第7節 ― 書き換えられた閘門
錨火横丁の灯が霧の中へ沈むころ、ミラベルは第六歯車閘門へ戻った。
運河沿いのガス灯は、すでに点火されている。
黄色い光が水面へ細長く落ち、海へ向かう流れに引き伸ばされていた。
昼間は絶え間なく響いていた荷役人の声も少なくなり、代わって巨大な歯車の軋みと、排水弁の低い唸りが夜の閘門を満たしている。
上流水門の前では、三隻の艀が通過を待っていた。
船員たちは係船索を握り、閘門塔の信号灯を見上げている。
赤。
まだ通れない。
ミラベルが管理棟へ入ると、室内の空気は昼間よりも険しかった。
机の上には、第六閘門の操作記録筒と、そこから引き出された穿孔紙が広げられている。
グレアム警部が机の片側へ立ち。
レオンは窓際で、紙帯をガス灯へ透かしていた。
反対側にはハルド=ブレック。
その背後には、市警の警官が二人いる。
サヴィナ=ネルドは壁際に立たされていた。
外套は濡れ、長い耳を覆う濃緑色の布から水滴が落ちている。腰の短刀も操船用の信号笛も取り上げられ、机の隅へ置かれていた。
「何があったんですか」
ミラベルが尋ねた。
「主任閘門技師殿の機械が、二時間近く記憶を失っとる」
グレアムが低く言った。
ハルドの太い眉が動く。
「門は忘れとらん」
「記録が欠けとる」
「門のせいじゃない」
「なら、誰のせいだ」
ハルドは答えなかった。
レオンが穿孔紙を机へ戻した。
細長い紙帯には、水門の開閉、給排水弁の作動、水位の変化が、穴の位置によって記録されている。
紙帯の端には、十五分ごとの時刻線。
その途中。
午後八時十八分を示す穿孔の直後で、紙の繊維が不自然に途切れていた。
次に続くのは。
午後十時六分。
同じ幅の紙を継ぎ足し、欠落がないように整えてある。
だが、灯へ透かせば。
切断面と接合線が、はっきり浮かび上がった。
「午後八時十八分」
ミラベルが紙帯を見た。
「ここで、側水路の開放操作が始まっています」
「ええ」
レオンが答える。
「ところが、その直後から午後十時六分までの記録が切り取られている。継ぎ目の次に残るのは、側水路を閉鎖した操作です」
「切り取られた部分には?」
「側門の開放、水位調整、再閉鎖。少なくとも、小舟を一度通すための操作が記録されていたと考えられます」
「考えられる、ではない」
ハルドが唸るように言った。
「記録されとった」
グレアムが顔を上げる。
「はっきり言え」
ハルドは両手を机へついたまま、穿孔紙を睨んだ。
油と煤の染みた指。
機械を扱うために硬くなった手が、わずかに震えている。
「切ったのは、わしだ」
「事件当夜に?」
「ああ」
「何を隠した」
ハルドは一度、サヴィナを見た。
サヴィナは顔を動かさない。
「小舟を通した」
「船名は」
「船名票は使っていない」
「無許可通航か」
「そうだ」
グレアムは机へ拳を落とした。
「死体が出た夜に、記録を消して舟を通しただと?」
「死体が出るとは知らんかった!」
「誰の舟だ!」
ハルドが答えるより早く、壁際の警官がサヴィナの腕を掴んだ。
「《翡翠燕》ですか」
ミラベルが尋ねる。
「違う」
サヴィナが初めて口を開いた。
「曳船では大きすぎる。使ったのは、艪で動かす小舟よ」
「何を運んだ」
グレアムが彼女へ向き直る。
「荷物」
「中身は」
「正規の水路では運べない物」
警官の手に力が入った。
「密輸品か」
「違う」
「無許可で側水路を通り、記録まで消させた。それを密輸と言わず、何と言う」
「届け物よ」
「誰にだ」
サヴィナは答えなかった。
グレアムが顎で警官へ合図する。
「連れていけ。詳しい話は署で――」
「待ってください」
ミラベルの声が、管理棟の中へ響いた。
全員が彼女を見る。
「届け先を、私は知っています」
サヴィナの表情が変わった。
ほんの一瞬。
怒りではない。
止めろと告げる目だった。
「ワトリア君」
レオンが呼ぶ。
「確認できた事実だけを」
「分かっています」
ミラベルは鞄から手帳を取り出した。
昼間に訪れた家族。
失踪した港湾労働者との関係。
住居。
作業札。
家に残されていた品。
一つずつ、頁へ記してある。
「《灰鷺号》の船員名簿に載せられた人たちの家族を訪ねました」
グレアムの眉が寄る。
「それが、この舟とどうつながる」
「玄関先へ、食料や薬が置かれている家がありました。一軒だけではありません」
ミラベルは記録を開いた。
「乾燥豆。薬包。咳止めの小瓶。どの包みにも、差出人の名はありません」
「それだけで、この女が運んだとは言えん」
「ええ」
ミラベルは頷いた。
「だから、本人に確認します」
サヴィナの正面へ立つ。
「小舟の荷物は、錨火横丁の家族へ届ける食料と薬と、お金でしたか」
サヴィナの瞳が、ガス灯の光を細く返した。
「答えれば、届け先まで記録される」
「警察記録には残る」
グレアムが言った。
「だが、殺人事件の捜査記録だ。保険会社へ渡すための帳簿じゃない」
「港の記録は、いつもどこかへ渡る」
サヴィナの声には、乾いた諦めがあった。
「水上警察から港湾局へ。港湾局から組合へ。組合から保険会社へ。事故補償を求めた家族が、どこで暮らし、誰から金を受け取っているかまでね」
「だから、廃止された側水路を使った?」
ミラベルが尋ねた。
サヴィナは、ようやく頷いた。
「正規の閘門を通れば、船名と時刻と積荷が残る。荷を降ろした場所まで照合される」
「ハルドさんには、何と頼んだんですか」
「通航記録を残さないでほしい、と」
ハルドが唸るように言った。
「頼まれたからだけじゃない。わしも知っとった」
「何を」
グレアムが問う。
「あの連中が、何を失ったかだ」
ハルドは穿孔紙を握り潰しかけ。
途中で手を止めた。
「荷役塔で潰された男も。倉庫から帰らんかった男も。夜警の途中で消えた男も、顔を知っとる。港で働いとった。海になど出とらん」
「だから記録を消した」
「残せば、届け物を止められる」
「規則を破っていい理由になると?」
「いいとは言っとらん!」
ハルドの声が、蒸気機関の振動へ重なった。
「だが、腹を空かせた子どもへ、規則がパンを届けたか?」
グレアムは答えなかった。
窓の外で、待機中の艀から鐘が鳴る。
通航を急かす合図。
それでも誰も、すぐには機械へ手を伸ばさなかった。
「荷物の中身は」
グレアムが改めて尋ねる。
「乾燥肉。穀粉。薬。金」
サヴィナが答えた。
「武器、禁制品、盗品は?」
「ない」
「小舟はどこだ」
「東側の旧保守桟橋」
グレアムは警官の一人へ顔を向けた。
「捜索班から報告は」
警官は手帳を開いた。
「先ほど届きました。小舟は旧保守桟橋へ係留された状態で発見。船底、腰板、艪、係留索を確認しています」
「血痕は」
「ありません」
「藍色の保存液。丁子油。防腐樹脂。藍殻の繊維は」
「現場用の試薬と目視では、確認されていません。採取試料は正式鑑定へ回します」
「遺体を載せた痕跡は?」
「船底に擦過痕、引きずり跡、衣服の繊維はありません。残っていたのは穀粉、乾燥豆の皮、薬包に使われる薄紙です」
管理棟の緊張が、わずかに形を変えた。
サヴィナが違法通航を行ったことは事実だった。
だが。
その小舟でユリウスの死体を運んだと示す痕跡はない。
「小舟を洗った可能性は」
グレアムが尋ねる。
「あります」
レオンが答えた。
「水上で使う舟です。洗浄自体は不自然ではない」
「つまり、潔白の証明にはならん」
「ええ」
「だが、死体を運んだ証拠にもならん」
「そうです」
グレアムは警官へ顎をしゃくった。
「腕を放せ」
「警部?」
「殺人容疑で連行する根拠が足りん」
警官は戸惑いながら、サヴィナの腕を放した。
グレアムは、サヴィナとハルドを交互に見る。
「無許可通航。操作記録の改竄。廃止水路の不正使用。そっちは消えん」
「分かっている」
ハルドが答えた。
「処分はする。見逃しもしない」
グレアムの声は厳しいままだった。
「だが、規則を破ったことと、カーウェンを殺したことは別だ。都合よく一つにまとめる気はない」
ミラベルは、静かに息を吐いた。
サヴィナは感謝を口にしない。
取り上げられていた信号笛を見てから、グレアムへ目を戻した。
「ユリウスとは、あの夜に口論した」
「午後七時五分だな」
「ええ」
「内容は」
「私の無許可通航を嗅ぎつけていた」
「監査報告へ書くと言われた?」
「そうよ」
「だから殺した?」
「殺していない」
「そのあと」
「小舟の準備をした。荷を積み、午後八時十八分に側水路へ入った」
「午後十時六分に側門は閉じられている」
グレアムは切断された穿孔紙を指した。
「その間、どこにいた」
「家々を回っていた」
「証人は」
「荷を受け取った者たち」
「名を言えば、居場所が記録される」
「だから、話さなかった」
グレアムは鼻から重く息を吐く。
「徹底して面倒な女だな」
「港の制度ほどではないわ」
「その口も調書へ残すぞ」
「好きにして」
「戻るところを、ハルドは見たのか」
「見とらん」
ハルドが答えた。
「最初に側門を開け、小舟を通した。そのあと、正面閘門の故障呼び出しで持ち場を離れた。戻ったときには、舟は上流側へ出たあとだった」
「午後十時六分に閉じたのは」
「わしだ。サヴィナが戻ったという合図を聞いて、側門を閉じた」
「顔は見ていない」
「霧の向こうで信号笛を聞いた」
室内へ、別の緊張が戻った。
救済物資を運んでいたことは、殺人を否定する証拠ではない。
サヴィナには小舟を動かす技術がある。
第六閘門と側水路の構造を知っている。
事件当夜、ユリウスと争っていた。
午後八時十八分から午後十時六分まで。
彼女の行動は、家族の証言を取らなければ完全には確定しない。
ただし。
記録を消した理由が、殺人を隠すためだったとも断定できない。
「先生」
ミラベルがレオンを見る。
彼は穿孔紙ではなく、壁へ掛けられた閘門図を見ていた。
外港。
下流運河。
第六閘門室。
上流水路。
廃止された側水路。
給排水路。
水位を示す矢印。
「何を見ているんです?」
「記録から消された通航が、死体の移動へ使えるかどうかです」
ハルドの顔が険しくなる。
「小舟なら通せる」
「死体を載せた小舟も?」
グレアムが尋ねる。
「大きさだけなら」
ハルドは認めた。
「だが、小舟と、流される死体は違う。舟には人間が乗っとる。艪で進み、門が開くのを待てる」
「自然に漂う死体は?」
「側水路を遡らん。入口の流れは下流へ抜ける。死人が自分で艪を漕ぐなら別だがな」
レオンは図面の横にある、主閘門の操作盤へ視線を移した。
盤には、上流と下流。
二つの船名票差込口がある。
「昼間に見た装置ですね」
ミラベルが言った。
「ああ」
ハルドは棚から、見本用の船名票を一枚取り出した。
表には船名を記す欄。
裏には、船籍ごとに異なる切り欠きが並んでいる。
「人間は表の名を読む。機械は、裏の切り欠きを読む」
ハルドは票を上流側の差込口へ入れた。
内部で、かちりと金属音が鳴る。
「反対側から二枚目が入れば、上下流から二隻が同時に進入したと判断する」
別の見本票を下流側へ差し込む。
がつん。
壁の安全爪が落ち。
水門の操作レバーと給排水弁が、同時に固定された。
「衝突防止装置」
ミラベルが言った。
「そうだ」
「機械が見ているのは、船体ではない」
レオンは二つの差込口を見る。
「どの船名票が、どちらから入ったかだけです」
「門は嘘をつかん」
ハルドは安全爪を戻した。
「嘘をつくのは、船名票を差す奴だ」
レオンは図面へ戻る。
「事件当夜の水流を、もう一度確認します」
「昼間に言った」
「通常水路は」
「上流から海向き」
「閘門室の排水も」
「下流側へ落とした」
「側水路を開いていた午後八時十八分から午後十時六分は?」
「側門の近くでは、舟を入れるため一時的に水を止めた。だが、上流水路全体の流れは変わらん」
「小舟なら、人が漕いで上流へ抜けられる」
「そうだ」
「自然に漂流する死体は」
「抜けられん」
ハルドは断言した。
「門を開けても、水は低い方へ落ちる。海から流れてきた死人だけが、坂を上ることはない」
レオンは図面から手を離した。
管理棟を出る。
ミラベルたちも、そのあとを追った。
夜の上流水路は、昼間より黒かった。
ガス灯の光は水面へ届かず、波の頂だけが鈍く光っている。
木片が一つ、上流から流れてきた。
第六水門へ。
海の方角へ。
水門の手前で小さく回り。
それでも最後には、海側へ運ばれていく。
「カーウェンの肺には、塩分を含む水があった」
ミラベルが言った。
「衣服には、海藻に見える繊維」
「それで、海で死んだと考えられた」
グレアムが続ける。
「だが、海からここへ漂流する水路はない」
レオンが言った。
「舟で運ばれた可能性は残ります」
「サヴィナの小舟か、別の舟か」
「分かりません」
「なら、死体が逆流した謎は残る」
レオンは首を振った。
「逆流したと考えるから、謎になるんです」
ミラベルが彼を見る。
白い蒸気が風に流れ、三人の間を横切った。
「どういう意味ですか」
「カーウェンが海で死んだという前提を、いったん外します」
「肺の塩分は」
「海水とは確定していない」
「衣服の繊維も」
「海藻とは確定していない」
水は。
上流から海へ向かって流れている。
事件の夜も。
死体が発見された朝も。
流れが変わっていないのなら。
見直すべきは、運河ではない。
死体の出発地点だった。
レオンは上流側へ顔を向けた。
霧の向こう。
運河に沿って、黒い倉庫群が並んでいる。
「逆流したのではなく、最初から上流にあったのではないか」
グレアムは倉庫群を睨んだ。
「上流で水へ入れられた」
「可能性の一つです」
「なら、海から水門を越える必要はない」
「ええ」
レオンは、海へ流れていく木片を見送った。
水は。
記録の都合では向きを変えない。
死体を海から来たことにしたのは。
運河ではなかった。




