第5節 ― 存在しない一時間
《第十三時》開始から三分。
基準振子室の正面扉には、再び警官が立っていた。
強制開放によって歪んだ閂は、元へ戻せない。代わりに廊下へ縄が張られ、入室記録機には警察の封印が施されていた。
誰が。
いつ。
何のために現場へ入ったのか。
機械による記録が信用できない現在において、二人の警官が手書きで一行ずつ残し始めている。
室内では、オットー=ヴァールの遺体へ触れない位置まで、基準振子の揺れ幅が落とされていた。
右へ。
左へ。
長い真鍮棒が、短く不規則な音を刻む。
カン。
間を置いて。
カァン。
主任時計官が死んでいても。
存在しない時刻を示していても。
時計は、止まろうとはしなかった。
「完全には止めていないな」
グレアム警部が確認した。
「廊下側の補助弁で減速しただけだ」
ヘルガ=ツァーンは、圧力箱から工具を引き抜いた。
「ここで基準振子を完全停止させれば、全西方へ送っている時刻信号まで落ちる」
「死体の上を振らせ続けるよりはましだ」
「もう遺体へは触れていない。これ以上揺れを落とせば、基準信号を維持できん」
グレアムは鉄扉の内側を見た。
振子。
オットーの遺体。
校正筒の出口。
床の真鍮粉。
板道。
自動事故記録機。
強制開放に使われた工具。
現場に残したものを、目で一つずつ数えているようだった。
それから警官二人へ向き直る。
「検死官が来るまで、誰も入れるな。強制開放に使った工具も動かすな。廊下の記録紙は切り取らず、巻取筒ごと押収する」
「統制局長でも?」
「肩書で足跡が軽くなるなら考える」
セヴラン=コルベットは何も言わなかった。
廊下の壁には、二つの時計が並んでいる。
針時計は、午前零時三分。
その隣にある補正記録器には、
> 《第十三時》開始から三分
と表示されていた。
二つの時計は、同じ速さで秒を進めながら、異なる現在を示している。
ミラベルは両方を手帳へ書き写した。
> 通常時計 午前零時三分
> 補正記録 《第十三時》開始から三分
書き終えてから、鉛筆を止める。
「“通常時計”と書いていいんでしょうか」
「針時計が通常の標準時を示している。それは事実だ」
レオンが答えた。
「どちらが現在の命令として扱われているかは、別の問題だがな」
「私たちが生きているのは、午前零時三分です」
「体感では」
「記録機械は、《第十三時》開始から三分を現在としている」
「ああ」
「時間が二つに分かれた?」
「比喩としては近い」
「正確には?」
レオンは二つの表示を見比べた。
「二つの時刻系統が、同じ現在へ命令を出している」
階下から別の警報が響いた。
一度。
二度。
続いて、階段を駆け上がる足音が近づく。
「統制室からです!」
若い技師が、息を切らして廊下へ現れた。
「鉄道、運河、工場から緊急信号! 各地で異なる時刻命令が同時に――」
「ここではなく、統制室で報告しなさい」
エドガー=クラウスが言った。
オットーの死亡記録を見ても、表情を大きく変えてはいない。
だが、その声からは、式典来賓としての余裕が消えていた。
「全通信記録を保存する。現場には、受信した命令だけでなく、実際に何が動いているかを報告させなさい」
「ですが、主任が……」
「オットー=ヴァールの死は警察が扱う」
エドガーは、封鎖された振子室を一度だけ見た。
「今は、生きている者を死者へ移さないことが先だ」
グレアムが帽子をかぶり直す。
「勝手に指揮を執るなと言いたいところだが」
「言っている時間はあるかね」
「ない」
警部は階段へ向かった。
「探偵も怪盗も殺人犯も、塔と街が残ってから捕まえる」
「怪盗が塔内にいると確定したわけではない」
レオンが続く。
「予告状を出した奴がいる。それで今は十分だ」
*
重量錘区画へ入ると、塔の中心を貫く縦穴から冷たい風が吹き上がってきた。
巨大な重量錘は、先ほどより明らかに速く降下している。
太い鎖が歯車へ噛み込むたび、保守橋が足元から震えた。地下排水路から吹き上がる湿った風が、全員の外套をはためかせる。
ヘルガは手摺をつかみ、中央軸を見上げた。
「出力が上がっている」
「《第十三時》へ切り替わった直後から?」
隣へ並んだモルガ=ブラスが尋ねる。
「それまでは規定値だった」
「主振子ではなく、送信系統が錘を引いている」
「分かっている」
「なら、旧補正機構は独立した動力を持っていない。現行の送信機構から力を取っている」
ヘルガがモルガを睨んだ。
「自分の塔を知らなかったと言いたいのか」
「私も、自社の機械が何へ接続されたのか知らなかった」
モルガは下降する錘を見下ろした。
「腹を立てるのは、生き残ってからにしましょう」
ヘルガは返事をしなかった。
ただ、歩調を速める。
階下から、連続した印字音が聞こえ始めていた。
ガチャン。
ガチャン。
ガチャン。
人間が一枚ずつ紙へ文字を打つ音ではない。
複数の通信機が、各都市の異常を休みなく吐き出している音だった。
*
標準時統制室は、式典前とは別の場所へ変わっていた。
壁面の都市時計。
中央操作卓。
通信鍵。
圧力計。
設備の配置は何も変わっていない。
だが、百を超える都市時計の下では、赤い警告札が次々と跳ね上がっている。
鉄道。
運河。
工場。
契約法院。
銀行。
記録院。
各系統から伸びる紙帯が、長机を越えて床へ流れ落ちていた。
通信係たちは、一枚を読み終える前に次の報告を受け取っている。どの紙を先に読めばよいのか分からず、複数の声が重なり、誰かが同じ報告を二度読み上げた。
「グラン=レール東部信号局より緊急!」
一人の通信係が叫んだ。
「同一閉塞区間の上下二列車へ、双方とも進行許可!」
「現場目視で止めろ」
グレアムが命じた。
「自動信号を信用するな。赤灯と手旗を使わせろ」
「標準時命令と矛盾します!」
「列車の位置は矛盾しない。線路上にいる方を信じろ!」
隣の通信機が鳴った。
「鉄環線北区間、日付更新命令を二重受信! 出発済みの列車が、未出発列車として再登録されています!」
「登録は保留させろ。実車位置を優先する」
「どちらの時刻を基準に?」
技師の問いに、統制室が一瞬だけ静まった。
通常時計は午前零時三分を過ぎている。
補正記録は、《第十三時》開始から三分を示している。
出発済みという記録は、午前零時の側へ残されていた。
未出発という命令は、《第十三時》の側から届いている。
どちらも機械が正式に受信した記録だった。
エドガーは中央操作卓の前へ進んだ。
「時計を基準にするな」
大きな声ではなかった。
それでも、室内にいた者たちが振り返った。
「鉄道は線路上の実車位置を基準にする。信号記録より、現場の目視を優先しなさい」
「運用規則では、標準時信号を――」
「その標準時が二つある」
エドガーは、壁面の二種類の時計を示した。
「規則が前提としているのは、一つの現在だ。前提が失われた規則を、そのまま適用してはならない」
グレアムが通信卓へ拳を置いた。
「全鉄道局へ送れ。自動信号を信用するな。閉塞区間へ人を出し、列車を止めろ」
「全線をですか」
「衝突したあとで一本ずつ数えるより安い」
通信係たちが一斉に鍵を打ち始めた。
カタタタタタ――。
金属音が室内を埋める。
その上から、別の警報が重なった。
「ヴェルム=クロウ歯車運河より緊急通信!」
ミラベルが顔を上げた。
黒鴉館のある街。
数時間前まで、自分たちがいた街だった。
通信係が紙帯を引き出す。
「第三昇開橋が開橋命令を受信! 橋面へ貨物列車が進入中!」
「なぜ鉄道閉鎖信号が先に入っていない!」
ヘルガが叫んだ。
「橋は《第十三時》の運河時刻を受信! 貨物列車は午前零時の鉄道時刻で進行しています!」
ミラベルの頭に、歯車運河の夜景が浮かんだ。
黒い水面。
煤霧。
運河をまたぐ鉄橋。
その上を走る長い貨物列車。
橋の両端に組み込まれた歯車が回れば、鉄路は中央から持ち上がる。すでに橋へ進入した機関車は、短い距離では止まれない。
「橋梁側の動力を切れ!」
グレアムが命じた。
「現場員が手動制動弁へ向かっています!」
「列車側にも非常停止を送れ!」
「橋面へ進入済みです!」
紙帯の向こう側で、何が起きているのか。
統制室からは見えない。
通信鍵を打つ短い音だけが続いた。
カタ。
間。
カタタ。
返答が途切れる。
ミラベルは、無意識に手帳を強く握った。
記事を書くためではない。
遠い街で貨物列車が運河へ落ちる光景を想像すると、何かを握っていなければ指が震えそうだった。
「現場から応答!」
通信係が叫んだ。
「手動制動弁へ到達! 開橋機構の固定作業中! 列車側も緊急制動!」
「結果だけ報告させろ。作業員へ橋面へ近づきすぎるなと伝えろ!」
グレアムの命令が送信される。
無事に止まったという報告は、まだ届かない。
次の通信機は、すでに鳴っていた。
「スート=フェルド第九製鋼所!」
「交替前の炉圧維持命令と、交替後の燃料増加命令を同時受信!」
「蒸気炉二基が過圧!」
「自動停止弁が、《第十三時》の命令を優先して閉じません!」
モルガは通信紙を取った。
「炉型は」
「ブラス式第三〇号!」
「主弁を閉じるな。先に補助圧力箱から蒸気を外へ逃がし、その後に燃料送りを切りなさい」
「現場へ送ります!」
「作業員を炉前から退避させて。弁を守らせるな」
通信係が指示を打つ。
モルガの表情は変わらない。
だが、紙帯を持つ指には力が入っていた。
「同じ命令が、ほかの工場にも届いている可能性があります」
ミラベルが言った。
「可能性ではない」
モルガは壁面を見た。
工場系統の警告札が、一つ。
また一つ。
赤く跳ね上がっている。
「全工場へ送信。自動交替命令を停止しなさい。炉と蒸気機関は、現場責任者の手動管理へ切り替える」
「全工場を手動へ戻せば、生産が止まります」
技師が戸惑った。
「人間が止まるよりは安い」
その言葉は、基準振子室の扉を壊すと決めたときと同じだった。
*
三つの異常は、それぞれ別の事故に見えた。
鉄道。
運河。
工場。
だが、どの機械も午前零時と《第十三時》から、互いに両立しない命令を受けている。
「二つの時刻が、同じ機械を動かそうとしている」
ミラベルが言った。
「そうだ」
レオンが答えた。
「単に時計が狂ったのではない」
「《第十三時》の命令も、機械には正規の信号として届いている」
「ああ」
「なら、《第十三時》だけを止めれば」
「簡単にはいかん」
ヘルガの声が、中央操作卓の下から返った。
彼女は工具を床板の継ぎ目へ差し込み、固定ねじを外していた。
モルガが反対側へ膝をつき、重い床板の縁を持ち上げる。
金属板が擦れ、下から熱い機械油の匂いが上がってきた。
「照明を」
ヘルガが言った。
若い技師が保守灯を床下へ向ける。
露出した機構の中を、複数の真鍮管と信号軸が走っていた。
新しい部品には型番が刻まれ、用途ごとに識別色が塗られている。
そのさらに奥。
壁の中へ隠れる位置に、黒ずんだ歯車列があった。
型番はない。
識別色もない。
古い鋼鉄の軸だけが、現行機構の回転を受けて音もなく動いている。
「これだ」
ヘルガが、床下へ半身を入れた。
「旧補正軸」
モルガは保守灯の角度を変え、歯車の接続先を追った。
「補正軸だけを切れる?」
「切れば補正信号は止まる」
「なら――」
「同じ軸が、主送信分配器へ入っている」
ヘルガは、二つの機構を結ぶ継手を工具の先で示した。
「ここを切れば、《第十三時》だけではなく、各都市へ送る基準信号そのものが落ちる」
グレアムが床板の脇へ来た。
「信号は赤になるのか」
「ならない」
ヘルガは床下から顔を上げた。
「時刻基準を失った信号機が、安全側へ落ちる保証はない」
「異常時は停止表示へ切り替わる設計だろう」
「個別の断線ならな。全線同時に時刻基準を失う試験などしていない」
「進行表示のまま固まる可能性は」
「ある」
「走行中の列車へ、同時に非常停止が掛かる可能性は」
「ある」
「どちらだ」
「やってみなければ分からん!」
ヘルガの声が、床下で反響した。
グレアムは何も言わなくなった。
止めれば助かるとは限らない。
動かし続ければ、異なる命令による事故が増える。
これは、単純な故障ではなかった。
故障なら、止めればよい。
正しく作動している二つの時刻系統が、同じ機械へ異なる命令を送っている。
その衝突だった。
「新しい送信機構の力で、古い補正軸が動いている」
モルガが言った。
「補正経路は、主送信系統へ組み込まれている。外から追加された接続ではない」
「接続部は新しい」
レオンが床板の縁へ屈んだ。
旧歯車列と現行軸を結ぶ継手。
周囲の鋼鉄は黒ずんでいるのに、固定ねじの角だけが新しく光っている。
「制定当時から、この形だったのか」
「補正軸そのものは古い」
ヘルガが答えた。
「だが、この継手は後から交換されている」
「交換記録は」
「見た覚えがない」
「油は」
「塔内で使っている保守油と同じに見える」
モルガが言った。
「同じ油だからといって、今夜塗られたとは限りません」
「そうだ」
レオンは機構へ触れず、角度を変えて継手を観察した。
「現時点で確認できるのは、旧補正軸が現行送信系統へ接続され、実際に動いていることだけだ」
「誰が接続したかは不明」
ミラベルが続ける。
「いつ接続したのかも」
「ああ」
「ノクス=モリアンの仕業でしょう」
セヴランが言った。
彼は統制室の入口に立っていた。
基準振子室で見せた動揺は、すでに押し隠されている。
「塔へ侵入した可能性がある。ルヴェールも彼から情報を与えられたのかもしれない。《第十三時》などという構造を設計できる者は――」
「可能性と名前を並べるな」
レオンが遮った。
「しかし、ほかに誰が」
「それを調べる」
「その間にも都市が壊れている!」
「だから、原因を決めつける時間が惜しい」
セヴランは口を閉ざした。
レオンは床下の機構へ視線を戻す。
「ヘルガ。補正機構が、どれだけ動き続けるか分かるか」
「そんなもの、現行資料には――」
ヘルガの声が止まった。
古い歯車の外周。
煤と油に覆われた箇所へ、細かな刻線が見えている。
彼女は布を取り出し、刻線の周囲だけを拭った。
十三本の長い溝が現れた。
固定爪は、三本目を通過し、四本目へ向かっている。
「十三段式……」
「何だ」
グレアムが問う。
「地方時差を一時的に吸収するための補正計数輪だ。一段ごとに仮の補正時間を進める」
「一段は?」
「一分」
モルガは、固定爪の速度を見た。
「《第十三時》は、十三分間続く」
ミラベルが壁面の補正記録を見る。
> 《第十三時》開始から三分
数字は止まっていない。
「十三分が終わったら、どうなるんです?」
「本来の校正用途で動いているなら、通常時刻へ復帰する」
ヘルガが答えた。
「本来の用途ではない場合は?」
「分からん」
答えと同時に、計数輪の固定爪が四本目の溝へ落ちた。
カチリ。
小さな音だった。
だが、その音の直後、壁面の警告札がまた一つ赤く跳ね上がった。
*
エドガーは、操作卓から流れ続ける別の紙帯を調べていた。
時刻信号とは異なる。
数字。
分類符号。
照合番号。
訂正先。
同じ形式の文字列が、絶え間なく送信されている。
「ヘルガ主任」
エドガーが一枚を掲げた。
「これは時刻命令かね」
ヘルガは床下から出て紙帯を受け取った。
「違う。記録の訂正送信形式だ」
「何を訂正している」
「この紙帯へ内容そのものは出ない。元記録の所在番号と、訂正先だけだ」
「送信元は?」
ヘルガが卓上の表示器を確認する。
「旧時刻資料庫の地下記録線」
レオンは、床へ積もった送信紙を遡った。
紙帯を一枚ずつ持ち上げ、連続番号を確認し、送信が始まった先頭部分を探す。
やがて、最初の印字へ行き着いた。
> 送信資料 《十一分訂正原簿》
> 送信開始 《第十三時》零分
> 訂正複製 進行中
《第十三時》が始まった瞬間。
《十一分訂正原簿》の複製送信も始まっていた。
「送信先は?」
ミラベルが尋ねた。
エドガーが分配記録を広げる。
紙帯は長机から床へ垂れ、さらに巻取筒へ続いていた。
「鉄道局。契約法院。銀行。各都市の記録院。新聞通信所」
「新聞社にも?」
「訂正公告の配信先だ」
「原簿の内容が、大陸中へ送られている」
「内容そのものか、原簿を復元できる訂正記録なのかは、まだ確認が必要だ」
レオンが言った。
「ただし、《十一分訂正原簿》の複製送信が始まったことは確かだ」
「止めるべきです」
セヴランの声が、わずかに早くなった。
「機密記録を無差別に送信するなど――」
「送信が始まることを知っていたのか」
レオンが尋ねる。
「知るはずがない」
「なら、何が送られているか確認する前に、“機密記録”と決めるな」
「原簿には公開できない個人情報と権利関係が含まれている」
「存在を否定していた記録へ、ずいぶん詳しいな」
セヴランは返答しなかった。
「送信が確定するのはいつだ」
グレアムがヘルガへ問う。
「計数輪が十三段目を通過したとき」
「途中で止めれば」
「受信先によっては、不完全記録として破棄される。途中まで残す機械もある」
「十三分後なら」
「すべての受信機へ、訂正記録として確定する」
統制室を満たしていた声と印字音が、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
何者かは、十三分間だけの異常時刻を作った。
その時間を使い、四十三年前の《十一分訂正原簿》を大陸全土へ複製しようとしている。
同時に、鉄道と運河と工場では、二つの時刻が人命を奪いかねない命令を出し続けていた。
「問題は三つだ」
エドガーが言った。
壁面の警告札へ視線を向ける。
「午前零時と《第十三時》が、同じ機械へ異なる命令を送っている」
次に、開かれた床下の旧補正軸を見る。
「補正機構を単純に止めれば、交通信号や安全装置まで失う可能性がある」
最後に、十三段の計数輪を見る。
「そして、《第十三時》開始から十三分後、《十一分訂正原簿》の複製が各地で確定する」
「どれを先に処理する」
グレアムが訊いた。
「分ける」
レオンが答えた。
「人手は有限だぞ」
「事件も一つとは限らない」
レオンは、オットーの死亡記録と原簿の送信記録を操作卓の上へ並べた。
> 死亡記録時刻 《第十三時》零分
> 《十一分訂正原簿》
> 送信開始 《第十三時》零分
「同じ《第十三時》を使っている」
ミラベルが言った。
「それは事実だ」
「殺人犯が、この異常時刻を利用した可能性は」
「ある」
「異常を起こした者が、オットーさんも殺した可能性は」
「ある」
「別の人間が、それぞれ同じ《第十三時》を使った可能性も」
「ある」
「今は決められない」
「証拠がない」
レオンは死亡記録を折らずに戻した。
「都市の異常と、オットーの死を、同じ犯人による一つの計画として扱うな。つながりは調べる。結論は分ける」
グレアムが鼻を鳴らした。
「都市はこちらで止める。お前は死体を調べろ」
「警部もあとで来い」
「街が残ったらな」
「残すんだろう」
「そのつもりだ」
エドガーが統制室の中央へ立った。
「モルガ=ブラス。ヘルガ=ツァーン。主信号を維持したまま、旧補正軸だけを分離する方法を探してくれ」
「簡単に言いますね」
モルガが答えた。
「難しく言えば、機械が解決するのかね」
「しません」
「なら、簡単でよい」
エドガーはグレアムへ向き直る。
「鉄道と運河は現場目視。工場は手動制御。契約法院と銀行には、時刻が一つへ戻るまで新規処理を停止させる」
「俺は中央記録庁の部下じゃない」
「街を救う間だけは、似たようなものだ」
「事件が終わったら覚えとけ」
「記録しておこう」
グレアムは通信卓へ戻った。
エドガーは、届いた紙帯を種類ごとに分け始める。交通、産業、契約、記録。それぞれへ担当者を置き、同じ報告を二度処理しないように番号を振らせた。
先ほどまで混乱していた通信係たちも、役割を与えられると動き始めた。
「鉄道は警部へ!」
「工場系統はブラス夫人へ回せ!」
「契約法院と銀行は、クラウス顧問の卓へ!」
「受信紙を捨てるな! 誤信号も含め、すべて保存!」
叫び声は続いている。
警告札も増えている。
それでも、統制室は少しずつ、混乱から作業場へ戻ろうとしていた。
ただし。
十三本の溝を持つ計数輪は、その間にも次の一段へ進んでいる。
「戻るぞ」
レオンが言った。
「基準振子室へ?」
ミラベルが尋ねる。
「死体は待っている。証拠は待たない」
「エレノアさんは?」
レオンは統制室を見渡した。
末妹の姿はない。
広間へ残したはずだった。
だが、エレノアが不審な時計技師を見つけたことも、追おうとしていたことも分かっている。
グレアムが部下を呼ぼうとした、その前に。
広間から来た警官が、扉へ駆け込んだ。
「警部! クラウス家のご令嬢が、式典会場からいなくなりました!」
レオンが目を閉じた。
一秒だけ。
「どちらへ」
「目撃者によれば、時計技師を追って旧時刻資料庫方面へ!」
「小さな探偵未満め」
吐き捨てるように言い、レオンは扉へ向かった。
「待ちなさい」
エドガーが呼び止める。
「どこへ行く」
「妹を連れ戻す」
「こちらはどうする」
「兄さんがいる」
「君は私を便利な装置だと思っている節があるな」
「都市を座ったまま動かす男だろう」
「今は立っている」
「なら、いつもより役に立つ」
エドガーは、ほんのわずかに眉を動かした。
「行きなさい。ここは私が預かる」
「行政判断だけで機械を触るな」
モルガが言った。
「私は機械を触らない。触る者へ、何を守るべきか決める」
「機械を守ると決めないでください」
「君が先にそれを言うとは、よほど事態が悪いらしい」
レオンはミラベルを見る。
「君はここに残れ」
「嫌です」
「即答するな」
「エレノアさんを追うのでしょう」
「危険だからだ」
「危険なら、記録する人が必要です」
「その理屈を、万能鍵のように使うな」
「レオンさんこそ、“危険だから残れ”を使いすぎです」
壁面の補正記録が進む。
《第十三時》開始から、四分を越えた。
また一つ、鉄道系統の警告札が赤く跳ね上がる。
残された時間は短い。
レオンは息を吐いた。
「俺から離れるな」
「はい」
「勝手に資料へ触るな」
「はい」
「誰かを見つけても、単独で追うな」
「それはエレノアさんに言ってください」
「見つけたら言う」
二人は統制室を出た。
背後では、エドガーとグレアムが、二つの時刻から都市を守ろうとしている。
モルガとヘルガは床下の旧機構へ手を入れ、主信号を失わずに補正軸だけを止める方法を探している。
そして、旧時刻資料庫へ向かう別の階段では、エレノア=クラウスが、歩幅の合わない時計技師を一人で追っていた。
同じ《第十三時》の内側で。
都市の異常。
オットーの死。
《十一分訂正原簿》の送信。
三つの出来事が、別々に動き始めている。
十三分後、何者かが送っている訂正記録は、大陸全土へ確定する。
止めれば、交通信号そのものが失われるかもしれない。
止めなければ、二つの時刻が同じ線路と橋と炉を動かし続ける。
どちらを選んでも、失われるものがある。
その選択だけが。
時計塔から与えられた命令ではなかった。




