第5節 ― 第三十七保税倉庫
第三十七保税倉庫は、第六歯車閘門の上流側に建っていた。
五階建ての巨大な煉瓦建築だった。
赤黒い外壁は潮気と煤で斑に汚れ、運河へ面した一階には、船から直接貨物を運び込むための荷揚げ口が三つ並んでいる。
反対側には、内陸から来た荷車と貨物列車を受け入れる搬入口。
頭上では貨物用高架線が倉庫の壁を貫き、鉄輪の響きとともに、空の貨車が暗い内部へ吸い込まれていった。
屋根の上では、細い蒸気管から白煙が上がっている。
倉庫の周囲には、市警の灰色外套と税関吏の黒い制服が入り乱れていた。
正面扉には、二種類の封鎖札が貼られている。
一枚は市警。
もう一枚は税関。
互いの印が重ならないよう、わざわざ左右へ離して貼られていた。
「同じ扉を封じるのに、印が二つ要るんですか」
ミラベルが尋ねた。
「税関の封印だけなら、殺人捜査を理由に市警が開ける」
グレアム警部は歩みを止めずに答えた。
「市警の封印だけなら、貨物保全を理由に税関が開ける」
「仲がいいんですね」
「どこを聞いてそう思った」
グレアムは扉の前で待っていた税関吏へ令状を見せた。
税関吏は紙面を隅まで確かめ、さらに市警の封鎖札を確認し、ようやく腰の鍵束へ手を掛ける。
扉脇の壁には、真鍮製の管理札が掲げられていた。
《第三十七保税倉庫共同管理組合》
その下に、小さく。
《保険監督――ヴェイン海運保険社》
《担当理事――ローデリック=ヴェイン》
ミラベルは一度だけ、その名へ目を止めた。
黒鴉館でグレアムが口にした、《灰鷺号》の保険記録を扱う会社だった。
その背後から、細身の男が足早に近づいてくる。
「お待ちください」
濃紺の上着。
灰色のベスト。
きちんと結ばれた首布。
港湾労働者の多い場所には不釣り合いなほど、衣服に乱れがない。
ただし、額には汗が浮いていた。
「マレク=ソーンです」
男はグレアムへ頭を下げた。
「この倉庫の管理を任されています」
「知っとる」
グレアムは令状を畳んだ。
「昨夜の貨物と、カーウェンの足取りを調べる」
マレクの視線が、一瞬だけレオンへ向いた。
「ユリウス=カーウェン監査官のことでしょうか」
「他に何人カーウェンがいる」
「念のため確認しただけです」
「昨夜、ここへ来たか」
問いは短かった。
マレクは間を置かなかった。
「来ていません」
ミラベルが手帳を開く。
「一度も?」
「ええ」
「倉庫の中へ入らなかった、という意味ですか。それとも、敷地内にも来ていない?」
マレクは彼女へ顔を向けた。
「少なくとも、私は見ていません」
「先ほどは、来ていないと」
「私が管理する倉庫です。私が見ていない以上、通常の手続きで入ったとは考えにくい」
レオンが口を開いた。
「通常の手続きでなければ?」
マレクの目が戻る。
「何をお疑いですか」
「まだ何も」
「でしたら、言葉尻を捕らえるような質問は――」
「監査官が死んでいる」
グレアムの声が低く響いた。
「言葉尻まで調べる」
マレクは口を閉じた。
税関吏が二つの封印を切る。
厚い扉が内側へ開き、冷えた空気が流れ出した。
香辛料。
酒。
薬品。
濡れた木材。
油紙。
それらが混ざり、濃い匂いとなって鼻へ届く。
倉庫の中には、天井まで木箱が積み上げられていた。
箱の側面には、外国港の印。
船名。
貨物番号。
税関封印。
航路記号。
吊り下げられた真鍮札には、《灰鷺号》の船籍番号が刻まれている。
書類上、あの見えない船から陸揚げされた貨物だった。
高い天井の下で、蒸気クレーンが停止している。
吊鎖の先では空の荷台が揺れ、どこかで水滴が規則正しく床を打っていた。
グレアムが部下へ指示を出す。
「出入口を押さえろ。帳簿、荷役票、夜勤者名簿。昨夜から今朝に使った荷車も調べろ」
「貨物を開ける場合は、税関の立ち会いが必要です」
マレクが言った。
「開ける必要があれば呼ぶ」
「輸入品には、湿度や温度に敏感な物もあります。捜索で損傷が出れば――」
「死体にも湿度は関係する」
グレアムは彼を見た。
「だが、損害請求はしてこん」
マレクの顔から、わずかに血の気が引いた。
レオンは二人を残し、最も近い貨物箱へ歩み寄った。
南方産香料。
船荷証券の番号。
外国港の検品印。
暗褐色の木材には、長い航海を思わせる擦り傷と塩染みがある。
「外国から届いた箱に見えます」
隣に立ったミラベルが言った。
「そう見せる表示は揃っています」
レオンはしゃがみ込み、箱の角を留める釘へ片眼鏡を近づけた。
釘の頭には、微細な歯車形の刻印がある。
「光を」
ミラベルが小型灯を取り出し、煤けた金属へ向けた。
「ギア=ロウで作られた釘です」
「ヴェルム=クロウ製?」
「ええ」
レオンは隣の釘を見る。
その隣も。
箱の角を留める釘は、すべて同じ規格だった。
マレクが近づいてくる。
「輸入品の箱へ、国内の釘が使われていてはいけませんか」
「いけないとは言っていません」
レオンは立ち上がった。
「航海中に箱が壊れ、港で補修された可能性はあります」
「そのとおりです」
「補修記録は?」
マレクの返答が一拍遅れた。
「確認しなければ分かりません」
グレアムが、税関吏へ顔を向ける。
「この貨物番号の補修記録と、封印開閉記録を」
税関吏が持参した綴りをめくった。
貨物番号を追い。
封印番号を照合する。
「ありません」
税関吏が答えた。
「補修届も、封印の開閉記録も提出されていません」
「外板だけを直した可能性もあります」
マレクが言う。
「封印へ触れずに」
「あります」
レオンは簡単に認めた。
「この釘だけで、貨物が外国から来ていないとは言えません」
マレクの肩から、わずかに力が抜ける。
「ただし」
レオンは釘の刻印へ視線を戻した。
「申告されていない国内資材で、箱へ手が加えられています」
ミラベルが手帳へ書き込む。
「時刻と場所は、まだ不明」
「そうです」
レオンは箱に掛けられた縄を指で持ち上げた。
太い麻縄。
赤と黒の識別糸が一本ずつ、撚りの間へ編み込まれている。
「ヴェルム=クロウ荷役組合の規格だ」
グレアムが言った。
「港ごとに追い糸の色が違う」
レオンは結び目と縄の表面を観察した。
「毛羽立ちが少ない。長く荷を擦った跡もなく、撚りの奥に塩の結晶がほとんどありません」
「船倉に積まれていたなら、濡れないこともあるでしょう」
マレクが言った。
「ええ」
「なら、航海していない証拠にはならない」
「なりません」
レオンは縄を元の位置へ戻した。
「国内の新しい縄で、比較的最近結び直された可能性がある。それだけです」
「先生が慎重で、安心しましたか」
ミラベルがマレクへ尋ねた。
「何のことでしょう」
「結論を急がないから」
マレクは答えなかった。
倉庫内を進むほど、同じ特徴を持つ箱が増えた。
外国港の印。
《灰鷺号》の貨物札。
ギア=ロウ製の釘。
西港荷役組合の縄。
すべての箱ではない。
だが、一箱だけの偶然でもなかった。
グレアムが部下へ命じる。
「該当する貨物番号を全部控えろ。補修記録と封印記録も再確認だ」
「貨物を止める期間が延びます」
マレクの声に焦りが混じった。
「外国商会から賠償請求が来る」
「請求書なら慣れとる」
「市警だけの問題ではありません。保険会社、海運組合、税関――」
「人が死んどる」
グレアムは振り返った。
「それより高い請求書があるなら、見せてみろ」
マレクは目を逸らした。
レオンは床へ視線を落とした。
地上階の床は灰色の石板。
荷車の車輪痕と靴跡が無数に交差し、煤と木屑が薄く積もっている。
「内陸側の搬入口を」
レオンが言った。
マレクが眉を寄せる。
「貨物は水路側から搬入されています」
「記録では」
倉庫の反対側。
高架線の下に、荷車用の大扉があった。
扉は閉じていたが、床には幾筋もの車輪痕が残っている。
レオンは、その中の一組へしゃがみ込んだ。
左右の間隔が広く。
深さは、ほぼ一定。
車輪の縁に挟まれて落ちたらしい、暗褐色の木屑が筋に沿って続いている。
彼は貨物箱の底へ視線を移した。
箱の角から剥がれた木屑と、色も木目もよく似ていた。
「この痕は、いつのものです」
ミラベルが尋ねる。
「分かりません」
「灰鷺号の貨物を運んだ荷車?」
「車輪幅と木屑は矛盾しません」
レオンは床へ触れずに、痕跡を灯りで追った。
「ですが、同じ規格の荷車が別の貨物を運んだ可能性もあります」
車輪痕は搬入口から倉庫中央へ延び、灰鷺号の札を付けられた箱の列近くで、ほかの痕へ紛れていた。
グレアムが警官へ言う。
「車輪幅を測れ。木屑も採れ。昨夜使った荷車と照合する」
レオンは立ち上がった。
壁際へ太い蒸気主管が走っている。
その途中から一本だけ細い管が分かれ、外壁を伝って屋根へ伸びていた。
分岐部分の継手は、周囲の煤けた金属より新しい。
締め金には、工具を掛けたばかりの浅い傷。
継ぎ目には、まだ乾ききっていない黒い耐熱油が残っている。
「この管は?」
レオンが尋ねた。
「屋上の暖房補助管です」
マレクが答えた。
「いつ交換しました」
「設備のことは、機関係へ確認しなければ」
「交換記録も出させろ」
グレアムが部下へ命じる。
レオンは継手を見ただけで、それ以上は触れなかった。
「地下を見せてください」
その一言に、マレクの指が動いた。
ほんのわずかに。
ベストの裾を掴み、すぐに離す。
「地下には保存設備しかありません」
「だから見ます」
「薬用樹脂や染料を保管しています。許可なく近づけば、商品価値が――」
グレアムが令状を広げた。
「地下を除外するとは書いてない」
「危険物があります」
「案内しろ」
マレクは税関吏へ顔を向けた。
税関吏は令状を確かめ、無言で頷く。
拒む余地はなかった。
地下へ続く扉は、倉庫奥の鉄柵内にある。
マレクが二つの鍵を使い、錠を外した。
一つは倉庫管理用。
もう一つは税関封印用。
扉の向こうから、冷えた湿気が上がってくる。
石段は狭く、壁に沿って蒸気管が下へ伸びていた。
足音が赤煉瓦の壁へ反響し、地上の機械音が、一段ずつ遠ざかっていく。
途中でミラベルが立ち止まった。
「赤い……」
石段の縁。
壁の下部。
床へ積もる細かな粉。
地下は、地上階とは異なる赤煉瓦で造られていた。
湿気で表面が脆くなり、角が靴へ擦られるたび、細かな粉が剥がれ落ちている。
レオンは鑑定鞄から、第六閘門で採取した包みを取り出した。
白紙の上へ、ユリウスの靴底から採った粉を少量落とす。
次に、階段脇の床へ落ちていた粉を、別の採取紙へ取った。
二つを灯火の下へ並べる。
色。
粒の大きさ。
混じった黒い煤。
肉眼では、ほとんど同じに見えた。
「一致していますか」
グレアムが尋ねる。
「よく似ています」
「同じではない?」
「成分を調べる前に、同じとは言えません」
レオンは二つの試料を別々に封じた。
「カーウェンの靴底に残っていた赤い粉は、この地下煉瓦から生じたものと矛盾しない。正式な比較鑑定へ回します」
ミラベルはマレクを見る。
「ユリウスさんは、倉庫へ来ていないんですよね」
「そう申し上げました」
「この地下とよく似た粉が、靴底に付いていました」
「西港には、赤煉瓦の建物などいくらでもある」
マレクの声は早かった。
「この倉庫だけの物だと証明できるのですか」
「まだ、できません」
レオンが答えた。
マレクが息を吐く。
「では――」
「証明できないことと、調べる必要がないことは違います」
レオンは鑑定鞄を閉じた。
「あなたの証言は、カーウェンがここへ来ていないというものです。粉は、彼が同種の地下施設へ入った可能性を示している。どちらが正しいかは、鑑定と足取りを照合して決めます」
地下通路の先に、大きな鉄扉があった。
扉には青い貝殻を描いた危険物札が付いている。
マレクが鍵へ手を掛けた。
「内部では火気を使わないでください。染料と防腐樹脂を保管しています」
扉が開く。
冷気とともに、濃い匂いが流れ出した。
塩。
樹脂。
薬品。
そして。
甘く、鋭い香り。
ミラベルが顔を上げる。
「先生」
レオンも足を止めていた。
「この匂い……」
彼女は浅く息を吸った。
「ユリウスさんの袖口です」
マレクの手が、扉の取っ手を強く握った。
室内には、石造りの保存槽が三つ並んでいた。
人間の胸ほどの高さ。
上部は真鍮枠で補強され、重い蓋が半分だけ開いている。
槽の中には、濃い藍色の液体が満たされていた。
表面には油膜が鈍く光り、細長い繊維がゆっくり漂っている。
壁際の棚には、青黒い貝殻を詰めた籠。
樹脂の瓶。
塩袋。
丁子油と記された陶器壺。
「藍殻染液です」
マレクが言った。
「藍殻貝から染料を取る。腐敗しやすいため、塩水と防腐樹脂へ浸して保存します」
「丁子油も」
ミラベルが陶器壺を見る。
「防腐と臭気止めです」
「袖へ付いていた匂いと同じです」
「港では珍しくないと、ご自分たちも確認されたはずだ」
マレクの声が硬くなる。
「香料倉庫、市場、薬品商。丁子油を使う場所はいくらでもあります」
「ええ」
レオンは保存槽へ近づいた。
「匂いだけなら」
槽の縁には、藍色の乾いた染みが重なっている。
液面から塩気を含んだ冷気が上がり、片眼鏡の縁を薄く曇らせた。
「蓋は普段、閉じていますか」
「作業時以外は」
「最後に開けたのは」
「昨日の夕方です。入荷した藍殻を確認しました」
「作業者は」
「記録簿にあります」
「あなたも立ち会った?」
「管理人ですから」
「カーウェンは?」
「来ていません」
同じ答えだった。
今度は、少しだけ強かった。
グレアムが保存室を見回す。
「排水設備は」
「奥です」
保存槽のすぐ脇から床が緩やかに傾き、三歩ほど先で一段低い水路へ落ち込んでいた。
槽から溢れた液体や洗浄水は、その傾斜を伝って一か所へ集まる。
細い排水管ではない。
赤煉瓦で組まれた、大型洗浄排水渠。
人間が身を屈めれば通れるほどの幅と高さがある。
保存槽を洗浄するとき、大量の水と藍殻の残滓を流すための設備だった。
入口は厚い鉄格子で閉ざされている。
「どこへ出る」
「上流運河です」
マレクが答えた。
「染液を直接流すことはありません。洗浄水も中和槽を通します」
レオンは格子の前へしゃがんだ。
左右の固定金具には、新しい擦り傷がある。
塗装が剥がれ、金属の地が細く光っていた。
工具を差し込み、金具を回したような傷。
格子の下部には湿った泥が付着し、その間へ藍色の細い繊維が何本か絡みついている。
「最近、格子を外しましたか」
「保守作業で開けることはあります」
「記録は」
「確認しなければ」
グレアムが警官へ顎をしゃくった。
「保守簿を押さえろ。格子と水路は、触る前に撮図だ」
レオンは工具傷へ触れず、灯りの角度を変える。
「この泥と繊維も採取してください」
「事件と関係が?」
マレクが尋ねた。
「分からないから残します」
レオンは暗い排水渠の奥を見る。
水音だけが、赤煉瓦の先で低く響いていた。
彼は鑑定鞄を開いた。
細い硝子管。
長柄の採取匙。
封蝋付きの小瓶。
マレクが一歩前へ出る。
「商品へ触れるなら、税関の立ち会いを」
「立ち会ってください」
レオンは税関吏を見た。
税関吏が頷く。
採取匙を液面へ入れる。
藍色の液体が、硝子管へゆっくり吸い上げられた。
それを三本の小瓶へ分ける。
一つは市警。
一つは税関。
一つは比較鑑定用。
栓をし。
封蝋を落とし。
採取場所と時刻を記す。
「何と比較するつもりです」
マレクが尋ねた。
レオンは封蝋が冷えるのを待ちながら答えた。
「カーウェンの肺から出た水です」
保存室の空気が、止まったように感じられた。
ミラベルは、藍色の液面を見る。
塩水。
丁子油。
海藻に見えた細い繊維。
ユリウスの身体に残っていた痕跡と、同じ種類のものが、この地下にはある。
赤煉瓦の粉。
内陸側から続く車輪痕。
新しい蒸気管の継手。
大型洗浄排水渠の工具傷。
どれも、単独では何が起きたかを証明しない。
だが。
別々だった痕跡が、一つの倉庫へ集まり始めていた。
レオンは封じた保存液の瓶を灯りへ透かした。
藍色の液体の中を、細い繊維がゆっくり沈んでいく。
「カーウェンがここへ来た証拠には、まだなりません」
彼は言った。
マレクの強張った顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
「ですが」
レオンは瓶を鑑定鞄へ収めた。
「彼の身体に残った痕跡と、照合すべきものが、ここには揃っています」
グレアムはマレクを正面から見た。
「来ていないんだったな」
マレクは答えるまでに、今度は少し時間を要した。
「……はい」
地下の奥で、水が流れた。
低い音が赤煉瓦の壁を伝う。
保存槽から三歩先。
大型洗浄排水渠の暗がりへ。
海とは反対の方向へ伸びる水路の奥へ。
ゆっくりと消えていった。




