第8節 ― 失われた十一分
旧時刻資料庫で見つかったものは、原則として、その場へ残された。
校正筒の旧搬入口。
敷居と筒内壁に残る、血液らしき染み。
濃紺の繊維。
空になった原簿保管孔。
床へ落ちた白い紙羽根。
グレアム警部の指示を受けた警官たちは、それぞれの位置を測り、発見時の状態を記録した。昇降筒の扉も、回転させた地方時計も、そのまま固定されている。
標準時統制室へ運ばれたのは、オットー=ヴァールの黒い手帳だけだった。
正確には。
ニルス=ヴァールが、自分の両手で抱えて運んだ。
グレアムが封印布を掛け、ニルス自身が紐を結び、警部の印章で蝋を押した。それでも少年は、手帳をほかの者へ預けようとはしなかった。
重量錘区画の震える保守橋を渡るあいだも。
警報音の響く階段を降りるあいだも。
黒い油布の表紙を、胸へ押し当てていた。
まるで、紙の中へ残された祖父まで、もう一度機械に運ばれてしまわないように。
*
標準時統制室では、都市がなお二つの時刻に引き裂かれていた。
壁面上部の針時計は、午前零時を過ぎた時刻を刻んでいる。
その下に並ぶ補正記録器では、《第十三時》が継続していた。
鉄道。
運河。
工場。
銀行。
契約法院。
各系統から届く警告紙が長机を覆い、床へ溢れている。
通信係は休む間もなく金属鍵を打ち続けていた。
カタタタタタ――。
その一方で、旧時刻資料庫の地下記録線から送られてくる訂正情報が、別の印字機から絶え間なく吐き出されている。
契約番号。
地番。
譲渡元。
取得者。
権利放棄者。
承認官。
現行機械が意味を判別できない古い符号。
紙帯はすでに何本もの長机を越え、白い蛇のように床へ折り重なっていた。
「これは、原簿を頁ごと複写したものではありません」
エドガー=クラウスが、送信紙の先頭と後続の形式を照合していた。
「旧原簿に記載された情報を、現行の訂正記録形式へ変換しながら送っています。頁の配置や欄外の注記、原文の筆跡は残らない」
「中身は読めるのか」
グレアムが尋ねた。
「契約の索引番号、当事者名、土地、権利、成立時刻。少なくとも、その骨格は残っています」
エドガーは、古い記号がそのまま印字された欄を示した。
「ただし、制定委員会が、なぜその処理を認めたのかまでは分からない。現行機械は、理由を意味として読み取れないからね」
「機械が読めないなら、人間に読ませる」
グレアムの視線が、統制室の隅へ向いた。
そこには小机が一つ用意されていた。
リュシアン=アストは銀縁眼鏡を掛け、手袋を新しいものへ替えている。机の上には、ニルスが運んだ黒い手帳と、旧エルフ暦の対照表、送信記録の複写が並べられていた。
「読めることと、読んでよいことは、少し違います」
リュシアンが言った。
「今は読んでくれ」
グレアムは答えた。
「街を救うために許可証が必要なら、あとで俺が始末書を書く」
「警部の始末書は、古文書より解読が難しそうですね」
「古書屋にまで言われたくない」
リュシアンの口元へ、かすかな笑みが浮かぶ。
しかし、黒い手帳へ視線を戻したとき、その笑みは消えた。
「ニルスさん」
少年へ静かに呼びかける。
「封を開きます」
ニルスは、手帳を両手で抱えたまま立っていた。
顔色は悪い。
それでも、迷った末に頷いた。
「祖父は、クラウス探偵へ話すつもりでした」
ニルスはレオンを見た。
「だったら、隠しておくために書いた手帳ではありません」
「私的な記述が含まれている可能性もあります」
「それでも読みます」
「読む必要がない箇所は、こちらで止めます」
リュシアンはグレアムへ目を向けた。
警部が封印を確認し、蝋印を割る。
封印布が外され、黒い油布の表紙が現れた。
角の二重縫い。
染み込んだ機械油。
長く作業着の内ポケットへ入れられていたため、手帳は人の身体へ沿うように緩く曲がっている。
リュシアンは、その最初の頁を開いた。
*
手帳の前半は、時計技師の記録だった。
鐘の調律。
軸受けを交換した日。
気温と振子周期のずれ。
蒸気圧。
歯車の摩耗。
旧校正筒から聞こえる異音。
簡潔な数字と、必要最低限の注意書き。
一行だけを読めば、無味乾燥な保守記録にすぎない。
だが、頁を重ねれば。
オットー=ヴァールという時計技師が、四十三年間、何を見て塔を守ってきたのかが分かった。
故障する前に交換した部品。
誰にも気づかれない程度の遅れ。
現行図面から外された機構。
必要がないと判断されながら、完全には切り離されなかった設備。
老人の人生は、説明ではなく、修理した箇所の積み重ねとして残されていた。
「祖父らしい」
ニルスが呟いた。
「人の誕生日は忘れるのに、歯車を替えた日は覚えていた」
「歯車は、交換日を勝手に変えんからな」
床下の旧補正機構を調べていたヘルガ=ツァーンが言った。
ニルスの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑いにはならない。
それでも一瞬だけ、祖父が生きていた時間へ戻った顔だった。
リュシアンが頁を進める。
やがて、紙の色が変わった。
後年に差し込まれた紙。
さらにその先では、筆跡も違っている。
若い頃の、太く勢いのある文字。
数十年後に書き加えた、震えを含む細い文字。
「ここです」
リュシアンが言った。
頁上部には、四十三年前の標準時制定日。
その下へ、制定当夜の作業が記されている。
> 中央親時計、地方時にて午後十一時四十九分。
> 制定委員会命令により停止。
>
> 新標準時、午前零時へ針を送る。
ミラベルは、リュシアンの横から文字を追った。
「午後十一時四十九分の次が、午前零時」
「十一分が抜けている」
レオンが言った。
「時計を進めただけでは?」
ニルスが尋ねた。
「祖父からは、都市ごとの時刻差を合わせるためだったと聞いていました」
「機械の作業としては、その説明で正しい」
レオンは手帳を見たまま答える。
「針を進めれば、表示上の時刻差はなくなる」
「でも、その間にも人間は生きていた」
ミラベルが言った。
自分の手帳へ、二つの言葉を書く。
> 時間。
> 時刻。
「消えたのは、時間ではないんですね」
「ああ」
レオンは答えた。
「時間は過ぎる。時刻は、人間がその経過のどこへ名をつけるかだ」
「時計を午後十一時四十九分から午前零時へ進めても、人間は十一分間、生き続けていた」
「だが、制度は、その十一分へ時刻の名を与えなかった」
リュシアンが、次の一行を読み上げた。
> 制定委員会より、調整時間中の記録は、午前零時成立として処理せよとの通達。
その一文だけ、筆圧が強い。
若いオットーが、受けた命令をそのまま書き写した文字だった。
そして、頁の余白には。
数十年後に加えられた細い筆跡が残っていた。
> わしは、時計を進めた。
> 契約を進めたとは知らなかった。
ニルスの呼吸が止まった。
「祖父も、関わっていた」
「時計を進めたことは事実です」
ミラベルは、答えを急がなかった。
「そのとき、契約処理まで進められると知らなかった可能性もある」
「知らなかったから、悪くないんですか」
少年の声が硬くなる。
「そうは言いません」
ミラベルは、ニルスの目を見た。
「あとで不正を知りながら、長く話さなかったことも消えません。最後に告白しようとしたからといって、四十三年の沈黙まで、なかったことにはできない」
ニルスの指が強く握られる。
「では、祖父は何のために」
「それを、これから読むんです」
「読めば、昔のことが変わる?」
「変わりません」
ミラベルは静かに言った。
「だから、残すんです」
慰めるための嘘は言わない。
祖父へ失望する権利まで、孫から奪わない。
ニルスは顔を伏せた。
しばらくして、自分から言った。
「続きを読んでください」
*
後年の頁には、オットーが調べた集計が記されていた。
> 調整時間内の契約処理 三百十二件。
すべての契約内容を写したものではない。
土地譲渡。
権利放棄。
鉄道敷設承認。
地下水路使用権。
工房建設地。
旧神殿跡。
旧エルフ居住地。
分類ごとの件数と、原簿の索引番号。
それだけだった。
「三百十二件」
グレアムが低く繰り返した。
「十一分のあいだにか」
「一件ずつ、その場で署名したわけではない」
レオンが言った。
「事前に署名と印章を揃えた契約書を、その十一分の成立記録へ入れた」
「署名そのものは本物」
ミラベルが言う。
「印章も、本人のもの」
「少なくとも、原簿は正規の署名と印章として扱った」
エドガーが訂正した。
彼は送信記録の先頭へ印字された見出しを示す。
> 対象記録総数 三百十二件
オットーの集計と、送信見出しの総数が一致している。
今、この場で三百十二件を一件ずつ精査したわけではない。
個々の契約内容も。
当事者の事情も。
土地の現状も。
まだ確認できていない。
それでも、《十一分訂正原簿》が一件の取引ではなく、三百十二件の権利移動を扱っていたことは確認できた。
「正規の署名があれば、契約は有効なのか」
グレアムがエドガーへ訊いた。
「署名だけでは足りない」
エドガーは答えた。
「当事者に権利があり、意思表示があり、契約を成立させられる日付と時刻があり、法的な手続きが完了していなければならない」
「署名した人間は、その時間に土地を譲ったつもりだった」
ミラベルが言う。
「そこも、個々の契約を確認する必要がある」
エドガーの声は冷静だった。
「署名が本物でも、署名した条件と、記録された成立条件が同じとは限らない」
「署名は正しい」
グレアムが言った。
「印章も正しい。承認官もいる。だから、あとから見れば正規の契約に見える」
「成立時刻だけが、本来存在しない」
ミラベルが続ける。
「そして、存在しないはずの時刻を、制定委員会が午前零時として処理した」
「正規の書類を、不正な時刻へ置いた」
レオンが言った。
「あるいは、不正な時刻を、正規の書類が成立できる時刻へ書き換えた」
三百十二件。
数字だけなら、一行で済む。
だが、その一件ごとに。
土地がある。
家がある。
水路を使っていた共同体がある。
工房を営んでいた者がいる。
神殿を守っていた者がいる。
署名した者。
取得した者。
異議を申し立てた者。
正規の契約だと退けられた者。
三百十二という数字は、紙の枚数ではなかった。
その後の都市が、どこへ建ち、誰が富み、誰が土地を失ったのかを決めた件数だった。
*
「アストさん」
レオンが、送信記録の成立時刻欄を示した。
同じ古い記号が、複数の契約へ繰り返し印字されている。
二本の枝を交差させ、その間へ細い月を置いたような符号。
「現代の対照表では」
リュシアンは旧エルフ暦を開いた。
「午後十一時五十分前後に相当する記号として分類されています」
「削除された十一分の中です」
ミラベルが言う。
「現代時刻へ単純に置き換えるなら」
リュシアンは記号の横にある古い注釈を確認した。
「ですが、これは本来、十一時五十分という数字を表しているのではありません」
「では、何だ」
グレアムが尋ねた。
「一日の境界です」
リュシアンは、旧暦の頁へ指を触れずに沿わせた。
「旧エルフ暦では、一日が閉じてから、次の日の名が定まるまでの間を、どちらの日にも属さない境界として扱いました」
「夜の一部ではあるが、日付がない?」
ミラベルが言った。
「近いですが、もう少し厳密です」
リュシアンは言葉を選んだ。
「人はそこに存在し、行動もできます。しかし、契約や相続、権利移転の成立日を置くことはできない」
「契約をしてはいけない時間だった」
グレアムが言う。
「禁止とは少し違います」
リュシアンが首を振った。
「成立させる日付そのものがないため、契約を完結できなかったのです。署名を交わしても、いつ有効になった契約なのかを定められない」
「当時のエルフたちは、時計を読み違えたわけではない」
レオンが言った。
「はい」
リュシアンの声から、普段の遠回しな柔らかさが消えていた。
「彼らの制度では、そもそも契約を成立させられない境界だった」
「それを新しい標準時へ置き換え」
ミラベルは、午前零時成立とされた記録を見る。
「契約できる時刻へ変えた」
「旧時刻を近代時刻へ翻訳したのではありません」
リュシアンは答えた。
「契約不能という意味を、翻訳の途中で消したのです」
グレアムが鼻から重く息を吐いた。
「時計を十一分進めている間に、土地を動かした」
「その目的で時刻を進めたと断定するには、制定委員会の判断記録が必要だ」
レオンが言う。
「原簿の欄外記録や会議記録を、まだ確認できていない」
「三百十二件も重なっていて、偶然を残すのか」
「不自然だとは言える」
レオンは、手帳と送信記録を並べた。
「時計の調整と三百十二件の契約処理が、同じ十一分へ置かれた。偶然と考えるには不自然すぎる。だが、計画を証明する記録は、まだ届いていない」
「疑っているんでしょう」
ミラベルが訊いた。
「強くな」
「それでも、証明とは言わない」
「言葉を早めれば、四十三年前と同じになる」
正しい言葉。
正しい署名。
正しい印章。
それらを、都合のよい位置へ置く。
その結果が、目の前の三百十二件だった。
*
ミラベルは通信卓へ向かった。
「ヴェルム=クロウへ一線、借りられますか」
「鉄道局の緊急通信が優先です!」
通信係は、複数の紙帯を捌きながら答えた。
「短く済ませます。四十三年前の標準時制定夜について、証言を一つ確かめたいんです」
「今ですか?」
「今でなければ、十一分が何を意味したのか分からない」
通信係は判断しかね、エドガーを見る。
エドガーは一度だけ頷いた。
「一往復だけだ」
「ありがとうございます」
ミラベルは金属鍵の前へ座った。
宛先は、ヴェルム=クロウ。
霧燈通り十三番地。
黒鴉館一階、《煤鳩亭》。
マルタ=グレイン。
長く書けば、送信へ時間が掛かる。
短すぎれば、何を尋ねているか伝わらない。
ミラベルは文面を削り、必要なことだけを送った。
> マルタさん。
> 四十三年前、クロック=ベルン標準時が導入された夜について、覚えていることはありませんか。
> 午後十一時四十九分から午前零時までの十一分です。
> 時計についての話だけでも構いません。
> ミラベル。
通信係が符号へ変換し、鍵を打つ。
カタ。
カタタ。
カタ――。
新聞通信所を経由して、短い言葉がヴェルム=クロウへ走っていく。
「届きますか」
ミラベルが尋ねた。
「中継線が切れなければ」
「返事は?」
「向こうの通信所が動いていて、《煤鳩亭》まで届けられれば」
確かな条件は一つもなかった。
環状鉄道は止まりかけ。
運河橋は異常命令を受け。
黒鴉館には、足止めされた市民や負傷者が集まっているかもしれない。
マルタ本人が通信を受け取れる保証もない。
それでも、ミラベルは通信卓の近くへ椅子を寄せた。
「返事が来るまで座っているのか」
レオンが隣へ来た。
「ただ待っているわけではありません」
「何をする」
「手帳の解読を書き写します。リュシアンさんが読んだ内容と、原文を分けて」
「原本へ触るな」
「分かっています」
「推測を本文へ混ぜるな」
「それも分かっています」
「なら、言うことがないな」
「黒鴉館を心配しているんですか」
レオンの目が、通信器へ動いた。
「マルタなら、建物が倒れる前に家賃台帳と請求書を運び出す」
「心配しているんですね」
「なぜ、その結論になる」
「優しさを全部、皮肉で包むからです」
「無駄な包装だ」
「私もそう思います」
通信機は、まだ沈黙していた。
レオンはそれ以上何も言わず、小机へ戻る。
だが、送信先一覧を読むふりをしながら、ときどき通信器へ視線を送っていた。
*
返事を待つあいだにも、解読は進んだ。
送信されている記録は、モリアン家だけを扱っているのではなかった。
旧エルフ居住地。
鉄道敷設予定地。
時計塔建設地。
地下水路。
工房区。
神殿跡。
共同墓地。
小規模な農地。
取得した側も、一つの種族や組織に限られない。
行政官の家。
鉄道会社。
工業商会。
土地管理組合。
新興の工房主。
その利益の上に、現在のクロック=ベルンとヴェルム=クロウが建っている。
リュシアンが、送信紙のある一行で手を止めた。
その沈黙に、モルガ=ブラスが気づく。
「何です」
「夫人」
「読んでください」
「詳細の確認が必要です」
「そのために読んでいるのでしょう」
リュシアンは、紙帯を机の上へ広げた。
取得者欄。
そこには、一人のドワーフの名がある。
姓は、ブラス。
その横へ。
現在もモルガが右手の印章指輪へ刻むものと同じ、古い家印が印字されていた。
モルガの手が止まった。
床下の機械油に汚れた指。
その親指へ嵌められた重い印章指輪。
彼女は紙面と指輪を、黙って見比べた。
「先代当主ですか」
ミラベルが尋ねた。
「さらに前です」
モルガの声は平静だった。
「ブラス重工商会が、まだ小さな真鍮工房だった頃の当主」
「取得した権利は」
グレアムが紙面を読む。
「工房建設地。地下水路使用権。鉄道支線の一部」
「今のブラス重工と関係があるのか」
「あります」
モルガは否定しなかった。
「その土地と水路を基盤に、工房は拡張した」
「十一分の中で成立した契約だと、知っていたんですか」
ミラベルが訊いた。
「知らない」
返答は即座だった。
「少なくとも、今夜まで私は知らなかった」
「証明できるか」
グレアムが尋ねる。
「今はできません」
モルガは、自分からそう答えた。
「私が知らなかったというのは、私自身の証言です。家の内部記録に何が残っているかは、調べなければ分からない」
レオンが紙面を確認する。
「現在、確認できるのは、ブラス家の先代名が対象記録にあること」
「その権利が、のちの商会拡張に使われたこと」
モルガが自分で続けた。
「先代が、十一分の処理を計画した証拠はない」
「ええ」
「あなたが隠蔽へ関与した証拠もない」
「ええ」
「だが、家が利益を受けた事実は残る」
モルガの顎が、わずかに上がる。
「そのようですね」
統制室に、機械の音だけが残った。
床下では、ブラス重工製の新しい歯車が、四十三年前の旧補正機構へ動力を奪われながら回っている。
その機械を止めようとしている女の家もまた、失われた十一分から利益を得ていた。
リュシアンが静かに言った。
「あなた方の歯車は、よく回りました」
モルガの目が彼へ向く。
「ですが、その下へ何が敷かれていたのか。今、機械が語り始めています」
「遠回しな非難なら、あとにしてください」
「非難ではありません」
「では、何です」
「確認です」
リュシアンの声は、どこまでも穏やかだった。
「今まで知らなかったものを、これから知ったままでいられるかどうかの」
モルガは答えなかった。
紙面へ視線を戻し、ブラス家の先代名を、今度は逸らさずに読んだ。
*
通信機が鳴った。
カタタ。
一度止まり。
さらに長い符号列が戻ってくる。
「ヴェルム=クロウから応答!」
通信係が紙帯を引き出した。
ミラベルは椅子から立ち上がる。
「マルタさんですか」
「黒鴉館、《煤鳩亭》。発信者、マルタ=グレイン」
紙帯へ、ぶっきらぼうな文章が印字されていく。
> 嬢ちゃん。
> こんな夜に昔話を聞く記者は、あんたくらいだよ。
その書き出しだけで。
煤鳩亭のカウンター。
太い腕。
珈琲の匂い。
叱るような声が浮かんだ。
> 時計ならある。
> 亡くなった亭主の懐中時計だ。
> 四十三年前の制定夜から、午後十一時四十九分で止まったままになっている。
>
> 壊れたんじゃない。
> 亭主が止めた。
>
> 駅の鉄道食堂で働いていた亭主は、時計を午前零時へ進めろと命じられた。
> だが、まだ午後十一時四十九分だと言って拒んだ。
>
> そのあと、職を失った。
ミラベルの指が、紙の端を強くつかむ。
次の文章は、少し間を置いて届いた。
> 当時は、偏屈な男だと思ったよ。
> みんな時計を進めた。
> 亭主だけが進めなかった。
>
> あたしも、時計が止まったんだと思っていた。
> でも今夜、そっちの時計が十三度鳴ったなら。
> 止まっていたのは、時計じゃなかったのかもしれないね。
最後に。
> 時計の裏蓋に、制定夜の日付と亭主の鉄道食堂員番号がある。
> 必要なら、事件が終わったあとで見せる。
>
> ただし、壊したらクラウスへ請求する。
張り詰めた統制室へ、ごく小さな笑いが起きた。
レオンだけは笑わない。
「なぜ俺だ」
「マルタさんですから」
ミラベルが答えた。
「説明になっていない」
「十分です」
ミラベルは通信紙を読み直した。
「今の段階では、マルタさんの証言です」
「ああ」
レオンが言う。
「懐中時計そのものは黒鴉館にある。停止状態、裏蓋の刻印、食堂員番号、雇用記録は事件後に確認する必要がある」
「だから、現物証拠とは書きません」
ミラベルは、自分の手帳へ分けて記した。
> 証言。
> マルタ=グレインの亡夫は、制定夜、時計を午後十一時四十九分から進めることを拒否した。
> その後、職を失った。
>
> 現物未確認。
> 懐中時計は事件後に照合予定。
書き終え、オットーの手帳を見る。
「時計塔の内側では、午後十一時四十九分から午前零時へ針が進められた」
続いて、マルタの通信紙。
「塔の外には、それを拒んだ人がいた」
「制度から十一分が消えても」
ニルスが言った。
「その十一分にいた人まで、消えたわけじゃない」
「ええ」
ミラベルは頷いた。
「働いていた人も。命令を拒んだ人も。そのために仕事を失った人もいた」
十一分は、空白ではなかった。
人間が生きた時間だった。
ただ、制度がその時間へ、時刻の名を与えなかった。
*
《十一分訂正原簿》の送信は、なお続いていた。
取得者。
譲渡者。
失われた土地。
放棄された権利。
紙帯へ、一つの名が打ち出される。
次の名。
次の土地。
次の家。
三百十二件。
モリアン家。
ブラス家。
ほかの旧家。
名も知られていない小さな土地所有者。
水路を共同管理していた者たち。
神殿を守っていた一族。
鉄道予定地から移された住民。
一件ごとに、現在まで続く結果がある。
「復讐だけなら」
ミラベルが言った。
「モリアン家の記録だけを公表すれば足ります」
レオンは、送信紙を読んでいた。
「ああ」
「でも、送信されているのは、三百十二件すべてです」
「少なくとも、送信見出しはそう示している。今まで届いた内容も、モリアン家へ限定されていない」
「では、教授の目的は」
「本人へ聞くまでは断定できない」
「また、それですか」
「必要だ」
「でも、推測はできます」
「続けろ」
ミラベルは、床いっぱいに延びた紙帯を見た。
「教授は、自分の家の土地だけを取り返したいのではない」
「そう考える根拠は」
「送信先です」
エドガーが持つ一覧へ目を向ける。
「中央記録庁だけではない。契約法院、銀行、鉄道局、各都市の記録機関、新聞通信所。同じ記録を、隠し切れない数の場所へ送っている」
「一か所なら封印できる」
エドガーが言った。
「一つの機関だけなら、閲覧禁止にもできる。複数の制度へ同時に届けば、同じ方法では消せない」
「新聞へ届けば、市民が読む」
ミラベルが続ける。
「法院へ届けば、契約の再審査を求められる。銀行へ届けば、土地を担保にした現在の契約へ影響する。記録機関へ届けば、元の台帳と照合できる」
「鉄道局へ送る理由は」
グレアムが訊いた。
「取得地の中に、鉄道用地が含まれている」
エドガーが答えた。
「現在の路線が、どの権利移転の上へ敷かれたかを示すためだろう」
「送信者がノクスなら」
レオンが言った。
「目的は、全記録を公開することにある可能性が高い」
「この都市が、何の上に建っているのか」
ミラベルは、ブラス家の名が印字された一行を見る。
「利益を得た側も、土地を失った側も、全員に読ませようとしている」
「一度広がった記録は」
リュシアンが呟いた。
「誰か一人の所有物ではなくなります」
グレアムは、鉄道系統の警告札を見上げた。
新しい異常報告が、また一枚吐き出される。
「告発のために、列車を衝突させる気か」
「目的を理解することと、手段を認めることは別だ」
レオンが答えた。
「過去の犠牲者を救うためなら、今の人間を犠牲にしていいと?」
ニルスが尋ねた。
リュシアンは、旧エルフ境界時の符号と、現在の事故警告を順に見た。
「失われた名を取り戻すために」
穏やかな声だった。
それでも、古い紙の奥から怒りが滲むように聞こえた。
「新しい失名者を作るなら、何も変わりません」
鉄道事故が起きれば、新しい死者の名が記録される。
工場炉が破裂すれば、働いていた者の時間がそこで終わる。
二つの時刻のあいだで契約が成立すれば、生きている者が制度の中で財産を失う。
過去に消された者を救うために。
現在の者を、新たに記録の外へ押し出す。
その方法まで正義とは呼べなかった。
「ノクスは、この危険を知らないわけではありません」
モルガが言った。
「この規模の時刻網を理解しているなら、補正信号が交通や工場へ何を起こすかも知っている」
「承知で動かしたと考えるのが自然だな」
グレアムの声が低くなる。
「それでも、消去するだけでは解決しない」
レオンが言った。
「《第十三時》を完全に消せば、《十一分訂正原簿》の送信記録も、途中まで届いた記録も、不正な時刻のものとして破棄される可能性がある」
「教授は」
ミラベルが言う。
「四十三年前と同じように、都合の悪い時間が再び消されたと主張できる」
「ああ」
「では、残せば?」
エドガーが答えた。
「過去の訂正記録だけではない。《第十三時》の中で成立した契約や命令まで、正式な現在として固定される可能性がある」
「消せば、真実が消える」
ミラベルは言った。
「残せば、偽装が成立する」
誰かが、そう選ばせるために。
二つの道だけを用意している。
レオンは床へ流れ続ける契約記録を見た。
次に、《第十三時》を刻む補正記録器。
そして、塔上部へ向かう信号管へ視線を移す。
「選択肢そのものが、設計されている」
「教授らしいと思いますか」
ミラベルが尋ねた。
「よく知っているつもりはない」
「でも、確かめに行く」
「ああ」
旧資料庫から始まった記録線。
補正軸。
鐘打ち装置。
時計盤制御。
それらは、塔のさらに上へ集まっている。
レオンが歩き出す。
「どこへ行く」
グレアムが腕をつかんだ。
「送信を続けている人間のところだ」
「場所が分かるのか」
レオンは天井を見上げた。
その先にあるのは、巨大な四面時計。
街のすべての時計が見上げている文字盤。
「分かりかけている」
記録機が、新たな一行を打ち出した。
ガチャン。
取得者。
譲渡者。
失われた土地。
四十三年前。
存在しなかったことにされた十一分の中へ押し込められた名が、現在へ戻ってくる。
十一分は、失われていたのではない。
失われたことにされていた。
そして今。
その十一分を全土へ返そうとしている者は。
時計盤の裏側で。
探偵が問いに来るのを待っていた。




