第6節 ― 死体は時計に運ばれた
同じ《第十三時》開始から三分。
標準時統制室で二つの時刻が都市へ異なる命令を送り始めたころ、旧時刻資料庫へ続く別の階段では、エレノア=クラウスが歩幅の合わない時計技師を追っていた。
その事実を知らないまま、レオン=クラウスは基準振子室へ戻ろうとしていた。
狭い踊り場へ差しかかったところで、下から上がってきたグレアム警部が進路を塞いだ。その後ろには、市警の制服を着た警官が二人続いている。
「妹の捜索は部下へ任せた」
グレアムは息を整える間もなく言った。
「旧資料庫側と重量錘区画へ二人ずつ出してある。見つけ次第、余計なものへ触らせず連れ戻す」
「エレノアは、連れ戻されると分かれば逃げる」
「なら、お前より足の速い奴に追わせる」
「兄の扱いにしては雑ですね」
ミラベルが言った。
「妹の扱いに慣れとらんのでな」
「俺も慣れた覚えはない」
「毎回、同じ頭痛を起こしておいて何を言う」
グレアムは踊り場の上を顎で示した。
「それより死体だ。検死官が来る前に、消える証拠を見ておきたいんだろう」
「ある」
「なら戻れ。妹一人を追うのに、探偵三人はいらん」
レオンは、旧時刻資料庫へ向かう階段を見上げた。
エレノアが追った時計技師は、危険な人物かもしれない。だが、現時点で分かっているのは、衣服の作る体格と実際の歩幅が噛み合わなかったことだけである。
一方、基準振子室には、すでに一人の死者がいる。
床へ積もった粉。
衣服に残る油。
身体の温度と硬直。
時間が経つほど変わり、失われていく証拠が残されていた。
「分かった」
レオンは踵を返した。
ミラベルも続く。
「意外です」
「何がだ」
「エレノアさんより事件を選ぶのかと思いました」
「選んでいない。警察へ任せただけだ」
「心配は?」
「している」
返答があまりに早く、ミラベルは一瞬だけ言葉を失った。
レオンは振り返らない。
「だから、今は俺が追わない」
「どういう意味です?」
「俺が追えば、彼女は自分の方が先に見つけられると証明したがる」
グレアムが鼻を鳴らした。
「よく分かっとるじゃないか」
「経験だ」
「実績とも言うな」
*
基準振子室の前には、二人の警官が立っていた。
強制開放された鉄扉は、完全には閉じられていない。曲がった閂、切断された圧力管、床へ並べられた工具。その周囲では、扉を開けた際に噴き出した蒸気が冷え、石壁へ細かな水滴を残していた。
室内の基準振子は補助制動を受けている。
長い真鍮棒が、わずかに右へ揺れ、戻る。
カン。
しばらく間を置き、再び反対側へ振れる。
カァン。
死者の上で、不規則な音を刻んでいた。
「誰か入ったか」
グレアムが警官へ確認する。
「いいえ。警部が離れてからは、誰も」
「統制局の職員は」
「コルベット局長が一度来ました。塔上部で侵入者らしき人物が目撃されたと、警部へ報告があるそうです」
「中へは?」
「入れていません」
「それでいい」
グレアムは靴へ薄い保護布を巻き、レオンにも一組を渡した。
ミラベルは入口へ残る。
「私はここから見ます」
「急に聞き分けがよくなったな」
「証拠を踏んだら、レオンさんに一生言われますから」
「一生も必要ない。一度で十分だ」
「その一度を、何度も言うんです」
レオンは保守板道へ足を置いた。
床には、軸受けから落ちた真鍮粉が薄く積もっている。金色ではない。機械油と混じり、暗い黄褐色へ沈んだ粉だった。
板道以外へ足を置けば、靴跡は明瞭に残る。
しかし、床面にある乱れは少なかった。
遺体の周囲では、外套の裾が真鍮粉を擦り、横へ押し分けた筋がある。振子の真下にも、身体が接触した際の乱れが残っている。
そこへ至る、人間の足跡はなかった。
「歩いてここへ入った者はいない」
グレアムが言った。
「正面扉の記録とも一致する」
「まず、生きて入ったあとで、ここで殺された可能性から調べる」
レオンは遺体の横へ膝をついた。
オットー=ヴァールは、仰向けに近い姿勢で倒れている。左肩が振子台へ触れ、右腕は身体の下へ半ば巻き込まれていた。
白い髪には、乾き始めた血が黒く固着している。
数時間前。
老人は、この塔を歩いていた。
機械へ太い手を置き、午前零時を過ぎれば、今日まで黙っていたことを記録へ戻すと言った。
その指は、もう動かない。
「ワトリア嬢」
グレアムが低く呼んだ。
「見られんのなら、外へ出ていていい」
「見られます」
「無理をするな」
「無理ではありません」
ミラベルは手帳を開いた。
「見なかったことにしたくないだけです」
グレアムは何も言わなかった。
レオンも、遺体から目を上げない。
「まず靴だ」
「死体より先に?」
「死体が、死んだ場所を話せないからな」
レオンはオットーの右足を、踵へ触れないよう下から支えて持ち上げた。
靴底は濡れていない。
大きな損傷もない。
だが、基準振子室の床へ積もっている真鍮粉が、ほとんど付着していなかった。
「床へ倒れていたのに?」
ミラベルが尋ねた。
「靴の側面には付いている」
レオンは縁を示した。
遺体が床へ置かれたあと、周囲の粉へ擦れた跡である。
「だが、靴底にはない。ここを歩いて、あの位置まで行ったなら付着する」
「板道だけを歩いた可能性は?」
グレアムは、板道の端から遺体までの距離を目で測り、自分の靴を並べるように一歩だけ動かした。
「板道から遺体までは、ドワーフでも二歩は必要だ」
「誰かに運ばれた?」
「運んだ者の足跡もない」
「布を敷いた可能性は」
ミラベルが訊いた。
「敷いた布を回収するには、誰かが床を歩かなければならない」
レオンが答える。
「足跡を消した可能性はどうだ」
グレアムが問い返した。
「真鍮粉を掃けば、掃いた跡が残る。新しい粉を撒けば、粒の沈み方と油の混じり方が変わる」
「現時点では見当たらん?」
「見える範囲ではな。詳しくは現場鑑定が必要だ」
レオンは細い鑑定針を取り出し、靴底の溝へ詰まった粉を少量だけ掻き出した。
白い採取紙の上へ落とす。
振子室の真鍮粉とは色が違う。
青みを帯びた灰色。
細かな紙の繊維が混じっていた。
「旧時刻資料庫の床に似ています」
ミラベルが言った。
「比較試料は?」
グレアムが廊下の警官へ問う。
「採取させています」
ほどなく、別の警官が小さな硝子容器を持って戻ってきた。旧時刻資料庫の床から採取した、青灰色の粉が入っている。
レオンは二つの試料を蒸気灯の下へ置いた。
色。
繊維の長さ。
混じっている古い革屑。
携帯拡大鏡で見える範囲では、よく似ている。
「同じですか」
ミラベルが尋ねた。
「簡易比較では一致する」
「簡易?」
「紙の種類と繊維構成を詳しく調べるまでは、同一試料とは言わない」
ミラベルは手帳を二つの欄へ分けた。
左へ、
> 確認済み
右へ、
> 未照合
と記す。
左側へ書いた。
> 靴底に、振子室の真鍮粉なし。
> 青灰色の紙粉と繊維あり。
> 旧時刻資料庫の床粉と、簡易比較では一致。
右側へ続ける。
> 紙質・繊維構成の詳細鑑定は未実施。
> 殺害場所は未確定。
「これなら?」
ミラベルが尋ねた。
「ああ」
レオンは短く答えた。
*
靴底の採取を終えると、レオンはオットーの外套へ視線を移した。
濃紺の布地。
右肩から背中にかけて、油汚れが縦に二本走っている。
機械へ寄りかかったなら、横か斜めへ付くはずの筋だった。しかし、この痕跡は肩から腰へ向け、ほぼ平行に残っている。
「塔の主任時計官なら、油くらい付くでしょう」
ミラベルが言った。
「付く場所と向きが違う」
レオンは布へ触れず、顔を近づけて匂いを確かめた。
「基準振子の軸受け油より粘りが強い」
「何に使う油だ」
グレアムが尋ねる。
「鋼索か、昇降軌道」
ミラベルは、旧時刻資料庫で見た鉄の筒を思い出した。
「校正筒」
「候補の一つだ」
「また候補ですか」
「時計塔には、ほかにも昇降路がある。幅と油を照合してからだ」
レオンは外套の表面へ食い込んだ、小さな金属粉と黒ずんだ繊維を採取した。
狭い鉄壁へ、重い身体が背を擦りながら上下したような痕跡だった。
グレアムが廊下の警官へ指示する。
「エレノアの捜索班へ伝えろ。校正筒を動かすな。内壁と下部軌道から、油と繊維だけ採取させろ」
「はい」
警官が走っていった。
ミラベルは右側の欄へ書いた。
> 外套右肩から背面に、縦方向の油痕。
> 昇降軌道用の油とみられるが、校正筒との照合は未実施。
「油の種類までは確認済みでは?」
「匂いと粘度から見た推定だ」
レオンが言った。
「では、未照合」
「そうしろ」
グレアムは、オットーの左腕へ触れた。
指を軽く曲げようとして、途中で止める。
「硬い」
「骨折ですか」
ミラベルが訊いた。
「違う。死後硬直だ」
警部は顎、首、肩、肘の順に状態を確認した。
「始まったばかりじゃない」
「発見から、まだ数分です」
「数分でここまでは進まん。この塔は冷えとる。進行は、むしろ遅くなるはずだ」
レオンは後頭部付近の血を観察した。
「流れた血も、今しがたの状態ではない」
ミラベルの鉛筆が止まった。
「オットーさんは、十三度目の鐘より前に死んでいた」
「少なくとも」
グレアムは死者の手を元の位置へ戻した。
「《第十三時》が始まってから殺された身体ではない」
「何分前です?」
「今ここでは決められん」
警部は断定を避けた。
「気温、年齢、体格、死因で変わる。検死官に測らせる。ただ、《第十三時》零分という死亡記録とは合わん」
ミラベルは左欄へ、
> 死後硬直と血液の状態は、《第十三時》零分の死亡と整合しない。
と書き、続く行を右側へ置いた。
> 正確な死亡時刻は検死官の鑑定待ち。
「よくなってきたな」
グレアムが手帳を横目で見た。
「褒めています?」
「余計な結論を書かなくなった」
「レオンさんに似てきたという意味なら、あまり喜べません」
「俺も喜んでいない」
レオンが言った。
「本人が言うんですか」
*
レオンは、オットーの胸元へ目を向けた。
懐中時計の蓋は開いている。
補助表示は、《第十三時》零分で止まっていた。
しかし、裏蓋の縁と時刻調整竜頭の根元には、細い傷が並んでいる。通常の爪や鍵で付く傷ではない。
先の細い工具を差し込んだ跡だった。
「開けられていますか」
ミラベルが尋ねた。
「工具を入れた痕跡はある」
「中を調べれば、細工が分かる?」
「可能性はある」
「今は開けないんですか」
「部品の位置を保ったまま、検死官と時計技師の立ち会いで分解する。ここで開ければ、止まった原因まで俺が作ることになる」
グレアムが時計を覗き込む。
「《第十三時》零分という表示を、誰かが合わせた可能性がある」
「ああ」
「壊れた時刻が、死亡時刻とは限らん」
「事故で壊れたなら、その瞬間を示すことはある。だが、人間は時計を好きな位置で止められる」
ミラベルは手帳の左へ、
> 懐中時計の裏蓋と竜頭付近に工具傷。
と書き、右側へ、
> 内部細工の有無、停止原因は未確認。
と続けた。
文字盤は《第十三時》零分を示している。
しかし、誰が時計を止めたのか。
なぜ、その表示へ合わせたのか。
時計自身は答えなかった。
*
「関連機構の記録を持ってきました!」
廊下から警官が戻ってきた。
両腕には、二本の長い紙帯が抱えられている。
グレアムが受け取り、入口脇の記録台へ広げた。
一つ目は、基準振子室の封鎖記録だった。
> 午後十一時五十分
> 基準振子室 自動封鎖
>
> 人員入室 なし
> 人員退出 なし
その下には、振子周期、気圧補正、鐘打ち機構待機といった複数の機械記録が続いている。
午前零時同期の直前。
別の欄へ、一回だけ作動記録があった。
> 校正筒 自動確認
> 上昇 一回
> 積載区分 標準器材
「筒は上がっています」
ミラベルが言った。
「ああ」
「オットーさんは人間です」
「機械は、中身を見ない」
「でも、“標準器材”と印字されている」
「校正筒を通過するものを、機構上そう分類しているだけだ」
グレアムが記録帯を読み直した。
「積載重量は?」
「記録されていません」
警官が答えた。
「旧機構だからな」
レオンは、人員入室と校正筒の記録を並べた。
> 人員入室 なし。
> 校正筒 上昇一回。
「記録同士は矛盾していません」
ミラベルが言った。
グレアムが顔を上げる。
「人が入っていないのに、死体があるんだぞ」
「生きた人間は、正面扉から入っていない」
ミラベルは言葉を選びながら続けた。
「でも、校正筒が上がった記録はある」
「続けろ」
レオンが促す。
「オットーさんが死んだあと、校正筒へ載せられたなら、塔にとっては入室者ではない」
「器材でもないだろう」
「塔は区別しません」
ミラベルは、靴底から採取された青灰色の紙粉、外套の油痕、校正筒の作動記録を順に見た。
「校正筒へ載せられたものは、全部“標準器材”として記録される」
「人間であってもな」
レオンが言った。
グレアムの視線が、室内隅にある校正筒の出口へ動く。
「だが、上で誰かが死体を降ろさなければならん」
「校正筒の上部扉は、自動確認時に開く」
レオンは、塔内を案内された際にヘルガから聞いた構造を思い返した。
「基準器を振子室へ送り出すため、出口には傾斜台がある。筒へ横たえておけば、上昇後に扉が開き、重みで室内へ滑り出す」
「犯人は下で載せるだけ」
ミラベルが言う。
「正面扉の封鎖後、死体だけが振子室へ入る」
「その構造が本当に自動で動くかは、現物で確認が要る」
グレアムが念を押した。
「ああ」
レオンも留保した。
「だが、校正筒が一度上昇した記録と、死体にある痕跡は一致する方向を示している」
ミラベルは左欄へ、
> 正面扉の封鎖後、人員入室なし。
> 午前零時直前、校正筒が一回上昇。
と書いた。
右欄へは、
> 校正筒上部の自動排出構造と、内壁試料の確認待ち。
と記した。
二本目の記録帯は、旧時刻資料庫に置かれていた展示用の旧地方時計から出力されたものだった。
「これも関連記録か?」
グレアムが尋ねる。
「同じ時間帯に、周期異常が出ています」
警官が一行を示した。
> 午後十一時四十一分
> 旧地方時計 周期乱れ
>
> 調速錘 取外し確認
> 処置理由 未記入
その後、時計は手動補正を受けている。
誰が調速錘を外したのか。
なぜ外したのか。
理由欄には何も書かれていない。
「資料庫で見た、掌ほどの真鍮塊ですね」
ミラベルが言った。
「ああ」
「凶器でしょうか」
「まだ結びつけるな」
レオンは記録帯の時刻と項目を、目だけで確認した。
「午後十一時四十一分、旧地方時計から調速錘が外され、時計の周期が乱れた。理由欄は空白。それが確認済みだ」
「調速錘に血が付いているかは未確認」
「保管位置に残っているかどうかもな」
ミラベルは左欄へ記録された事実を書き、右欄には、
> 殺人との関係は未確認。
と記した。
意味を結びつける線は引かなかった。
*
レオンは遺体の横から立ち上がった。
靴底に、振子室の真鍮粉はない。
代わりに、旧時刻資料庫の床と似た紙粉が残っている。
外套には、狭い昇降路の壁へ擦れたような縦の油痕がある。
死後硬直と血液の状態は、《第十三時》零分という死亡記録と一致しない。
正面扉を通った人間の記録はなく、校正筒だけが午前零時直前に一度上昇した。
一つずつには、まだ限界がある。
紙粉は詳細鑑定を終えていない。
油も校正筒との照合前。
死亡時刻は検死官の判断を待つ必要がある。
校正筒の自動排出も、現物確認が要る。
グレアムは、その限界を確かめるように問うた。
「靴の粉だけで、資料庫が殺害場所だと言えるか」
「言えない。似た紙粉が、ほかの区画にないとは限らない」
「油痕だけで、校正筒へ入ったと」
「言えない。別の昇降路でも付く可能性がある」
「死後硬直だけで、十三度目の鐘より前に死んだと」
「正確な時刻は決められない。ただし、《第十三時》が始まってから死亡した身体とは考えにくい」
「校正筒の記録だけなら」
「空の筒が上昇した可能性もある」
レオンは、室内の遺体を見た。
「だが、証拠は一つではない」
グレアムも同じ方向を見る。
「それぞれの限界が、別の証拠で埋まる」
「ああ」
ミラベルは左側の「確認済み」と、右側の「未照合」を見比べた。
確定していない事実は多い。
それでも、すべてが無関係に並んでいるわけではない。
「オットーさんは、ここを歩いていない」
ミラベルが言った。
「別の場所で紙粉を靴底へ付け、狭い機械の中を上下した痕跡がある」
レオンが続ける。
「死亡後、校正筒へ載せられた可能性が高い」
「筒は正面扉の封鎖後に上昇し、死体を振子室へ入れた」
グレアムが曲がった鉄扉を見る。
「犯人は、この部屋へ入っていない」
「入る必要がなかった」
レオンは答えた。
「密室は、犯人を閉じ込めるために使われたのではない」
ミラベルが言う。
「犯人が中へ入らず、死体だけを入れるために利用された」
レオンは、人員入室記録と器材搬送記録を指した。
「塔は、人間が正面扉を通れば、人員入室として記録する。だが、校正筒を通ったものは、器材搬送として処理される」
振子の短い音が、室内へ響いた。
カン。
静寂。
「犯人は、死体を時計の一部として入れた」
*
廊下の向こうから、拍手が一度だけ聞こえた。
小さく、乾いた音だった。
「見事です、クラウス氏」
セヴラン=コルベットが立っていた。
左手には、人物照合票と塔上部からの報告書を持っている。
「死人を運搬物へ置き換える。いかにも、あの男が好みそうな構造だ」
グレアムが扉の前へ出た。
「現場へ入るな」
「入ってはいません」
セヴランは廊下から、オットーの遺体を見た。
悲痛な表情を作るまでに、一瞬だけ間があったようにミラベルには見えた。
だが、それは記録できない。
彼女がセヴランを疑い始めているため、そう見えただけかもしれなかった。
「塔上部の警備員から報告が届きました」
セヴランは人物照合票を差し出した。
「時計盤裏へ続く外周保守路で、身元不明のエルフ男性が目撃されています。二人の警備員が、この手配記録の人物と相違ないと証言しました」
紙面には、細面のエルフ男性が描かれていた。
穏やかな目。
整えられた髪。
学者を思わせる静かな顔立ち。
その下に、名がある。
> ノクス=モリアン
> 元ヴァルテリア記録大学客員教授
> 記録犯罪関与の疑い
「本人だと確認できたんですか」
ミラベルが尋ねた。
「警備員二名の証言があります。時計盤裏の保守扉にも、不正開放の痕跡がある」
「侵入の証拠だ」
レオンが言った。
「殺人の証拠ではない」
セヴランの目が細くなった。
「同じ塔で、存在しない時刻を作り、その時刻へ主任時計官の死を記録させた男です」
「《第十三時》を起動した者と、オットーを殺した者が同じだという証拠は?」
「ほかに誰が、このような構造を設計できます」
「能力は証拠にならない」
「偶然だとおっしゃるのですか」
「関連はある」
レオンは、人物照合票と死亡記録を見比べた。
「ノクスが塔へ侵入した可能性は高い。旧補正機構を動かしている可能性も高い。だから都市機構への干渉については追う」
「殺人については?」
「別だ」
「オットー主任は、《第十三時》によって殺された」
「違う」
レオンは死者へ視線を向けた。
「死体は、《第十三時》が始まる前から死体だった」
セヴランが一瞬だけ黙った。
「ならば、ノクスが事前に殺したのでしょう」
「いつ」
「それは検死官が――」
「どこで」
「旧資料庫。あなた自身が、靴底の紙粉からそう推理した」
「可能性が高いと言った。確定したとは言っていない」
「都市が壊れているときに、言葉を選んでいる場合ですか」
「だから選ぶ」
レオンの声が低くなった。
「急いでいるときほど、間違った人間を犯人へ置けば取り返せない」
「あの男は、都市全土を危険へ晒しています」
セヴランの声から、主任時計官を悼む調子が消えた。
「列車を衝突させ、橋を動かし、工場炉を暴走させようとしている。オットー一人を殺すことに、何のためらいがあるというのです」
「危険な人物なら、すべての殺人を犯すのか」
「彼には動機も能力もある」
「どちらも証拠ではない」
「では、誰を疑っているのです」
レオンは答えなかった。
まだ誰かを名指しできる地点ではない。
オットーを殺した場所。
実際の死亡時刻。
校正筒へ死体を入れられた者。
自動昇降の仕組みを知っていた者。
《第十三時》の発生を事前に知っていた者。
条件は、まだ一人へ絞られていなかった。
「疑う相手を先に決めて、あとから証拠を集める気はない」
レオンが言った。
「証拠を並べて、最後に残った相手を疑う」
「その間にノクスが逃げます」
グレアムが二人の間へ入った。
「逃げる奴は追う。殺した奴も追う」
「同じ人物です」
セヴランが断じた。
「それを決めるのは、あんたじゃない」
グレアムの声に、廊下の警官たちが姿勢を正した。
「今あるのは、ノクスらしき男が塔上部へ侵入したという証言と、不正開放された保守扉だ。そいつが《第十三時》を動かしている可能性は追う」
警部は照合票を折らずに受け取った。
「だが、オットーの殺害については別だ。一本に見える線が、途中で重なっとるだけかもしれん」
「すべてが一人を指している」
「そう見えることと、証明できることは違う」
グレアムは人物照合票を部下へ渡した。
「塔上部へ警官を回せ。不法侵入と都市機構への干渉容疑だ。殺人犯と決めるのは、証拠が出てからにする」
セヴランは何かを言いかけ、口を閉ざした。
*
廊下の補正記録は、《第十三時》開始から八分へ近づいていた。
レオンは、もう一度、基準振子室を見た。
オットーは、この部屋へ歩いて入っていない。
別の場所で殺され、機械に載せられた。
正面扉が閉ざされたあと、校正筒は規定どおり上昇し、死体を振子の下へ送り出した。
機械は命じられた仕事を行っただけだった。
人間と死体を見分けたのではない。
生者と器材を区別したのでもない。
通った経路に従って、それぞれを別の欄へ所属させた。
ミラベルは手帳の新しい頁を開いた。
左側に、
> オットー=ヴァール殺害
右側に、
> 《第十三時》の起動
と書く。
その間は、空白にした。
「同じ人物が動かした可能性はある」
ミラベルが言った。
「ああ」
「殺人犯が、《第十三時》を利用した可能性も」
「ある」
「別々の人間が、それぞれの目的で同じ異常時刻を使った可能性も残る」
「ああ」
「つながったと証明できたら、線を引きます」
「それまでは空けておけ」
遠くで、塔の歯車が一段進んだ。
同じ塔の中では、エドガーたちが二つの時刻から都市を守ろうとしている。
旧時刻資料庫では、エレノアが歩幅の合わない時計技師を追っている。
そして基準振子室では、レオンとミラベルが、存在しない時刻へ置かれた死者を、本来の場所と時刻へ戻そうとしていた。
その三つを動かした手が同じであるとは。
まだ、どの記録にも書かれていなかった。




