終幕 ― 名前のある場所
灰環大墓苑の封鎖から、七日が過ぎていた。
正門の鎖は、まだ外されていない。
市警の封鎖札は雨を吸い、端がわずかに丸まっていた。墓参者の代わりに出入りするのは、遺骨を照合する検視官と、帳簿を運ぶ記録官、市の命令を受けた調査員ばかりだった。
第三環――共同墓地区。
E三一八。
ノア=フェルの墓は、開封時の状態を残して保全されていた。
墓穴の周囲には、腰の高さほどの仮柵が設けられている。雨を防ぐ天幕が張られ、足を踏み外さないよう、墓穴の上には厚い板を組んだ仮床が渡されていた。
仮床の一部だけは、検分を続けるために開閉できるようになっている。
その下にある墓穴は、空だった。
棺は運び出されている。
弟の遺骨も。
代わりに納められていた老年のドワーフ女性の遺骨も、すでにそこにはなかった。
ただ。
墓碑だけが、元の場所へ立っていた。
ノア=フェル。
享年十七。
濡れた文字の下には、少年が彫った小さな鳥の石片が置かれている。
翼の片方が不格好なままの鳥。
その隣へ、白と淡紫の花が新しく供えられていた。
リディア=フェルは、墓碑の前に立っていた。
深緑色の作業外套。
腰には剪定鋏と清掃布。
いつもどおりの花守の姿だった。
けれど。
墓碑へ伸ばした手は、苔を落とすためのものではなかった。
指先を、弟の名前へ重ねている。
石がまだそこにあることを、確かめるように。
「フェルさん」
墓道から呼びかけたのは、市の墓苑整理官だった。
灰色の制服を着た男の後ろに、二人の石工が控えている。
一人は小型の吊具を持ち。
もう一人は、細長い木札を抱えていた。
白く塗られた札には、黒い文字が記されている。
被葬者照合中。
リディアは振り返った。
「何ですか、それは」
整理官は帽子を脱いだ。
「市政記録局と墓苑再調査委員会の決定です。被葬者の照合が完了していない墓碑は、誤認を避けるため、一時的に撤去します」
「撤去?」
「現在、この墓碑の記載内容は、埋葬されていた遺骨と一致しておりません」
男は、書面を開いた。
「調査期間中は墓碑を保管庫へ移し、代わりにこちらの札を設置します。照合が完了したあと、正しい被葬者名を確認して――」
「嫌です」
リディアは言った。
声は大きくなかった。
だが。
石工たちの動きは、それだけで止まった。
「お気持ちは分かります」
「分かりません」
「しかし、この墓にノア=フェル氏の遺骨が存在しなかったことは、すでに確認されています」
「知っています」
「でしたら、この墓碑を残すことは、別の被葬者をノア=フェル氏と誤認させることになります」
「この墓碑は、弟のものです」
整理官が、困ったように書面へ視線を落とした。
「墓碑とは、被葬者を示すものです」
「そう決めたのは、あなたたちでしょう」
「墓苑の記録制度上――」
「その制度が間違っていたから、弟がいなくなったんです」
リディアの声に怒りはなかった。
怒鳴る力を、もう使い果たした者の声だった。
少し離れた墓道で。
ミラベルは記録帳を抱えたまま、二人のやり取りを聞いていた。
隣には、レオンがいる。
彼は整理官の持つ命令書と、墓碑の基部を交互に見ていた。
「墓碑を動かす許可は、誰が出した」
レオンが尋ねた。
整理官が顔を向ける。
「墓苑再調査委員会です」
「市警の証拠保全命令は解除されていない」
「墓碑と遺骨の不一致は、すでに記録されています」
「記録したから、現物を動かしていいとは限らない」
「保管庫で保存します」
「この墓碑は、分離された埋葬記録の一つだ」
レオンは墓碑の正面を見た。
「ノア=フェルの名。埋葬日。区画。十七年間、ここへ置かれていた状態。それ自体が調査対象になる」
「石そのものを、まだ調べる必要が?」
「再刻印の有無。過去の補修。移転表示を削った痕跡。基部の土。据え直された形跡」
レオンは、墓碑と地面の境へ視線を落とした。
「移動させれば、元の状態は失われる」
「では、証拠保全のために残せと?」
「少なくとも、調査が終わるまではな」
ミラベルはレオンを見た。
彼の言葉は、あくまで証拠の話だった。
リディアがここで過ごした十七年間を、理由にはしていない。
けれど。
その冷静な理由が、結果として墓碑を守ろうとしていた。
「それは、探偵の見解です」
整理官が言った。
「市警の保全対象に墓碑まで含まれるとは、命令書に――」
「いま含める」
墓道の向こうから、グレアムの声がした。
制帽を被り、火の点いていない葉巻を咥えた警部が、二人の巡査を連れて歩いてくる。
整理官の顔が強張った。
「警部。墓苑再調査委員会からは、誤認防止を優先するようにと」
「市警は、証拠保全を優先する」
グレアムは墓碑の前で止まった。
「調査終了まで、石も基部も動かすな。仮柵、天幕、仮床も維持。検分に必要な者以外は、柵の中へ入れるな」
「委員会の決定と衝突します」
「なら、俺の名前を添えて差し戻せ」
「市としての表示は必要です」
「それは構わん」
グレアムは、石工が抱える白い札を見た。
「墓碑を隠さない場所へ立てろ。札を見れば照合中だと分かり、墓碑を見れば、誰の墓として扱われてきたか分かる」
整理官は、リディアへ視線を戻した。
「墓碑を現位置で保全し、被葬者照合中の札を併設する。市としても、調査終了までの暫定措置としてなら認められます」
「墓碑の前には置かないでください」
リディアが言った。
「承知しました」
石工の一人が、墓碑から少し離れた場所へ木札を立てる。
土へ杭を打つ音が、墓地に響いた。
白い札は、事実を告げる。
墓碑は、過去を残す。
ノア=フェルという名は。
新しい表示に覆われることなく、そこに残った。
整理官と石工たちが去り。
グレアムも、別の検分区画へ向かったあと。
リディアは、もう一度墓碑へ手を置いた。
「本当に、残していいんですか」
ミラベルが近づいた。
「市警の保全命令がある間は」
レオンが答えた。
「そのあとは?」
リディアが尋ねる。
「市の最終判断になる」
「撤去すると言われたら」
「また拒みます」
リディアは墓穴へ目を向けた。
木板で支えられ。
仮床に覆われた、空の穴。
「ここに弟がいないことは、分かりました」
「はい」
ミラベルが答える。
「地下のどこかにいるのか。別の棺にいるのか。共同埋葬区で、ほかの人の骨と混ざっているのか」
リディアの声が、一度途切れた。
「もう、見つけても弟だと分からないのかもしれません」
ミラベルは否定できなかった。
ノアの遺骨について、確定した移転先は発見されていない。
正式台帳。
断片的な移転票。
打ち直された埋葬札。
地下の骨箱。
どの記録も、途中で別の死者へつながっていた。
見つかっていない。
それが、いま確認できる事実だった。
そして。
見つけられるかどうかは、まだ分からない。
「この墓碑が、弟の遺骨がある場所を示していないことも分かっています」
リディアの指先が、刻まれた名前をなぞる。
「でも」
彼女はミラベルを見た。
「弟がここにいなかったことと、
私がここへ来ていたことは、別です」
ミラベルは、すぐには記録帳を開かなかった。
その言葉を。
まず、自分の中へ置いた。
「十七年間」
リディアは続けた。
「私はここへ来ました。花を替えて。苔を落として。仕事の愚痴を言って。弟が生きていたら笑っただろうことを話しました」
墓碑の根元にある、小さな鳥を見る。
「それが、別人の骨へ話しかけていたことになるのかもしれません」
「リディアさん」
「でも、私が忘れなかったのは、あの人ではありません」
リディアは、仮床の下にある空の墓穴ではなく。
ノアの名前を見た。
「弟です」
風が、雨除けの天幕を揺らした。
白い木札も。
墓碑の文字も。
どちらも倒れなかった。
ミラベルは記録帳を開く。
一字ずつ。
リディアの言葉を書き留めた。
弟がここにいなかったことと。
私がここへ来ていたことは、別です。
「記事に使ってもいいですか」
ミラベルが尋ねた。
「弟の名前を?」
「個人名は、照合が終わるまで伏せます」
リディアの目が、わずかに揺れた。
「弟まで、また名前を失うんですか」
「違います」
ミラベルは答えた。
「いま名前を出せば、弟さんの墓だけが見世物になります。記事には、何が行われたかを書きます。誰が責任を負うべきかも。二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性があることも隠しません」
「では、弟のことは」
「あなたが、忘れなかったことを書きます」
リディアは、しばらくミラベルを見つめた。
やがて。
小さくうなずいた。
◇
ミラベルは、墓苑管理棟から借りた小さな机を墓道の端へ運んだ。
記事の本文は、ほとんど書き上がっている。
シラス=モーンの殺害。
旧昇降機を用いた、密閉石棺への死体移送。
墓所を無縁化し、墓碑と区画台帳を残したまま、遺骨と埋葬札を移し、空いた区画を再販売していた不正。
墓碑、区画台帳、埋葬札、遺骨の対応関係が、切り離されていたこと。
二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性があること。
すでに確認された事例として。
別人の遺骨が納められていた墓。
番号を打ち直された埋葬札。
正式な移転先が記録されていない墓があること。
市の監督制度が、十六年間、その不正を発見できなかったこと。
照合が終わっていない個人名を、現段階では掲載しないこと。
伏せるべきものと。
伏せてはならないもの。
その境界を、一行ずつ確かめて書いた。
残っているのは。
題名と。
記事の最後だった。
ミラベルは、仮柵の向こうにある墓を見た。
墓碑だけが残っている。
その下に。
名前を刻まれた人物はいない。
同じことが、ほかの墓でも起きている可能性がある。
墓碑の下にいない死者たち。
ミラベルは、題名欄へ記した。
『墓碑の下にいない死者たち』
それから。
先ほど記録した、リディアの言葉を記事の末尾へ加える。
弟がここにいなかったことと。
私がここへ来ていたことは、別です。
その下へ。
自分の言葉を置いた。
墓は、死者だけのものではない。
生きている者が、忘れなかったことを置く場所でもある。
書き終えたとき。
墓苑の空は、夕方の色へ変わり始めていた。
「できました」
ミラベルが原稿を持ち上げる。
レオンは、少し離れた墓碑の前に立っていた。
「誰に言っている」
「あなたです」
「聞いていない」
「読んでください」
「新聞社へ持っていけ」
「持っていく前に読んでください」
「訂正すれば怒るだろう」
「間違っているなら直します」
「言い方を直すと怒る」
「内容を見てから言ってください」
レオンは小さく息を吐き。
原稿を受け取った。
最初に題名を見る。
次に本文。
証拠の列挙。
市の責任。
無縁化制度の問題。
二百十四名という数字の意味。
個人名を伏せる理由。
読み進める速度は速かったが。
最後の数行だけは、少し長く見ていた。
墓は、死者だけのものではない。
生きている者が、忘れなかったことを置く場所でもある。
レオンは原稿を下ろした。
「少し感情的だ」
ミラベルは、予想していたように答えた。
「墓の記事ですから」
レオンは、もう一度最後の一文を見る。
いつもなら。
証明できない感情を事実へ混ぜるなと言う。
誰の心を、誰が決めたのかと尋ねる。
だが。
その一文の前には。
リディアが十七年間、毎月墓を訪れていた記録がある。
花を替え。
苔を落とし。
弟が彫った鳥を残していた。
悲しみそのものは測れなくても。
彼女がここへ来ていたことは、事実だった。
「訂正は?」
ミラベルが尋ねる。
「ない」
「本当に?」
「二度言わせるな」
レオンは原稿を返した。
それ以上、訂正しなかった。
リディアは、墓碑の前へ新しい花を置いていた。
その墓の下に。
ノア=フェルはいない。
墓碑はもう、遺骨の場所を示してはいなかった。
それでも。
姉が弟を忘れなかった場所として。
その名を刻んだ石は。
夕霧の中へ、立ち続けていた。




