観測余録 ― 降車記録のない者
深夜。
灰環大墓苑の地上では、すべての門が閉ざされていた。
正門には、市警の封鎖札。
地下へ通じる鉄扉には、新しい鎖。
墓碑の間を歩く者もなく、青白い墓地灯だけが、霧に濡れた死者の名を照らしている。
その、はるか下。
閉鎖された地下第二納骨環で。
硬い靴音が、一つ響いた。
こつ。
間を置いて。
こつ。
古い蒸気灯は消えている。
壁を走る配管も。
排水機も。
棺昇降機も沈黙していた。
それでも。
黒いシルクハットをかぶった、小柄なドワーフの男は、暗闇の中を迷わず歩いていた。
黒い車掌礼装。
深紫の帯。
磨かれた革靴。
片手には、紫石をあしらった細身の杖。
もう一方の手には、古びた真鍮の検札鋏。
エル=ネフリド。
彼の帽子にも。
外套にも。
地下の湿気は触れなかった。
骨箱の棚が、両側に続いている。
番号の残る箱。
名の消えた箱。
二枚の札を持つ箱。
何も持たない箱。
誰が、どこから運ばれ。
どの名の下へ納められたのか。
もはや、地上の台帳だけでは読み切れない死者たち。
マレク=ドーンは逮捕された。
シラス=モーンを殺した方法も。
墓碑と区画台帳を残し、遺骨と埋葬札を動かした不正も明らかになった。
だが。
犯人が捕らえられても。
すべての死者が、正しい名へ戻ったわけではない。
エル=ネフリドは、一つの空の骨箱の前で足を止めた。
床に。
何かが落ちている。
古い真鍮札だった。
鎖は切れ。
表面には緑青が浮き。
刻まれているのは、数字だけ。
名はない。
彼は白い手袋の指先で、札を拾い上げた。
傾ける。
灯りのない地下で。
消えかけた番号だけが、かすかに光を返した。
その番号が、誰のものであったのか。
どの墓から運ばれたのか。
どの骨とともにあるべきだったのか。
地上の記録は。
もう答えを持っていなかった。
エル=ネフリドは、細身の杖で札を軽く叩いた。
ちん。
小さな音が。
配管の奥へ。
縦坑の上へ。
閉鎖された地下道の果てへ伝わっていく。
やがて。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
低く。
長く。
灰環大墓苑に、鉄道は通っていない。
地下第二納骨環に、停車場もない。
それでも。
存在しない葬送列車の到着を告げる鐘が。
暗闇の向こうで鳴っていた。
エル=ネフリドは、真鍮札を目の高さへ掲げた。
「乗車記録はある」
穏やかな声だった。
誰かへ説明する声ではない。
記録そのものへ、確認を告げる声だった。
「到着記録もある」
札の裏面へ目を移す。
そこにも、名はない。
「ただし、誰が降りたのかは記されていない」
真鍮の検札鋏が開く。
刃の間へ、札の隅が差し込まれた。
かちり。
一度だけ。
乾いた音が鳴る。
札へ、小さな穴が開いた。
墓苑の移転記号ではない。
市政記録局の分類記号でも。
葬送鉄道の検札印でもない。
その形を照合する者は、ここにはいなかった。
エル=ネフリドは、穿たれた穴をしばらく眺めた。
微笑んでいるようにも。
何かを惜しんでいるようにも見える。
だが。
その表情が、誰へ向けられたものなのか。
見届ける者はいない。
彼は札を、証拠袋へ入れなかった。
市警へ届けることも。
市政記録局の台帳へ加えることもしない。
エル=ネフリドは、空の骨箱を引き出した。
中には。
骨も。
布も。
名前もない。
穴の開いた真鍮札だけを、その底へ戻す。
骨箱を閉じる。
「埋葬記録、照合継続」
杖の先が、石床を一度叩いた。
こつ。
その音を合図に。
暗闇の向こうで、鉄の車輪が軋んだ。
ゆっくりと。
長い眠りから目を覚ますように。
一度。
また一度。
誰も乗せていないはずの車輪が。
名を持たない乗客を運ぶように。
地下のさらに奥へ向かって。
動き始めた。




