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第2節 ― すべての時計が見上げる塔

 クロック=ベルン中央駅へ列車が滑り込むと、最初に聞こえたのは、到着を告げる鐘ではなかった。


 無数の時計が、同じ一分を刻む音だった。


 煤けた玻璃屋根の下には、柱へ取り付けられた駅時計、改札口の上に並ぶ運行時計、切符売場の窓口時計、荷物預かり所の小時計がある。


 機関士が胸元から取り出した懐中時計も、車掌が指へ掛けた銀時計も、ほとんど同時に十二の目盛りを越えた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 音そのものは小さい。


 それでもミラベルには、駅舎全体が一つの巨大な時計箱になったように感じられた。


 機関車が蒸気を吐き、制動機が鳴く。客車の扉が開くと、ホームで待機していた駅員たちは一斉に腕を上げ、懐中時計を確認した。


 その動きに遅れた者はいなかった。


「気味が悪いくらい、揃っていますね」


 客車の踏段を降りながら、ミラベルは言った。


「時計の街で時計が揃っていなければ、そちらの方が問題だ」


 レオンが続いて降りる。


 片手には杖。黒い外套の内側には、オットー=ヴァールから届いた手紙が収められている。


「理屈ではそうですけど。皆が同じ瞬間に時計を見ると、誰かに合図されたみたいです」


「合図されている」


「誰に?」


 レオンは答えず、ホームの向こうを見た。


 駅舎の大窓。煤と夜露に曇った玻璃のさらに先に、クロック=ベルン中央標準時報塔が立っている。


 幅の広い石造基部が街路と建物の間から立ち上がり、その上へ黒い鉄骨が幾層も重なっていた。四面へ嵌め込まれた巨大な時計盤は、夜の街へ浮かぶ白い眼のように見える。


 そのさらに上では、鐘楼を包む鉄柱が、雲の低い腹へ突き刺さっていた。


 駅舎の屋根も、工場の煙突も、記録局の尖塔も、あの塔の前では地面へ押しつけられた小さな模型にしか見えない。


「あれが答えだ」


 レオンが言った。


 ミラベルは時計塔を見上げたまま、取材鞄から手帳を取り出した。


「“すべての時計が見上げる塔”」


「詩を書くには早い」


「記事の見出しです」


「なお悪い」


「まだ掲載すると決めていません」


「君は気に入った言葉ほど、必ず残す」


「私の手帳まで読まないでください」


「読んでいない。顔に書いてある」


「今日は何でも顔に書いてある日ですね」


 背後で、重い咳払いがした。


「二人とも、ホームの真ん中で止まるな」


 グレアム警部が帽子を深くかぶり直した。


 その後ろでは、駅員たちが来賓用の荷物を次々と降ろしている。ヴァネッサの衣装箱には四人の運搬人が付き、モルガ=ブラスの金属製書類箱には商会章入りの封印帯が巻かれていた。


 リュシアン=アストの革鞄は、本人が手放そうとしない。


 エレノアはすでに列車を降り、ホーム床の中央を走る細い真鍮線を靴先で追っていた。


「この線、時計塔の方向へ続いているわ」


「時刻信号線です」


 モルガが答えた。


「駅時計が、塔から補正信号を受け取るためのものです」


「壁の中へ隠さないの?」


「壁へ埋め込めば、点検に時間がかかります」


「見せるためではないのね」


「正確さを維持するためです」


 短い鐘が、駅の外から一度鳴った。


 その瞬間、ホーム上の時計が一斉に微かに震えた。


 荷車が押し出され、出発係が旗を上げ、待合室の扉が開く。新聞売りの少年は紙束を抱え、階段を駆け下りていった。


 まるで鐘が人間の背へ見えない鍵を差し込み、まとめて巻いたようだった。


「この街の人は、時計がなければ歩けないんですか」


 エレノアが尋ねた。


「歩くことはできる」


 エドガーが手袋を整えながら答えた。


「ただし、いつまでに、どこへ到着したのかを証明できなくなる」


「歩くのに証明が必要?」


「この大陸では必要になることがある」


「息苦しい街ね」


「君には、どの街も息苦しいだろう」


「兄さまがいる街は特に」


「その点では意見が一致したな」


 レオンが言うと、エドガーは弟を見た。


「君まで含まれていると思うが」


「俺は街じゃない」


「街より扱いにくい」


     *


 駅前広場を抜けても、時計の数は減らなかった。


 壁にも、柱にも、店の軒にも、靴磨き台にも時計がある。飲食店の配膳口や、蒸気乗合車の停留所にも小さな文字盤が据えられていた。


 形も大きさも違う時計が、すべて同じ時刻を示している。


 パン屋の主人は時計を見て竈の弁を閉じ、工房の若者は時刻を確認して、交替札を隣の職人へ渡した。


 新聞配達の少年たちは塔の鐘が鳴るまで路地の入口で待ち、音と同時に別々の方向へ散っていく。


 街を歩いているのは人間なのに、その歩調を決めているのは塔だった。


 駅前には黒い馬車と蒸気乗合車が規則正しく並び、すべての車体正面へ小時計が付けられている。


 発車時刻が近づくと、運転士は客の数ではなく時計だけを見た。空席が残っていても、針が目盛りへ届けば扉を閉める。


 遅れて駆けてきた男が車体を叩いた。


 運転士は振り返らなかった。


「待ってあげればいいのに」


 ミラベルが呟く。


「一人を待てば、次の停留所で十人を遅らせます」


 モルガが言った。


「その十人が工場の交替へ遅れれば、貨物列車の積載が遅れる。貨物が遅れれば、別の都市の工程も崩れます」


「人間一人の遅刻が、大陸を止めるんですか」


「止めないために、時刻へ従わせるのです」


 モルガは当然のことを説明するように答えた。


 リュシアンが時計塔を仰ぐ。


「昔は、鐘を鳴らす時刻を人が決めていました」


「今もそうでしょう?」


 ミラベルが言った。


「ええ。ただ今では、誰が決めたのかを考える者が減りました」


 モルガの視線が、わずかにリュシアンへ動く。


「時間まで旧時代の権利だと主張なさるおつもりですか、アスト氏」


「時間そのものを所有できるとは思っていません」


 リュシアンの声は柔らかい。


「だからこそ、誰かが所有しているように振る舞うときには注意しています」


「塔は時間を所有しているのではありません。測定し、共有しているだけです」


「測定方法を決めた者が、共有される時刻を決める」


 レオンが言った。


 モルガは探偵へ顔を向けた。


「また機械を疑う話ですか」


「今は仕組みを確認している」


「あなたの確認は、他人には疑いに見えます」


「疑われたくない仕組みは、確認に耐えない」


 ミラベルは二人の間へ視線を往復させた。


「到着して数分で、もう時計塔と喧嘩をしているように聞こえます」


「喧嘩ではありません」


 モルガが即座に否定した。


「クラウス氏の理解が追いつくのを待っているだけです」


「ずいぶん長く待たせることになりそうだな」


 グレアムが低く笑った。


     *


 大時鐘塔の正面へ着くと、巨大さはかえって分かりにくくなった。


 石壁が視界の左右を埋め、見上げても時計盤の上端は霧へ滲んでいる。


 入口の鉄扉は、蒸気機関車の車庫扉を、古い大聖堂の尖頭形へ作り直したような形をしていた。


 扉の前では、式典警備の警官と時計塔職員が、招待状と身分証明を照合している。


 グレアムは警備責任者の腕章を示し、エドガーは中央記録庁の封印入り通行証を差し出した。


 モルガの招待状には、標準時網機械供給者の金印。


 リュシアンには旧資料鑑定人。


 ヴァネッサには式典出演者。


 ミラベルには報道記録者。


 エレノアにはクラウス家随行者と記されている。


 最後に、係員の手が止まった。


 レオンの招待状がなかったからだ。


「私立探偵?」


 若い係員が通行名簿とレオンを見比べた。


「式典来賓名簿にはありません」


「知っている」


「では、ここから先へは――」


「わしの客だ」


 低い声が、巨大な扉の内側から届いた。


 現れたのは、年老いたドワーフだった。


 白くなった髪。長年、油と金属粉へ触れてきた太い指。


 作業着の上には式典用らしい濃紺の上衣を羽織っているが、襟元には油染みが残り、袖には細かな真鍮粉が付いていた。


 胸元の金属札には、


> 大時鐘塔主任時計官

> オットー=ヴァール


 と打刻されている。


 レオンは老人の顔より先に、手を見た。


 右手の人差し指と親指には薄い黒インクの跡があり、爪際へ紙の繊維が残っている。左手首からは、懐中時計の鎖が垂れていた。


「手紙を書いたのは、あなたか」


「挨拶より先にそれか」


「確認が先だ」


 オットーは鼻を鳴らした。


「書いたのはわしだ。名だけ借りた別人でもなければ、死者の代筆でもない」


「よくあるものを二つ並べましたね」


 ミラベルが小声で言う。


「この男と関わっていれば、嫌でも覚える」


 オットーはレオンの肩越しに彼女を見た。


「ワトリア嬢か」


「私をご存じで?」


「新聞は読む。あんたの記事は、事実の後ろへ人間を置く」


 ミラベルは一瞬、返答に迷った。


 褒められたのか。


 記者として危ういと評されたのか。


 判断がつかない。


「俺の名前は新聞で知ったのか」


 レオンが尋ねる。


「それ以外でも知っとる。記録院で、時計記録の欠番を三日間問い続けた若造がおった」


「十三年前の話だ」


「時計屋は、時間が過ぎたという理由で忘れたりはせん」


 オットーは係員へ顎を向けた。


「通せ。わしが案内する」


 鉄扉が内側へ開いた。


 冷たい空気とともに、塔の奥から巨大な機械が呼吸するような低音が押し寄せた。


     *


 第一層の式典大広間は、外観の石造大聖堂らしさを最も残した空間だった。


 高い天井の下では、鉄骨の梁が黒い肋骨のように交差している。床には十二方位を示す真鍮線が埋め込まれ、その中心へ円形の式壇が設けられていた。


 職員たちが椅子を並べ、舞台係が照明を調整し、楽団員が楽器の音を確かめている。


 広間の奥には、ヴァネッサが出演する朗読劇のための舞台が組まれていた。巨大な時計盤を模した背景幕が吊られ、その前には王座と古い鐘の模型が置かれている。


 ヴァネッサは舞台を一目見ただけで、眉をわずかに上げた。


「台本はまだ?」


「標準時統制局長が持っとる」


 オットーが答えた。


「式典直前に渡すそうだ」


「役者へ台詞を渡さず、時間だけを厳守させるのね」


「この街では、台詞を間違えるより開始時刻を間違える方が罪が重い」


「ずいぶん残酷な劇場だこと」


 ヴァネッサは微笑んでいたが、舞台上の配置をすでに目で測っている。


 エレノアはその横で、背景幕の裏へ続く階段を見ていた。


「上へ行ける?」


「行けるわ」


 ヴァネッサが答える。


「舞台係だけがね」


「聞いただけです」


「あなたがそう言うときは、もう半分登っている顔をしている」


「ミラベルさんみたいなことを言わないで」


「光栄ね」


 ミラベルは笑った。


 レオンは笑わなかった。


「エレノア。勝手に持ち場を離れるな」


「わたしに持ち場なんてあるの?」


「俺の視界内だ」


「それは持ち場ではなく、監視範囲でしょう」


「意味は同じだ」


「全然違うわ」


「クラウス家の議論は後にしてくれ」


 グレアムが割り込んだ。


「俺は警備経路を確認したい」


「なら上だ」


 オットーは広間奥の鉄扉へ向かった。


「大時鐘塔は上へ行くほど狭くなる。逃げ道も減る」


「侵入された後なら、警備しやすいだろうな」


 グレアムの言葉に、オットーは一度だけ振り返った。


「侵入される前から、塔にいる者を疑う方がよい」


「気に入った」


「気に入られても困る」


     *


 第二層の標準時統制室では、一人のドワーフ女性が一行を待っていた。


 灰を帯びた髪を短くまとめ、作業着の袖を肘までまくっている。腰には大小の工具が並び、胸元の金属札には、


> 大時鐘塔機関主任

> ヘルガ=ツァーン


 と刻まれていた。


「見学予定より、七分遅れています」


 挨拶より先に、ヘルガは言った。


「駅からの移動に時間がかかった」


 オットーが答える。


「機械は待ちません」


「人間は待たせる」


 モルガがヘルガを見る。


「変わっていないようね」


「夫人は変わりました」


「どこが?」


「昔は、自分で工具箱を持っていました」


 モルガの後ろで、金属書類箱を抱えた商会員が姿勢を正した。


「今は、持つべき者へ持たせています」


「便利な言い方です」


 短いやり取りだった。


 だが、二人が初対面ではないことだけは分かった。


 統制室の壁には、都市名を刻んだ時計が並んでいる。


 ヴェルム=クロウ。


 グラン=レール。


 エスラ=ヴァルト。


 リブロ=ヴェン。


 バル=ガルド。


 ドック=セリム。


 大小の針は、すべて同じ方向を向いていた。


 室内中央には円形の操作卓が置かれ、真鍮管、圧力計、通信鍵、時刻信号を送るための黒い把手が密集している。


「今夜の午前零時を境に、ここから全西方へ日付更新信号を送る」


 オットーが操作卓へ手を置いた。


「鉄道だけではない。工場、運河橋、銀行、契約法院、記録院。接続された機械は、すべて同じ午前零時を受け取る」


 ミラベルは最上段の時計を見た。


「一つの塔が、全員の明日を決めるんですね」


「塔が決めるのではありません」


 モルガが操作卓の圧力計を確認しながら言った。


「塔は、決められた時刻を送るだけです」


「その時刻を決めるのは?」


「標準時委員会、鉄道統制局、中央記録庁」


 エドガーが答えた。


「複数の観測値と、運用規定による合意だ」


「合意すれば、時刻になる?」


「制度上は」


「制度の外では?」


「質問の用途を明らかにしてくれれば答えよう」


「まだ記事用です」


「では、記事になる程度の答えで我慢しなさい」


 レオンは壁の時計ではなく、その下へ接続された自動記録機を見ていた。


「時刻信号の送信記録は、どこへ残る」


「一つ上です」


 答えたのはヘルガだった。


「人間が入力した操作と、機械が検出した動作を分けて記録します」


「食い違った場合は?」


「原因を調べます」


「どちらを正しいとする」


 オットーがレオンを見た。


「時計は嘘をつかん」


 言葉を一度切る。


「嘘をつくのは、時計を合わせた人間だ」


「正しく調整された機械なら、という条件が必要です」


 モルガが言う。


「機械はいつも条件つきだ、真鍮夫人」


「人間も同じでしょう」


「だから、両方の記録を残す」


 ヘルガは会話を打ち切るように、階段の扉を開いた。


「次へ。最終調整を遅らせないでください」


     *


 第三層では、紙の音が降っていた。


 壁沿いの自動記録機から細長い紙帯が絶えず吐き出され、歯車が回るたび、活字輪が紙面へ降りていく。


 時刻。


 送信先。


 圧力値。


 操作番号。


 保守記録。


 それらが一行ずつ印字され、天井近くの滑車を経て、日付ごとの巻取筒へ収められていた。


 室内の奥では、一人の若いドワーフが記録紙を交換している。


 短い髪と、油で汚れた手。


 胸元には、見習い技師用の小さな金属札が付いていた。


> ニルス=ヴァール

> 見習い時計技師


 オットーが声を掛ける。


「ニルス。入室記録を見せろ」


「はい、主任」


 ニルスは直立し、印字機の一台から確認用の紙帯を引き出した。


 年老いた主任へ向ける眼差しには、見習いが上役を見る以上の強い敬意がある。


 紙面は中央で、二つの欄に分かれていた。


> 人員入室


 左側の欄。


> 器材搬送


 右側の欄。


 人が通る扉と、標準器や記録筒を運ぶ機械口は、別々の接点によって動作を記録されるらしい。


「誰が区別するんですか?」


 ミラベルが尋ねた。


「記録官ではありません」


 ヘルガが答える。


「人の通る扉が開けば人員欄。運搬筒が動けば器材欄。機械が受けた動作を、そのまま別々に印字します」


「物を抱えて、人が正面扉を通ったら?」


「人員入室です」


「人が運搬筒へ入ったら?」


 エレノアが訊いた。


 ヘルガは無表情に彼女を見た。


「運搬規程違反です」


「記録は?」


「器材搬送欄へ残ります」


 返答までの間はなかった。


 レオンの視線が、二つの見出しへ落ちる。


「中に何が入っているかまでは、判別しない」


「重量と筒の作動を記録する機械です」


 ヘルガが言う。


「中身を考える機械ではありません」


 ミラベルは手帳へ書き込んだ。


> 入室印字機。

> 人員入室と器材搬送は別欄。

> 機械は通過経路を記録し、内容物までは判別しない。


 レオンが横から見る。


「記事にするなら、悪用法の手引きにするな」


「仕組みは記録します。詳しい操作方法は書きません」


「それでいい」


 ニルスは二人のやり取りを聞きながら、紙帯を新しい巻取筒へ通した。


 手つきには若さが残っているが、紙の端を一度も折らない。


「人が書き換える余地は?」


 グレアムが尋ねた。


「記録紙を取り出して燃やせば消せる」


 オットーはあっさり答えた。


「改竄は」


「同じ紙、同じ活字圧、同じ機械油、同じ送り間隔を再現できるならな」


「できる者は?」


「わし。ヘルガ。あとは、機械を造った者くらいだ」


 視線が自然にモルガへ集まる。


「現行の送信記録機はブラス重工製です」


 モルガは表情を変えなかった。


「ただし、基礎構造は塔の旧設備を流用しています。私にも、すべてが分かるわけではありません」


「分からないものを、分かるふりはしないらしい」


 グレアムが言う。


「警部も見習うとよいでしょう」


「商会主の処世術は間に合っとる」


 ニルスの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑いを堪えたらしい。


 オットーが振り返ったときには、少年の顔は、すでに真面目な見習い技師へ戻っていた。


     *


 第四層へ上がるにつれ、油と熱い金属の匂いが薄れた。


 代わりに、古い紙と乾いた革、長く閉ざされた木箱の匂いが満ちてくる。


 旧時刻資料庫。


 標準時制定以前の時刻表。


 都市ごとの地方時計。


 廃止された工房暦。


 鐘楼ごとに異なっていた礼拝時刻。


 古いエルフ暦。


 現在では使われない時刻が、書物と記録筒の形で棚へ並んでいた。


 リュシアンの歩みが自然と遅くなる。


 彼は棚へ触れず、背表紙を目だけで追った。


「保存状態は悪くありません」


「悪くしたら、あんたら古書屋が怒るからな」


「怒るだけなら安いものです」


「値段をつける気か」


「記録の価値は、売価だけでは決まりません」


 資料庫の壁際には、背の高い鉄の筒が残されていた。


 両開きの扉。上部から伸びる太い鋼索。


 人が一人、立ったまま収まるだけの幅と奥行きがある。


 扉の横には、摩耗した金属札が残っていた。


> 校正筒

> 標準器・記録筒運搬用


「昇降機ですか?」


 ミラベルが尋ねた。


「人用ではない」


 オットーが即座に答えた。


「基準時計、校正用の分銅、記録筒を上の振子室へ運ぶためのものだ」


 エレノアは扉の前へ立ち、自分の肩幅と見比べた。


「でも、人も入る」


「入れることと、使ってよいことは違う」


「今も動くんですか?」


「通常の運搬には使っとらん」


 オットーの答えを聞き、レオンが筒の合わせ目へ屈み込んだ。


 鉄板の縁には古い油が黒く固着している。


 扉下部の軌道に大きな損傷はなく、鋼索にも赤錆は浮いていない。


「使っていないのに、保守はしている」


 レオンが言った。


「主制御機構の一部として残っているためです」


 ヘルガが答える。


「完全に切り離せば、上の校正歯車まで組み直す必要がある。必要最低限の注油と、昇降確認は続けています」


「なら、動かそうと思えば動く」


「手順を知っていれば」


「知っている者は?」


 グレアムが問う。


「主任時計官、機関主任、保守班長。それに古い技師が二人」


 ヘルガの返答は短かった。


 レオンは筒の床面と鋼索を見た。


 何かを発見したわけではない。


 埃の厚さ。


 扉の寸法。


 油の状態。


 それらを覚えているだけだった。


 資料庫の奥には、一基の旧地方時計が置かれていた。


 木製の外箱。十二の数字を持つ文字盤。


 側面の小扉が開かれ、内部の歯車が見えている。


 その脇の受け台には、掌ほどの真鍮塊が一つ置かれていた。


 中央に調整ねじがあり、端には軸へ掛けるための浅い溝がある。


「これは?」


 ミラベルが、何気なく尋ねた。


「旧地方時計の調速錘だ」


 オットーが答えた。


「重さを変えて、時計の進みを合わせる」


「こんな小さなもので?」


「小さいから調整できる」


 ニルスが受け台へ近づき、真鍮塊を布で一度拭いた。


「今夜の展示用です。式典前に、元の軸へ戻します」


「磨きすぎるな」


 オットーが言う。


「古い工具痕まで消える」


「分かっています」


 ニルスは調速錘を旧時計の脇へ戻した。


 掌ほどの真鍮塊は、木製の外箱の影へ半分隠れた。


 そのすぐ隣。


 旧時計盤の下部には、本来なら装飾で覆われているはずの、小さな接続跡が残されていた。


 十二の区画とは別に、文字盤の下へ伸びる細い溝。


 削り取られた金属札。


 二つの固定ねじの跡。


「十三番目?」


 エレノアが言った。


「番号はない」


 レオンが訂正する。


「でも、位置としては十二の次でしょう?」


「そう見えるだけだ」


「兄さまにも、そう見えているのね」


 モルガが旧盤の歯車軸を確認した。


「現行図面にはありません」


「地方時補正機の旧盤だ」


 オットーが言う。


「昔は、都市ごとの時刻差を調整するため、通常の文字盤とは別の補正経路が必要だった」


「機構は撤去済みですか」


「表の歯車はな」


「裏は?」


 レオンが訊いた。


 オットーはすぐには答えなかった。


 塔の奥で、重量錘の鎖が一節ずつ引き上げられる。


「塔は、古い骨を抜けば立てなくなる」


 老人はようやく言った。


「使わん骨まで、壁の中へ残る」


「答えになっていない」


「今夜の式典を終わらせるには、それで十分だ」


「俺には足りない」


「知っとる」


 オットーは視線を逸らした。


「だから呼んだ」


 ミラベルは、手帳へ何を書くべきか迷った。


 確認できるのは、旧盤の下部に十二区画とは別の接続跡があり、オットーがそれを地方時補正機構の名残だと説明したこと。


 現行図面には載っていない。


 ただし、それが現在も機能するかは分からない。


 何のために残されているのかも、まだ確認できていない。


 ミラベルは、断定を避けて書いた。


> 旧盤下部に、十二区画とは別の接続跡。

> 旧地方時補正機構との説明あり。

> 現在の作動状態は未確認。


 レオンが横から読み、何も訂正しなかった。


     *


 第五層へ続く扉を抜けると、塔の中心が突然、足元から消えた。


 巨大な重量錘坑。


 黒い縦穴が、上にも下にも伸びている。


 その中央を、家屋ほどの大きさを持つ鉄製の重量錘が、太い鎖に吊られてゆっくりと上下していた。


 複数の保守橋が空洞を横切り、その途中には、落下物や外れた部品の衝撃を受けるための制動棚が張り出している。


 さらに下。


 ランタンの光も届かない底部から、低い排水音が響いていた。


 地下の湿った風が吹き上がり、ミラベルの外套を揺らす。


「底は地下排水路へつながっているのか」


 グレアムが尋ねた。


「現行の主排水路と、標準時制定以前の旧分岐が残っています」


 ヘルガが答えた。


「旧分岐の一部は閉鎖済みです」


「一部?」


 レオンが言う。


 ヘルガの目が細くなった。


「現場で確認できる範囲でも閉じています」


「すべてを確認した?」


「この塔を建て直すおつもりですか」


「質問へ答えていない」


「旧排水路は地下で複数に分かれます。現在使う範囲は確認しています。それより先は、時計機構の管理区域ではありません」


 レオンは縦穴を見下ろした。


 途中の制動棚。


 壁面を走る古い排水管。


 下方の暗闇へ続く分岐。


 どれも、今はただの塔内設備だった。


「手摺から離れるな」


 グレアムが言った。


「特にクラウス家の妹」


「名指ししなくても分かります」


「分かっていて近づくから言っとる」


 エレノアは不満そうにしたが、一歩だけ後ろへ下がった。


 ヴァネッサがその腕へ、さりげなく手を添える。


「落ちる役は、舞台の上だけにしておきなさい」


「舞台なら受け止めてもらえる?」


「よい劇場ならね」


「ここは?」


 ヴァネッサは黒い縦穴を見下ろした。


「観客しかいないわ」


 重量錘がゆっくり降下するたび、塔全体のどこかで歯車が一段進んだ。


 足元から伝わる振動は、列車よりも重い。


 ミラベルは、あの巨大な錘が、街のすべての時計を直接動かしているような錯覚を覚えた。


 実際に塔が送るのは、時刻信号でしかない。


 それでも、この縦穴の中で何かが止まれば、遠い街の列車や工場まで、同じ瞬間を失う。


 その想像だけで、手摺が冷たく感じられた。


     *


 第六層の基準振子室は、厚い鉄扉の向こうにあった。


 扉の中央には大きな円形把手があり、左右へ三本ずつの閂が通されている。


 上部の小窓には、封鎖時刻が刻まれていた。


> 午後十一時五十分

> 自動閉鎖

>

> 午前零時十分

> 自動解除


「二十分も閉じるんですか」


 ミラベルが尋ねた。


「午前零時同期の前後十分だ」


 オットーが答える。


「基準振子へ人が近づけば、わずかでも空気と床が動く。全西方へ時刻を送る夜に、余計な誤差はいらん」


「中に誰かいた場合は?」


「閉鎖前に人員確認をする」


「残っていたら?」


 エレノアが訊いた。


「警報が鳴る。扉は閉じん」


「警報が故障したら?」


「時計技師に嫌われたいのか、お嬢さん」


「質問しただけです」


「この子は、起きてほしくないことから順番に考える」


 エドガーが言った。


「探偵向きだな」


 グレアムが笑う。


「やめてくれ」


 レオンだけが即座に答えた。


 オットーは腰の鍵束から太い鍵を一本選び、鉄扉の鍵穴へ差し込んだ。


 重い音とともに閂が引かれ、扉が開く。


 中にあったのは、時計というより、一つの運動だった。


 天井近くから吊られた長大な振子。


 真鍮の棒。


 下端へ取り付けられた巨大な錘。


 それが、静かに左右へ揺れている。


 右へ。


 左へ。


 一往復ごとに、室内奥の歯車が一つ送られる。


 カァン。


 ごく低い金属音。


 振子が戻る。


 再び。


 カァン。


 床には薄く真鍮粉が積もっていた。


 保守員が歩くための狭い板道だけが、その粉を避けるように敷かれている。


「板道から降りるな」


 オットーが言った。


「床の粉は、軸受けの摩耗と振子の状態を見るために残してある。足跡をつければ、保守記録が狂う」


 グレアムが床を見た。


「現場保存みたいな部屋だな」


「時計屋にとっては、毎日が現場検証だ」


 レオンは入口から室内全体を観察した。


 振子。


 板道。


 真鍮粉。


 扉脇の入室印字機。


 壁面の圧力管。


 天井へ伸びる鐘打ち機構。


 そして、部屋の隅にある縦長の金属扉。


 旧時刻資料庫で見た校正筒と、同じ幅だった。


「校正筒の出口か」


「ああ」


 オットーが答える。


「昔は、標準器を下から運び込んだ」


「時限封鎖中も開く?」


「通常の運搬には使わん」


「質問への答えではない」


 ヘルガが、二人の間へ入るように言った。


「校正筒には、午前零時直前の自動昇降確認が残っています」


「物を積んでいなくても?」


「機構の動作確認です」


「振子室の正面扉が閉じたあとでも?」


「正面扉とは別系統です」


「記録は」


「器材搬送欄へ残ります」


 ミラベルは、先ほどの記述へ一行を加えた。


> 校正筒は通常の運搬には使われていない。

> ただし、午前零時同期時に自動昇降確認を行う。


 レオンが手帳を見る。


「そこは残しておけ」


「言われなくても」


「記事には載せるな」


「記録には残します。でも、危険な操作方法は公表しません」


 レオンが何か言おうとする前に、ミラベルは続けた。


「存在した仕組みまで消さない。でしょう?」


 レオンは彼女を見た。


 わずかな間があった。


「そうだ」


 返事は短かったが、ミラベルはそれ以上を求めなかった。


 オットーが全員を廊下へ出るよう促した。


「もうじき最終調整へ入る。時限錠が動き出す前に下へ戻るぞ」


 最後に老人が扉を閉じた。


 閂が戻り、オットーは鍵を抜いて時刻小窓を確認する。


「午後十一時五十分になれば、鍵は利かなくなる」


 グレアムが円形把手へ手を掛けた。


「外から力ずくでは?」


「錠を壊すしかない。警報が鳴り、基準信号も停止する」


「中に人が閉じ込められても?」


「人員確認が正しく行われていれば、閉じ込められん」


 レオンは時刻小窓と、扉脇の入室接点、その奥にある校正筒の位置を順に見た。


「つまり、閉鎖後に正面扉から入った者はいないと、機械が証明する」


「扉からならな」


 オットーが答えた。


 口にしてから、老人は自分の言葉を噛み直すように黙った。


 レオンは追及しなかった。


 正面扉は、午後十一時五十分から午前零時十分まで閉ざされる。


 封鎖中に正面扉を開けば、警報と入室記録が残る。


 だが、器材用の校正筒は別系統として振子室へ通じ、午前零時同期時には自動で昇降する。


 誰かが悪用するという証拠はない。


 すでに悪用された痕跡もない。


 ただ、その仕組みは確かに存在していた。


     *


 一行が階段へ戻ると、下の式典広間から楽器の調律音が聞こえてきた。


 来賓たちも到着し始めたらしい。


 人の声。


 靴音。


 案内係の呼びかけ。


 時計塔は機械だけでなく、今夜ここへ集まる人間たちまで飲み込み始めていた。


 モルガとエドガーは統制室の確認事項を話しながら先へ降り、グレアムは踊り場で部下を呼び止め、警備経路を確認し始めた。


 リュシアンは旧時刻資料庫の鑑定許可をオットーへ求めている。


 ヴァネッサは舞台係に呼ばれ、エレノアを伴って広間へ戻った。


 ヘルガは最終調整へ戻るため、ニルスへ短く指示を出す。


「第三層の巻取筒を交換したら、旧地方時計の調速錘を軸へ戻しなさい」


「はい、機関主任」


「重量を再確認してからです」


「分かっています」


 ニルスはオットーへ一度だけ目を向け、急いで階段を下りていった。


 ミラベルも皆に続こうとしたとき、レオンが足を止めた。


 オットーが、彼の外套の袖をつかんだからだ。


 老人の指には、まだ黒いインクが残っている。


「ワトリア嬢」


 オットーが言った。


「少しだけ、探偵を借りる」


 ミラベルはレオンを見た。


「聞かない方がいい話ですか」


「聞かせる段階ではない話だ」


 答えたのはオットーだった。


 レオンは否定しない。


「先に行っていろ」


「あとで全部、話してください」


「話せることはな」


「そういう言い方をするときは、半分も話さないつもりです」


「よく分かってきたな」


「助手ですから」


「記者だろう」


「両方です」


 ミラベルは二人を残し、階段を降りた。


 ただし、一つ下の踊り場で足を緩めた。


 声を盗み聞こうとしたのではない。


 そう自分へ言い聞かせる。


 オットーの声は低く、機械音に半分ほど消されていた。


「手紙の十一分についてだ」


 レオンが言った。


「あれは比喩か」


「違う」


「実在した?」


「その問いへ、ここでは答えられん」


「なら、なぜ呼んだ」


 重量錘の鎖が動く。


 がらり。


 がらり。


 一定の間隔で、金属音が二人の会話を切った。


「わしは四十三年前、時計を進めた」


 オットーの言葉が、途中まで聞こえた。


 ミラベルは思わず振り返りかける。


 だが、続く声は聞き取れなかった。


 レオンが何かを尋ねる。


 老人は首を振ったようだった。


 やがて、オットーの声だけが、はっきりと届いた。


「式典が終わったら、時計が失った時間について話したい」


 レオンは老人を見つめている。


「終わる前には話せないのか」


「今夜、午前零時までは、わしはこの塔の主任時計官だ」


「午前零時を過ぎれば?」


 オットーはすぐには答えなかった。


 階段の小窓から、クロック=ベルンの夜景が見えた。


 駅。


 工房。


 商店。


 契約局。


 劇場。


 無数の時計盤が街の各所で光り、どの時計も大時鐘塔を見上げて、同じ午前零時を待っている。


「午前零時を過ぎれば」


 オットーは胸元の懐中時計を握った。


「今日まで黙っていたことを、記録へ戻す」


 老人はそれだけ言い、先に階段を降りた。


 レオンは追わなかった。


 しばらく、旧補正盤のあった上階と、オットーが消えた下階を交互に見ている。


 ミラベルは踊り場から顔を出した。


「全部は聞いていません」


「聞いていたのか」


「聞こえたんです」


「便利な言葉だな」


「記者には必要です」


 レオンは歩き出した。


 ミラベルが隣へ並ぶ。


「オットーさんは、何を恐れているんでしょう」


「恐れているとは限らない」


「では、後悔?」


「それも仮説だ」


「確認できたことは?」


「四十三年前、オットー=ヴァールは何らかの時計を進めた」


「十一分?」


「そこまでは言っていない」


「でも、手紙には“存在しなかった十一分”と書いた」


「二つが同じ出来事を指す可能性はある」


「断定はできない」


「まだな」


 階段の下から、式典開始を知らせる案内鐘が鳴った。


 一度だけの、短い音。


 街へ時刻を知らせる大鐘とは違い、塔内の人間だけを動かす鐘だった。


 職員たちの足音が速くなり、客席のざわめきが大きくなる。


 レオンは内ポケットへ手を入れ、オットーから届いた便箋を指先で確かめた。


> 時計塔には、存在しなかった十一分が保管されている。


 存在しなかった十一分。


 使われていないはずなのに、今も保守されている校正筒。


 現行図面から外されながら、塔の壁の内側へ残された旧補正機構。


 今あるのは、互いに結びついているように見える仕組みだけだった。


 同じ事件の一部だという証拠はない。


 誰かの犯罪を示す痕跡もない。


 それでもレオンは、別々の場所へ残された違いを忘れなかった。


「行きましょう」


 ミラベルが言った。


「式典が始まります」


「ああ」


 二人は階段を降りた。


 背後では、基準振子が変わらない間隔で揺れ続けている。


 右へ。


 左へ。


 街のすべての時計を、一つの午前零時へ運びながら。


 そして、その古い塔の壁の内側には、現在では使われていないと説明された機構が、取り外されないまま残されていた。

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