第8節 ― 海水ではない水
第三十七保税倉庫の事務室は、臨時の鑑定室に変わっていた。
夜の運河へ面した窓には、細かな雨が斜めに打ちつけている。
貨物用高架線を、黒い列車が倉庫の壁を震わせながら通過した。
車輪の音が遠ざかると。
封鎖された荷役機械の軋みと、地下から響く排水の音だけが残った。
机の上には、三本の硝子瓶が並んでいる。
一つは。
ユリウス=カーウェンの肺と気管から回収された液体。
一つは。
地下の藍殻染液保存槽から採取された保存液。
そして、もう一つは。
外港で採取された海水だった。
三本の口には、市警、港湾医務官、税関の印が押された封蝋が残っている。
「これだけ印があれば、水も逃げられんな」
グレアム警部が言った。
壁際に立つ港湾医務官は、冗談として受け取らなかった。
「採取後、誰も開封していません。肺内試料は私が封じました」
「疑っとらん」
「先ほどから、疑っているような言い方を」
「疑っとらんと言っただけで、信用しとるとは言ってない」
「警部」
ミラベルが間へ入った。
「始める前から、立会人を減らさないでください」
「減らしとらん。怒らせただけだ」
「それを減らしていると言うんです」
レオンは三人の会話を聞かず、瓶の封蝋を片眼鏡越しに調べていた。
封蝋の縁。
印章の欠け。
記録札。
採取場所。
採取時刻。
一つずつ照合する。
「封印に異常はありません」
「最初から、そう言っています」
医務官が答えた。
「あなたの言葉ではなく、封印を確認しました」
「同じことでしょう」
「違います」
「何が」
「封印は、確認されても感情を害しません」
医務官が口を開いたまま止まった。
ミラベルは手帳へ顔を伏せる。
笑ったと悟られないためだった。
「先生」
「何です」
「続けてください」
レオンは小型の封蝋切りを取り出した。
肺内試料。
保存槽の液体。
外港海水。
三本を順に開封する。
肺から回収された液体は、ほとんど無色に見えた。
光へ透かせば、わずかに青灰色を帯びている。
保存液は、それより濃い藍色。
瓶の底には、細かな沈殿物が溜まっていた。
外港海水は薄く濁り、微細な黒い浮遊物を含んでいる。
「見た目は、全部違いますね」
ミラベルが言った。
「肺へ入った液体は、体液によって薄まっています。時間の経過による変化もある」
レオンは答えた。
「色だけでは比較できません」
「何から調べるんです?」
「塩分と、保存成分の比率です」
机には、三本の細長い測定筒と、真鍮軸の比重計が用意されていた。
レオンは試料を同量ずつ移し、比重計を浮かべる。
液面で細い軸が揺れた。
ミラベルが身を乗り出す。
「止まりました」
「液温が違います」
レオンは温度計を確認した。
「同じ条件へ揃えなければ、数値を比較できません」
「同じ目盛りでも?」
「温度が違えば、同じ濃度とは限らない」
ミラベルは、手帳へ書きかけた一行を消した。
「今、断定しかけましたね」
「途中でした」
「何と」
「塩分濃度が一致する可能性、と」
「可能性まで記録する必要はありません」
「あとから先生が、私は断定していないと言うからです」
「言います」
「だから書いています」
グレアムが腕を組んだ。
「塩水より細かい連中だな」
三本の測定筒を、同じ温度の水を張った金属槽へ入れる。
温度が揃うまでの間。
レオンは、港湾医務官から渡された検死記録へ目を通した。
「死亡推定時刻は」
「午後八時五十分から九時二十分の間」
医務官が答えた。
「複数の所見を合わせれば、午後九時十分前後が最も可能性が高い」
「根拠は」
「深部体温。死斑。硬直の進行。胃の内容物。それから、肺へ入った液体の状態です」
医務官は一度言葉を切った。
「ただし、保存液への浸漬と、その後の水中遺棄があります。九時十分というのは中心となる推定であって、数分単位まで確定できるという意味ではありません」
「範囲は八時五十分から九時二十分」
ミラベルが確認する。
「ええ」
「保存液へ沈められた時点で、生きていた?」
「呼吸は残っていました」
医務官は机の瓶へ目を向けた。
「肺胞の奥まで液体が入っている。死後に遺体を槽へ入れただけでは、同じ状態にはなりません」
「意識は」
「頭部に打撃痕があります。気絶していた可能性は高い」
「ですが」
ミラベルの鉛筆が止まる。
「保存槽へ沈められた時点では、生きていた」
「ええ」
事務室に、雨の音が満ちた。
レオンは記録を閉じる。
「死因は溺死」
「正式に断定できます」
医務官が言った。
「どの液体で溺れたかは、これからです」
三本の測定筒を金属槽から取り出す。
再び比重計を浮かべた。
肺内試料と保存液は、近い位置で止まる。
外港海水だけが、わずかに異なっていた。
「塩分は同じですか」
ミラベルが尋ねる。
「肺内試料は、体液によって薄まっています」
レオンは数値を記録した。
「単純な濃度では比較できない。塩分に対して、ほかの成分がどの割合で含まれているかを見ます」
保存液に含まれる塩分量を基準として。
丁子油。
防腐樹脂。
染料成分。
それぞれがどの程度薄まったかを測る。
肺内試料は、全体として保存液より薄い。
だが。
塩分に対する丁子油と防腐樹脂の割合は、鑑定器具の誤差範囲内で一致していた。
「同じ液体が、体内で薄まったような比率です」
ミラベルが言った。
「その説明と矛盾しません」
レオンが答える。
「外港海水は?」
「塩分はあります。丁子油と防腐樹脂は検出されていません」
レオンは肺内試料を浅い硝子皿へ移した。
別の皿へ保存液。
三枚目には外港海水。
細い試験紙を浸し、真鍮板の上へ並べる。
下から弱い熱を加えた。
水分が蒸発するにつれ。
事務室へ匂いが立つ。
塩気。
湿った樹脂。
そして。
甘く、鋭い香り。
ミラベルが顔を上げた。
「丁子油」
「どちらからだ」
グレアムが尋ねる。
「肺の水と、保存液です」
ミラベルは三枚の試験紙を順に確かめた。
「外港海水からは、しません」
レオンは二枚の試験紙を別々の封筒へ収めた。
「肺内試料と保存液の双方に、同じ種類の丁子油が含まれています」
「港で丁子油は珍しくない」
医務官が言った。
「市場にも薬品庫にもある」
「だから、次を見ます」
レオンは三つの試料を細かな濾紙へ通した。
外港海水の濾紙には。
細かな貝殻砂。
黒い藻の裂片。
煤と石炭粉。
剥がれた船底塗料の青緑色の粒が残った。
肺内試料には、そのどれもない。
代わりに残ったのは。
細い青黒い繊維。
薄い層を重ねたような表面。
不規則に毛羽立った縁。
レオンは濾紙を小型の拡大装置へ挟んだ。
「見てください」
ミラベルがレンズを覗く。
青黒い繊維の表面には、貝の組織を削ったような細かな層が重なっていた。
「海藻ではない?」
「藍殻貝の外套膜から剥がれた繊維です」
レオンは保存液の濾紙へ交換した。
同じ色。
同じ形。
同じ層状の構造。
繊維の端には、琥珀色の膜が付着している。
「形状と表面構造が一致しています」
「外港には?」
「藍殻貝は生息していません」
ミラベルが答えた。
「輸入された染料原料です」
レオンは透明な溶剤を取り出した。
肺内試料と保存液を、別々の試験管へ入れる。
数滴ずつ加えると。
二本の液体が白く曇り。
やがて、琥珀色の沈殿が糸を引きながら底へ落ちた。
外港海水には、同じ反応が起こらない。
「防腐樹脂」
ミラベルが言った。
「保存槽へ加えられていたものと同じ反応です」
机の上には。
塩分と保存成分の組成比。
丁子油。
藍殻繊維。
防腐樹脂。
四つの一致が並んだ。
外港海水にあるのは、塩分だけだった。
反対に、海水へ含まれていた貝殻砂、黒藻、船底塗料、石炭粉は、肺内試料から見つからない。
「もう、偶然では説明できませんか」
ミラベルが尋ねる。
「同じ組成の保存液が、外港に偶然存在したのでなければ」
「先生」
「存在しません」
レオンは試験管を台へ戻した。
「カーウェンの肺へ入っていたのは、海水ではない」
雨の向こうで。
歯車運河の水が、倉庫の煉瓦壁へ打ちつけた。
「藍殻染液の保存液です」
港湾医務官は、肺内試料の瓶を見つめていた。
最初に海水だと考えられた液体。
塩分を含み。
海藻に見える繊維を持っていた。
観察されたものは、本物だった。
ただ。
その所属先だけが違っていた。
「ユリウスさんは、保存槽の中で液体を吸った」
ミラベルが言った。
「生きた状態で沈められた」
医務官が答える。
「意識はなかったかもしれません。ですが、呼吸は残っていた」
グレアムの拳が、机の端で固くなる。
「殺害場所は、地下の保存室か」
「少なくとも」
レオンは、第三十七倉庫の保存液が入った瓶を示した。
「この保存液と同じ調合の槽です」
「同じ設備を持つ倉庫は」
「税関に照会中です」
「それでも、この倉庫を示す証拠はほかにもある」
グレアムは、机の隅へ置かれた鑑定報告を取り上げた。
ユリウスの靴底から採取した赤い粉。
第三十七倉庫の地下階段から採取した赤煉瓦粉。
二つを市警の鑑定室で比較した結果だった。
レオンが報告書を開く。
「赤い粘土と焼成粒子の比率が一致しています」
「それだけか」
「煉瓦へ混ぜられた黒鋼炉滓の微粒子」
黒い砂状の欠片。
「壁面へ塗られた防湿剤の結晶」
針のように細い透明な粒。
「それぞれの含有比率も、鑑定誤差の範囲内で一致した」
「同じ材料を使った煉瓦は、ほかにもあるんじゃないですか」
ミラベルが尋ねる。
「同じ煉瓦だけなら」
レオンは報告書を閉じた。
「黒鋼炉滓と、後年に塗られた防湿剤の組合せまで一致する地下区画は、第三十七倉庫の改修記録以外に確認されていません」
「ユリウスさんは、この地下へ入っていた」
「靴底の粉は、そう示しています」
グレアムが次の報告書を机へ置いた。
「大型洗浄排水渠は?」
「内側格子へ、新しい工具傷」
警官が答えた。
「格子の下部から、藍殻繊維と保存室の床泥を採取しました。排水渠の奥にも、同じ泥が続いています」
「それだけか」
「黒色の繊維も見つかりました」
警官は、封印された硝子板を机へ置いた。
細く。
水と泥によって潰れた、黒い織物繊維。
「カーウェンの外套から採った対照試料と比較しました。糸の太さ、撚り、染料、表面の摩耗状態が一致しています」
ミラベルが硝子板へ目を落とす。
「ユリウスさんの外套が、排水渠の内側へ触れた」
「その可能性は非常に高い」
レオンは大型洗浄排水渠の見取図を開いた。
保存槽。
そこから三歩先の傾斜床。
内側格子。
赤煉瓦の水路。
上流運河の外口。
遺体が発見された場所。
「格子は最近外されている。保存室の床泥、藍殻繊維、被害者の外套と一致する黒色繊維が、格子の内側に残っていた」
「なら、死体はここを通された」
グレアムが言った。
「排水渠へ入ったことは、強く示されています」
レオンは答えた。
「ただし、いつ通されたか。外口までどのように動いたかは、閘門と排水の記録を合わせる必要があります」
ミラベルは見取図を見た。
保存槽で殺され。
三歩先の大型洗浄排水渠へ運ばれ。
暗い水路を通って。
上流運河へ出された。
死体は海を遡っていない。
倉庫の地下から、運河へ押し出されたのだ。
「灰色の紙片は?」
レオンが尋ねた。
港湾医務官は別の証拠袋を取り出した。
ユリウスの右手から、指ごと乾燥させたあとで外された耐水紙。
破断面。
円形圧印の一部。
連続番号の断片。
裏面の縁に残る、淡い青黒い染み。
「染みの成分検査が終わっています」
医務官が言った。
「塩分。丁子油。防腐樹脂。それから、微量の藍殻染料」
レオンは証拠袋を灯へ透かした。
「保存液と同じ組合せです」
「水中で遺体へ絡んだ紙ではない?」
ミラベルが尋ねる。
「破断面と、指に挟まれていた部分の内側へ成分が入り込んでいます」
レオンが答えた。
「少なくとも、紙片は保存液へ触れています」
「ユリウスさんが、保存槽へ沈められたときに握っていた?」
「その可能性があります」
「何の書類なのかは」
「破れた相手を見つけるまで確定できません」
レオンは証拠袋を机へ戻した。
「ですが、この紙片も、殺害場所と無関係ではありません」
保存液。
赤煉瓦粉。
大型洗浄排水渠。
黒色繊維。
灰色の紙片に残った保存成分。
別々に見つかった証拠が。
第三十七倉庫の地下で、同じ場所へ重なっていた。
「ソーンを連れてこい」
グレアムが扉を開いた。
*
マレク=ソーンは、数分後に事務室へ連れてこられた。
昼間と同じ濃紺の上着。
だが、首布は緩み。
整えられていた髪も崩れていた。
長時間の封鎖と聴取によって。
管理人らしい端正さが、少しずつ剥がれ始めている。
机の硝子瓶を見た瞬間。
マレクの足が止まった。
「これは何です」
「カーウェンの肺から出た液体と、地下保存槽の液体だ」
グレアムが答えた。
「比べた」
マレクはレオンを見る。
「結果は」
「塩分と保存成分の比率」
レオンは測定記録を示した。
「丁子油。藍殻繊維。防腐樹脂。すべてが、第三十七倉庫の保存液と一致しています」
マレクの顔から色が引いた。
「外港海水には、その組合せは存在しません」
「だからといって、この倉庫とは――」
「靴底の赤煉瓦粉も一致した」
グレアムが鑑定報告を机へ落とす。
「黒鋼炉滓。防湿剤。粒子組成までだ」
次に。
黒色繊維を封じた硝子板。
大型洗浄排水渠の見取図。
灰色の紙片を入れた証拠袋を並べる。
「排水渠の内側から、カーウェンの外套と一致する繊維が出た。カーウェンが握っていた紙からは、地下保存液と同じ成分が検出された」
「同じ設備を持つ倉庫が――」
「なら、名前を挙げろ」
マレクは答えなかった。
「もう一度聞く」
グレアムは椅子を引いた。
「ユリウス=カーウェンは、事件当夜、この倉庫へ来たか」
「来ていません」
昼間と同じ答え。
だが。
声が掠れていた。
ミラベルは鞄から、一枚の写しを取り出した。
黒い第二帳簿の原本ではない。
ニアの同意を得て。
彼女の立ち会いのもと、該当する頁だけを書き写したものだった。
「午後六時二十分」
ミラベルは読み上げた。
「第三十七保税倉庫。内陸側受付。独立監査官ユリウス=カーウェン。一名」
マレクの目が、紙へ落ちる。
「これは、公式帳簿ではありません」
「そうです」
「私的な覚え書きだ」
「公式帳簿では、ユリウスさんは来ていないことになっています」
ミラベルは紙を机へ置いた。
「だから、実際に見た人と時刻を残す第二帳簿が作られたんです」
「計数員の記憶違いかもしれない」
「名前だけではありません」
ミラベルは続けた。
「午後六時二十分。監査用の書類鞄を持った男性一名。内陸側受付を通過。倉庫管理人へ面会を求めた」
マレクの喉が動く。
「ニアさんは、あなたがユリウスさんを地下へ案内するところも見ています」
沈黙。
グレアムが身を乗り出した。
「ソーン」
マレクは荒い息を吐いた。
「……来ました」
「何時だ」
「六時二十分頃です」
「最初から、そう言え」
「言えば、帳簿を調べられる」
「人が死んどる!」
グレアムの怒声に、机の瓶が小さく震えた。
「何を調べていた」
「灰鷺号の貨物です」
「午後四時十分に、内陸側から入った貨物か」
マレクは顔を上げた。
ミラベルは第二帳簿の別頁を机へ置かない。
だが。
時刻を口にしただけで。
マレクには、どの記録が残っているのか分かったらしい。
「ユリウスは、貨物が入港前から倉庫にあると知っていた」
レオンが言った。
「ええ」
「誰と会うために残っていた」
マレクは答えない。
「誰を隠しているんです」
ミラベルが尋ねた。
「自分だけですか」
「私は殺していない」
「まだ、あなたが殺したとは言っていません」
「だが、そう思っている!」
「あなたが、殺害場所を隠す嘘をついたことは確認できました」
レオンの声は変わらない。
「殺した者が別にいたなら、名前を言うべきです」
マレクは両手を握り締めた。
「ローデリック=ヴェイン理事です」
雨音だけが残った。
「何時に来た」
グレアムが問う。
「午後八時四十分」
「正面から?」
「裏口です」
「なぜ裏口を使わせた」
「ユリウスとの面会を、ほかの職員に知られたくないと」
「誰が言った」
「ヴェイン理事が」
「二人をどこへ通した」
「地下の荷役確認室です」
「保存槽のある区画か」
マレクは目を伏せる。
「同じ地下です」
「そのあと」
「私は事務室へ戻りました」
「なぜ」
「二人だけで話すと言われた」
「誰に」
「ヴェイン理事に」
「カーウェンが出るところは」
「見ていません」
「ヴェインは」
「裏口から出ました」
「時刻は」
「……覚えていません」
「倉庫管理人が、裏口から理事を出しておいて?」
「時計を見ていなかった」
グレアムの顔が険しくなる。
「帳簿へ書かなかったから、時刻まで存在しないと言う気か」
マレクは唇を噛んだ。
「私は、殺されるところを見ていません」
「見ていないことは、起きていない証明になりません」
レオンが答えた。
「ですが、見たと嘘をつく必要もない」
マレクが顔を上げる。
「現在、あなたの証言で確認できるのは」
レオンは指を一つ立てた。
「午後六時二十分。カーウェンが倉庫へ入った」
二つ目。
「午後八時四十分。ローデリックが裏口から入った」
三つ目。
「二人が、保存槽と同じ地下区画へ入った」
四つ目。
「カーウェンが出るところを、あなたは見ていない」
「私は殺していない」
「その点は、まだ証明されていません」
安心させる言葉ではない。
だが。
マレクの肩は、わずかに下がった。
「あなたは殺害場所を隠しました」
レオンは続けた。
「貨物記録の改竄についても、これから調べます」
グレアムが扉の警官へ命じる。
「ヴェインを呼べ。任意の挨拶じゃない。重要参考人だ」
*
ローデリック=ヴェインは、夜が深くなってから倉庫へ現れた。
雨に濡れた馬車を降り。
黒い傘を従者へ預け。
警官に案内されて事務室へ入る。
五十二歳。
銀の混じる髪は乱れていない。
濃灰色の礼装にも、ほとんど皺がなかった。
胸元には、港湾慈善会の青い錨章。
人を待たせたことを詫びるような、穏やかな微笑を浮かべている。
「グレアム警部」
「遅かったな」
「慈善会の会合を終えてから来たものですから」
マレクの顔が強張った。
ローデリックは、それを見た。
驚いた様子はない。
「ソーン君まで。封鎖への対応で、随分疲れているようだ」
「理事……」
「話すな」
グレアムが遮った。
「質問には、俺が聞いた順で答えろ」
「もちろんです」
ローデリックは机の瓶へ目を向けた。
「死因の検査が終わったのですか」
「何の検査か知っとるのか」
「港湾監査官が亡くなった。西港では、すでに噂になっています」
「カーウェンとは、事件当夜に会ったか」
「いいえ」
返答は滑らかだった。
マレクが顔を上げる。
「理事」
「ソーン君」
ローデリックは、静かな視線を向けた。
「混乱しているなら、無理に話さなくていい」
「午後八時四十分」
レオンが言った。
「あなたは、この倉庫の裏口から入った」
ローデリックは初めて、レオンを正面から見た。
「レオン=クラウス氏ですね」
「質問への答えを」
「誰の証言でしょう」
「それで答えが変わりますか」
「信頼性を確認したいだけです」
「ソーンが認めた」
グレアムが言った。
ローデリックはマレクを見る。
責める表情ではない。
むしろ。
残念そうだった。
その穏やかさに、マレクの顔がさらに青ざめる。
「なるほど」
ローデリックは短く息を吐いた。
「確かに、倉庫へ立ち寄りました」
「今、カーウェンとは会っていないと言ったな」
「倉庫へ来たことと、彼に会ったことは別です」
「何のために来た」
「保税貨物の確認です」
「慈善会の会合中に?」
「急ぎの連絡がありました」
「誰から」
「事務局を通じた伝言だったかと」
「裏口を使った理由は」
「表側が混雑していた」
「違います」
マレクが言った。
「理事は、カーウェン監査官との面会を――」
「黙れと言っただろう!」
グレアムの怒声が飛ぶ。
マレクは口を閉じた。
ローデリックの表情は崩れない。
「ソーン君が、訪問の目的を誤解したのでしょう」
グレアムは、一枚の時刻表を机へ置いた。
港湾慈善会の会合記録。
受付簿。
会場係の証言。
馬車の所要時間を確認した、市警の実走記録。
「会合は、午後八時に始まった」
「ええ」
「あんたは、開会の挨拶をした」
「出席者が証言するでしょう」
「午後八時二十四分。会場の横扉から出たところを、受付係が見ている」
ローデリックの微笑が、わずかに薄くなる。
「仕事上の連絡へ対応しただけです」
「慈善会館から、この倉庫まで」
グレアムは次の紙へ指を移す。
「夜の馬車で十五分から十七分。市警が同じ時刻に走らせて確かめた」
午後八時二十四分に会場を出る。
午後八時四十分に倉庫へ着く。
マレクの証言と矛盾しない。
「会場へ戻ったのは、午後九時五十六分」
グレアムは受付係の記録を叩いた。
「午後十時の最終決議には署名している」
「つまり」
ローデリックは穏やかに言った。
「会合へ出席していたことが確認されたわけですね」
「開始時と、終了時にはな」
レオンが答えた。
「午後八時二十四分から九時五十六分まで。あなたの会合記録には空白がある」
「一時間半ほど席を外したからといって」
「カーウェンの死亡推定時刻は、午後八時五十分から九時二十分」
港湾医務官が言った。
「中心となる推定は九時十分前後ですが、数分単位の確定ではありません」
ローデリックの視線が、医務官へ移る。
「その時間帯に」
ミラベルが言った。
「あなたは、慈善会館にはいなかった」
「倉庫へ来ていた」
グレアムが続ける。
「殺害場所と考えられる地下区画へ、カーウェンと二人で入った」
「ソーン君の証言だけです」
「第二帳簿もある」
グレアムが言った。
「カーウェンが、この倉庫へ入った時刻を記した帳簿だ」
「それは、私が彼と会った証明にはならない」
「ええ」
レオンが答えた。
「あなたがカーウェンを殺した証明にもなりません」
ローデリックの微笑が、わずかに戻った。
「では、アリバイは成立している」
「それも違います」
ミラベルが言った。
「慈善会に出席していたことは事実です。でも、会合の間じゅう会場にいたわけではない」
「空白があることは、罪の証明ではありません」
「ええ」
ミラベルは頷いた。
「でも、会合への出席は、倉庫へ来られなかった証明にもなりません」
グレアムは、マレクとローデリックを交互に見た。
「今、分かっとることを整理する」
太い指が、机を一度叩く。
「カーウェンは海で死んでいない」
二度目。
「午後八時五十分から九時二十分の間。第三十七倉庫地下の保存液と同じ液体を吸い、溺死した」
二十分の間。第三十七倉庫地下の保存液と同じ液体を吸い、溺死した」
三度目。
「ソーンは、カーウェンが倉庫へ来ていないと嘘をついた」
四度目。
「ヴェインは午後八時四十分に倉庫へ来た。死亡推定時刻を含む時間、慈善会場にはいなかった」
そして。
五度目。
「排水渠には、カーウェンの外套と一致する繊維が残り、カーウェンの握っていた紙片にも保存液の成分が付いていた」
グレアムは、今度は机を叩かなかった。
「だが」
マレクとローデリックを見据える。
「誰がカーウェンを殴り、保存槽へ沈めたか。それを直接示す証拠は、まだない」
マレクは俯いたまま。
ローデリックは、レオンから視線を外さなかった。
「そうです」
レオンが言った。
「殺害場所と、死体が運河へ出された経路は、ほぼ第三十七倉庫の地下へ絞られた」
保存液。
藍殻繊維。
赤煉瓦粉。
大型洗浄排水渠の黒色繊維。
紙片の保存成分。
「殺害が可能だった人物も絞られています」
マレク。
ローデリック。
地下区画へ出入りできた者。
「ですが、可能だったことと、実行したことは同じではない」
「ならば」
ローデリックの声には、わずかな安堵が混じった。
「今夜、これ以上お答えする必要はありませんね」
「帰すとは言ってない」
グレアムが答える。
「倉庫の帳簿と、《灰鷺号》の関係を聞く」
「殺人とは別件です」
「別件なら、別件として調べる」
グレアムの声は低かった。
「俺は、都合のいい事件を一つへまとめる趣味はない」
ローデリックは初めて。
グレアムを、露骨な苛立ちとともに見た。
レオンは、肺内試料の瓶を持ち上げた。
ほとんど透明な液体。
塩分を含み。
丁子油と防腐樹脂を持ち。
海藻に見える藍殻繊維を漂わせていた水。
何一つ。
偽物ではなかった。
ただ。
海水という、誤った名を与えられていた。
「海は消えました」
ミラベルが瓶を見ながら呟いた。
「ええ」
レオンは答えた。
「残ったのは、この倉庫です」
だが。
殺害場所が分かっても。
死体の通った水路が分かっても。
その場所へ入った者の名が分かっても。
まだ。
殺人者の名にはならない。
窓の外では。
歯車運河の水が。
変わらず、海へ向かって流れていた。




