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第9節 ― 教授は時計盤の裏にいる

 《第十三時》開始から九分。


 標準時統制室では、誰も壁の時計を見なくなっていた。


 午前零時を過ぎた時刻を示す針時計と、存在しない《第十三時》を刻む記録時計。どちらの数字を読んでも、線路の上で列車がどこまで進み、運河橋がどの角度まで開き、工場炉の圧力がどれほど上がっているのかは分からない。


 人々が頼っているのは、機械の時刻ではなかった。


 線路脇で赤灯を振る鉄道員。


 橋梁の手動弁へ走った保守工。


 炉前から作業員を退避させた工場長。


 それぞれの現場から届く、人間の目と声による報告だった。


 エドガー=クラウスは中央卓に立ち、各都市から届く通信を鉄道、運河、工場、契約機関へ分けている。


 グレアム警部は、現場目視を優先するよう各警察署と鉄道局へ命令を送り続けていた。


 リュシアン=アストは、《十一分訂正原簿》から複製された記録を保全し、ニルス=ヴァールは祖父の黒い手帳のそばを離れない。


 エレノアは、警官二人に左右を固められていた。


「逃げません」


「怪盗を追った者の言葉は信用せん」


 グレアムは通信鍵から顔も上げずに答えた。


「今度は、追う前に言います」


「追うことをやめろ」


「それでは見つけられません」


「見つけるのは警察の仕事だ」


「警察より先に、私が見つけました」


「クラウス!」


 警部の怒声に、レオンとエドガーが同時に顔を上げた。


「どちらだ」


「妹を管理する方だ!」


「兄さん」


 レオンが言うと、エドガーは通信紙を仕分けながら答えた。


「君の妹でもあるだろう」


「私は都市を管理している。妹まで手が回らない」


「家族を都市より後へ置くのね」


「君は都市より小さいが、修復は都市より難しい」


「心配しているように聞こえません」


「必要なことは伝わっただろう」


「面倒な家族ですね」


 ミラベルがレオンへ囁いた。


「君も含まれつつある」


「どういう意味です?」


「説明している時間がない」


 レオンが見ていたのは家族ではなく、中央操作卓へ重ねられた三枚の図面だった。


 現行の時刻送信図。


 標準時制定当時の旧機構図。


 ヘルガ=ツァーンが床下で確認した補正軸の写図。


 三枚は、同じ塔を描いていながら、完全には重ならない。


 現行図面から消された細い配管が旧機構図では塔の中央を上り、鐘楼の打鐘軸と四面時計の表示軸の間を抜け、時計盤裏の保守区画へ伸びていた。


「下部補正弁、閉鎖!」


 床下からヘルガの声が上がった。


 モルガ=ブラスが圧力計を確認する。


 針は一度だけ震えた。


 しかし、ほとんど下がらなかった。


「補正圧、継続しています」


「閉じ方が甘いのか」


 グレアムが言う。


「全閉だ!」


 ヘルガは床下から這い出した。額から頬へ機械油が流れ、作業着の肩には黒い汚れが広がっている。


「この階からの圧力供給は切れた。それでも上側から戻ってくる」


「逆流している?」


 ミラベルが尋ねた。


「下の弁より上に、別の供給点がある」


 モルガは圧力管へ耳を寄せた。


 金属の内側を、一定の間隔で蒸気が脈打っている。


「下を閉じたことで流量は少し落ちました。しかし、送信を止めるほどではありません」


 レオンは三枚の図面を重ね直した。


 補正軸は鐘楼で一度分岐している。


 一方は十三度目の打鐘命令へ。


 もう一方は、各都市へ《第十三時》を送る記録線へ。


 その二つを同時に調整できる位置は、現在の統制室にはなかった。


「始動後の計数は自動です」


 ミラベルが言った。


「十三段の計数輪は、人が触らなくても進んでいる。それなら、上で何を操作しているんです?」


 ヘルガが、旧図面の一点へ油に汚れた指を置いた。


「送信圧だ。大陸中の受信機へ同じ内容を通すには、距離と機械抵抗に合わせて圧を調整し続ける必要がある」


「自動調整ではない?」


「旧機構は手動だ。現在の送信網へ無理に接続したなら、なおさら人が見張らなければならない」


「操作点は」


「時計盤裏」


 ヘルガは、四面時計の中心軸付近を示した。


「鐘楼でも打鐘命令は送れる。だが、補正軸、記録線、四面時計の表示を同時に確認できるのは、ここしかない」


 レオンは図面を畳んだ。


「教授は、時計盤の裏にいる」


「塔上部でノクスらしき人物が目撃された、という証言はあります」


 ミラベルが慎重に言った。


「本人だと確定したわけではありません」


「ああ」


「それでも、教授だと?」


「操作している人間はいる」


 レオンは、下部の弁を閉じても下がらない圧力計を見た。


「それが教授なら、俺がここまで来るのを待っている」


「違ったら?」


「操作を止める」


 レオンが杖を取る。


 その動きを、グレアムは見逃さなかった。


「警官を連れていけ」


「ここへ残せ」


「一人で教授を逮捕できると思っているのか」


「逮捕するとは言っていない」


「なら、何をする」


「話を聞く」


 グレアムの太い眉がさらに寄った。


「街中の時計を狂わせた男から、礼儀正しく講義を受けて帰ってくるつもりか」


「あの男は、聞かせるためにこの夜を作った」


「だから一人で来いと?」


 ミラベルが訊いた。


「大勢で行けば、教授は別の人間を選択肢へ置く」


 列車。


 運河橋。


 工場炉。


 すでに都市そのものが、人質ではなく選択肢として配置されている。


 誰か一人を連れていけば、その者もまた、レオンへ何かを選ばせるために利用されるかもしれない。


 ミラベルは手帳を握り直した。


「私は?」


「ここに残れ」


「またですか」


「君が上へ来れば、下で記録する者がいなくなる」


「教授の言葉も、記録する必要があります」


「今、都市で何が起きているかの方が必要だ」


 レオンは、ミラベルの手帳を指した。


「《十一分訂正原簿》だけではない。列車を止めた者、橋の弁を閉じた者、炉から人を逃がした者を残せ。時計の命令ではなく、人間の判断で街を守った者たちを」


「命令ですか」


「頼んでいる」


 ミラベルの目が、わずかに大きくなった。


 レオンは視線を図面へ戻した。


「珍しいですね」


「二度は言わない」


「帰ってきたら、もう一度頼んでもらいます」


「必要があればな」


「必要にします」


 グレアムが二人の間へ入り、小型の警笛をレオンへ投げた。


 レオンは片手で受け取る。


「危険なら鳴らせ」


「鐘より聞こえるか?」


「皮肉を言えるなら、まだ大丈夫だな」


 レオンは警笛を外套の内側へ収めた。


「兄さま」


 エレノアが呼んだ。


「動くな」


「まだ何も言っていない」


「顔に書いてある」


「私だけ置いていくの?」


「ああ」


「教授の仕掛けを見つけるのに、私も役に立ったでしょう」


「だから、今度は警官二人のあいだから動くな」


「戻ったら説明して」


「戻る前提で話せ」


 エレノアは、一瞬だけ黙った。


 強がった言葉を選ぶこともできたはずだった。


 だが、彼女はそうしなかった。


「では、必ず戻って説明して」


 レオンは妹の顔を見た。


 返事はしない。


 それでも、いつものように無視して歩き出すまでに、ほんのわずかな間があった。


     *


 第七層の鐘楼には、十三度目の鐘がまだ鳴っているような震えが残っていた。


 実際には、巨大な大鐘も打鐘鎚も、すでに静止している。


 それでも、鐘の内部へ閉じ込められた振動が石床と鉄骨を渡り、靴底へ微かに伝わってきた。


 十二の時刻鐘。


 その中心に吊られた大鐘。


 打鐘鎚。


 鋼索。


 自動打刻機。


 目に見える範囲では、どこにも人が直接触れた形跡はない。


 十三回目の命令は、別の場所から届いた。


 壁面を這う細い機械軸が、鐘楼からさらに上へ伸びている。


 レオンは大鐘の下を通り、塔壁へ取り付けられた螺旋階段へ足を掛けた。


 上るにつれて、外から吹き込む風の音が強くなる。


 鉄段は狭く、靴を置くたびに低く鳴った。右側には塔の石壁があり、左側の手摺の向こうには鐘楼の空洞が落ち込んでいる。


 レオンは杖を前へ置き、段差と床面を確かめながら上った。


 教授が待っているとすれば、罠を用意している可能性はある。


 しかし、階段には新しい仕掛けも、切られた支柱も見当たらない。


 待つ者は、上ってこられなければ意味がない。


 時計盤裏へ続く鉄扉は、数センチだけ開いていた。


 錠は壊れていない。


 鍵で開けられたのか。


 最初から施錠されていなかったのか。


 扉の前に立っただけでは判断できない。


 レオンは取っ手へ手を掛けず、杖の先でゆっくり押した。


 蝶番が低く軋む。


 開いた隙間から、蒸気と機械油、夜の冷気が混ざった空気が流れ出した。


     *


 時計盤の裏側は、巨大な夜の内臓だった。


 乳白色の玻璃板。


 その向こうへ、外側から見える黒い数字の影が貼り付いている。


 人間の背丈を超える一と二。


 それらの中央を、短針と長針を動かす太い回転軸が貫いていた。


 大小の歯車。


 黒い鎖。


 調速輪。


 送信管。


 外周を半円状に巡る、狭い鉄の保守橋。


 玻璃の向こうには、クロック=ベルンの街が広がっている。


 中央駅。


 工房区。


 鉄道線。


 運河。


 街路の灯りが巨大な数字を通し、細かな断片へ砕かれていた。


 市民は、この時計盤を見上げている。


 しかし、時計盤の裏側に立つ者の姿を見ることはできない。


 レオンは扉の内側で足を止めた。


 正面には補正機構。


 右には外周保守橋。


 左側の鉄階段は、文字盤中央の回転軸へ続いている。


 床の一部は格子状で、その下には回転する歯車が見えた。


 補正機構の前に、一人の男が立っている。


 長身。


 細身。


 銀灰色の髪を後ろで低く束ねていた。


 黒いフロックコート。


 深紫のクラヴァット。


 銀の時計鎖。


 黒い手袋。


 右手には、先端へ銀飾りを持つ黒檀の杖。


 左手は、送信圧を調整する旧式の輪へ添えられている。


 杖の先は床へ置かれていた。


 しかし、体重を預けてはいない。


 右足は補正機構側。


 左足は外周保守橋へ向けられている。


 会話を続けながら機械を操作することも。


 必要なら、そのまま橋へ退くこともできる立ち位置だった。


 ノクス=モリアンは、振り返らなかった。


「九分」


 穏やかな声だった。


「思ったより早かったね、クラウス君」


「遅い」


 レオンは扉から数歩だけ入った。


 教授とのあいだには、補正機構へ伸びる送信管と、二人が杖を振れるだけの距離が残っている。


「一人死んでいる」


「聞いている」


 その声には、驚きも悲しみもなかった。


 ただ、予定表へ余分な項目を見つけた者のような、薄い不快感だけがある。


 レオンはノクスの背中ではなく、左手を見ていた。


 黒い手袋に包まれた指が、調整輪の縁へ置かれている。


 少し動かすだけで、送信圧を変えられる位置だった。


 右手の黒檀杖は床にある。


 だが、握りは緩んでいない。


「機械から手を離せ」


「それは難しい」


 ノクスが調整輪をわずかに回した。


 送信管が脈動する。


 記録帯が一段進み、四十三年前の契約記録が、また一件、遠い都市へ送られた。


「下部の弁は閉じた」


 レオンが言った。


「それでも圧が落ちない」


「だから、ここへ来た」


「残る手動操作点は時計盤裏だけだ」


「正解だよ」


 ノクスは、ようやく振り返った。


 薄紫の瞳。


 整った顔立ち。


 穏やかな微笑。


 初めて会う相手へ向ける表情ではない。


 長い講義の最後に、ようやく教壇の前へたどり着いた学生を迎える教授の顔だった。


 レオンはさらに一歩だけ進んだ。


 ノクスの左手は、まだ機械から離れない。


 二人の間は、会話の距離であり、同時に杖を打ち込める距離でもあった。


「止めれば、下にいる者たちが困る」


 ノクスが言った。


「動かしていても困っている」


「だが、彼らは今、選んでいる」


「お前が選ばせた」


 ノクスの笑みが深くなった。


「そこまで読んだか」


「オットーへ、告白する機会を与えた」


「彼には必要だった」


「セヴランへ、その告白を知らせた」


「制度を守る者にも、選択の機会は必要だ」


「ルヴェールへ、原簿の隠し場所を渡した」


「封印された所有権を、彼女なら正しく盗める」


 レオンは、それ以上、人名を並べなかった。


 誰が。


 どの事実を与えられ。


 どの場所へ置かれたのか。


 すでに十分に読めている。


「全員を、必要な場所へ置いた」


「適した者へ、必要な情報を渡しただけだよ」


「命令していないと?」


「私は誰にも命じていない」


 ノクスは黒檀杖の先を鉄床へ置き直した。


 乾いた金属音が一つ響く。


「オットーは告白を選んだ。セヴランは制度を守ることを選んだ。ルヴェールは盗むことを選び、君はここへ上ってきた」


「お前が用意した選択肢から」


「人間は常に、与えられた選択肢から選ぶものだ」


「だから、選んだ本人だけの責任だと?」


「私は情報を置いた」


 ノクスの声は、穏やかなままだった。


「誰の手も取っていない。誰にも刃を握らせていない。命令書へ署名もしていない」


「燃えるもののそばへ火を置いた」


「火を取るかどうかは、人間が選ぶ」


「燃えると知っていた」


「可能性は知っていた」


「排除しなかった」


「すべての可能性を排除すれば、誰も行動できない」


 レオンは、教授の言葉よりも、そのときの動きを見ていた。


 ノクスは調整輪から手を離さない。


 責任について語りながら、《第十三時》を維持する操作を続けている。


「オットーを殺したのは誰だ」


「知らない」


「お前ではないと?」


「そうだ」


「証明は」


「君が探したまえ」


「旧資料庫へ入った痕跡はない。死体を校正筒へ載せた証拠も、今のところない」


「なら、探偵としての答えは?」


「お前が殺したとは、まだ断定できない」


「優秀だ」


「だが」


 レオンは一歩進んだ。


 ノクスの杖先が、ごくわずかに向きを変える。


 床へ置かれたまま、銀飾りの先端だけがレオンの足元へ向いた。


「オットーが告白しようとしていると、セヴランへ知らせた」


「知らせた」


「セヴランが何を失うかも知っていた」


「彼の立場は理解していた」


「殺意が生じる可能性も」


「可能性は、必然ではない」


「起きても構わないと考えた」


「違うね」


 ノクスは杖を持ち上げ、空中へ一本の線を引いた。


「私の設計は、告白と暴露と選択によって完成するはずだった。死者は必要ではない」


「必要でなければ、お前の責任ではない?」


「殺人は、私の設計へ紛れ込んだ余計な一行だ」


 時計盤裏の歯車が一斉に噛み合った。


 ガァン。


 重い振動が足元を揺らす。


 レオンは教授から目を逸らさなかった。


「人間を変数として置いた時点で、余計ではない」


 ノクスの笑みが止まった。


 完全には消えない。


 ただ、講義を楽しむ柔らかさが失われる。


「セヴランへ情報を渡せば、オットーが危険になる」


 レオンは続けた。


「ルヴェールを呼べば警備が動く。俺を呼べば殺人が調べられる。必要な人間が、予想したとおりに動くよう情報を置いた」


「彼らが、それぞれの意思で動いた結果だ」


「お前は、そう動くと知っていた」


「人を理解しただけだよ」


「人を機能として読んだ」


「適性を評価した」


「違う」


 レオンの声へ、初めて明確な怒りが混じった。


「傷を選んだ」


 オットーの罪悪感。


 セヴランが失うものへの恐怖。


 ルヴェールが、隠された所有権を見過ごせないこと。


 それぞれが最も強く反応する場所へ、教授は情報を置いた。


「最も痛む場所へ情報を差し込んだ」


「痛みは、人を正確に動かす」


「壊すこともある」


「壊れた結果まで、情報を置いた者の責任かね」


「火薬の隣へ火を置いて」


 レオンは言った。


「燃えるかどうかは、火薬が選んだとでも言うのか」


 薄紫の瞳が、わずかに細くなる。


「君は、ずいぶん道徳的になった」


「被害者が増えた」


「以前の君なら、責任より構造を見た」


「今も見ている」


 レオンは、送信圧調整輪、教授の左手、黒檀杖、外周保守路を順に見た。


「構造を作った者が、行為者の背後へ隠れている」


「私は隠れていない」


「時計盤の裏で、都市を見下ろしている」


 ノクスは玻璃の向こうへ視線を向けた。


 巨大な数字の隙間から、赤い灯りが動いている。


 線路脇を走る鉄道員か。


 橋梁へ向かう保守工か。


 この高さからは、一つ一つの人影までは判別できない。


「私は、消された記録を戻している」


「同時に、今いる人間を危険へ置いている」


「過去を守るために、記録をまた消すのかね」


「その話は、あとだ」


 レオンが遮った。


 ノクスの眉が、ごくわずかに上がる。


 制度。


 契約。


 四十三年前の正当性。


 教授が用意していた次の講義。


 レオンは、そこへ踏み込まなかった。


 今ここで問うべきなのは、過去と現在のどちらを選ぶかではない。


 人間を配置し、都市を危険へ置き、それでも自分は誰にも命じていないと言う男が、今も機械を動かしているという事実だった。


「機械から手を離せ」


 レオンが、もう一度言った。


「断れば?」


「止める」


「私を?」


「機械も。お前も」


「殺人の証拠はない」


「殺人については保留する」


 レオンは補正機構を示した。


「だが、お前は現に《第十三時》を動かしている。都市へ矛盾する命令を送り続けている」


「記録を戻すためだ」


「列車の中にいる者には、理由にならない」


「彼らを救うのは、下にいる者たちの選択だ」


「最後まで人へ選ばせるつもりか」


「それが、人間の自由だよ」


「選択肢へ刃を仕込んだ者が言うな」


 ノクスは、しばらくレオンを見ていた。


 送信管の脈動。


 玻璃板を鳴らす風。


 鉄橋の下で回る歯車。


 その間、二人とも動かなかった。


 ただ、レオンの杖は先ほどよりわずかに前へ出ている。


 ノクスの黒檀杖も、もはや床へ休ませる角度ではない。


 会話の距離だった空間が。


 次の一歩で、戦う距離へ変わろうとしていた。


 やがてノクスは、いつもの温度のない微笑へ戻った。


「君は、私を何と呼ぶ?」


「犯罪者なら、証拠が揃ってから呼ぶ」


「黒幕では?」


「便利すぎる言葉だ」


「では」


 教授の声が、少しだけ低くなる。


「今の私は、君にとって何だね」


 レオンは迷わなかった。


「敵だ」


 補正計数輪が、次の歯へ掛かった。


 ガチリ。


 ノクスは、その言葉だけを軽く受け流さなかった。


「敵」


 ゆっくりと繰り返す。


「君は今まで、私をそう呼ばなかった」


「証拠が足りなかった」


「今は?」


「都市を人質にしている現場を見ている」


 レオンは杖を握り直した。


「人物と情報を配置したことを認めた。危険を知りながら、計画を続けている」


「オットーの殺害は否定した」


「だから保留すると言った」


「慎重だね」


「お前がオットーを殺していなくても」


 レオンは言った。


「俺の敵であることは変わらない」


 ノクスの黒檀杖が鉄床を一度打った。


「ようやく」


 乾いた音が、巨大時計盤の裏へ広がる。


「同じ頁へ立ったね、クラウス君」


「違う」


「何が?」


「俺は、頁を読む」


 レオンは答えた。


「お前は、人間を頁の中へ閉じ込める」


 玻璃の表側では、大時鐘塔がクロック=ベルンへ午前零時を示し続けている。


 その裏側では、存在しない時刻を設計した男と、その記録を読む男が、初めて互いを明確な敵として見ていた。


 そして、二人が向き合っている同じ《第十三時》の下層では。


 エドガーとグレアムが、現場の人間へ列車を止める命令を送り。


 モルガとヘルガが、上部から戻る補正圧を断ち切るため、別の配管へ工具を入れていた。


 時計盤の裏で交わされる言葉とは関係なく。


 都市を救うための作業は、一秒も止まっていなかった。

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