第11節 ― 棺の底には扉がある
翌朝。
ローデン家霊廟には、事件に関わった者たちが集められていた。
開封された石棺の周囲を、市警の封鎖縄が二重に囲んでいる。
石蓋は、吊具に支えられたまま棺の上へ浮いていた。
二十九年間残っていた家封も、市封印も、接合部も、最初の正式な開封によってすでに失われている。
今日ここで確かめるのは、同じ封印を再現することではない。
あの封印へ触れずに。
石棺の内部へ何かを入れることができたのか。
その一点だった。
石棺の前には、マレク=ドーン。
壁際には、設備管理人のゴルム=ホルツ。
ノアの墓から離れることを拒んでいたリディアも、グレアムの求めに応じて姿を見せている。
エマ=グリスは、シラスの照合表を胸に抱えていた。
そして。
ローデン家当主、セシリア=ローデン。
黒い喪服の裾が濡れた床へ触れないよう、従者も連れずに立っている。
事件発見時から、彼女は家名と霊廟の名誉を守るため、非公開の処理を求めていた。
だが。
いま、その顔にあるのは、家名への懸念だけではない。
この石棺に埋葬されたはずの叔父。
アーネスト=ローデンの遺骨は、まだ見つかっていなかった。
「叔父の石棺を、これ以上見世物にするおつもりですか」
セシリアの声は低かった。
怒りを押し殺している。
「見世物なら、入場料を取る」
グレアムが答えた。
「これは捜査だ」
「すでに死体は運び出したのでしょう」
「運び込まれた方法が残っとる」
グレアムは、火の点いていない葉巻を口から外した。
「それを、ここにいる全員へ見てもらう」
マレクが静かに尋ねる。
「全員とは。私どもが疑われているという意味でしょうか」
「ここにいる者だけを疑っとるわけじゃない」
「安心させる言い方ではありませんね」
「安心させるために集めたんじゃない」
レオンは、石棺の脇へ膝をついていた。
検分の立会いのもと。
底部の内張りは、新しい糸で補修された箇所だけ、縫い目の一部を解かれている。
古い布を慎重にめくると。
その下に、一枚の底板があった。
石ではない。
湿気で黒ずんだ、厚い木板。
木製の底板は、石棺の底部へ組み込まれた鉄枠の中に収まっている。
内張りの布は石棺本体へ張られているのではなく。
底板の上面へ固定されていた。
棺の内側から見れば。
古い布で覆われた、ただの底にしか見えない。
「これが、昨日、昇降台の接触した位置ですか」
ミラベルが尋ねた。
「ああ」
レオンは、板の縁を鑑定レンズで見ていた。
前日の地下検分では。
地下から昇降台を上げ、石棺の底で音がした時点で止めている。
底板と内張りが一体となって、ごくわずかに動くことまでは確認した。
完全には開いていない。
固定具にも触れていなかった。
「板の縁に、擦れた跡があります」
ミラベルが言った。
「下から上へ向かっている」
レオンは、鉄枠と木板の接触部分を示した。
「上蓋を開け、棺の内側から底板を引き上げたなら、反対向きの力が掛かる」
「内張りが新しい糸で縫われていたのは、この板を隠すため?」
「動く底板を、古い布張りの棺底に見せるためだ」
「犯行のあとで、縫い直したわけではない?」
「縫い糸は、板が動かされた痕跡より前からある」
レオンは、底板へ固定された布の縁を示した。
「底板が持ち上がれば、内張りも一緒に動く。板を元へ戻せば、布も元の位置へ戻る」
「棺の中へ入って、縫い直す必要はない」
「ああ」
ミラベルが、わずかに眉を上げる。
「今日は、ずいぶん先まで言いますね」
「実演で確かめるからな」
グレアムが霊廟の中央へ歩いた。
「ゴルム。下の準備は」
老ドワーフは、不機嫌そうに灰色の髭を撫でた。
「昇降台は最低位置。安全爪と鎖も確認した。市警の技師が巻上げ輪の横についておる」
「底板の固定具は」
「縦坑側から見える位置にある」
ゴルムが答えた。
「古い棺昇降機では、石棺の底板を下から外せるようになっとった。棺や骨箱を地下へ移すためだ」
「地下側だけで解除できるのか」
「できる。戻すこともな」
「勝手なことはできんな」
「そのために警官を置いたんだろうが」
「よく分かっとるじゃないか」
ゴルムは答えず、霊廟の壁に取り付けられた古い伝声管へ近づいた。
管は、地下第二納骨環のローデン家専用昇降機まで通じている。
グレアムが蓋を開き、短く合図した。
「地上側、準備完了」
しばらくして。
管の奥から、市警技師の声が返った。
『地下側、準備完了。底板の固定具を解除します』
金属を擦る音が。
石棺の底から、かすかに伝わった。
『左右の固定具、解除しました』
霊廟の中が静まった。
誰も石棺へ触れていない。
石蓋も動かない。
霊廟の扉も閉じられている。
事件の夜。
上蓋の封印が残っていたなら。
地上から見えるものは、何一つ変化しなかったはずだった。
グレアムが伝声管へ言う。
「昇降台を上げろ」
『了解』
やがて。
石床の下から、低い音が伝わってきた。
がちり。
がちり。
古い歯車が、一枚ずつ噛み合う。
鎖が巻かれ。
昇降台が、専用の縦坑を上がってくる。
音は次第に近づいた。
石棺の下で、鉄が擦れる。
セシリアが石棺を見つめる。
「この下に……機械が?」
「地下には、棺を運ぶための水平軌道がある」
レオンが言った。
「古い名家霊廟には、その軌道から個別の縦坑が延びていた。これは、ローデン家専用の昇降機だ」
「家の記録にはありません」
「墓苑の現行図面にもなかった」
「では、なぜ残っているのです」
「設備だけが残り、記録から消えた」
石棺の内部で。
小さな音がした。
木板が、下から押された音。
「接触しました」
ミラベルが息を潜める。
底板が震えた。
その上へ固定された内張りも、板と一緒に揺れる。
グレアムが伝声管へ向かって言った。
「半目盛りだけ上げろ」
『了解』
地下で、歯車が一度動く。
底板の一方が、ゆっくりと持ち上がった。
古い内張りが。
木板と一体となって持ち上がる。
底板と鉄枠の間に、黒い隙間が開いた。
そこから。
地下の冷たい空気が流れ込んだ。
湿った石。
赤い泥。
古い油。
霊廟の空気とは異なる匂いだった。
「さらに半目盛り」
グレアムが命じる。
昇降台が上がる。
底板全体が鉄枠から離れ。
内張りを載せたまま、水平に押し上げられていく。
やがて。
成人一人の身体を通せるほどの開口部が現れた。
その下。
縦坑の暗闇に。
昇降台の鉄枠が見える。
地下側の携帯灯が、青白い光を投げ上げていた。
完全な開口は。
今日、この立会いの場で初めて行われた。
ミラベルは石棺へ近づいた。
縁には触れない。
吊り上げられた石蓋と。
開いた底を交互に見る。
「事件の夜は、上蓋が閉じていた」
「そうだ」
「霊廟の扉も施錠されていた」
「それも事実だ」
「封印にも触れていない」
「触れる必要がない」
グレアムが伝声管へ合図した。
「停止。その位置で固定しろ」
『固定しました』
歯車の音が止む。
上蓋を開けなければ。
地上からは、石棺の内部を見ることができない。
だが、その底には。
地下へ続く入口があった。
「密閉石棺など、最初から存在しなかった」
レオンが言った。
マレクの目が細くなる。
「上蓋は、確かに密閉されていました」
「地上から見た場合にだけな」
レオンは、開いた底を示した。
「犯人は霊廟へ入っていない。扉の鍵も使わず、家封にも、市封印にも、上蓋の接合部にも触れていない」
セシリアが、わずかに首を振る。
「では、シラス=モーンは……」
「地下から運び込まれた」
ミラベルが答えた。
「靴に付いていた赤褐色の泥は、地下第二納骨環の排水溝から採取した泥と、成分が一致しました」
レオンが続ける。
「シラスは死後、一定時間、左側を下にして置かれている。死斑が、発見時の仰向けの姿勢と一致しない」
「そのあと、昇降台へ載せられた」
「ああ」
レオンは開口部を見下ろした。
「地下側から、底板の固定具を解除する」
一つ。
「昇降台へシラスの身体を載せ、縦坑を上げる」
二つ。
「台で底板を押し上げ、開口部から身体を石棺内へ移す。胸元へ、ノア=フェルの札を置く」
三つ。
「そのあと、昇降台を下げる」
レオンが、底板と鉄枠を示した。
「板は内張りと一体のまま、鉄枠へ戻る」
「地下側から、固定具を掛け直す」
ゴルムが言った。
「棺の中へ人が残る必要はない」
「上蓋には、何も起きていない」
レオンが答えた。
「それだけで」
エマの声が震える。
「二十九年間、誰も開けていない棺の中へ……」
「死体を入れることはできる」
レオンは、そこで言葉を切った。
「ただし」
全員へ聞かせるように。
声を少しだけ強める。
「いま証明したのは、死体を入れる方法だ。誰が行ったかではない」
グレアムが、マレクを見る。
「この設備の存在を知ることができた者は」
マレクは、開口部を見たまま答えた。
「古い記録を読めば、知ることはできたでしょう」
「現行記録からは消されていた」
「過去の工事記録や、ローデン家の旧埋葬記録を調べれば、推測は可能です」
「操作方法まで?」
ゴルムが鼻を鳴らした。
「機械を知っとる者なら、難しくはない。固定具も巻上げ機も、手順は構造を見れば分かる」
「お前は動かしていないと言ったな」
「何度聞かれても同じだ」
ゴルムはグレアムを睨んだ。
「部品を売った。油も差した。だが、シラスを上げたのは、わしじゃない」
「それを決めるのは、これからだ」
グレアムは伝声管へ手を伸ばす。
「台を下げろ」
再び歯車が動く。
昇降台が下がり始める。
押し上げられていた底板が。
内張りを載せたまま。
ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
鉄枠へ収まり。
黒い隙間が閉じた。
上から見れば。
そこには、古い布で覆われた棺底があるだけだった。
伝声管から、声が返る。
『底板、鉄枠へ戻りました。固定具を掛け直します』
短い金属音。
『左右とも固定しました』
棺の中へ入る者も。
内張りを縫い直す者もいない。
それでも。
入口は消えた。
密室は。
地上から見た者の前にだけ、再び現れた。
◇
「次は、時間だ」
グレアムが言った。
霊廟の脇に置かれた検分台へ、数枚の報告書を広げる。
「シラスの発見直後、検視官は、死亡時刻を午後七時五十分から八時三十分の間と暫定的に見た」
マレクが静かにうなずく。
「その時間、私は市の墓苑予算委員会へ出席しておりました」
「複数の出席者が、午後八時前からお前を見ている」
「午後七時五十分には会場へ入っています」
「だから、最初の推定では、お前には殺害できん」
グレアムの言葉に。
リディアがマレクを見る。
ゴルムは腕を組んだ。
エマだけは、報告書へ視線を落としている。
「最初の推定では」
ミラベルが繰り返した。
「変わったんですね」
「発見直後は、死体が置かれていた環境も、そこへ至る経路も分かっとらんかった」
グレアムは一枚目の報告書を指で叩いた。
「現場で得られた体表温度は、死亡からそれほど時間が経っていないような印象を与えた。だが、硬直の進み方と一致していなかった」
「体表温度だけでは、死亡時刻を確定できない」
ミラベルが言った。
「そうだ」
グレアムは、検死院の再検分結果が記された紙を開く。
「初期の時間は、現場条件が不明な段階での暫定推定だ。ほかの所見と、地下で確認された環境を加えて、検死院が再検分した」
「死斑は?」
「死亡時刻ではなく、死後の姿勢を示す」
レオンが答えた。
「左側へ偏っていた。シラスは、発見時の仰向けの姿勢になる前、一定時間、左側を下にして置かれている」
「外套の内側には湿気があった」
ミラベルが言う。
「外側は雨に濡れていないのに」
「ああ」
「左袖には、緑青も残っていた」
レオンは検査結果を示した。
「袖の付着物は、地下第二納骨環の旧冷却通風管に残っていた緑青と一致した」
「通風管は廃止されています」
マレクが答える。
「送風機はな」
グレアムが言った。
「地上と地下の温度差で、冷たい空気はいまも流れとる」
レオンが続ける。
「シラスの身体は、地下の低温環境へ一定時間置かれていた。衣服内側の湿気と、袖の緑青は、その環境へ接していたことを示している」
「それが、最初の検分を混乱させた」
ミラベルが報告書を見る。
「体表温度と硬直の進行が一致しなかったのは、発見場所だけを前提に時間を見積もることができなかったから」
「ああ」
レオンは言った。
「現場条件と地下の低温環境を考慮した再検分では、死亡時刻は午後七時前後まで遡ると判断された」
霊廟の中に、沈黙が落ちた。
予算委員会。
午後八時前からの目撃。
それは。
シラスが午後七時五十分以降に殺された場合にだけ成立するアリバイだった。
「委員会で目撃される前に殺害し」
ミラベルは、マレクから視線を外さずに言った。
「地下の低温環境を利用して、初期検分を誤らせたあと、石棺へ運べば」
「午後八時に委員会へいた者にも、犯行の機会はある」
レオンが答えた。
「私を疑っておられるのですね」
マレクの声は穏やかだった。
いつものように。
遺族へ制度を説明するときと、同じ声だった。
「あなたは、旧設備の記録へ触れることができた」
ミラベルが言う。
「無縁化された墓と、地下納骨環の記録を管理していた。シラスさんは、報告前夜にあなたとの最終面会を予定していた」
「それは、職務上の面会です」
「犯行の証明ではない」
レオンが遮った。
ミラベルが彼を見る。
「ですが」
「条件に当てはまることと、殺人を行ったことは違う」
レオンは、マレクへ向き直った。
「ここで消えたのは、あなたのアリバイだ」
マレクの表情が、初めてわずかに変わった。
笑みが消えたのではない。
もともと笑ってはいなかった。
ただ。
穏やかさを作っていたものが、一瞬だけ薄くなった。
「それだけですか」
「いまのところは」
レオンは答えた。
「棺へ死体を入れる方法は分かった。死亡時刻も、委員会以前まで遡った」
石棺の底へ視線を落とす。
「だが、方法と機会だけでは、犯人の証明にならない」
「では、何が必要なんです」
リディアが尋ねた。
弟の札を。
別人の胸へ置いた者。
弟の墓へ。
別人の骨を入れた者。
その名を、早く聞きたいと訴える声だった。
「シラスが殺された場所の痕跡」
レオンが言う。
「昇降機を動かした者と、埋葬札を用意した者を結ぶ痕跡。そして、墓苑の記録を操作した者を示す証拠だ」
グレアムが制帽を被り直した。
「地下昇降機室を検分し直す」
ゴルムが顔を上げる。
「まだ調べるのか」
「床。固定棒。巻上げ輪。洗われた形跡。見落としがないか、全部だ」
「古い設備だ。乱暴に外せば戻らんぞ」
「照合の必要な死者が、紙の上だけで二百人を超えとる」
グレアムの声が、霊廟の石壁へ響いた。
「機械一台に遠慮している場合か」
ゴルムは反論しなかった。
グレアムは巡査たちへ合図する。
「地下へ行くぞ」
レオンも、石棺から離れた。
ミラベルが記録帳を閉じる。
マレクは、その場を動かなかった。
「ドーン主任」
グレアムが呼ぶ。
「お前にも立ち会ってもらう」
「拒否する理由はございません」
マレクは、黒い礼服の袖を整えた。
いつもの丁寧な動作だった。
だが。
霊廟を出る前に。
一度だけ。
閉じられた石棺の底へ目を向けた。
上蓋が開かれていないという記録は、本物だった。
封印が破られていないという記録も。
霊廟の扉が施錠されていたという記録も。
すべて正しい。
犯人は。
その本物の記録を。
密室の証明へ置き換えた。




