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第11節 ― 航海したのは記録

 第三十七保税倉庫の中央荷役場に、港を動かす者たちが集められていた。


 夜の運河へ面した三つの荷揚げ口は、すべて閉じられている。


 鉄扉の隙間から入り込む冷たい潮気が、天井近くに漂う蒸気と混ざっていた。停止した荷役クレーンの鎖が、風もないのに、ときおり微かな音を立てる。


 木箱の列。


 税関封印。


 貨物札。


 外国港の印。


 その中央へ長い作業机が置かれ、《灰鷺号》に関する記録が並べられていた。


 船籍簿。


 入港申告書。


 水先人票。


 閘門通過記録。


 船員名簿。


 倉庫受領簿。


 海上損失保険の請求簿。


 三年前の解体記録。


 船籍閉鎖申請。


 そして。


 ユリウス=カーウェンの右手から回収された、灰色の紙片。


 ローデリック=ヴェインは、机の向こう側へ立っていた。


 濃灰色の礼装。


 胸元の青い錨章。


 整えられた銀混じりの髪。


 その両脇には、市警の警官がいる。


 マレク=ソーンは少し離れた木箱の前で俯いていた。


 港湾記録局の責任者。


 税関監督官。


 水上警察官。


 夜間見張り員。


 ハルド=ブレック。


 サヴィナ=ネルド。


 そして。


 黒い鞄を胸へ抱いた、ニア=ロス。


 誰も座ってはいなかった。


 荷役場の奥で、グレアム警部が懐中時計の蓋を閉じた。


「全員揃ったな」


「私は、カーウェン監査官の死について質問へ答えるために来たのです」


 ローデリックが静かに言った。


「港湾局の公開審問へ出席した覚えはありません」


「公開じゃない」


 グレアムは周囲を見回した。


「ここにいる連中は、あんたの船を入港させた者だ」


「私の船?」


「記録の上ではな」


 レオンは机の端に立っていた。


 外套は脱いでいない。


 片手を船籍簿へ置き。


 もう一方の手には、真正な《灰鷺号》の船籍票を持っている。


 ミラベルはニアの隣へ立ち、手帳を胸元へ抱えていた。


「始めましょう」


 レオンが言った。


「まず、一隻の船が港へ入ったことにされた方法から」


 船籍票を机へ置く。


「《灰鷺号》は、港へ来ていない」


 荷役場の空気が止まった。


 遠くで、運河を進む船の霧笛が鳴った。


 夜間見張り員の老人が、険しい顔を上げる。


「わしは、灰鷺号の霧笛を聞いた」


「聞いたことを疑ってはいません」


「船名旗も見た。檣も見た」


「ええ」


 レオンは見張り塔の夜間記録を開いた。


「記録されたのは、霧笛。船名旗。そして、檣と思われる影です」


「なら、船はいた」


「船首を見ましたか」


 老人は黙った。


「舷側。甲板。煙突。航路灯。船尾。船員は?」


「霧の下だった」


「あなたは嘘をついていません」


 レオンは記録を閉じた。


「聞いたものと、見たものを、正確に記録している」


 グレアムが警官へ合図した。


 倉庫奥の防火扉が開かれる。


 二人の警官が、鉄製の台車を押してきた。


 台車の上には。


 煤けた真鍮製の霧笛が載せられている。


 側面には三年前の火災による焼け跡。


 基部には蒸気管へ接続するための太い口金。


 そして。


 解体目録と一致する《灰鷺号》の識別番号。


「ヴェイン海運保険社の保管庫から押収した」


 グレアムが言った。


「事故船の識別物として保管していただけです」


 ローデリックが答える。


「所有していたことは、使用した証拠にはならない」


「そのとおりです」


 レオンは、霧笛に残った新しい工具傷と耐熱油を示した。


「ですが、この霧笛は最近、第三十七倉庫の屋上へ伸びる蒸気管へ接続されています」


 接続部の比較は、すでに終わっていた。


 倉庫側の継手は。


 現在の港湾規格ではなく。


 この古い霧笛へ合わせて作られている。


「倉庫の屋上で鳴らしたのか」


 見張り員の老人が言った。


「ええ」


「外港から聞こえた」


「倉庫壁と水面が、音を何度も返します」


 サヴィナが答えた。


「濃霧の夜なら、近くの倉庫から鳴った音でも、外港側から届いたように聞こえる」


 レオンは荷揚げ口の一つを開かせた。


 冷たい霧が、黒い床を這って流れ込む。


 運河側の外壁。


 第三十七倉庫の脇に、使われなくなった古い固定荷役柱が立っている。


 柱の上部は白い霧へ消え。


 斜めに伸びた鉄柱の先には、旗索が残されていた。


「船名旗は、あそこへ掲げられた」


 ミラベルが言った。


「霧の上へ出た先端だけを、見張り塔から見れば」


「停泊船の檣に見える」


 老人が低く答えた。


 霧笛。


 船名旗。


 檣に見える影。


 すべて、見張り員が証言したとおりに存在した。


 ただし。


 船体には付いていなかった。


「水先人の署名は、過去の票から転写されたものです」


 レオンは二枚の署名票を示した。


「本人は事件当夜、外国航路上にいた」


 港湾記録局の責任者が目を伏せる。


「誰も《灰鷺号》へ乗っていない」


「少なくとも、正規の水先人は」


 夜勤書記が口を開いた。


「ですが、船籍票は受け取りました」


「どこから?」


「記録局前の投函索です」


「誰の手から?」


 書記の唇が止まる。


「見ていません」


「あなたが確認したのは、真正な船籍票が索を通って届いたことです」


「はい」


「本物の船籍票だったから、船体も来ていると判断した」


 書記は、小さく頷いた。


 レオンは船籍票を、閘門通過記録の上へ置いた。


「第六閘門では、真鍮製の船名票が使われました」


 ハルドが太い腕を組む。


「機械が読むのは、裏側の切り欠きだ」


「《灰鷺号》の船名票を差し、空の閘門室で通常の操作を一巡させれば」


 ミラベルが記録を見る。


「機械には、《灰鷺号》が通過したと残る」


「船体は、機械には見えん」


 ハルドが答えた。


「当直者も、霧の夜は操作室で圧力計と水位計を見とる」


「つまり」


 レオンが言った。


「閘門を通ったのは、船体ではありません」


 真正な船名票。


 それだけだった。


 昨夜の偽装通航に使われた真正な《灰鷺号》の船名票は、使用後、共同管理組合側へ戻され、倉庫内の管理箱に保管されていた。


「門は嘘をついとらん」


 ハルドはローデリックを睨んだ。


「霧笛も鳴った。旗もあった。船籍票も船名票も本物だった」


 太い指が机を叩く。


「嘘をついたのは、それらを一隻の船に見せた奴だ」


 ローデリックは穏やかな顔を崩さなかった。


「興味深い推論です。しかし」


 彼は木箱の列を見た。


「貨物は存在する」


「ええ」


「外国港の封印。船荷証券。税関の仮検印。倉庫受領簿。《灰鷺号》が貨物を運んだ記録は揃っている」


「貨物が存在することは、誰も否定していません」


 レオンは倉庫受領簿を開いた。


 午前零時三十二分。


 《灰鷺号》積載貨物、受領。


 木箱四十二。


 封印貨物十八。


 染料樽十二。


 機械部品六梱。


「受領簿が証明するのは、この貨物が第三十七倉庫へ受け入れられたことです」


「《灰鷺号》から、と書かれている」


「船から降ろされた瞬間を見た者はいません」


 荷役人が呼ばれた。


「俺たちが運んだときには、もう荷役台へ置かれていた」


「その前の作業班は」


 グレアムが尋ねた。


「夜間班だと聞いた」


「勤務表には存在しない班番号だ」


 荷役人は、黙って頷いた。


 ニアが黒い鞄を開いた。


 取り出したのは、港湾記録局の紋章も正式番号もない、小さな黒い帳簿だった。


「第二帳簿です」


 倉庫内に、ざわめきが広がった。


「ニア」


 港湾記録局の責任者が声を上げる。


「それを誰の許可で――」


「ユリウス=カーウェン監査官の指示です」


 ニアの声は震えていた。


 それでも。


 帳簿を持つ手は下げなかった。


「提出された時刻ではなく、自分の時計で見た時刻を。伝票にある人数ではなく、実際に来た人を。申告された搬入口ではなく、目で見た入口を記録するように言われました」


 ニアは昨夕の頁を開いた。


「午後四時十分。第三十七保税倉庫。内陸側搬入口」


 貨物番号。


 箱の数。


 封印貨物。


 染料樽。


 機械部品。


 すべて。


 午前零時三十二分の受領簿と一致している。


「灰鷺号の入港処理より、八時間近く前です」


 ミラベルが言った。


「貨物は、すでに内陸側から倉庫へ入っていた」


「見習い計数員の私的な帳面です」


 ローデリックが言った。


「正式な証拠として、どれほどの価値があるか」


「第二帳簿だけではありません」


 グレアムが答える。


 国内製の釘。


 西港荷役組合の新しい縄。


 内陸側搬入口から続く車輪痕。


 箱から剥がれた木屑。


 荷車の使用記録。


 すでに照合された痕跡が、すべて同じ搬入経路を示していた。


「外国港の印章も本物です」


 レオンが言った。


 ローデリックの口元へ、わずかな笑みが戻る。


「ならば――」


「過去の《灰鷺号》貨物に付いていたものです」


 グレアムが、保険会社から押収した海損査定資料を置いた。


 真正な外国港の検品札。


 封印帯。


 航路記号。


 旧資料から欠けた番号は、現在の貨物へ付けられた札とつながっている。


「偽物を作ったのではありません」


 ミラベルが言った。


「本物の封印を、別の貨物へ付けた」


 貨物は存在した。


 船荷証券も。


 封印も。


 受領印も。


 ただ。


 貨物が来た方向だけが、書き換えられていた。


「同じ貨物番号は、もう一つの帳簿にもあります」


 グレアムが、海上損失保険の請求簿を開いた。


 倉庫へ到着した貨物。


 外国航路上で失われたとして、保険金を請求された貨物。


 番号も。


 数量も。


 すべて同じだった。


「一つの貨物を」


 ミラベルが二冊の帳簿を見る。


「港へ到着させながら、海上で失わせた」


「出所の異なる貨物へ、真正な船荷証券を与え、税関記録を作る」


 レオンが言った。


「同時に、海上損失として保険金を請求する」


「貨物一組を、二つの場所へ置いたわけか」


 グレアムが言った。


「記録の上でな」


 ローデリックの表情から、穏やかな笑みが消えていた。


「部署ごとの記録に不一致があったとしても、保険会社だけの責任ではありません」


「だから、《灰鷺号》が必要だった」


 レオンは船籍簿を開いた。


 状態。


 現役。


 船体は、三年前に解体されている。


 船鐘は、錨火横丁の酒場で鳴り。


 救命艇は、漁へ出て。


 主機関は、ギア=ロウの工房を動かしていた。


 三年間の供給記録にも。


 昨夜の航行記録にも。


 船体を扱った痕跡はない。


 別の船体を《灰鷺号》として西港へ入れる、現実的な航行経路も排除されている。


 それでも。


 船籍だけは閉じられていなかった。


「港湾記録局が船籍閉鎖を進めるたび」


 ミラベルが、異議申立書を示した。


「ヴェイン海運保険社が、別の理由で止めている」


 理由は変わっても。


 担当理事は同じだった。


「閉鎖させないこと自体が目的だった」


 レオンが言った。


「船籍が生きていれば、真正な船籍票を使える」


「船荷証券を作れる」


 ミラベルが続ける。


「船員名簿を作れる」


 ニアが言った。


「海上保険を掛けられる」


 グレアムが言った。


「存在しない航海を、何度でも起こせる」


「《灰鷺号》の船体は必要なかった」


 レオンは船籍簿を閉じた。


「記録上、航海を続けられればよかった」


 荷役場に、しばらく機械の軋みだけが残った。


 グレアムが船員名簿へ手を置く。


「次は、人間の記録だ」


 ニアは第二帳簿の頁を戻した。


 昨夕の貨物搬入より。


 何か月も。


 一年以上も前へ。


 それらは、最近。


 ユリウスの指示を受けて、過去の計数札と勤務票から再構成した頁だった。


「この人は、第三十七倉庫の荷分け班です」


 一つの名前。


 勤務日。


 班番号。


「八か月前、倉庫内で荷崩れが起きた日に働いていました」


「公式記録では、欠勤です」


 港湾記録局の責任者が呟いた。


「その二日後」


 ミラベルが《灰鷺号》の船員名簿を開く。


「この人は、臨時甲板員として外国航路へ出たことになっている」


 次の名前。


「北荷役塔のクレーン係」


 事故当夜の計数札には出勤。


 公式事故記録には、死者なし。


 その翌週。


 灰鷺号へ臨時乗船。


 航路上で失踪。


 さらに別の名前。


「第五埠頭の荷役人です」


 ミラベルの指が、名簿の一行を押さえた。


「息子さんは、父親の荷役靴を今も抱えていました」


 爪先へ鉄板の入った重い靴。


 側面には、荷役組合の焼印。


「父さんは船に乗る靴を持っていなかった」


 ミラベルは、少年の言葉をそのまま告げた。


「自分は船へ乗る側ではなく、送り出す側だと話していたそうです」


「家族の記憶は、正式な記録ではない」


 ローデリックが言った。


「ええ」


 ミラベルは頷いた。


「だから照合しました」


 生年月日。


 住所。


 家族の名。


 作業札の番号。


 過去の計数札。


 船員名簿の本人確認欄。


 すべてが、同じ人物を示している。


「架空の名前ではありません」


 ミラベルは言った。


「全員、本当にいた人です」


「実在する名だから」


 レオンが続ける。


「出生記録も、住所記録も、家族記録も照会を通過する」


「違うのは、所属だけ」


 ニアが小さく言った。


「倉庫労働者が船員に。港の事故が、外国航路上の失踪に変えられた」


 グレアムは、船員名簿と勤務記録を並べた。


「港の中で事故死すれば、倉庫会社と荷役組合に補償責任が生じる」


 太い指が、《灰鷺号》の名へ移る。


「だが、事故後に船員として海へ出たことにすれば」


「港内で死んだことにはならない」


 ミラベルが言った。


「家族は、労災補償を請求できない」


「遺体も事故記録も、港には残らん」


 グレアムの声が低くなる。


「海上失踪として処理すれば、倉庫も組合も責任を負わずに済む」


 サヴィナは、ローデリックから目を離さなかった。


「だから家族は」


 声には、抑えた怒りがあった。


「起きてもいない航海から、帰らない人間を待たされた」


「私は、港湾組合の人員記録を管理していません」


 ローデリックが答えた。


「直接の記入者も、偽装入港の実行役も、まだ全員は特定されとらん」


 グレアムが言った。


「霧笛を鳴らした者。旗を上げた者。船籍票を投函した者。船名票を閘門へ差した者。勤務表に存在しない夜間班番号を記した者」


 机上の記録を見渡す。


「どこまでが仕組み全体を知り、どこからが通常業務だと思って動いたのか。そこは、水上警察、税関、港湾局と共同で調べる」


「なら、私の関与も推測にすぎない」


「保険記録は、あんたの管理下だ」


 グレアムが答える。


「船籍閉鎖を止め続けたのも。霧笛と閉鎖書類を管理していたのも。海上損失を承認したのもな」


 ローデリックは黙った。


 やがて。


「港は、船体だけでは動きません」


 低い声で言った。


「船籍。契約。保険。貨物。信用。そのすべてが揃って、初めて一隻の船になる」


「船体以外を揃えたから」


 ミラベルが尋ねた。


「船が来たことにしてよいと?」


「制度上の主体が残っている限り、その船は生きています」


「船体は解体されている」


「登録がある!」


 ローデリックの声が、停止した倉庫へ響いた。


 誰も動かなかった。


 彼自身が、声を荒らげたことに気づいたらしい。


 ゆっくり呼吸を整える。


「一つの事故を正しく処理するために港全体を止めれば、何百人もの仕事が失われる。過去の補償をすべて認めれば、港湾組合は破綻する。保険契約を崩せば、幾つもの商会が倒れる」


「港を守った?」


 ミラベルが尋ねた。


「ええ」


「では」


 グレアムが、灰色の証拠袋へ手を置く。


「港を守るために、カーウェンも殺したのか」


 ローデリックの顔から、わずかな感情も消えた。


「殺人については、何も証明されていません」


「確認しましょう」


 レオンは、ニアへ視線を向けた。


「ユリウスが、この倉庫へ入った時刻は」


「午後六時二十分です」


 ニアは第二帳簿を抱え直した。


「監査用の書類鞄を持ち、内陸側受付から入りました」


 その記録は。


 すでにマレクの供述と一致している。


 グレアムがマレクを見る。


「午後八時四十分。誰が来た」


「ローデリック=ヴェイン理事です」


「どこから」


「裏口です」


「何を持っていた」


「灰鷺号の船籍閉鎖書類です」


 保険会社の夜間受付係も。


 ローデリックが理事室から灰色の書類鞄を持ち出したことを、すでに証言していた。


「私は二人を地下へ案内しました」


 マレクは言った。


「二人だけで話すと言われ、事務室へ戻った。しばらくして、理事だけが裏口から出た。ユリウスは戻らなかった」


「あなたが、その間ずっと事務室にいたことを」


 レオンが言った。


「独立した証拠だけで、完全に保証できているわけではありません」


 マレクの顔が強張る。


「ですが」


 レオンはローデリックを見る。


「地下でユリウスと最後に確認されたのは、あなたです」


「ソーンの証言です」


「それだけではありません」


 港湾医務官が検死記録を開いた。


「死亡推定時刻は、午後八時五十分から九時二十分」


「中心となる推定は九時十分前後。ただし、数分単位の確定ではない」


 グレアムが続ける。


「ローデリックが慈善会館を出たのは、午後八時二十四分」


 会合記録。


「第三十七倉庫へ着いたのは、午後八時四十分」


 マレクと受付係の証言。


「会場へ戻ったのは、午後九時五十六分」


 開会時の挨拶。


 閉会前の署名。


 その間に残った、一時間三十二分の空白。


「時間があったことは、殺人の証明にはなりません」


 ローデリックが言った。


「ええ」


 レオンは証拠袋を取り上げる。


「だから、カーウェンが握っていた物を見ます」


 灰色の耐水紙。


 片側は裁断され。


 もう片側は、不規則に破れている。


 円形圧印の一部。


 船籍閉鎖照合番号の断片。


 縁には。


 保存槽と同じ丁子油、防腐樹脂、藍殻染料が付着していた。


「この紙片は」


 レオンが言った。


「ローデリックが事件当夜に持ち出した、船籍閉鎖照合票の欠落部分と一致しています」


 破断面。


 圧印。


 照合番号。


 すでに終わった比較鑑定が、三つの一致を示している。


「カーウェンは、保存槽へ沈められたとき」


 ミラベルが紙片を見る。


「この書類を握っていた」


「私が持ち込んだというのは、証言にすぎない」


「その書類は、あなたの理事室で管理されていました」


「部下が持ち出した可能性もある」


「事件当夜、あなた自身が書類鞄を持ち出したことを、受付係が見ています」


「持出記録はない」


「ええ」


 レオンは答えた。


「だから、記録だけで判断しているのではありません」


 慈善会館を離れた時刻。


 倉庫へ到着した時刻。


 マレクが二人を地下へ案内した証言。


 ローデリックが船籍閉鎖書類を持っていたこと。


 死亡推定時刻。


 ローデリックだけが地下から戻ったこと。


 ユリウスが戻らなかったこと。


 ユリウスの手に残った、同じ書類の断片。


 その紙片へ付着した、殺害場所の保存液。


「一つずつなら」


 レオンが言った。


「別の説明を考えることはできます」


 ローデリックは何も言わない。


「しかし、すべてを同時に説明しながら、あなたを地下の出来事から外す合理的な経路は残っていません」


「状況証拠です」


「そうです」


 レオンは否定しなかった。


「複数の状況証拠が、互いを補強しています」


 グレアムが、ローデリックの正面へ立った。


「ソーンの嘘は崩れた。あんたの慈善会アリバイも崩れた。会っていないという主張も、書類と紙片で崩れた」


 指を一つ立てる。


「殺害場所」


 二つ目。


「死亡時刻」


 三つ目。


「最後の面会」


 四つ目。


「その時間のアリバイの空白」


 五つ目。


「被害者が握っていた、あんたの書類」


 最後に。


「その紙に付いた、殺害場所の保存液」


 ローデリックは、何も答えなかった。


「全部が偶然だと言うなら」


 グレアムの声は低かった。


「それに代わる、筋の通った説明を出せ」


 沈黙。


 ローデリックは。


 机上の灰色の紙片を見つめただけだった。


 レオンは地下へ続く鉄扉へ向かった。


「死体が運河へ出た経路も、確認しておきます」


 全員が、赤煉瓦の階段を下りた。


 冷たい湿気。


 丁子油の甘く鋭い匂い。


 藍色の保存槽。


 床は、槽から三歩先の大型洗浄排水渠へ向かって緩やかに傾いている。


 内側格子の固定金具には、新しい工具傷。


 水路の内側からは。


 保存室の床泥。


 藍殻繊維。


 そして、ユリウスの外套と一致する黒色繊維が採取されていた。


「ユリウスの死体は」


 グレアムが言った。


「保存槽から、この排水渠へ入れられた」


 レオンは、暗い水路の奥を見る。


 大型洗浄排水渠は。


 上流運河の外口へ続いている。


 外口の近くで。


 死体は発見された。


「海から流れてきたのではありません」


 レオンが言った。


「第三十七倉庫の地下から、短い排水路を通っただけです」


「だから」


 ミラベルは、事件の始まりを思い返した。


「運河を遡っていない」


 水は。


 事件の夜も。


 死体が見つかった朝も。


 上流から海へ向かって流れていた。


 異常な逆流など、一度も必要なかった。


 死体が外口の格子から外れた正確な時刻と、水量の変化については。


 運河管理局と倉庫側の記録照合が、なお続いている。


 だが。


 死体が海から複数の閘門を遡ったという不可能は。


 すでに消えていた。


 レオンは保存槽の前で振り返った。


「灰鷺号は、港へ来ていない」


 その声が、赤煉瓦の壁へ反響する。


「ユリウスも、海から来ていない」


 霧笛は倉庫で鳴り。


 檣は岸へ固定され。


 船籍票は投函索を通り。


 船名票だけが閘門を通った。


 貨物は内陸側から運ばれ。


 死体は倉庫地下から、上流運河へ出された。


 船も。


 死体も。


 水の上を、語られたほどの距離は進んでいない。


「船と死体を運んだのは、水ではない」


 レオンは、階段の上へ視線を向けた。


 船籍簿。


 入港申告書。


 船荷証券。


 船員名簿。


 倉庫受領簿。


 保険証書。


 物と人間の出発地点を。


 別の場所へ移した紙が並んでいる。


「記録だ」


 しばらく。


 大型洗浄排水渠を流れる水音しか聞こえなかった。


 ローデリックは、やがて小さく息を吐いた。


「あなた方は、港を理解していない」


 声は再び穏やかになっていた。


「貨物を一つ止めれば、工場が止まる。過去の労災をすべて認めれば、港湾組合は補償で破綻する。保険契約を崩せば、幾つもの商会が倒れる」


「だから、港の中で死んだ人間を海へ出した?」


 ミラベルが尋ねる。


「損失を整理したのです」


「人間を?」


「港全体を守るために」


「ユリウスさんも」


 ローデリックは答えなかった。


「あなたが守ったのは、港ではありません」


 マレクが顔を上げていた。


 声は震えている。


 それでも。


 ローデリックから目を逸らさなかった。


「港から利益を受け取る者の記録だ」


 ローデリックの目から。


 最後の穏やかさが消えた。


 グレアムが警官へ合図する。


「ローデリック=ヴェイン」


 警官たちが、両側から腕を取った。


「ユリウス=カーウェン殺害の容疑。船籍記録改竄。保険金詐欺。税関記録偽装。労働災害記録の隠蔽」


「正式な令状は」


「殺人容疑で身柄を押さえる。残りの令状は、今ごろ市警本部で束になっとる」


 グレアムは、ローデリックの胸元の青い錨章を見る。


「港を守ったという話は、法院で好きなだけしろ」


 警官はローデリックの両手へ拘束具を掛けた。


 ローデリックは抵抗しなかった。


 だが。


 階段の上へ並ぶ貨物箱と。


 壁際の油灯へ。


 ほんの一瞬だけ、視線を向けた。


 レオンだけが、その動きを見ていた。


「警部」


 低く呼ぶ。


「油灯を遠ざけてください」


 グレアムが振り返る。


 その瞬間。


 倉庫の外で、警笛が鋭く鳴った。


 押収部隊が到着した合図。


 地上階で大勢の靴音が重なり。


 封鎖された荷役場が、一時に騒がしくなる。


 ニアは第二帳簿を胸へ抱いたまま動かなかった。


 ミラベルが隣へ立つ。


「これで、名前を戻せます」


「全部、戻せますか」


「すぐには無理です」


 ミラベルは正直に答えた。


「でも、《灰鷺号》へ乗ったままにはさせません」


 ニアは、小さく頷いた。


 遠くで。


 本物の船の霧笛が鳴った。


 船体が水を押し。


 機関が動き。


 船員が甲板へ立ち。


 水面へ、確かな航跡を残している。


 《灰鷺号》だけが。


 一滴の水も押し退けることなく。


 三年間。


 紙の上を航海していた。

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