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第12節 ― 死者の場所を売った男

 地下第二納骨環へ降りる階段を、警官たちの蒸気灯が一つずつ照らしていった。


 先頭はグレアム警部。


 その後ろを、レオンとミラベル。


 続いて、マレク=ドーン、エマ=グリス、ゴルム=ホルツが下りる。


 霊廟に残されたセシリアとリディアには、別の警官が付いていた。


 これから行われるのは、封じられた石棺の実演ではない。


 その石棺へ死体を送り込む前。


 一人の男が殺された場所の検分だった。


 階段の下には、湿った冷気が溜まっている。


 古い蒸気配管。


 緑青の浮いた冷却用通風管。


 赤錆に覆われた排水溝。


 骨箱を運んだ水平軌道。


 携帯灯の明かりが進むたび、地下施設の輪郭が闇から切り出されていった。


 マレクは逃げなかった。


 黒い礼服の裾を汚さないよう足元を確かめ、警官の指示に従っている。


 その姿は。


 遺族を墓へ案内する記録主任と、何も変わらなかった。


 昇降機室の前には、市警の技師と検視官が待っていた。


 巻上げ輪の脇。


 白い検分布の上へ、固定用の鉄棒が置かれている。


 長さは、ドワーフの腕ほど。


 先端には、昇降機の歯車軸へ差し込むための丸い固定穴があった。


「これが、台を止める固定棒ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「上げ下げの途中で台が落ちんよう、歯車を固定する」


 ゴルムが答えた。


「穴へ留め金を通して使う」


 彼は鉄棒へ指を向けたが、触れなかった。


 表面は黒ずんでいる。


 油。


 錆。


 長年使われた機械部品にしか見えない。


「表面は洗われていた」


 グレアムが言った。


「油を落としすぎたせいで、かえって周囲よりきれいになっとる」


 レオンは固定棒の中央を見た。


 最初の検分で。


 そこだけ埃が薄いことは確認されていた。


「血も、髪も、表面には残っていない」


 マレクが静かに言った。


「表面にはな」


 グレアムは検視官へ顎を動かした。


 検視官が、細い金属棒と硝子皿を取り出す。


「固定穴の内側には、洗浄水の届きにくい窪みがあります」


 丸い穴の奥へ道具を差し入れる。


 内壁を静かに擦ると。


 乾燥した黒褐色の小片が、硝子皿へ落ちた。


「錆ではありません」


 検視官は携帯灯へ皿を近づける。


「人血への反応が出ています。付着してから、長い年月を経たものでもありません」


 地下の空気が、さらに冷たくなったように感じられた。


 ミラベルは鉄棒を見る。


 外側には何もない。


 洗われなかった穴の中にだけ、血が残っている。


「シラスさんの血だと分かるんですか」


「現段階で、個人まで断定はできません」


 検視官が答えた。


「ですが」


 彼は、シラスの後頭部を記録した見取図を広げる。


「損傷部は、細長く、片側に丸みを持つ鈍器によって形成された可能性が高い。この固定棒の端部は、その幅と形状に一致します」


「同じ形の物で殴られた」


 ミラベルが言う。


「少なくとも」


 レオンが答えた。


「この棒には新しい人血が残り、シラスの傷を作り得る形と重さがある」


「それだけでは、凶器と決められない」


 マレクが言った。


「それだけならな」


 グレアムは、昇降機室の床へ携帯灯を向けた。


「次だ」


 床全体は、薄い灰色の埃に覆われている。


 閉鎖から十五年。


 誰も使っていない部屋なら、不自然ではない。


 だが。


 巻上げ輪と固定棒の置かれていた場所の間だけ。


 埃の状態が、周囲と違っていた。


 レオンが境目へ膝をつく。


「ここから、ここまで」


 指で囲んだ範囲は。


 人一人が横たわれるほどの広さだった。


「前にも、埃が均一すぎると言っていました」


 ミラベルが隣へしゃがむ。


「ああ」


 レオンは、周囲から採取した埃と、中央部の試料を並べた。


 長く床へ積もっていた埃には。


 煤。


 錆。


 砂。


 天井から剥がれ落ちた、白い石灰片が混じっている。


 中央部から採取された埃は。


 煤も。


 錆も。


 色も似ている。


 だが。


 白い石灰片が、ほとんど含まれていなかった。


「床を洗ったあと」


 ミラベルが言う。


「別の場所から古い埃を集めて撒いた」


「見た目だけ、長く放置された床へ戻した」


 レオンが答える。


「だが、天井から年月をかけて落ちる石灰片までは戻せなかった」


 グレアムが靴先で、排水溝を示した。


「洗った水は、ここへ流した」


 赤褐色の泥が溜まっている。


 だが、昇降機室の前だけ。


 泥の層が途中で切れていた。


 古い堆積を一度洗い流し。


 その後に流れてきた泥が、表面を薄く覆っている。


「排水溝なら、普段から水が流れているのでは」


 マレクが尋ねた。


「流れるだけなら、層は途中で切れない」


 レオンは立ち上がった。


「この部屋の床と排水溝は、最近、一度洗われている」


「ゴルムが清掃した可能性もあります」


「わしは、こんな掃除はせん」


 ゴルムが吐き捨てた。


 グレアムが老人を見る。


「自慢することか」


「排水を通すなら、泥を掻き出す。床へ付いたものを洗い、古い埃まで撒いて隠す必要はない」


 洗われた固定棒。


 穴の内部に残った血。


 シラスの後頭部と合う形状。


 洗浄された床。


 撒き直された埃。


 洗い流された赤土。


 個別なら。


 古い機械室で起きた、別々の出来事として説明できるかもしれない。


 だが。


 すべてが、人一人を横たえられる同じ場所へ集まっていた。


「シラス=モーンは、この部屋で殴られた」


 ミラベルが言った。


「その可能性が極めて高い」


 レオンが答える。


「殺害は、午後七時前後」


 マレクの目が、わずかに動いた。


 正確な時刻は。


 まだ、証拠だけでは決められない。


     ◇


 グレアムが巡査へ合図した。


 新しい検分布が広げられる。


 その上へ。


 死体移送に関わる証拠が、一つずつ並べられた。


 最初は、シラスの靴底から採取した赤土。


 隣には、地下第二納骨環の排水溝から採取された試料。


「検査結果だ」


 グレアムが紙を開く。


「鉄分、石灰分、油の混入。いずれも一致した」


「シラスさんの靴は、ここへ触れていた」


 ミラベルが言う。


「本人が生きて歩いたか、死後に運ばれたかは、土だけでは分からない」


 レオンは、次の記録を示した。


 死斑。


 身体の左側へ偏り。


 発見時の仰向けの姿勢とは一致していない。


「シラスは死後、一定時間、左側を下にして置かれていた」


 昇降台の幅は狭い。


 成人男性を載せるなら。


 横向きにする方が安定する。


 次は、昇降機の歯車から採取された潤滑油。


 十五年前のものではない。


 最近、機械が動くよう整備されたことを示している。


 石棺底部の新しい擦過痕。


 木製底板の上面へ、古い内張りを固定し直した新しい縫い糸。


 地下側から留め具を解除すれば。


 昇降台で、底板と内張りを一体のまま持ち上げることができる。


 成人一人が通れる開口部を作り。


 台を下げれば、底板は内張りとともに鉄枠へ戻る。


 地下側から留め具を掛け直せば。


 石棺内へ人が残る必要はなかった。


 そして。


 外套内側の湿気。


 左袖に残った緑青。


 体表温度と、硬直の進行との不一致。


「シラスの身体は、地下の低温環境へ一定時間置かれていた」


 レオンが言った。


「衣服内側の湿気と、袖の緑青が、それを示している」


「発見直後は、その環境が分かっていなかった」


 グレアムが続ける。


「だから、現場での死亡時刻は暫定的に見積もられた」


「体表温度だけでは、死亡時刻を確定できない」


 ミラベルが言った。


「ああ。体表温度と硬直の進行が一致していなかった」


 レオンは、再検分の報告書を示した。


「地下の低温環境を考慮して検分し直した結果、死亡時刻は午後七時前後まで遡った」


「つまり」


 グレアムがマレクを見る。


「午後七時五十分からの予算委員会は、殺害時刻のアリバイにはならん」


「見かけ上のアリバイだった」


 ミラベルが言う。


「シラスは、委員会より前に殺された」


「午後七時前後だ」


 レオンが答える。


「この部屋で殺害され、低温環境へ置かれた。初期検分を混乱させたあと、昇降台へ横向きに載せられた」


 彼は縦坑を見上げた。


「地下側で、石棺底板の固定具を解除する。昇降台を上げ、底板と内張りを一体のまま持ち上げる。シラスの身体を石棺内へ移し、胸元へノアの札を置く」


 次に。


 床と同じ高さへ戻された昇降台を見る。


「台を下げれば、底板は鉄枠へ戻る。地下側から留め具を掛け直せば、入口は消える」


「上蓋にも、封印にも触れずに」


 ミラベルが言った。


「ああ」


 さらに。


 ローデン家の石棺は。


 翌朝、修復工事のため、正式に開封される予定だった。


 その日程は、墓苑の管理予定へ組み込まれていた。


 記録主任であるマレクも、当然把握している。


「死体が長く発見されない危険はなかった」


 レオンが言った。


「翌朝には、石工が正式な手続きで上蓋を開ける」


「すると」


 エマが石棺のあった方角を見る。


「封印されたままの石棺から、新しい死体が見つかる」


「上蓋を破らずに死体を入れたという異常だけが、確実に残る」


 ミラベルが言った。


「誰かが偶然開けてくれるのを待ったわけではない」


「開封されると分かっている石棺を選んだ」


 レオンが答えた。


「方法と機会は分かった」


 グレアムが言った。


「次は、その男と記録をつなぐ」


     ◇


 墓苑記録室から、手動打刻機が運び込まれた。


 鋳鉄製の台。


 数字の金型を並べた回転盤。


 真鍮札を固定する枠。


 普段は、記録主任室で使われている機械だった。


「ノア=フェルの札を」


 グレアムが命じる。


 証拠袋から、真鍮札が取り出された。


 ノア=フェル。


 第三環・共同墓地区E三一八。


 享年十七。


 シラスの胸へ置かれていた札。


 区画番号には。


 元の数字へ重ねて打刻した痕跡がある。


 古い輪郭と。


 その上へ打たれた、新しい線。


 それとは別に。


 享年欄の「七」は、ほかの数字よりわずかに右へ傾き。


 上端の角が、小さく欠けていた。


「札は、すべて同じ機械で作るんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「年代によって異なります」


 エマが答えた。


「この機械は、記録主任室で札の再発行や訂正に使われています」


「書記も使える?」


「使えます。ただし、札の再発行には主任の承認が必要です」


 市警の技師が、新しい真鍮片を枠へ置いた。


 回転盤を「七」へ合わせる。


 取っ手を下ろした。


 金属音が響く。


 真鍮片へ、一つの数字が刻まれた。


 わずかに右へ傾いた七。


 上端には、同じ欠け。


「ノアの札の、享年欄にある七と同じです」


 ミラベルが見比べる。


「同じ傾きと、同じ欠損を持つ金型で打たれている」


 レオンが言った。


「区画番号には重ね打ちの痕跡がある。そして、享年欄の七は、この打刻機の金型と一致する」


「この打刻機で、札が訂正された可能性は極めて高い」


 グレアムが言った。


「打刻した者が、私だという証明にはなりません」


 マレクが答える。


「まだな」


 レオンはエマへ向いた。


「台帳を」


 エマが、区画台帳の写しを検分台へ広げる。


 ノア=フェルの欄にあった。


 短い横線。


 それを囲む半円。


 小さな年号。


 正式な移転記録ではない。


 墓苑の記号規程にも存在しない。


 地下移管の候補や処理を示すため、非公式に使われていた鉛筆印。


「この印がある頁を、確認できる範囲で抽出しました」


 エマが言った。


「記入者か主任確認者の欄に、マレク=ドーンの署名があります」


 別の記録官だけが記入し。


 別の主任だけが確認した頁には。


 同じ印は、見つかっていない。


「私は記録主任です」


 マレクは静かに答えた。


「多くの頁を確認しております。署名があること自体は異常ではございません」


「それだけならな」


 レオンが言う。


「だが、この印は正式な記号ではない。確認された範囲では、あなたが記入した頁か、あなたが確認した頁にだけ現れている」


「ほかの職員も使っていました」


「自分が使ったと認めた者はいない」


「忘れているのでしょう」


「それも可能性の一つだ」


 レオンは、ノアの札を示した。


「だが、非公式な移管印がある墓から、遺骨が消えている」


 次に、打刻機。


「その死者の札は、主任室の機械で訂正されている」


 シラスの照合表。


「同じ印や札の不一致を、シラスは二百十四名の調査対象の中から拾っていた」


 最後に。


 一枚の予定票。


 午後六時半。


 《灰環大墓苑・マレク=ドーン主任――最終確認》


 翌朝九時。


 《局長報告。不整合照合表提出》


「シラスは、報告前夜にあなたと会う予定だった」


 エマが言った。


「墓苑側へ、最後に説明の機会を与えると話していました」


「予定表は、実際に会った証明にはなりません」


 マレクの声は、まだ穏やかだった。


「そのとおりだ」


 レオンは認めた。


「予定だけでは証明にならない」


 洗われた固定棒を見る。


「だが、彼は報告前夜に、この地下で殺された」


 ノアの札。


「殺害後、あなたが管理する記録室の打刻機で訂正された札が、死体へ置かれた」


 鉛筆の移管印。


「その札の持ち主は、あなたが関わった非公式な移管記録を持つ」


 シラスの照合表。


「翌朝の報告が行われれば、ノア一人では終わらなかった」


 二百十四名。


 ただし。


 全員が不正移転の被害者と確定したわけではない。


 その中に。


 墓碑と遺骨の不一致。


 移転記録の欠落。


 札の再打刻。


 不自然な無縁化。


 マレクが長年守ってきた墓苑の運営と。


 台帳上の整合性を崩す疑いが並んでいた。


「あなたには、シラスの報告を止める理由があった」


 レオンが言った。


「旧設備の記録へ触れる権限も」


 ミラベルが続ける。


「翌朝、ローデン家の石棺が正式に開封されると知る立場も」


 さらに。


「札を再発行させる権限も」


 エマが言う。


「シラスさんと会う予定もあった」


 グレアムが、マレクの前へ立った。


「凶器と見られる固定棒には、最近の人血。床は洗われ、痕跡を隠すため埃が撒かれた」


 地下へ響く声で。


「方法」


 一つ。


「機会」


 二つ。


「動機」


 三つ。


「そして、殺人と記録操作を結ぶ札がある」


 マレクは、何も言わなかった。


 レオンは勝ち誇らない。


 犯人を追い詰めた喜びも。


 謎を解いた高揚もなかった。


 ただ。


 正しい記録を、正しい者へ戻すように。


 一つずつ事実を置いていた。


「証拠から言えるのは、ここまでです」


 レオンが言った。


「シラスは午後七時前後、この地下で殺害された。地下の低温環境が初期検分を混乱させ、暫定的な死亡時刻の推定を誤らせた」


 縦坑を見上げる。


「死体は旧昇降機で、翌朝開封される予定だったローデン家の石棺へ運ばれた。ノアの札は、記録主任室の打刻機で訂正されている」


 マレクを見据える。


「そして、そのすべてによって最も守られる立場にいたのは、あなたです」


 地下の遠くで、水が落ちた。


 一滴。


 また一滴。


 マレクは長い息を吐いた。


 逃げ道を探す息ではなかった。


 終わりを受け入れる息にも聞こえない。


 ただ。


 言葉を整えるための呼吸だった。


「午後七時十分でした」


 彼は言った。


 誰も動かなかった。


「シラス=モーンが、この部屋へ来た時刻です」


 証拠だけでは分からなかった時刻が。


 犯人の供述によって、初めて一分単位の記録となった。


「最終確認という名目でした」


 マレクは、固定棒を見る。


「彼は、報告を取り下げませんでした。二百十四名すべてを調べると。墓を開き、遺骨と札を一つずつ照合すると」


「それで殴った」


 グレアムが言う。


「はい」


「何で」


「その固定棒です」


 マレクは目を逸らさなかった。


「一度でした。倒れたあと、脈を確かめました」


 エマの指が、シラスの照合表へ食い込む。


「床と棒を洗った」


「はい」


「古い埃を撒いた」


「はい」


「身体を冷却用通風管の下へ置いた」


「委員会へ向かう前に、初期検分を混乱させる必要がありました」


 マレクは言った。


「発見時の体表温度だけを見れば、死亡時刻の判断が揺らぐと考えました」


「昇降機へ横向きに載せた」


「はい」


「地下側から、石棺底板の固定具を解除した」


「はい」


「底板と内張りを昇降台で持ち上げ、シラスを石棺へ入れた」


「はい」


「台を下げたあと、底板を鉄枠へ戻し、地下側から固定具を掛け直した」


「はい」


「内張りは」


 ミラベルが尋ねた。


「底板へ、あらかじめ固定してありました」


 マレクが答える。


「板を戻せば、布も元の位置へ戻ります。棺内から縫い直す必要はありません」


「なぜ、ローデン家の石棺を選んだ」


 グレアムが尋ねた。


「翌朝、修復工事のため正式に開封されると知っていたからです」


 マレクは、静かに答えた。


「死体が長く発見されず、腐敗する危険はありません。封印も上蓋も破られていない石棺から、新しい死体が確実に発見される」


「誰にも開けられていない石棺へ、死体が現れたように見せられる」


 ミラベルが言った。


「はい」


「ノアの札を胸へ置いた」


 マレクは、そこで初めて短く黙った。


「リディア=フェルへ疑いを向けるためか」


「それもありました」


「それも?」


「シラスがノアの墓を調べていたことを、捜査へ示すためでもあります」


 ミラベルの顔が強張る。


「自分の不正へつながる札を、なぜ置くんです」


「ノア一人の問題に見せるためです」


 マレクが答えた。


「姉が監査官を殴った。弟の墓を巡って脅した。その弟の札が、監査官の死体から見つかる」


「墓苑全体の記録不正ではなく」


 ミラベルが言う。


「一人の遺族による復讐へ、事件を所属させた」


「そのつもりでした」


 一枚の札。


 本物の名前。


 本物の墓地番号。


 そこへ。


 別の意味を与えた。


「あなたが十六年間、墓苑でしてきたことと同じだ」


 レオンが言った。


 マレクは否定しなかった。


     ◇


「どこから、お話しすればよろしいでしょう」


 マレクが尋ねる。


「最初からだ」


 グレアムが答えた。


「墓苑を維持するには、金が要る」


 マレクは、骨箱の列を見た。


「墓地は増え続ける。死者は減らない。ですが、都市の土地には限りがあります」


 声は、依然として穏やかだった。


 ただ。


 そこには初めて。


 長年聞かれなかった者が、自分の正しさを説明するときの熱があった。


「十六年前。共同墓地区には、新しい棺を入れる場所がほとんど残っていませんでした。地下納骨環は水漏れを起こし、外壁は崩れ、蒸気灯の交換費さえ市は出さなかった」


 誰も口を挟まない。


「それでも、毎日死者は運ばれてくる。遺族は、今日中に埋めろと言う。名を間違えるな。花を枯らすな。墓碑を磨け。壁を直せ。けれど、費用は払えない。市も、土地も増やさない」


「だから、古い墓を空けた」


 ミラベルが言った。


「無縁として処理できる墓です」


「無縁ではありませんでした」


「台帳上は」


「人が来ていました」


 ミラベルの声が強くなる。


「花を置く人が。苔を落とす人が。文字を書けなくても、墓へ来た家族が」


「書面へ名がなかった」


「あなたは知っていたでしょう」


 マレクの目が、ミラベルへ向く。


「墓苑を訪れる人の顔と、死者の名前を覚えていた。リディアさんが毎月来ていたことも」


「知っていました」


「それでも、ノアさんの遺骨を動かした」


「正式な更新はなかった」


「書面の話をしているんじゃありません」


「私は記録主任です」


 マレクの声が、初めて鋭くなった。


「書面以外の何を基準にしろと?」


「人です」


 ミラベルは即座に答えた。


「墓の前に立っていた人を見ればよかった」


「一人の職員の記憶で、墓所権を決めれば、それこそ不正になります」


「だから、見なかったことにしたんですか」


 マレクは答えなかった。


 代わりに。


 地下納骨環の骨箱へ視線を向ける。


「私は、墓苑を救った」


 彼は言った。


「名も残した。遺骨も捨ててはいない」


 墓碑は残した。


 台帳も消さなかった。


 遺骨も、墓苑の外へは捨てていない。


 ただ。


 骨を移し。


 札を付け替え。


 空いた区画を、別の家へ売った。


「あなたが守ったのは、墓碑と台帳だ」


 レオンが言った。


 マレクが彼を見る。


「区画を再販売するために墓碑を書き換えれば、元の死者が消える。台帳を別の名前へ変えれば、同じ区画を二度売ったことが露見する」


 レオンは。


 ノアの札を示した。


「だから、あなたは名前を動かさなかった」


 次に。


 地下の骨箱。


「動かしたのは、遺骨と札だ」


「墓碑と台帳が一致していれば、墓所は維持されています」


 マレクが答える。


「名前は消えていない。遺骨も、この墓苑内にある」


「あなたは死者の名を消してはいない」


 レオンの声は静かだった。


「だから、自分は何も奪っていないと思った」


 マレクの唇が、わずかに動く。


「だが、あなたが奪ったのは名前じゃない」


 レオンは。


 真鍮札でも。


 台帳でもなく。


 地下の天井を通して。


 その上に並ぶ墓碑を見るように顔を上げた。


「その人が、そこにいたという場所だ」


 マレクは答えなかった。


「死者に、場所が分かるとお思いですか」


「分からないかもしれない」


 レオンは答えた。


「だが、生きている者には分かる」


 ノアの墓へ花を置いたリディア。


 返事のない弟へ。


 十七年間、語りかけた姉。


「人は、骨に話しかけるんじゃない」


 ミラベルが言った。


「その人がいると信じた場所へ話しかけるんです」


 マレクの目が、わずかに伏せられる。


「あなたは、名前を残した」


 ミラベルは続けた。


「その名前へ戻る道だけを、売ったんです」


「土地を再販売した金で、墓苑は維持されました」


 マレクは言った。


「排水設備も直した。崩れた墓壁も。新しい共同墓地区も作った。私が何もしなければ、もっと多くの死者が、埋葬される場所さえ失っていた」


「だから、シラスさんを殺したんですか」


 エマの声だった。


 小さい。


 だが。


 地下室のどの音より、はっきり届いた。


「墓苑を救うために?」


 マレクの顔から、言葉が消えた。


「監査官は、すべてを壊そうとした」


「戻そうとしていました」


「すべては戻せません」


 マレクは断言した。


「骨は移り、札は打ち直され、記録は分かれた。全員を正しく戻すことなど、もうできない」


「だから、調べる人を殺した」


 エマの目に、涙はなかった。


「できないと決めたのは、あなたです」


 マレクは、彼女を見られなかった。


「シラスの照合表にある二百十四名」


 グレアムが尋ねる。


「全員へ、お前が手をつけたのか」


「分かりません」


「どういう意味だ」


「照合表には、単なる記録漏れや、古い検分記録の誤りも含まれております」


 マレクは、紙束へ目を向けた。


「私が移した遺骨が何体含まれるかは、台帳、現存する札、骨箱、過去の移転記録を照合しなければ確定できません」


「ノアの遺骨は」


「現在の所在は分かりません」


「ローデン家のアーネスト=ローデンは」


「同じです」


「ノアの墓から出た老女は」


「名前までは分かりません」


 セシリアと。


 リディアへ渡すべき答えは。


 犯人を捕らえても、まだ戻らなかった。


 グレアムが巡査へ手を出す。


 鉄製の拘束具が渡された。


「マレク=ドーン」


 記録主任が姿勢を正す。


「シラス=モーン殺害。死体遺棄。埋葬記録の不正操作。墓所侵害。そのほか、今後確認されるすべての容疑で逮捕する」


「一つ、訂正を」


 グレアムの太い眉が寄る。


「何だ」


「死体を捨てたことはありません」


 地下の空気が、凍った。


「私が移した遺骨は、すべて墓苑内にあります」


 グレアムは。


 しばらく何も言わなかった。


 それから、マレクの両手を取る。


 拘束具を掛けた。


 金属が閉じる音がした。


「その言い分は、取調室で記録してやる」


 マレクの腰から、墓苑の鍵束が外される。


 地下第二納骨環。


 記録主任室。


 区画台帳庫。


 埋葬札保管箱。


 三十年以上。


 彼が管理してきた場所の鍵だった。


「連れていけ」


 マレクは歩き出した。


 昇降機室の出口で、一度だけ足を止める。


 骨箱の列を見た。


 番号は整然と並んでいる。


 札も。


 棚も。


 記録上は、何一つ乱れていない。


 だが。


 その中で眠る死者の名を。


 もはや誰も、確かに呼ぶことができなかった。


 警官たちの足音が、階段の方角へ遠ざかる。


 残されたのは。


 洗われた床。


 穴の奥へ血を残した固定棒。


 欠けた七を刻む打刻機。


 そして。


 死者の名前と場所を、別々に保存した台帳だった。


 ミラベルは記録帳を開く。


 逮捕時刻。


 逮捕場所。


 容疑。


 マレクが逃走も抵抗もしなかったこと。


 供述によって、シラスとの面会時刻が午後七時十分と確定したこと。


 一つずつ記していく。


 最後に。


 ペン先が止まった。


「何を迷っている」


 レオンが尋ねる。


「事件は解決した、と書くべきかどうかです」


 彼女は骨箱の列を見た。


「犯人は捕まりました。でも、ノアさんがどこにいるかは分かっていません」


「なら、解決とは書くな」


「でも、殺人事件は」


「殺人の構造は解けた」


「墓苑の事件は?」


 レオンは答えなかった。


 答える代わりに。


 マレクが確認した区画台帳を手に取る。


「まだ、始まったばかりだ」


 ミラベルは、新しい頁を開いた。


 そこへ。


 解決ではなく。


 確認された事実を書いた。


 ――マレク=ドーン、逮捕。


 ――シラス=モーン殺害を認める。


 ――照合表に記された二百十四名のうち、不正移転の対象者数は未確定。


 ――移された遺骨の所在は、現在も調査中。


 地下では。


 古い排水路を流れる水だけが。


 死者たちの名を知らぬまま。


 暗い運河へ向かっていた。

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