第12節 ― 灰鷺号、最後の出港
地下保存室から地上へ戻ったとき。
第三十七保税倉庫の中央荷役場では、押収作業が始まっていた。
警官たちが、封印済みの証拠箱を外へ運び出している。
ユリウスの手に残っていた灰色の紙片。
船籍閉鎖関係書類。
保存液の鑑定試料。
保険証書と貨物記録。
それらはすでに、鉄張りの証拠運搬車へ収められていた。
ニアの第二帳簿も、彼女自身が胸へ抱いたまま、出口近くまで移動している。
長机へ残されていたのは。
照合に使った写し。
船員名簿の副本。
未整理の受領綴り。
これから押収番号を付ける書類だった。
「この箱も外へ!」
「封印番号を確認しろ!」
「税関側の立会署名が足りん!」
市警と税関吏の声が飛び交う。
ローデリック=ヴェインは、二人の警官に挟まれて階段を上がった。
狭い地下通路で転倒しないよう、拘束された両手は身体の前へ回されている。
階段を出たところで。
一人の警官が、証拠運搬車の受領票へ署名するため呼ばれた。
もう一人も、通路を塞いだ木箱を動かそうと、ほんの一歩だけローデリックから離れる。
その一瞬。
ローデリックが動いた。
壁際の照合台。
封蝋を温めるため、一つだけ残されていた油灯。
拘束された両手で柄を掴み。
長机へ向けて投げつける。
「伏せろ!」
グレアムの声と同時に。
硝子が砕けた。
油が飛び散り。
青白い炎が、船員名簿の写しへ走った。
最初に燃えたのは。
人間の名前だった。
「防火弁を開けろ!」
「消火班を呼べ!」
「ヴェインを押さえろ!」
警官がローデリックへ飛びかかる。
だが彼は、拘束具の鎖を胸元へ引きつけたまま身体を捻り。
炎へ書類の束を蹴り込んだ。
燃えた頁が舞い上がる。
船荷証券。
保険記録。
船員名簿。
灰色の紙が、炎の鳥となって木箱の間へ散った。
乾いた荷札へ火が移る。
梱包藁が燃え上がる。
香料油の箱が熱せられ、濃い匂いを吐き出した。
天井近くで警報鐘が鳴る。
がん。
がん。
がん。
「天井弁、開放!」
マレクが壁の防火レバーへ飛びついた。
太い取っ手を両手で引き下ろす。
天井を走る消火管から弁が外れ。
大量の水が、燃え始めた荷役場へ落ちた。
蒸気と煙が一度に膨れ上がる。
ローデリックへ手を伸ばした警官の視界を。
白い蒸気が塞いだ。
「水路側の防火戸を閉じろ!」
「香料区画を切り離せ!」
倉庫消火班が、濡れた防火外套を着て駆け込んできた。
赤い腕章を付けた班長が、消火筒と蒸気ポンプを振り分ける。
運河側からは、低い警笛が続けて鳴った。
港湾消防艇が二隻。
倉庫外壁へ横づけし。
高圧放水管から、屋上と荷揚げ口へ白い水柱を叩きつける。
「証拠は!」
グレアムが怒鳴った。
「主要証拠は外です!」
警官が答える。
「灰色の紙片、閉鎖書類、鑑定試料、保険記録は証拠車へ移送済み!」
「第二帳簿もあります!」
ミラベルはニアの肩を抱き、出口へ押した。
「ニアさん。帳簿を持って外へ!」
「でも、名簿が――」
「原本と押収資料は外です!」
「まだ、棚に昔の記録が」
「消火班が残っています。あなたは、その帳簿を守ってください!」
警官がニアを引き受ける。
その背後で。
グレアムが振り返った。
「ヴェインはどこだ!」
先ほどまでローデリックを挟んでいた警官たちが、煙の中を見回した。
拘束具は、床へ落ちていない。
鍵も壊されていない。
ローデリックは、両手を身体の前へ拘束されたまま。
火と水。
煙。
荷役人と警官が交差する混乱の中へ、姿を消していた。
レオンは床へ目を落とした。
砕けた油灯。
燃える紙。
天井から落ちる水。
その中を。
油を踏んだ黒い靴跡が、右端の荷揚げ口へ続いている。
途中。
共同管理組合の管理卓に置かれていた、小さな保管箱の蓋が開いていた。
昨夜の偽装通航に使用されたあと。
回収されず、共同管理組合側の管理棚へ戻されていた。
真正な《灰鷺号》の船名票を収めていた箱だった。
「警部。右です」
グレアムは確認を求めなかった。
「倉庫消火班は残れ! 市警第二班は証拠車を守れ!」
水上警察官へ怒鳴る。
「残りは荷揚げ口へ!」
消火を放棄した者はいなかった。
炎へ向かう者と。
逃走者を追う者が。
その場で明確に分かれた。
レオンとミラベルは、グレアムに続いて煙の中へ入った。
「先生」
ミラベルが咳き込みながら言った。
「火事の最中に、床を見ていたんですか」
「上を見ても、煙しかありません」
「今は説明より急いでください!」
右の荷揚げ口は開いていた。
冷たい霧が、倉庫の煙を水路側へ吸い出している。
水面へ下りる鉄階段の先で。
小型蒸気艇の機関が、甲高く唸っていた。
黒い船体。
細い煙突。
一人で操船できる、速度を優先した港内連絡艇。
ヴェイン海運保険社の所有艇だった。
火災時の連絡と人員退避に使うため、警報後に倉庫の水路側へ回され。
すぐ出航できるよう、蒸気を保ったまま係留されていた。
機関員は警報を受け、消火班の誘導へ走っている。
その無人になった操舵台で。
ローデリックは拘束された両手を操舵輪へ掛け、蒸気弁を全開へ回していた。
短い鎖が。
真鍮の輪へ当たり、乾いた音を立てる。
その船首には。
一枚の古い船名板が取り付けられていた。
片側へ残る火災の焦げ跡。
外された古い金具の穴。
灰色の塗装。
白く刻まれた名。
《灰鷺号》。
「保険会社の保管庫から消えていた船名板です」
ミラベルが息を呑んだ。
「寸法と焼け跡が一致します」
レオンが答えた。
「止まれ、ヴェイン!」
グレアムが鉄階段から身を乗り出す。
ローデリックは拘束された両手で、係船索を留める解放レバーを引いた。
金具が外れ。
小型蒸気艇は船尾を大きく振り、黒い運河へ躍り出る。
水飛沫が石壁を打った。
船首へ無理に取り付けられた船名板が震え。
霧の中へ、《灰鷺号》の名だけを浮かび上がらせる。
三年前に解体された船。
船鐘は酒場へ。
救命艇は漁師へ。
機関は工房へ。
船体を失い、紙の上だけを航海していた船が。
いま。
初めて水を押し退けていた。
「存在しなかった船が……」
「船体を得た」
レオンが言った。
「別の船体を、です」
ローデリックが操舵台の弁を引いた。
甲高い汽笛が霧を裂く。
長音。
短音が二つ。
間を置いて、もう一度長音。
《灰鷺号》の登録信号だった。
ただし。
保険会社から押収された本物の大型霧笛は、証拠車の中にある。
逃走艇が鳴らしたのは。
同じ符号を発する、小型汽笛にすぎなかった。
声色が違っても。
記録上の呼び方は同じだった。
蒸気艇は上流側の水路を、第六歯車閘門へ向かって加速する。
グレアムは、隣の水上警察艇へ飛び乗った。
「機関を掛けろ!」
濃紺制服の警官が叫び返す。
「これは水上警察の艇です!」
「今から共同捜査だ!」
「指揮権は!」
「逃げた殺人容疑者に聞け!」
警察艇の汽笛が鋭く鳴る。
外輪が水を叩き。
艇は《灰鷺号》を追って霧へ飛び込んだ。
「正面からでは間に合わない」
別の荷揚げ口から、サヴィナの声がした。
《翡翠燕》が、消防艇の放水を避けながら滑り込んでくる。
船長台にはサヴィナ。
船首ではハルドが、濡れた係船索を手にしていた。
「乗って!」
レオンとミラベルは階段を下りた。
甲板へ飛び移る。
《翡翠燕》は、二人の足が着くと同時に岸を離れた。
サヴィナは倉庫と倉庫の間へ舵を切る。
「警部と反対です!」
ミラベルが叫ぶ。
「表水路は曲がっている」
「裏水路なら、第六閘門の管理桟橋へ先回りできる」
ハルドが答えた。
《翡翠燕》は、正規の航路灯もない細い水路へ入った。
両側の煉瓦壁が迫る。
頭上を蒸気管が横切り。
低い鎖橋が、霧の中から現れた。
「伏せて!」
四人が一斉に頭を下げる。
橋の鎖が、操舵室の屋根すれすれを通過した。
船尾の蒸気が壁へぶつかり。
白い霧となって跳ね返る。
「ローデリックは、第六閘門から外港へ出るつもりよ」
サヴィナが言った。
「門を開けられるのか」
ミラベルが尋ねる。
「共同管理組合の理事なら、非常開門の位置を知っとる」
ハルドの顔が硬い。
「事故船を閘門室から逃がすため、非常蓄圧槽が備えられとる」
「主蒸気を止めても?」
「蓄圧槽に残った分だけは動く」
「では、下流門を開けられたら」
「外港へ出る」
サヴィナが答えた。
「霧の海で、小型艇一隻を探すのは難しい」
裏水路の先へ。
第六歯車閘門の管理塔が見えた。
サヴィナは腰の防水筒へ手を入れる。
取り出したのは。
細長い真鍮製の船名票だった。
表には、《翡翠燕》。
裏側には。
機械が船籍を読むための切り欠きと、真鍮突起が並んでいる。
「これを」
サヴィナはレオンへ差し出した。
「《翡翠燕》の正式通過票です」
レオンが受け取る。
「あなたは?」
「裏水路から、下流門の外へ回る」
「また廃止水路を使うんですか」
ミラベルが言った。
「処分は、あとでまとめて受けるわ」
「数が増えれば、まとめても減りません」
レオンが答えた。
「その説明は警部にして」
《翡翠燕》が管理桟橋へ接近する。
レオンとミラベル、ハルドが飛び降りた。
サヴィナは舵を切り返し。
そのまま、下流側へ続く裏水路へ消えていく。
ハルドは短い脚で石段を駆け上がった。
管理棟の中では、当直者たちが非常閉鎖の準備を始めている。
「上流水門は」
「開いたままだ!」
当直者が答える。
「通常通航の待機状態です!」
「奴が入ったら閉じる!」
ハルドは主操作盤へついた。
上流側。
下流側。
二つの船名票差込口。
その上では、赤い信号灯が霧の中へ滲んでいる。
遠くから。
甲高い小型汽笛。
警察艇の警笛。
蒸気機関の連続した唸りが近づいてきた。
「来ます!」
ミラベルが窓へ駆け寄った。
霧を切り裂き。
船首へ《灰鷺号》の名を掲げた小型蒸気艇が現れる。
後方では、グレアムの乗った警察艇が水飛沫を上げていた。
ローデリックは、拘束された両手の間に挟んでいた灰色の真鍮票を取り出した。
共同管理組合の管理箱から持ち出した。
真正な《灰鷺号》の船名票。
上流側の船名票投函索へ放り込む。
索が回り。
真正な票が、上流側の差込盤へ落ちた。
機械が、その裏面の切り欠きを読む。
かちり。
表示窓に。
《灰鷺号》。
の名が現れた。
「閘門を閉じろ!」
拡声筒から、グレアムの声が飛ぶ。
ローデリックは速度を落とさない。
開いた上流水門へ、小型艇を真っ直ぐ突っ込ませた。
黒い船体が、閘門室へ飛び込む。
「今だ!」
ハルドが閉門レバーを引いた。
巨大な歯車が回る。
黒鋼の門扉が、低い轟音とともに動き始めた。
警察艇も追って入ろうとする。
「止まれ!」
グレアムが操舵手へ怒鳴った。
「門に挟まれるぞ!」
警察艇が、上流水門の直前で船足を止める。
門扉が閉じ。
二枚の黒鋼が中央で噛み合った。
《灰鷺号》を名乗る小型艇は。
閘門室へ封じられた。
ローデリックは操舵輪を放した。
拘束された両手を鉄梯子へ掛け。
身体を引き上げる。
閘門壁へ設置された、赤い非常操作箱へ走った。
「非常開門だ!」
ハルドが叫ぶ。
ローデリックは両手を拘束する鎖へ封印線を引っ掛け。
身体ごと後ろへ引いた。
封印線が切れる。
内部の赤いレバーを、両手で押し倒した。
ごうん。
閘門塔の下で。
非常蓄圧槽が、溜めていた蒸気を放つ。
主操作盤とは別の配管を通り。
下流水門の歯車へ圧力が掛かった。
門の中央から水が噴き出す。
「主蒸気弁を閉じても止まりません!」
ミラベルが言った。
「蓄圧槽が空になるまで動く!」
ハルドが操作盤へ手を伸ばす。
だが。
レオンの方が先だった。
サヴィナから受け取った真鍮票を。
下流側の差込口へ挿し込む。
表には。
《翡翠燕》。
裏には。
真正な船籍を示す、機械符号の切り欠き。
票が奥まで入る。
かちり。
上流側から。
《灰鷺号》。
下流側から。
《翡翠燕》。
二つの真正な通航要求が、同じ閘門へ入った。
次の瞬間。
操作盤の内部で、警告鐘が鳴り響いた。
がん。
巨大歯車へ、鋼鉄の安全爪が落ちる。
閘門塔全体が震えた。
下流水門の動きが。
ぴたりと止まる。
ローデリックが非常レバーを引く。
一度。
二度。
非常蓄圧槽は唸り続けている。
それでも、門は動かない。
「非常開門より」
ミラベルが息を呑む。
「衝突防止装置が優先される」
「蓄圧槽は、歯車へ力を送るだけだ」
ハルドが言った。
「安全爪が歯を物理的に止めれば、どれだけ圧力を掛けても動かん」
ローデリックは非常操作箱を殴った。
拘束具が鉄板へ当たり、甲高い金属音を立てる。
反応はない。
蒸気艇へ戻り。
両手で機関弁を限界まで開く。
船首を下流水門へ向けた。
激突。
黒鋼門が、腹へ響く音を立てる。
小型艇の船首だけが跳ね返された。
門は揺らがない。
「門は嘘をつかん!」
ハルドが管理棟の窓から怒鳴った。
「上と下から二隻来た! 差された票のとおりに止まっとる!」
ローデリックは艇を後退させる。
二度目の衝突を試みようとする。
そのとき。
下流水門の外側。
白い霧の中から、《翡翠燕》が姿を現した。
裏水路を抜けたサヴィナが、門の中央へ船を横づけする。
上流には警察艇。
下流には《翡翠燕》。
前後を黒鋼門へ塞がれた閘門室。
逃げられる水路は、どこにもなかった。
グレアムが警察艇の船首へ立つ。
「ローデリック=ヴェイン!」
声が石壁へ反響した。
「機関を止めろ!」
「何の権限で」
ローデリックは操舵室から答えた。
濃灰色の礼装は濡れ。
銀混じりの髪は乱れ。
あれほど整っていた紳士の姿は、もう残っていなかった。
「船籍も、船も、貨物も、契約も、すべて私の管理下にある!」
「人間まで所有した覚えでいるのか!」
グレアムが怒鳴り返す。
上流の霧が、赤く染まっていた。
第三十七倉庫の屋根から、まだ黒煙が上がっている。
だが。
その周囲では。
港湾消防艇の放水が、絶えず屋根と窓へ叩きつけられていた。
倉庫消火班も。
市警の証拠保全班も。
現場へ残っている。
火災は広がりを止められつつあった。
ローデリックは、その煙を見た。
「あなた方には分からない」
彼は低く言った。
「記録を失えば、船は死ぬ。契約を失えば、港が崩れる」
「違います」
ミラベルが管理棟の窓際へ立った。
「第二帳簿は、もう倉庫の外です」
ローデリックの目が動いた。
「灰色の紙片も。船籍閉鎖書類も。保険記録も。鑑定試料も」
「一部が残っただけだ」
「それで充分です」
ミラベルは、霧の向こうの倉庫を見る。
「それに、記録が焼けても、人がいなかったことにはなりません」
「記憶は契約にならない」
「あなたの船より確かです」
警察艇から。
二本の係船索が閘門室へ投げ込まれた。
警官たちが、黒鋼門の点検梯子を下り始める。
ローデリックは機関を後退へ入れた。
だが。
狭い閘門室では、方向を変える余地もない。
警官が小型艇へ飛び移る。
ローデリックは、拘束された両手で操舵棒を振り上げた。
最初の警官が腕で受ける。
続いて飛び込んだグレアムが。
ローデリックの身体ごと、操舵台へ叩きつけた。
「離せ!」
「ろくに寝ていない警部を怒らせた報いだ!」
グレアムは、ローデリックの前に掛かった拘束具の鎖を掴んだ。
両腕を背中側へ回し。
拘束具を背後の位置で掛け直す。
さらに。
肘の上へ、輸送用の拘束帯を追加した。
「ローデリック=ヴェイン」
金属音が鳴る。
「ユリウス=カーウェン殺害。放火。証拠隠滅。逃走」
ローデリックが荒い息を吐く。
「船籍記録改竄。保険金詐欺。関税記録偽装。労働災害記録の隠蔽」
「まだ裁判も――」
「全部、容疑だ」
グレアムは拘束具を引いた。
「だから、法院まで生きて行け」
警官が機関弁を閉じた。
小型蒸気艇の圧力が抜ける。
長い噴気音が、閘門室へ満ちた。
機関の振動が止まり。
波が船首へ戻る。
その揺れで。
無理に取り付けられていた古い船名板の金具が、一つ外れた。
木板が傾く。
船体へ一度ぶつかり。
黒い水面へ落ちる。
《灰鷺号》。
板は、しばらく文字を上へ向けたまま浮かんでいた。
船体から離れ。
所有者から離れ。
閉じられなかった船籍からも。
最後の航海からも切り離されて。
閘門室の小さな波に押され。
ゆっくりと回る。
白い文字が、水面へ伏せられた。
存在しなかった船が。
初めて得た船体は。
ただの小型蒸気艇へ戻った。
水に残ったのは。
一枚の船名板だけだった。




