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第6節 ― 乗らなかった船員

 第三十七保税倉庫を出ると、西港の空は朝よりも低くなっていた。


 雲なのか。


 煤煙なのか。


 海霧なのか。


 灰色の層が倉庫の屋根へ垂れ下がり、高架貨物線を走る列車の黒煙を、そのまま街の上へ押し戻している。


 市警の警官たちは、倉庫から運び出した帳簿と採取物を荷馬車へ積んでいた。


 グレアムは税関吏と封印手順について言い争い。


 レオンは、押収された荷役票の束を立ったままめくっている。


 ミラベルが倉庫の階段を下りたところで、呼び止める声がした。


「あの」


 声は小さかった。


 港の汽笛と荷役人の掛け声に紛れ、聞き落としても不思議ではないほどに。


 振り返ると、規制鎖の外に若い女性が立っていた。


 年齢はミラベルより下に見える。


 港湾記録局の灰青色の制服。


 細い身体に合っていない大きな外套。


 首元には、見習い職員を示す銅色の札が下がっている。


 両手で黒い鞄を抱え。


 警官たちの視線を気にするように、何度も周囲を見ていた。


「私ですか?」


 ミラベルが近づくと、女性は小さく頷いた。


「ミラベル=ワトリアさん……ですよね」


「ええ」


「新聞の」


「今は、事件記録を中心に書いています」


 女性は唇を結んだ。


 何かを言うために来たはずなのに。


 声へする直前で、迷っている。


 ミラベルは規制鎖の内側を振り返った。


 グレアムは、まだ税関吏を相手に怒鳴っている。


 レオンだけが、荷役票から目を上げていた。


 彼は女性の制服札を見る。


「港湾記録局の職員ですね」


 女性の肩が強張った。


「……見習いです」


「名前は」


「ニア=ロス」


「担当は」


「計数です。入った荷物の数と、荷役へ出た人数を記録しています」


 レオンの視線が、彼女の鞄へ落ちる。


「話があるのは、警察にですか。それとも新聞記者に?」


 ニアは、グレアムのいる方角を見た。


 次に、倉庫の窓。


 最後に、ミラベルへ目を戻す。


「新聞記者に」


「なぜ警察ではないんです?」


 ミラベルは、責めないように尋ねた。


 ニアはすぐには答えなかった。


「港には、警察が二つあります」


 やがて、彼女は言った。


「市警と水上警察。それから港湾局と税関と運河管理局と、海運組合と保険会社があります」


「ええ」


「どこへ話せば、どこへ伝わるのか分かりません。どこへ話したら、誰に知られるのかも」


 レオンが荷役票を閉じた。


「新聞なら安全だと?」


「安全だとは思っていません」


 ニアの声は震えた。


 だが、視線は逸れなかった。


「でも、書かれたものは、一人の机の中には隠せないから」


 ミラベルは、自分の鞄に入った手帳の重さを感じた。


「何を持っているんです?」


 ニアは鞄から、折り畳まれた薄紙を取り出した。


 急いで書き写したらしい、名前の一覧。


 上部には、


 《灰鷺号・臨時船員名簿》


 と記されている。


「港湾記録局にあった船員名簿です」


「持ち出したのか」


 レオンの声が鋭くなる。


「写しただけです。原本には触れていません」


「いつ」


「今朝、《灰鷺号》の記録が集められる前です」


「なぜ写した?」


 ニアの指が、紙の端を強く掴んだ。


「知っている名前があったから」


 ミラベルは一覧へ目を落とした。


 二十を超える名前。


 船長や機関長のような役職はない。


 全員が、


 臨時甲板員。


 臨時機関助手。


 臨時船上荷役員。


 として登録されている。


「知り合いですか」


「本人を知っているわけではありません。仕事で、名前を数えたことがあります」


「港の労働者として?」


 ニアは頷いた。


「船員ではありません」


 レオンの目が細くなった。


「記憶だけですか」


 ニアは紙を鞄へ戻さなかった。


 代わりに、鞄の奥へ手を入れる。


 取り出したのは、小さな黒い帳簿だった。


 角の擦れた表紙。


 紐で巻かれた頁。


 港湾記録局の紋章も。


 公式帳簿を示す番号もない。


「これは?」


 ミラベルが尋ねた。


「私の帳簿です」


「私物?」


「ユリウスさんに言われて、最近つけ始めました」


 その名を口にしたとき。


 ニアの声が少しだけ揺れた。


「何を記録していたんです」


「私が実際に数えたものです」


 公式の帳簿には。


 申告された貨物。


 割り当てられた班。


 提出された人数。


 承認された時刻が書かれる。


 だがユリウスは、ニアへ別に記録するよう言った。


 伝票へ書かれた人数ではなく。


 実際に来た人間。


 提出された時刻ではなく。


 自分の時計で見た時刻。


 申告された搬入口ではなく。


 自分の目で確認した搬入口を。


「第二帳簿ですね」


 レオンが言った。


 ニアは帳簿を胸元へ引き寄せる。


「渡しません」


 言葉は、思いのほか強かった。


「まだ、誰にも」


「見せるつもりもない?」


 レオンが尋ねる。


 ニアは迷ったあと、ミラベルを見る。


「ワトリアさんには」


 黒い帳簿を開いた。


 最初に示したのは、昨夕の頁だった。


 午後四時十分。


 第三十七保税倉庫。


 内陸側搬入口。


 荷車の台数。


 貨物番号。


 運搬に来た作業員の人数。


 短い文字が、細かく並んでいる。


「この貨物番号……」


 ミラベルが呟いた。


 第三十七倉庫で見た、《灰鷺号》の貨物札と同じ並びだった。


「昨日の午後四時十分に、内陸側から入った?」


「はい」


「灰鷺号の入港処理は、午前零時です」


「分かっています」


 ニアは頁を押さえる指へ力を込めた。


「だから、ユリウスさんが気づいたんです」


「実際に貨物を運んだ人たちは、この船員名簿の人ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「違います」


 ニアは首を振った。


「この頁は、昨日の貨物搬入です。ここへ書いたのは、昨日実際に来た作業員です」


 彼女は数枚、過去へ頁を戻した。


「船員名簿にある人たちは、こっちです」


 頁の端には、昨夕の記録とは異なる小さな印が付けられていた。


「これは?」


 レオンが尋ねる。


「過去の計数札から書き起こした頁です」


 ニアは答えた。


「ユリウスさんに頼まれて、最近まとめました。私が当時、自分で数えた日の札もあります。担当していなかった日は、残っていた計数札や勤務票と照合して、印を分けました」


 数か月前。


 一年前。


 さらに前。


 それぞれ別の日付。


 別の勤務場所。


 第三十七倉庫。


 第五埠頭。


 北荷役塔。


 水上倉庫。


 倉庫街夜警。


 船員名簿へ載るより前に。


 その名は、西港の地上で働いた者として、過去の計数札へ残されていた。


「昨日、貨物を運んだ人たちと」


 ミラベルが言った。


「過去に失踪した人たちは、別の記録なんですね」


「はい」


「一つの頁へ混ぜたものではない」


「違います」


 ニアは帳簿を閉じた。


「昨日の貨物が、入港前に倉庫へ入った記録と。昔、西港で働いていた人たちを、過去の計数札から再構成した記録です」


「その両方を、ユリウスさんが調べていた」


「はい」


 レオンが黒い帳簿を見た。


「どの頁が、あなた自身の観測で。どの頁が、過去の札から書き起こしたものか。その区別は残っている?」


「全部、印を分けています」


 ニアは頷いた。


 レオンは帳簿へ手を伸ばさなかった。


「今は、君が持っていてください」


 ニアが、意外そうに彼を見る。


「ただし」


 レオンは続けた。


「紛失すれば、もう一度同じ記録を作れるとは思わないことです。元の計数札が、いつまで残っているかも分からない」


「分かっています」


「誰かに狙われる可能性もある」


「先生」


 ミラベルが制した。


「脅してどうするんです」


「危険を伝えています」


「伝え方の問題です」


 ニアは黒い帳簿を鞄へ戻した。


 胸元へ抱きしめる。


「船員名簿の住所は、分かりますか」


 ミラベルが尋ねる。


「出港前住所があります。ほとんどが錨火横丁か、その周辺です」


「確かめましょう」


 レオンが二人を見る。


「証言だけでは、名簿が誤っているとは断定できません」


「分かっています」


「同姓同名。転職。倉庫労働者が、後に臨時船員として雇われた可能性もある」


「それも確かめます」


「家族の記憶と、公的記録が一致するとも限らない」


「でも、家族にしか分からないこともあります」


「それを事実と混ぜないように」


 ミラベルは名簿の写しを丁寧に折った。


「先生は倉庫の帳簿を調べてください。人間の方は、私が見ます」


「帳簿も人間が作ります」


「なら先生は、紙を書いた人間を。私は、紙へ書かれた人間を調べます」


 レオンは何か言い返そうとした。


 だが。


 ニアが二人を不安そうに見ていることへ気づき、言葉を止めた。


「日が落ちる前に戻ってください」


「まだ昼過ぎです」


「この横丁は、日が落ちる前から夜になります」


「心配しているんですか」


「第二帳簿を持つ証人を、夜道へ置きたくないだけです」


 ミラベルは少し笑った。


「はい。そういうことにしておきます」


     *


 錨火横丁は、港湾記録局の整然とした窓口から、運河を二本隔てた場所にあった。


 煉瓦造りの建物が、互いの肩を押し合うように並んでいる。


 その間を、濡れた石畳の路地が細く曲がっていた。


 店先には、錨の形をした鉄枠のガス灯。


 まだ火を入れる時刻ではなかったが、霧が深いため、幾つかの店ではすでに黄色い灯がともっている。


 安酒場。


 魚の煮込みを出す食堂。


 船具店。


 古着屋。


 質屋。


 外国貨幣を扱う小さな両替商。


 二階の窓から洗濯物が張り出し。


 頭上では、建物同士を結ぶ物干し綱が、船の帆索のように交差していた。


 腕へ包帯を巻いた荷役人。


 煤で顔を黒くしたクレーン工。


 夜勤明けの倉庫番。


 制服を着た船員。


 誰もが同じ横丁を歩いている。


 だが、身につけたものは違った。


 船員の靴は、濡れた甲板で滑らないよう底が平らで、革が柔らかい。


 荷役人の靴には、重い荷から足を守るため、爪先へ鉄板が入っている。


 クレーン係は油染みの手袋を腰へ下げ。


 倉庫番は鍵束を帯へつけていた。


 職業は、名札がなくても身体へ残る。


 ニアは、名簿の三行目に記された住所で足を止めた。


 酒場と船具店に挟まれた、細い集合住宅だった。


 階段は急で、手摺には濡れた洗濯物が掛かっている。


 二階の扉を叩くと、疲れた顔の女性が出てきた。


 片手には、繕いかけの作業着。


 もう片方には針。


「港湾局の人?」


 ニアの制服を見て、女性の顔が固くなった。


「見習いです。今日は、局の仕事ではありません」


「じゃあ、何」


 ミラベルが一歩前へ出る。


「ご家族のことで、確かめたいことがあります」


「何を今さら」


 扉が閉まりかけた。


 ミラベルは手を挟まず、声だけを残す。


「《灰鷺号》という船をご存じですか」


 扉が止まった。


 女性の顔から、警戒とは違う色が消えていく。


「……どうして、その名を」


「この船の船員名簿に、ご主人と同じ名前があります」


 女性は、長いあいだ答えなかった。


 廊下の奥で、湯を沸かす音がする。


 窓の外を貨物列車が通過し、床が小さく震えた。


「船員?」


 やがて女性が言った。


「誰が」


「こちらの名前です」


 ミラベルは名簿の写しを見せた。


 女性は三行目を読む。


 唇が、声にならない形で夫の名をなぞった。


「違う」


 針を持つ手が震えた。


「あの人は船員じゃない」


「何の仕事を?」


「第三十七倉庫。荷分けをしてた」


 ニアが黒い帳簿を出す。


 手から離さないまま、過去の計数札から再構成した頁を開いた。


 同じ名前。


 第三十七倉庫荷分け班。


 事故が起きた日の勤務欄。


「臨時で船に乗った可能性はありませんか」


 ミラベルは慎重に尋ねる。


 女性は首を振った。


「あの人は、海へ出るのを嫌ってた」


「嫌っていた?」


「船が怖かったんじゃない。港から離れるのが嫌だったのよ。毎日同じ倉庫へ行って、昼の鐘で休んで、夜の鐘までには帰ってきた。外洋航路の仕事を持ちかけられても、断ってた」


「最後に会ったのは」


「八か月前」


 女性の視線が、繕いかけの作業着へ落ちる。


「倉庫へ行ったきり、帰ってこなかった」


「事故があったんですか」


「荷崩れがあったと聞いた。でも倉庫は、あの人はその日の勤務に入っていないって」


「失踪届は」


「出した」


「船員として登録されたという連絡は」


「来てない」


 女性は名簿を見つめた。


「これには、いつ出港したって?」


 夫を最後に見た日より、二日後。


 《灰鷺号》臨時乗船。


 外国航路へ出港。


 航路上で失踪。


「この人が、ご主人と同じ人物かは、まだ断定できません」


 ミラベルは言った。


「同姓同名の可能性もあります。生年月日を確認しても?」


 船員名簿の年月日を読む。


 女性は目を閉じた。


「夫よ」


 声は小さかった。


「同じ日だわ」


 ニアが、一覧の余白へ印をつける。


 一つ。


 最初の一致。


 だが、ミラベルはその印だけで結論を出さなかった。


「ご主人が倉庫で働いていたことを示す物はありますか」


 女性はミラベルを見た。


 少し傷ついた顔だった。


 夫との暮らしを疑われたように感じたのかもしれない。


「あなたの言葉を疑っているのではありません」


 ミラベルは続けた。


「あなたの言葉を、否定できない形で残したいんです」


 女性はしばらく黙ったあと、扉を大きく開いた。


 室内の壁に、作業札が掛かっている。


 第三十七保税倉庫。


 荷分け班。


 番号。


 失踪した男の名。


 番号は、ニアの第二帳簿と一致した。


 机の端には、差出人のない小さな包みが置かれていた。


 乾燥豆。


 薬包。


 細い瓶へ入った咳止め。


「これは?」


 ミラベルが尋ねると、女性は包みへ目を向けた。


「時々、扉の前へ置いてあるの」


「誰が」


「知らない。水路側から来るみたいだけど、名は書いてない」


 ミラベルは、それ以上尋ねなかった。


 誰かが。


 失踪した男の家族を、忘れてはいなかった。


 だが、その誰かが何者なのかは。


 まだ記録しなかった。


     *


 名簿の別の頁には、北荷役塔のクレーン係がいた。


 母親の家に残っていたのは、油染みの作業手袋と、巻上機の操作札だった。


 事故記録では死者なし。


 過去の計数札をもとにした第二帳簿の頁には、事故当夜の出勤者として、その名がある。


 倉庫街の夜警。


 水上倉庫の計量係。


 荷役塔の整備助手。


 すべての家を訪ねられたわけではない。


 空室。


 移転。


 扉を開けない家。


 話すことを拒む者。


 それでも。


 確認できた者たちの名前は。


 作業札。


 組合票。


 工具。


 鍵。


 事故の日の計数札。


 そして、生年月日によって、船員名簿の記載とつながった。


 家族が語っただけではない。


 生活に残った痕跡が、同じ人物であることを支えていた。


 差出人のない食料や薬の包みも。


 最初の家だけではなかった。


 訪ねた別の家にも。


 乾燥豆。


 薬包。


 咳止めの瓶が。


 夜のうちに、扉の前へ置かれていた。


 差出人の名は。


 どの包みにもなかった。


     *


 錨火横丁の外れ。


 狭い一室の扉を開けたのは、十歳ほどの少年だった。


 奥では、母親が洗濯物を畳んでいる。


 名簿に載っている男は、西港第五埠頭の荷役人だった。


 重い樽や機械部品を、船と倉庫の間で運ぶ仕事。


 半年前。


 夜間荷役へ出たまま、戻らなかった。


 港湾局から家族へ示されたのは、退職済みという記録だけだった。


「お父さんが、船で働いていたことはありますか」


 ミラベルが尋ねる。


 母親は答える前に、少年を見た。


 少年は、床へ置かれた一足の靴へ視線を落とした。


 黒い革。


 爪先へ鉄板の入った、重い荷役靴。


 片方の紐が切れ、代わりに細い縄が通されている。


「父さんは船に乗る靴を持っていなかった」


 少年が言った。


 ミラベルは、すぐに返事ができなかった。


「船に乗る靴?」


「底が平らなやつ。港の船員が履く靴」


 少年は、自分の小さな足で父親の靴の横へ立つ。


「父さんのは重いんだ。箱に足を潰されないための靴。これで船に乗ったら、甲板を傷つけるって言ってた」


「お父さんが、そう言ったの?」


「うん」


「船へ乗る話があったんですか」


 母親が、ゆっくり首を振った。


「息子が船員の靴を欲しがったときの話です。同じ港で働きたいと言ったら、あの人は――自分は船に乗る側じゃない。船を送り出す側だ、と」


 名簿には、《臨時甲板員》と記されていた。


 乗船日。


 出港日。


 航路上失踪。


 名前。


 住所。


 生年月日。


 それらは、家族が知る男と一致している。


 ニアは、過去の計数札から再構成した頁を開いた。


 第五埠頭。


 夜間荷役。


 同じ名前。


 最後に勤務した日。


 船員名簿の乗船日より前だった。


「作業札はありますか」


 ミラベルが尋ねる。


 母親は戸棚から、小さな真鍮札を出した。


 第五埠頭荷役班。


 男の番号。


 ミラベルは番号を写し、ニアの帳簿と照合した。


 一致する。


 最後に、少年へ向き直る。


「この靴を、見せてもらってもいい?」


 少年は靴を抱き上げた。


 渡さなかった。


 胸へ抱えたまま、ミラベルが見ることを許した。


 靴底には、平らな船員靴とは異なる深い溝。


 爪先には鉄。


 側面には、西港荷役組合の焼印。


 男が何者だったかを示す。


 生活の中に残った記録だった。


「持っていかないで」


 少年が言った。


「持っていきません」


「警察の人、前にも持っていこうとした」


「どうして?」


「父さんが帰ってきたときに履くから」


 ミラベルは、それ以上尋ねられなかった。


 母親が目を伏せる。


 少年だけが。


 父親の帰宅を。


 記録の外で待っていた。


     *


 横丁を回るうち、錨形のガス灯へ一つずつ火が入った。


 黄色い灯が霧の中へ浮かび。


 路地は、昼から夜へ境目なく沈んでいく。


 ミラベルとニアは、水路沿いの石段へ腰を下ろした。


 対岸の倉庫では、夜間荷役の灯が動いている。


 水面へ落ちた光が、黒い波に引き裂かれていた。


 ニアは膝の上へ、船員名簿の写しを広げる。


 名前の横に付けた印は、七つになっていた。


「まだ七人です」


 彼女が言った。


「全員を確認したわけではありません」


「ええ」


「同姓同名の可能性が残る人もいます」


「ええ」


「昨日の貨物を運んだ人たちとも、別です」


「分かっています」


 ミラベルは、ニアが抱えた黒い鞄を見る。


 その中に。


 二種類の記録がある。


 昨日、午後四時十分。


 《灰鷺号》の貨物と同じ番号の荷が、内陸側から第三十七倉庫へ入った記録。


 ニア自身が、その場で数えた記録だった。


 そして。


 数か月から一年以上前。


 船員名簿へ載せられた者たちが、西港の倉庫や埠頭で実際に働いていたことを、残された計数札から再構成した記録。


 同じ頁ではない。


 同じ時刻でもない。


 同じ作業員でもない。


 観測の方法も、同じではない。


 だが。


 どちらも。


 正式な記録とは違う場所に、現実があったことを示していた。


 ミラベルは自分の手帳を開く。


 そこには、船員名簿とは異なる記録が並んでいる。


 倉庫の作業札。


 海へ出るのを嫌っていた夫。


 クレーン係の操作札。


 事故の日の勤務。


 荷役組合の焼印。


 父親の帰りを待つ子ども。


「架空の名前ではありません」


 ミラベルは言った。


 ニアが顔を上げる。


「名簿を埋めるために、存在しない船員を作ったんじゃない」


 運河の向こうから霧笛が鳴った。


 錨火横丁の窓が、その低い音に震える。


「この人たちは、みんな本当にいた」


 倉庫で働き。


 荷を運び。


 クレーンを動かし。


 夜の扉を守っていた。


「実在した人間を、自分がいた場所から外して――」


 ミラベルは、《灰鷺号》の名を指で押さえた。


「別の場所へ所属させている」


 ニアの唇が震えた。


「どうして、そんなことを」


「まだ分かりません」


 ミラベルは首を振る。


「誰が名簿を作ったのか。なぜ、この人たちを船員にしたのか。全員が同じ理由で記録を移されたのか。それを示す証拠は、まだない」


「でも、名簿は間違っています」


「少なくとも、私たちが確認した七人については」


 ミラベルは手帳を閉じた。


「名前は正しい。住所も、生年月日も、家族も正しい」


 だからこそ。


 名簿は強かった。


 架空の名前なら、照会すれば崩れる。


 本当に存在した人間の名前なら。


 出生記録も。


 住所記録も。


 家族記録も一致する。


 ただ一つ。


 その人がどこで働き。


 どこで消え。


 どこへ行ったことにされたのかだけが違う。


「嘘の名前じゃないから、嘘だと見つけにくいんですね」


 ニアが言った。


「ええ」


 ミラベルは黒い運河を見た。


「本当の名前を、間違った場所へ置いているから」


 対岸を貨物船が通った。


 甲板では船員が係船索を畳み、柔らかな靴で濡れた床を歩いている。


 船尾に掲げられた名は、霧の中へ遠ざかっていった。


 錨火横丁には。


 船へ乗らなかった者たちの家族が残っている。


 彼らは海で消えたのではない。


 少なくとも。


 家族が最後に見た彼らは。


 西港の地面に立っていた。


 それでも記録の上では。


 全員が同じ船へ乗り。


 同じ海へ出て。


 戻らなかったことになっていた。

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