第3節 ― 白鴉は失われた時を盗む
式典大広間へ戻ったとき、空席はすでに半分ほど埋まっていた。
各都市の記録官。
鉄道会社の幹部。
銀行家。
時計工房の親方。
契約法院の書記官。
制服の胸へ勲章を並べた警察関係者。
色鮮やかな夜会服に身を包んだ商会主と、その家族。
彼らが椅子の間を行き交うたび、床へ埋め込まれた十二方位の真鍮線が、靴の下で断続的に光った。
天井近くでは、塔の機械が動き続けている。
歯車の低い唸り。
蒸気管を抜ける空気。
重量錘を引き上げる鎖の響き。
そのすべてを覆うように、楽団が弦を合わせていた。
ミラベルは広間の入口で足を止め、腕時計を見た。
午後十一時を少し回ったところだった。
式典開始まで、まだ時間はある。
それなのに、会場には開演直前の劇場とは異なる緊張が漂っていた。
人々が時計を見る回数が、駅前よりも多い。
ある者は壁時計を確認し、ある者は懐中時計を開く。その針が塔の時計と一致していることを確かめてから、隣の者との会話へ戻っていた。
「皆さん、時間が逃げないか見張っているみたいです」
ミラベルが言った。
「今夜、この塔から大陸中へ午前零時が送られる」
隣を歩くレオンは、客席ではなく広間の出入口を見ていた。
「遅れれば責任問題になる。早まれば、さらに大きな問題になる」
「たった数秒でも?」
「鉄道にとって数秒は、同じ軌道へ二本の列車が入る余地だ」
「契約にとっては?」
「署名する者が財産を持っている時刻と、失っている時刻を分ける余地になる」
「死亡記録なら?」
レオンの視線が、一瞬だけミラベルへ移った。
「生者を死者へ置き換える余地だ」
それから彼は、広間正面の舞台を見た。
巨大な時計盤を模した背景幕。
円形の式壇。
演台。
古い鐘を模した舞台装置。
舞台脇には、式次第とともに、今夜上演される朗読劇の案内札が置かれていた。
> 標準時制定記念朗読劇
> 標準時統制局編纂
標準時を制定した組織が、自らの歴史を編纂した公式劇だった。
その背後では、灰色の作業服を着た時計技師たちが、照明用の蒸気弁と幕の巻上機を確認している。
「物騒な答えばかりですね」
「質問が物騒だ」
「私は普通に聞きました」
「君が普通に聞くときは、たいてい記事のためだ」
「今夜は式典の記事を書く予定でしたから」
「予定、か」
レオンが言った。
ミラベルは横顔を見た。
「事件が起きると思っています?」
「起きてほしいのか」
「そんな言い方をしないでください」
「なら、式典の記事を書け」
「オットーさんの手紙を見たあとで、時計塔の完成を祝うだけの記事が書けると思いますか」
「思わない」
「では、同じですね」
「違う。俺は記事を書かない」
「そういうところです」
言い返したところで、広間右側の扉が勢いよく開いた。
市警の制服を着た若い警官が、客席の間を避ける余裕もなく駆けてくる。
その顔を見た瞬間、グレアム警部の表情が変わった。
先ほどまで式典警備の責任者たちと話していた警部は、相手へ一言断り、広間の端へ移動した。
若い警官が耳元へ報告する。
声は聞こえなかった。
だが、その手にある白いものが見えた。
羽根だった。
ただし、本物ではない。
紙を細く折り重ねて形作った、白い鴉の羽根。
「何か届いたようですね」
ミラベルが囁く。
「見れば分かる」
「白い鴉の羽根です」
「それも見れば分かる」
「ということは」
「まだ断定するな」
そう言いながら、レオンはすでにグレアムの方へ歩いていた。
ミラベルも続く。
エドガーとモルガは、警部の表情から異常を察したらしい。ほぼ同時に会話を切り上げ、こちらへ近づいてきた。
リュシアンは少し離れた場所から、紙の羽根を見ている。
エレノアはヴァネッサの衣装箱の前にいたが、ミラベルたちの動きを見つけると、何の許可も取らずに合流した。
「公開前の警察資料だ」
グレアムがエレノアへ言う。
「子どもは下がっとれ」
「わたしは招待客です」
「なお悪い」
「では、ミラベルさんの後ろにいます」
「位置の問題じゃない」
「警部」
エドガーが低い声で呼んだ。
「口論はあとにしよう」
グレアムは舌打ちし、紙の羽根をレオンへ差し出した。
「今朝、標準時統制局へ届いたそうだ」
「今朝?」
ミラベルが聞き返した。
「届いた時点で、クロック=ベルン市警へは通報されている。だが、統制局長が混乱を避けたいと申し入れた」
「それで、予告状の内容を伏せたまま式典を続けた」
エドガーが言った。
「塔内警備を引き継いだ俺にも、ついさっきまで全文を知らせなかった」
グレアムは舞台脇の演台へ視線を向けた。
長身のヒト族の男が、式典係から進行表を受け取っている。
五十代の終わりほど。
銀の混じった髪を後ろへ撫でつけ、黒い正装の胸には標準時統制局の記章を付けている。
忙しく動く職員たちの中にあっても、彼だけは時間に追われていないように見えた。
「セヴラン=コルベット統制局長だ」
グレアムが言った。
「式典を止めるほど具体的な脅迫ではないと判断したらしい」
「予告状を公表しなかったのも?」
ミラベルが尋ねた。
「統制局の要請だ」
「怪盗の予告を隠したまま式典を開けば、あとで統制局の判断そのものが記事になります」
「それは本人へ言え」
グレアムは紙羽根を机へ置いた。
折り重ねられた羽軸を開くと、内側から一枚の薄い紙が現れた。
題名も。
挨拶も。
余計な装飾もない。
契約書の条文のように、盗むものと時刻と場所が記されていた。
> クロック=ベルン標準時統制局御中
>
> 十三度目の鐘が鳴るとき、
> 私は貴都市が所有する、失われた十一分を頂戴する。
>
> 盗まれるのは時ではない。
> 時を失った者たちの、所有権である。
>
> 今宵、午前零時。
> 時計塔の最も古い記録庫にて。
>
> L’Ouvere
最後の署名へ至ったところで、エレノアが小さく息を吸った。
「ルヴェール」
「署名はそう読める」
レオンが言った。
「本人ではない可能性も?」
ミラベルが尋ねる。
「形式は一致している。文体も、これまでの予告状に近い。本人である可能性は高い」
「確定ではない」
「ああ」
ミラベルは手帳を開きかけ、グレアムに睨まれて動きを止めた。
「まだ公開資料ではない」
「覚えるだけです」
「それをあとで書くんだろうが」
「記者なので」
「便利な職業だな」
「警察よりは自由です」
「ワトリア嬢」
エドガーが静かに言った。
「今は、紙へ書くより先に内容を読む方がよい」
ミラベルは手帳を閉じ、予告状へ視線を戻した。
「“失われた十一分”」
「オットーさんの手紙では、“存在しなかった十一分”でした」
エレノアが先に言った。
ミラベルは彼女を見る。
「覚えていたんですね」
「一行しかなかったもの」
「のぞき見した手紙を記憶するな」
レオンが言う。
「記憶したものは返せないわ」
「自慢するな」
グレアムが予告状を見下ろした。
「同じ十一分を指しとると思うか」
「可能性は高い」
レオンは、二つの文章を頭の中で並べているらしい。
「片方は“存在しなかった十一分”。もう片方は“失われた十一分”。表現は違うが、どちらも時計塔と十一分を結びつけている」
「オットーさんとルヴェールがつながっている?」
エレノアが尋ねた。
「そこまでは分からない」
レオンの声が少し厳しくなった。
「仮説を並べれば、いくらでも作れる。オットーが知っている十一分を、ルヴェールも知っている。今、確認できるのはそれだけだ」
エレノアは不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。
リュシアンが紙面へ身を屈めた。
紙には触れず、文字の配置と句読点を目で追っている。
「“時を失った者たち”」
穏やかな声だった。
それでも、その言葉だけが周囲のざわめきから切り離されて聞こえた。
「人を指しているようですね」
「怪盗は、時計そのものを盗むとは書いていない」
ミラベルが言った。
「“所有権を盗む”とも、単純には書いていない」
レオンが訂正した。
彼は予告状の二行を順に指した。
> 私は貴都市が所有する、失われた十一分を頂戴する。
> 時を失った者たちの、所有権である。
「最初の文では、都市が“失われた十一分”を所有していることになっている。次の文では、“時を失った者たちの所有権”と書かれている」
「時を失った人たちが持っていた、何かの所有権?」
ミラベルが言った。
「そう読める」
「都市が十一分を持っていて、その十一分の中に、人々の所有権がある?」
「文章上は、その二つを重ねている」
リュシアンが、わずかに目を細めた。
「時間そのものではなく、その十一分の間に処理された権利を指しているのかもしれません」
「時間は所有できません」
モルガが言った。
彼女は予告状を見下ろしている。
「資産台帳へ登録できず、売買も譲渡もできない。時計塔が管理しているのは、時間そのものではなく、時刻の基準です」
「なら、都市が所有しているのは十一分そのものではない」
ミラベルが言う。
「十一分の間に作られた記録か、十一分を消した結果として都市へ移った権利」
エドガーが静かに続けた。
「予告状が指しているのは、そちらだろう」
グレアムが低く唸った。
「怪盗らしい回りくどさだな」
「ルヴェールは比喩を使う」
レオンが言った。
「だが、予告状へ嘘は書かない」
「七葉銀冠のときも、書いた内容そのものは全部、本当だった」
グレアムが言う。
「読んだ側が、勝手に盗まれる物を決めたんです」
ミラベルが続けた。
「だから今回は、先に対象を一つへ決めつけない」
レオンは、予告状の三段目を指した。
「守るべきなのは、“十一分”という名の記録だけじゃない。時を失った者たちの所有権へつながる資料すべてだ」
「範囲が広すぎるぞ」
「それを狭める情報を持っている者がいる」
レオンの視線が、セヴランへ向けられた。
統制局長は、いつの間にか会話のすぐ外側へ立っていた。
近づいた足音を聞いた者はいない。
「私でしょうか」
セヴラン=コルベットは、落ち着いた微笑を浮かべていた。
グレアムは笑わなかった。
「今朝の時点で予告状を受け取りながら、標準時統制局は、今夜の警備責任者へ内容を伏せていた」
「市警には通報しました」
「全文を伏せろと申し入れたのは、あんただ」
「式典前の混乱を避けるためです」
「怪盗が、式典の進行表を尊重すると思うか」
グレアムの声に、周囲の職員が振り返った。
セヴランは彼らへ柔らかな視線を送り、何事もないというように片手を下げた。
職員たちは仕事へ戻る。
声を荒らげず、周囲を従わせることに慣れている男だった。
「警部のお怒りは理解します」
「理解する前に説明しろ」
「予告状の内容が、あまりに荒唐無稽だったのです。存在しない十三度目の鐘。所有できない時間。そして、失われた十一分」
「その十一分に心当たりがある」
レオンが言った。
セヴランの微笑は消えなかった。
ただ、右手の親指が、左袖口を一度だけ撫でた。
黒い布の縫い目へ、細い白糸が一本絡んでいる。
縫製の糸とは色も太さも違う。
古紙に棲む紙虫が作る繭の糸に、よく似ていた。
レオンの目が、そこへ一度だけ止まった。
指摘はしなかった。
「標準時制定期の調整記録に、そのような表現があります」
セヴランが答えた。
「どの記録だ」
「《十一分訂正原簿》です」
グレアムの目が細くなる。
「何が書かれている」
「四十三年前、地方時からクロック=ベルン標準時へ移行した際の時刻差、調整手順、関係部署の確認記録です」
「所有権は?」
「標準時制定に伴う行政処理も含まれている」
「どんな行政処理だ」
「機密資料です」
「怪盗へ狙われてから、機密を口実にするのか」
低い声が割り込んだ。
オットー=ヴァールが、式壇脇に立っていた。
作業着の袖へ残る真鍮粉。
胸元の懐中時計。
老人は、セヴランをまっすぐ見ている。
「原簿が狙われる可能性を知りながら、わしにも予告状を伏せていたな」
「主任には、式典設備の最終調整があります」
「質問へ答えろ」
「塔内の混乱を避けるためです」
「記録を隠して、守ったつもりか」
「今夜の午前零時を無事に迎えることが、主任時計官の職務でしょう」
短い沈黙。
オットーの顎が、わずかに固くなった。
「午前零時を過ぎたあとも、残る記録はある」
「だからこそ、式典後に正式な手順で扱います」
二人の視線がぶつかった。
それだけだった。
セヴランは表情を崩さず、オットーも、それ以上は言わなかった。
だが、同じ塔を守る二人が、同じ原簿を同じ意味では見ていないことだけは分かった。
「クラウス顧問」
セヴランはエドガーへ向き直った。
「原簿に記録された個別案件の公開には、中央記録庁を含む複数機関の許可が必要です」
「公開しろとは言っていない」
エドガーが答えた。
「守るために、何が収められているのか示せと言っている」
「原本は旧時刻資料庫の地下保管区画。三重鍵の封印金庫内です。式典中に開かれる予定はありません」
「鍵の保持者は」
グレアムが尋ねた。
「統制局長、主任時計官、機関主任。その三名です」
「複製は」
「閲覧用抄録が中央記録庁に一部。原本はここだけです」
ミラベルは、セヴランの説明を頭の中で分けた。
確認できたこと。
《十一分訂正原簿》という記録は存在する。
四十三年前の標準時制定に関わる資料である。
所有権を含む行政処理が記録されている。
原本は大時鐘塔の旧資料庫地下に保管されている。
そして、統制局は、怪盗の予告状が届いた事実と内容を式典直前まで伏せていた。
まだ分からないこと。
予告状の“失われた十一分”が、本当にその原簿を指すのか。
“時を失った者たちの所有権”が、原簿中の何を意味するのか。
ルヴェールが、どこまで知っているのか。
「警察としては、原簿を第一の警備対象にする」
グレアムが言った。
「だが、ほかの制定記録も守る。旧資料庫と地下保管区画へ増員。上層へ向かう通路も押さえるぞ」
「式典の展示資料が運び込まれています」
セヴランが言う。
「作業員をすべて排除すれば、進行へ支障が出ます」
「怪盗を客席へ招くよりはましだ」
「この塔には、各都市から重要な来賓が集まっています。過剰な警備は不安を招きます」
「予告状を隠しておいて、今さら不安を気にするな」
グレアムは若い警官へ向き直った。
「配置を変える。旧時刻資料庫の正面に四名。地下保管区画の封印金庫前に二名。階段と重量錘区画の保守橋へ、それぞれ二名ずつ」
「警部」
「まだある。時計技師、舞台係、楽団員、給仕。全員の通行札を再確認しろ。単独行動は禁止。二人一組で動かせ」
「式典開始まで、二十分もありません」
「十九分あれば十分だ」
グレアムは広間上部の時計を見た。
「鐘楼へ上がる通路も封鎖する」
セヴランが初めて、明確に眉を寄せた。
「鐘楼では、午前零時打鐘の最終確認が必要です」
「なら、上がる技師を名簿へ書け。上がった時刻と、戻った時刻も記録させろ」
「塔の機械記録へ残ります」
「人の目でも残す」
グレアムは言った。
「俺は時計を信用しとらんわけじゃない。時計を使う奴を信用しとらん」
オットーの言葉と、よく似ていた。
ただし、グレアムの場合、それは時計に対する思想ではなく、現場で積み重ねた習慣だった。
「統制室にも追加で二名置け」
エドガーが言った。
「十三度目の鐘が設備への干渉を意味するなら、記録室と時刻送信機構も標的になり得る」
「分かった。記録室にも二名」
「警官を配置するなら、技師の動線を塞がない位置にしてください」
モルガが口を挟んだ。
「警備のせいで時計を止められては困ります」
「注文が多いな」
「機械は、警察の都合で動いているのではありません」
「怪盗も、機械の都合で動いとらんだろうが」
指示を受けた警官たちが散っていく。
広間の空気が変わった。
来賓たちは警官の動きに気づきながら、何も知らないふりをしている。
会話の音量だけが少し下がった。
扇の陰。
手袋を直す指。
懐中時計の蓋。
そうした小さな動作の中で、互いの表情を窺っていた。
警備が強化されたことは、誰の目にも明らかだった。
ただ、その理由だけが知らされていない。
「予告状を公表するんですか」
ミラベルがセヴランへ尋ねた。
「式典を続ける以上、最低限の説明は必要でしょう」
「記事には?」
「怪盗の宣伝へ協力しない節度を求めます」
「予告状が今朝届き、統制局が内容を伏せた事実も書きます」
セヴランの視線が、わずかに冷たくなった。
「新聞は事実を知らせるだけでなく、不安を増幅させることもできる」
「不安の原因を作ったのは、新聞ではありません」
「原因と影響は別の問題です」
「都合の悪い原因を伏せて、影響だけ管理するんですか」
「ワトリア嬢」
レオンが二人の間へ入った。
「予告状は式典後ではなく、今朝届いていた。その事実は残る」
「クラウス氏。私はあなたを招待した覚えがありません」
「オットー=ヴァールが招いた」
「主任時計官には、式典来賓を独断で追加する権限はない」
「それを問題にするなら、式典が終わってからにしろ」
レオンは予告状を持ち上げた。
「今は、怪盗が十三度目の鐘を予告している」
「芝居がかった表現です」
「この塔の鐘は、午前零時に何度鳴る」
「十二度です」
「十三度目を鳴らす予定は?」
「ありません」
「故障時には?」
「打鐘装置は自動停止します。余分な一打が加わる構造ではありません」
レオンは予告状の一文を指した。
> 十三度目の鐘が鳴るとき。
紙の上の文字にすぎない。
それでも、周囲の者たちの視線が広間の天井へ向いた。
そのさらに上にある鐘楼へ。
「怪盗は、十三度目の鐘が鳴ることを知っている」
レオンが言った。
ミラベルは、その意味へ一拍遅れて気づいた。
「ルヴェールが、鐘を鳴らすのではなく?」
「予告状には、“私が鐘を鳴らす”とは書かれていない。“十三度目の鐘が鳴るとき”としかない」
「盗みの仕掛けが鐘を鳴らす可能性は?」
「ある」
「誰か別の人間が鐘を鳴らす可能性も」
「ある」
「鐘が鳴るという情報だけを、先に得ていた可能性も」
「ある」
グレアムが予告状を睨んだ。
「つまり、盗みと鐘が同じ計画でも、同じ実行者でもないかもしれんのか」
「現時点では、時刻によって結びついているとしか言えない」
「十分面倒だ」
「さらに面倒な可能性がある」
「言ってみろ」
「ルヴェール自身も、誰かから十三度目の鐘について知らされた」
グレアムの目が鋭くなる。
「怪盗を動かしている奴がいると?」
「仮説だ。証拠はない」
「だが、捨てる理由もない」
エドガーが言った。
彼は予告状よりも、この塔へ集められた者たちを見ていた。
官僚。
技師。
商会主。
古文書鑑定人。
女優。
記者。
警察。
探偵。
まるで誰かが、異なる役割を持つ者を、一つの塔へ意図的に配置したような光景だった。
*
グレアムとエドガーが警備配置を再確認する声を背に、エレノアは客席の間を行き交う時計塔職員たちを見ていた。
灰色の作業服。
革の工具帯。
胸元の通行札。
警備配置が変更されたため、同じ服を着た者たちが、何度も異なる方向へ往来している。
その中の一人。
背の高いヒト族の時計技師が、舞台袖から姿を現した。
濃い灰色の作業帽。
鼻まで覆う保護眼鏡。
革の工具鞄。
歩くたびに揺れる、長い上衣。
エレノアの目が、その足元を追った。
一歩。
二歩。
三歩。
技師は人混みを避け、滑るように方向を変えた。
肩は大きい。
脚も長く見える。
だが、人とすれ違うたびに刻む歩幅が、衣服の作る体格より短い。
重いはずの工具鞄を右手へ持っているのに、身体は右へ傾かない。
靴底は厚い。
それでも足音は、周囲の技師より軽かった。
「ミラベルさん」
エレノアが袖を引いた。
「何です?」
「あの人を見て」
「どの人?」
「舞台の左。銀色の工具留めを付けた時計技師」
ミラベルは視線だけを動かした。
男は立ち止まり、通行札を警官へ示している。
「時計塔の技師では?」
「服はね」
「顔が怪しい?」
「見えないわ」
「では、何が?」
「歩き方」
エレノアは、自分の足を少し動かした。
「服は長身の男の歩幅を作っている。でも本人は、その長さで歩くことに慣れていない」
「靴が合っていないとか」
「それなら、もっと踵を引きずる。あの人は歩幅だけ小さくして、背の高さを崩さないようにしている」
「どうして、そんなことが分かるんです?」
「わたしも背を高く見せる変装をしたことがあるから」
ミラベルは彼女を見た。
「いつです?」
「今は関係ないでしょう」
「レオンさんは知っています?」
「絶対に言わないで」
「何を話している」
そのレオンが、いつの間にか隣へ立っていた。
エレノアは一瞬だけ口を閉ざしたが、すぐ時計技師へ顎を向けた。
「あの人。歩き方がおかしい」
レオンは技師を見る。
男は警官の確認を終え、舞台裏へ向かうところだった。
「具体的には」
「上着と肩は背の高い男。でも歩幅が小さい。工具鞄に重さがあるように見えない。靴底も厚すぎる」
「顔は見たか」
「保護眼鏡と帽子で見えない」
「通行札は」
「警官に見せていた。名前までは見えなかった」
「どこから出てきた」
「舞台袖」
「どこへ行った」
「職員通路」
レオンがグレアムを呼ぼうとした。
そのとき、時計技師が一度だけ振り返った。
保護眼鏡の奥は見えない。
それでも、こちらを見たことだけは分かった。
ほんの一瞬、口元へ笑みのような線が浮かぶ。
そして、職員通路の陰へ消えた。
「追うわ」
エレノアが一歩踏み出す。
レオンが上衣の襟をつかんだ。
「離して」
「君はここにいろ」
「見失うでしょう」
「警察に確認させる」
「警察が行く頃には、別の服に着替えているかもしれない」
「まだ変装だと決まっていない」
「兄さまも不自然だと思ったでしょう」
「不自然は証拠じゃない」
「調べなければ、証拠にもならない」
「だから警察が調べる」
「わたしなら怪しまれない」
「君は、自分が怪しまれないことを過信している」
エレノアは襟を引いたが、レオンは放さなかった。
「兄さまのやり方は古いわ。推理も態度も」
「君の潜入は無謀だ。方法も態度も」
「つまり似ているってことね」
「不愉快な結論だ」
ミラベルは笑いかけたが、時計技師が消えた通路を見てやめた。
「レオンさん。警部へ伝えた方が」
「ああ」
レオンはエレノアの襟を放した。
「ただし、確認したことだけだ。怪盗がいたとは言うな」
「体格と歩幅が噛み合わない時計技師がいた」
「通行札は警官の確認を受けていた」
「舞台袖から現れて、職員通路へ消えた」
「それだけだ」
エレノアは頷いた。
不満は残っている。
だが、観察したものと推測したものを分ける必要は理解していた。
レオンがグレアムへ向かう。
その背中を見送りながら、舞台衣装へ着替えたヴァネッサが近づいてきた。
濃紺の長衣。
銀糸で星と歯車を刺繍した裾。
額には、細い王冠を模した飾り。
「面白いものを見つけた顔ね」
ヴァネッサがエレノアへ言った。
「時計技師を見ていました」
「技師を見る顔ではなかったわ」
「歩き方がおかしかったんです」
エレノアが説明する。
ヴァネッサは口を挟まなかった。
聞き終えると、職員通路へ一度だけ視線を向ける。
「歩き方は、顔より変えるのが難しい」
「では、変装だと思います?」
「あなたは、そう思っているの?」
「可能性があります」
「よい答えね」
ヴァネッサは微笑んだ。
「断定しなかった」
「レオン兄さまに怒られたばかりなので」
「怒られて覚えるうちは、まだかわいらしいわ」
「ヴァネッサさんは、歩き方だけで人を見抜けますか」
「舞台ではね」
「舞台の外では?」
「外の方が、皆よく演じているもの」
開演を告げる小鐘が鳴った。
ヴァネッサは舞台袖へ向かう。
数歩進んでから、振り返った。
「エレノア」
「はい?」
「その技師をもう一度見つけても、背後から声をかけては駄目よ」
「どうして?」
「振り返る準備をしている人は、たいてい別の顔を用意しているから」
それだけ言い、ヴァネッサは幕の向こうへ消えた。
*
午後十一時二十分。
式典大広間の扉が閉じられた。
警官たちは壁際へ配置され、招待客は指定された席へ着く。
旧時刻資料庫と塔上部には、増員された警備が向かっている。
舞台袖へ入った時計技師についても、通行記録と職員名簿の照合が始められていた。
しかし、現時点で違法な通行札が使われた証拠はない。
何かが盗まれた事実もない。
怪盗が塔内へ侵入したと断定できる痕跡もない。
あるのは、ルヴェールの形式と文体に一致する予告状。
予定にない十三度目の鐘。
《十一分訂正原簿》という機密記録。
そして、体格と歩幅が噛み合わない時計技師の姿だけだった。
天井の蒸気灯が、一列ずつ暗くなる。
来賓の話し声が止んだ。
舞台の中央。
金色の演台へ、セヴラン=コルベットが立った。
統制局長の背後には、巨大な時計盤がある。
針は午後十一時二十一分を示していた。
「ヴァルテリア諸都市よりお越しの皆様」
セヴランの声は、拡声管を通じて広間全体へ届いた。
柔らかく。
落ち着き。
一語ごとに、聞く者が安心できる速さで置かれていく。
「本日、我々は一つの技術事業の完成を祝うために集まりました。しかし、これは単なる時計機械の完成ではありません」
彼は客席を見渡した。
「かつて、都市はそれぞれ異なる時刻を生きていました。ある都市の正午は、別の都市ではまだ正午ではない。駅の時計と工房の時計が異なり、契約の期限と列車の出発が、互いに別の日を指していた」
リュシアンは静かに聞いている。
モルガは腕を組み、エドガーは演台ではなく、セヴランの言葉へ反応する来賓たちを見ていた。
ミラベルは手帳へ鉛筆を走らせる。
「時刻の違いは、責任の違いを生みました。届いたはずの貨物が、まだ発送されていない。期限内の署名が、別の都市では期限後となる。同じ事故が、二つの時刻へ記録される」
レオンの目が、わずかに細くなる。
「だから我々は、時刻を一つにした」
セヴランは背後の時計盤へ片手を向けた。
「一つの基準によって、鉄道は都市と都市を結びました。工場は遠い土地の工程とつながり、契約と記録は共通の今日と明日を持つようになった」
客席の一部から、静かな拍手が起こる。
セヴランは、それが収まるまで待った。
「今夜、午前零時」
声が少しだけ強くなる。
「クロック=ベルン中央標準時報塔から送られる信号によって、西方の鉄道、運河、工場、銀行、契約法院、記録院は、初めて完全に同期します」
時計塔の内部で、重量錘が一段下がった。
遠い金属音が、演説の句点のように響く。
「標準時は、地方の誇りを奪うものではありません。個々の都市を同じ姿へ変えるものでもない」
リュシアンの口元へ、ごく薄い皮肉が浮かんだ。
「標準時は」
セヴランは言った。
「離れた場所に生きる者が、同じ瞬間を共有するための言葉です」
ミラベルの鉛筆が止まった。
美しい言葉だった。
実際、遠い都市同士が同じ時刻を持たなければ、大陸鉄道も、大量輸送も、複数都市にまたがる契約も成立しない。
そのこと自体は、嘘ではない。
だが、オットーは時計が失った時間について話したいと言った。
ルヴェールは、時を失った者たちの所有権を盗むと書いた。
同じ標準時を語りながら、彼らの言葉は、まったく異なる方向を向いている。
「今夜」
セヴランの声が広間を満たす。
「我々は、時刻によって文明を一つにする」
拍手が起きた。
鉄道幹部が立ち上がり、時計工房の親方たちが手を打ち、商会主が互いに頷き合う。
セヴランは微笑み、礼をした。
今朝届いた予告状も。
警備配置の変更も。
怪盗が塔内へ侵入している可能性も。
すべて、文明の前へ置かれた小さな障害にすぎない。
そう信じているように見えた。
「上手な演説ですね」
ミラベルが囁いた。
「そうだな」
レオンが答える。
「褒めています?」
「事実を選んでいる」
「嘘は言っていない」
「嘘を言わずに、聞かせたくない事実を消すことはできる」
セヴランが演台を降りる。
舞台の照明が完全に落ちた。
暗闇の中で、鐘の模型へ一本の青白い光が当たる。
楽団が低い旋律を奏で始めた。
標準時統制局が編纂した、標準時制定の公式劇。
幕の奥から、ヴァネッサの声が響く。
「人は、夜が終わる時刻を知らなかった」
濃紺と銀の衣装をまとった彼女が、ゆっくりと舞台へ歩み出る。
「ゆえに王は、空へ十二の印を置いた」
その声は、先ほどまでエレノアと話していた女性のものではなかった。
より深く。
より古く。
広間の石壁そのものが語っているように響く。
「一つは、始まりを記すため」
舞台奥の時計盤へ、一の印が灯る。
「一つは、終わりを記すため」
十二の印が灯る。
「そして、残る十の印は」
ヴァネッサが客席へ顔を向けた。
「人が互いを待つために」
客席は静まり返っていた。
標準時を、文明と合意の物語として語る台詞。
先ほどのセヴランの演説と似ているのは、同じ制度が自らを説明するために選んだ言葉だからだった。
レオンも舞台を見ている。
だが、ミラベルには分かった。
彼の意識のすべてが、朗読劇へ向いているわけではない。
舞台袖。
広間の出入口。
上階へ続く階段。
警官の位置。
セヴラン。
オットー。
予告状。
それらを同時に見ている。
エレノアもまた、舞台だけを見ていなかった。
先ほどの時計技師を探している。
客席後方。
壁際。
技師たちの待機列。
どこにも、あの長身の男はいない。
エレノアはミラベルへ身を寄せた。
「見つかりません」
「警察が確認しています」
「だから安心?」
「安心はしていません」
「同じですね」
暗い客席で、二人は一瞬だけ目を合わせた。
舞台上では、ヴァネッサが古い鐘へ手を添える。
「王は人々へ問うた」
青白い光が、その横顔を照らす。
「同じ鐘を聞けば、同じ時を生きたことになるのか」
その台詞に、レオンの視線が舞台へ戻った。
楽団の音が低く沈む。
塔の上階で、実物の歯車が一つ進んだ。
カァン。
まだ鐘ではない。
ただの機械音。
それでも、広間にいた何人かが、反射的に時計を見た。
午後十一時二十七分。
午前零時まで、三十三分。
ルヴェールが予告した盗みまで、同じく三十三分。
そして、十三度目の鐘が鳴ると記された時刻まで。
残された時間は、すでに動き始めていた。




