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第4節 ― 船を見た者はいない

 港湾記録局の建物は、水の上へ半分せり出していた。


 灰色の石造壁。


 黒く煤けた屋根。


 水路側へ並ぶ、無数の受渡窓口。


 建物の下では運河の水が低く響き、係留された船が揺れるたび、床板の奥から鈍い軋みが伝わってくる。


 《翡翠燕》を桟橋へ残し、レオンたちは記録局へ入った。


 扉を開いた途端、港の匂いが薄れる。


 代わって押し寄せてきたのは、濡れた紙、印肉、封蝋、油を差した歯車、乾ききらないインクの匂いだった。


 広い記録室には、長机が何列も並んでいる。


 窓口から運び込まれた船籍票。


 真鍮筒で送られてきた荷役報告。


 水位記録。


 税関仮検印。


 閘門を通過した船の船名票。


 それらが書記の手を渡り、照合され、印を押され、次の机へ移っていく。


 人間の出生や死亡を管理する記録院が、紙の眠る墓所であるなら。


 港湾記録局は、記録の流れ続ける水路だった。


「止まってください!」


 奥の机から、痩せた記録官が駆け寄ってきた。


 片手には帳簿。


 もう一方には、乾かしかけの入港票を持っている。


「その区画は、港湾局職員以外――」


「市警だ」


 グレアム警部が、外套の内側から証票を出した。


「《灰鷺号》の入港記録をすべて出せ」


「すべて、というのは」


「船籍。入港申告。水先人記録。閘門通過票。荷役票。倉庫受領票。税関仮検印。見張り塔の記録。昨夜から今朝までに作られたものは全部だ」


「ですが、保税貨物は税関、水先記録は組合、閘門通過票は運河管理局の管轄で――」


 グレアムの眉間に皺が寄った。


「死体一つに、何人の管轄がぶら下がっとるんだ」


「それぞれ、確認するものが違いますので」


「同じ船だろうが」


「同じ船であることを確認するために、別々の記録が必要なのです」


 記録官の返答は、怯えてはいたが正しかった。


 レオンが横から言う。


「警部。その人へ怒鳴っても、管轄は一つになりません」


「分かっとる」


「声量では変わらない制度です」


「分かっとると言っとる!」


 記録室中の書記が、一斉に顔を上げた。


 グレアムは周囲を見回し、声を落とす。


「……二階の照合室を借りる。関係書類を運べ」


「責任者の許可が」


「責任者は」


「水上警察との会議中です」


「なら、俺が責任を取る」


 記録官は何かを言いかけたが、グレアムの顔を見て諦めた。


 帳簿を胸へ抱え、書類棚の方へ走っていく。


 ミラベルが小声で尋ねた。


「本当に責任を取れるんですか」


「取れるかどうかと、取るかどうかは別だ」


「警部らしい答えですね」


「褒めるな」


 二階の照合室は、運河へ面した細長い部屋だった。


 大きな窓から、記録局前を通過する船が見える。


 船は窓口の前で速度を落とし、名票を掲げ、係員の旗が上がるのを待つ。


 船体は水面を通り過ぎる。


 名前だけが、建物の中へ残される。


 中央の机へ、記録が次々と運び込まれた。


 灰色の船籍簿。


 青い入港申告書。


 水先人の署名票。


 黄褐色の閘門通過票。


 税関の仮検印を受けた船荷証券。


 第三十七保税倉庫の受領簿。


 見張り塔の夜間記録。


 レオンは椅子へ座らず、手袋を外して書類を並べていく。


 ミラベルは向かい側で手帳を開いた。


「どこから見ます?」


「船が港へ入る順番です」


 レオンは船籍簿を開いた。


 《灰鷺号》。


 船籍番号。


 所有者。


 登録港。


 船体規格。


 機関形式。


 積載量。


 すべての欄が埋まっている。


 更新印も有効期限内だった。


「船籍は正式ですね」


 ミラベルが言った。


「少なくとも、この書類上は」


 レオンは片眼鏡を掛けた。


 印章の縁。


 用紙の繊維。


 記録番号。


 更新印の圧力。


 インクの重なりも、蒸気印字の癖も、書式も正しい。


「紙だけなら、完全です」


「紙だけなら、か」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「船籍簿が証明するのは、灰鷺号という船籍が有効だったことです」


「昨夜、港へ来たことまでは証明しない」


 ミラベルが言う。


「そうです」


 次は入港申告書。


 昨夜、午後十一時五十八分。


 西港外海門から入港。


 船長名。


 出港地。


 積荷の種類。


 乗組員数。


 提出者欄。


 税関仮受理印。


 欠落はない。


「これも正式に受理されています」


「受理された書類です」


 レオンは言い直した。


「内容が正しいかは別です」


「提出者は?」


「船長代理人。登録番号は有効ですが、本人確認はこれからです」


 レオンは申告書を机の右側へ置いた。


 船籍簿は左。


 確認されたものと。


 確認を要するもの。


 ミラベルはその動きを見て、手帳の頁も左右へ分けた。


 見張り塔の夜間記録には、三つの記載があった。


 午後十一時四十分。


 外港側より、《灰鷺号》の登録信号と一致する霧笛。


 午後十一時四十七分。


 灰色地に白鷺紋の船名旗を確認。


 午後十一時五十一分。


 檣と思われる黒い影を確認。


 午前零時。


 入港処理完了。


「見張り塔は、船を見ています」


 ミラベルが言った。


 レオンは頁から顔を上げる。


「船の、何を見たと書いてあります」


 ミラベルは記録を読み直した。


「船名旗と、檣らしい影」


「船体は」


「書かれていません」


「船首、船尾、甲板、煙突、航路灯は?」


「どれもありません」


「見落としただけかもしれん」


 グレアムが言った。


「本人へ聞きましょう」


 昨夜の見張り員と交代員が、照合室へ呼ばれた。


 最初に入ったドワーフの老人は、霧笛を記録した者だった。


「午後十一時四十分。長音一つ、短音二つ、間を置いて長音一つ。登録された灰鷺号の信号と同じだった」


「どこから聞こえました」


 レオンが尋ねる。


「外港側だと思った」


「距離は」


「分からん。霧の日は、倉庫壁と水面で音が返る」


「近くの倉庫から鳴っても、外港から聞こえることは?」


 老人は顔をしかめた。


「あり得る。だが、同じ信号を勝手に鳴らせば規則違反だ」


「規則違反と、不可能は違います」


 レオンは、それ以上追及しなかった。


 次に入った若い見張り員は、船名旗を確認していた。


「灰色の旗に、白い鷺の紋がありました」


「旗の下に船体は?」


「霧が濃くて見えませんでした」


「旗が水上を移動していたかは」


 男は答えに詰まった。


「風で揺れていました」


「位置が移ったかを聞いています」


「そこまでは……」


 最後の交代員が見たのは、霧の上へ突き出した黒い影だった。


「檣だと思いました」


「下端は見えましたか」


「いいえ。倉庫の屋根と霧に隠れていた」


「船体につながっていたところは」


「見ていません」


 三人は、嘘をついていなかった。


 一人は、霧笛を聞いた。


 一人は、旗を見た。


 一人は、檣に見える影を見た。


 だが、一人として。


 その三つが、同じ船体へ属しているところを確認していない。


 グレアムは三人を退室させた。


 代わって、入港窓口の夜勤書記が入ってくる。


 小柄なドワーフの女性。


 袖口には、青い印肉が付着していた。


「船籍票を受け取りました」


「誰から」


「水上索の投函筒です。入港船が票を入れると、窓口へ運ばれます」


「人の手から受け取ったわけではない?」


「はい」


「船体を見ましたか」


 グレアムが尋ねた。


「窓口から水面は見えません」


「機関音は」


「聞こえました。ただ、昨夜は近くに艀が二隻、曳船が一隻、待機中の貨物船もいました」


 レオンは、灰色の船籍票を鑷子で持ち上げた。


 用紙。


 番号。


 検印。


 すべて正式だった。


「あなたが確認したのは、投函索から、この船籍票が届いたことです」


「通常は、船から入れられます」


「通常なら」


 女性書記は、自分の証言に残る空白へ気づいたらしい。


 指先の印肉を見つめた。


 彼女が退室すると、レオンは航行関係の帳簿を引き寄せた。


 石炭補給記録。


 機関油購入記録。


 曳船配船簿。


 水先船の出動記録。


 係船作業簿。


 停泊位置台帳。


 どの頁にも、昨夜の《灰鷺号》はなかった。


「燃料の購入なし」


 ミラベルが確認する。


「西港へ入港した船が、必ずここで石炭を積むわけではありません」


 レオンが答えた。


「ただし、長距離航路から来た船としては確認が必要です」


「曳船依頼もない」


「自力で入港した可能性はあります」


「水先船の出動もない」


「水先人の記録は、別にあります」


「係船索を扱った者も、停泊位置もない」


 グレアムが帳簿を閉じた。


「一つずつなら、なくても説明はつく」


「ええ」


 レオンは並んだ空欄を見た。


「ですが、船体が港へ入ったなら、何か一つは物理的な作業が残るはずです」


「石炭を買わず、曳船を頼まず、水先船も出ず、縄も掛けず、どこへ停泊したかも分からん」


「記録上は」


 ミラベルが言った。


「船が港へ入るための手続きは揃っている。でも、船体を扱った人の記録だけがない」


 残る水先人記録には、流麗な署名があった。


 エルネスト=ヴァル。


 登録番号。


 乗船時刻。


 下船時刻。


 異常なし。


「本人を呼べ」


 グレアムが言った。


 記録官は困ったように首を振る。


「呼べません。エルネスト=ヴァルは、八日前から外国航路上です」


「昨夜ここに署名しているぞ」


「ですから、こちらでも照会を始めたところで――」


 レオンは署名票を持ち上げた。


「過去の署名票を出してください。年代の違うものを五枚」


 棚から古い票が運ばれてくる。


 一年前。


 八か月前。


 五か月前。


 二か月前。


 三週間前。


 レオンは横一列へ並べた。


 ミラベルも隣へ寄る。


「同じ筆跡に見えます」


「同じ人物の署名ですから」


「では、本物では?」


「筆癖が同じことと、線が同じことは違います」


 レオンは、五か月前の署名票と昨夜の票を窓へ向けて重ねた。


 光に透かす。


 名前の最初の曲線。


 長く伸びる横線。


 途中の小さな震え。


 終筆の跳ね。


 インクの途切れた位置まで。


 二つの署名は、一本の線へ重なった。


「完全に同じ……」


 ミラベルが目を見開く。


「同じ人間が二度書いても、ここまで重なりません」


 レオンは昨夜の票を机へ戻し、署名欄を斜めから見た。


「こちらには筆圧がない。過去の署名を転写しています」


「五か月前の票から?」


「線の欠け方まで一致しています。その原票か、原票から作った複写を使った可能性が高い」


「水先人は乗っていなかった」


 グレアムの声が低くなる。


「本人が外国航路上にいることは確認済みです」


「別の人間が船を導いた可能性は」


「残ります」


 レオンは署名票を、未確定側ではなく、偽装が確認された書類として中央へ置いた。


「ただし、入港記録の一部が意図的に作られたことは事実です」


 運河管理局から届いた閘門通過記録も、時刻と番号が揃っていた。


 船名票――《灰鷺号》。


 下流門、開放。


 船名票、挿入。


 給排水弁、作動。


 上流門、開放。


 通過処理、完了。


「第六閘門は、灰鷺号を通したことになっています」


 ミラベルが言う。


「記録筒が残したのは、灰鷺号の船名票が差され、通常の通航操作が一度行われたことです」


 レオンが答えた。


「船体が閘門室へ入ったことまでは?」


「記録しません」


 昨夜の閘門当直者から届いた証言書にも、船体を見たという記述はなかった。


 当直者は操作室で圧力計と水位計を監視し、信号に従って門を動かした。


 霧のため、閘門室の水面は見通せなかった。


「船名票が入れば、機械は船が来たものとして動く」


 ミラベルは、先ほどハルドから聞いた言葉を思い出した。


「機械は船体を見ない」


「ええ」


「では、空の閘門室へ水を入れ、門を開閉しても、同じ記録が残る?」


「船名票を差し、通常の操作を一巡させれば」


「灰鷺号の船体がなくても、灰鷺号が通過した記録は作れる」


 グレアムが言った。


「可能性はあります」


 レオンは閘門通過票を伏せた。


「ただし、実際に空だったことも、誰が船名票を差したかも、まだ証明されていません」


 第三十七保税倉庫の受領簿は、午前零時三十二分を示していた。


 《灰鷺号》積載貨物、受領。


 木箱四十二。


 封印貨物十八。


 染料樽十二。


 機械部品六梱。


 受領印。


 倉庫管理人署名。


 荷役立会印。


「貨物が倉庫へ入ったことは、複数の記録があります」


 ミラベルが言った。


「灰鷺号から陸揚げされたところを見た者は?」


 レオンが尋ねる。


 呼ばれた荷役人は、肩幅の広いドワーフだった。


「俺たちが運んだのは、倉庫前の荷役台から中までだ」


「船上から降ろしたのでは?」


「行ったときには、もう台へ載っていた」


「誰が船から台へ移した」


「受領票では、夜間班だ」


 グレアムが票を見る。


 夜間班番号は記されている。


 だが、個人名の欄は空白だった。


「組合の当日台帳に、この班番号は?」


 荷役人は首を横へ振った。


「確認できていない。形式は組合の番号だが、昨夜の勤務表に該当する班がない」


「存在しない班か」


「そこまでは言えん。別区画の番号を誤記した可能性もある」


「班員を知る者は?」


「今のところ、出ていない」


 夜間班が本当に存在したのか。


 別の班の番号を流用したのか。


 誰が、その番号を受領票へ記したのか。


 現時点では、どれも確定できない。


 分かっているのは。


 貨物が荷役台にあり。


 後から来た作業員が、それを倉庫内へ運んだことだけだった。


 荷役人が退室したあと、ミラベルは机上の記録を見渡した。


「霧笛を聞いた人がいる」


「ええ」


「旗を見た人も、檣らしい影を見た人もいる」


「ええ」


「船籍票を受け取った人がいる。閘門も動いた。貨物も倉庫へ入った」


「すべて事実です」


「でも、それぞれ別の人が、別のものを確認しただけ」


 机の上には、完全な入港記録が並んでいた。


 船籍簿。


 入港申告。


 霧笛記録。


 船名旗。


 檣の影。


 船籍票。


 転写された水先人署名。


 閘門通過票。


 倉庫受領印。


 書類は揃っている。


 様式も正しい。


 番号もつながっている。


 使われた印章も、本物だった。


 だが、船首を見た者はいない。


 甲板へ乗った者も。


 船長と言葉を交わした者も。


 係船索を取った者も。


 停泊場所を記した者も。


「先生」


 ミラベルは声を落とした。


「灰鷺号を見た人は、誰ですか」


 レオンは返事をせず、書類を一枚ずつ確かめた。


 問いへ答える記録は、どこにもない。


「入港を証明する書類はある」


 彼は静かに言った。


「船を見た記録がない」


 運河側の窓を、大きな貨物船が横切った。


 水を押し退ける黒い船首。


 甲板を走る船員。


 煤を吐く煙突。


 岸へ投げられる係船索。


 船が一隻入港するということが、目の前を形となって通過していく。


 その姿が窓の外から消えたあとも、引き波だけが石壁を叩いていた。


「では、《灰鷺号》は入港していない?」


 ミラベルが尋ねる。


「まだ、そう断定する証拠もありません」


 レオンは書類を見つめたまま答えた。


「誰も船体を見ていないことと、船体が存在しなかったことは同じではない。霧に隠れていた可能性は残ります」


「でも、水先人の署名は転写されている」


「ええ」


「船体に伴う作業記録もない」


「ええ」


「空の閘門を動かした可能性もある」


「可能性です」


 グレアムが机へ両手をついた。


「なら、次はどこだ」


 レオンは第三十七保税倉庫の受領簿を取り上げた。


「船を見た者はいません」


 頁の下部。


 受領印の横に記された倉庫番号へ、指を置く。


「ですが、貨物を見た者はいる」


 ミラベルの視線が、同じ番号へ落ちた。


「第三十七保税倉庫」


「船体が存在したかを調べる前に」


 レオンは受領簿を閉じた。


「船から来たことになっている物を見ます」


 窓の外で霧笛が鳴った。


 音は倉庫壁へ反響し。


 別の方向から、遅れて戻ってきた。


 その音だけでは。


 どの船が鳴らしたのか。


 そもそも、船から鳴ったのかさえ。


 誰にも分からなかった。

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