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第1節 ― 零時へ向かう特別列車

 クロック=ベルン行き式典特別列車は、午後九時ちょうどにヴェルム=クロウ中央駅を発った。


 発車を告げる鐘が二度鳴り、長い汽笛が、煤煙に覆われた玻璃屋根を震わせる。


 機関車の動輪が濡れた軌条を一つずつ噛み、ホームに並ぶガス灯が、ゆっくりと後方へ流れ始めた。


 新聞売りの声。


 見送りに来た官吏たちの帽子。


 警備警官の掲げる赤灯。


 それらが蒸気の幕へ沈み、列車はヴェルム=クロウの夜を抜けていった。


 先頭には機関車と炭水車。その後ろへ、警備員と鉄道職員の乗る業務車、式典資材を積んだ荷物車が続いている。


 編成の中央へ一両だけ連結された特別客車には、ヴァルテリア西方標準時網の完成式典へ招かれた者たちが集められていた。


 深紅の絨毯。


 磨かれた木壁。


 真鍮の荷棚。


 天井から吊られた小さな蒸気灯。


 車両中央の長机を、革張りの座席が囲んでいる。


 窓の上には、クロック=ベルン標準時へ合わせられた丸時計が掛かっていた。


 秒針が一目盛り進むたび、車輪が軌条の継ぎ目を越える。


 カチ。


 ガタン。


 カチ。


 ガタン。


 車内にあるどの会話よりも、その二つの音だけが正確に続いていた。


     *


 ミラベル=ワトリアは、膝の上へ取材手帳を置いたまま、向かいに座る男を見ていた。


 レオン=クラウスは、列車が発車してから一度も窓の外を見ていない。


 古びた黒い外套を着たまま座席へ深く腰を下ろし、片手に持った便箋の同じ一行を、繰り返し読んでいる。


「文字が増えるまで待っているんですか?」


 ミラベルが尋ねた。


 レオンの視線は、便箋から動かなかった。


「減る可能性を調べている」


「読んでいるうちに?」


「余計な意味を足さずに読めるまでだ」


「普通は一度読めば、書いてあることは分かります」


「普通の手紙ならな」


 ミラベルは長机へ身を寄せた。


「では、普通ではない手紙を、もう一度見せてください」


「さっき見せただろう」


「持ち上げた便箋の裏側を、三秒ほどです」


「十分だ」


「レオンさんにはでしょう」


 レオンは小さく息を吐き、便箋を机の上へ置いた。


 紙面に記されている文章は、たった一行だった。


> 時計塔には、存在しなかった十一分が保管されている。


 その下には、簡素な署名だけがある。


> オットー=ヴァール


 封筒の表には、レオン=クラウスの名と、霧燈通り十三番地の住所。それ以外に、差出人を示すものはなかった。


「署名はあります」


「名前が書かれているだけだ」


「同じでは?」


「同じなら、偽造署名という言葉は存在しない」


 レオンは便箋の左上を指先で押さえた。


「この手紙をオットー=ヴァールが書いたことは、まだ確認されていない」


「でも、オットー=ヴァールという人は実在するんですよね」


「する」


 答えたのは、レオンではなかった。


 長机の端に座っていたエドガー=クラウスが、手元の式典資料から目を上げた。


 黒い正装。乱れのない襟元。


 列車の座席へ深く腰掛けているにもかかわらず、中央記録庁の執務室にいるときと変わらない落ち着きだった。


「クロック=ベルン中央標準時報塔の主任時計官だ。今夜の式典では、時計塔の機構説明を担当する予定になっている。来賓名簿にも記載されているよ」


 エドガーは資料の頁を一枚めくった。


「少なくとも、行政上は実在している」


「兄さんの口から聞くと、かえって不安になるな」


「行政上すら実在しない人物から届いた手紙を、君は何度も追いかけているだろう」


「それとこれとは別だ」


「違いを説明できるかね」


「今はしたくない」


「説明できない者が使う、便利な返答だ」


 向かいの座席から、抑えきれない笑い声が漏れた。


 エレノア=クラウスが、両手で口元を隠している。


 濃い髪をリボンでまとめ、式典用の上着を着てはいるが、姿勢は令嬢らしいものから遠かった。片脚を座席の端へ寄せ、身体を斜めに伸ばして、レオンの肩越しに手紙をのぞき込もうとしている。


「兄さまたち、列車へ乗っても同じ話をするのね」


「君は自分の席へ戻れ」


 レオンが言った。


「ここがわたしの席よ」


「では、座席の用途に合った座り方をしろ」


「式典へ連れてこられた妹の用途は、静かに座っていること?」


「少なくとも、他人の手紙をのぞくことではない」


「ミラベルさんには見せたじゃない」


「彼女は事件記録者だ」


「わたしは小さな探偵未満よ」


「自称を身分証明に使うな」


 エレノアは肩をすくめ、ミラベルへ視線を送った。


「相変わらずでしょう?」


「今日は少し機嫌がいい方です」


「これで?」


「手紙が来ましたから」


 ミラベルの返答に、レオンが眉を寄せた。


「俺は依頼状で機嫌を変えない」


「では、同じ一行を何度も読んでいるのは?」


「数えていたのか」


「記者ですから」


 レオンは答えず、便箋へ視線を戻した。


     *


 車両の反対側では、モルガ=ブラスが車内時計を見上げていた。


 真鍮夫人と呼ばれるドワーフの女傑は、特別列車の豪華な内装にも、集められた顔ぶれにも感銘を受けている様子はない。


 彼女は秒針が一周するまで見届けてから、隣に座るグレアム警部へ告げた。


「三秒、遅れています」


 グレアムは腕を組んだまま、時計を見上げもしなかった。


「何と比べてだ」


「発車時に確認した、中央駅の基準時計とです」


「走っている列車の壁時計だぞ。三秒で騒ぐな」


「今夜完成する標準時網では、その三秒が列車二本の進路を分けます」


「なら、完成してから騒げ」


「事故が起きてからでは遅いのです」


「事故が起きる前に、全員を犯人扱いするよりはましだ」


「警部。私は機械の話をしています」


「俺は、機械を作った連中の話をしとる」


 二人の間に置かれた銀製の水差しが、車輪の振動で微かに鳴った。


 モルガはグレアムを一瞥しただけで、感情を表には出さなかった。


「正しく整備された時計は、正しい時刻を示します」


 レオンが、手紙を見たまま言った。


「その時刻を誰が合わせたかは、別の問題だ」


 モルガの視線が動く。


「クラウス氏。到着前から、時計塔を犯罪現場として扱うおつもりですか」


「まだ事件は起きていない」


「あなたの顔は、すでに何かを疑っています」


「俺が疑っているのは文章だ」


「紙は機械より正直だと?」


「紙も機械も、使った人間以上には正直になれない」


 モルガの太い指が、座席の肘掛けを一度だけ叩いた。


 反論の代わりに、その言葉を保留したらしい。


 グレアムは横目で彼女を見たが、追い打ちはしなかった。


 正確な機械を信じる産業家と、機械を扱う人間を疑う警察官。


 二人が同じ時計を見ても、見ているものは違っていた。


     *


 その近くでは、リュシアン=アストが膝の上へ細長い革鞄を置いていた。


 鞄には複数の錠が付き、古い紙を湿気から守るための銀布が巻かれている。


 彼はレオンの手紙を遠目に眺めてから、穏やかに言った。


「“失われた十一分”ではなく、“存在しなかった十一分”ですか」


 ミラベルが振り向いた。


「違いがありますか?」


「失われたものは、かつて存在していたはずです」


 リュシアンは細い指で、鞄の留め具を確かめた。


「失われた土地。失われた名。失われた記録。それらは、失われる前には確かにあった。ですが、存在しなかったものには、本来、失う以前がない」


「でも、手紙には“保管されている”とも書いてあります」


「ええ」


 リュシアンは、一呼吸置いた。


「存在しなかったものを、誰かが保管している」


 口元へ、ごく薄い笑みが浮かぶ。


「古文書を扱う者としては、あまり歓迎したくない表現です」


 ミラベルは手紙へ目を戻した。


 失われたものなら、探すことができる。


 だが、初めから存在しなかったものを探すとしたら、何を手掛かりにすればよいのか。


「あなたも時計塔から依頼を?」


 レオンが尋ねた。


「旧時刻資料の鑑定を頼まれました」


「依頼人は?」


「標準時統制局名義です。担当者の個人名はありません」


「何を鑑定するかは」


「現地で示す、とだけ」


 レオンはわずかに目を細めた。


 それは疑いを確定した顔ではない。


 新しい事実を、既存の事実の隣へ置いた顔だった。


「わたしも似たようなものよ」


 窓際から、ヴァネッサ=リードが言った。


 彼女は舞台用の衣装箱を足元へ置き、淡い色の手袋を外しているところだった。蒸気灯の光が、整えられたエルフの横顔を静かに縁取っている。


「記念朗読劇への出演依頼。脚本はクロック=ベルンで渡す。題目も当日まで非公開。演者にとって、なかなか無礼な演出でしょう?」


「それでも引き受けたんですね」


 ミラベルが言った。


「秘密のある舞台ほど、客はよく見るもの」


 ヴァネッサは外した手袋を重ね、視線だけをレオンへ向けた。


「探偵も同じではなくて?」


「舞台と事件を一緒にするな」


「どちらも、見えているものだけでは終わらないわ」


「舞台には台本がある」


「事件にはないと、本当に思っているの?」


 一瞬だけ。


 レオンの指が、便箋の上で止まった。


 ミラベルはその動きを見た。


 ヴァネッサも見ていた。


 彼女は何も付け加えず、窓の外へ顔を向けた。


 舞台には、観客から見えない場所で動く演者と装置がある。


 事件にも、誰かが用意した役割と、見せたい結末があるのかもしれない。


 ただし。


 誰が台本を書いたのかは、まだ分からなかった。


     *


 黒い窓硝子には、夜の平野ではなく、車内にいる者たちの姿が映っていた。


 記録庁のエドガー。


 市警のグレアム。


 ブラス重工商会のモルガ。


 古書店主のリュシアン。


 劇場女優のヴァネッサ。


 新聞記者のミラベル。


 クラウス家の末妹エレノア。


 そして、記録院を追われた探偵。


 一つの式典へ招待された来賓としては、あまりに異なる顔ぶれだった。


 ミラベルも同じことを考えたらしい。


「皆さん、同じ式典へ向かっているんですよね」


「招待状にはそう書いてある」


 エドガーが答えた。


「でも、招かれた理由が違いすぎませんか」


「式典には官吏も、商会主も、記者も、役者も必要だ」


「古文書鑑定人と私立探偵も?」


「探偵については、正式な招待者名簿に記載がない」


 エドガーは資料からレオンへ視線を移した。


「君は自費で乗車している」


「だから何だ」


「招かれていない者が、最も熱心に手紙を読んでいる。興味深い構図だと思っただけだ」


 エレノアが、再びレオンの肩越しへ身を乗り出した。


「では、レオン兄さまだけが、オットー=ヴァールさんに個人的に呼ばれたの?」


「そう書いてあるとは限らない」


 レオンは、便箋の署名を指で軽く叩いた。


「確認できる事実は三つだ。この手紙を書いた者は、俺が今夜クロック=ベルンへ向かう可能性を知っていた。“時計塔”と“十一分”を関連づけた。そして、この一行を読めば、俺が時計塔へ行くと考えている」


 ミラベルが、すぐに手帳を開いた。


「最後は、手紙を書いた人の目的についての仮説では?」


「目的そのものは仮説だ。だが、単なる情報提供なら、保管場所か確認方法を記す。これは問いだけを置いている」


「来て、自分で確かめろと読ませたい文章」


「ああ」


「実際にオットーさんが書いたかも、十一分が何を指すかも、本当に何かが保管されているかも分からない」


「分からない」


 ミラベルは鉛筆を止め、顔を上げた。


「ほとんど何も分かっていませんね」


「ようやく正確な記事が書けそうだな」


「見出しは『探偵、何も分からないまま特別列車へ』で?」


「新聞社へ着く前に破り捨てろ」


「まだ書いていません」


「顔に書いてある」


 ミラベルは笑い、手帳を閉じた。


     *


 そのとき。


 客車後方の扉が、音もなく開いた。


 車輪の響きも、蒸気管の低いうなりも、人々の声も続いている。


 それでも、扉の向こうから現れた者へ、車内の視線が静かに集まった。


 小柄なドワーフだった。


 黒い車掌礼装。


 高い襟。


 磨かれた革靴。


 細身の杖。


 そして、鉄道員の制帽ではなく、深紫の帯を巻いた黒いシルクハット。


 ドワーフとしては細身で、顔立ちは不自然なほど端正だった。


 年齢は若くも見えた。


 古くも見えた。


 微笑んでいるようで、その表情のどこにも親しみはない。


「お切符を拝見いたします」


 声は穏やかだった。


 それだけに、列車の音と馴染まなかった。


 グレアムが眉を寄せた。


「さっき駅員に見せたぞ」


「駅員は乗車を確認いたします」


 男は、白い手袋をした手を差し出した。


「わたくしは、記録を確認いたします」


「同じだろうが」


「同じであれば、照合は必要ございません」


 グレアムは不満そうに鼻を鳴らしたが、内ポケットから切符を取り出した。


 男は真鍮製の検札鋏を開く。


 小さな金属音とともに、切符の端へ見慣れない形の穴が一つ開いた。


 続いて、モルガ。


 リュシアン。


 ヴァネッサ。


 エドガー。


 エレノア。


 ミラベル。


 誰の切符にも、男は同じように鋏を入れた。


 ミラベルは、返された切符を蒸気灯へかざした。


 穴は小さく、列車会社の検札記号にも見える。


 ただし、何を表しているのかは分からなかった。


「どこかでお会いしましたか?」


 ミラベルが尋ねた。


 男はシルクハットの鍔へ指を添えた。


「列車は、多くの方を同じ場所へ運びます」


「それは、会ったという意味ですか?」


「同じ客車に乗ったという意味でございます」


 答えになっているようで、答えになっていない。


 男はミラベルから離れ、最後にレオンの前へ立った。


 レオンは手紙を伏せ、切符を差し出した。


 検札鋏が閉じる。


 カチリ。


 男は、すぐには切符を返さなかった。


 印字された時刻欄へ目を落とし、ゆっくりと読み上げる。


「到着時刻は、午前零時以前」


 車内時計の秒針が進む。


「出発記録では、午前零時以後」


 グレアムが顔を上げた。


 エドガーの手が、式典資料の上で止まった。


 男は切符をレオンへ返しながら、静かに問うた。


「さて。お客様は、どちらの時刻に乗車なさったのでしょう」


 レオンは切符を受け取り、時刻欄を調べた。


 ミラベルも隣からのぞき込む。


 印字は鮮明だった。


 紙に削れはない。


 書き直された痕跡もない。


 だが、男が何を読んだのかは、ミラベルには分からなかった。


「この列車は、午後九時にヴェルム=クロウを出た」


 レオンが言った。


「そのように記録されております」


「クロック=ベルンへの到着予定は、午後十一時三十七分だ」


「そのように予定されております」


「では、午前零時以後の出発記録とは何だ」


 男の微笑が、ほんの少し深くなった。


「わたくしは、時刻欄を読んだだけでございます」


「どの欄だ」


 レオンが切符を裏返した。


 男は答えなかった。


 細身の杖を床へ一度つき、次の車両へ向かって歩き出す。


「待て」


 グレアムが呼び止めた。


「名前は」


 男は振り返らなかった。


「車掌に名は必要ございません」


「報告書には必要だ」


「それでは――」


 黒いシルクハットが、わずかに傾いた。


「エル=ネフリドと」


 扉が閉じる。


 今度は、確かに金属音がした。


 列車の走行音が車内へ戻ってくる。


 誰もすぐには口を開かなかった。


     *


 最初に動いたのは、エレノアだった。


 彼女は自分の切符とレオンの切符を長机へ並べ、検札穴と印字を交互に見比べた。


「同じに見えるわ」


「見た目はな」


 レオンは、二枚の穴を指先でなぞった。


「位置も形も同じだ。印字にも異常はない」


「では、あの車掌が変なことを言っただけ?」


「現時点で確認できるのは、そこまでだ」


 ミラベルは後方扉を見つめた。


「エル=ネフリド……」


 どこかで耳にしたような気がした。


 だが、思い出そうとすると、頭の中で車輪の音だけが大きくなる。


「市警の乗務員名簿を確認させる」


 グレアムが言った。


「式典列車の車掌が、あんなふざけた検札をしとるなら――」


「警部」


 エドガーが静かに遮った。


「今夜の特別列車に、車内検札の予定はない」


 グレアムの顔から、苛立ちだけが消えた。


「何だと」


「来賓は中央駅の専用改札で身元確認を済ませている。警備上、走行中に乗務員が来賓車両へ入る手順もない」


 ミラベルは、自分の切符を握り直した。


「では、今の人は?」


「それを確認するのが警察だ」


 レオンは切符を内ポケットへ収めた。


「追うのか?」


 グレアムが尋ねる。


「今は追わない」


「珍しいな」


「扉の先には警備員がいる。正規の乗務員でなければ、止められる」


「止められなかったら?」


「そのときは、追っても見つからない」


「どういう意味だ」


「まだ分からない」


 レオンはそう答え、ようやく窓の外を見た。


     *


 列車は、いつの間にかヴェルム=クロウの工業外縁を抜けていた。


 煤煙に覆われた空がわずかに開き、平野の遠くへ灯りが点在している。


 鉄道信号塔。


 小さな駅舎。


 夜間操業を続ける工場。


 それぞれの建物に時計があり、それぞれの針が同じ時刻を示していた。


 それらはすべて、今夜から一つの塔へつながれる。


 一つの振子。


 一つの鐘。


 一つの午前零時へ。


「手紙の十一分と、今の車掌の話は関係がありますか」


 ミラベルが、声を落として尋ねた。


「関係があるように見える」


「つまり?」


「関係があるとは、まだ言えない」


「でも、十一分を気にしている」


「十でも十五でもない。時計の目盛りとして美しくもなく、象徴として選びやすい数字でもない」


 レオンは、再び封筒を取り出した。


「実際に十一分あった?」


「可能性はある」


「どこに?」


「それを確かめに行く」


 列車が緩い曲線へ入った。


 窓の向こうで夜の地平が開き、黒い平野の先に、一本の細い影が現れた。


 周囲の建物よりも高く。


 煙突よりも高く。


 雲へ針を突き立てるように伸びる塔。


 クロック=ベルン中央標準時報塔。


 その四面時計は、まだ小さな白い点にしか見えない。


 それでも、列車の窓から見えるすべての時計が、その塔と同じ速さで時を刻んでいることだけは分かった。


 午後九時四十七分。


 午前零時まで、二時間十三分。


 レオンは便箋を折り直した。


 紙の内側へ、一行の文章が隠れる。


> 時計塔には、存在しなかった十一分が保管されている。


 ミラベルは、遠い塔を見たまま尋ねた。


「レオンさんは、この手紙を信じていますか」


「信じていない」


「では、どうして行くんです?」


 レオンは封筒を内ポケットへ戻した。


「存在しなかったものを保管していると書く人間がいる」


 窓硝子に映る彼の目が、遠い時計塔を捉えていた。


「それだけで、確認する理由には十分だ」


 汽笛が鳴った。


 列車は速度を上げる。


 軌条の継ぎ目を越える音が、夜の中で短く連なった。


 カチ。


 ガタン。


 カチ。


 ガタン。


 車内時計の秒針も、同じ歩幅で進んでいく。


 その夜。


 特別列車に乗る誰もが、午前零時へ向かっていた。


 ただし。


 その先に、十二の次の時刻が待っていることを。


 まだ誰も、記録してはいなかった。

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