第7節 ― 怪盗と小さな探偵未満
同じ《第十三時》開始から三分。
標準時統制室では、午前零時と《第十三時》が、同じ線路や運河へ異なる命令を送っていた。
基準振子室では、レオンたちがオットー=ヴァールの遺体を調べ始めている。
そのころ。
エレノア=クラウスは、一人で時計技師を追っていた。
技師は逃げているようには見えなかった。
走らない。
振り返らない。
警官とすれ違うたび、胸元の通行札を相手から見える位置へ持ち上げる。
灰色の作業服。
低くかぶった帽子。
目元を隠す保護眼鏡。
右手には、革の工具鞄。
大時鐘塔で働く技師として、何一つ不自然ではない。
歩き方を除けば。
上衣は大柄な男の肩幅に合わせて作られているが、腕を動かしても、厚く盛られた肩の位置がほとんど変わらない。
厚い靴底で背丈を作っているわりに歩幅は短く、長い上衣の裾だけが、身体の動きより大きく揺れていた。
工具鞄もおかしい。
歯車や工具が詰まっているなら、歩くたびに右肩がわずかに下がるはずだった。ところが男の身体は傾かず、鞄から金属同士のぶつかる音もしない。
見た目より背が低い。
工具鞄は、ほとんど空。
エレノアは十歩ほどの距離を保って後を追った。
十三度目の鐘が鳴り、広間の照明が消えた直後、警官も技師も来賓も、それぞれ異なる方向へ動き始めた。
混乱の中で人を見失うのは簡単だった。
けれど、見失われることを知って歩く人間は、かえって目につく。
時計技師は人の流れへ逆らわず、上層へ向かう職員の列に混ざった。警報盤を確認する技師たちの背後を抜け、何度か通行札を示しながら、旧時刻資料庫へ続く廊下へ入る。
あまりに自然だった。
だからこそ、エレノアは追った。
グレアム警部なら、まず報告しろと言うだろう。
レオンなら、観察した事実と自分の推測を分けろと言う。
エドガーなら、そもそも式典会場から動くなと言うに決まっている。
どれも正しい。
そして、その正しい忠告に従っているあいだに、目の前の人物は消える。
「あとで怒られればいいわ」
エレノアは小さく呟いた。
時計技師が通行札を扉へ当てる。
錠が鳴り、旧時刻資料庫の重い防火扉が開いた。
男が中へ入る。
エレノアは足を速め、閉じかけた扉の隙間へ身体を滑り込ませた。
防火扉が背後で閉まると、廊下の警報音が急に遠くなった。
*
旧時刻資料庫には、赤い非常灯しか点いていなかった。
長い資料棚。
紙筒。
廃止された時刻表。
標準時制定以前の地方暦。
使われなくなった時計盤。
煤と油を吸い込んだ、古い紙の匂い。
壁の補正記録器には、
> 《第十三時》開始から三分
と表示されている。
秒だけが、一つずつ進んでいた。
時計技師の姿は、最初の棚を曲がった先で消えている。
エレノアは、まっすぐ後を追わなかった。
棚の玻璃へ映る灰色の影を見て隣の通路へ回り、古い時計盤の間を抜けて出口側へ先回りする。
手の中には、小さな真鍮製の検査レンズがあった。
レオンの鑑定台に置かれていたものを、返し忘れているだけである。
少なくとも、本人にはそう説明するつもりだった。
棚の角を曲がる。
時計技師は、紙筒の列へ背を向けて立っていた。
「捜し物ですか」
エレノアが声を掛けた。
技師の手は止まらない。
「式典の招待客は、広間へ戻るよう命じられている」
低い男声だった。
ただし、喉の奥で無理に作られている。
「あなたも時計技師なら、異常対応へ戻るべきでは?」
「担当が違う」
「何の担当?」
「お嬢さんの質問へ答える担当ではない」
技師は紙筒を一本、元の場所へ戻した。
エレノアは相手の正面へ回る。
「その上衣、身体に合っていません」
「仕立てが悪いだけかもしれない」
「仕立てではなく、中身の問題です」
技師が初めて彼女を見た。
保護眼鏡の奥は暗く、瞳までは見えない。
「肩当ては、大柄な男の体格に合わせてある。でも、腕を動かしても肩の位置が変わらない」
エレノアは、次に足元を見た。
「靴底で背を高くしているわりに、歩幅が小さい。工具鞄も軽すぎます。重い工具が入っているなら、右肩が少し下がるはずでしょう」
「想像力が豊かだ」
「観察です」
エレノアは、相手を頭から足まで見直した。
「あなた、見た目ほど背が高くないでしょう」
資料庫の奥で、巨大な歯車が一段進んだ。
低い振動が床を伝う。
時計技師は、数秒間動かなかった。
やがて口元だけで笑う。
「なるほど」
声が変わった。
低い男声ではない。
少し高く、性別も年齢も、すぐには決められない声だった。
技師は帽子も保護眼鏡も取らず、上衣の内側から肩当てを一つだけ外した。
灰色の右肩が数センチ下がる。
「小さな探偵未満にしては、よく見ている」
「未満は余計です」
「探偵なら、尾行相手に気づかれている可能性も考えるものだよ」
「いつから気づいていたの?」
「三つ目の階段から」
エレノアは眉を寄せた。
「だったら、どうして止めなかったの」
「退屈しなかったから」
「人を見世物みたいに」
「怪盗を追うなら、観客になる覚悟も必要だ」
「やっぱり、ルヴェール」
時計技師は肯定しなかった。
否定もしない。
工具鞄を持ち直し、資料庫の奥へ歩き始める。
「人違いなら、謝ってくれるのかな」
「予告状の時刻に変装して、時計塔の最も古い記録庫へ入り込む人が、ほかにもいるなら」
エレノアは隣へ並んだ。
「その人にも謝ります」
「クラウス家の人間は、ずいぶん謝罪へ条件をつける」
「兄たちと一緒にしないで」
「君の方が厄介そうだ」
「褒めています?」
「警告だよ」
「正体は男なの? 女なの?」
「怪盗に、それが必要かな」
「逮捕記録には必要でしょう」
「グレアム警部なら、もっと先に聞くことがあると思うよ」
「私も今は、そちらを優先します」
「賢明だ」
ルヴェールは足を止め、現在の案内図では行き止まりになっている棚の先を見た。
「ここから先へ来れば、君も盗難事件の関係者になる」
「もう追ってきた時点で、関係者でしょう」
「見たものを忘れる選択肢は残っている」
「ありません」
即答だった。
「私は、自分で見たことを、兄たちに見なかったことにされる方が嫌いなの」
ルヴェールは少女を横目で見る。
口元の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「記録の家の娘らしくない」
「エドガー兄さまは記録を管理する。レオン兄さまは記録を疑う」
「君は?」
エレノアは少し考えた。
「消される前に見つけます」
ルヴェールは、声を立てずに笑った。
*
資料棚の向こうから、紙箱が落ちる音がした。
エレノアとルヴェールは、同時に振り返る。
「誰?」
返事はない。
代わりに、紙を擦る音が続いた。
何かを急いで棚へ戻そうとしている。
足音は軽く、隠れ方も上手くない。
エレノアが棚の反対側へ回り込むと、若いドワーフが床へ膝をついていた。
短い髪。
油で汚れた手。
見習い時計技師の作業着。
第二層でオットーから紹介された、孫のニルス=ヴァールだった。
ニルスはエレノアを見ると、驚いて立ち上がった。
「ここは立入禁止です」
「それを、あなたが言うの?」
「ぼくは職員です」
「通行札は?」
胸元には、折れた革紐だけが残っている。
ニルスは言葉を止めた。
足元へ落ちた紙箱を棚へ戻そうとする。手が震えていた。
恐怖だけではない。
何かを押し殺そうとしている震えだった。
「お祖父さまのことを聞いたの?」
ニルスの動きが止まる。
「本当に、死んだんですか」
掠れた声だった。
エレノアは、すぐには答えなかった。
慰める言葉を探したのではない。
知らないことを、知っているように言わないためだった。
「基準振子室で発見された」
確認できた事実だけを選ぶ。
「グレアム警部が、死亡を確認したと聞いたわ」
「《第十三時》に?」
「死亡記録は、そうなっている。でも、レオン兄さまは、その時刻に死んだとは考えていない」
ニルスの目へ、わずかな希望が浮かんだ。
エレノアは、それを誤解のまま残せなかった。
「生きているという意味ではないわ」
ニルスの指が強く握られる。
「記録された死亡時刻が間違っている可能性がある、というだけ」
「では、いつ」
「まだ分からない」
「誰に殺されたんです」
「それも、まだ」
「何も分からないじゃないか」
「分からないことを、分かったことにはできないでしょう」
自分でも驚くほど、レオンに似た言い方になった。
ニルスは顔を背けた。
視線が床へ落ちる。
しばらく、誰も言葉を続けなかった。
壁の内側では、旧補正機構が動き続けている。遠くから伝わる一段ごとの振動が、沈黙の長さを測っているようだった。
ルヴェールの口元からも、いつもの軽い笑みが消えていた。
ニルスが、ようやく息を吐く。
「祖父は、何か知っていました」
「失われた十一分について?」
ルヴェールが尋ねた。
ニルスは、灰色の時計技師を警戒した。
「誰です」
「怪盗かもしれない人」
エレノアが答えた。
ニルスの目が見開かれる。
「帰ります」
即座に言い、扉の方向へ身体を向けた。
「警察を呼んで――」
「待って」
エレノアは進路を塞がず、声だけで止めた。
「私たちを信用しなくていいわ」
「では、どいてください」
「でも、一人で探していたものがあるのでしょう」
ニルスは口を閉ざす。
「お祖父さまが残したものを、見つけたいんじゃないの?」
「あなたには関係ない」
「そうかもしれない」
エレノアは否定しなかった。
「でも、今、一人で探し続ければ、証拠へ触ったと疑われる。怪盗を呼んだとも、何かを隠したとも言われるわ」
「だったら、どうすればいいんです」
「見つけるところまでは、一緒にやる。見つけたら、触る前に警部を呼ぶ」
「その怪盗も?」
「信用できない点では、私も同じ意見よ」
「全員の意見が一致した」
ルヴェールが言った。
「先へ進もう」
ニルスは、すぐには頷かなかった。
祖父が死んだという事実と、見知らぬ少女と怪盗らしき人物しか頼れる者がいない状況を、受け入れられずにいる。
それでも、やがて小さく答えた。
「手帳です」
「どんなもの?」
エレノアが尋ねる。
「黒い油布の表紙。掌くらいの大きさです。祖父は、塔の保守記録へ書けないことを、そこへ書いていた」
「保守記録へ書けないこと?」
「古い機械のこと。廃止された時刻のこと。上の人間へ報告しても、直す必要がないと言われたこと」
「今夜も持っていた?」
「夕方に見ました。祖父が手紙を書いたあと、上着へ入れるところを」
レオンへ送った手紙。
エレノアはそう考えたが、まだ口にはしなかった。
「作業机や更衣棚には?」
「ありませんでした。警察は祖父のところへ近づけてくれない。でも、祖父は古い機械について考えるとき、いつもこの資料庫へ来ていた」
「だから、一人で探していたのね」
「ほかに誰を信用すればいいんですか」
その問いは、エレノアにも、ルヴェールにも向けられていなかった。
祖父を失った少年が、時計塔そのものへ投げた問いだった。
エレノアは答えを持っていない。
安易に、自分を信用してほしいとも言えなかった。
「私たちを信用しなくていい」
もう一度、そう告げる。
「ただ、ここへ一人で残すつもりもないわ。一緒に探して、見つけたものは警部へ渡す。それでどう?」
ニルスは長い間迷い、最後に一度だけ頷いた。
*
三人は、資料庫の最奥へ向かった。
棚番号は途中から、標準時制定以前の形式へ変わっていく。
現在の金属札ではなく、棚板へ直接刻まれた数字。
地方時代の区分記号。
都市の時刻が統一されたあと、使われなくなった分類だった。
「予告状には、“時計塔の最も古い記録庫にて”と書いたのでしょう」
エレノアがルヴェールへ尋ねた。
「ここが、その場所なの?」
「現在の名称なら、旧時刻資料庫だ」
「それだけでは、“最も古い記録庫”とは限らない。地下保管区画もある」
「警察は、地下の封印金庫を守っている」
「では、あなたは警備の薄い場所を、都合よく最古と呼んだ?」
「よい反論だ」
「褒めなくていいから答えて」
ルヴェールは、棚へ残された古い区分記号を指した。
「人は“最も古い記録”と聞けば、古い紙を収めた金庫を探す。けれど、記録を隠した者は、金庫ではなく、その記録が作られた場所へ戻すことがある」
「《十一分訂正原簿》は、この部屋で作られた?」
ニルスが訊いた。
「四十三年前の標準時制定時、この層には地方時計と校正機が集められていた。時刻を十一分進め、その訂正を記録したなら、最初の原簿はここで書かれた可能性が高い」
「可能性だけでしょう」
エレノアが言う。
「原簿が作られた場所と、現在保管されている場所が同じとは限らない」
「そのとおり」
「では、どうしてここへ来たの?」
「予告状で指定した場所だからだよ」
「自分で指定した場所へ来れば、原簿があると思ったの?」
「私は、予告を書く前にも調べる」
「調べても、外れたかもしれない」
「小さな探偵未満は、ずいぶん慎重だ」
「未満をつけないで」
「では、クラウス嬢」
「それも嫌」
「注文が多いね」
軽口を交わしながらも、ルヴェールは棚の配置、床の摩耗、壁までの距離を見ていた。
エレノアも周囲へ目を向ける。
現行の案内図では、最奥の棚のすぐ背後が塔の外壁だった。
だが、側面の細窓と、反対側の通路までの距離が合わない。
「こちらだけ、幅が短い」
エレノアは入口側から棚までを歩き、歩数を数えた。
次に、反対側の通路を同じ歩幅で測る。
「三歩以上違う」
「塔は上へ行くほど狭くなります」
ニルスが言う。
「同じ層の反対側は狭くなっていない。片側だけ壁を厚くする理由がある?」
「補強壁かもしれません」
「可能性はある。でも、案内図には補強壁の記号もない」
ルヴェールが棚の背面を指先で軽く叩いた。
鈍い音。
少し位置をずらす。
今度は、奥からわずかな空洞音が返った。
エレノアは棚脚の周囲へ屈み込む。
厚く積もった埃の中で、右端の脚の周囲だけが半円形に切れていた。
「この棚、動く」
側面の金具へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触っていい?」
「触る前に聞くようになったんだね」
ルヴェールが言う。
「証拠かもしれないから」
「成長が早い」
「兄さまには言わないで」
「褒められるのが嫌なのかい」
「得意そうな顔をされるのが嫌」
ルヴェールは工具鞄から白い布を取り出し、棚側面の金具を覆った。
指紋を残さないためなのか。
自分の痕跡を残さないためなのか。
エレノアには判断できなかった。
怪盗が金具をわずかに持ち上げ、横へ引く。
棚全体が、床の溝へ沿って滑った。
冷たい空気が流れ出す。
棚の背後にあったのは、壁ではなかった。
縦長の鉄扉。
表面の灰色塗料が剥がれ、古い打刻文字が現れている。
> 校正昇降筒
> 旧搬入口
ニルスが息を呑んだ。
「こんな扉、現行図面にはありません」
「第二節で見た校正筒の、下側入口ね」
エレノアが言った。
資料庫中央に見えていた校正筒。
その背後へ隠されていた、旧来の積載口だった。
「昔は、ここから標準器を入れていました」
ニルスは扉の構造を見た。
「資料庫を改修したときに、搬入口は撤去されたと記録されています」
「記録では撤去」
ルヴェールが扉を見る。
「現物は残っている」
操作輪には埃が積もっていたが、握り部分だけは薄い油に濡れ、金属の地肌が見えている。
「最近、開けられた」
エレノアが言いかけ、言葉を直した。
「開けられた可能性が高い」
「なぜ言い直したの?」
ニルスが尋ねる。
「埃を拭いた理由が、開閉とは限らないから」
「優秀な兄を持つと苦労するね」
ルヴェールが言った。
「二人います」
「それは気の毒に」
*
扉の敷居へ、暗い染みが残っていた。
赤い非常灯の下では、正確な色を判別できない。
表面は乾き、中央だけが黒く光っている。染みは敷居から、扉の内側へ続いていた。
「血に見えます」
ニルスの声が震えた。
エレノアは検査レンズを近づける。
「そう見えるだけ。試薬もないし、人の血かも分からない」
「でも――」
「触らないで」
ニルスが伸ばしかけた手を止める。
ルヴェールは薄い金属板を扉の隙間へ差し込み、内部の掛金を探った。
一度。
角度を変える。
小さく押す。
カチリ。
錠が外れた。
「鍵師でもあるの?」
エレノアが訊く。
「時計技師だよ」
「まだ言うのね」
「この服を着ているあいだはね」
扉がゆっくりと内側へ開いた。
昇降筒の内部は狭かった。
一人が立ったまま収まる程度の幅。
床には標準器を固定するための金属枠があり、奥の壁を二本の案内軌道が上へ伸びている。
見上げても、赤い非常灯の光は数メートル先で闇へ吸われた。
内壁には粘りの強い黒い油が残っていた。
人の肩ほどの高さには、縦方向の擦れた筋。
その途中に、血液らしい小さな黒い染みがある。
筋の脇にある鋲へは、濃紺の繊維が一本引っ掛かっていた。
さらに下には、乾いた飛沫に見える点が二つ、三つ、内壁へ付着している。
「祖父の上着と同じ色だ」
ニルスが昇降筒へ入ろうとした。
エレノアは、その腕をつかんだ。
「同じ色だけでは、同じ服とは言えない」
「でも、祖父はここを通ったんだ!」
「その可能性はある」
声を強くしながらも、エレノアは断定しなかった。
「繊維も染みも、グレアム警部に調べてもらう。私たちは触らない」
「警察が信じるか」
「信じさせる」
「どうやって」
「見つけた状態を変えない。どこに何があったか、誰が最初に見たか、どの順番で見つけたかを残す」
ニルスは、彼女を見た。
「本当に探偵なんですか」
「未満です」
エレノアは苦い顔をした。
「今のところは」
ルヴェールが笑った。
「自分で認めたね」
「あなたが何度も言うからでしょう」
エレノアは暗号帳を開いた。
最初に、昇降筒の簡単な見取図を描く。
棚の位置。
旧搬入口。
扉の開く向き。
敷居の染み。
内壁の黒い点。
油の筋。
繊維が掛かった鋲。
距離は歩幅で測り、位置は扉の下端と鋲を基準に記した。
別の欄には、発見順序を書く。
> 一、棚背後の旧搬入口。
> 二、敷居の暗色の染み。
> 三、筒内壁の縦方向の油痕。
> 四、黒い飛沫状の痕跡。
> 五、鋲へ付着した濃紺の繊維。
その下へ、推測と未確認事項を分ける。
> 染みは血液の可能性。未鑑定。
> 繊維の所属は未確認。
> 校正筒が基準振子室へ通じるか、機械記録との照合が必要。
書き終えるまで、エレノアは扉にも内壁にも触れなかった。
「祖父を、機械みたいに運んだ」
ニルスが呟いた。
言葉にした瞬間、自分で耐えられなくなったように顔を背けた。
人員の入室記録はない。
校正筒は上昇している。
死体を機械の一部として運んだ。
探偵が口にすれば、鮮やかな論理になる。
だが、運ばれた死体には孫がいる。
その事実は、推理の線へ突然、人間の重さを与えた。
エレノアは、安易な慰めを口にできなかった。
きっと犯人を捕まえる。
祖父の遺したものは無駄にならない。
そんな約束を、今の自分には証明できない。
代わりに、ニルスの横へ立った。
「ここを見つけたことは、消させないわ」
ニルスは返事をしなかった。
それでも、エレノアから離れようとはしなかった。
ルヴェールは昇降筒の奥を見上げている。
いつもの軽口は消えていた。
「この筒は、基準振子室へ続いている」
「どうして分かるの」
エレノアが尋ねる。
「案内軌道が、上で塔の中心へ寄っている。第二節で見た校正筒と同じものだ」
「それだけでは、オットーさんがここを通った証拠にはならない」
「濃紺の繊維と、血液らしい染みがある」
「“らしい”でしょう。どちらも鑑定前よ」
ルヴェールは少女を見た。
やがて、わずかに頷く。
「そのとおり。今あるのは、死体が通った可能性の高い経路だ」
「レオン兄さまなら、もっと嫌な言い方で留保するわ」
「光栄だ」
「褒めていません」
短い軽口のあと、ルヴェールの声は再び低くなった。
「もう一つ。ここへ死体を載せた者と、《第十三時》を動かした者が同じとは限らない」
「なぜ、そう思うの」
「《第十三時》を起こした者は、全土へ記録を見せようとしている。殺人犯は、その異常時刻へ死体を隠した」
「別の人の仕掛けを利用した?」
「別の演目へ、死体を一つ紛れ込ませたように見える」
「犯人を知っているの?」
「知らない」
返答は速かった。
「少なくとも、私は殺していない」
「怪盗の自己申告を信じろと?」
「信じなくていい」
ルヴェールは昇降筒から離れた。
「だから、証拠を残す」
*
校正筒の旧搬入口を離れ、三人は資料庫の中央へ戻った。
そこには、標準時制定以前の大型地方時計が置かれている。
木製の外箱。
手書きの文字盤。
針は午後十一時四十九分で止まったまま。
ニルスは、その時計を見ると足を止めた。
「祖父は、この時計を動かすなと言っていました」
「壊れているから?」
エレノアが訊く。
「壊れているのではなく、止めてあるんだと」
ルヴェールは、文字盤ではなく背面へ回った。
「“最も古い記録庫”を、紙の棚だけだと考える必要はない」
「時計も記録する機械だから?」
「そうだよ。紙に書かれる前、時刻を最初に保持していたのは時計だ」
「だから、最古の地方時計の背後を探す?」
「原簿が作られた場所を隠すなら、制定前の時刻そのものを封じた時計は、悪くない目印だ」
「でも、それはあなたの解釈でしょう」
エレノアは反論した。
「予告状を書いた本人が、あとから場所の意味を作ることもできる」
「厳しいね」
「原簿が見つかるまでは、正しかったことになりません」
「では、確かめよう」
三人は時計台の周囲を調べた。
木枠。
背面の真鍮板。
修理用の小扉。
床へ固定する金具。
どれも厚い埃に覆われている。
ただし、台座の一部だけ、埃の色が違っていた。
時計台を中心に、床へ半円形の擦れ跡が残っている。
「最近、動かされています」
ニルスが言った。
「これは断定していい?」
エレノアがルヴェールへ尋ねる。
「跡が明瞭だ。構わない」
三人は手へ白い布を巻き、時計台の側面へ力を掛けた。
重い木と金属の塊が、床の軸を中心に少しずつ回る。
背後の石壁へ、縦長の保管孔が現れた。
大きな台帳箱を横へ収められる幅。
鉄の内張り。
封印紐を通す輪。
湿気を避けるための鉛板。
重要文書を隠すための構造だった。
けれど、中には何もない。
底へ、長方形に埃の抜けた跡だけが残っている。
厚い原簿が置かれていた形だった。
ニルスが手を伸ばしかける。
「触らない」
エレノアが止めた。
「何もない」
「何もないことも、今は証拠よ」
ルヴェールは保管孔へ顔を近づけたが、手は触れなかった。
封印輪。
鉛板。
底の埃。
側面に残る擦れ。
順に目で追っていく。
「封印紐が切られた跡はない」
「では、正規の鍵で開けた?」
エレノアが尋ねる。
「この孔自体には錠がない。時計台そのものが扉だった」
「隠し場所を知っている人なら、開けられる」
「そうだね」
「いつ持ち出されたの?」
「分からない。跡が崩れていないから、長期間空だったとは考えにくい。ただし、今夜なのか、昨日なのかまでは決められない」
「あなたが来る前に」
「先客がいた」
ニルスがルヴェールを睨んだ。
「本当に、あなたが取ったのでは」
「私が持っているように見える?」
「変装の中へ隠しているかもしれない」
「よい疑い方だ」
ルヴェールは灰色の上衣を軽く広げた。
肩当て。
声を変える小型共鳴器。
細い工具。
交換式の靴底。
大判の原簿を隠せる膨らみはない。
「先に運び出してから、ここへ戻った可能性もあります」
エレノアが言う。
「さらによい」
「褒めなくていいから答えて」
「私は、予告したものをまだ盗んでいない」
「“まだ”?」
「午前零時に、時計塔の最も古い記録庫で頂戴すると書いた」
ルヴェールは空の保管孔を見る。
「だが、私が来たときには、この都市はすでに原簿を所有していなかった」
「あなたより先に、誰かが持ち出した」
エレノアが言った。
言葉は軽くない。
怪盗が予告した品が、怪盗より先に盗まれていた。
ルヴェールの口元から笑みが消えている。
自分の予告を出し抜かれたからではない。
その原簿が、《第十三時》を起動するために使われた可能性へ気づいたからだった。
壁の向こうから、連続する印字音が伝わってくる。
《第十三時》の中で、《十一分訂正原簿》の複製は各都市へ送信され続けている。
「ここから持ち出した原簿を」
ニルスが呟いた。
「誰かが送信機へ掛けた?」
「可能性は高い」
ルヴェールが答えた。
「ただし、送信されている記録と、この孔にあった原簿が同一かは確認が必要だ」
「怪盗も断定しないんですね」
「小さな探偵未満に注意されたばかりだからね」
「未満をつけないで」
*
「待って」
ニルスが時計台の下へ屈み込んだ。
空の保管孔ではない。
回転した台座と石床の隙間を見ている。
埃の中から、細い革紐の先端だけが覗いていた。
ニルスは素手を伸ばしかけ、自分で手を止めた。
「布を」
ルヴェールが白布を渡す。
ニルスは革紐をつまみ、ゆっくりと引き出した。
黒い油布の表紙。
掌ほどの大きさ。
角が擦れ、紙の断面へ油と煤が染み込んだ手帳。
ニルスの顔が変わった。
「祖父のです」
「確か?」
エレノアが尋ねる。
「表紙の縫い方を知っています。下の角を、ぼくが直した」
黒い糸。
一か所だけ、縫い目が二重になっている。
ニルスは手帳を胸元へ引き寄せかけ、途中で止まった。
祖父の私物。
事件の証拠。
失われた十一分の真相へつながるかもしれない記録。
そのすべてが、一冊へ重なっていた。
「開いていいの?」
ニルスは迷った。
「ここでは、頁が抜かれていないかだけ確認する」
エレノアが言った。
「内容を読むなら、グレアム警部とリュシアンさんの前で。古い略号があるのでしょう?」
「祖父は、地方時代の記号を使っていました」
「なら、なおさらよ」
「警察へ渡したら、統制局に取り上げられるかもしれない」
祖父は、保守記録へ書けなかったことを私物の手帳へ残していた。
その言葉を、エレノアは覚えている。
「グレアム警部へ直接渡す。レオン兄さまと、リュシアンさんにも立ち会ってもらう」
「コルベット局長には?」
「今は渡さない」
「どうして?」
「渡していい相手か、まだ分からないから」
理由を作り足さず、それだけ答えた。
ニルスは手帳を見つめた。
やがて、両手で持ったまま頷いた。
「怪盗には?」
警戒を込めて尋ねる。
ルヴェールは、空になった保管孔を見ていた。
「私は読まない」
「原簿を盗みに来たのに?」
「予告したのは原簿だ。老人の私的な手帳ではない」
「盗むもの以外は盗まないの?」
エレノアが訊く。
「欲張る泥棒は長生きしない」
「怪盗にも節度があるのね」
「探偵未満にも必要だよ」
エレノアは反論しかけた。
そのとき、資料庫入口の方から複数の足音が聞こえた。
重い警察靴。
その中に、杖の先が床を打つ、聞き慣れた音が混ざっている。
コツ。
コツ。
「レオン兄さま」
エレノアが言った。
ルヴェールは灰色の帽子をかぶり直す。
「逃げるの?」
「怪盗が探偵を待つ義務はない」
「証拠を見つけたでしょう」
「君が報告すればいい」
「私だけでは信用しないかもしれない」
「信用するさ」
「どうして分かるの」
「君を追って、死体のそばを離れた」
エレノアは黙った。
兄が心配していると怪盗に言われるのは、不愉快だった。
否定できないのは、もっと不愉快だった。
「原簿をどうするつもりです」
ニルスがルヴェールへ尋ねた。
「取り戻す」
「誰から?」
「それを見つけるところからだ」
「所有者へ返すの?」
エレノアが問う。
「所有者が誰なのかを確かめてからね」
ルヴェールは、開いた旧搬入口へ最後の視線を向けた。
敷居の暗い染み。
内壁の飛沫。
濃紺の繊維。
縦へ残る油の筋。
その先へ続く校正筒。
「クラウス嬢」
「何?」
「兄上へ伝えるといい」
声が、低い時計技師のものへ戻った。
灰色の作業服を着た大柄な男が、再びそこに立っている。
「怪盗が見つけたのは、盗むべき原簿ではない」
保護眼鏡の奥から、エレノアをまっすぐ見た。
「死体が通った道と」
続いて、空になった保管孔へ視線を移す。
「怪盗が来るより先に、原簿が持ち出されていたという事実だ」
ルヴェールは資料庫の角を曲がり、棚の暗がりへ溶け込んだ。
「待って!」
エレノアが追おうとする。
「手帳を!」
ニルスの声に、足が止まった。
怪盗を追うか。
オットーの手帳と、血の残る校正筒を守るか。
選べる時間はなかった。
ここでルヴェールを追えば、ニルスを一人残す。
見つけた証拠を、誰かに動かされるかもしれない。
何より、自分自身が、発見時の状態を保存できなくなる。
エレノアは歯を食いしばり、ルヴェールが消えた通路へ背を向けた。
「ここにいて」
ニルスへ言う。
「扉にも、時計台にも、手帳にも触らないで」
「あなたは?」
「兄さまたちが来るまで、発見した位置と順番を残す」
暗号帳を開く。
先ほど書いた昇降筒の見取図へ、旧地方時計と空の保管孔の位置を加えた。
さらに、黒い手帳を発見した地点を、時計台の軸から測って記す。
発見順序も書き足した。
> 六、旧地方時計背後の保管孔。原簿大の空白痕あり。
> 七、時計台座の下より、オットー=ヴァールの黒い手帳を発見。
> 発見者、ニルス=ヴァール。白布を使用。内容未確認。
続いて、確認できていないことを別に書く。
> 保管孔から持ち出された記録が、《十一分訂正原簿》であるかは未確認。
> ルヴェールは原簿を所持していなかった。
> ただし、事前に持ち出していないことの証明は未了。
「そこまで疑うのかい」
棚のどこかから、声だけが聞こえた。
エレノアは顔を上げる。
「小さな探偵未満なので」
そう答えた。
「まだ、何でも信じるわけにはいきません」
返事はなかった。
代わりに、一枚の白い紙羽根が、棚の上からゆっくり落ちてきた。
エレノアは拾わなかった。
床へ落ちた場所。
羽根の向き。
棚からの距離。
それも暗号帳へ書き加える。
怪盗を追うことより。
怪盗が残したものを、発見時のまま残すことを選んだ。
その直後、通路の奥からレオンが現れた。
背後にはミラベル。
さらに、グレアム警部が続いている。
レオンは、まず妹の姿を見た。
怪我がないことを確かめたのだろう。
何も言わず、次に周囲へ目を向ける。
開かれた校正筒の旧搬入口。
敷居の暗い染み。
内壁の飛沫。
濃紺の繊維。
回転した地方時計。
空の保管孔。
ニルスが持つ黒い手帳。
床へ落ちた白い紙羽根。
そして、それらの位置を記したエレノアの暗号帳。
「説明しろ」
低い声だった。
エレノアは暗号帳を閉じる。
「その前に」
「何だ」
「勝手に追ったことは謝りません」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあります」
ミラベルが、小さく息を漏らした。
「兄妹ですね」
「不本意だ」
兄妹の声が重なる。
グレアムが額を押さえた。
「家族喧嘩はあとだ。何を見つけた」
エレノアは、もう怪盗が消えた通路を見なかった。
暗号帳を開き直す。
「最初に見つけたのは、現行図面にない校正筒の旧搬入口です」
発見した順に話し始めた。
怪盗の正体ではなく。
怪盗とともに見つけたものを。
自分の推理ではなく。
まだ誰にも動かされていない証拠を。
その夜。
エレノア=クラウスは、怪盗を捕まえなかった。
代わりに。
死体が通った道と。
原簿が消えた場所と。
老人が残した手帳を。
発見されたままの形で、探偵と警察へ引き渡した。




