第12節 ― 死者の場所を売った男
地下第二納骨環へ降りる階段を、警官たちの蒸気灯が一つずつ照らしていった。
先頭はグレアム警部。
その後ろを、レオンとミラベル。
続いて、マレク=ドーン、エマ=グリス、ゴルム=ホルツが下りる。
霊廟に残されたセシリアとリディアには、別の警官が付いていた。
これから行われるのは、封じられた石棺の実演ではない。
その石棺へ死体を送り込む前。
一人の男が殺された場所の検分だった。
階段の下には、湿った冷気が溜まっている。
古い蒸気配管。
緑青の浮いた冷却用通風管。
赤錆に覆われた排水溝。
骨箱を運んだ水平軌道。
携帯灯の明かりが進むたび、地下施設の輪郭が闇から切り出されていった。
マレクは逃げなかった。
黒い礼服の裾を汚さないよう足元を確かめ、警官の指示に従っている。
その姿は。
遺族を墓へ案内する記録主任と、何も変わらなかった。
昇降機室の前には、市警の技師と検視官が待っていた。
巻上げ輪の脇。
白い検分布の上へ、固定用の鉄棒が置かれている。
長さは、ドワーフの腕ほど。
先端には、昇降機の歯車軸へ差し込むための丸い固定穴があった。
「これが、台を止める固定棒ですか」
ミラベルが尋ねる。
「上げ下げの途中で台が落ちんよう、歯車を固定する」
ゴルムが答えた。
「穴へ留め金を通して使う」
彼は鉄棒へ指を向けたが、触れなかった。
表面は黒ずんでいる。
油。
錆。
長年使われた機械部品にしか見えない。
「表面は洗われていた」
グレアムが言った。
「油を落としすぎたせいで、かえって周囲よりきれいになっとる」
レオンは固定棒の中央を見た。
最初の検分で。
そこだけ埃が薄いことは確認されていた。
「血も、髪も、表面には残っていない」
マレクが静かに言った。
「表面にはな」
グレアムは検視官へ顎を動かした。
検視官が、細い金属棒と硝子皿を取り出す。
「固定穴の内側には、洗浄水の届きにくい窪みがあります」
丸い穴の奥へ道具を差し入れる。
内壁を静かに擦ると。
乾燥した黒褐色の小片が、硝子皿へ落ちた。
「錆ではありません」
検視官は携帯灯へ皿を近づける。
「人血への反応が出ています。付着してから、長い年月を経たものでもありません」
地下の空気が、さらに冷たくなったように感じられた。
ミラベルは鉄棒を見る。
外側には何もない。
洗われなかった穴の中にだけ、血が残っている。
「シラスさんの血だと分かるんですか」
「現段階で、個人まで断定はできません」
検視官が答えた。
「ですが」
彼は、シラスの後頭部を記録した見取図を広げる。
「損傷部は、細長く、片側に丸みを持つ鈍器によって形成された可能性が高い。この固定棒の端部は、その幅と形状に一致します」
「同じ形の物で殴られた」
ミラベルが言う。
「少なくとも」
レオンが答えた。
「この棒には新しい人血が残り、シラスの傷を作り得る形と重さがある」
「それだけでは、凶器と決められない」
マレクが言った。
「それだけならな」
グレアムは、昇降機室の床へ携帯灯を向けた。
「次だ」
床全体は、薄い灰色の埃に覆われている。
閉鎖から十五年。
誰も使っていない部屋なら、不自然ではない。
だが。
巻上げ輪と固定棒の置かれていた場所の間だけ。
埃の状態が、周囲と違っていた。
レオンが境目へ膝をつく。
「ここから、ここまで」
指で囲んだ範囲は。
人一人が横たわれるほどの広さだった。
「前にも、埃が均一すぎると言っていました」
ミラベルが隣へしゃがむ。
「ああ」
レオンは、周囲から採取した埃と、中央部の試料を並べた。
長く床へ積もっていた埃には。
煤。
錆。
砂。
天井から剥がれ落ちた、白い石灰片が混じっている。
中央部から採取された埃は。
煤も。
錆も。
色も似ている。
だが。
白い石灰片が、ほとんど含まれていなかった。
「床を洗ったあと」
ミラベルが言う。
「別の場所から古い埃を集めて撒いた」
「見た目だけ、長く放置された床へ戻した」
レオンが答える。
「だが、天井から年月をかけて落ちる石灰片までは戻せなかった」
グレアムが靴先で、排水溝を示した。
「洗った水は、ここへ流した」
赤褐色の泥が溜まっている。
だが、昇降機室の前だけ。
泥の層が途中で切れていた。
古い堆積を一度洗い流し。
その後に流れてきた泥が、表面を薄く覆っている。
「排水溝なら、普段から水が流れているのでは」
マレクが尋ねた。
「流れるだけなら、層は途中で切れない」
レオンは立ち上がった。
「この部屋の床と排水溝は、最近、一度洗われている」
「ゴルムが清掃した可能性もあります」
「わしは、こんな掃除はせん」
ゴルムが吐き捨てた。
グレアムが老人を見る。
「自慢することか」
「排水を通すなら、泥を掻き出す。床へ付いたものを洗い、古い埃まで撒いて隠す必要はない」
洗われた固定棒。
穴の内部に残った血。
シラスの後頭部と合う形状。
洗浄された床。
撒き直された埃。
洗い流された赤土。
個別なら。
古い機械室で起きた、別々の出来事として説明できるかもしれない。
だが。
すべてが、人一人を横たえられる同じ場所へ集まっていた。
「シラス=モーンは、この部屋で殴られた」
ミラベルが言った。
「その可能性が極めて高い」
レオンが答える。
「殺害は、午後七時前後」
マレクの目が、わずかに動いた。
正確な時刻は。
まだ、証拠だけでは決められない。
◇
グレアムが巡査へ合図した。
新しい検分布が広げられる。
その上へ。
死体移送に関わる証拠が、一つずつ並べられた。
最初は、シラスの靴底から採取した赤土。
隣には、地下第二納骨環の排水溝から採取された試料。
「検査結果だ」
グレアムが紙を開く。
「鉄分、石灰分、油の混入。いずれも一致した」
「シラスさんの靴は、ここへ触れていた」
ミラベルが言う。
「本人が生きて歩いたか、死後に運ばれたかは、土だけでは分からない」
レオンは、次の記録を示した。
死斑。
身体の左側へ偏り。
発見時の仰向けの姿勢とは一致していない。
「シラスは死後、一定時間、左側を下にして置かれていた」
昇降台の幅は狭い。
成人男性を載せるなら。
横向きにする方が安定する。
次は、昇降機の歯車から採取された潤滑油。
十五年前のものではない。
最近、機械が動くよう整備されたことを示している。
石棺底部の新しい擦過痕。
木製底板の上面へ、古い内張りを固定し直した新しい縫い糸。
地下側から留め具を解除すれば。
昇降台で、底板と内張りを一体のまま持ち上げることができる。
成人一人が通れる開口部を作り。
台を下げれば、底板は内張りとともに鉄枠へ戻る。
地下側から留め具を掛け直せば。
石棺内へ人が残る必要はなかった。
そして。
外套内側の湿気。
左袖に残った緑青。
体表温度と、硬直の進行との不一致。
「シラスの身体は、地下の低温環境へ一定時間置かれていた」
レオンが言った。
「衣服内側の湿気と、袖の緑青が、それを示している」
「発見直後は、その環境が分かっていなかった」
グレアムが続ける。
「だから、現場での死亡時刻は暫定的に見積もられた」
「体表温度だけでは、死亡時刻を確定できない」
ミラベルが言った。
「ああ。体表温度と硬直の進行が一致していなかった」
レオンは、再検分の報告書を示した。
「地下の低温環境を考慮して検分し直した結果、死亡時刻は午後七時前後まで遡った」
「つまり」
グレアムがマレクを見る。
「午後七時五十分からの予算委員会は、殺害時刻のアリバイにはならん」
「見かけ上のアリバイだった」
ミラベルが言う。
「シラスは、委員会より前に殺された」
「午後七時前後だ」
レオンが答える。
「この部屋で殺害され、低温環境へ置かれた。初期検分を混乱させたあと、昇降台へ横向きに載せられた」
彼は縦坑を見上げた。
「地下側で、石棺底板の固定具を解除する。昇降台を上げ、底板と内張りを一体のまま持ち上げる。シラスの身体を石棺内へ移し、胸元へノアの札を置く」
次に。
床と同じ高さへ戻された昇降台を見る。
「台を下げれば、底板は鉄枠へ戻る。地下側から留め具を掛け直せば、入口は消える」
「上蓋にも、封印にも触れずに」
ミラベルが言った。
「ああ」
さらに。
ローデン家の石棺は。
翌朝、修復工事のため、正式に開封される予定だった。
その日程は、墓苑の管理予定へ組み込まれていた。
記録主任であるマレクも、当然把握している。
「死体が長く発見されない危険はなかった」
レオンが言った。
「翌朝には、石工が正式な手続きで上蓋を開ける」
「すると」
エマが石棺のあった方角を見る。
「封印されたままの石棺から、新しい死体が見つかる」
「上蓋を破らずに死体を入れたという異常だけが、確実に残る」
ミラベルが言った。
「誰かが偶然開けてくれるのを待ったわけではない」
「開封されると分かっている石棺を選んだ」
レオンが答えた。
「方法と機会は分かった」
グレアムが言った。
「次は、その男と記録をつなぐ」
◇
墓苑記録室から、手動打刻機が運び込まれた。
鋳鉄製の台。
数字の金型を並べた回転盤。
真鍮札を固定する枠。
普段は、記録主任室で使われている機械だった。
「ノア=フェルの札を」
グレアムが命じる。
証拠袋から、真鍮札が取り出された。
ノア=フェル。
第三環・共同墓地区E三一八。
享年十七。
シラスの胸へ置かれていた札。
区画番号には。
元の数字へ重ねて打刻した痕跡がある。
古い輪郭と。
その上へ打たれた、新しい線。
それとは別に。
享年欄の「七」は、ほかの数字よりわずかに右へ傾き。
上端の角が、小さく欠けていた。
「札は、すべて同じ機械で作るんですか」
ミラベルが尋ねる。
「年代によって異なります」
エマが答えた。
「この機械は、記録主任室で札の再発行や訂正に使われています」
「書記も使える?」
「使えます。ただし、札の再発行には主任の承認が必要です」
市警の技師が、新しい真鍮片を枠へ置いた。
回転盤を「七」へ合わせる。
取っ手を下ろした。
金属音が響く。
真鍮片へ、一つの数字が刻まれた。
わずかに右へ傾いた七。
上端には、同じ欠け。
「ノアの札の、享年欄にある七と同じです」
ミラベルが見比べる。
「同じ傾きと、同じ欠損を持つ金型で打たれている」
レオンが言った。
「区画番号には重ね打ちの痕跡がある。そして、享年欄の七は、この打刻機の金型と一致する」
「この打刻機で、札が訂正された可能性は極めて高い」
グレアムが言った。
「打刻した者が、私だという証明にはなりません」
マレクが答える。
「まだな」
レオンはエマへ向いた。
「台帳を」
エマが、区画台帳の写しを検分台へ広げる。
ノア=フェルの欄にあった。
短い横線。
それを囲む半円。
小さな年号。
正式な移転記録ではない。
墓苑の記号規程にも存在しない。
地下移管の候補や処理を示すため、非公式に使われていた鉛筆印。
「この印がある頁を、確認できる範囲で抽出しました」
エマが言った。
「記入者か主任確認者の欄に、マレク=ドーンの署名があります」
別の記録官だけが記入し。
別の主任だけが確認した頁には。
同じ印は、見つかっていない。
「私は記録主任です」
マレクは静かに答えた。
「多くの頁を確認しております。署名があること自体は異常ではございません」
「それだけならな」
レオンが言う。
「だが、この印は正式な記号ではない。確認された範囲では、あなたが記入した頁か、あなたが確認した頁にだけ現れている」
「ほかの職員も使っていました」
「自分が使ったと認めた者はいない」
「忘れているのでしょう」
「それも可能性の一つだ」
レオンは、ノアの札を示した。
「だが、非公式な移管印がある墓から、遺骨が消えている」
次に、打刻機。
「その死者の札は、主任室の機械で訂正されている」
シラスの照合表。
「同じ印や札の不一致を、シラスは二百十四名の調査対象の中から拾っていた」
最後に。
一枚の予定票。
午後六時半。
《灰環大墓苑・マレク=ドーン主任――最終確認》
翌朝九時。
《局長報告。不整合照合表提出》
「シラスは、報告前夜にあなたと会う予定だった」
エマが言った。
「墓苑側へ、最後に説明の機会を与えると話していました」
「予定表は、実際に会った証明にはなりません」
マレクの声は、まだ穏やかだった。
「そのとおりだ」
レオンは認めた。
「予定だけでは証明にならない」
洗われた固定棒を見る。
「だが、彼は報告前夜に、この地下で殺された」
ノアの札。
「殺害後、あなたが管理する記録室の打刻機で訂正された札が、死体へ置かれた」
鉛筆の移管印。
「その札の持ち主は、あなたが関わった非公式な移管記録を持つ」
シラスの照合表。
「翌朝の報告が行われれば、ノア一人では終わらなかった」
二百十四名。
ただし。
全員が不正移転の被害者と確定したわけではない。
その中に。
墓碑と遺骨の不一致。
移転記録の欠落。
札の再打刻。
不自然な無縁化。
マレクが長年守ってきた墓苑の運営と。
台帳上の整合性を崩す疑いが並んでいた。
「あなたには、シラスの報告を止める理由があった」
レオンが言った。
「旧設備の記録へ触れる権限も」
ミラベルが続ける。
「翌朝、ローデン家の石棺が正式に開封されると知る立場も」
さらに。
「札を再発行させる権限も」
エマが言う。
「シラスさんと会う予定もあった」
グレアムが、マレクの前へ立った。
「凶器と見られる固定棒には、最近の人血。床は洗われ、痕跡を隠すため埃が撒かれた」
地下へ響く声で。
「方法」
一つ。
「機会」
二つ。
「動機」
三つ。
「そして、殺人と記録操作を結ぶ札がある」
マレクは、何も言わなかった。
レオンは勝ち誇らない。
犯人を追い詰めた喜びも。
謎を解いた高揚もなかった。
ただ。
正しい記録を、正しい者へ戻すように。
一つずつ事実を置いていた。
「証拠から言えるのは、ここまでです」
レオンが言った。
「シラスは午後七時前後、この地下で殺害された。地下の低温環境が初期検分を混乱させ、暫定的な死亡時刻の推定を誤らせた」
縦坑を見上げる。
「死体は旧昇降機で、翌朝開封される予定だったローデン家の石棺へ運ばれた。ノアの札は、記録主任室の打刻機で訂正されている」
マレクを見据える。
「そして、そのすべてによって最も守られる立場にいたのは、あなたです」
地下の遠くで、水が落ちた。
一滴。
また一滴。
マレクは長い息を吐いた。
逃げ道を探す息ではなかった。
終わりを受け入れる息にも聞こえない。
ただ。
言葉を整えるための呼吸だった。
「午後七時十分でした」
彼は言った。
誰も動かなかった。
「シラス=モーンが、この部屋へ来た時刻です」
証拠だけでは分からなかった時刻が。
犯人の供述によって、初めて一分単位の記録となった。
「最終確認という名目でした」
マレクは、固定棒を見る。
「彼は、報告を取り下げませんでした。二百十四名すべてを調べると。墓を開き、遺骨と札を一つずつ照合すると」
「それで殴った」
グレアムが言う。
「はい」
「何で」
「その固定棒です」
マレクは目を逸らさなかった。
「一度でした。倒れたあと、脈を確かめました」
エマの指が、シラスの照合表へ食い込む。
「床と棒を洗った」
「はい」
「古い埃を撒いた」
「はい」
「身体を冷却用通風管の下へ置いた」
「委員会へ向かう前に、初期検分を混乱させる必要がありました」
マレクは言った。
「発見時の体表温度だけを見れば、死亡時刻の判断が揺らぐと考えました」
「昇降機へ横向きに載せた」
「はい」
「地下側から、石棺底板の固定具を解除した」
「はい」
「底板と内張りを昇降台で持ち上げ、シラスを石棺へ入れた」
「はい」
「台を下げたあと、底板を鉄枠へ戻し、地下側から固定具を掛け直した」
「はい」
「内張りは」
ミラベルが尋ねた。
「底板へ、あらかじめ固定してありました」
マレクが答える。
「板を戻せば、布も元の位置へ戻ります。棺内から縫い直す必要はありません」
「なぜ、ローデン家の石棺を選んだ」
グレアムが尋ねた。
「翌朝、修復工事のため正式に開封されると知っていたからです」
マレクは、静かに答えた。
「死体が長く発見されず、腐敗する危険はありません。封印も上蓋も破られていない石棺から、新しい死体が確実に発見される」
「誰にも開けられていない石棺へ、死体が現れたように見せられる」
ミラベルが言った。
「はい」
「ノアの札を胸へ置いた」
マレクは、そこで初めて短く黙った。
「リディア=フェルへ疑いを向けるためか」
「それもありました」
「それも?」
「シラスがノアの墓を調べていたことを、捜査へ示すためでもあります」
ミラベルの顔が強張る。
「自分の不正へつながる札を、なぜ置くんです」
「ノア一人の問題に見せるためです」
マレクが答えた。
「姉が監査官を殴った。弟の墓を巡って脅した。その弟の札が、監査官の死体から見つかる」
「墓苑全体の記録不正ではなく」
ミラベルが言う。
「一人の遺族による復讐へ、事件を所属させた」
「そのつもりでした」
一枚の札。
本物の名前。
本物の墓地番号。
そこへ。
別の意味を与えた。
「あなたが十六年間、墓苑でしてきたことと同じだ」
レオンが言った。
マレクは否定しなかった。
◇
「どこから、お話しすればよろしいでしょう」
マレクが尋ねる。
「最初からだ」
グレアムが答えた。
「墓苑を維持するには、金が要る」
マレクは、骨箱の列を見た。
「墓地は増え続ける。死者は減らない。ですが、都市の土地には限りがあります」
声は、依然として穏やかだった。
ただ。
そこには初めて。
長年聞かれなかった者が、自分の正しさを説明するときの熱があった。
「十六年前。共同墓地区には、新しい棺を入れる場所がほとんど残っていませんでした。地下納骨環は水漏れを起こし、外壁は崩れ、蒸気灯の交換費さえ市は出さなかった」
誰も口を挟まない。
「それでも、毎日死者は運ばれてくる。遺族は、今日中に埋めろと言う。名を間違えるな。花を枯らすな。墓碑を磨け。壁を直せ。けれど、費用は払えない。市も、土地も増やさない」
「だから、古い墓を空けた」
ミラベルが言った。
「無縁として処理できる墓です」
「無縁ではありませんでした」
「台帳上は」
「人が来ていました」
ミラベルの声が強くなる。
「花を置く人が。苔を落とす人が。文字を書けなくても、墓へ来た家族が」
「書面へ名がなかった」
「あなたは知っていたでしょう」
マレクの目が、ミラベルへ向く。
「墓苑を訪れる人の顔と、死者の名前を覚えていた。リディアさんが毎月来ていたことも」
「知っていました」
「それでも、ノアさんの遺骨を動かした」
「正式な更新はなかった」
「書面の話をしているんじゃありません」
「私は記録主任です」
マレクの声が、初めて鋭くなった。
「書面以外の何を基準にしろと?」
「人です」
ミラベルは即座に答えた。
「墓の前に立っていた人を見ればよかった」
「一人の職員の記憶で、墓所権を決めれば、それこそ不正になります」
「だから、見なかったことにしたんですか」
マレクは答えなかった。
代わりに。
地下納骨環の骨箱へ視線を向ける。
「私は、墓苑を救った」
彼は言った。
「名も残した。遺骨も捨ててはいない」
墓碑は残した。
台帳も消さなかった。
遺骨も、墓苑の外へは捨てていない。
ただ。
骨を移し。
札を付け替え。
空いた区画を、別の家へ売った。
「あなたが守ったのは、墓碑と台帳だ」
レオンが言った。
マレクが彼を見る。
「区画を再販売するために墓碑を書き換えれば、元の死者が消える。台帳を別の名前へ変えれば、同じ区画を二度売ったことが露見する」
レオンは。
ノアの札を示した。
「だから、あなたは名前を動かさなかった」
次に。
地下の骨箱。
「動かしたのは、遺骨と札だ」
「墓碑と台帳が一致していれば、墓所は維持されています」
マレクが答える。
「名前は消えていない。遺骨も、この墓苑内にある」
「あなたは死者の名を消してはいない」
レオンの声は静かだった。
「だから、自分は何も奪っていないと思った」
マレクの唇が、わずかに動く。
「だが、あなたが奪ったのは名前じゃない」
レオンは。
真鍮札でも。
台帳でもなく。
地下の天井を通して。
その上に並ぶ墓碑を見るように顔を上げた。
「その人が、そこにいたという場所だ」
マレクは答えなかった。
「死者に、場所が分かるとお思いですか」
「分からないかもしれない」
レオンは答えた。
「だが、生きている者には分かる」
ノアの墓へ花を置いたリディア。
返事のない弟へ。
十七年間、語りかけた姉。
「人は、骨に話しかけるんじゃない」
ミラベルが言った。
「その人がいると信じた場所へ話しかけるんです」
マレクの目が、わずかに伏せられる。
「あなたは、名前を残した」
ミラベルは続けた。
「その名前へ戻る道だけを、売ったんです」
「土地を再販売した金で、墓苑は維持されました」
マレクは言った。
「排水設備も直した。崩れた墓壁も。新しい共同墓地区も作った。私が何もしなければ、もっと多くの死者が、埋葬される場所さえ失っていた」
「だから、シラスさんを殺したんですか」
エマの声だった。
小さい。
だが。
地下室のどの音より、はっきり届いた。
「墓苑を救うために?」
マレクの顔から、言葉が消えた。
「監査官は、すべてを壊そうとした」
「戻そうとしていました」
「すべては戻せません」
マレクは断言した。
「骨は移り、札は打ち直され、記録は分かれた。全員を正しく戻すことなど、もうできない」
「だから、調べる人を殺した」
エマの目に、涙はなかった。
「できないと決めたのは、あなたです」
マレクは、彼女を見られなかった。
「シラスの照合表にある二百十四名」
グレアムが尋ねる。
「全員へ、お前が手をつけたのか」
「分かりません」
「どういう意味だ」
「照合表には、単なる記録漏れや、古い検分記録の誤りも含まれております」
マレクは、紙束へ目を向けた。
「私が移した遺骨が何体含まれるかは、台帳、現存する札、骨箱、過去の移転記録を照合しなければ確定できません」
「ノアの遺骨は」
「現在の所在は分かりません」
「ローデン家のアーネスト=ローデンは」
「同じです」
「ノアの墓から出た老女は」
「名前までは分かりません」
セシリアと。
リディアへ渡すべき答えは。
犯人を捕らえても、まだ戻らなかった。
グレアムが巡査へ手を出す。
鉄製の拘束具が渡された。
「マレク=ドーン」
記録主任が姿勢を正す。
「シラス=モーン殺害。死体遺棄。埋葬記録の不正操作。墓所侵害。そのほか、今後確認されるすべての容疑で逮捕する」
「一つ、訂正を」
グレアムの太い眉が寄る。
「何だ」
「死体を捨てたことはありません」
地下の空気が、凍った。
「私が移した遺骨は、すべて墓苑内にあります」
グレアムは。
しばらく何も言わなかった。
それから、マレクの両手を取る。
拘束具を掛けた。
金属が閉じる音がした。
「その言い分は、取調室で記録してやる」
マレクの腰から、墓苑の鍵束が外される。
地下第二納骨環。
記録主任室。
区画台帳庫。
埋葬札保管箱。
三十年以上。
彼が管理してきた場所の鍵だった。
「連れていけ」
マレクは歩き出した。
昇降機室の出口で、一度だけ足を止める。
骨箱の列を見た。
番号は整然と並んでいる。
札も。
棚も。
記録上は、何一つ乱れていない。
だが。
その中で眠る死者の名を。
もはや誰も、確かに呼ぶことができなかった。
警官たちの足音が、階段の方角へ遠ざかる。
残されたのは。
洗われた床。
穴の奥へ血を残した固定棒。
欠けた七を刻む打刻機。
そして。
死者の名前と場所を、別々に保存した台帳だった。
ミラベルは記録帳を開く。
逮捕時刻。
逮捕場所。
容疑。
マレクが逃走も抵抗もしなかったこと。
供述によって、シラスとの面会時刻が午後七時十分と確定したこと。
一つずつ記していく。
最後に。
ペン先が止まった。
「何を迷っている」
レオンが尋ねる。
「事件は解決した、と書くべきかどうかです」
彼女は骨箱の列を見た。
「犯人は捕まりました。でも、ノアさんがどこにいるかは分かっていません」
「なら、解決とは書くな」
「でも、殺人事件は」
「殺人の構造は解けた」
「墓苑の事件は?」
レオンは答えなかった。
答える代わりに。
マレクが確認した区画台帳を手に取る。
「まだ、始まったばかりだ」
ミラベルは、新しい頁を開いた。
そこへ。
解決ではなく。
確認された事実を書いた。
――マレク=ドーン、逮捕。
――シラス=モーン殺害を認める。
――照合表に記された二百十四名のうち、不正移転の対象者数は未確定。
――移された遺骨の所在は、現在も調査中。
地下では。
古い排水路を流れる水だけが。
死者たちの名を知らぬまま。
暗い運河へ向かっていた。




