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第4節 ― 時計塔は十三度鳴る

 舞台上では、ヴァネッサ=リードが時の王へ問いを捧げていた。


「同じ鐘を聞けば、同じ時を生きたことになるのか」


 濃紺の長衣をまとった彼女の背後で、巨大な時計盤を模した背景幕が淡く光っている。


 十二の数字。


 十二本の細い光。


 その中心に立つヴァネッサの影が、長く客席へ伸びていた。


 楽団は低い旋律を保ったまま、次の台詞を待っている。観客も身じろぎせず、誰もが舞台を見ていた。


 少なくとも、そう見える姿勢を取っていた。


 レオン=クラウスは客席へ座りながら、舞台袖、広間上部の時計、塔内階段へ続く扉を順に見ていた。


 ミラベルは隣で手帳を膝へ置き、彼の視線を追った。


「朗読劇を観る気はないんですか」


「観ている」


「ヴァネッサさんをほとんど見ていません」


「声は聞こえる」


「演者に失礼です」


「彼女は、見られていなくても演じられる」


 ミラベルは舞台へ顔を戻した。


 ヴァネッサは古い鐘の模型へ片手を置き、客席の暗がりへ顔を向けている。こちらの会話が聞こえる距離ではない。


 それでも、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えた。


「見られていますよ」


「気のせいだ」


「そういうことにしておきます」


 ミラベルは鉛筆を持ち直した。


 手帳の上部には、セヴラン=コルベットの演説から抜き出した一文がある。


> 時刻によって文明を一つにする。


 その下へ、ヴァネッサの台詞を書き加えた。


> 同じ鐘を聞けば、同じ時を生きたことになるのか。


 同じ時刻を共有することは、同じ時間を生きることではない。


 そう続けかけて、鉛筆を止めた。


 記事へ書くには、まだ感傷が強すぎる。


 レオンなら、そう言うだろう。


 だが、消しもしなかった。


     *


 午後十一時四十九分。


 広間上部の時計で、長針が最後の一目盛りへ入った。


 舞台の照明がわずかに絞られ、朗読劇は終幕へ近づいている。


 ヴァネッサは時の王へ背を向け、時計盤の中心へ立った。


「王は、十二の印を人々へ与えた」


 彼女の声が、石壁と鉄骨の間を満たす。


「朝を始めるために」


 一の数字が灯る。


「労働を分けるために」


 二から六までが順に灯る。


「約束へ期限を与えるために」


 七から十一。


「そして、一日を終わらせるために」


 十二の数字が光った。


 客席の何人かが、反射的に自分の時計を確認する。


 午後十一時四十九分。


 一日は、まだ終わっていない。


 そのとき、広間脇に据えられた記録装置が、短い金属音を発した。


 カチリ。


 白い紙帯へ、一行の文字が打ち出される。


> 基準振子室

> 人員確認終了


 続いて、次の一行。


> 午後十一時五十分

> 自動封鎖開始


 広間上部の時計が、午後十一時五十分を示した。


 遠く、塔の上階から複数の閂が同時に動く重い音が伝わってくる。鉄が滑り、噛み合い、最後に深い音が一つ響いた。


 ゴン。


 ミラベルは舞台から顔をそらした。


「閉まったんですね」


「ああ」


 レオンは上階への扉を見ていた。


「午前零時十分まで、基準振子室の正面扉は開かない」


「中は無人だと記録されています」


「人員確認の手順が終わったことは記録された」


「同じでは?」


「今のところはな」


「必ず留保をつけるんですね」


「記録へ絶対を求める方が危険だ」


「それを時計塔で言うと、嫌われますよ」


「もう嫌われている」


「自覚があったんですね」


 レオンは答えなかった。


 舞台上では、ヴァネッサが鐘の模型から手を離している。


「けれど王は、一つだけ人々へ教えなかった」


 音楽が止まった。


 沈黙の中で、塔内を流れる蒸気と、時計の刻みだけが聞こえる。


「時刻を同じにすれば」


 ヴァネッサは、ゆっくりと客席を見渡した。


「失われるものも、同じになるのか」


 最前列のセヴランが、わずかに姿勢を変えた。


 すぐに何事もなかったように舞台へ目を戻したが、膝の上で重ねた手の指が、一度だけ動いている。


 ミラベルは気づかなかった。


 レオンが気づいたかどうかも分からない。彼は広間左手の職員扉を見ていた。


 先ほど、歩き方の不自然な時計技師が消えた場所だった。


 扉は閉じたまま。その前には、グレアムが追加配置した警官が立っている。


 時計技師が再び現れた様子はない。


 ミラベルの斜め前では、エレノアがエドガーの隣へ座っていた。


 警備変更後、舞台裏から客席へ戻されたのだが、片足だけを椅子の下へ引き、いつでも立ち上がれる姿勢を取っている。


「エレノア」


 レオンが短く呼んだ。


 妹は振り返る。


「何もしていません」


「座り直せ」


「座っています」


「追う姿勢で座るな」


「姿勢まで管理するの?」


「君は姿勢の直後に行動する」


「偏見だわ」


「実績だ」


 エレノアは不満そうに足を揃えた。


 その隣で、エドガーが懐中時計を開く。


「妹を監視する余裕があるなら、午前零時信号を見た方がよい」


「兄さんが監視しておけ」


「私は大陸規模の行政記録を確認するために来ている。末妹一人の管理は担当外だ」


「わたしは管理対象ではありません」


「帰宅予定を記録してから言いなさい」


「今は招待旅行です」


「帰る時刻のない旅行を、一般には家出と呼ぶ」


「何でも記録で決めるのね」


「決めなければ、君は帰らない」


 エレノアは答えず、広間の時計を見上げた。


 午後十一時五十五分。


 午前零時まで、残り五分。


     *


 式典の進行係と時計技師たちは、最後の確認へ入っていた。


 広間の時計。


 舞台装置。


 自動記録機。


 外壁の照明。


 すべてが午前零時の信号へ合わせて作動する。


 グレアムは壁際に立ち、部下から次々と報告を受けていた。


「旧時刻資料庫正面、異常なし」


「地下保管区画、封印確認」


「鐘楼へ上がった技師は?」


「三名です。全員、通行札と職員名簿へ照合済み。二名はすでに降り、残る一名が打鐘装置の最終監視に当たっています」


「名前は」


 部下が名簿を示した。


 グレアムは記載された三名と、それぞれの入退場時刻を確認して返す。


「不審な時計技師の照合は」


「エレノア嬢の証言に近い体格の職員は三名。全員、本人確認が取れました。一人は標準時統制室、一人は鐘楼、一人は自動記録室です」


「同じ通行札を、別人が使った可能性は」


「札番号と通過記録を再照合しています」


「急がせろ。機械の記録だけで終わらせるな。各扉に立っていた警官の目撃とも合わせろ」


「はい」


 部下が離れていく。


 近くで聞いていたミラベルが、レオンへ顔を寄せた。


「三人とも本人確認が取れたなら、エレノアさんの見た人は?」


「本物の技師かもしれない」


「誰かが通行札を借りたのかもしれない」


「ああ」


「本人が服の下で体格を偽装していた可能性も」


「ある」


「どれが正しいと思います?」


「分からない」


「レオンさんでも?」


「情報が足りないものは、誰にも分からない」


「仮説の順位くらいは」


「順位をつければ、下へ置いた可能性を見なくなる」


 ミラベルは少し考え、手帳へ一行だけ書いた。


> 不審な時計技師について、正体は未確認。


「それでいい」


 レオンが言った。


「また読んでいるじゃないですか」


「見えた」


「便利な言葉ですね」


「記者には負ける」


 ミラベルが言い返す前に、広間の照明が一度だけ瞬いた。


 客席から、小さな声が上がる。


 舞台脇にいたモルガ=ブラスが、すぐに天井を見た。


「送信機構への負荷切替です」


「照明が消える予定だったのか」


 グレアムが尋ねる。


「瞬断は一秒未満。規定内です」


 答えたのは、機関主任のヘルガ=ツァーンだった。


 彼女は統制室から広間へ戻ったところらしく、煤のついた革手袋を外しながら、壁際の圧力計を確認している。


「鐘楼、統制室、自動記録室。すべて午前零時同期信号を受領しました」


「鐘楼に残った一人は」


「打鐘装置の監視位置にいます。伝声管で応答を確認済みです」


「オットー主任は?」


 レオンが訊いた。


「最終同期の確認中です」


「どこで」


「基準振子室の封鎖前確認には立ち会いました。その後は上層と統制室を行き来していたはずです」


「今いる場所は」


「逐一、わたしへ報告させてはいません」


「基準振子室には?」


「封鎖前の人員確認では無人でした。保守班長の目視と、扉の接点記録の両方で確認しています」


「確認した保守班長は」


「統制室にいる。続きは午前零時を越えてから聞いてください」


 ヘルガは広間の時計を見上げた。


 午後十一時五十八分。


 塔内の空気が、目に見えない力で引き絞られていく。


     *


 朗読劇は、最後の場面へ入っていた。


 時の王を演じる役者はいない。


 舞台中央には、空の王座だけが置かれている。


 ヴァネッサはその前へ膝をつき、誰も座っていない椅子へ静かに問いかけた。


「時を一つにすれば、人は争わなくなるのでしょうか」


 返事はない。


 楽団の弦が細く震える。


「失われた時は、どこへ行くのでしょうか」


 舞台奥の時計盤で、長針が十二へ近づいていく。


「その間に交わされた約束は」


 客席が静まり返る。


「その間に奪われたものは」


 ミラベルの指が、鉛筆の軸を強く握った。


「どの日へ、記されるのでしょうか」


 これは、標準時統制局が編纂した公式劇だった。


 標準時を一つにした制度が、その成立を説明するために選んだ言葉である。


 オットーの手紙やルヴェールの予告状と響き合って見えるのは、いずれも同じ制度が失わせた時刻を指しているからなのか。


 それとも、脚本を書いた者も十一分の真相を知っているのか。


「この台本を書いたのは誰でしょう」


 ミラベルが囁いた。


「あとで確認する」


 レオンが答えた。


「今は?」


「午前零時を見る」


 午後十一時五十九分。


 広間の壁時計が、最後の一分へ入った。


 式典係が手を上げる。


 楽団の音が消え、舞台照明が落ち、時計盤の十二の数字だけが残った。


 セヴランが演台へ戻る。


 グレアムは壁際。


 モルガとヘルガは送信圧力計のそば。


 エドガーとエレノアは客席前方。


 ヴァネッサは舞台中央。


 レオンとミラベルは、上階への扉を見渡せる通路側にいる。


 警官たちは広間の出入口と職員扉を塞ぎ、時計技師たちの通行札も再確認されていた。


 誰も声を発しない。


 衣擦れさえ止まったようだった。


 大時鐘塔の内部では、無数の歯車が午前零時へ向かって噛み合っている。


 自動記録機の活字輪が回る。


 標準時統制室の送信弁が開く。


 鐘楼で打鐘鎚が引き上げられる。


 基準振子は、変わらない速さで揺れている。


 右へ。


 左へ。


 ミラベルには、自分の心臓の音まで塔に数えられているように思えた。


 秒針が進む。


 五十六。


 五十七。


 五十八。


 五十九。


 そして、午前零時。


     *


 一度目の鐘が鳴った。


 ゴォン――。


 巨大な音が鐘楼から落ち、石壁、鉄骨、床、人間の身体を一度に震わせた。


 二度目。


 ゴォン――。


 駅前広場の時計が、午前零時を示す。


 三度目。


 ゴォン――。


 クロック=ベルンの工房で、夜勤交替記録が更新される。


 四度目。


 ゴォン――。


 中央駅の運行記録筒が、新しい日付を打ち出す。


 五度目。


 六度目。


 七度目。


 鐘の音が屋根を越え、鉄道線路を震わせ、運河の水面へ円を描いていく。


 八度目。


 九度目。


 十度目。


 客席の人々は、声に出さず鐘の数を数えていた。


 十一度目。


 ゴォン――。


 ミラベルは、無意識に息を止めた。


 十二度目。


 ゴォォン――。


 それまでより長く、深い音だった。


 余韻が塔の内部を巡る。


 石の柱から鉄骨へ。


 鉄骨から床へ。


 床から、人間の足へ。


 少しずつ、音が消えていく。


 終わった。


 十二度。


 一日は閉じた。


 新しい日が始まった。


 誰もが、そう思った。


 セヴランが演台で息を吸う。


 ヴァネッサが舞台上で顔を上げる。


 楽団員が弓を構える。


 自動記録機の活字輪が、日付更新を終える。


 静寂。


 時計塔の中で初めて、時が止まったように完全な静寂。


 そして。


 十三度目の鐘が鳴った。


 ゴォォォン――。


 十二度目までと、同じ鐘の音だった。


 同じ金属。


 同じ打鐘鎚。


 同じ塔から落ちてきた音。


 それなのに、聞いた瞬間、誰もがそれを異物だと理解した。


 ヴァネッサの目が見開かれる。


 セヴランが鐘楼を振り仰ぐ。


 グレアムの手が腰の警棒へ伸びる。


 モルガは広間の時計ではなく、圧力計を見た。


 ヘルガは統制室へ続く扉へ走る。


 エレノアが立ち上がり、レオンも同時に席を離れた。


 鐘の余韻が消えるより早く、広間の照明がすべて消えた。


     *


 闇。


 蒸気灯も。


 舞台上の十二の数字も。


 出口を示す小灯も。


 一つ残らず消えた。


 悲鳴が上がり、椅子が倒れ、どこかで玻璃の割れる音がした。


「動くな!」


 グレアムの怒声が闇を叩いた。


「その場から動くな! 扉を開けるな!」


「警部、階段側です!」


「封鎖しろ! 誰も通すな!」


 ミラベルは立ち上がりかけ、左腕をつかまれた。


「レオンさん?」


「ここにいろ」


「でも――」


「暗闇で動けば、誰かの通路を作る」


 レオンの声は近かった。握る力は強くないが、離すつもりもない。


「エレノアは?」


「ここよ、兄さま」


 客席前方から、妹の声が返る。


「動くな」


「動いていません」


「嘘ならあとで分かる」


「こんなときまで疑うの?」


「こんなときだからだ」


 暗闇の中を、誰かが走った。


 軽い足音。


 二歩。


 三歩。


 すぐに悲鳴と衣擦れへ紛れる。


「今、誰か走りました」


 ミラベルが言った。


「方向は」


「舞台側……いえ、分かりません。音が反響しています」


「なら、方向は記録するな」


「分かっています」


 塔全体で、細い警報ベルが鳴り始めた。


 チリリリリリリリ――。


 一つではない。


 複数の階から、異なる高さの音が重なっている。


「非常灯へ切り替えろ!」


 モルガの声。


「切替弁が応答しない!」


 ヘルガの怒声が、統制室側から返った。


「壁際の赤弁を開けろ! 手動で蒸気を送れ!」


 金属を叩く音。


 重い把手を回す音。


 数秒後、広間の壁際で赤い光が一つ灯った。


 続いて二つ。


 三つ。


 暗い赤色の非常灯が、広間を照らし出す。


 倒れた椅子。


 床へ落ちた扇。


 割れた酒杯。


 鐘の模型を背に立つヴァネッサ。


 演台を片手でつかむセヴラン。


 壁際で警棒を抜いたグレアム。


 エドガーの腕をつかんでいるエレノア。


 送信圧力計の前にいるモルガ。


 統制室から戻ってくるヘルガ。


 レオンは、ミラベルの隣にいた。


 広間上部の針時計は、午前零時を示している。


 だが、レオンが見ていたのは、広間脇の自動記録装置だった。


 数字窓に、あり得ない表示が浮かんでいる。


> 13 : 00


 ミラベルは目を疑った。


 もう一度見る。


 数字は変わらない。


「十三時……?」


「通常の午後一時ではない」


 エドガーが言った。


 記録装置が一斉に動き始める。


 活字輪が落ち、紙帯が送られた。


 広間。


 標準時統制室。


 自動記録室。


 塔内の各所から、同じ文字が次々と打ち出される。


> 《第十三時》 零分


 壁面の都市別記録時計も、同じ表示へ切り替わっている。


 ヴェルム=クロウ。


 グラン=レール。


 エスラ=ヴァルト。


 リブロ=ヴェン。


 バル=ガルド。


 その上にある十二時間式の針時計は、午前零時を示したままだった。


 二つの時刻が、同じ壁に並んでいる。


「針時計は午前零時」


 ミラベルが言った。


「記録時計は《第十三時》」


「見たままならな」


「故障ですか」


「全機が同じ表示を受けたなら、個別の故障ではない」


 モルガが記録装置へ駆け寄り、側面の圧力計を確認した。


「印字機そのものは正常です」


「正常に、存在しない時刻を印字しとるのか」


 グレアムが言った。


「機械は、受け取った信号を表示しているだけです」


 ヘルガが統制室から飛び出してきた。


「全送信系統が、補正経路へ切り替わっている!」


「現行の補正回路?」


 モルガが振り返る。


「違う。壁の中へ残されていた旧系統だ。主制御が切断命令を受けつけない」


「手動弁は」


「現行図面にない!」


 レオンの視線が上階へ向いた。


 旧地方時計盤。


 十二区画の外側へ残されていた接続跡。


 削り取られた金属札。


「旧補正盤」


 ミラベルが言った。


「可能性はある」


「作動するか分からなかった機構」


「今も、あの盤そのものが原因とは限らない」


「でも、現行図面にない補正経路が動いている」


「ああ」


 確認できるのは、そこまでだった。


 グレアムが広間全体を見渡した。


「全員、その場にいろ! 会場を封鎖する! 警官は出入口を確保! 技師は身分札を外すな!」


 来賓から抗議の声が上がった。


「何が起きている!」


「《第十三時》とは何だ!」


「列車はどうなる!」


「銀行の記録は!」


「静かにしろ!」


 グレアムの怒声が、ざわめきを押し戻した。


 セヴランが演台から降りる。


 顔は青ざめていたが、声だけは落ち着きを保とうとしていた。


「皆様。現在、時刻信号に一時的な異常が生じています。統制局が確認しておりますので、どうか――」


 その言葉を、低い警告音が切り裂いた。


 ギィィィィィ――ン。


 先ほどまでの細い警報ベルではない。


 鉄板そのものを震わせるような音だった。


 壁面の区画札。


 第六層の表示が、赤く点滅している。


> 基準振子室

> 内部異常


「封鎖中では?」


 ミラベルが言った。


「封鎖中だ」


 レオンが答える。


「午後十一時五十分から、正面扉は開いていない」


「入室記録は!」


 グレアムが叫んだ。


 ヘルガが壁際の記録紙を引き出し、印字を目で追う。


「閉鎖後の人員入室――なし」


「警報の原因は」


「振子周期の乱れと床面接触。室内で、何かが振子の動作範囲へ入った」


「無人の部屋で?」


 ミラベルの声が小さくなる。


 ヘルガは答えず、廊下側へ吐き出されている別の紙帯を見た。


 基準振子室の異常検知に連動した、自動事故記録だった。


 警報の発生と同時に処理が始まり、活字輪がすでに動いている。


 紙帯の先端には、


> 区画内対象 検知

> 生体確認 処理中


 と印字されていた。


 レオンは階段へ向かった。


「グレアム」


「分かっとる!」


 グレアムが部下へ指示を飛ばす。


「広間の封鎖を維持! 誰も外へ出すな! 鐘楼に残った技師とも連絡を切るな!」


「私も行きます」


 セヴランが言った。


「統制局長として、基準振子の状態を確認する義務がある」


「現場を荒らすな」


「まだ事件現場と決まったわけではないでしょう」


「封鎖区画で人体大の接触が検知された。十分に異常現場だ」


 モルガがヘルガへ向かう。


「強制開放できる?」


「時限錠の制御圧を抜き、閂を手で戻す」


「道具は」


「第六層にある」


 二人が階段へ走る。


 グレアム、レオン、セヴラン、エドガーが続いた。


 ミラベルも足を踏み出す。


「待て」


 レオンが振り返った。


「またですか」


「ここにいろ」


「オットーさんのことかもしれません」


 その名を口にした瞬間、レオンの表情がごくわずかに変わった。


 ミラベルには分かった。


 彼も、同じ可能性を考えている。


「だからだ」


「彼は、式典が終わったら話すと言いました」


「式典はまだ終わっていない」


 レオンは《第十三時》を示す記録時計と、鳴り続ける警報を見た。


「何も終わっていない」


「私は触りません。記録します」


「危険だと分かったら戻れ」


「分かる前には戻れません」


 二人の視線がぶつかった。


 階段から、グレアムが怒鳴った。


「口論は走りながらやれ!」


 レオンは舌打ちした。


「俺から離れるな」


「はい」


 返事と同時に、ミラベルは階段へ駆け出した。


     *


 塔の階段は、上へ行くほど狭くなった。


 標準時統制室。


 自動記録室。


 旧時刻資料庫。


 重量錘区画。


 一行は、赤い非常灯の下を息を切らして駆け上がる。


 どの階の記録時計も、同じ表示を示していた。


> 《第十三時》 零分


 その内部で、秒だけが進んでいる。


 《第十三時》は、一度表示されて終わった誤記ではなかった。


 時刻として、継続している。


 旧時刻資料庫を通過するとき、レオンは校正筒へ一瞬だけ視線を向けた。


 扉は閉じている。


 赤い非常灯の下では、それ以上は分からない。


 立ち止まる時間もなかった。


 重量錘区画では、巨大な錘が普段より速く上下していた。


 鎖が唸り、保守橋が震える。下方の暗闇から湿った風が吹き上がり、全員の外套をはためかせた。


「手摺を持て!」


 グレアムが叫ぶ。


 一行は橋を渡った。


 ミラベルは足元の闇を見ず、前を走るレオンの外套だけを追った。


 第六層の廊下では、基準振子室の前で赤い警報灯が回転している。


 午後十一時五十分に閉じられた鉄扉。


 円形把手は動かない。


 扉の時刻小窓には、


> 《第十三時》


 という表示が出ている。


 そのすぐ脇にある廊下の通常時計は、午前零時を少し過ぎていた。


 また、二つの時刻が同じ場所にあった。


 ヘルガが扉脇の圧力管へ工具を差し込み、弁を回した。


 白い蒸気が激しく噴き出す。


「下がれ!」


 全員が壁際へ寄った。


 圧力が抜けるにつれ、扉内部で閂が軋み始める。


 一本。


 二本。


 三本。


 だが、最後の二本が動かない。


「内部の振動で、右側が噛んでる!」


 ヘルガが工具を引き抜いた。


「壊せるか」


 グレアムが問う。


「扉へ衝撃を加えれば、基準振子へ伝わる!」


「もう振子異常が出とる!」


「全西方の時刻基準だぞ!」


「中に人がいる可能性がある!」


「記録では無人だ!」


「記録と現実の、どちらを助ける!」


 ヘルガは歯を食いしばった。


 モルガは扉の構造を一目見ると、床へ膝をついた。


「下部圧力管を切る。左の閂を先に引けば、扉へ掛かる力が逃げる」


「基準信号が止まる」


「人が死ぬよりは安い」


 モルガはヘルガの工具帯から切断具を取った。


 ヘルガが一瞬、彼女を見る。


 それから覚悟を決めたように、扉の右側へ回った。


「警部、把手を押さえろ! クラウスは反対側!」


 グレアムが円形把手へ両手を掛け、レオンも反対側へ入る。


「お前は下がっとれ!」


「一人より二人の方が早い」


「腕を折るなよ」


「そちらこそ」


 モルガが配管へ刃を入れた。


 金属が裂け、蒸気が天井へ噴き上がる。


「今だ!」


 グレアムとレオンが把手を回す。


 重い鉄が、わずかに動いた。


 ヘルガが閂の隙間へ工具を差し込み、全体重を掛ける。


 一本目。


 ガン。


 二本目。


 ガァン。


 扉が数センチ開いた。


 その隙間から、基準振子の音が聞こえた。


 カァン。


 カァン。


 だが、一定ではない。


 一度は短く、次は長い。


 何かが振子の動きを邪魔している。


「もう一度!」


 全員が力を掛けた。


 歪んだ閂が外れ、重い鉄扉が内側へ開いた。


 赤い非常灯の光が、基準振子室へ差し込む。


     *


 最初に見えたのは、振子だった。


 右へ。


 左へ。


 通常より狭い振れ幅で、それでも止まらず揺れている。


 次に、床の真鍮粉。


 風圧に巻き上げられ、赤い光の中で薄く舞っている。


 板道。


 自動記録機。


 壁面の圧力管。


 校正筒の出口扉。


 そして。


 振子の下。


 一人のドワーフが倒れていた。


 濃紺の上衣。


 白い髪。


 太い指。


 胸元から伸びた懐中時計の鎖。


「オットーさん……」


 ミラベルの声が漏れた。


 レオンが片腕を伸ばし、彼女を入口で止める。


「入るな」


「でも」


「床を見ろ」


 真鍮粉が、薄く均一に積もっている。


 人が踏めば、必ず足跡が残る床だった。


 グレアムは板道だけを使って、倒れたオットーへ近づいた。


 振子が右へ動く。


 戻る。


 警部はその周期を二度見届け、振子と身体の間へ挟まれない位置から膝をついた。


 首元へ指を当てる。


 呼吸を確かめる。


 手首へ触れる。


 瞼を持ち上げる。


 その数秒の間、室内にいる誰も声を出さなかった。


 振子だけが、一定ではない音を刻んでいる。


 グレアムの顔から、警部としての険しさがわずかに落ちた。


 代わりに、死者を見る者の静けさが現れた。


「死んどる」


 ヘルガが扉脇で動きを止めた。


 モルガは、切断具を握ったまま何も言わない。


 セヴランが壁へ片手をつく。


 エドガーは表情を変えず、室内の自動事故記録機を見ていた。


 ミラベルは手帳を開いていた。


 だが、鉛筆が紙へ降りない。


 何を書くべきなのかは分かっている。


 オットー=ヴァール。


 基準振子室。


 遺体発見。


 それでも、老人が数十分前に口にした言葉が、その三つの事実の間へ割り込んでくる。


 午前零時を過ぎれば、今日まで黙っていたことを記録へ戻す。


 彼は、そう言った。


 午前零時は過ぎた。


 しかし、オットーは何も話さない。


「誰も触るな」


 グレアムが立ち上がった。


「ここからは事件現場だ」


「警部」


 セヴランの声が掠れている。


「これは……機械事故では」


「何を確認して、事故と言った」


「振子室で倒れている。警報も、振子の異常を――」


「死因も見ずに決めるな」


 怒鳴ってはいない。


 低い声だった。


 それだけに、セヴランは言葉を止めた。


 レオンは入口から室内を見渡している。


 振子。


 遺体。


 正面扉。


 真鍮粉。


 校正筒。


 自動記録機。


 何にも触れず、何も結論づけない。


「正面扉の開閉記録は」


 ヘルガが廊下側の紙帯を確認した。


「午後十一時五十分、自動封鎖。以降、今の強制開放まで開閉なし」


「人員入室」


「なし」


「警報の検知内容は」


「振子周期の乱れと床面接触。人体に近い大きさの対象が、動作範囲へ入った」


「警報発生時刻は」


「《第十三時》開始時。通常時刻との対応は、統制室の基準紙と照合するまで確定できない」


「校正筒の作動記録は?」


 ヘルガの視線がレオンへ動いた。


「この場の紙帯では分からない。器材搬送欄を確認する必要がある」


「あとで確認する」


 グレアムが言った。


「今は現場を保て」


 ミラベルは、ようやく鉛筆を紙へ触れさせた。


> オットー=ヴァール。

> 封鎖中の基準振子室にて発見。


 その先が書けない。


「レオンさん」


「何だ」


「オットーさんは、ここで死んだんでしょうか」


 レオンは、すぐには答えなかった。


 目の前に遺体がある。


 だからといって、死んだ場所まで目の前だとは限らない。


 発見された場所と、殺された場所は同じとは限らない。


 これまでの事件で、ミラベルは何度も学んだはずだった。


「今、断定できるのは」


 レオンが静かに言った。


「オットー=ヴァールの遺体が、封鎖中だった基準振子室で発見された。それだけだ」


「殺害場所も」


「まだ分からない」


「死亡した時刻も?」


「分からない」


 室内奥で、自動事故記録機の活字輪が回り続けていた。


 機械は、彼らの問いへ答えようとしているのではない。


 振子周期と床面接触の異常を検知した時点で開始された処理が、まだ終わっていないだけだった。


 歯車が一段進む。


 紙帯が送られる。


 生体反応の照合が終了する。


 そして。


 活字輪が、最後の一行を打った。


 ガチャン。


 紙帯の送りが止まる。


 エドガーが手袋をしたまま、その端を持ち上げた。


 文字は鮮明だった。


 滲みもない。


 欠けもない。


 機械が正しく打った文字である。


> 被検知者 オットー=ヴァール

>

> 生体反応 なし

>

> 死亡記録時刻 《第十三時》零分


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 通常の時計盤は、午前零時を過ぎている。


 記録時計は、存在しない《第十三時》を刻み続けている。


 閉ざされていた部屋の中で。


 時計塔の主任時計官は。


 存在しない時刻に死んだと。


 機械によって記録されていた。

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