第13節 ― 墓碑を戻すことはできない
マレク=ドーンが連行されたあとも、灰環大墓苑の門は開かなかった。
正門には、市警の封鎖札。
通用門には、二重の鎖。
墓苑全体が、一時封鎖されている。
葬儀の列は門前で止められ、新たな埋葬も、墓参りも、遺骨の移動も禁じられていた。
それでも。
死者は、待ってくれなかった。
門の外には、埋葬許可証を抱えた遺族が並び始めている。
黒い馬車。
白布を掛けられた小棺。
雨に濡れた花輪。
新規の埋葬は、市警と市の臨時措置によって、ほかの墓苑へ振り分けられていた。
だが。
急な受け入れに対応できる墓苑は多くない。
墓苑の中では、すでに埋められた死者の名前と場所が分からなくなり。
墓苑の外では、これから埋められる死者が場所を求めていた。
管理棟の一階。
長い閲覧卓の上には、再調査のために集められた資料が並んでいる。
正式な区画台帳。
シラス=モーンの不整合照合表。
マレクの供述記録。
地下納骨環から回収された骨箱。
保管棚の隙間や古い書類箱から見つかった、断片的な移転票。
数字を重ねて打ち直された埋葬札。
完全な答えを持つ資料は、一つもなかった。
台帳には、墓碑と同じ名前が残っている。
移転票には、区画番号だけがあり、移転先がない。
骨箱には、札が二枚付いている。
札がなく。
番号だけが残った箱もある。
記録は失われていない。
ただ。
どの記録が、どの死者へ所属するのかが分からなくなっていた。
「これが、まだ一番ましな箱だ」
グレアムが言った。
閲覧卓の端には、地下第一納骨環から運び出された小さな骨箱が置かれている。
市警の封印を掛けられ。
蓋は開けられていない。
側面には真鍮札が二枚。
一枚は釘で固定され。
もう一枚は、細い鎖で吊られていた。
名前が違う。
区画番号も違う。
「中を調べれば、どちらの人か分かるんでしょうか」
ミラベルが尋ねた。
「種族と性別と、おおよその年齢はな」
グレアムは腕を組んだ。
「だが、同じ条件に当てはまる死者が何人もいる。古傷や歯の治療記録でも残っとれば別だが、白紙街の住民や日雇い労働者に、そんな記録があるとは限らん」
「札の番号からは?」
「どちらも打ち直されとる」
レオンは、二枚の札を横から見ていた。
「元の数字が読めても、その番号がこの骨箱へ付けられたものかは分からない。途中で札か箱のどちらかが交換されていれば、番号だけでは結べない」
ミラベルは、次の報告書へ目を移した。
地下第一納骨環。
番号消失。
遺骨一体分。
種族推定不能。
移転元不明。
別の紙。
共同埋葬区。
複数人の遺骨混在。
個別照合困難。
さらに。
第三環・共同墓地区の個別墓穴開封。
墓碑記載と遺骨の性別不一致。
正しい移転先、未確認。
「照合表にある人たちが、全員こうなっているわけではないんですね」
「違う」
レオンが答えた。
「二百十四名は、シラスが埋葬記録に不一致の可能性を見つけた調査対象だ」
彼は紙束を分けた。
「別人の遺骨が入っていたと確認された墓」
一つ。
「札番号が打ち直されている墓」
二つ。
「台帳に移管を示す印があるのに、正式な移転先が記録されていない墓」
三つ。
「ほかには、無縁化の手続きや古い検分記録へ疑いがあるだけで、まだ遺骨の不一致までは確認されていない者もいる」
「調べた結果、正しい墓だと分かる人も」
「いるはずだ」
「まだ、その確認も終わっていない」
「ああ」
ミラベルは、記録帳へ書いた。
――二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性がある。
その下へ。
――二百十四名全員の遺骨が移されたと確定したわけではない。
さらに。
――ただし、現時点では、どの墓が正しいかを一括して保証することもできない。
ペンを止める。
墓苑の外に並ぶ墓碑を思った。
正しく埋葬されていた死者まで。
照合が終わるまでは、疑いの中へ置かれることになる。
「ノアさんは」
ミラベルが尋ねた。
グレアムは、机上の書類を一枚取った。
正式な移転許可証ではない。
六年前の日付が書かれた、断片的な作業票だった。
区画番号は、第三環・E三一八。
地下棚番号らしい数字は、途中で二度訂正されている。
「これがノアの移転票かどうかも、まだ確定しとらん」
グレアムが言った。
「区画は合う。日付も、台帳の鉛筆印と同じ年だ。だが、名前がない」
「最後に書かれた棚番号は?」
「その棚にあった箱は空だった」
「その前の番号は」
「老年の人間男性と見られる遺骨が入っとった」
「さらに前は?」
「数字が削られて読めん」
ミラベルは何も書かなかった。
書ける内容は、もう十分に分かっている。
ノア=フェルの遺骨は。
まだ見つかっていない。
見つかっていないというより。
それらしい遺骨を見つけても。
それがノアだと証明できない可能性がある。
「ローデン家のアーネストも同じだ」
グレアムが続ける。
「マレクは地下へ移したと供述しとる。だが、移転先として挙げた棚の札は打ち直され、箱の中身は別の共同埋葬区へ移された可能性がある」
「共同埋葬区を調べれば」
「骨が混ざっている」
レオンが言った。
「個体ごとに分けられたとしても、札がない。年齢や種族が一致する遺骨を見つけても、それだけで本人とは断定できない」
「名前が分かっているのに」
ミラベルは骨箱を見た。
「骨の方へ戻せない」
「名前と遺骨を結ぶ経路が失われた」
レオンの声は低かった。
「マレクは、名前を残したつもりだった。だが、場所との関係を切った時点で、その名前が誰を指すのかまで曖昧にした」
管理棟の扉が開いた。
冷たい風とともに、市政記録局の監督官たちが入ってくる。
灰色の制服。
揃えられた書類鞄。
墓苑の土へ一度も足を下ろしていないような、磨かれた靴。
先頭の男が、グレアムへ書面を差し出した。
「墓苑全面閉鎖命令の再検討を求めます」
「却下だ」
グレアムは受け取らなかった。
「まだ読んでおられません」
「表題は読んだ」
「灰環大墓苑は、市内最大級の埋葬施設です。全面閉鎖が続けば、病院、検死院、葬儀商、教会墓地のすべてへ影響が出ます」
「だから、調べずに埋め続けろと?」
「第一環、第三環、地下納骨環を優先調査区とし、それ以外の区画については、安全確認が取れた場所から段階的に再開する案です」
「安全確認は、まだ取れていない」
グレアムの声が室内へ響いた。
「区画台帳か。墓碑か。埋葬札か。それとも、逮捕された記録主任の供述か。何をもって安全だと保証する」
監督官の口が閉じる。
「灰環大墓苑全体の一時封鎖は継続する」
グレアムは言った。
「第一環、第三環、地下納骨環を優先的に調査する。新規埋葬は、引き続きほかの墓苑へ振り分けろ」
「一部再開の判断は」
「優先区画の照合が進み、ほかの区画を開けても調査と証拠保全に支障がないと確認してからだ」
「何年かかるとお考えです」
「終わるまでだ」
「現実的ではありません」
「正しい名前の下へ、誰が埋まっとるか分からん墓地を動かし続ける方が、よほど現実離れしとる」
監督官は、今度はレオンへ視線を向けた。
「クラウス氏。あなたからも警部へご説明いただきたい」
「何を」
「全面閉鎖と一斉公表が引き起こす混乱をです」
「一斉公表をすると、誰が言った」
男の目が、ミラベルへ向く。
「報道関係者が、すでに監査資料の複製を所持しています」
「ええ」
ミラベルが答えた。
迷いはなかった。
「市政記録局としては、照合終了まで、本件を非公開処理とするよう求めます」
「殺人事件も?」
「殺人については、市警の発表に従います」
「墓所の不正は?」
「現在、確認中です」
「二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性があることは?」
「監査途中の資料です」
「ノア=フェルの墓へ、別人の遺骨が入っていたことは?」
「個別の事案です」
「札番号が打ち直されていた墓や、移転先の記録がない墓が確認されていることは?」
「調査中です」
正しい言葉だった。
確認中。
監査途中。
個別事案。
調査中。
一つずつ置けば、嘘ではない。
その言葉だけを並べれば。
何一つ、公表できないことになる。
「不正そのものを隠すつもりなら」
レオンが言った。
「その書面は持って帰れ」
監督官の表情が硬くなる。
「隠すのではありません。混乱を避けるのです」
「未確認の個人名を、一斉に公表することには俺も反対だ」
男の顔に、わずかな安堵が浮かぶ。
「だが」
レオンは、卓上の資料へ手を置いた。
「不正があった事実を伏せることにも反対する」
安堵が消えた。
「公表するのは、確認できた事実だけだ」
レオンは順番に示した。
「シラス=モーンが殺されたこと」
一つ。
「マレク=ドーンが犯行を認めたこと」
二つ。
「無縁化制度を利用し、遺骨、埋葬札、移転記録を、本来の墓碑と区画台帳から切り離したこと」
三つ。
「シラスの照合表に記載された二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性があること」
四つ。
「すでに、別人の遺骨が入っていた墓、札番号が打ち直されていた墓、移転先が記録されていない墓が確認されていること」
「市の監督責任も書きます」
ミラベルが言った。
「無縁化制度を認めたこと。墓碑、台帳、札、地下骨箱を照合せず、十六年間、不正を見つけられなかったこと」
「その表現には異議があります」
「記事を読んでから送ってください」
「掲載前の確認を要求します」
「お断りします」
即答だった。
シラスの照合表を受け取ったとき、すでに決めたことだった。
不正の存在は消さない。
資料は複数の場所へ残す。
調査対象と、確定した被害を混同しない。
照合の終わっていない個人名は、公表しない。
いま必要なのは。
同じ論争を繰り返すことではなく。
その原則を、実行することだった。
部屋の端で。
扉が、控えめに二度叩かれた。
市政記録局の制服ではない男が立っている。
濃紺の外套。
胸元に、中央記録庁の小さな徽章。
「レオン=クラウス様へ」
「様は要らない」
男は表情を変えず、封筒を差し出した。
「非公式の伝言です」
封蝋には、クラウス家の紋章も。
中央記録庁の印章も押されていなかった。
レオンが封を切る。
中には、小さなカードが一枚。
整いすぎた筆跡で、一文だけ記されている。
全墓所を一度に公開すれば、市内の埋葬記録制度そのものが崩れる。
署名はない。
必要もなかった。
「エドガーさんですか」
ミラベルが尋ねた。
「ああ」
「止めろ、と?」
「兄さんが止めたいなら、伝言では済ませない」
「では、忠告」
「そうだ」
「内容は正しいんですか」
「正しい」
死亡記録。
相続。
墓所権。
土地契約。
宗教手続き。
墓の所在と埋葬記録は、そのすべてへ結びついている。
一つの墓苑の台帳が信用を失えば。
市内の別の墓苑も。
別の埋葬記録も疑われる。
「崩れる原因を作ったのは、公表ではありません」
ミラベルが言った。
「不正です」
「ああ」
レオンはカードを折らずに、机へ置いた。
「だが、未確認の名前を一斉に出せば、正しい墓まで疑いの対象になる」
「だから、個人名は出しません」
ミラベルは答えた。
「不正の存在。調査対象の人数。確認された不一致。制度と市の責任。それだけを書きます」
「調査が止められたら」
レオンが言う。
「止めた部署と、止めた人の名前を書きます」
「確認済みの遺族が公表を望んだら」
「その意思と、公益性を確認して判断します」
「ならいい」
レオンは、それ以上訂正しなかった。
ミラベルは閲覧卓の空いた席へ座る。
記録帳ではなく。
新聞社の原稿用紙を取り出した。
「ここで書くのか」
グレアムが尋ねる。
「帰れば、市政記録局から編集部へ先に説明が行きます」
監督官が何か言おうとした。
「取材妨害も、記録には残せます」
ミラベルは顔を上げずに言った。
男は口を閉じた。
ペン先が紙へ触れる。
最初の一行。
灰環大墓苑において、埋葬記録と実際の遺骨が一致しない事例が確認された。
次に。
埋葬記録監査官シラス=モーンの殺害。
旧昇降機を用いた死体移送。
マレク=ドーンの逮捕と供述。
十六年前から行われていた、不正な墓所再販売。
墓碑と区画台帳を残し。
遺骨、埋葬札、移転記録が切り離されていたこと。
シラスの照合表にある二百十四名の埋葬記録に、不一致の可能性があること。
確認済みの事例として。
別人の遺骨が納められていた墓。
番号を打ち直された埋葬札。
移転先の記録が存在しない墓。
市が認めた無縁化制度が。
住所を認められない者。
文字を書けない者。
正式な親族登録を持たない者を。
死後の記録から切り離しやすい構造を持っていたこと。
墓苑管理の監督と照合が、機能しなかったこと。
ミラベルは書いた。
止まらずに。
怒りを消さず。
けれど。
怒りへ事実を従わせないよう、一文ずつ確かめながら。
個人名の一覧を置くはずだった場所で。
ペンが止まる。
シラスが調べていた名前。
その一人一人に。
遺族がいるかもしれない。
いないかもしれない。
正しい墓にいる者も。
別人の棺へ移された者も。
番号の消えた箱にいる者も。
何の不正も確認されない者もいる。
ミラベルは、個人名を書かなかった。
代わりに記した。
――市警および第三者を含む再調査が完了するまで、照合中の墓所に関する個人名は公表しない。
監督官が、その一文を横から読む。
「非公開処理を受け入れるのですか」
「違います」
ミラベルはペンを置いた。
「伏せるのは、確認できていない名前だけです」
「同じことでは」
「不正は書きます。制度も。人数も。市の責任も。調査が終わっていないことも」
彼女は男を見上げた。
「誰の墓か分からないからといって、何が起きたかまで、分からないことにはしません」
監督官は、返す言葉を失った。
グレアムが、墓苑全体の一時閉鎖継続命令へ署名する。
太いペン先が、紙を強く擦った。
「灰環大墓苑は、引き続き全面封鎖。第一環、第三環、地下納骨環を優先調査区とする。新規埋葬は、ほかの墓苑へ振り分ける」
監督官が顔を上げる。
「一部再開の可否は、優先区画の照合と証拠保全が進んだあと、市と市警で判断する」
さらに。
「遺族への告知は、書面だけに限るな」
「墓苑掲示。新聞。白紙街への巡回告知。口頭申告の受付も入れろ」
「権限を越えています」
「越えた分は、あとで処分しろ」
グレアムは署名済みの紙を、監督官へ押しつけた。
「先に、死者を調べる」
窓の外では。
墓碑の列に、夕方の霧が戻り始めていた。
正しい名の下に、正しい遺骨がある墓。
別人が眠る墓。
誰も眠っていない墓。
その違いを。
地上から見分けることはできない。
「墓碑を正しい場所へ戻せると思いますか」
ミラベルが、誰にともなく尋ねた。
レオンは、番号の消えた骨箱を見た。
「石なら動かせる」
「名前も彫り直せる」
「ああ」
「でも」
「誰の場所か分からなければ、戻したことにはならない」
墓碑は作り直せる。
台帳も訂正できる。
札も、新しく打ち直せる。
だが。
一度切り離された。
死者の名と。
その人が眠っていた場所を。
完全に元へ戻すことはできない。
ミラベルは、記事の末尾に日付を書いた。
題名の欄だけを。
まだ空白のまま残す。
殺人事件の構造は解けた。
犯人も。
方法も。
殺害時刻も明らかになった。
それでも。
二百十四名の埋葬記録について。
正しい答えが。
すべて戻ったわけではなかった。




