↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
166/228

第12節 ― 《第十三時》に死んだ者はいない

 《第十三時》開始から十分。


 残り三分。


 レオン=クラウスが標準時統制室へ戻ったとき、都市はまだ二つの時刻に引き裂かれていた。


 壁面上部の針時計は、午前零時を過ぎた時刻を刻んでいる。


 その下では、補正記録器が存在しない時間の経過を表示していた。


 青い交通信号管は、段階的な非常停止圧を各地へ送り続けている。停止表示へ変わった路線もあれば、なお進行表示を点滅させ、人間の赤灯を必要としている旧式信号線もあった。


 白い記録管は止まっていない。


 四十三年前の契約記録。


 今夜の事故。


 列車を止めた者。


 避難した者。


 負傷した者。


 それらを区別することなく、長い紙帯へ印字し続けている。


 赤い契約認証管では、モルガ=ブラスとヘルガ=ツァーンが、成立印を落とさず受信記録だけを白線へ逃がすため、絞り弁の調整を続けていた。


 都市危機の最中に、殺人事件だけを解いていられる状況ではない。


 それでも、統制室にいた全員が、開いた鉄扉へ顔を向けた。


 レオンの外套は、塔上部の機械油と夜露に濡れていた。頬には細い擦り傷があり、右手には杖、左手には時計盤裏から持ち帰った短い記録帯がある。


「教授は?」


 最初に尋ねたのはミラベルだった。


「上だ」


「一人で残したんですか」


「残ったのは向こうだ」


「同じです」


「今は殺人だ」


 レオンの視線は、統制室中央に立つセヴラン=コルベットへ向けられていた。


 黒い正装。


 銀の統制局記章。


 乱れのない襟元。


 機械油と煤にまみれた技師たちの中で、彼だけが、なお完成式典の統制局長であり続けようとしている。


 ただし、左袖の釦だけが外れていた。


 セヴランは袖口を隠すように、右手で左手首を覆っている。


 グレアム警部は、中央駅から戻ったばかりだった。帽子も外套も煤に汚れ、赤灯を振り続けた右手には浅い火傷がある。


「教授は、オットーを殺したと認めたか」


「否定した」


「信用するのか」


「殺人については、教授の言葉を信用する必要がない」


「証拠がないからか」


「ああ」


 セヴランが、すぐに言葉を挟んだ。


「ならば、結論は明白でしょう」


 式典の演台で使っていたのと同じ声だった。


 混乱した者たちへ、完成した答えを与える声。


「モリアン教授は塔へ侵入し、《第十三時》を起動した。原簿を不正送信し、オットー主任を殺害した。これ以上――」


「三つを一つへまとめるな」


 レオンが遮った。


 時計盤裏から持ち帰った記録帯を、中央卓へ置く。


「教授が《第十三時》を動かしたことは、本人が認めた。塔への侵入も、現場で確認した」


 次に、オットーの死亡記録を見る。


「殺人だけは別だ」


「同じ夜、同じ塔で起きた事件です」


「だから利用された」


 警報が一度、短く鳴った。


 残り時間を削る音だった。


「教授が作った異常時刻へ、別の人間が自分の殺人を置いた」


「推測です」


「ああ」


「推測によって、標準時統制局長へ疑いを向けると?」


「証拠を並べる」


 レオンはグレアムを見た。


「扉を閉めろ」


「解決劇を始めるつもりか」


「逃げられたいなら、開けておけ」


 グレアムが部下へ顎を動かした。


 標準時統制室の鉄扉が閉じられる。


 警官二人が、その前へ立った。


「上層部からは、《第十三時》を起動した者を確保しろと命令が来とる」


 グレアムは火傷した手を握り直した。


「だが、その前に一人の殺人犯を捕まえる。話せ、クラウス」


     *


 中央卓の上へ、五つの証拠が置かれた。


 旧地方時計の調速記録。


 青灰色の紙粉。


 基準振子室と校正筒の作動記録。


 オットー=ヴァールの懐中時計。


 旧時刻資料庫から回収された、掌ほどの真鍮製調速錘。


 調速錘は、旧地方時計へ戻されていたものを、グレアムの部下が押収した品だった。


 楕円形の真鍮塊。


 片側には、機械へ固定するためのねじ軸がある。


 表面は不自然なほど磨かれている。古い時計部品でありながら、ほかの真鍮より新しく見えるほどに。


「最初に確認しておく」


 レオンが言った。


「血液と繊維の正式鑑定は、事件後になる。今ここで使えるのは、簡易反応、形状比較、機械記録、携帯器具による付着物の照合結果だ」


 セヴランの口元へ、薄い笑みが戻った。


「つまり、不完全な証拠です」


「そうだ」


 レオンは否定しなかった。


「個々の証拠だけでは、決定打にならない」


「ならば、私を拘束する理由も――」


「だから、五つを順に読む」


 レオンはミラベルへ視線を向けた。


 彼女は中央卓の端に立ち、手帳を開いている。


「最初から記録します」


「確認済みと、正式鑑定前の部分を分けろ」


「分かっています」


「本当に?」


「今、疑うところですか」


 張り詰めた室内に、ごく短い間が生じた。


 ニルスは祖父の黒い手帳を胸へ抱き、リュシアンは銀縁眼鏡を掛け直した。ヴァネッサは壁際の赤い非常灯の下に立ち、舞台を見るときと同じ静かな目でセヴランを観察している。


 モルガとヘルガは、作業を止めてはいない。


 二人とも床下の弁へ手を置いたまま、耳だけを対決へ向けていた。


「始めろ」


 グレアムが言った。


     *


「第一」


 レオンは、旧地方時計の調速記録を広げた。


 地方時代の細い紙帯には、振子の周期を示す波形が刻まれている。


 一定。


 一定。


 一定。


 その中の一か所だけ、線が突然大きく乱れていた。


 横へ印字された時刻は、


> 午後十一時四十一分


 である。


 その下には、


> 旧地方時計 周期乱れ

> 調速錘 取外し確認


 と記されていた。


 四十六秒後、波形は元の周期へ戻っている。


「午後十一時四十一分」


 レオンが言った。


「旧時刻資料庫の地方時計から、調速錘が外された」


 ヘルガが紙帯を指で押さえた。


「この地方時計は独立した振子と調速器を持っている。錘を外せば、周期は即座に変わる。時刻の印字は時計自身のものだ」


「調速錘を外した者の名は?」


 セヴランが尋ねた。


「記録されていない」


「ならば、誰が外したかは分からない」


「そうだ」


「そもそも、保守のために外した可能性もある」


「ある」


 レオンは、また認めた。


 セヴランの笑みが少し深くなる。


 レオンが証拠を示すたび、自らその限界を切り開いているように見える。


「ですが」


 ミラベルが次を促した。


「調速錘は、保守のために外したあと、四十六秒で戻されています。処置理由の欄は空白でした」


「記入漏れでしょう」


 セヴランが答える。


「混乱の夜です。技師が理由を書き忘れることはある」


「十三度目の鐘より十九分前だ」


 レオンが言った。


「その時点では、塔内に混乱は起きていない」


 グレアムが、透明な鑑定皿を中央卓へ押し出した。


 中には、調速錘の固定ねじから採取された黒褐色の薄片がある。


「錘の表面は、布で拭かれとった」


 グレアムが言った。


「だが、ねじの奥までは届かなかったらしい。簡易試薬で、血液反応が出た」


「人の血とは限りません」


 セヴランの返答は速い。


「オットー主任の血とも限らない」


「そのとおりだ」


 レオンは言った。


「正式鑑定前だ。人血か、オットーの血かは、まだ確定していない」


「では、証拠とは呼べない」


「血液らしき付着物が、拭き取られた調速錘のねじ部へ残っていた。事実としては、それで十分だ」


 グレアムが調速錘を持ち上げた。


 縁の一部へ薄い布を当て、オットーの後頭部を写した検視図と重ねる。


「陥没の幅と、錘の縁の湾曲は合う」


「似た形の工具は塔内にいくらでもあるでしょう」


「ある」


 レオンは、三度目も認めた。


「だから、調速錘だけでは凶器を確定できない」


「では――」


「ただし」


 ミラベルが、セヴランの言葉を受けるように続けた。


「午後十一時四十一分に、凶器になり得る真鍮塊が旧時刻資料庫で外された。表面は拭かれ、ねじの奥には血液反応が残っていた」


 彼女はレオンを見る。


「ここまでが、第一段階ですか」


「ああ」


「オットーさんは、《第十三時》が始まるより前に襲われた可能性がある」


「可能性ではなく」


 グレアムが言った。


「死体の状態から、《第十三時》が始まったあとに殺されたとは考えにくい」


「正確な死亡時刻には幅がある」


 レオンが留保する。


「だが、《第十三時》開始時刻の死亡記録とは一致しない。午後十一時四十一分の異常は、その範囲へ入る」


 ミラベルは手帳へ書いた。


> 第一。

> 午後十一時四十一分、旧地方時計から調速錘が外された。

> 凶器の可能性。正式鑑定前。


「次は?」


 彼女が尋ねた。


「殺害場所だ」


     *


「第二」


 レオンは、青灰色の紙粉を封じた小袋を持ち上げた。


「オットーの靴底には、基準振子室の真鍮粉がなかった」


「死体は振子室の床に倒れていました」


 ミラベルが言う。


「側面には真鍮粉が付いていた。だが、靴底にはない」


「誰かが靴底を拭いたのかもしれません」


 セヴランが反論した。


「拭いた痕跡はない」


「新しい靴へ履き替えさせた可能性は?」


「靴はニルスが祖父のものだと確認している」


 ニルスが顔を上げた。


「右の踵を、ぼくが直しました。縫い糸も、留め金も同じです」


「靴そのものが同じでも、靴底を洗った可能性は残る」


 セヴランは少年を見ずに言った。


「洗えば、革の縁と縫い糸へ水が残る。乾燥痕もない」


 レオンは靴底から採取した粉の記録を示した。


「代わりに、青灰色の紙粉と細い紙繊維が残っていた」


 リュシアンが鑑定票を開く。


「携帯顕微鏡による照合の範囲ですが、旧時刻資料庫へ保管されている、標準時制定以前の酸性紙と同種の繊維です」


「同種であって、同じ場所のものとは限らない」


 セヴランが言った。


「そのとおりです」


 リュシアンは穏やかに認めた。


「ただし、紙粉には紙虫の抜け殻も混じっていました。この種類は、資料庫奥の酸性紙へ集中して生息しています。現行の中性紙を保管する統制局資料室では、確認されていません」


「旧資料庫以外に絶対にいないと、証明できますか」


「絶対という言葉は、古書と虫の双方に向きません」


 リュシアンの声は柔らかい。


「正式な紙質分析も、虫種の詳細照合も事件後です。ですが、この塔の中で、同じ紙粉と虫殻が最も多く存在する場所は、旧時刻資料庫です」


 レオンが続ける。


「オットーは基準振子室を歩いていない。一方、旧時刻資料庫の床へ立っていた可能性は高い」


「主任時計官が旧資料庫へ入るのは当然です」


 セヴランが言った。


「生きている間に資料を調べた。それだけでは、殺害場所にならない」


「そのとおりだ」


 レオンは、逃げ道を塞ぐのではなく、また一つ認めた。


「紙粉だけならな」


 中央卓の上で、調速記録と紙粉の小袋が並ぶ。


 午後十一時四十一分。


 旧資料庫の時計から、凶器となり得る錘が外された。


 オットーの靴底には、その資料庫に特有とみられる紙粉が残っていた。


「二つを合わせれば」


 ミラベルが言った。


「オットーさんは旧時刻資料庫で襲われた可能性が、最も高い」


「ああ」


「基準振子室で殺されたのではない」


「少なくとも、振子室まで自分で歩いた人間ではない」


 ニルスが、黒い手帳を抱く腕へ力を込めた。


「祖父は、あの資料庫で……」


 言葉が続かない。


 ヴァネッサが彼を見る。


 慰めの台詞は口にしなかった。


 役者である彼女は、言葉を置かない方がよい場面を知っている。


 ミラベルも、すぐに次へ進まなかった。


 推理に必要な間と、少年が祖父の死を受け止めるための間は、同じ数秒であっても意味が違う。


 ニルスが自分から顔を上げるまで、待った。


「続けてください」


 少年が言った。


「どうやって、振子室へ運んだんですか」


 ミラベルはレオンを見る。


「第三です」


     *


「第三」


 レオンは、基準振子室の記録紙を広げた。


> 午後十一時五十分

> 基準振子室 自動封鎖

>

> 人員入室 なし


 封鎖は本物だった。


 正面扉は時限錠によって閉ざされ、強制開放されるまで開閉記録はない。


 人間が正面扉を通った記録もなかった。


「密室です」


 セヴランが言った。


「だから、塔上部から侵入したモリアン教授が、古い機構を使って――」


「記録の続きを読め」


 レオンの指が、同じ紙の下段へ移る。


> 校正筒 自動確認

> 上昇 一回

> 積載区分 標準器材


 統制室へ、印字機の音だけが響いた。


 人員入室なし。


 校正筒上昇一回。


 同じ機械が、同じ時間帯について、二つの事実を記している。


「人は入っていない」


 ミラベルが読み上げた。


「でも、校正筒は上がった」


 ヘルガが、床下から身体を起こした。


「校正筒は、正面扉の封鎖系統とは別だ。午前零時直前、自動確認のため一度上昇する」


「通常は、標準器を運ぶためのものです」


 モルガが言う。


「人間を運ぶ設備ではありません」


「機械は、中身を判断しない」


 レオンが答えた。


「筒へ載せられたものを、すべて標準器材として処理する」


「人は入っていない」


 ニルスが、記録紙を見つめる。


「でも、死体は上がった」


 室内へ、短い沈黙が落ちた。


 密室トリックを解く鮮やかな一文ではない。


 その筒で運ばれたのは、少年の祖父だった。


「旧時刻資料庫の地方時計の背後には、校正筒の旧搬入口が隠されていた」


 エレノアが、自分の暗号帳を開いた。


「敷居に暗い染み。筒の内壁に血液らしい飛沫。濃紺の繊維。縦方向の油跡が残っていました」


「すべて正式鑑定前です」


 セヴランが言った。


「血液がオットー主任のものとは限らない。濃紺の外套など、塔内に何着もある」


「そのとおりだ」


 レオンは認める。


「だが、オットーの外套にも、肩から背中へ縦方向の油痕が残っていた」


 モルガが比較記録を置いた。


「油は、基準振子の軸受け油とは違います。校正筒の昇降軌道へ使われている、粘度の高い保守油と性質が近い」


「近い、だけでしょう」


「正式な成分分析は後です」


 モルガはセヴランから目を逸らさなかった。


「ただし、筒内壁と外套の油は、臭い、粘度、混じっている金属粉の粒径が一致しています」


 ヘルガが、筒内から採取した繊維と外套の見本を示す。


「撚り方も一致する。どちらも、主任時計官用の濃紺外套に使われている布だ」


「同じ制服を着た者は、ほかにもいる」


「主任時計官の濃紺外套は一着だけだ」


 ニルスが言った。


 声は震えているが、目はセヴランを見ていた。


「祖父は、あの外套を着ていました」


「少年の記憶です」


「証言だ」


 グレアムが低く言った。


「年齢で軽くなると思うな」


 レオンは中央卓の上へ、証拠を時系列に並べ始めた。


 午後十一時四十一分の調速記録。


 真鍮製の調速錘。


 青灰色の紙粉。


 校正筒の旧搬入口を描いたエレノアの見取図。


 基準振子室の封鎖記録。


 校正筒の上昇記録。


「午後十一時四十一分。旧時刻資料庫で、地方時計の調速錘が外された」


 レオンは調速錘を示す。


「同じ時間帯に、オットーは後頭部を殴られた」


 次に紙粉。


「殺害場所は、旧時刻資料庫である可能性が最も高い」


 エレノアの見取図。


「犯人は死体を、地方時計の背後にある校正筒の旧搬入口へ載せた」


 封鎖記録。


「午後十一時五十分、基準振子室の正面扉が閉ざされる」


 作動記録。


「午前零時直前、自動確認によって校正筒が上昇する」


 振子室の簡易図へ指を移す。


「上部扉が開き、死体は傾斜台から、封鎖された基準振子室へ送り出された」


「犯人は、基準振子室へ入っていない」


 ミラベルが言った。


「入る必要がなかった」


「ああ」


「人間として入室させず、標準器材として運んだ」


「時計塔は、死者を器材だと判断したわけではない」


 レオンは答えた。


「何も判断しなかった。ただ、通った経路によって別の欄へ記した」


 人員入室なし。


 校正筒上昇一回。


 二つの正しい記録が、密室を作ったのではない。


 二つを別々に読む人間が、密室だと思い込んだ。


 セヴランの口元から、わずかに笑みが消えた。


「その仮説が正しいとしても」


 なお平静を保とうとする声だった。


「死体を載せた者が、私である証拠はありません」


「まだな」


 レオンは答えた。


「だから、第四へ進む」


     *


 オットーの懐中時計は、中央卓の上へ置かれていた。


 補助表示は、《第十三時》の開始時刻を示したまま止まっている。


「第四」


 レオンが蓋を開く。


「この時計は、自然に止まったものではない」


 時計は、グレアム立ち会いのもと、ヘルガが裏蓋を開いていた。外された小部品は、位置を記録した白布の上へ順番どおりに並べられている。


 ヘルガが、時計内部を細い工具で示した。


「時針を《第十三時》へ合わせたあと、送り歯車を一枚抜いてある。これでは、ぜんまいが残っていても表示は進まない」


「衝撃で外れた可能性は?」


 セヴランが尋ねる。


「抜かれた歯車は、時計ケース内に落ちていなかった」


「死亡現場で失われたのかもしれない」


「その可能性はある」


 ヘルガも認めた。


「ただし、抜くには裏蓋を開け、留め具を外す必要がある。衝撃だけでは、この位置の歯車だけがきれいに消えることはない」


「細工したのが誰かは分からない」


「そうだ」


 レオンは言った。


「時計だけでは、細工した者を決められない」


「では、教授が――」


「問題は、誰が細工できたかだけではない」


 ミラベルが懐中時計を見る。


「いつ細工したかです」


 レオンが頷く。


「懐中時計を《第十三時》へ合わせるには、その時刻が現れることを事前に知っていなければならない」


「予告状を読んだ者なら、十三度目の鐘を予測できる」


 セヴランが言った。


「鐘が十三度鳴ることと、塔の死亡記録機が《第十三時》を現在として印字することは別だ」


 レオンは、オットーの死亡記録を時計の隣へ置いた。


> 生体反応 なし

> 死亡記録時刻 《第十三時》零分


「犯人は、鐘だけではなく、補正記録系統が《第十三時》へ切り替わることを知っていた」


「モリアン教授なら知っています」


「教授だけとは限らない」


「ほかに誰が」


「ノクスは、オットーが原簿を公開しようとしていることを、あなたへ知らせた」


 セヴランの表情が、初めてわずかに固くなった。


「教授の証言ですか」


「本人が認めた」


「殺人犯が、責任を他人へ移そうとしているだけでしょう」


「教授を殺人犯だと決めたのは、あなた自身だ」


「状況が変わったのです」


「都合よくな」


 セヴランの声が少し低くなる。


「クラウス氏。教授はあなたさえ利用しています。彼の言葉を信じて、私を犯人へ仕立てようとしている」


「信じていない」


 レオンは遮った。


「だから、教授の証言がなくても残るものを見る」


 視線が、セヴランの左袖へ落ちた。


「第五だ」


     *


「袖口を見せろ」


「何の権限で」


「俺にはない」


 レオンは平然と答えた。


「だが、警察にはある」


 グレアムが一歩前へ出る。


「セヴラン=コルベット。左腕を出せ」


「都市全体が危機にあるときに、私の衣服を調べるのですか」


「だから早くしろ」


「統制局長である私へ、屈辱を――」


「任意の確認だ。拒否するなら、オットー殺害の容疑で身体検査へ切り替える」


 グレアムの声は冷たかった。


「どちらがいい」


 セヴランは、しばらく動かなかった。


 壁面の補正記録器では、《第十三時》の秒が進んでいる。


 やがて、右手を左手首から離し、ゆっくり腕を上げた。


 外れた袖釦。


 わずかに乱れた銀糸。


 その間へ、白く細い繊維が絡んでいる。


 衣服の糸より細く、光を受けると硝子のような光沢を帯びていた。


 リュシアンが新しい手袋を着け、鑑定用のピンセットを取る。


「採取します」


 セヴランは答えなかった。


 白い糸を一本、銀糸から外す。


 小さな玻璃板へ置き、拡大鏡の下で確認する。


「紙虫の繭糸です」


「古い紙を扱う資料室なら、どこにでもある」


 セヴランの声には、まだ余裕が残っていた。


「この種類は、どこにでもいません」


 リュシアンは穏やかに答える。


「旧時刻資料庫の酸性紙へ適応した紙虫です。現在の中性紙では幼虫が育ちにくい」


「統制局の資料室にも、制定期の古文書はあります」


「その可能性はあります」


 リュシアンは否定しなかった。


「しかし、この繭糸には青灰色の酸性紙粉と、銀色の真鍮粉が混じっています」


 エレノアが暗号帳を開く。


「地方時計の背後にある保管孔にも、同じ繭がありました。外側へ青灰色の粉。内側へ銀色の粉が付いていた」


 セヴランは少女を見た。


「あなたは専門家ではない」


「だから、位置と見た状態だけを書きました」


 エレノアはリュシアンへ顔を向ける。


「同じものですか」


 リュシアンが、二つの試料を照合する。


「携帯器具で確認できる範囲では、一致します。正式鑑定は後になりますが、同じ場所で付着した可能性が高い」


「資料庫へ入ったこと自体は、罪ではない」


 セヴランが言った。


「そのとおりだ」


 グレアムは懐から証言記録帳を取り出した。


「だが、あんたは入っていないと答えた」


 事件直後の頁を開く。


> 式典開始後、旧時刻資料庫へは入っていない。

> 大広間と標準時統制室を離れていない。


「記憶違いです」


「十三度目の鐘より前の行動だ」


 グレアムは記録帳を閉じた。


「混乱する前の話だぞ」


「式典進行中、複数の階を行き来していました。一つの場所を取り違えたとしても――」


「旧時刻資料庫へ入ったことを忘れた?」


 ミラベルが尋ねた。


「一度立ち寄っただけです」


「先ほどまで、“入っていない”と言っていました」


「思い出したのです」


「何をしに?」


「主任時計官を捜しに」


「会いましたか」


「いいえ」


「では、なぜ資料庫へ入ったことを隠したんです」


「隠してはいない。記憶違いだと言っている」


 セヴランの返答は、まだ整っている。


 だが、以前より短い。


 言葉を選ぶ間も少なくなっている。


「袖口の繭糸」


 レオンが言った。


「旧資料庫へ行っていないという虚偽証言」


「虚偽とは確定していない」


「原簿の保管場所についても、あなたは事実と異なる説明をした」


 エドガー=クラウスが口を開いた。


 弟より静かで、逃げ道を塞ぐには、よほど冷たい声だった。


「あなたは《十一分訂正原簿》が、地下保管区画の封印金庫にあると説明した」


「そう記憶していました」


「実際には、旧地方時計の背後へ隠されていた」


「オットー主任が、無断で移したのでしょう」


「四十三年前から場所は変わっていません」


 ニルスが、祖父の黒い手帳を開いた。


 地方時計。


 回転台座。


 背後の保管孔。


 若いオットーの筆跡で描かれた図がある。


「祖父が書いたものです。制定当夜から、原簿はあそこにあった」


 セヴランは図を見た。


「ならば、私は隠し場所を知らなかった」


「その可能性はあります」


 ミラベルが言った。


 セヴランの目に、わずかな安堵が戻る。


「ワトリア嬢。あなたは探偵より公平だ」


「分からないことを、分からないと言っただけです」


 ミラベルは、空の保管孔を描いたエレノアの図へ視線を落とす。


「ただし、原簿はルヴェールが到着する前に持ち出されていました」


「怪盗の証言を信じるのですか」


「信じてはいません」


「ならば――」


「エレノアさんとニルスさんは、ルヴェールが原簿を持っていないことを、その場で確認しています」


「身体検査をしたわけではない」


「大判の原簿を隠せる膨らみはなかった」


「先に別の場所へ置いた可能性がある」


「あります」


 ミラベルは、セヴランの反論を否定しない。


「それなら、これから原簿を持っている人が見つかれば、誰が嘘をついているか分かります」


 セヴランの視線が、ほんの一瞬だけ動いた。


 統制室中央の制御卓へ。


「あら」


 壁際に立っていたヴァネッサが、静かに声を上げた。


 全員が彼女を見る。


「いま、台詞より先に目が動いたわ」


「何を言っている」


「舞台の上では、役者は言葉より先に出口を見てしまうことがあるの」


 ヴァネッサは微笑まなかった。


「逃げたいときや、隠した小道具を守りたいときに」


 グレアムが制御卓へ目を向けた。


 セヴランは、卓の前を塞ぐように半歩移動した。


「主制御装置です。無資格者は近づかないでいただきたい」


「さっきから、モルガとヘルガが分解しとる」


 グレアムが進む。


「今さら神聖な機械のふりをするな」


 セヴランの背中が、制御卓の縁へ触れた。


「視線は証拠になりません」


「ああ」


 レオンが答える。


「だから、まだ終わっていない」


     *


 中央卓の上には、五段階の証拠が並んでいる。


 午後十一時四十一分に外された調速錘。


 オットーが旧資料庫へいたことを示す紙粉。


 死体を密室へ運んだ校正筒。


 《第十三時》へ合わせて細工された懐中時計。


 旧資料庫へ入った痕跡を袖口へ残しながら、それを否定したセヴランの証言。


 一つだけなら、別の説明ができる。


 調速錘は保守のために外された。


 紙粉は、生前の立ち入りで付いた。


 校正筒は空で上昇した。


 懐中時計は別の者が細工した。


 紙虫の糸は、別の古文書から付いた。


 だが、五つの説明を同時に成立させれば。


 午後十一時四十一分に外された錘。


 旧資料庫で襲われたオットー。


 死体だけが通った校正筒。


 教授へ殺人を帰属させる《第十三時》の死亡記録。


 資料庫へ入ったことを隠す統制局長。


 それぞれを無関係と考える方が、はるかに不自然になる。


「まだ足りない」


 セヴランが言った。


 声が少し掠れている。


「資料庫へ行った。記憶違いをした。原簿の場所を知らなかった。それだけです」


「《十一分訂正原簿》の送信は」


 エドガーが、白い記録線から吐き出される紙帯を示した。


「全三百十二件へ達しつつある」


「達したところで」


 セヴランの返答は速すぎた。


「複製は完全ではない!」


 統制室が静まった。


 警報も。


 印字機も。


 床下を流れる蒸気も。


 一瞬だけ遠くなったように感じられた。


 セヴラン自身が、自分の言葉の意味に気づく。


 完全ではない。


 それを知るためには、原本の内容と、送られている複製を比較していなければならない。


 ミラベルが、ゆっくり尋ねた。


「原簿を読んだんですね」


「機械の送信形式を知っているだけです」


「形式の話ではありません」


 ミラベルは、床を流れる送信紙を見る。


「どの情報が欠けているかを知っている」


「原簿の構成は、統制局資料から推測できる」


「隠し場所は知らなかったのに?」


「概要は把握している」


「内容を読まずに?」


「統制局長ならば当然だ」


 セヴランの返答は、少しずつ速くなっていく。


 言葉を選ぶのではない。


 開き始めた穴を、次の言葉で塞ごうとしている。


「先ほど」


 レオンが言った。


「旧資料庫の地下記録線から送信が始まったとき、あなたは《十一分訂正原簿》だと即座に判断した」


「ほかに該当する資料がないからだ」


「原簿の保管場所は知らない」


「そうだ」


「送信機へ掛けられた経路も知らない」


「機関主任の管轄だ」


「それでも、複製が不完全だと知っている」


「だから、形式上の――」


「どの頁が欠けている」


 レオンが訊いた。


 セヴランの口が止まった。


「答えられないなら、なぜ不完全だと分かる」


「推測だ」


「では、原簿が今どこにあるかも知らない?」


「知らない」


「制御卓を調べさせろ」


「主制御機構を損傷します」


「側板を開くだけだ」


「認めない」


「なぜだ」


「統制局長として――」


「殺人容疑者として聞いている」


 グレアムが言った。


「そこをどけ」


 セヴランは動かなかった。


 右手だけが、ゆっくりと制御卓の下へ向かう。


「手を見せろ」


 グレアムの手が警棒へ掛かる。


 セヴランの指が止まった。


「私は、この塔を守っている」


「なら、隠すな」


「制度には、公開してはならない記録がある」


「それを決めるために、老人を殺したのか」


 ニルスの声だった。


 小さく。


 しかし、機械音より明瞭に響いた。


 セヴランが少年を見る。


 オットーと同じ、低い背丈。


 油の染みた作業着。


 祖父の手帳を抱く太い指。


 ただ、目だけは若い。


 制度を守るために、何を見なかったことにするべきかを、まだ覚えていない目だった。


「君の祖父は、四十三年間、沈黙した」


 セヴランが言った。


「最後には話そうとした」


「遅すぎたのだ」


「だから殺したんですか」


「彼が口を開けば、標準時制定以来の全契約が疑われる。鉄道の土地。工場の所有権。水路。銀行担保。都市そのものが、四十三年前へ引き戻される」


「不正があったからでしょう」


 ミラベルが言った。


「不正かどうかを決めるのは、後世の記者ではない!」


 セヴランが初めて怒鳴った。


 整えられた官僚の声が崩れた。


「署名は本物だった。印章も、制定委員会の承認もあった。標準時は都市を一つにした。列車を走らせ、工場を結び、契約へ共通の期限を与えた!」


「そのために、十一分を消した」


 レオンが言う。


「調整だ」


「土地契約を入れた」


「混乱を避けるための特例処理だ」


「コルベット家も利益を得た」


 エドガーが、一枚の契約記録を持ち上げた。


 取得者欄。


 コルベット家。


 時計塔周辺の旧エルフ居住区。


 鉄道信号線の敷設地。


「家名は、すでに複製記録へ出ている」


「だからこそ、未完成の複製だけを公表してはならない!」


 セヴランの右手が、制御卓の下へ入った。


 金属音。


 隠し掛金が外れる。


 制御卓の側板が開いた。


 セヴランは、その中から厚い革表紙の原簿を引き出した。


 古い封蝋。


 鉛の補強角。


 消えかけた表題。


> 十一分訂正原簿


 ニルスが息を呑んだ。


 リュシアンが立ち上がる。


 モルガの手から、小さな工具が床へ落ちた。


「そこにあったのね」


 エレノアが言った。


「怪盗より先に持ち出したのは、あなた」


 セヴランは原簿を胸へ抱えた。


 統制局長の微笑は、もう残っていない。


「盗んだのではない」


「なら、何だ」


 グレアムが問う。


「保護した」


「オットーからか」


「混乱からだ!」


 セヴランの指が、原簿の角へ食い込む。


「この一冊が公開されれば、標準時制度は犯罪の上に築かれたと書かれる。土地契約は再審査され、鉄道と銀行と工場の権利が崩れる!」


「だから、オットーから隠し場所を聞き出そうとした」


 レオンが言う。


「彼は話さなかった」


「争いになった」


「彼は分かっていなかった!」


「何をだ」


「標準時は、一人の罪悪感より重い!」


 セヴランの声が震え始める。


「数百万の人間が、同じ時刻を信じて生きている。列車が走り、契約が守られ、工場が交替し、都市が同じ今日と明日を持つ。たった一人の老人の告白によって、それを壊させるわけにはいかなかった!」


 グレアムが一歩進んだ。


「午後十一時四十一分。旧時刻資料庫で、オットー=ヴァールを調速錘で殴ったか」


 セヴランは答えなかった。


 原簿を抱き。


 制御卓へ背を付け。


 部屋にいる全員を見ているようで、誰の顔も見ていない。


 補正記録器の秒が、一つ進む。


 さらに一つ。


 印字機が契約記録を吐き出す。


 床下で、赤い認証管が軋む。


 誰も、セヴランの代わりに沈黙を終わらせなかった。


 長い間のあと。


 セヴランは、ようやく息を吐いた。


「一人の老人の良心で、数百万の時刻を壊させるわけにはいかなかった」


 自白だった。


 だが、謝罪ではなかった。


 自分のしたことを、なお正しい判断として言い直す声だった。


     *


「祖父は」


 ニルスが言った。


 原簿を抱くセヴランを、まっすぐ見ている。


「四十三年前、時計を進めた」


「そうだ」


「そのせいで土地を失った人がいることを、あとから知った」


「だから四十三年間、黙っていた」


 セヴランの言葉には、責める響きが戻っていた。


「ならば、もっと早く話すべきだった」


「そうですね」


 ニルスは答えた。


 室内の何人かが、少年を見る。


 祖父の罪を否定する言葉ではなかった。


「もっと早く、話すべきだった」


 黒い手帳を強く抱く。


「でも」


 声が震えた。


 それでも、逸らさない。


「話そうとした人を殺したあなたが、それを言わないでください」


 セヴランは答えなかった。


 ミラベルが一歩前へ出る。


「オットーさんは、あと何年生きると思っていましたか」


「何を」


「数百万の時間と、一人の老人の時間を比べたのでしょう」


「都市を守る者は、比較しなければならない」


「では、数字にしたんですか。オットーさんがあと何年生きるか。標準時制度が何年続くか」


「感情で都市は運営できない」


「四十三年前に土地を失った人たちの時間は、どこへ入れたんです」


 セヴランの目が、ミラベルへ向く。


「オットーさんが黙っていた四十三年は?」


「今夜、赤灯を持って線路へ立った人の時間は?」


「蒸気弁へ走った工員の時間は?」


 ミラベルの声は、怒鳴っていない。


 だからこそ、一つずつの問いが逃げ場なく残った。


「あなたの計算には」


 声がわずかに震える。


「殺された一人の時間だけ、最初から入っていなかったんですか」


「記者には分からない」


「分かりません」


 ミラベルは認めた。


「だから、消さずに聞いているんです」


 その言葉のあと。


 セヴランの視線が、壁際の非常用蒸気灯へ動いた。


 青い炎が、細い玻璃筒の中で燃えている。


 ヴァネッサが、先に気づいた。


「警部」


 だが、声が届くより早く。


 セヴランは原簿を抱えたまま走った。


     *


「止まれ!」


 グレアムが追う。


 セヴランは非常灯をつかみ、玻璃覆いを床へ叩きつけた。


 砕ける音。


 青い炎が露出する。


 古い革表紙を火へ突き出した。


「これさえなければ!」


 封蝋の角が、熱を受けて艶を帯びる。


 紙の縁が茶色く縮み始めた。


 ミラベルが手を伸ばす。


 レオンがその腕をつかんだ。


「離してください!」


「間に合わない」


「原簿が!」


 炎へ入る。


 その直前。


 白い外套が、統制室上部の保守梁から翻った。


 銀飾りの杖が、セヴランの手首を下から跳ね上げる。


 原簿が宙へ浮いた。


 白手袋に包まれた手が、落ちてきた革表紙を受け止める。


 淡い仮面。


 白鴉の羽根を思わせる襟飾り。


 怪盗紳士ルヴェールだった。


「危ないところでした」


 焦げかけた頁の角を、白手袋で軽く払う。


「返せ!」


 セヴランが手を伸ばした。


 ルヴェールは半歩退いただけで避ける。


「予告状をお読みにならなかった?」


 仮面の奥で、目だけが細くなる。


「今宵、午前零時。時を失った者たちの所有権を、頂戴すると申し上げた」


「それは統制局の所有物だ!」


「もともと、あなた方のものではないでしょう」


「盗人が正義を語るな!」


「正義を盗む趣味はありません」


 ルヴェールは焦げた角を見る。


「ただ、燃やされる前の記録を盗むことはあります」


 セヴランが、再び飛びかかる。


 その腕を、グレアムの警棒が外側へ払った。


 警部は低く踏み込み、セヴランの重心を崩す。腕を背へ回し、制御卓へ押さえつけた。


 真鍮製の手錠が鳴る。


「セヴラン=コルベット」


 両手首へ輪を掛ける。


「オットー=ヴァール殺害の容疑で逮捕する」


「私は都市を守った!」


「その説明は取調室で聞く」


「私がいなければ、標準時網は――」


「お前がいないあいだも」


 グレアムは手錠を締めた。


「人間が止めとる」


 中央駅で赤灯を振った者。


 手動弁を閉じた技師。


 避難者を受け入れた者。


 異常な時刻の記録を残した者。


 都市は、一人の統制局長だけで動いていたのではない。


「連れていけ」


 警官二人がセヴランの左右へ立つ。


 鉄扉が開く。


 セヴランは、最後まで自分の行為を悔いた顔を見せなかった。


 自分は都市を守った。


 それだけを、なお信じている顔だった。


 扉が閉じる。


 靴音が遠ざかる。


 殺人犯は捕まった。


     *


「原簿を渡せ」


 レオンが言った。


 ルヴェールは、白い仮面の奥から探偵を見る。


「感謝の言葉が先では?」


「燃えていない」


「私が助けたからです」


「燃やそうとしたのは俺じゃない」


「相変わらず扱いにくい」


「渡せ」


 ルヴェールは原簿を持ったまま、ミラベルへ視線を移した。


「記録者は、どう思う?」


「警察へ渡してください」


「模範的だ」


「ただし、統制局だけには保管させないでください」


 グレアムが扉の前から睨む。


「ワトリア嬢」


「四十三年間、それで隠されました」


「今度は殺人事件の証拠品だ」


「証拠品だからこそ、原簿が存在することは公開する必要があります。原本を新聞社へ持っていくとは言いません」


「複写は欲しい?」


 ルヴェールが尋ねる。


「当然です」


「欲張りな記者だ」


「原本を盗みに来た人に言われたくありません」


「では、原本は誰のものだと思う?」


 ミラベルは焦げた頁の角を見る。


 土地を奪われた者。


 利益を得た者。


 署名した者。


 それを隠した制度。


 今ここで、所有者を一人に決められるものではない。


「今は証拠です」


 ミラベルは答えた。


「誰のものなのかは、全部読んでから決めるべきです」


 レオンが、わずかに頷いた。


「よい答えだ」


「珍しく褒めましたね」


「結論を急がなかった」


「誰かの癖が移りました」


「悪い癖だな」


 ルヴェールは小さく笑い、原簿をグレアムへ差し出した。


「警部」


「何だ」


「証拠品として受け取るなら、今度こそ取り返されないようになさって」


「誰にだ」


「怪盗に」


 グレアムの眉が跳ね上がる。


 ルヴェールは原簿を警部の胸へ押しつけるように渡した。


 その瞬間、白い紙羽根が数枚、視界を横切った。


「待て!」


 グレアムが原簿を抱えたまま手を伸ばす。


 白い外套は、すでに統制室上部の保守梁へ翻っていた。


 銀索が鳴り、ルヴェールは天井近くの通気扉へ向かう。


「降りてこい!」


「今夜、盗むべき記録は」


 高い場所から声が落ちる。


「すでに大陸中へ配られているようですので」


「それと逮捕は別だ!」


「街が残ってから、改めて」


「逃げるな!」


 白い外套が通気扉の向こうへ消えた。


 エレノアが、ほんの少し笑った。


「笑うな、クラウス家の末娘!」


「笑っていません」


「あとで事情聴取だ!」


「怪盗を見つけた功績は?」


「無断行動と相殺だ!」


     *


 統制室の警報が一斉に鳴った。


 殺人事件が解決したことなど、機械は知らない。


「契約認証系統、排圧上昇!」


 モルガが床下から叫ぶ。


「迂回管の接続部が持ちません!」


「《第十三時》、残り三分!」


 ヘルガが赤い弁を押さえる。


「このまま送信が進めば、全受信記録が確定する!」


「完全停止すれば」


 エドガーが尋ねる。


「交通系統は落とせます」


 モルガが答えた。


「白線は?」


 ミラベルが訊く。


「記録印字も止まる」


 ヘルガの返答は短かった。


「《十一分訂正原簿》の複製は」


「消える可能性が高い」


「今夜の事故記録も?」


「同じ白線にある。途中までの印字を、不完全記録として破棄する機械もある」


 グレアムが抱えている原簿。


 床へ流れ続ける複製記録。


 中央駅で列車を止めた者たちの記録。


 運河橋へ走った保守工。


 黒鴉館へ避難した者。


 すべてが、同じ異常時刻の中へ置かれている。


 セヴランは原簿を燃やそうとした。


 真実を消し、制度を守ろうとした。


 だが、都市を救うために時刻網を完全停止すれば、結果として同じことが起きる。


 都合の悪い十三分が、再び存在しなかったことになる。


「レオンさん」


 ミラベルが言った。


「殺人は、解決したんですよね」


「ああ」


「オットーさんは、午後十一時四十一分ごろ、旧時刻資料庫で襲われた」


「正確な死亡時刻は検死後だ」


「死体は校正筒で基準振子室へ運ばれ、《第十三時》の死亡記録を与えられた」


「ああ」


「教授の起こした異常時刻を、セヴランが利用した」


「ああ」


 ミラベルは、補正記録器を見上げた。


「では、《第十三時》に死んだ者はいない」


 レオンも同じ表示を見る。


「いない」


 オットー=ヴァールは、《第十三時》が始まる前に殺されていた。


 存在しない時刻に置かれたのは、死そのものではない。


 死体と。


 懐中時計と。


 死亡記録だった。


 殺人犯は捕まった。


 死者が、どこで。


 どのように殺され。


 なぜ存在しない死亡時刻を与えられたのかも明らかになった。


 それでも、《第十三時》は終わっていない。


 モルガが床下から叫ぶ。


「補正圧、上昇!」


 ヘルガが赤線を押さえる。


「決めろ! 記録ごと止めるのか、このまま確定させるのか!」


 ミラベルはレオンを見る。


「どうするんです」


 レオンは、午前零時を示す針時計と、《第十三時》を刻む記録時計のあいだに立っていた。


「消さない」


 静かに答える。


「でも、成立もさせない」


「そんなことができるんですか」


「今から作る」


 殺人は解決した。


 だが、《第十三時》に生きた者たちは。


 まだ、その十三分を失おうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。