だった。
鎖の張力だけで、鉄楔が固定穴へ入り続けている。
あと一段。
レオンとノクスは同時に時計盤裏を見た。
「時間がない」
ノクスが言った。
「お前にもな」
二人は反対側から外周橋へ戻った。
*
レオンは主制御輪へ走る。
ノクスが横から入る。
肩がぶつかり、二人の身体が鉄格子へ倒れ込んだ。
教授の右手が床の鉄槌へ伸びる。
レオンは先に足を当てた。
鉄槌を格子の隙間へ蹴り落とす。
工具は中央重量錘坑へ消えた。
落下音は、すぐには返ってこない。
長い間を置いて。
はるか下で、小さな金属音がした。
「深いな」
ノクスが言った。
「一人で確かめろ」
レオンは肘で教授を押しのけ、主制御輪の固定爪へ杖を差し込んだ。
てこの要領で押し戻そうとする。
動かない。
鉄楔が深く食い込んでいる。
ノクスが背後から杖をつかんだ。
「抜けば、《第十三時》は終わる」
「そのために来た」
「原簿の送信は、すでに完了した」
「ああ」
「なら、なぜ急ぐ」
「記録を残すことと、都市を記録の中へ閉じ込めることは違う」
「終了すれば、また通常時刻の制度へ戻る」
「今回は同じ側に立っただけだ」
レオンは、杖へ体重を掛けたまま言った。
「兄さんも。モルガも。警察も。新聞も」
「次も同じ側とは限らない」
「だから見張る」
「人間は変わる」
「変わるから、記録を残す」
「記録も変えられる」
「書き換えた痕跡が残る」
「封印される」
「複写する」
「忘れられる」
「また掘り出す」
レオンは、鋼芯が曲がるほど杖を押し込んだ。
楔が、ほんのわずかに浮いた。
「信じているのではないのか」
ノクスの声が低くなる。
「制度を。兄を。人間を」
「信じるのではなく、見張る」
レオンは答えた。
「一度で終わると思っていない」
ノクスの笑みが薄くなった。
「真実は、一つだ」
「事実はな」
「記録の意味が変われば、真実ではなくなる」
「読む人間が変われば、意味は変わる」
「だから信用できない」
「だから、一つの読み方へ固定せずに残す」
レオンは杖から片手を離し、教授の胸元をつかんだ。
ノクスもレオンの肩をつかみ、主制御輪から引き剥がそうとする。
二人の靴が、回転する歯車の振動で格子の上を滑る。
「お前が暴いたものも」
レオンはノクスを押し返す。
「お前が壊したものも」
教授の踵が工具箱へ当たった。
「都合よく選ばず、両方残す」
ノクスの身体が傾く。
手摺をつかみ、落下は免れた。
だが、主制御輪を押さえていた手が離れる。
レオンは杖を両手で握り、全体重を掛けた。
固定爪が軋む。
楔が少しずつ抜ける。
記録窓の数字が進む。
> 《第十三時》、残り九秒
「遅い」
ノクスが言った。
「黙って見ていろ」
「君が間に合わない可能性を?」
「お前が負けるところをだ」
楔の縁から火花が散る。
レオンの掌から流れた血が、杖を濡らす。
握りが滑る。
さらに押す。
鋼芯が悲鳴を上げた。
固定爪が、一度だけ大きく跳ねる。
鉄楔が抜けた。
火花を散らしながら保守橋を滑り、手摺へ当たって止まる。
主制御輪が解放された。
ガガガガガ――。
十三段の補正計数輪が、終了位置へ向けて一気に動き始める。
「終わる」
レオンが言った。
ノクスは手摺につかまったまま、解放された機構を見ていた。
怒りでもない。
敗北でもない。
自分の予想とは違う答えが、どのような結果を生むのか見届けようとする目だった。
「まだだよ」
教授は言った。
その直後。
時計塔の最上部で、重い弁が開いた。
ゴォン。
一度。
続いて、太い鎖が引かれる音。
ガラガラガラ――。
さらに奥で、安全栓が外れる。
塔全体が、内側から押し広げられるように震えた。
レオンが顔を上げる。
ノクスも、中央重量錘坑を見下ろした。
縦穴の底から、低く重い響きが上がってくる。
最初は、遠い雷のようだった。
次第に近づく。
大量の水が、屋上水槽から制動管へ流れ込み、塔の内部を下り始めている。
「水圧制動」
ノクスが呟いた。
今度は、教授の操作ではなかった。
主制御輪は解放された。
《第十三時》は終わろうとしている。
だが、暴走する歯車と重量錘を停止させるため。
時計塔はこれから。
自らの内部へ、滝を落とそうとしていた。
観測余録 帰ってきた頁
未来を書いた紙には、古い紙が使われていました。
まだ書かれていない本から切り取ったという一頁は、実際には、ずっと昔に捨てられた紙から作られていました。
紙の繊維を見て、古い文字を拾い、印刷所の記録を辿る。
そうして一枚ずつ過去を調べていくと、未来は少しずつ未来ではなくなりました。
けれど、一枚だけ。
翌日のことが、翌日になる前に書かれていた紙が残りました。
本当に偶然だったのかもしれません。
誰かが、その本のことを先に知っていたのかもしれません。
古書店なら本が戻ってくることなど珍しくないのですから、曖昧な言葉がたまたま出来事へ重なっただけなのかもしれません。
それとも、本当に一頁だけ。
順番を間違えて、先に届いてしまったのでしょうか。
古書店主は、その答えを決めませんでした。
本の来歴へ予言を書き加えることも、未来が証明されたと記すこともしませんでした。
ただ、余白へ一行。
《因果関係未確認》
それだけを残しました。
分からないことを、分かった物語へ変えないために。
たぶん、それもまた、本を守る人の仕事なのでしょう。
――ナミ=エル




